#190 意味の公共性
三木(2019)を読みながら、「話し手の意味の公共性」という概念について考えています。
これは、私自身、日ごろからかなり意識している問題でもあります。言語学の理論としてというよりも、日常のさまざまなコミュニケーションにおいて、いちばん重要なことの一つではないかと思っているテーマです。簡単に言えば、誰かが何かを発言し、それを誰かが聞いているとき、話し手はその意味に対して責任を持たなければならない、ということです。言わないという選択をするのか、それとも言って、その結果を引き受けるのか。私はいつも、その二択だと思っています。
三木は「話し手の意味の公共性」について、「話し手が何かを意味するとき、いわば話し手は聞き手の前に姿を現し、自らの意味したことをおおやけに引き受けなければならない」と述べています。そして、これこそが、話し手と聞き手が文脈を共有しながら会話を続けるための基礎になるのだと説明されています。
例として挙げられているのは、二つの場面です。
一つは、雑誌で見つけた映画について、「いまから見に行きたい」と恋人に直接伝える場面。もう一つは、「見たい」とは言わず、雑誌にマーカーを引いておき、相手に気づいてもらおうとする場面です。
前者の場合、恋人は「この映画、まだ公開されていないよ」と返すことができます。しかし後者では、「しるしをつけただけで、いますぐ行きたいなんてひとことも言っていないでしょう。決めつけないでよ」と言い返される可能性があります(前者にはそういった反応をする権利はない)。後者は、いわば「言い抜け可能」な状態にあるのです。
私たちは会話をするとき、話し手は自分の意味したことを引き受けるはずだ、という前提のもとでやり取りを続けています。もし、話し手が自由に自分の意味への責任を回避できるとしたら、その後の会話を積み重ねていくことは難しくなるでしょう。
三木はさらに、「話し手が何かを意味し、聞き手がそれを理解するたびに、共有される文脈が蓄積されていく」と述べます。そしてその実践の基礎には、「話し手が意味し、聞き手が理解したならば、話し手は自分が意味したことを引き受けなければならない」という公共性があるのだといいます。この現象を、テイラー(1980)は「我らのこと(entre nous)」と呼んでいます。
参考
三木那由他(2019)『話し手の意味の心理性と公共性――コミュニケーションの哲学へ』勁草書房.
Taylor, C. (1980). Review of Linguistic Behavior, by J. Bennett. Dialogue, 19, 290–301.
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[意味] [公共性]