#132 無駄を楽しむ
12月18日に大阪で開催された、井上逸兵先生と堀田隆一先生のトークライブに参加しました。そもそもライブハウスのような場に言語学者が呼ばれていること自体が印象的で、ことばをツールとしてよりは、愉しむものとして捉える感覚が反映されているというお話が始まったように記憶しています。ことばは情報伝達の手段にとどまらず、楽しむ対象でもあるという点について、ヤコブソンの話題にも触れられていました(到着時点ですでにお酒が入っていたため、細部の記憶はやや曖昧です…)。そのほかにも、効率が強く求められるAI時代だからこそ浮かび上がる「雑談」や「無駄」への関心、そしてメディアによる発信が、もはや一方向的な「発信」というよりも、「共有」に近いものになっているのではないか、といった話題まで、幅広く展開されていました。
この「雑談」というキーワードをきっかけに、以前から積ん読になっていた村田・井出(2016)『雑談の美学』を思い出し、改めて手に取って読んでいます。イントロダクションの「3.雑談の言語学」では、雑談を位置づけるために、欧米の社会言語学・語用論・言語人類学を含む広い意味での言語学研究における「会話(conversation)」の捉え方が整理されています。
そこで示されている大きな枠組みは、「制度的な会話」と、それ以外の「日常的で普通の会話」という二分です。村田・井出(2016)の説明をまとめると、Levinson(1983)は、普通の会話を「制度的場面の外で、二名以上の参与者によって自由に参与される話」と定義しています。また、Eggins and Slade(1997)は、普通の会話を「実利的な目的のためではなく、話そのものを楽しむもの」と捉え、インタビューや討論、会見、宗教儀礼などのより制度的なコミュニケーションから区別されるものだと述べています(Duranti 1997)。さらに、Goodwin and Heritage(1990)は、普通の会話こそが自然な言語使用の本源的な場を構築し、より専門的なコミュニケーションへと向かう出発点になると指摘しています。
次回以降は、では具体的にどのようなデータを「雑談」として判定するのか、それぞれの分析に使用されていたデータ収集・方法論についても少しずつ整理していきたいと思います。
参考
村田和代・井出里咲子(編) (2016). 雑談の美学―言語研究からの再考― ひつじ書房
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[制度的談話] [雑談]