#82 聞き入ってしまう講義
昨日は、私の師匠の師匠にあたる(アカデミアにおける「祖父」のような存在といってもよいでしょうか)唐須教光先生が、ゲストスピーカーとして招かれたご講義に参加しました。とはいえ、その立ち姿はいまもなお爽やかで、スマートで、お若くて、かっこよくて、そして何よりエネルギッシュでした。
「世界の英語」という授業でのご登壇でしたが、話題は英語にとどまらず、言語の功罪、何をもってひとつの「言語」とするのか、英語の位置づけなど、多岐にわたりました。
先生はまず、言語のすばらしさ、言語を手にしたことで人間が可能になったことの大きさ、について語られました。
他の動物と比較して、人間がここまで急速に発達したのは、言語を持ったからだと。そして、記号と呼ばれるものは絵や音楽など他の芸術にも見られるが、言語が特別なのは「言語を使って言語そのものを説明できる」という点、すなわちメタ言語性にあるとおっしゃっていました。(ある音楽を音楽で説明することはできないし、絵についても絵で説明することはできません。)
一方で、深く印象に残ったのは、言語を手にしたことで失ったものについてのお話でした。それは、「モノそれ自体を見ることができなくなった」ということ。私たちはどうしても言語化してしまう…つまり、既存のカテゴリーの中で対象を判断してしまう。偏見を持たずにモノを見ることが難しくなってしまった。その指摘には、どこか寂しさを感じました。
これから数日にわたって、先生のお話を少しずつ振り返っていきたいと思っていますが、まずは先生が言語を考える上で重要な視点とされている点が、『文化の言語学』の冒頭に書かれた言語人類学の説明の中にぎゅっと凝縮されているように感じたので、その一節をご紹介します。
人類学(Anthropology)とは、種としてのヒト―つまり人類-を、その研究対象にするのではあるが、それは、哲学などとは違って、ヒトの特徴を、他の動物との比較において明らかにしていこうという発想である。… そのヒトを他の動物から区別する特徴を、社会機構の面からみてゆこうとするのが、社会人類学(Social Anthropology)と呼ばれる分野であり、ヒトの形態上の特徴に注目するのが、形質人類学(Physical Anthropology)であり、主として、道具や、住居跡などのヒトの遺物の側面から研究するのが考古学(Archaeology)…ヒトのことばを手掛かりにして、ヒトとは何かという問題に迫ろうとするのが言語人類学(Linguistic Anthropology)ということができる。したがって、ここには、ヒトのことばを、他の動物のコミュニケーションの体系から区別している特徴は一体何なのかということが、いわば究極的な問題意識としてあるということができる。
昨日の講義の感想になりますが、圧倒的な知に触れると、そのあとにいつも、自分の無知に対する恥ずかしさや、これから学んで間に合うのか、もう手遅れなのではないか・・・という不安が押し寄せます。それでもやはり、その次の瞬間には、お話に出てきた本を読みたい、実際に見てみたい、もっと調べたいという前向きな気持ちが生まれます。そうしたネガティブとポジティブの両方の感情が混ざり合って、知的好奇心やワクワクする気持ちが芽生えていくのだなと、改めて感じている今日この頃です。