『流れるも姿無き時の置き土産』
田中 義一
元グワンヤ英会話学校(瀋陽市)日本語教師
元瀋陽大学外国語学部日本語学科日本語教師
元瀋陽薬科大学日本語教師
第1章 世界流鏑馬大会は我が町で(2022.10.15-16)
或る道で数々の試練を受け、人生の真理を肌で学んだが故に、それが心身に染み込んで行った人間のお顔は清々しく、晴れがましく、それを目にする者も、その身が清められる思いがする。これは、その最終日に、私も斯くの如きの妙技を身に付け、あの様に全うに生きたい、と羨望の眼で競技者に見惚れて感じた事だった。
我が町十和田市は、戦前戦中を通じ軍馬のメッカとして、その名を全国に馳せた。私の母校の三本木中は、今は3度目の新築をされたけど、当時はその馬小屋を改築して作られた校舎だった。その長い廊下は、雨天時や真冬には陸上部の格好のマラソンの練習場となった。ちなみに、幼少時には馬肉は今と違い格安の値で手に入り、その馬肉鍋を機会有る事に賞味したものだったけど、その由縁も有って、上記の世界流鏑馬大会が年に春、秋と2回開催される様になった。その起源は、ある殿様による豊作の祈願に有ったと言われているけれど、現今のコロナ禍では、様々な祈りのために開催されている様で有る。
この様な競技であるが、そのルールは他のスポーツと違い、一般的には分かりにくい。簡単に言えば、百メートル前後の疾走コース間に、3つの的をある間隔で並べ、それを馬上から射る競技である。的に当たれば10点で、当たっても跳ね返れば、鎧に跳ね返されたと見なされ無効。そして、その合計点で争われる。それに差が無い場合には、規定の制限時間内でやられているか、またはそのタイム差で順位を決める。その時間は、初級、中級、上級、プロ級と級が上がるにつれて短縮される。↗️
この様な競技では有るけれど、ただ見ていると普通にやっている様に見える。でも、そこまでなるには、約2年の修行が必要だそうだ。いやはや、どの道も長いなぁー、とため息をつく日だった。
さて、実際の競技を見てみると、晴れの舞台と言う事も有って、皆さまは神に仕える神官、女官の様な衣装を纏い、艶やかな姿となって登場して来る。でも、聞けばその衣装は店頭で購入した物ではなく、色々親戚縁者等の衣服を縫い直し、手を尽くし繕った物だそうだ。だが、ナポレオンによれば、『人は着たまんまの通りになる。』と言う。これは、当たっていた様で、まさしく彼らはその一瞬、神官女官と成り得ていた(さすがはナポレオン!)。その時間は、神がかり的な所も有ってほんの9~15秒前後で有る。
異色の射手に、三沢米軍基地のネルソン・テナイヤさんと言う若き女性射手がいた。いつか、外国人射手と2ショット写真を撮りたいと思っていたけど、今回それに成功した。彼女の疾走は女神の如くで、中級で1位になった。まるで、そこから神風が吹き流れて来る様で、現今のコロナウイルスはその流れを受けて、じわりじわりと彼方へ押しやられる様であった。そして、その功が奏し始めている様で有る。
はたまた御年78歳の男性射手もいた。その矢射るは軍神を彷彿させ、年齢は吹き飛んで行った感じだった。努力は、邪魔をしようとする物を吹き飛ばし、その者に何かを身に付けさせようとする様だ。いやはや、何とも言えぬ甘味な雰囲気が漂っていた日だった。
第2章 お釈迦様のお招き
三十数年近くに渡る数回のタイ紀行において、いつもその電話番号を探しても分からなくて、もう会うのは諦めていた方がいた。が、やっと今回の旅の準備の過程で、奇跡的にそれを探し当てた。そのお方は、1回目(この時私は32歳、彼は37歳)とその5年後の2回目のタイ行きでお会いし、その後音信不通となっていて、この新日本語クラブでも過去に登場したスラサック先生(現73歳)である。31年ぶりである。
お会いした時は、副校長後、元工業高専校長(7年勤務)として勇退していた方で、その後も最近まで某ビジネス関係の重鎮で有ったので、随分御出世なさりましたなあと思い、私等は近しくなれる身分では無いと内心びくびくだったけど、また、うれしくも有った。そして、それが雪崩現象的に旧知の方々と出会えるきっかけとなって行った。その中のお一方に、1回目にお会いし良くお世話になった、先生の同僚の工業高専女性講師(英語)のポンティップ先生がいた。当時は26歳だったが、今回は62歳になっていて、定年後は職業訓練関係の教育に携わっていた。タイの東大のチュラロンコーン大卒のエリートだった。こちらは36年ぶりである。
