三
* * *
波の音が聞こえる。静かな、静かな潮騒。
「おーい、おっさん。起きろって」
額を小突かれて尚隆はうっすらと目を開けた。視界に映ったのは金の髪の少年だ。
「もう日が落ちるぞ。いつまで昼寝してんだ」
何度か瞬きをして尚隆はやっと体を起こす。彼が横になっていたのは榻ながいすの上だった。正寝の一角にある見慣れた堂室、かたわらにはいつもの相棒。開け放した窓から、潮の香りを乗せた風が穏やかに舞い込んでいる。
「尚隆、大丈夫か?」
六太に声をかけられ、尚隆は顔を上げる。
「何がだ?」
「なんか…妙な顔をして眠りこけてたからさ」
尚隆はかすかに目元を和ませた。
「良い夢を見ていたからな」
視線をふと自分の足元に向けると、尚隆は軽く目を見張った。素足のまま寝ていたはずだが、いつのまにか見慣れぬ履き物を履いている。形は草履に似ているが、その素材はあきらかにこちらの世界のものではない。彼は思わず小さな笑みを溢した。
なあ、六太、と呼びかけると、部屋から出ようとしていた彼の相棒が振り返る。
「もし三匹目の騶虞が手に入ったら、名は”まりん”にするか」
「はぁ?」
六太は眉根を寄せて首を傾げる。
「まだ寝ぼけてんのか知らねぇけど。朱衡が来る前にせめて仕事してるふりくらいはしろよな」
片手を振って衝立の奥に消えていく六太を見送り、尚隆は榻から立ち上がる。ぺたぺたと足の裏に吸い付くような妙な感触の履き物のまま、露台へ向かった。
張り出した露台の向こうに広がるのは、水平線が真一文字に続く広い海。彼の生まれ育った海とは大きく異なる。しかし──
尚隆は瞑目し耳を澄ます。凪いだ海から響く静かな潮騒。一定の拍子で絶えず繰り返される波の音。
それは、彼がかつて生きたあの海の音によく似ている。
* * *
休日の昼下がり。居間の座椅子に寄りかかって本を読んでいた父に、奈緒は声をかけた。
「ねえ、お父さん。お祖父ちゃんが私につけようとしてた名前、昔の偉い人の名前なんでしょ。どういう人?」
父は読んでいた文庫本を置いて奈緒に向き直る。
「ああ、昔このあたりを治めていた領主だったらしいよ」
彼は立ち上がると、ちょっと来てごらん、と奈緒を手招きする。廊下を突き当たりまで歩くと、奥にある納戸の戸を開けた。祖父母の代に建てられた家は、所々リフォームをしているが、この納戸は昔のままだ。古臭い匂いがするし、床はひんやり冷たくて、あまり入りたくない場所だった。
納戸の中に入った父は、奥の方から大きな木箱を引っ張り出す。中にはびっしりと紙の束が入っていた。
「おじいちゃんはね、趣味で地域の歴史を調べていてね。それらを纏めて本を作ったりしていたんだ。ほとんど公民館に寄贈してしまったけれど」
あったあった、と父は紐で閉じられた紙の束をひとつ取り出す。それをぱらぱらと捲って、眼鏡の位置を直す。
「小松三郎尚隆。小松氏の四代目、最後の領主だね」
「最後?」
「小松氏は村上水軍に敗れて滅亡しているんだよ」
奈緒は目を瞬いて、父が手に持っている紙の束を覗き込む。そこに書かれている祖父の文字は、達筆すぎて奈緒にはさっぱり読めない。
「三郎ってことは三男か。上にお兄さんが二人いたんだね。二人とも若くして死んでしまって、それで尚隆が後継になったらしい」
祖父の字を目で追いながら父は興味深そうに話す。
「どうやら尚隆はしょっちゅう城下に出ていたみたいだ。若い連中を集めて相撲をとったり、漁師に混じって海に出たり。きっと町のみんなに人気者の若様だったんだね」
その様子が目に浮かぶような気がして、奈緒はふふっと笑ってしまう。
「おじいちゃんは、この尚隆っていう人のことを結構熱心に調べていたみたいだな。資料なんてほとんどなかっただろうに、よくまあこれだけ集めたもんだよ」
父は木箱の中にある紙束をいくつも手に取って、感心したように言った。父の背を見ながら、奈緒はずっと気になっていたことを口にする。
