タイトル:光彩
作家 :マスコマユ
画廊 :ギャラリーHANA
展示会 :マスコマユ 個展 「足元の硝子色」
購入日 :2024年3月9日
サイズ :24×33.5cm
技法画材:油絵
私はこの作品《光彩》を見る前からコケが描かれていることを知っている。作者がコケをモチーフに創作に取り組んでいるのを知っているからだ。では、前提を知らない人がこの作品を見たとき、何が描かれていると思うだろうか。意外という言葉が正しいのかはともかく、やはりコケを思い浮かべる人が多いような気がした。まず植物を想像するのは確実であろう。中心に描かれている図柄は葉そのものである。しかし、庭先で見かける樹木のように葉は枝から生えていない。葉は地面又は茎から直接に伸びているように見える。また、白菜やキャベツのような葉菜類ともどこか違う。手前にある葉は形が明確であるが、直ぐ奥にある葉はポートレート写真のようにぼんやりとしている。この部分のみでは植物と認識することは難しい。つまり小さい植物にかなり近接していると推測される。もう一つの特徴は瑞々しさである。瑞々しさとは比喩的な表現ではなく文字どおり水分である。私はこの植物が水滴、もしくはガラスや透明な樹脂に覆われているように感じた。水に封印されているイメージである。この作品に描かれている植物はとても小さく、水気に満たされている。おそらく「小ささ」と「水気」がコケを連想させるのであろう。作者に尋ねたところ、この作品は自身が屋久島でチョウチンゴケ科、おそらくはツルチョウチンゴケをルーペで観察したときの見え方を参考に描いたといことであった。
奥入瀬渓流とコケ植物①
コケは原始的な植物である。水中で暮らす藻類が陸上に進出し、コケ植物、シダ植物、裸子植物、そして被子植物と進化してきた。葉緑体を持ち光合成を行うことに加え、胞子により増えるという点でコケ植物とシダ植物は共通している。シダ植物は根・茎・葉の区別があるのに対し、コケ植物はそれらが区別されない。理科の授業では維管束の有無と習う。また、コケ植物の胞子体は光合成を行わず栄養分は配偶体から得る。これに対しシダ植物の胞子体は光合成を行うことができるので独立して伸びていく。視覚的にシダ植物はコケ植物に比べるとぴょんと高く伸び、特徴的な葉の形は見分けがつきやすい。コケ植物とシダ植物は理科の授業ではセットで学ぶが、美術という観点からは異なる次元で扱われるように思える。端的に述べるとシダ植物はその独特の形からデザイン性に優れている。例えば博物誌的なレトロ調の包装紙にデザインとして用いられる。一方、コケ植物は蘚類と苔類とで見た目がだいぶ違ううえ、ゼニゴケなどの葉状体は個体によって形が様々であることからデザインとして様式化し難い。コケ植物もシダ植物もファインアートとして絵画の主役になることは少ないが、シダ植物はデザインの分野で存在感を発揮している。ただし、コケ植物は種類の豊富さを活かして、幾つかのパターンに類型化してキャラクターのように仕立てることはできそうである。
しかし、苔は日本庭園にはなくてはならない存在であるし、苔テラリウムも珍しいものではない。裏返して考えると誰もがコケ植物に特有の魅力を感じていたが、描くのが難しいがために絵画の主役になることが少なかったとするのが正しそうである。それではコケ植物を絵画にする魅力又はその難しさはどこにあるのか。その前提として、コケ植物の生態を深掘りしておきたい。今回は作品を鑑賞するにあたって作者の博士論文を拝読させていただいた[1]。その中でコケ植物の生態的に特徴について触れられている。①コケ植物はクチクラというワックス層が発達しておらず水分を吸収しやすい。②周囲の湿度に合わせて細胞内の含水率を変化させる「変水性」という性質を持つ。乾燥状態に入ると光合成を停止するなど休眠状態になるが、降雨などで水分が満たされると再び生命活動を始める。これは死生観にも影響を与える。③細胞層が一層しかないため光を透過しやすい。絵画との関係において特筆すべきは「透明感」である。マスコマユさんの作品の本質は透明感にあると言っても過言ではないだろう。この透明感とは感性ではなく実際に透けてみるという透明感である。