1回目のタイ紀行以降しばらく文通していたが、途中から途絶えてしまった。途絶えた理由は、2回目の紀行でスラサック先生から知らされたが、女史が結婚したからだった。だから、まさか先方からお会いしたいと言って来るとは思わなかった。文通時は、『田中さんが結婚したら文通はやめます。』と言っていたくらいだったから。今回のタイ行きには驚いていた様ですけど、こちらは、今回の女史の私に対する親密度が予想以上に濃かったので、それに驚いた。しかし、離婚なさっていたと後ほど分かり、残念な気持ちとなる。それにしても、36年も経つのに私を忘れないとは・・・。虎の威ばかりを借りた虚言虚勢の目立つ、見掛け倒しの私の何が気に入っているのだろう。1回目のタイ紀行で一緒に撮った写真をその帰国後に送ったが、まだ持っていた。今回再会した後は、常にハンドバックに入れていると、今回の帰国後に聞いた。また、その1回目の時に、お土産として差し上げた真珠のネックレスを、イミテーションでは有るが、まだ一部を今有るネックレスに取り込んでいた。
それでは、以下、日程を追って今回の旅の詳細を述べて行こう。しかるに、1回目のタイ紀行は、4年前に天国に旅立った母が私の金沢大博士課程合格のお祝いとして、私へプレゼントしてくれた物だった。でも、それまでタイについては、タイの“タ”すら頭の中に浮かぶ事は無かった。しかし、幼き日に白黒テレビで見た、タイを舞台にしたユル・ブリンナー主演の『王様と私』の映画の最後のシーンで、タイの子供達が言った『アンナ先生(デボラ・カー演ずる)、私達を闇の中に置いて行かないで。』と言うセリフが、何故かその年まで妙に心の奥の中に残っていた。そのせいか、誰かが私を招いた見たいにタイ行きとなった。このお方は、お釈迦様?
第一節 一日千秋の思い(2月26日日曜日)
この日の前の夜は、三沢19:25発、羽田20:50着の日本航空で東京に着いてから、西川口駅前のビジネスホテルに宿泊した。実はこの夜、羽田空港着陸寸前、機は急上昇を開始し旋回を始めると言う、とんでもないハップニングに見舞われていた。直後、『機は、強風のため着陸のやり直しを致します。』とのアナウンスが有った。一時、三沢空港に引き返すのかと不安になったが、どうにか左右にダッチロールしながら着陸した。
いい事が有れば邪魔する物も現れると言う、いつもの私のジンクス再び。実に私の占い師の予言が当たる。また、ちなみに着陸のやり直しに出会ったのは、これで2回目。1回目は、新日本語クラブでも記したが、北京空港からモンゴルのジンギスカン空港に行く時。当地がこれまた強風のためだった。この時は北京のホテルに宿泊させられ、翌日出立。
とにかく、タイでもまた有るかも、と当日のそれにやきもきしながら、翌朝、10:35発のタイ国際航空の機上の人となった。でも、回数を重ねて来たので、機内で以前の様に興奮冷めやらぬと言う事も無く、ごく自然体で着陸を待った。が、スワンナプーム空港着陸後、乗客の多さも有って、空港内での待ち時間がいつもより長く、また、待っているはずのタイの友人も中々見え無かった。
だが、出口を出て通路を往復している内に、妙齢の若きタイ女性のお二方が、「タナカさん、スラサック」とカタコトの日本語で声を掛けて来た。スラサック先生の長女(46歳)、次女(41歳)だった。この方々も36年目。そして今年お二方は、目出度く御結婚の運びとなっていた。また御長女は、1回目のタイ紀行での私の歓迎会で、先生の家の庭先で踊りを披露してくれたけど、それを良く覚えていて、「ここが踊った場所よ。」と翌日指さして私に語っていた。いやーっ、よく覚えていたね。とにかく、お二方の後を付いて行くと、ついにスラサック夫妻、ハッサチャイ先生とその御家族に再会した。ポンティップ先生もいらっしゃった。
この後は、先生方のそれはそれはデラックスなお車に乗り、バンコク市内の優雅な水上レストランへと御案内された。この時、また先を越されてしまったとの思いが脳裏を過った。しかし、水辺でいただいたタイ料理は格別で、憧れていた本場のタイ料理を満喫する事が出来、夢心地となり、その焦燥感が消えた。あ~ぁ、タイはいつ来てもいい。
