祈りと沈黙
(1)
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I am GOD’S CHILD
(私は神の子供)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
(こんな場所でどうやって生きろというの?)
こんなもののために生まれたんじゃない
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「トム…」
この世に生をうけたばかりの我が子を抱きかかえて、母親はそっと囁く。
「あなたの名前よ、トム…。あなたのお父さまと同じ名前よ…」
トム、トム、と何度も名を呼ばわりながら、細い腕で赤子をかき抱く。まるで縋りつくように。
語りかける甘く優しい、か細い声は、愛の囁きか、あるいは呪詛のようにも聞こえた。
「…トム、トム…愛していたわ………愛してるわ、ずっと―…」
彼女の瞳から透明な雫があふれ、こけた頬を伝って落ちていった。
数時間後、生まれたばかりの我が子を遺して、彼女は静かに息を引き取った。
「あっちに行けよ!」
孤児院の中庭に子どもの高い声が響く。
中庭には数人の子どもたちがいた。その中で小さな子どもが、追い詰められた小動物のように身をすくませている。5つになったばかりの少年、トムだった。
トムの前に立っているのは彼よりも一回り体の大きな少年で、嫌悪に顔をゆがめてトムを睨んでいた。 周りにいる子どもたちもまた、トムを冷たい視線でみつめているばかり。
「お前がいると、みんな嫌な気分になるんだ。あっちに行けったら!!」
少年は精一杯の怒声をあげて、手に持つ玩具を投げつけた。トムは身をすくませるばかりで避けることもできず、小さな玩具は彼の頭にぶつかった。
怒鳴られたり、物を投げられたりという、嫌悪の感情をぶつけられることはトムにとって今回が初めてではない。これまでに幾度となくあったことだ。 けれど、それに慣れてしまえるほど彼は大人ではない。まだたった五つの幼い子どもにすぎないのだ。
「おまえなんかいなければいいんだ!!」
目の前の少年はさらに大声を張り上げて、怒鳴った。トムは、その声を聞き入れまいと耳をふさぐ。それでも、少年の怒声は頭の中に響いて消えてくれなかった。
なぜ、自分が嫌われるのか、怒鳴られるのか、トムにはわからない。わからないから、ただおびえることしかできなかった。
「ビリー!何をしているの!」
女性の声がその場に割って入った。やってきたのは中年にさしかかる女性で、彼女は子どもたちの様子を見て取るとちいさな溜息をつく。
「…まあ、またトムをいじめていたのね」
「だって、シスター…!」
抗議の声をあげる少年に、彼女は険しい顔をむけた。
「言い訳は許しませんよ。ビリー、こちらにいらっしゃい」
彼女は駄々をこねる少年の腕を引いて、中庭を去っていく。
残された子どもたちはしばらく去っていく二人の後姿を見ていたが、やがて視線をトムに向ける。
誰もがただ何も言わずに、彼を冷たく睨みつけている。
トムはその視線から逃れるように、ひざを抱えてうずくまった。
そこはロンドンのはずれにある、教会付属の小さな孤児院だった。 院長を務めるミセス・コールと、その手伝いをしている女性が一人、そして教会のシスターが子どもたちの世話をしている。
シスターは院内の事務室に少年を連れてくると、椅子に彼を座らせ説教を始めた。
「この前も注意したばかりでしょう。どうしてあなたはトムばかりいじめるの?」
「だって、あいつ気味が悪いんだ」
少年は訴えかけるように、彼女の服の袖を引いた。
「シスターだって、ミシェルとエリックが怪我したの見たじゃないか」
「…あれは、トムが何かしたわけではなかったでしょう」
静かな声で諭されても、彼は聞く耳を持たない。椅子を蹴り上げて立つと、声を荒げた。
「でも、ぜったいあいつのせいだ!あいつが何かしたんだ!」
地団駄を踏みながら、少年の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「あいつはみんなと違う。“ふつう”じゃないんだ!」
その顔は、どこかおびえているようにも見えた。
この少年の言う“ふつう”じゃないという感覚が、彼女はわからないわけではない。長年様々な子どもたちを世話してきたが、その中でもトムは特異な子どもだった。
普通の子どもではない。他の子どもたちと決定的に何かが違う。けれど、その“何か”が何であるか、彼女はうまく言葉に表せなかった。
しかし、子どもたちはそうした差異に敏感だ。それ故、トムの存在は子どもたちの中でいっそう浮き立つことになる。
シスターは重い溜息をひとつついて、窓の外を見やった。窓から見える中庭には、今はもう子どもたちの姿はほとんどなく、ぽつんと一人うずくまる小さな後ろ姿だけがあった。