#366 日本のPR史
猪狩(2007)によれば、日本におけるパブリックリレーションズの歴史は1947年にさかのぼります。GHQから日本政府や地方行政機関に対して、国民統治の方法のひとつとして導入を示唆されたのが始まりで、「広報」という言葉も行政が考案した訳語なのだそうです。
民間企業への普及には、大きく分けて電通(当時は電報通信社)、証券業界、そして日本経営者団体連盟(日経連、現在の日本経団連)という3つのルートがありました。
電通が開催した講習会において、1949年に外国部長であった田中寛次郎氏が語った言葉は、今なおPRの本質的な理念を表しています。田中氏は、「すべての企業は一般社会の認容がなければ存立し得ず、社会の利益や福祉に沿って経営されることが根本である」と述べました。そのうえで、正しく経営されていることを社会一般に知らせる必要があり、この「適切な経営」と「社会へ知らせる仕事」の全過程こそがPRであると語っています。
一方、証券業界ではPRを通じた「証券民主化・大衆化」がスローガンとして掲げられました。また、1949年に労働組合運動への対抗として設立された日経連は、1951年にアメリカへ経営視察団を派遣しました。その際に日本へ持ち帰られたのがパブリックリレーションズとヒューマンリレーションズであり、これをきっかけに社内報や提案制度、意識調査といった諸制度が提案されるようになりました。
日本でパブリシティ活動が本格化するのは、1950年代後半に高度経済成長が始まり、テレビ放送の開始や週刊誌ブームが到来してからです。50年代から60年代にかけては、アメリカで確立されたマーケティング手法が、経済成長への活力に満ちた日本へと流れ込んできた時期でもありました。
1956年頃からは電気冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビといった「三種の神器」が一般家庭に浸透し、1959年には「マイカー元年」として自動車も普及、本格的な大衆消費社会へ突入します。同時にマスメディアの黄金期も訪れました。1953年のNHKや日本テレビの開局を皮切りに、テレビの契約者数は1959年に100万、翌年には200万と倍増し、10年後には普及率90%に達しました。週刊誌の発行部数も増大し、それに伴い広報部門を設置する大企業も徐々に増えていきました。
しかし、1950年代後半の公害問題から1973年のオイルショックに至る企業批判の時代は、企業に大きな変化をもたらします。それまで社会を「市場」、人々を「消費者」としてしか捉えていなかった企業が、社会との信頼関係を築く必要性や、真の意味での広報活動の重要性を強く意識するようになりました。
なお、書籍にはこの後の好況やバブル崩壊についても触れられていましたが、今回のまとめはここまでにしたいと思います。
追伸:
このブログを始めてから、早くも1年が経ちました。スタートした日のことは今でも鮮明に覚えています。「あれからもう1年か」と感慨深い気持ちになると同時に、当時の自分とは少し違う成長も感じています。文章を書く訓練としても、備忘録としても、まずまず機能してくれているようです。これからも楽しみながらコツコツ続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
参考
猪狩誠也(編). (2007). 『広報・パブリックリレーションズ入門』宣伝会議
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