#194 学問という心の支え
日々の学生とのやりとりは、本当に面白く、楽しく、そして自分とはどういう人間なのかを考えるうえでも、とても大切な時間になっています。
今年度最後の授業が終わったあと、英語も堪能で海外での修学経験もある中国人の学生が、真面目な顔で「質問がしたいのですが、よろしいでしょうか」と近づいてきました。授業にもいつも真剣に取り組んでいる学生です。もしかして授業内容が物足りなかったのだろうか、あるいは私の英語がひどかったのだろうか……そう思われても仕方がない、とこちらも少し緊張しながら「どうぞ」と答えました。
すると彼は、「先生はどうしてそんなにテンションを一定に保っていられるのですか」と、素朴な問いを投げかけてきました。そんな質問を受けたのは初めてで一瞬拍子抜けしつつも、同時に私自身もこれまで他の人に対して同じようなことを間違いなく思ってきたし今も思うことがあると気づき、皆それぞれに似たようなことで悩んでいるのだろうと感じました。彼にとっては、授業中も、廊下ですれ違うときも、私がいつも一定に明るく見えることが不思議だったそうです。自分は落ち込むことも多く、気持ちの浮き沈みが激しい。どうしたらそうなれるのか、とずっと思っていたのだと話してくれました。
授業とは直接関係のない問いでしたが、授業という場は、知識の伝達を超えて、こうした感覚まで相手に与えているのだと改めて考えさせられました。やはりコミュニケーションは、内容だけでは測れない多層的な営みなのだと実感します。
その場で私が伝えたのは、私自身もかなりの不安症であるということ、そして「その場に気持ちを100%にしないこと」を自分なりの回避法としていることです。授業をしている自分は、私の一部にすぎない。研究をしている自分もいれば、趣味に没頭している自分もいる。それらすべてを含めて100%の自分であり、今ここにいる私はその一部分なのだと考えるようにしています。授業で大失敗をしたときも、「これでだめでも、別の自分がいる」と思えることで、気持ちに余白が生まれます。決して適当にこなすという意味ではなく、その場で最大限を発揮するための余裕をつくる、という感覚に近いかもしれません。
さらに彼から、「どうやって人とコミュニケーションをとっていますか」とも聞かれました。こちらもあまりに大きなテーマで、しばらく考え込んでしまいましたが、社会言語学を学んだことで自分が大きく変わった点を伝えました。
それは、異なる言語や、同じ言語の中のさまざまな変種が存在し、それぞれが固有の体系をもっているという事実への気づきです。その共通性や違いを知ることで、自分の使っているコミュニケーションの方法もまた、数ある選択肢の一つにすぎないと捉えられるようになりました。それが、私の心をずいぶん軽くしてくれたように思います。
特に英語的なコミュニケーションは、それを知る前の私にはほとんどなかった発想でした。その場限りでもよい雰囲気をつくろうとするスモールトークや、相手を積極的に褒めるという言語行為、さらには配慮としてあえて踏み込まないネガティブ・ポライトネスといった選択肢は、私の中の引き出しを確実に増やしてくれました。自分のやり方だけが唯一の正解ではないと知ることは、思っている以上に大きな支えになります。
学生との対話のなかで、自分自身もまた研ぎ澄まされていく感覚があります。あの日、互いに真剣に、そして前向きに考え合えた時間は、とても幸せなひとときでした。
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