論文で興味深かったのは、一般的な維管束植物の葉も透過性を有するため葉に光を照射すると緑色の影が映るが、コケ植物の場合はより薄い緑色の影しか映らなかったという点である。作者は、コケ植物は細胞層が薄いことから葉緑体の数も比例して少なくなり、一方で水分量が多いことから影の透明感が強まると考察している。私はコケ植物の瑞々しさは表面に付着する水滴が要因と思い込んでいたので意外であった。さらに作者は、コケ植物はステンドグラスのように光を緑色に変えるほどの濃い影を生むことは期待できないものの、代わりに細やかな色彩差のある影を作り出すと述べている。この一文に作者が描くコケの美しさが凝縮されている。マスコマユさんが描くコケは淡い緑色と水色の中間をイメージさせる色彩が多い。これはコケの葉緑体と水分が融合した光の色のようにも考えられる。ステンドグラスの物質的な色彩とは異なる「いきものの色」「生命の色」を意図しているのかもしれない。見えるようで見えない不思議な色を私はとても美しく思う。
奥入瀬渓流とコケ植物②
奥入瀬渓流
コケ植物をモチーフにする場合、ミクロとマクロのどちらを主体にするのかという選択を避けることはできない。コケ植物は樹木や岩の割れ目などに生息することもあるが、専ら見かけるのは地面に生えているコケである。数株のコケが生えていても普通の人は見逃してしまうので、我々が目にするのは群生としてのコケ植物になる。ある程度近くから観察することで、種類を識別する程度には細かく描くことはできるものの胞子体を構成する帽、蒴、蒴柄、配偶体を構成する葉、茎、仮根を詳細に判別できるには至らない。反対にミクロ的視点に立つと群生としてのコケの魅力を表現するのは困難になる。《光彩》はミクロ的視点に立っているが、マクロ的視点からコケを描いた作品として今津奈鶴子さんの《蒼の邂逅》を以前に紹介したことがある。
今津奈鶴子《蒼の邂逅》
マスコマユさん《光彩》をミクロ的視点、今津奈鶴子さん《蒼の邂逅》をマクロ的視点の代表として両作品を見比べてみよう。今津奈鶴子さん《蒼の邂逅》は俯瞰の構図がポイントになる。コケは地面に這うように生息し、個体としては非常に低い植物であるから基本的には面として視覚的には認識される。そのうえで俯瞰した構図を採用すれば、より平面的に見えてしまうはずである。しかし、《蒼の邂逅》は装飾的な平面さはなく、むしろ立体的かつ奥行きのある空間に鑑賞者は飲み込まれるような感覚になる。その理由として、上から順にモミジの葉、ホソバオキナゴケ、ゼニゴケという三つの層が形成されていることがあげられる。しかもモミジの葉と右下のホソバオキナゴケは明るくなっているため階層構造がより強く意識されるのだ。もう一つの理由は、周囲は黒に覆われている点である。黒は壁のように空間を消してしまうこともあれば、宇宙のように無限の広がりを感じさせることもある。《蒼の邂逅》において黒は後者として機能している。漆黒の闇はモミジの葉とコケを浮かび上がらせると同時に終わりのない空間を演出している。もしコケの周囲を地面の茶系で塗りつぶせば、現実的な閉ざされた空間が出現したであろう。さらに緑の鮮やかさは減退してしまうように思われる。ただし、最近は木にコケを描いて、木目を余白とする作品も制作されている。コケが自然の美しさと調和するのはもちろんのこと、明るめの木材を用いていることから、黒とは反対に明るさによって空間を構成する意図があるのかもしれない。
マスコマユさん《光彩》はツルチョウチンゴケの一株、しかも葉の一部のみを拡大している。今津さんの作品とは違った意味で没入感がある。今津さんの作品では私は空間に放り込まれたような感覚がした。今津さんの作品では描かれている小さな青い蝶のようにひらひらと自らも舞い降りていく。一方、マスコマユさんの《光彩》ではこの葉をより精緻に見ようとまさに顕微鏡の焦点を合わせていくように鑑賞者は前のめりになる。特に鋸葉のようにギザギザした葉縁、葉の中心をなす中助に吸い寄せられてしまう。周囲は暗い緑色をしており、見え方によっては黒にも近い。これはルーペを覗いているという場面設定に由来すると考えられる。構図はキャンバスの長方形に対してルーペの円環を基本としている。