#47 たかが例文されど例文
授業が久しぶりに本格的に始まっているので、思考があちこちに散らばり、頭の中が大変なことになっています。研究室でつっぷして、気づけば1時間も意識を失っていました。
あまり意識しすぎてもよくないのですが、例文を出したりするうえで気をつけなければならないと思うことがあります。思い出すのは、ビオリカ・マリアンの言葉です。
「一見したところは小さな言語の特徴でも、記憶のような高次の認知プロセスに影響を与える力を持つ。」
その事例のひとつとして挙げられているのが、文法的性です。フランス語で言えば、不定冠詞を男性名詞と女性名詞で分け、un livre(本; 男性名詞)、une maison(家; 女性名詞)のように使い分けます。文法性を持たない英語や日本語の学習者から見れば、この性別はランダムに聞こえ、覚えなくてはならないものに感じられます。
ビオリカ・マリアンによれば「複数の研究によると、文法的性は、性別を割り当てられた対象について考えたり話したりすることに影響する」とされます。たとえば、ドイツ語と英語のバイリンガルがドイツ語では男性名詞の「鍵」について「硬い」「重い」「ギザギザしている」と描写したのに対し、スペイン語と英語のバイリンガルは、同じ「鍵」を「金色の」「小さい」「美しい」「キラキラしている」と描写したという報告があります(スペイン語では「鍵」は女性名詞)。言語が対象のイメージに影響を与えていることがよくわかる事例です。
さらに、人類学者アレックス・シャムズが挙げた事例も印象的です。トルコ語をGoogle翻訳で英語に訳したとき、「O bri doctor(医者)」は「He is a doctor.」、「O bri hemsire(看護師)」は「She is a nurse」、「O çalışkan(働き者)」は「He is hardworking」、「O tembel(怠け者)」は「She is lazy」と訳されました。文法性を持たない言語(主語は変わらず"O")にもかかわらず、翻訳の中にステレオタイプが入り込んでしまっていたのです。この指摘を受けて翻訳アルゴリズムは修正され、いまはどちらの性別も候補に出るようになりましたが、根強い偏りを感じさせる例だと思います。
これを読んで思い出したのが、東の著作にある「セクシスト・ランゲージ(女性差別用語)」のセクションです。アメリカで使用されている言語学入門書、統語論入門書の主な10冊を調べた研究では、例文に以下のような傾向が見られたといいます。
・男性が文の主語となる傾向が高く、女性は目的語になりやすい(例: Ben gave Debbie a hard time.)
・男性がリード(Agent 動作主)し、女性が従う(Recipient 受取人)ことが多い(例: Stefan gave the book to Maja.)
・女性は「無能な人間とみなす」例(It must be made clear that she isn't working hard enough.)、「問題を持った人とみなす」例(Mary is overeating.)、「男性よりも知的に劣った人であるとみなす」例(He is more intelligent than she was.)が多い。
・男性は「天才とみなす」例(Everyone considered him to be a genius.)、「読書する主語」としての例(The boy read the paper.)が多い。
言語に敏感であるはずの教科書でさえ、こんなに偏りが反映されていることは衝撃的でした。
もちろん、例文は自然な言語実態を反映しているとも考えられます。いってみれば、それが今のリアルなのだと思います。 あまり意識して不自然な例をつくるのも憚られるし、本当に難しい問題です。ただ、実際に相手に影響を与える可能性を考えておくということはとても重要な気がしています。
…そんなことを考えているうちに、今日の授業でもつい言葉に詰まり、沈黙の時間が流れてしまいました(笑)
参考
ビオリカ・マリアン 著, 今井むつみ 監修・解説, 桜田直美 翻訳 (2023). 『言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』KADOKAWA.
東照二 (2007).『社会言語学入門<改訂版>』研究社.
keywords
[セクシスト・ランゲージ] [翻訳]