#336 日本語の二人称について
朝日新聞の「その呼ばれ方、不快?」(7月8日)という記事では、日常の多様な呼びかけに対する一般の方々の声が紹介されていました。
たとえば、お店で「お姉さん」と呼びかけられたノンバイナリーの方が違和感を覚えたという声や、かつて結婚して子どもがいることが一般的とされた時代に、知らない大人から「お父さん・お母さん」と呼ばれることに「無理やり他人の空間に入れられるような感覚」を抱いたという意見です。その一方で、見ず知らずの人への呼びかけが「あの」や「すいません」くらいしか思い浮かばない現状を踏まえると、そうした従来の呼び方も、かつては他人を思いやる一つの形だったのかもしれないという指摘もありました。また、上司から「キミ」と呼ばれた際、「名前で呼んでほしい」という意思表示としてあえて返事をせず無視した、という女性のエピソードも綴られていました。
石黒(2013)の「二人称表現は失礼か」というセクションでは、日本語において「きみ」「おまえ」だけでなく、「あなた」さえも時として失礼になり得ることが論じられています。広告などでは「あなた」が普通に使われるため、本来は失礼な言葉ではないはずですが、なぜ日常ではそのように受け取られてしまうのでしょうか。
同書では、日本語も英語の「I」や「you」のように決まった人称表現を持っており、それこそが「省略」であると説明されています。たとえば、「ペン持ってる?持ってたら貸して?」「いいよ、貸してあげる」という会話の中で、「あなたはペン持ってる?あなたが持ってたらあなたはわたしに貸して?」「いいよ、わたしはあなたに貸してあげる」とは言いません。このように、日本語は文脈から判断できる場合に代名詞を省く「ゼロ代名詞言語(pro-drop language/pronoun-dropping language)」と呼ばれており、代名詞を使わないのが自然な状態です。そのため、あえて人称表現を口にするのは、特別なニュアンスを込めたいときに限られます。
「あなた」「きみ」「おまえ」といった言葉は、身近な人や目下の人とのコミュニケーションであればそれほど失礼にはなりませんし、「おれ」「おまえ」と呼び合えることはむしろ親しい関係性の証拠にもなります。また、広告のように不特定多数へ呼びかける場合は、一対一で対峙する具体的な関係性が想定しにくいため、例外的に「あなた」と言われても失礼に感じにくいのだと説明されています。
参考
石黒圭(2013)『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』光文社新書
https://www.asahi.com/articles/DA3S16498712.html