北平道敏の創作エッセイ

  鷹柱

眠りからさめて息を吐きだした山のどこからか、まるで一本の蜘蛛の糸に引っ張りあげられるようにして、小さな黒い影がゆっくりと空をのぼってゆく。山から湧き出したその黒い影は一つ、二つ、三つと数を増してゆき空中で互いに手をつなぎながら、やがて数十数百の影の群れとなっていった。まさに一本の黒い柱が天空に立ちのぼる。「これが鷹柱か。」

鹿屋市にある先祖のお墓参りにお盆の間に行けなかったという母を誘って、妻とも三人で、墓参をかねてサシバの渡りを観察するために鹿屋市に向かったのは、高い空に巻雲が広がるようになった十月の上旬だった。

サシバはカラスくらいの大きさの鷹の一種で、渡りをすることで有名だ。春になると南の国から渡ってきて、日本の山間の田んぼ周辺で子育てをする。秋になると本州を少しずつ南下していき、九州から越冬地の奄美大島や沖縄を経て、フィリピンやインドネシアの島々に渡っていくという。大隅半島の山々はその渡りのちょうどいい中継基地になるようだ。

 朝早く自宅を出発して、いつものように桜島フェリーに乗り込んだ。桜島の山頂は大きな白い雲で静かに覆われている。今日はまだ噴火していないようだ。桜島を浮かべる錦江湾が太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃の恰好の練習場となっていたことを、最近知った。

二十分ほどの船旅を過ごしてから、袴腰で降船し、垂水市を通り過ぎて鹿屋市街地に入る。右手に鹿屋航空基地史料館という案内表示が目に飛び込んできた。さらに先を進み、鹿屋市の郊外にある広い公園に着いて、みごとな鷹柱を観察することができたのだった。

観察会が終わり、私たちは母の目的でもあった先祖の墓参に向かった。墓地の近くに車を停め、狭い通路を歩きながら墓碑にたどり着いた。

黒い角石に「戦死セリ」という白い文字が彫り深く刻まれている。私の伯父のことである。伯父は一九四三年に太平洋のタラワ環礁(現キリバス)で米軍との戦闘で命を落とした。

これまであまり意識することはなかったのだが、最近になって、私が生まれる前に戦死した伯父のことを知りたいと思うようになった。なぜ伯父は見も知らぬ太平洋の南の島で命を失わなければならなかったのだろうか。怒りと悲しみがないまぜになったような不思議な感情が沸いてきた。

一方で、戦後と呼ばれてすでに七十年余が過ぎたのに、いつまでも戦争のことを考える必要があるのだろうか。そんなことを思いながら、墓参を終えて鹿児島への帰路につこうとしたときに、往路で見かけた鹿屋航空基地史料館のことを思い出した。母と妻に声をかけて寄ってみることにした。

受付を済ませて二階の史料展示室に上ると、「大東亜戦争」という文字がそこら中に踊っている。まるで戦時中の日本にタイムスリップしたかのようだ。特攻兵として戦死した若者たちの顔が壁いっぱいに並んでいる。

順路の最後で一階に降りると、小学六年生たちの感想文が透明のケースに展示してあった。二00四年十二月と記録されている。

「なぜ昔の人はみんな戦争をしたのだろう。戦争なんてころしあいだし。つみのない人をなぜころさないといけなかったのか。日本も海外の人々にとても悪いことをしたし、されたし。だからもう戦争はあってはならない。もうころしあいはダメです。戦争は二度としてほしくはありません。ずっと平和の国になってほしいです。」

この感想文を書いた子どもたちはすでに二十代半ばの若者となっているはずだ。そうか。彼らは平成になってから生まれた世代なのか。自分は、終戦を迎えた昭和二十年から十一年後に生まれた戦争を知らない世代だ。しかし、六十年以上を生きてきて、戦争はあってはならないという気持ちだけは持ち続けてきたつもりだ。

平成世代と昭和世代の私の気持ちが一致するということに軽い驚きを覚えた。そうであるなら、平成の次の世代とも同じ気持ちを分かち合うことができるかもしれない。

帰りの桜島フェリーに乗り込んで、船内の階段をのぼった。四階の甲板で白い手すりに腕をのせると、錦江湾が穏やかな海原をたたえている。そういえば、サシバの渡りでは力尽きて海に落ちてしまうものも少なからずいると観察会で聞いた。でも、あんなに軽やかに空に飛びあがることができたらどんなに気持ちいいだろう。やがてフェリーは鹿児島港の桟橋に静かに着船し、私はあわてて車に戻った。