・父は藝大作曲科卒
・叔父はバークレー卒
・母と叔母は桐朋のピアノ科卒でピアノ教師
・兄はel-b奏者で、ハードロックからフュージョンへ
・妹はリスト音楽院留学、スクリャビンなどを一日8時間練習するようなちょっとイッてる奴。
・妹と従妹は絶対音感アリ
・ちなみに兄はDX7の音色開発にも関わった。
・自分は6才ころからピアノを習わせられたが、イヤだった。弾けないと悔しくてよく泣いていた。
・その頃、国立小児病院で、有名な小児精神科医にADHDと診断される。ADHDは覚せい剤を投与して治療するというので、母親が驚いて断った。
・追いかけっこしててガラスのドアにつっこんで手を切ったとか、階段を駆け下りててコケて足の骨にひびがはいった。学校の階段を一番上から踊り場まで飛び降りるチャレンジとかもしてた。最初は数段から始めて徐々に段数を増やして最終的に一番上から踊り場まで飛び降りられるようになった。
・変奇なものが大好きで、児童館で「割りばしとゴムと牛乳キャップでゴム動力自動車を作ろう」という企画のとき、ミゼットが好きだったので、工夫して前輪1輪の自動車を作ったら、「そんなものを作るのは君だけだ」と言われた。それから児童館での僕のアダ名は「3輪」になった笑
・自転車も改造しまくってた。最終的には解体屋で500円くらいでボロ自転車を何台か買ってきて、全バラして、塗装しなおして、色々な組み合わせで作った。前輪22インチ後輪14インチのチャリとか。あの時代にワイヤーの中に注油するワイヤーインジェクターを持ってた小学生なんて僕くらいだろうと思う。
・バイクに憧れて、フレーム中央にパイプを横に付けて、そこにギアレバーとリヤブレーキレバーを移設して、足で変速とブレーキをかけられるようにしたが、これは無理があった。チャリのギアは漕いでないと変速しない。すなわち足でギアチェンジするときは漕いでないので次に漕ぐまで変速しない笑
・もともと持ってたチャリはV字ハンドルとシーシーバーシートをつけていた。色々改造しすぎて、246の車道を走ってたときにハンドルポストが折れて、コケた。チャリでは色々なことをした、ほぼ垂直に見える30度くらいの崖をおりたり、歩道橋の上まで運んでいって、歩道橋の階段を駆け下りたり。
・小学生の頃、学年90人中知能テストで一番だったと学校から連絡があった。
・小学校の音楽部が放課後に展覧会の絵を練習してた。それがすごくよくて、体育館の排気口のところでずっと聴いていた。テーマを覚えて、ウチに帰って親に歌って聞かせたら展覧会の絵だと判明して、レコードを買ってもらった。
・音楽の時間に「ハーモニカでタンギングをやるとどうなりますか」と生徒が先生に問われて、みんなわからなかったけど、おれは沈思黙考して、まあ単純にまずリコーダーのタンギングの原理を考えた。それをハーモニカに応用したら正解だった。
・その頃は、親の関係のコンサートによく連れていかれたが、演奏が間違うと小声で「あ、間違った」とすぐに指摘してた。父は現代音楽や現代邦楽の作曲もしてたので、そういうコンサートにもよく連れていかれた。
・小中高生の頃は、邦楽はもちろん、演歌とかもダサいと思っていた。しかし今はそんなにアレルギーはない。武満のノベンバーステップスの影響が大きいと思う。我ながら単純だと思うけど。古くから存在する童謡などは小さい頃には歌っていたが、それは自分の無意識にかなり刷り込まれていると思う。
・小学校4年の時に、父親のレコード棚を漁っていて(といっても親父はあまり趣味で音楽を聴かない人で20~30枚しかなかった。仕事先からアレンジ用にもらったテープのほうが多かった)シェーンベルクの「5つの管弦楽曲」を聴いて衝撃を受けた。これが現代音楽を意識的に聴いた最初の体験。
・中学になるとエレキギターやエレキベースを始めた。それらは7才上の兄にちょくちょく教えてもらった。ビートルズやハードロックが大好きになった。そこからプログレやサイケやファンクやパンクやフュージョン、ジャズ、そして貸しレコード屋ができると、無造作に色々借りるようになった。
