波の音が聞こえる。
一定の拍子で繰り返す緩やかな波の音。
開け放した窓から吹き込む潮の香。
午後のぬるんだ日差しが心地よく、瞼が自然と落ちていく。
目を閉じても、静かな波の音が耳に響いていた。
* * *
一
奈緒なおの部屋には、侍の幽霊が出る。
正確に言えば、そこは奈緒の自室ではない。家の2階には姉と共有している子供部屋があるが、今年受験生の姉はいつもピリピリしていて奈緒が同じ部屋にいるのを嫌がる。なので、1階の奥の和室──以前は祖父の部屋だった──にゲーム機やビーズクッションを持ち込んで日中の居場所にしていた。そこに幽霊が出るようになったのは、ほんの数日前、小学校の2学期が始まったばかりの頃だった。
初めてその姿を見た時は幽霊だと思わなかった。学校から帰宅し和室にランドセルを下ろそうとした瞬間、畳の上に寝転がっている男の姿を見て奈緒は固まった。海辺の田舎町で、気心の知れた近所の人が家にあがることはよくある。だが、さすがに見ず知らずの大人の男が寝転がっているのは異常事態だ。
(変質者だ!)
お母さん、と叫ぼうとして、母は今パートに出ている最中だと思い出す。茶の間でテレビを見ていた祖母を呼ぶべきか、いやそれともランドセルについている防犯ブザーを鳴らすべきか──
そんなことを考えている最中に、横になっていた男の姿は霧のように薄くなり瞬く間に消えていった。
奈緒は目を丸くして立ち尽くす。ゆっくりと部屋の真ん中あたりまで来てみたが、男が寝ていたはずの場所にはやはり何もない。確かに、大人の男の人がここで眠っていたのに。
(……幽霊…)
怖さよりも、驚きの方が大きかった。まだ胸がどきどきしている。
呆然と立ちすくんでいると、なぁん、と高い声が聞こえて振り返る。開いた襖のすきまから、白い猫がするりと入ってくる。奈緒の足に体を擦り寄せてきた飼い猫をそっと抱き上げて座り込んだ。
次の日も幽霊は現れた。奈緒が帰宅すると、まるでそこが自分の部屋であるかのように畳で寝ている。奈緒はそうっとランドセルを下ろし、息を詰めてその幽霊のそばに近づいてみた。
男は少し妙な格好をしていた。着物か、浴衣のような服と袴。奈緒の周りには普段着として着物を着る人はいない。袴なんて、親戚の結婚式で新郎が着ていたのは見たくらいだ。そして、男の人にしては髪が長い。ショートカットにしている奈緒から見ると、ずいぶん長く見えた。頭の上の方で結んでポニーテールにしている。奈緒はなんとなく、父親がよく見ている大河ドラマに出てくるような人物を思い浮かべた。
(お侍さんの幽霊……)
奈緒はそう結論づけた。奈緒は小学四年生で、学校の授業ではまだ歴史を習っていない。だから詳しいことはよくわからないのだが、おそらく百年とか二百年くらい前に生きていたお侍さんが幽霊になって現れたのだろう。
飽きずにじっと見つめていると、視線に気づいたかのように男が身じろぎする。うっすらと目が開いて、奈緒はあわてて後ずさった。
だが、その瞼が上がりきる前に、侍の姿は昨日と同じように霧となって消えていった。
さらにその翌日。
奈緒は学校から家までの通学路を急いで走った。今日は帰りの会が長引いてしまった。あの侍の幽霊はまだいるだろうか?
奈緒の家は海沿いの道に面した場所にある。堤防に沿って続くアスファルトは夏の残りを照り返し、低い堤の向こうに見える海は今日も穏やかに凪いでいた。海に浮かぶのはこんもりと緑に覆われた小さな島。その向こうにも、晴れた空と海を背に影絵のように幾つもの島が点在している。
ただいま!と玄関で叫んで手を洗うのもそこそこに、奈緒は奥の和室へと飛び込む。そしてそのまま固まった。
昨日まで畳の上で寝ていた侍の幽霊が、目を覚ましていた。肩肘をついて寝転がり、指先で猫をからかって遊んでいる。
(起きてる!!)