第二節 巨星は輝き続ける
真夜中に空を見上げ、流れ星が,ヒューッ、と落ちて行くと邪推が脳裏を過る。最近はあまり意識して見ないが、タイ行きを決めてから、そんな光景を想像しながら旧知の方々の消息が気になっていた。
この日の夜は、実は、私はスラサック先生の、今は氏の妹さんが管理しているバンコクの亡き御父母の御自宅に宿泊させてもらった。1回目のタイ紀行で泊めてもらった所でも有る。が、あの日の先生の慈父(当時小学校校長)、御母堂(主婦)、親戚のウイナイ先生(デザインの大学教官、当時ここに日本の海外青年協力隊女性隊員のルナ先生(当時26歳ぐらい)が派遣されていた。専門は織物。
この時、スラサック先生の妹さんから、『ルナは、どうしているの?』と聞かれたが、『分かりません。』と答えてしまった)は、それぞれタイの星となっていた。また、1回目のタイ行きでの歓迎パーティーに来てくれた航空会社勤務の伯父さんも、タイの星となっていた。御父母については事前に知らされていたけど、後者のお二方は当日知らされた。ウイナイ先生は脳腫瘍の手術の後遺症で意識が亡くなり、10年の寝たきり後に65歳で他界。もう一方は脳卒中で最近まだ若くして他界。いずれにせよ、私より若くして星となる。
ついでに、ハッサチャイ先生の妻の弟さんも、昨年肺がんで亡くなったと後で知らされる。彼は、私より若干若く過度の喫煙、飲酒をする方だった。前記のお二方も飲酒が過ぎた様だった。スラサック先生の母は昨年92歳で、父は過日80歳でお亡くなりになられましたけど、これはお釈迦様のお招きが有ったからだ。他の方々は、若さに任せて不摂生な生活をしたための様に思われる。ここで付け加えて、1回目のタイ紀行でお会いした、スラサック先生の奥さんの母も他界していた。
いずれにせよ、日本の習慣に従い御香典を供えてタイ式の遺影に向かい、合掌して来た事は言うまでも無い。それでも、何とも言えない気の重い時間ばかりが過ぎて行き、俺は何しに来たのか、そして一瞬、これは弔問外交では無いのかといぶかった。そう思いながらも先生の妹さんの豪華な部屋で、ハッサチャイ先生と共に旅の疲れも有って直ぐ眠りこけてしまった。それにしても、昔日の喧騒感は無く寂しさばかりが漂っていた。
第3章 タイの高等放送教育
第一節 お初のベッチャブリー市(2月27日月曜日)
翌朝は、氏の家の近くの中国風のレストランで朝食を済ませた後(これもまた格別)、バンコクから南方に、約80kmのベッチャブリー市に有るスラサック先生の御新居へと、向かう事になった。車で約3時間の行程だった。ついでに、その席で1回目のタイ紀行でお会いした氏の弟さん(当時留学予定の大学生)は、現在、タイの某大学の教授でいらっしゃる事を知らされた。並みの能力、努力では到達できない出世コースで有る。さて、その食事後、氏のお車で出発した。バンコク市内の渋滞は有名であるが、それを実体験しながら周囲の景観に見入り、異国に来た事を実感し続ける。途中、ポンティップ先生がバンコク市内で合流した。
昼過ぎに当市のタイ湾の海岸の観光地に着いたが、人影もまばらでコロナ禍の影響が感じられた。小生は、水泳と魚釣りに意気込んだが、波風が強く、また、2月下旬はまだタイでは暑さの盛りではなく、涼しい感じがした事も有って断念した。タイでは、4月が一番暑いそうだ。その後、一路先生の家へ向かったが、途中色々な所に寄ったので、夕方に市内に着いた。そのため、そこでの屋台風のレストランで夕食を御馳走になった。その時、その市内の中を行き交う人々を見ていると、1回目のタイ行きで見たタイ南部のナコンシータマラート市の夕暮れ時を思い出した。バンコクと違い、地方都市には昔の時代の名残がまだ感じられていた。そんな事を考えながら、先生の新居へと向かい、暗闇の中のそれに行き着いた。まるで、宮殿見たいな家だった。
先生は人生の勝利者となっていた。そして、先生からは、「明日は、ホワヒン市のテレビ局へ行くから正装をしてくれ。」と言われたので、さもありなんと持って来た、これも、36年前にバンコクで高値で買った、シルクの絵柄の有る半袖シャツを準備して置いた。いやー、シルクは長持するね。でも、明日の何やら分からぬスケジュールに心が落ち着かなくなった。そう言う事も有って、タイの習慣の一つである晩のシャワーも浴びず、就寝した。
