#79 何が彼女をそうさせたのか
地球ことば村の10月のサロンでは、知り合いのポリナさんと井上逸兵先生による対談「言語学との出会い・日本語との出会い・ウクライナ語と日本語」が行われました。
その中で印象に残ったのが、ポリナさんが挙げていた池上嘉彦先生の著書に関する疑問でした。池上先生は、「英語ではごく慣用的に〈無生物主語〉の構文が使われるのに対し、日本語では一貫して〈人間主語〉の構文が好まれる」と述べています。今回は、この池上先生の主張についてまとめてみたいと思います。
実際に池上先生が示した例文は次の3つです。
〔思いがけない所で思いがけない人に会って〕Hello, John. What brings you here?「やあ、ジョン。どうしてこんな所に来てるの。」
〔必ず効くと思われる薬をもってきて〕This medicine will make you feel better.「この薬で気分がよくなるでしょう。」
〔間違いなく問題のドアを開けられる鍵を持ってきて〕This key will open the door. 「この鍵でドアが開くでしょう/ドアを開けられるでしょう。」
1の例文では、「ジョンがここにいる」という結果をもたらした〈起因〉に関心があり、その起因に相当するものが主語の位置に置かれています。述語には〈行為動詞〉ではなく、〈使役動詞〉が使われるのが一般的だとされます。2の例文では、まさに〈使役動詞〉の make が使われており、〈起因〉というより〈手段〉のような役割を果たしています。3の open も同様に、〈働きかけ―鍵を差し込んで回す〉と〈結果―ドアが開く〉という両方の側面を含み、〈使役動詞〉的な性格を帯びています。
一方で、日本語では〈起因〉や〈手段〉であっても〈無生物〉を主語に立てることに抵抗があるといいます。
たとえば、The heat makes me feel tired. を「暑さが私に身体がだるいと感じさせる」と訳すよりも、「暑くて身体がだるい」と言うほうが自然です。Despair drove him to commit suicide. も「絶望が彼を自殺へと追いやった」より、「絶望して彼は自殺した」とする方が自然に感じられます。
英語などの欧米語との接触や翻訳表現の影響で、この抵抗感は少しずつ薄れ、「何が彼女をそうさせたのか」という英語的な言い方が一時期流行したこともありました。池上は、日本語にも「花がほほえむ」「勝利がほほえむ」といった擬人法的な表現があることは触れつつも、抽象名詞を主語として他動詞を伴う構文はあまり一般的ではないと述べています。これは、チェンバレンの The Japanese という日本紹介書の中からの指摘を引用したものです。
同じヨーロッパの言語でも、〈無生物主語〉がどの程度自然に使えるかには違いがあるそうです。ポリナさんは、その点に興味を示しつつ、「日本語にもこうした〈無生物主語〉は実際にはかなり見られるのではないか」と感じているそうです。今後の研究が楽しみです。
参考
池上嘉彦 (2006)『英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ』NHK出版
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[無生物主語]