補助線を引いてみるとシンプルながら幾何学的な美しさを感じさせる構図であることが理解しやすい。ツルチョウチンゴケの葉は左下から右上へと対角線にある。しかもルーペの上部は見切れているため、鑑賞者の視線は下から上に向き、描かれていない箇所は想像で補うこととなる。ミクロ的視点に立つとコケ全体を描くことは難しいため、トリミングの箇所がポイントになるが、ルーペの形を活かした構図と言えよう。また、右側は円環が二重になっているのが面白い。光の屈折による揺らぎなのか、視覚的なイメージなのかは分からないが、ミクロ的視点ながら複雑さが加味される。最も手前にあるコケの葉、その隣にあるぼやけた葉、さらにその奥にある光の環と三層構造になっている。今津さんはマクロ的視点、マスコマユさんはミクロ的視点ながら両者とも三層構造になっているのは興味深い。どちらも終わりのない空間が意識される。
今回の個展タイトルは「足元の硝子色」である。足元というのはコケ植物が生息する場所を示したものと思われるが、硝子色とはどのような意図であろうか。そもそもガラスに色はあるのだろうか。ガラスの起源を遡るのは難しいが古代エジプトにおいて既にガラスの器は作られていた。もっとも透明なガラスが作られるようになったのは17世紀以降とされる。では古代のガラスはどのような色をしていたのか。これも一概には言い難い。ガラスは宝石のような輝きを再現することを目指していたため、透明性だけでなく多様な着色が試みられていた。ただし、一般的なガラスであるソーダ石灰ガラスは緑色に見える傾向がある。ガラスの断面が緑色に見えるのはこのためである。もう一つガラスは水と同じく透過性を有するが、水が透明に見えるのは構成要素である酸素と水素が光を通しやすいためである。もっとも水は僅かではあるが赤い光を吸収する性質があるため海は青く見える。やや話が逸れたが、コケ植物の色彩を表現するに硝子色ほど相応しい言葉はない。一つは水と同じような透明性があり文字どおり瑞々しい。もう一つ純粋にあらゆるものを透過するわけではなく、若干の緑や青色を帯びる。先にコケ植物の特性として、クチクラというワックス層が発達しておらず、細胞層が一層であることを述べたが、結果としてそれは硝子色に近い感覚にある。《光彩》で描かれているコケの色は、一般にイメージされる苔よりも淡い緑色であるように思われる。遠目から見ると苔は深緑に感じられるが、ミクロ的視点ではコケ植物の本来の色である硝子色の美しさが引き立つのである。
絵画という点から色彩を考えると、「薄紫に近い赤」と「白のハイライト」にも注目したい。この作品のコケは薄紫に近い赤を帯びている箇所がいくつかある。実際に部分的に赤くなることがあるのかは分からないが、外側の円環も薄紫色をしていることから、絵画として意図的に用いられている可能性が高い。緑と赤は補色の関係にあることはよく知られているが、薄い赤が生命感を高めているように思う。これは感覚的なものなのかもしれない。印象派が描く肌の色が実際に見える肌の色とは違っていても、人間らしさを感じることに喩えられよう。僅かであっても赤みを帯びることで「いきものの色」を感じる。白のハイライトは水の輝きを示していると思われるが、実際には輝きは透明であって白ではない。白そのものはコケ植物の色ではないであろう。しかし、これも不思議なことではあるが、白を纏うことでより生命感が増すだけでなく、むしろリアルに感じられるのだ。白と透明は感覚的にはリンクしているのかもしれない。特にこの作品においては、ルーペの先にある光景が残像のように浮かび上がっている。映像を記憶として留める過程において、白は特殊な効果があるようにも思えてくる。
長い旅をしたような心地になった。時間という概念が消えてくという方が正確かもしれない。コケと言えばリラックス効果のイメージがあったが、この作品を眺めていると未知の領域に踏み込む冒険心が湧き上がって来る。しかもこの作品の世界は純粋な空想ではなく、観察と解剖学的観点による描写に裏打ちされている。自然は人間の感性を刺激してくれる感情の源泉なのだ(2025年2月9日)
個展風景①②
個展風景③④
[1]博士論文は機関リポジトリから閲覧可能ですが、創作活動はペンネームによるため詳細は控えておきます。