「あのさ。もしかして、この尚隆ってひとがうちの祖先だったりする…?」
ご先祖さまの幽霊が家の中に現れた、ということではないかと奈緒は考えたのだが。父はうーんと首を捻っている。
「それはどうだろうなぁ。尚隆には妻と嫡子がいたようだけど、戦で屋形が焼かれて死んでしまっているし。たぶん子孫は残っていないんじゃないかな」
「そっか」
なんとなく、ほっとしたような、残念なような気持ちがして奈緒は息をつく。
「でも、そうだな。もしかしたら──尚隆は領民を逃すために戦が始まる前からあれこれ手を打っている。最後まで残ってしまった民たちは残念ながら亡くなってしまったけれど。彼が逃げろと呼びかけたおかげで命を永らえた人々がいるなら、その子孫が今の世にもいるんじゃないかな」
尚隆が助けた民たち。その子孫──その想像はなんとなく奈緒を嬉しい気持ちにさせた。もしかしたら、本当にもしかしたらだけど、自分が今存在するのは、遠い昔にいたあの侍のおかげなのかもしれない。
「ああ、それと、小松尚隆にはもうひとつおもしろい話があってね」
どこだったかな、と父は木箱の中を漁る。祖父の残した書き付けとは別に、古い本が入っていた。
「これは敵方の村上勢の記録なんだけど。小松氏は尚隆の最期をもって滅亡したとされている。でもね、実は尚隆の遺体は確認されていないんだ」
えっ、と奈緒が驚くと、父はひとつ頷いて本を捲る。
「当時、敵将の首を取ることは大変な誉れだったし、本当に敵を殲滅したかどうか確認するためにも必要なことだったんだ。だから村上の兵も、将である尚隆の首を取ろうと躍起になっていただろうね。大勢の敵を相手してすでに瀕死だった尚隆を、村上の兵が討ち取ろうとした。その瞬間、三尾の狼が尚隆を背に乗せて飛び去っていった」
「狼??」
「昔は日本にも狼がいたんだよ。でも、尻尾が三つある狼っていうのが妖怪みたいでおもしろいだろう?」
父は笑いながら言ったが、奈緒はどんな顔をしてよいかわからない。
「その後村上勢は消えた敵将を必死に探したが、結局見つからなかったそうだ。尚隆も、尚隆の遺体も。それで、しかたなく彼の鎧の残骸を本陣に持ち帰ったという話だ」
父は本を閉じて奈緒に向き直ると、おどけたように笑みを浮かべた。
「源義経は戦死したのではなく、大陸へ渡ってチンギス・ハンになったという説があるくらいだ。ひょっとしたら、尚隆もどこか別の場所で生きていたのかもね」
父と一緒に木箱を納戸に片付けた後、奈緒は考え事をしながら家の中を歩いていた。
見つからなかった遺体。狼に乗って消えた尚隆。
──ひょっとしたら、尚隆もどこか別の場所で生きていたのかもね
(もしかしたら…)
奈緒は想像を巡らす。
三尾の狼の背に乗って空を飛ぶ尚隆。そのまま日本ではない、どこか遠い世界に行って。そして久しぶりに故郷の地を見たくなってふらりと奈緒の家に現れた──
(…なんて、まさかね)
奈緒は思わず苦笑いを溢す。そんなお伽話みたいなこと、あるわけない。
たとえもし尚隆が戦で死んでいなかったとしても、人間が五百年も生きていられるわけがない。やっぱりあれは幽霊だったのだ。
奥の和室まで来て奈緒は足を止める。
畳の上に散らばった漫画、かぶせを開けたままのランドセル、へこんだビーズクッション。クッションのそばで毛繕いをしていた猫のマリンが奈緒を見上げる。なぁぁん、と鳴いた。
この部屋でぐうたらと寝転んでいた尚隆の姿がふいに目に浮かぶ。畳の上に寝そべり、マリンの喉を撫でて、奈緒の話を面白そうに聞いてくれた。黄昏に沈む海とこの街を、じっと見つめていた戦国の武将。
おそらく、あの侍の幽霊はもう現れない。そんな気がする。
寂しい、という気持ちは大きい。でも、なぜか悲しくはならなかった。
奈緒は目を瞑って耳を澄ます。一定のリズムで繰り返す、静かな波の音が聞こえる。
奈緒の知っている海の音。尚隆が生きた故郷の海の音。
彼はきっと、ずっと、この海の音を覚えている。