祈りと沈黙
(2)



薄青い空が広がる、風の強い冬の日だった。

そのとき、トムは恐怖に顔をゆがめて走っていた。
後ろから彼を追いかけてきているのは、ビリーとその仲間の子どもたちだ。先頭に立って追いかけているビリーは、その手に子どもの手にはあまる大きさの鋭い石を持っている。 ビリーはトムよりも1つ年上で体も大きい。追いつかれるのは時間の問題とも言えた。
それでもトムは走り逃げることを止められなかった。怖くて怖くて、しかたなかったのだ。

だが、焦るあまりトムは足元の凹凸に気づかず躓いて転倒してしまう。背後でビリーたちの勝ち誇ったような歓声が聞こえた。

ビリーが大きな鋭い石を振り上げた。
思わずトムはぎゅっと目を閉じる。


──あれが当たったら、きっと痛い…血が出るのかな…
…嫌だ……嫌だっ!!逃げなくちゃ!!!──


「──…っ!!!!」


声にならない悲鳴をあげる。だが、いくら待っても石の当たる衝撃はいっこうにやってこなかった。
それどころかビリーたちの声すら聞こえなくなっている。

「……?」
トムは恐る恐る目を開けた。

ビリーたちの姿はなかった。他の子どもたちもいない。
そこは中庭ではなかった。孤児院に隣接する礼拝堂の中だった。
日曜日やクリスマスのミサの時以外は、たいてい鍵がかかっているはずの場所である。なぜ自分がこんなところにいるのか、トムには見当もつかなかった。

トムは立ち上がり、あたりをきょろきょろと見回す。
毎週お祈りの時間に来ていて十分見知っているはずのなのに、誰の姿もなく しんと静まりかえっている礼拝堂は、彼の全く知らない場所のように見えた。

あたりを見回していたトムの目が、ある一点でぴたりと止まった。

ステンドグラスから差し込む淡い色とりどりの光をうけて、正面には聖母マリアの白い石像が立っている。

トムはしばらく呆然とその石像を見つめ、そのまま足を一歩踏み出した。まるで彼女に呼ばれたかのように、歩を進めていく。
台座に乗ったマリア像は、近くで見るとトムよりもずいぶん大きい。大人の女性とほぼ等身大なのだろう。

彼女の白い顔を見上げる。
どこか遠くを見つめているかのような瞳。柔らかな微笑を浮かべた口元。
その優しげな面差しは、トムが長い間ずっと心に思い描いてきたある女性によく似ていた。
トムの胸が、とくんと小さく高鳴った。
半分の不安と、半分の期待をこめて、彼はそっと呼びかける。

「…お母さん…?」

トムのかすれた声が静かな礼拝堂の中に響いて、溶けるように消えていく。彼は息をつめて、じっと彼女を見つめていた。

奇跡はその後に起こった。
マリア像の顔がゆっくりと音もなく動き、彼方を見つめていた視線がトムへと向けられる。トムを見つめ、その目元を和ませ、彼女は確かにほほえんだのだ。
トムは瞳を輝かせ、歓声をあげた。その声に応えるように彼女はかがみこみ、たおやかな曲線を描く両腕をトムに向かって差し出す。
彼は台座に乗り誘われるままに、彼女の腕の中に身を寄せた。彼女は優しくトムを抱きしめ、彼の髪をそっと撫でた。

白い石の肌は冷たく、人間が持つ柔らかさも、ぬくもりもない。それでも、この冷たい手は、トムがずっと望みつづけ手に入れることのできなかった優しい手だった。怒ったり、叩いたりしない、優しい手。
「お母さん…お母さん…」
何度も何度も呼びかけながら、トムは涙を零す。透明な雫が彼女の白い胸元に落ち、薄い灰色の染みをつくった。


その日から、トムは彼女に会うために礼拝堂によく訪れるようになった。
不思議な事に施錠されているはずの入り口は、トムが扉に触れると音もなく自然に開く。だが、それも石像が動くことに比べたらたいしたことではないのかもしれない。
日曜日の礼拝時、人がたくさんいるときは彼女は微動だにせず遠く彼方を見つめている。彼女が動くのはトムが一人で訪れた時のみだ。
それでもトムは、動くマリア像に対して驚きも恐怖も感じなかった。
「お母さん」
呼びかけると彼女は必ずトムに向かって笑んで、両腕を差し出す。
彼女が自分の呼びかけに応え微笑み、抱きしめてくれる。彼にとってはそれが全てであったし、それだけで十分であったのだ。
その日あった出来事を彼女に話し、辛いこと悲しいことがあれば彼女の腕の中で泣いた。
孤児院の敷地内が自分の世界の全てである幼いトムにとって、彼女のそばだけが唯一の心安らげる場所だった。


成長していくにつれ、トムは自分に他の子どもたちと違う何かがあるということに気づいていった。
彼の身の回りでは不可解な出来事がよく起こった。それが自分の感情と何かしら繋がりがあることに彼は感づいたのだ。
自分には他の誰も持つことない不思議な“力”がある。
いつしか、トムはその力を意図的に使うことを覚えていた。
こうしたトムの変化は、周囲の人間たちと彼の間にある差異を確実に広げていく。 大人たちは奇異の視線を彼に向けるようになり、かつて嫌悪の情をトムにぶつけていた子どもたちはその顔に恐怖をうかべるようになった。
「おかしな子どもだ」と言わんばかりの視線を投げられると、そのたびにトムは傷つき、怒りを覚える。だがその一方で、子どもたちの怯えた表情にはしだいに優越を抱くようになっていった。

自分は特別な人間なんだという思いに囚われた彼は、自らの力に酔いしれていく。

そして、11才になったトムについに転機が訪れる。
ダンブルドアと名乗る教師が彼の元を訪れ、こう告げたのだ。

──君は、魔法使いだ──


「母さん!」
礼拝堂に飛び込むなり、息を切らせてトムはマリア像に駆け寄った。
彼女はいつもと同じように笑顔を浮かべてトムの方を向く。
「母さん、僕、ホグワーツという学校に行くことになったんです」
トムは喜色にその顔を少しばかり紅潮させて話始めた。
「魔法使いの学校なんだって!さっきダンブルドアっていう教授が来たんだ」
さきほどダンブルドアが訪れた時の様子を、トムは事細かに彼女に話して聞かせる。この魔法使いの教師のことを好きになれそうかどうかは、それは否だった。 しかし、その感情を抜きにしても、孤児院の外の世界へ、自分の力がより認められる場所へ行けるという事は彼にとって大きな喜びであった。 これでもう周囲から奇異の目で見られることもなくなるのだろう。

僕は、おかしな子どもなんかじゃない。僕は魔法使いなんだ―…

トムはふと、話一つ一つを頷きながら聞いているマリア像の顔を見上げた。
「母さんは、魔女だったのですか?」
彼女は笑みをうかべるばかりで、縦にも横にも首を動かさない。
トムは長い睫を伏せてうつむく。

魔女だったならば、彼女は生きられたはずだ。
トムひとりを残して、死んでしまうことはなかったはずだ──

もしも生きていたならば…。
冷たい石の手ではなく、柔らかく暖かな手で抱きしめてくれただろうか。
だが、それはどれだけ願っても叶うことのない願いだ。
トムは母の手を、この冷たい手しか知らない。

うつむいてしまったトムの気持ちを察したかのように、彼女は彼の頭をそっと抱えた。
白き聖母の手が、彼の髪を優しく梳いていく。何度も、何度も…。