第二節 スターウォーズの宇宙基地(2月28日火曜日)
翌日はとんでもない、雲の上の日だった。私が来ると言う事で、それの準備もしていたとは、事が終盤になった時に知らされた。まずは、朝、私がタイの黄色いごはんのカーモッカイが好きだと言う事で、スラサックさんの奥様がその朝食を作ってくれた。他の料理も出て、何とも言えないタイ料理のうまさを堪能した一時だった。
さてこの後、例の場所へと向かう事となった。あの陸路の東海岸沿いのホワヒン市に有る、先生のいた工業高専付属の遠隔学習放送局に御案内されたので有る。そこに入館後、見る度毎にスターウォーズの宇宙基地と見違える程の内観に、驚嘆ばかりしてしまった。御案内人は、スラサックさんの後任の女性校長先生でしたけど、もちろん、そのタイ語は分る訳は無かったけれども、何とも言えない気品の溢れる方だと思った。他のスタッフの方々も、映画のスターウォーズに出て来る俳優,女優と見まがう出で立ちだった。↗️
お伺いして見れば、これは農村地区等、学習困難地域への学童へ当校の授業を配信し、教育の普及拡大を狙う事業だと言う。いまだ進学率の低いタイでの、利口な政策だと感心した。
また、タイでは日本語の需要は少ないが、それでも日本語の科目も有るとの事だった。聞けば、前プミポン国王によって発足され、現国王によって運営されているとの事。タイ王国の威信をかけたプロジェクトで有った。
こういう雲の上の所に、この世界に関する実務経験も、その能力も無い私の様なおっぱかバカが、何故招待されたのかと不思議に思い、ただただ、顔で笑って心で泣いての時間を過ごしていた。会議室では、私はお客と言う事で、中身は空っぽでも議長席に座らされたけど、まんざらでも無かった。地下の底ばかりを歩いて来て、社会的にこれと言った活躍も貢献もして来なかった。
そして、自信過剰でプライドだけで生きていると非難されて来た私には、一瞬の栄光の時間だった。いわゆる、“一日校長”だったのだ。↗️
その時、前プミポン国王の歴訪の御様子のビデオを上映してくれましたけど、タイトルに”ようこそ”が添えて有った。初めから有ったのかなと思っていたら、「田中さんのために、あの先生が作成した日本語ですよ。」と声が掛かって来た。即座に、その先生に、「クン プーツ パーサージープン ダイマイ(日本語が話せますか)?」とタイ語で聞いたら、「いいえ、何も。」と御謙遜のお答えが返って来た。タイ人は本当の事は言わないと以前聞いていたが、ホントは上手いのだろう。とにかく、タイ語の説明は何も分からないので(でも、友人の英語で要点を把握)、ただの傍観者を地で行ってしまったが、昔のタイを知る私にとっては、日本はひょっとすると部分的に遅れを取り始めているのではないか、と思わせられた見学の一日だった。
この日の昼は市内の屋台風食堂で、校長先生主催の昼食会となった。スタッフの方も付き添われ、庶民風のタイ料理に舌鼓を打った。一流の方々ばかりなのに、不思議と肩が凝らずゆっくりと昼ごはんを楽しめた。その後、次の予定地に向かったが、途中、かなり凝った感じの建物と思われる喫茶店に立ち寄り、一服する事となった。どう言う訳か、こう言う機会に追随者のポンティップ先生は、親しげに私に話しかけて来るのだった。最後の最後まで、こういう姿勢が止まなかった。私の何が気に入っていたのだろう。この年になるまで、日本人女性でさえ全く縁が無いと言うのに。
昔、文通していた時は、私の好きな所を言ってくれて、『あなたの小さな唇が子供みたいでかわいい』、とは言ってくれていたけど。その英文体は、川の流れの様な流麗なタッチ。小生のは、良く言って丸っこく、が、機械がおしゃべりしている様な感じで、とはアメリカ人の評。ホントは、開拓地で生まれ育ち荒野から抜け出して来た様な小生如きは、確かにやる気は有るとは言われていても、いつもピントがずれて低能で実力も無く、不格好で人間的な魅力に欠け、おまけに不器用な男との評なので、こう言うタイを代表する様な才媛とのタイ日交流には値しないのである。
まるで、映画『美女と野獣』の雰囲気がみなぎる見たいだけど、それ程の気品のない小生には、その内、それとは正反対の結末が待っている様な気がする。とっ、ここでまた、青森放送テレビの『世界一受けたい授業』で、ディズニーのアニメ『美女と野獣』の一部の放映が目に入る。噂をすれば影か・・。この稿に協賛しているみたい。
