開け放した窓と障子の間から、夏の終わりを感じさせる日差しが差し込む。今年は残暑が長かったが、ようやく秋の気配が見えてきた。
 侍は畳の上に胡座をかいて、ぼうっと窓の外を見ていた。奈緒はその横で寝そべりながら、宿題の漢字ドリルをやっている。
 侍はよく、こうして外を眺めていることがあった。窓の向こうにはさして広くもない庭と垣根があるだけ。特に何が見えるというわけではないのだが。
「この家は、波の音が聞こえるな」
ぽつり、と侍が呟いた。奈緒は鉛筆を止めて首を傾げる。そうかな、としばらく耳を澄ませてみると、確かに波の音が微かに聞こえてくる。普段はテレビなどの生活音でかき消されてしまう微かな音だ。気に留めたこともなかった。でも、夜眠るときなど静かな時間にふいに耳に届く──奈緒の体に馴染んだ音だった。
 奈緒は侍の横顔を見上げる。どこか遠くを見ているようなその眼差しを見て、そうか、と思った。彼は窓の外の景色を見ていたのではない。海の音を聞いていたのだ。
「お侍さんは海が好きなの?」
彼はしばし考えるように天井を仰ぐ。
「海が好きかどうか、そういえば考えたことはないな。生まれた時からいつも身近にあったものだからなぁ」
その気持ちは奈緒にもよくわかる。
 浜辺に打ち寄せる小波、目線を上げれば隣の島と行き交う船。さらにその奥にも浮かぶ島々の影がぼんやり霞んで見える──奈緒が知っている海はそういう海だ。好きとか嫌いとかをかんがえるよりも前に、いつもずっとそこにあるもの。
「海辺を歩いてるとたまにね、わざわざカメラを持って写真とってる人を見かけるんだけど、なんでわざわざこんな田舎の写真なんかとるんだろうって不思議だったんだ。でもきっと、その人にとってここの海は珍しいものでとても綺麗に見えたんだよね」
奈緒は漢字ドリルをわきに押しやり、侍の横に並んで座る。この部屋は海側に面しているが、垣根もあってここから海の色は見えない。
「前に家族旅行で沖縄に行ったことがあるの。そこで初めて内海じゃない海を見たんだ。直線をひいたみたいにまっすぐな水平線が見えて、本当に空と海しかなくてびっくりしたし、すごく綺麗だった。でも、綺麗だったけど、ちょっとだけ怖かった」
あのとき感じた気持ちを奈緒は上手く言葉にできない。なんだか、知らない場所に一人放り出されたような気持ちがしたのだ。すぐそばに父母も姉もいたのに。
そう言うと、侍はゆっくりと頷いた。
「俺も同じようなことを思った。どこまでも続くだだっ広い海を見て、寄る辺なさを感じたな。ずいぶん遠くに来たものだ、と」
海のある方を見つめながら、侍は目を細める。その顔がどこか寂しそうに見えて、奈緒は慌てて目を逸らした。
そして、ふと思いついて立ち上がる。
「そうだ、いい場所に連れてってあげる!」


 奈緒は侍の袖を引いて、居間にいる祖母に気づかれないようそうっと廊下を歩き玄関に降りた。履き物がなく裸足だった侍には父のビーチサンダルを貸してあげた。ビーチサンダルを履いた侍というのは、なんだかちょっと面白い。
 家の裏手から敷地外に出ると、車がやっと一台通れるほどの狭い道路がある。それを道なりに歩いていくと緩やかな坂になり、やがて木が生い茂る丘の麓にたどり着く。
 丘の中腹には小さな神社があり、そこまで登る道は歩きやすく整備されている。だが、奈緒が向かったのはその神社のさらに奥だった。
「早く、早く!こっち!」
侍はいつも夕方ごろになると消えてしまう。彼が消えないうちに辿り着きたくて、自然と足が急いでしまう。
 神社の裏手にはさらに丘の上へと登る道があった。道といっても長年人の手が加えられていないので獣道に近い。下生えをかき分けながら進むと、大きな石が幾つも積み重なった段差があった。奈緒の胸の高さほどもあるその石垣にしがみついてよじ登る。が、昇り切る前に足を滑らせ大きく体がよろけた。
「わっ」
手を離してしまったせいで一瞬宙に浮いた体が、後ろから大きな腕に支えられた。
「そんなに焦るな。怪我をするぞ」
侍は上から奈緒を覗き込んでため息混じりに言う。だって…と唇を尖らせる奈緒にむかって、にっと笑って見せた。
「負ぶってやろうか?」
「やだよ。小さい子みたいで恥ずかしい」
彼は軽く笑うと、大きな手足を使って軽々と石垣を登った。そして奈緒に向かって手を差し出す。
「ほら。掴まれ」
奈緒は侍の顔と差し出された手を交互に見つめ、その手をとった。力強い手に引かれて、難なく登ることができた。
 侍の手は大きくて、暖かかった。それがなんだか嬉しくて奈緒は彼の手を握ったまま山道を登っていく。
「来て来て!こっち!」
明るい空の色が見えて、奈緒は侍の手を引っ張って走り出す。わずかな空間だが、その場所だけ木が生えていないため小さな原っぱになっていた。

 侍は足を止めて立ち尽くす。
 眼前に広がるのは、夕陽色に染まる街と海。遠くを見渡せば淡く霞んだ島々の影が浮かんでいる。
「ここからが、海も町も一番よく見えるの。いい場所でしょ」
低学年の頃に友達とこの丘で遊んでいる時に見つけた場所だった。ここに秘密基地を作ろうとして、結局その計画は頓挫してしまったけれど。
 侍は声もなく、ただじっと目の前に広がる景色をじっと見ている。西日に照らされ目を細めるその表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。彼がどんな思いでこの景色をみているのか、奈緒にはわからない。けれど、来てよかったと思った。彼にこの海を、町を見せることができてよかった。
 しばらくの間ふたりでただ静かに街を、海を見つめていた。いつもなら、そろそろ侍の姿が消えてしまう頃合いだが、今日はまだ奈緒の隣にいる。彼が消えてしまう前に、奈緒は思い切って口を開いた。
「…お侍さんてさ、名前なんていうの?」
本当は別のことを聞くつもりだった。お侍さんはどうして死んでしまったの、と。でも隣でじっと街と海とを見つめている彼の表情を見たら、死に様ではなく、生きていたときの彼を知りたいと思った。
小松 尚隆だ。もう、そのように呼ぶ者はほぼいないが」
橙に染まる景色を見つめながら侍は答える。なおたか……奈緒は彼の名を小さく繰り返した。
「その名前、私につけられていたかもしれない名前だ」
侍は奈緒を振り返って首を傾げた。
「私、生まれる時まで男の子か、女の子かよくわからなかったんだって。それで、お祖父ちゃんが男の子だったら尚隆なおたかにしようって言ってたらしいよ」
以前、家族から聞いた話だ。名を考えてくれたという祖父は今はいない。奈緒が小学校に上がる前に他界している。
「なんか、昔このあたりにいた偉い人の名前らしいんだけど…でも、生まれてきたのが結局女の子だったから、奈緒なおって名前にしたんだって」
そうか、と彼は静かに呟いた。そして大きな手を奈緒の頭に乗せる。大きくて、暖かい手。
目線を上げると、侍──尚隆は、奈緒に向かって笑んだ。夕陽に染まる海のような笑顔だった。

「お前のおかげで良い夢を見られた。礼を言う、奈緒」