・その頃の僕は、自分が好きになった音楽は周囲に布教しまくっていたので、僕の周囲の友達は、ビートルズを中心にELPやキングクリムゾン、オジー・オズボーン、YMO、ブルーチアーなど聴いていた。
・ウチの親や兄貴は基本的に、なんか教えてくれると「あとは勝手にやってくれ。でもピアノの練習はちゃんとやれ」という感じだった。そして、音さえ出してれば勉強しなくても良かった。みんな音楽はそれぞれ好きだったと思うが、みんなアクが強く、仲良し家族コンサートなどやったことは一度もない。
・ただ、一時期チェロをやっていた時期があって、その時にチェロの先生に「なにか簡単な現代音楽はありませんか」と聞くとウェーベルンの「チェロとピアノのための3つの小品」を教えてくれて、家で母親にピアノ伴奏をしてもらって弾いたことはある。
・親父は1960年前後に毎日新聞音楽コンクールの現代音楽部門で度々入賞してたようだが、それで満足したらしく、それ以後は黎明期のヤマハエレクトーン界に身を投じ、それで一山当てていたようだ。1960年代の日本現代音楽の花盛りの時期には「疲れる」と言ってあまり乗り気ではなかったようだ。
・親父は主にピアノで作曲や編曲をしていたが、意外にもピアノには否定的な意見をよく言っていた。「ピアノは12個しか音がないからな」とか。そして僕が芸大作曲科を目指してるときに和声の勉強でわからないことがあると聞くのだが、昼間酒を飲んでいないシラフのときには、まあ教えてくれるんだけど、酒を飲み始めると、「和声なんてどうでもいいんだ。縛られるし。良ければいいんだ」と言って全く教えてくれなくなった。稚拙ながら作曲を始めたのもこの頃。とは言っても変拍子などを使って、妹に弾かせていた。
・話は前後するが、というわけで、1970年前後には、叔父がバークレーから持ち帰ってきたバークレーメソッドの勉強会が、実家で開かれていたそうだ。参加者は主に父親の知り合いの作曲家、平吉毅州さんなど、あとヒノテルさんも来ていたという話も聞いた気がするが、定かではない。
・ということで、親父は1970年前後に芸大和声とバークレーメソッドをモノにしていたわけで、あの時代にその両方を理解していた人は珍しいのではないかと、今さらにして思う。だからウチにはクラシック系理論とジャズ系・ポップス系理論が同居していた。
・高校生になるとぼくはクラブも初体験し、すごく面白く感じ、クラブ通いが始まり、和声とかピアノの練習はすっかりおろそかになってきた。ピアノにしてもレッスン課題曲がすごくつまらなくて、バルトークとかシェーンベルクをやらせくれと言って、先生(外部の人に習っていた)にイヤな顔をされた。
・ピアノのレッスン中に足でリズムを取ると、先生に「足でリズムを取ってはいけない」と言われて、ものすごく疑問に感じて「この先生はダメだ」と思ったこともある。クラブでモッシュをやっていたら前から人が飛んできて、頭が僕の口に直撃し、前歯が折れて翌日のピアノレッスンを休んだこともある。
・ちなみに高校生の頃には、オルガンとかアナログシンセはすっかり人気が落ちてて、ほとんど無視されていたが、ぼくは大好きで、コルグのCX-3をイシバシのバーゲンに徹夜で並び、確か6万くらいで買い、コルグのMS-20も新品特価を37500円で買った。
・人生で初めてライブを経験したのもこの頃だった。学校の文化祭、新宿JAM、宮地楽器などでライブでライブデビュー。グレコES335、ギブソンSG、グレコのグレッチコピーモデルにBossのSD-1とアナログディレイのみだった。ジミヘン、ジャム、ハノイロックス、ドアーズ、U2、BOØWY、T-Rex、ダムドなど。
・フュージョンも80年代後半には、「あんなの金満軽薄だ!!」と思って大キライになっていた。しかし90年代にフジテレビの夜中のTVフィラーでスティーリーダンのAjaを聴き「うおおなんだこのノスタルジックだけど複雑な音楽は!?」と思い、そこから80sAORやフュージョン漁りが始まり、スティーリーダンはもちろん、中学初期の頃に兄の影響で聴いていたカシオペアやチャック・マンジョーネやらもリバイバル聴きするようになったが、カシオペアのCDはのきなみ廃盤だった。
