#267 ユーモアの目的もいろいろ
ブックログで紹介した『笑いの力』の中に、興味深い記述がありました。
「(河合) ぼくの解釈は、アメリカ人というのはみんな個人、バラバラでしょう。パーティーの席でも、みんなバラバラなんですよ。一緒に話を聞いてもらおうと思ったら、笑うってのが一番いいんです。みんなでわあっと笑うと、一体感ができるでしょう。一体感をつくっといて、しゃべる。 日本人は、来てすぐみんな一体になってしまう。そうすると、ぼくも本来ならば聴衆の側にいるべきなのに、演壇に立たされるわけでしょう。これは絶対に弁解せにゃいかんわけですよ(笑)。「私は、本来ならばみんなのところにいるべき人間だけど、演壇にいます」ということを言わねばならない。アメリカ人には、ジョークの本がいっぱいあるんですよ。明日スピーチをするといったら『ジョーク集』で勉強して、これを言おうと思ってくるんですよ。前の晩考えたジョークを朝言うって一番あほやとぼくは思うんですが、それでも、みんなわあっと笑うんでしょう、これもやっぱり儀式なんです。日本人も弁解が儀式になっているのと同じように」
大島(2005)はまさにこの点を、高コンテキスト社会と低コンテキスト社会におけるユーモアの違いとして指摘しています。
大島は、そもそもユーモアとは、通常ではない「不調和なもの」から発生するという「ユーモアの不調和理論(Beattie, 1776)」の立場をとり、何をもって不調和と感じるかは、その社会の常識や通常の状態に左右されると説明しています。
低コンテキスト社会では、メンバー間で共有される前提が限定的であるため、ユーモアの内容は性的なものや愚かさ、ずるさ、ケチに関する知識など、より普遍的なものになりがちです。また、お互いの共有知識が少ないことから、ユーモアは「アイスブレーカー」として使われることが多く、ジョークの内容そのものよりも「ジョークを言った」という行為が重要な社会的役割を果たす場合があります。そのため、誰にでも分かりやすい「出来合い」のジョークが数多く存在しています。
一方で、日本のような高コンテキスト社会では、初対面の相手であっても文化背景が大きく異なる可能性が低いため、あえて「自分は敵ではない」と意思表示したり、緊張を過度に緩和したりする必要があまりありません。ここでのユーモアの目的は、より親密な人間関係を築くために連帯感や共感を高めることにあり、「共話形式」や「個人の体験談」という二つのパターンが主となります。
こうしたユーモアは、いわば「ウチ」の関係だからこそ面白いものです。「冗談を言い交せるほど親しくなる」という言葉通り、そこには一定の時間が必要であり、冗談を理解し合える仲であることが前提となっているのです。
参考
(おそらく)Beattie, J. (1776). Essay on laughter and ludicrous composition: Written in the year 1764. William Creech; E. & C. Dilly.
河合隼雄・養老孟司・筒井康隆 (2026). 『笑いの力』岩波書店.
大島希巳江 (2005). 高コンテキスト社会と低コンテキスト社会のコミュニケーションにおけるユーモア. 『笑い学研究』, 12, 29-39.
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[ユーモア][高コンテキスト社会][低コンテキスト社会]