奈緒がびっくりして目を見張っていると、侍は顔を上げた。
「なんだ、人がおったのか。ここは、蓬莱にほんか?」
(しゃべった!!!)
意思疎通ができると知ってさらに驚く。なんとなく、幽霊とは会話ができないものだと思っていた。奈緒はおそるおそる腰を下ろして、彼と目線を合わせる。
「…うん、そう。ここは日本だよ」
そうか、と侍は頷き、部屋の中を見渡す。充電コードが刺さったままのゲーム機や、散らばっている漫画や本、オレンジ色のビーズクッション。それらを物珍しげに見つめてから、再び奈緒に顔を向ける。
「時代はいつだ?」
「今は令和だよ。れいわ。お侍さん、わかる?」
ああ、と彼は頷いた。
「少し前に改元したのだったか。六太から聞いた」
ろくたって誰だろう、と奈緒は首を傾げる。
「正寝で少しうたた寝をしていただけだったのだが…昼寝の間に蓬莱の世をみることができるとは。奇妙な夢だな」
猫の額を撫でながら、侍が呟く。どうやら彼はこの瞬間を夢の中だと思っているようだ。幽霊も夢を見るのか、と不思議な感じがする。
「お侍さんは、いつの人?昔に生きてた人なんでしょ?」
「元号を言うてもわからんだろう。まあ、ざっと五百年と少し前といったところか」
五百年!奈緒は目を丸くする。それは奈緒にとっては途方も無い数字だった。五百年前って何時代なんだろう。今度お父さんに聞いてみよう。
今度は侍が奈緒に問いかける。ここは日本の何と言う地だと聞かれて、奈緒は県名を答えたが彼にはよくわからないようだった。昔と今では地名が違うのかも知れない。奈緒はランドセルから地図帳を取り出して広げた。社会科の授業の一番初めに、自分の住んでいる町を見つけて印をつけましょうと言われ、赤ペンで星マークをつけてある。
「ほら、ここだよ。瀬戸内海に面してる小さい町」
侍は身を乗り出して地図帳を見ている。長い前髪がはらり、と揺れた。
「瀬戸内の海、か…」
彼はそう呟いたきり、何かを考え込むように黙り込む。奈緒はその横顔をそっと覗き込んだ。
侍の幽霊、と言うと、ボロボロの姿の落武者を思い浮かべるが、目の前の男にはそのようなおどろおどろしい怖さは感じられない。むしろ態度も声もおおらかで、親しみやすさを感じた。
いくつくらいの歳なのか、これはちょっと奈緒には判断が難しい。父親よりは若いと思うのだが、お兄さん、と呼べるほどの若々しさではないような気がする。それはおそらく、奈緒にとっては少し古めかしく感じる話し方や鷹揚な振る舞いのせいなのかもしれなかった。
(もしかしたら、隣のトオルちゃんと同じくらいなのかも…)
隣家に住む透は今年25になる若者だ。頭の中で侍の幽霊と透を並べてみたが、あまりにちぐはぐ過ぎて比較ができない。もっとも、透は頭を金茶色に染めていつもギターケースを背負っているバンドマンなので、目の前の侍と隔たりを感じるのは当然かもしれない。
地図帳を挟んで座り込んでいた二人の間に、白い影が割って入る。にぁあああん、と尻尾を立てながら鳴く猫に、侍は小さく笑みを溢す。それから幾らも経たないうちに、彼の姿はまた薄く霞んで消えていった。
「ねぇ、お父さん。五百年前って何時代?」
晩酌をしていた父に奈緒が声をかけると、ビール缶をテーブルに置いて父が振り返った。奈緒の父は高校教諭で日本史を担当している。
「五百年前、1500年頃か。室町時代の末期、まあざっくりした括りで言うと戦国時代かな」
