#30 それぞれのオーロラ
昨日の記事では、『星野道夫』の引用を手がかりに、伝統的な言語学に対する社会言語学の位置づけについて思いを馳せました。今日は、もう一方の引用を取り上げながら、そこからつながって考えた認知言語学の「捉え方(construal)」について書いてみたいと思います。
「人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう」
星野が紹介するオーロラのエピソードは、自分の体験に限られたものではなく、他者の解釈も含まれています。彼にとっては、アラスカに移り住んだ最初の秋に見たオーロラは未知の世界への夢や不安を映し出し、南極探検の隊員にとっては暗黒の冬を生き抜くために不可能を可能にさせる存在となり、さらにある男性にとっては、わが子が生まれようとする夜に特別な予兆として現れました。ひとつの現象であるオーロラが、人によってまったく異なる意味を帯びていることがわかります。
認知言語学では、意味とは単なる指示対象ではなく、対象をどう捉えるかが慣習化されたものだと考えます。同じ対象でも、捉え方が異なれば言葉の形にも違いが現れるのです(野村 2014)。例えば、日本語では同じ坂道でも「上り坂」と「下り坂」に分かれますし、英語でも同じ陸地を指すのに海から見れば land、空から見れば ground となります。同じ海岸であっても、海から見れば shore、陸から見れば coast と表現されるように、言葉は無意識のうちにその視点を映し出しています。
本多(2006)は、認知意味論を「対象そのものではなく、話し手の理解や概念化の仕方、あるいはそのプロセスを意味とする立場」と説明しています。ただし、その議論は<話者>と<対象>の二項関係にとどまりがちであると指摘し、そこに<聞き手>を含めた「見せ方の意味論」が必要だと述べています。もし話し手の捉え方だけに焦点を当ててしまえば、意味はあまりに主観的で多様になりすぎ、他者との共有やコミュニケーションの成立が難しくなってしまうからです。言い換えれば、意味は「認識」と「提示」という両側面がかみ合ってはじめて成立するのです。
ここで星野の例を改めて考えると、オーロラに対する意味が人それぞれ異なるという点で、認知言語学のいう「捉え方」に近い見方を示していると言えます。ただし、それぞれのオーロラが別の言葉として表れるわけでも、誰かに提示されるわけでもないという点で、上で述べた議論とは異なります。
それでも、人が理解したり心を動かされたりするのは、まさにこうした「捉え方」の方なのだと改めて思い、その気づきをここに記しておきたいと思った次第です。
参考
野村益寛(2014)『ファンダメンタル認知言語学』ひつじ書房.
本多啓(2006)「認知意味論、コミュニケーション、共同注意―捉え方(理解)の意味論から見せ方(提示)の意味論へ―」『語用論研究』第8号, pp.1–14. 日本語用論学会.