・少し時代は戻って、高校の頃バイクに乗り始め、川崎ふ頭でノーヘル2ケツで100㎞でコケ、頭蓋骨陥没で、いまだに頭蓋骨はワイヤーでつながっており、表面は27針縫った。事故直後は頭蓋骨が見えていたらしいので、周囲は大騒ぎになっていたが、なんとなく自分では大丈夫という確信があり、1週間で退院。
・この頃はバイトも始め、ラーメン屋、CDレンタルショップ、ヤマハの開発ルームでMIDIプレイヤー自動演奏ピアノのエディットの仕事もしており(ブーニンなどが弾いたデータのミスを販売できるくらいまでにエディットする。ミスを完全に直してしまうと個性がなくなるのでなかなか大変だった。
・高校に行くのがおろそかになって、落第した。その頃はすっかり色気づいていたので、朝5時に起きてフロに入って、その後1時間くらいかけて頭をセットする。そして疲れてまた寝てしまって、昼頃にバイクで学校に行く。中間・期末テストに行かないこともあった。なので落第した。生徒会にも入っていたが落第したので、先生に「生徒会に入ってて落第したのはお前が始めてだ」と言われた。定時制の高校に転向し、卒業したが、定時制は色々な人間がいて楽しかった。おばあさんもいたので、ヤンキー連中も騒ぐわけにいかず、なんか面白い雰囲気だった。ここに書けないことも数知れず。
・しかしマイペースは直らず、たびたびサボり、卒業が怪しくなった。そこで「現代音楽は健康にいいか悪いか」みたいなレポートを出して卒業した。ブーレーズ、シュトックハウゼン、ベリオ、ブソッティ、ケージ、ペンデレツキなどの譜例を貼りつけ、それらの個々の作曲家について適当に書いた。
・その頃は、先のバイク大事故で免許取り消しになっていたので移動はもっぱら電車だった。友達と遊んでいると、すぐに終電は逃す。なので家に帰らない。とにかくその頃は、家に帰らないので、母親に「あんたは鉄砲玉だ。一回出ていくといつ帰ってくるかわからない」
・その頃にはもう芸大進学は全く頭になく、クラブに行きまくっていた。そしてギターでメーザーボーカルハウスという音楽専門学校に行ったが、そこでウッドベースを触り、わりと弾けてしまい、ウッドベースは昔から好きだったし「全ての音楽ジャンルを横断してできそうな楽器はウッドベースかも」と思い、ウッドベースに転向。井野信義さんに習うことになる。ウッドベースの代表的なメソッド「シマンドル」はサクサク弾けてどんどん進んで、他にジャズ系4ビートも少し習ったが、これまたわりとサクサク弾けてしまって、この頃は頭の中でいつも、様々なジャズスタンダードの4ビートラインを構築していた。
・そしてあるとき、友人の家でその親父さんのオーディオルームで様々な音楽を聴かされる機会があり、ゲイリー・ピーコックのソロアルバム「December Poems」に感動した。ゲイリー・ピーコックってなんか聞いたことあるぞ、と思ったら、叔父とよくやっているベーシストだった。そこからゲイリー・ピーコックのアルバムを聴き漁り、「これはゲイリーに師事したい!!」と思って、いくつかそのラインを譜面にしたものを叔父を通してゲイリーに送って、師事してもらうことになった。そして早速NYに行き、叔父はNY在住だったので、叔父のところに居候した。
・ゲイリーは京都に2年ほど住んでいたことがあり、わりと日本語が喋れたので、言葉の苦労もあまりせずに済んだ。今にして思うと、「ゲイリーならでは」というレッスンはあまり受けた記憶がないが、しかしそこに叔父も加わり、何やら難しい音楽論議をしたのは楽しかった記憶。それよりもNYで様々なミュージシャンのライブを見まくった。かなりたくさん見たはずだが、意外にもそんなに印象に残ってるものは少なく、でもセシル・テイラーのトリオをヴィレッジ・ヴァンガードで観たインパクトは印象深い。セシルのトリオはまあ、うん、こうだよな、と思ったが、それよりもフリージャズ爆発、観客トランス状態の店内で、ふと後ろのテーブル席を見てみると、トミー・フラナガンが、高そうなスーツに身を包み、きちんとナプキンをして、轟音フリージャズの中で、我関せずといったオモムキでフレンチだかのコース料理を上品に食べていて、その対比のインパクトがすごく、うおお…これがジャズの本場NYのバランス感覚…すげえ…と思った笑