とにかく、さらにその後、ホワヒン市内のデパートに立ち寄った。ここで日本に持ち帰るお土産を買ったけど、ポンティップ先生からは、「お土産をあげる人がたくさんいるんですね。」と言われた。また、スラサック先生の奥様が、1回目のタイ紀行で、皆でバンコクのワニのショーを見に行った時、外国人は高額の入場料を取られるので、私はそれを取られない様にタイ語でタイ人だと言えと言われ、それを繰り返しても、それを取られた事などが後に笑い話になった事等を話していた。その時、36年前の事を良く覚えているなあ、と思ったりして、この後の18:00からのスラサック先生の御友人の夕食会への招待までの時間を潰した。
第三節 ローングロッホ博士との夕食会
その時間が来たので、先生の友人のローングロッホ博士が支配人の、ホワヒングランドホテルでの夕食会へと向かった。そこは、タイの像の鼻状のマレー半島東岸に位置し、タイ湾を望むホワヒン市内に有った。博士の御招待だった。そして、そこは巨大なビルディングだった。しかし、博士は、それからは想像も出来ない小柄な方だった。聞けば、博士の娘さんはその内東京マラソン大会に出場するとか。また、御子息は米国のMITを出て、Google社に勤務とか。名士の方だった。
とにかく、それは壮大なホテルで、その屋上から東海岸側に穏やかなタイ湾が一望出来た。さらに、また聞けば、この東側遠方に小島が有り、そこで釣りが出来る所が有るそうだ。しかし、ある程度の船をチャーターしなければならない様だけど、もしチャンスが有れば挑戦し、今回出来なかった雪辱を晴らしたいと思う。私は、ただただ遠方ばかりを虚心坦懐とは言わず、未だに人生が上手く行かないもどかしさで、見つめていた。
そうこうする内に宴が始まり、女性校長先生も交えて、これまた破格のタイ料理を前にして、歓談が始まるのだった。そんな中で、時々無作法な私の所業をカバーするかの様に、博士は助けてくれた。例えば、お隣に着席させて頂いたとは言え、ナプキンを床に落とすと、私の代りに拾ってくれて丁寧にたたみ、テーブルに置いてくれた。地位におぼれずおごらず、高慢な方ではなかった。だから、従業員の皆さんは彼に付いて行き、彼を、そのホテルを、支えようとするので有ろう。
ホテル勤務の経験も有る私には、その大変さが良く分かる。それにしても、なんでこんなに目もくらむ様な歓迎を、私は受け続けているのだろうか、と疑問ばかりが頭の中を駆け巡った。私は、タイ国に少しも貢献していないのに・・・。驚いた事に、ここで隣に居座ったポンティップ先生は、私の皿に料理の一部をスプーンで運んでくれていた。
そうこうしているうちに、宴がカラオケの共演と共に速やかに終わり、一路、スラサック邸へ帰宅する事となった。着いた時は、闇夜がすでに周囲を襲っていた時候だった。それまでの道中では、途中の暗がりの中のロマンティックに赤光する町の街灯に、タイは進歩したなあー、と心の中でつぶやいていた。そして、明日はこの先生とは早くもお別れなのだと。
第4章 胸に歓喜を秘めて (3月1日水曜日
この日は朝4時の出立となった。列車でバンコクに戻る予定だったが、諸事情により、スラサック先生が直々にお車を運転して下さる事になった。ポンティップ先生も御同乗してくれた。朝早かったので、朝食はバンコクのドライブインでおごってもらった。うまいの何のって。無心の境地となる。小ぎれいな所だった。「タイ パッタナー クン(タイは進歩しましたね。)」とスラサック先生にその場で言ったら、「コープ クン(ありがとう。)」の御返事が帰って来た。
その後、忘れ物を先生の妹の家に取りに行った後、今度はハッサチャイ先生の御自宅へ向かう事となった。明日のスケジュールに合わせて、今日は安息の日とした。途中までスラサック先生とポンティップ先生にお車で見送ってもらった。お別れ間際に、ポンティップ先生は「日本に帰る時は、空港までお見送りに行くわよ。」と言ってくれた。その後は、電車とタクシーを乗り継いでハッサチャイ先生の御自宅へと向かい、そこで終日、明日の次なる出会いの方がいるナコンサワン市行きに備える事となった。
