令和6年10月28日
水野谷区長 江尻 一夫
水野谷八景
(資料提供 永山忠雄)
千代鶴横穴群
a:常磐水野谷町千代鶴
b:宅地
c:南に延びる丘陵の東側斜面
d:50m×200m
f:横穴
g:古墳時代
h:コンクリートで覆われている
亀ノ尾遺跡
b:畑地
c:南東に延びる丘陵の南斜面の中腹
d:80m×50m
e:散布地
f:古墳~平安時代
g:土師器片
h:地盤のシルト岩が地表に露出
千代鶴遺跡
b:宅地
c:南の延びる丘陵の東側斜面
d:50m×200m
e:横穴
f:古墳時代
g:直刀、土師器、須恵器
h:コンクリートで覆われている。
水野谷舘遺跡
b:山林
c:南北に延びる丘陵
d:広範
e:城郭
f:中世
g:出土品なし
h:
千代鶴横穴群出土遺物
支那事変
薬師如来堂境内から
念仏講
資料提供 梅林寺
古文書
磐城氏系円とその文脈1
磐城氏系円とその文脈2
鹿島抗
鹿島抗地図2
水野谷の位置
平地は、古来耕地として利用されてきたのであるが、耕地はわずかで全体の5%
にも満たず、そのほとんどは山地であって、山の間に田畑が蛇行している。
山地は、雑木に被われて、春の新緑の頃や秋の紅葉の頃は、他に類を見ない美しさ見せてくれる。
この地域は、北緯37度〇〇3秒、東西140度51分43秒に位置し、いわき市合併当時の母体となった旧五市の中央になっているので、人間に例えて「いわき市のへそ」とも言われている。
域内を通っている常磐江名港線は、東に1.5キロメートル行くと常磐バイパスと交差し、また、町内のほぼ中央に当たる千代鶴橋から北に向かい、竜ヶ経て平荒川に抜ける市道は、国立福島高等専門学校のところで県道平・小名浜線へ合流している。
このように、交通の要所でもある水野谷は、いわき市の発展と共に、最も重要な
地域として、今後ますます注目されるところとなった。
水野谷の西、湯本の上浅貝、関船ほうの木作、杭田、塚ノ越と。南は下船尾の大平、宮下、杭出作と。東は三沢の傾城作、松久須根の金堀、乳母懐と。北は平上荒川の弁財天、大沢と接しており、他地区との交流や土地の共同開発も進んでいる。
現に、昭和47年には、地区の南側・常磐炭鉱鹿島抗跡地に、三沢と下船尾にまたがる内陸型の工業団地が完成し、地域の発展に寄与している。
また、昭和63年12月、平荒川と隣接している竜ヶ沢に、草木台団地が造成され、温泉付きのリゾート型の団地というキャッフレーズで工事が進められている。
そしてまた、竜ヶ沢と上浅貝にまたがる地域に、野球とラグビーを中心としたスポーツ施設が完成した。
このように市の中央に残された、平・小名浜・常磐にまたがる広大な未開発緑地
の開発は、いわき市にとって今後の発展の鍵になると言われている。
以上のことから水野谷の位置を考えると、以前は耕地の少ない山合の村であり、周囲から余り注目されない土地柄であったが、近年になって「いわき市の中央」という、その置かれた位置なるが故に、開発の拠点として注目を集めている。
水野谷の字名称
地名の命名については、確かな文献もなくその古事由来については、詳しく知ることができない面が多い
例えば、その呼び方書き方にしても、人それぞれであり、正確さを期するには、後世の研究にゆだねるとして現在考えられる昭和の時代の人々に親しまれ、呼ばれていた小字・孫字・作などについて述べてみる。
水野谷町には、七つの小字(子字)があり、その中にいろいろな地名(孫字・作)ある。
「現在の水野谷の小字」
諏訪ヶ崎
昔、海があったころの岬のなごりからきた語源であろう。別名「あが」と呼ばれている。仏壇の閼伽棚からきたものか。薬師如来堂があるところが、赤井ヶ森と呼ばれていたからか。
千代鶴
千代鶴の中央部の一部分を別名「日向」という。朝日が他の地区より早くからあたるからか、一日中太陽に向かっているからか。
錦沢
「龍ん作」(たずんさく)、龍見作とも呼ばれている。龍を見たからとか、龍が住んでいたからとか。
亀ノ尾
昔は、「入り坪」とか「東之坪」と言われ観音様の寄付名簿にもそのように記載されている。水野谷は西側に開けていて亀ノ尾は山合いの奥まったところにあったし、東の方に位置していたからか
黄金沢
別名「猿田(さんだ)」むしろ通称と言ってよい。
竜ヶ沢
昔は多くのの人家があったと言われている。近年は家のあったと言われている。近年は家のあったところを中心に(のでさく)と言われていた時期もあった。
東
旧常磐炭鉱鹿島抗の住宅跡地を、1983年(昭和58年)に住宅団地として造成したときに命名
「水野谷の孫字、作」
館
昔、水野谷館があったことから地名に残っていたと考えらる。
じゅうろう前
(洞前)子供たちは「じゅうろうめい」と呼んでいた。灌漑用水のための堰があり、子供たちの夏の水遊びには良いところであった。洞窟の前であったことから、
洞の前と呼ばれたこともある。
ぐみの木下
大きなぐみの木あったことからか。
しょうばさ
「菖蒲作」菖蒲が沢山群生していたことからこのように呼ばれている。
こばっさく
「小橋作」丸太を2~3本渡した程度の橋がかかっていたところの近くにあった作なので、このように呼ばれたのであろう。
ぼっくだ
「仏供田」(仏共田)のなまったもので、寺の持ち地だったのか。
さんずだ
「三寸田」とても小さな田が数枚あったことから呼ばれた。
うるしだいら
「漆平」うるしの木が多く生えていたことからそのように呼ばれた。
くぬぎだいら
「櫟平」 くぬぎの木が多かったから、また、炭焼きが盛んに行われた場所である。
ひがしっぱな
「東鼻」東に面した人の鼻のように突き出ていることから「竹の鼻」、「おいの鼻」も同じか。「東鼻」とも書く。
ながさく
「長作」または「永作」とも、距離の長い作であったことから、そのように呼ばれていた。
宮田作
神社の田や畑があったのであろうか。
いなほしだいら
「稲干平」日当たりがよく東南に面した稲穂の乾燥に適したところから名付けられたものと思われる。別名「いなほしだいら」とも言われた。
とのじ
(とうのうち)「十の家」十軒の屋敷があったとか。「戸の内」と言って地形的に内側に入っているところからとも言われている。
へいぞうさく
「平蔵作」 平蔵という人の住居があった。
ごんじろうさく
「権次郎作」 権次郎という人の住居があったとも。
でど
「出土」土地の突きでているところ。
等々、多くの地名があり、生活と直接結び付いたこれらの耕地や山地の地名は、当時の人々に親しまれた。
水野谷町年表