[]#29 カメラにうつるもの
昨日、Book Log にあげた写真家・星野道夫の本の中で、次の箇所を読んだときに思い出したことがあります。前者には認知言語学の重要概念である「捉え方(construal)」、後者には社会言語学の、従来の伝統的な言語学(いわゆるハードコア)に対する位置づけの話が重なって見えてきました。
「人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう」
「ピュアラック、つまり絶対的な幸運など存在するのだろうか。シャッターチャンスとは、やはりどこかで自分の写真を撮る姿勢と関わっているような気がする。つまり、どれだけ撮りたいと思い続けたか。その前を通り過ぎずに立ち止まれるか。そのためにどれくらい待てるのか…。それらのすべてが絡み合い、本来、偶然的な自然の営みの中で起きるシャッターチャンスという瞬間への、不思議な道に続いているような気がするのである。」
今日は後者について書いてみたいと思います。
星野のこの言葉からは(あくまで私の理解ですが)、彼の写真が「動物など対象の瞬間を切り取ったもの」にとどまらず、その瞬間を導いた姿勢や意思、そして対象の周辺に向けられた時間や眼差しまで含めて捉えられていることが分かります。実際、彼がテント暮らしを続けながらひたすら瞬間を待ち続けたことを考えても、その一瞬が孤立したものではなく、積み重ねの上にあることが伝わってきます。
これを読んだとき、私は「中心的な言語学(統語論、形態論、音声学など)」と「周辺的で亜流と見なされてきた社会言語学」の関係を思い出しました。井上(2017)は、社会言語学をそうした周縁に追いやるのではなく、むしろ言語学の中心に据えるべきだと主張しています。
たとえばチョムスキーの目的は、「人間は生まれながらにして模倣に頼らず言語の特別な才能を持つのであり、この言語能力の本質を明らかにすること」(東 2009)でした。これは言語を自律的な存在としてとらえ、文脈や社会状況を切り離して分析するアプローチです。井上はこれを「ハードコアの言語学」と呼び、以下のように述べています。
「あることがらをみようとするのに、それが一番よくみえるレンズの周辺部は多少ぼやけたりするものだ。ハードコアの言語学はぼやけた部分をすっきりそぎ落してきたにすぎない。社会言語学はそのレンズならぼやけてみえる部分に焦点を当てようとする。なぜなら、繰り返すが、そこにこそ言語の本質があると考えるからである。」
同じく東(2007)も、言語は周囲の外的要因(話し手と聞き手の親密度、年齢、性別など)の影響を受けており、言語と社会は切り離せない関係にあるとしています。
一方で、チョムスキー的なハードコア言語学は、科学的な方法を通して普遍的な法則を導き、「革命」と称されるほど大きな影響を与えました。その長年にわたる知の蓄積や方法論の魅力には、今も学ぶべき点が多いと感じています。そのうえで、社会言語学を専門とする立場から、社会と言語の関係をより説得力をもって伝えていきたいと思います。
今回は、星野道夫の写真家としての言葉から、思いがけず言語学のあり方に話を広げてしまいました。全く関係のない領域にも通じるものを見出せたとき、それが必ずしも正解でなくても、学問の幅を感じられてとても嬉しくなります。
参考
東 照二 (2009). 『社会言語学入門 <改訂版> 生きた言葉のおもしろさに迫る』 研究社.
井上 逸兵 (編) (2017). 『社会言語学』 (朝倉日英対照言語学シリーズ 発展編 1). 朝倉書店.
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[社会言語学] [外的要因] [チョムスキー] [生成文法]