ところで、ポンティップ先生は前記の様にエリートで有り、お父様も裁判官、親戚縁者にも法曹界の方が多く、そのせいも有って、生まれも育ちも御立派なお嬢様で貞淑な方で有られ、しかも、自分と言う物をお持ちの方だった。だから、御結婚なさったとお伺いした時は、さぞ幸せな人生を送っているだろうなあ、と思っていた。が、同僚だったエリートの前夫と20年前に離婚していた。
理由はプライベートな事なので割愛して、これを耳にした時は、こういう上流階級でも、『人生に方程式は無い(森鷗外)』と言う事が有るのかと悔しい気持ちになった。ちなみに、知識人は確かに社会への貢献度に優れ、がために、その賞賛こそ浴びて然るべきだが、時には、その最高峰に位置していても、その仮面を物怖じもせずに拭い、知性と倫理は一致しないと言う事実を平気で見せつける時が有る。これは、その道への過程で努力し過ぎて、一般人が普通に見聞きする物に出会えなかったためと思われるが、しかし、私等も、その挑発の火の粉を被りそうになり、柔の“地獄攻め”の構えで(単刀直入で芸、思慮不足?)、と堪忍袋の緒が切れそうになった時も有った(PTSD・・・)。
それはさて置き、今は、30代の息子、娘と暮らしていて、辛いけれど楽しい生活をしていると言う。また、この日、ハッサチャイ先生の御長女の旦那さんとも、初めてお会いした。38歳ぐらいとかだと言うけれど、いれば私の息子ぐらいで、凄みの有る青年だった。翌日、この方から、バンコク駅まで自家用車で送ってもらい、そこからハッサチャイ先生とナコンサワン市に向かった。この夜は、ハッサチャイ先生の御自宅で眠りに就いた。ついでに、この旅の2か月後、米国ミズーリ州のカンザスシティーに住むアメリカ人が妻の御長男に、2番目の孫が誕生すると言うお目出たが、小生との一時後、渡米した彼を待っていた。
第5章 いとしの母国タイ
第一節 見まがう異国の人(3月2日木曜日)
あの方は本当にジンタナさんか・・・。正直、彼女の町のナコンサワン駅で再会してから、いまだにその思いが消えない。しかも、そのお名前もパッキニーと言う名に改名していた。聞けば、20年前に悪い事が多かったので相成り、その後は順調になったと言う。とにもかくにも、最初お会いした時は、私は32歳、彼女は修士号を持つ28歳の妙齢の女性だった。しかし、今回は64歳で(私は68)、夫に癌で先立たれた寡婦になっていた。一人娘はまだ22歳の法学部の大学生だと言う。どうやら高齢出産の子だった様だ。
今は定年後、近くの大学で非常勤講師をしていた。しかし、それでも御立派な家に住み、高級車を乗り回す悠々自適な生活をしていて、ここでもまた見せつけられ、私は先を越されてしまったと再度落ち込む。それにしても、何と御立派な御婦人になられていた事か。小生の様な粗品は、お付き合いに値しないのである。
ところで、この日の朝は、ハッサチャイ先生とバンコク駅発の急行列車で、北方のナコンサワン駅へ向かっていた。時間にして約2時間、距離は240kmの所だった。異色だったのは、機内食ならぬ車内食が2回に分けて出た事だった。でも、普通車では出ないそうだ。日本ではない事だ。さて、そこを降車後、先生のお車で市内に繰り出し、夜更けまで色々な観光名所へと案内されるのだった。まずは、市内のオープンレストランで昼食を御馳走になった。その後、即、先生の高貴な御自宅へ招かれ、小生はその床を汚す輩と化さざるを得なかった。そして、図々しくも先生からお土産を進呈されるのだった。しかも、これに留まらず、後にも色々とデパートで買ってもらうのだった。その後、先生宅でしばらく過ごさせてもらった後、市内の高名な寺院に繰り出した。例によってタイ人の習慣で有る寺院内での礼拝を欠かさず行う。ここを済ませた後はデパートへ買い物にと、時を繋いだ。更には、中国人居住者が多い事も有って、中国風竜御殿の有る公園への夜の散策に入って行った。夜食は市内の屋台店で、タイらしい雰囲気を味わいながらだった。ホントはビールも飲みたかったが、血圧を考慮し断念。その後、午後に予約の確認をしていたホテルに向かい就寝。何とも高級なホテルを宛がってくれたものだ。VIP気分となった。
第二節 タイの母なる川―チャオプラヤー川の源流(3月3日金曜日)