酒も入っているせいか父が饒舌に語り始める。娘が歴史に興味を持ってくれて嬉しかったのかも知れない。話の全部を理解できたわけではないが、とりあえず日本各地で偉い武士たちが競い合っていた時代、ということはわかった。大河ドラマも戦国時代を扱ったものは多いらしい。母が好きな俳優が主役を演じていたドラマも、戦国時代が舞台だった。
(…戦国武将か。強いお侍さんなのかな、あの人)
そんな風には見えなかったけど。父の話を聞き流しながら、奈緒はあの幽霊のことを考えていた。
侍の幽霊は毎日ではないものの頻繁に奈緒の部屋に現れた。時間はいつも午後、奈緒が学校から帰宅する頃。日差しが和室の障子を淡く照らす時間帯に現れ、障子が夕陽色に染まり始める頃に消えていく。
その日奈緒が帰宅すると、侍はオレンジ色のビーズクッションに半身を埋めて寝そべり奈緒の漫画をぱらぱらと捲っていた。
(この人、本当に戦国武将なのかな…)
なんだか、休日のお父さんみたい。甲冑を着て馬に乗り戦う──そんなイメージとは程遠い気がする。
奈緒は侍の隣に膝をついて、彼の着物の袖を引く。
「ねぇねぇ。お侍さんってさ、戦国時代の人なんでしょ?徳川家康って会ったことある?」
いいや、と彼は苦笑を浮かべて首を振った。
「瀬戸内の小さな国を治めていただけの国人だったからな。それに、その武将はおそらく俺があちらに渡った後に出てきた者だろう」
「なぁんだ。つまらない」
マツジュンに似ていたのかどうか、知りたかったのに。
奈緒と侍が話している横で、我関せずとばかりに寝ていた猫が起き上がる。伸びをする猫に向かって侍が手を伸ばした。
「ほら、たま。こっちへ来い」
侍が大きな手を差し伸べると、猫はその指に鼻を近づけてふんふん、と嗅いでいる。
「ちょっと。勝手に変な名前で呼ばないで」
奈緒は奪うように猫を抱き寄せる。侍はきょとんとした顔をして奈緒を見上げた。
「猫の名前と言ったら、たま、だろう」
たまか、とらだ──当然とばかりに侍は言った。奈緒はそれを一蹴する。
「何それ、ダサい」
腕の中で身じろぎする猫は抱え直し、白い小さな顔を覗き込んだ。青い目がこちらを見つめ返している。
「この子はね、マリンちゃんっていうの」
ねーマリン、と呼びかけながら奈緒は白い柔らかな毛に頬を寄せる。みゃっと小さな声が上がった。
「目の色が海の色みたいでしょ。だから、マリンって名前にしたの」
保護猫を引き取った際、姉と一緒に考えてつけた名前だった。侍は、ほう、と感心したようなため息を溢す。
「猫にも、ずいぶん洒落た名前をつけるようになったのだなぁ」
五百年前に生きていたという侍に好奇心で奈緒はたくさんの質問をしたが、侍も奈緒の生活について知りたがった。学校という学び舎に行っているのか、普段はどんなことをして過ごしているのか。
二年前から地元のサッカークラブに入っているのだ、と話すと彼は首を傾げたので、奈緒は自由帳にコートの図を描きながらサッカーの説明をした。
「蹴鞠とはまた違った遊戯なのか。面白そうだな」
「女の子でサッカーやっているのは私と、五年生のユイちゃんだけなの。でも楽しいよ。コーチはおもしろいし」
侍はふと目を細めて笑う。
「奈緒ははねかえり娘だな。陽子に会わせたら気が合いそうだ」
「陽子って?」
「俺の朋輩だ。机上の仕事に煮詰まると外へ出て兵士と打ち合いを始めるような娘でな。すとれす発散なのだそうだ」
奈緒はおもわず笑ってしまった。侍がストレスという言葉を知っているのも可笑しかったし、その女の子とも仲良くなれそうだと思った。