・NYでは吉田達也さんのルインズもニッティングファクトリーで観た。叔父にそのことを告げ、持って行ったルインズのカセットを聴かせると、インパクトを受けたらしく「この人すごいな、お前吉田くんにコンタクトを取ってこいよ」ということになり、日本に帰ったときに叔父が吉田さんとやりたがっています、と告げ、吉田さんにOKをもらい、ベースは誰にするんだろう、と思っていたら、叔父に、「お前がやるんだよ」と言われ驚いた。
・ところで、叔父の部屋にはその頃はシンセサイザーが所狭しとおいてあり、その中のモジュラーシンセサイザーを何台か引っ張り出して、ランダムなノイズが自動生成されるパッチをして遊んでいたら、叔父がそれを見て「それ、お前にやるよ」と言われ、狂喜して、日本に持ち帰ったときには暫くそれらを繋げて遊んでいた。MS-20はもともと一台持っていたので、「MS-20×2」+「MS-50」という布陣で迷宮現代音楽っぽいランダム音楽を作って遊んでいた。これが多分22~3才。後にMS-50はウッドベースに繋ぎ、「変調コントラバスソロ」と銘打って自分の演奏スタイルの一つのトレードマークになる。
・迷宮現代音楽(セリエリズム様式現代音楽)に関しては、10代後半の頃に、パレナン弦楽四重奏団の演奏するブーレーズの「弦楽四重奏のための書」で、すっかり好きになっていた。これはA面がブーレーズの件の曲、B面は偶然性も取り入れたブクリュシュリエフの弦楽四重奏曲(以下SQ)という構成のLPで、最初はブクリュシュリエフの前衛的な響きにヤラれていたが、LP落としのカセットをウォークマンで延々聴いていたので、カセットだとオートリバースでA面のブーレーズの曲も聴くことになる。そのうちブクリュシュリエフよりも、ブーレーズの、終わりも始まり定かではなく、ほぼどこにも「表面的パターンを偲ばせるものが何もないランダムな音響世界」が延々と続く世界がだんだん身体に沁みこんできて中毒してきた。そこから僕の「迷宮現代音楽=トータルセリエリズム様式」(あくまで様式!!ガチのトータルセリエリズム曲には面白く感じる曲がほとんどない)音楽への偏愛が始まった。
・その頃は、先輩のピアノ・Keyの人から、DTMを教えられ、ヤマハQY20という小さな打ち込み機から始まり、マッキントッシュクラシックⅡ、シーケンサーはパフォーマー、音源はローランドSC88、サンプラーはアカイS1100というその頃の黄金布陣機材で、DTMも始めた。カラオケ制作のバイトも始めた。
・しかし自分で作るものは、ほとんどが現代音楽っぽいものばかりで、シーケンサーについていた「ヒューマナイズ」という機能を逆手に利用し、様々なパラメーターをバラバラにして、ランダムな、トータルセリエリズム《様式》の音楽を作っていた。サンプラーにウッドベース(以下wb)の一番下から一番上の音、それぞれ、「指弾き・弓弾き・弓弾きのスルポンティチェロやトレモロ」を入れて、そのヒューマナイズの機能と合わせて、それらの音が最大2音ランダムに鳴る、wb現代音楽ソロ音源なども作ったが、その音源は録音しておらず悔やまれる。そのwbの各音色サンプルが入ったフロッピーディスクはどこかにあると思うが、もうS1100など持っていない。
・その頃から、その先輩の紹介で(某大物歌手のメインディレクターをしていた)、歌番組にも出るようになって、wbやel-bを弾いたりしていた。何しろ一回出るだけで数万~数十万入るので、かなり稼いだ。アテブリ仕事なんかはリハもいらないので物凄くタイパが良かった。J-popバブルの時代で、紅白に出たこともある。ちなみにそういうときの楽屋のお決まりの食事は叙々苑の焼肉弁当だった笑
・その2~3年前からはジャズのwb奏者として、ライブもやるようになっていた。普通の4ビートジャズの仕事やライブも多かったが、クラブでDJとコラボとか、文壇パーティーで即興演奏なども多かった。そしてついに、wbに叔父にもらったアナログモジュラーシンセをつないで即興演奏をするように。