この日のホテルのバイキング形式の朝食は、抜群ね、と思いながら、まずは、この日の朝食に励まされて、パッキニー先生ご計画の御行程によるナコンサワン市郊外への観光に想いを馳せるが、詳細は分からずじまいだった。とにかく、朝食を済ませた後、待機していた先生のお車に乗り、出発進行と相成った。向かった先は、タイの母なる川、チャオプラヤー川の中流域に有る観光地だった。
名前は分からないが、私には珍しい所ばかりで、そこに行く前に、しばらくしてから、釣り堀の沼が有る簡素な休憩所に立ち寄って、コーヒーを飲みながら話に弾んだ。そこで、先生は「どうして結婚しなかったんですか。ハンサムなのに(ホント?日本人女性は、小生に時々そっぽを向くと言うのに。外人は得てしてお世辞がうまい)。」と聞いて来た。そりゃー、色々あらーな、と言いたい所だけど、実際は収入の安定した職に就けなかったからだ、と釈明して置いた。が、実際は、今だに伴侶が現れないからだけど。
とにかくその後、前記のチャオプラヤー川の有る観光地へと向かった。そこは、1回目のタイ行きで見た大型船も航行するバンコクのそれ(1回目のタイ行きでは、その川辺の屋台で豪華な昼食パーティーの招待を受けた)とは違い、日本の中流域でも見られる普通の流れの川で、2河川(ピン川とナーン川)の合流地点の所(ここでその名に変わる)に観光スポットが設立されている所だった。大河も最初は小さな川だったんだなあ、と何かの暗示に出会った気がした。そこには、鑑賞用の昇降階段付きの屋根付きトンネル状の通路が有って、川全体が見れる様になっていた。そして、昼頃までいて、その後市内の屋台店で昼食を取る事になった。その後、ナコンサワン駅に行って、そこからバンコクへ帰る事となった。
例によって、急行列車内では車内食が出た。楽しい時間は、あっと言う間に過ぎ去る物で有る。だが、女史とは今はLINE仲間となり、タイ日交流の一役を担っている。バンコクの先生の家に戻ってからは、彼の妻と夜更けに話しもした。その時、彼女の弟さんが昨年天国に行った事を知らされた。
第6章 帰国は“宝”と共に(3月4日土曜日)
第一節 タイの星は胸の中で
前記した様に、ハッサチャイ先生の妻の弟さんも、昨年肺がんで他界して いた。私と同年代の方で、昔、直に、またお電話で話した仲だった。最後まで独身を通していた。気さくな方だったのに。
そこで、そう言う事も有って、この日の帰国日には、彼の住んでいた団地の近くの屋台店で昼食を取る事にした。形を変えた彼への慰霊だった。どうやらヘビースモーカーが祟ったようだ。その後、買い物のため市内の中心部のお土産店に急ぎ、所要の品を手に入れ帰国の準備を整えた。
この日の夕方は、23:15発羽田行のタイ国際航空に乗るため、ハッサチャイ先生のホテルに出勤する御長女運転のお車で、スワンナプーム空港へと向かった。翌日、羽田空港6:55着のTG682便に搭乗するためである。ちなみに、この機には搭乗口からでは無く、場内をシャトルバスで向かったが、真夜中の暗がりにうっすらと浮かび上がっていたその機は、かつて見た、まるで航空関係を題材にした、ゾンビ風タイ映画のシーンその物を彷彿させる出で立ちで有った。慰問の多かった今回の締めくくりに、まるで冥途の旅路へと案内している様だった。とにかく、まだ搭乗まで時間が有ったので、空港内のレストランで夕食を御馳走になった。この時、わざわざ、夜の女一人歩きの危険を承知で見送りに来てくれて、隣に居座ったポンティップ先生は、最後の最後まで親し気だった。が、このポンティップ先生にも、後日、この旅の一か月後に、ご母堂の他界と言う悲運が待っていた。敗血症だった。御年86歳。この稿を奏している時、LINEで御連絡が有った。
この様に、今回の旅は予想外の悲喜こもごもの出来事が有ったが、内心、私はと言えば、社会的地位の安定している諸先生方と違い、未だにジタバタしている状態に焦燥感を感じていた。そんな事を帰国した後も考えている内に、『いくつになってもジタバタしてていい!』(朝日新聞「ひらり一言」:インテリ歌手加藤登紀子)と言う言葉が目に入った。後で落ち着くと励まされはするが、やはり、精進するしかあるまい。今回は、この様に今一度兜の緒を締め直した紀行だった。
第二節 我が旅人生に悔い無し(3月5日日曜日)
