#373 「いらっしゃいませ」という音
溜まっていた記事を一気に読んでいたところ、8月14日付の朝日新聞でとても面白い記事を見つけました。
日本に20年以上住まれているイギリス出身の翻訳家、竹森ジニーさんについての記事です。村田沙耶香さんの芥川賞受賞作『コンビニ人間』が世界的ベストセラーになった背景にある、日本独特の空間やニュアンスを海外へ伝えるための翻訳の工夫が紹介されていました。
私は恥ずかしながら原作をまだ読んだことがないのですが、記事では「コンビニエンスストアは、音で満ちている」という冒頭の一節が取り上げられていました。ここに出てくる音とは、来客を知らせるチャイムの音、バーコードをスキャンする音、パンの袋が握られる音などです。
これらを単に「sound」と訳すのではなく、「音で満ちている」を「world of sound」、チャイムの音を「tinkle」、バーコード音を「beeps」、パンの袋の音を「rustle」といったように細かく訳し分けたそうです。
そして、この記事のタイトルにもなっていて竹森さんが一番悩んだというのが、「いらっしゃいませ」の翻訳でした。英語にはこうしたマニュアル的な決まり文句がなく、「welcome」と直訳してしまうと不自然になってしまいます。さらに興味深かったのは、一度きりなら文脈に合わせて訳せても、作中で何度も繰り返し登場するため、最終的にそのまま「irasshaimase」とローマ字表記にしたというエピソードです。
この「いらっしゃいませ」という言葉は、返答の決まっていない日本語の慣用句の一例として、井上(2021)の文献にも挙げられています。
あえてそのまま翻訳された点に日本らしさの象徴を感じると同時に、明日コンビニでこの言葉や音を実際に耳にするのが少し楽しみになりました。
参考
https://www.asahi.com/articles/DA3S16525955.html
井上逸兵 (2021) 『英語の思考法―話すための文法・文化レッスン』ちくま新書