さて朝方に羽田に着き、その後、10:35発、11:55着の三沢空港行の日本航空の機上の人となる。羽田は、しばらく垣間見ていなかったので、その諸手続きのデジタル化には目を見張ってしまった。いつも離陸後に、機上から日中に見下ろす北部日本は荒野見たいで有るけれど、今回は冬の白景色となっていて、サッパリしていた。しかも、ジンクスの様に別れを惜しむ雨模様ではなく、快晴で有り、今回の旅に関して何かを暗示している様だった。今後、諸事情により海外旅行が出来なくなっても、悔いは無いとの思いを助長するかのようだった。
人生をやり直した直後の1回目のタイ紀行から、あぁ―っ、36年も経ったのか・・・。でも、あの日が再び返って来たのだ。信じられなかった・・・。が、今だに人生の低空飛行をしている私は、大空高く舞い上がっている同期の方々を見上げているばかり。私はと言えば、これから老骨に鞭打ち、舞い上がらねばならぬので有る。そのためには自己の弱点に気づき、そしてそれを素直に認めかつ補強して行く作業が必要なのだ。そうしないと、三沢米軍基地の滑走路で、有事に備えてその翼を休めているFギイチ戦闘機は、部品不足のためしっかりせず、高く舞い上がる事はあるまい。そして、行く手を阻む人生の難敵をも撃ち落とせまい。
それでは最後に、今一度、タイの星になられた友人の方々の御霊に合掌し、この稿を終える事にしよう。目頭が熱くなって来る・・・。ワーイ(合掌・・中道先生にも・・・)。
後記
現在、勤務している三沢米軍基地では、日本人も入れる飲食店が有る。そして、ドルも円も使えるけれど、ある日、アメリカ人専用の『エキスプレス』と言う名のスーパーで、日本人も買えるコーナーに行き、その昼下がりにホットドッグを購入し、レジに向かった。でも、いつものドル札が無くなったので、その時だけ円で支払おうとしたら、レジ係のアメリカ人は、「ここではドルしか使えない。」と言って来た。私はその事は知らなかったので、一瞬まごついて、英語で「What shall I do?」と言ってしまった。そうこうする内に、思案にくれている私に気が付いた、もう一つのレジに並んでいた中年男性の外人さんが、「私がプレゼントしてあげる。」と言って、私の代りにドルで支払ってくれた。私はすぐ様握手して感謝したけれど、実にびっくりする事2度。地獄に仏とはこの事かと思い知った。
実は、中国でも似た様な事に出会っている。今度は自慢する訳ではないけれど、私があの外人さんの立場見たいになった出来事である。ある日瀋陽の、とあるバス停で待機していた所、隣に立っていた中国の御婦人が、おもむろに私に寄って来て、「この周囲のお店に両替のお願いに行っても、どの店にも断られてしまった。もし、良かったらお願い出来ますか。」と言う意味に取れる中国語で、私に語りかけて来た。その時、運良く1元硬貨をたくさん持っていたので、即座に両替出来た。そして、その御婦人は対面のバス停に移り、その後速やかに来たバスに乗り帰路に就いた。どうやら紙幣しかなく、バスに乗るのに手こずっていて、これでは家に帰れないと不安たらたらの御様子だった。私は、『いい事をした』と内心得意げに成り得た出来事だった。
本物の神は、慈悲深く、いつも人間世界を天から見守って下さっていて、人々が困窮状態に陥れば、一瞬ある人間に乗り移り当該の事をさせる様で有る。
事のついでに、上記の様な海外の方々との交流のきっかけを作っていただいた、弘前大学国際交流委員会及び瀋陽日本人教師会の諸先生方に、この場をお借りし感謝申し上げたいと思います。また今一つ。今回の旅の予約は、その6か月前だったので格安航空券で行けました。これは、意に反し、米軍基地の上司の沼山浩司さんと言う、英語のペラペラなおじさん(50歳)が、ストレス解消のため昔年のタイに行って見たら、と渋りがちな小生の背中を後押ししてくれたからでした。おかげ様で、海外の皆様とのお付き合いで得た物は、この人生、何の功も無かった、プライドだけで生きて来た私への目には見えない、私には過ぎた人生航路上の“宝”となりました。
思うに、時は非情にも流れ去り、しかも、人間の様に姿、形は無いが、愛くるしい人間には、物も言わずに結構な置き土産を置いて、流れ去って行く様です。でも、1回目のタイ紀行では、まだ目は上向きに遠望していたけど、上記の様な体験をして来ると、6回目では、“終わりましたなあ・・・。”の感じがして来ます。(まだまだよ!:外野)
(完)