熊大の安保闘争
益田 豊
益田 豊
5月になると,熊本は新緑が目にしみる快い陽気となった.熊大の東光原にも明るい日差しが降り注いでいた.遠くから安保反対のシュプレヒコールが聞こえてきた.昭和35年は米国との安保改定の年であった.朝鮮戦争は休戦となったが,米国とソ連以下共産圏との冷戦は,年を追って本格化し東西二つの陣営の対立が激しくなってきた.
米国は極東政策を強化するために,日本の再軍備を画策してきた.吉田内閣は憲法を盾にして,のらりくらりと軽装備の工業化政策をとってきた.米国は扱いやすい岸信介を A 級戦犯から政界に復帰させ,日本の右翼を使って法(原稿は竹冠に伝)外な戦利品を岸に渡して保守合同に成功し,何と岸内閣を発足させた.米国のダレス国務長官は岸に安保を改定して三十万の陸軍をはじめとする軍備増強を要求してきた.
これに対し岸内閣は逆にこれを利用して,自衛隊の増強と軍需産業を中心とした重化学工業の復活を目指した.日本は既に朝鮮戦争をきっかけに,鉄鋼機械電気化学など重化学から裾野の広い中小企業に至るまで急速な復興を遂げていた.平和な日常が続き,なんとか食料事情も良くなって,今更米国が要求する再軍備特に陸軍30万など到底受け入れることができないというのが国民感情であった.ふとその日のラジオ放送と新聞の見出しが思い浮かんだ 「声無き声は私を支持している.一部の反対者が騒いでいるに過ぎない」 岸信介の談話である.
岸信介は,満州の重工業化を成し遂げたと事ある毎に吹聴した.調子の良いマスコミは何の検証もせず, 一高 東大卒の秀才官僚で,戦前の満州は彼の傑作であると持ち上げた.
後藤新平以下努力し,日本の最初のシンクタンクと言われる満州調査部始め,満鉄の関連企業を満鉄社長となった松岡洋 右と組んで改組したに過ぎない.日産が約束した自動車年間4千台など4年経っても1台もできていない.
満州で何百万もの人たちが犠牲になり,戦後の悲惨な生活を強いられたことなど,とうに忘れ去られていた.何とも言えない不快な感情が湧き上がり,同時に教室の蒸し暑さがこれに拍車をかけた.「おもしろくない!!」急に席を立ち授業をボイコットすることを決心した.「こんなところで勉強している場合ではない,声無き声を上げて反対の意思表示をする.」立ち上がったついでに教壇に立ち,一席ぶってしまった.
気がつくと,後にゾロゾロと級友が続いていた.東光原に集まり,米軍に賛同する安保には反対であること.岸内閣打倒ということで団結し行動することにした.すると原野君が隣に集結していた理学部の人をつれてきた.35歳ぐらいの髭の濃いおじさんだった.「薬学部もボイコットですか.共闘しましょう.」と言うのである.
「我々は声無き声が安保反対であることを表明したい.岸内閣には反対である.従って左派系の暴力的手法とは一線を画したいこと 薬学部は女子が多いので安全を期することを要求したい.」「我々も同感です.」ということで共同歩調を取ることになった.法文学部の熊大全学連委員長にデモに参加することを表明した.委員長も左翼ではなかったようで「条件を全て了解しました.」と合同参加を喜んでくれた.私は危険を避けるために,ジグザグデモは暴動にエスカレートし,女子を守れないのでやらないと,静かなデモンストレーションを実行することを要求した.
但しシュプレヒコールとインター (学生の歌声に若き友よ・・)という歌と労働歌はデモに必要だということで,これは譲歩することにした.
夕刻,デモが終わって東光原に着くと薬学部の人達が勝手に何かもめているようだった.何のことかよくわからない.3人の女子学生が授業に出たのが「ケシカラン.」ということかと思った.「帰って考えてみると親を裏切ることはできない.」という.3人とも父親が警察官か自衛官なのである.忘れもしない.中山史子さん,千原朋子さん,田辺マスミさんである.「デモは自由意志なので構わないでしょう.」と言いそうになったが雰囲気がどうも違う.ボイコットを決めたのに約束を破った.として吊るし上げているようなのである.まるで中学校のホームルームだと思った.私は3人が真剣に親を思う心を伸べる瞳がとても美しいと感動した.
皆んなが私が何か非難すると期待して,目を向けている.私は同級生がこんなに幼いのかと驚いた.デモ破りが出ると授業が先に進んで成績に影響すると気にしているようだった.一通り言いたい人は皆云った様で私が発言した.「今日はもうくたびれた.云うことは何もありません.解散して明日からまたデモしたいと思います.解散!!」
思ったことは,薬学部の中に溝を作ってはならないということだった.もう男の悪知恵を発揮するしかない.原野君と林田君が協力してくれた.要するに明日からの授業のある先生の処に挨拶に行くのである.「先生,安保反対のデモのため授業に出られません.悪しからず.」というわけである.
何も問題なかった.先生達は「薬学部がデモに出るとは珍しいな.」と休講にしてくれた.次の日のデモは壮観だった.当時は皆黒の学生ズボン,白のワイシャツ,女子は白のブラウスと,黒っぽいスカートで約2000人がシュプレヒコールを上げながら粛々と進んでいく.整然としたデモであった.集合したのは北署と手取り本町の自民党本部前であった.鶴屋の向かい側の参道は思いの外広く,一部が車道に出ただけだった.歩道に渋谷さんと小島(小宮?)さんが腰掛けていて目を見合わせた.道路一面に広がっていた新聞の号外を拾って,シワを伸ばし,畳んで重ね始めた.しばらくすると他の女子学生も同じことを始めて道路はすっかり美しい姿に戻った.きちんとたたんで自民党前の階段に置かれた.整頓されるとたいした枚数ではなかったが,デモ隊のマナーの良さがよくわかる.目の前の熊日の記者室から,誰も取材に出てこない.後で2階の記者室に行って,この粛然としたデモをちゃんと報道しなきゃと顔見知りの記者に文句を言ってやった.
東京の樺美智子さんのデモでの犠牲には心が痛んだ.将来の日本を担う東大生が女子学生一人を守れなかったのかと情けなくなった.全学連の中に本気で暴力革命を目的に動いているものがいたり.大学教授やインテリと称する疑似文化人達がフランス式デモと言って国会議事堂から日比谷公園まで両手を広げて隣の人と繋ぎ,道いっぱいに広がって行列をするなど,全くアホらしいとしか思えない現象が新聞に出た.安保は改定されたとは言っても,米国は日本の世論を配慮し30万人の陸軍増強の要求は引っ込めた.安倍元総理が祖父が対等な条約に改正したと少し頭の悪いことを平気で言っている.要するに占領軍との条約(一方的な取り決めが多い,)を独立国同士の条約に変更すれば,当然互恵的なものになる.岸信介が日本に有利なものに変えたわけではない.岸信介の退陣はぶざまな写真で終わった.大股を刺され両手両足を抱えられ.口がだらしなく開いていた.所詮,ダレスに使い捨てにされた男にすぎなかった.
岸信介と最後に会ったのが,昭和57年であった.築地の記文(会社名)が本社を新橋の国道の端にある3階建てのビルに移った時のパーティーであった.こんな貧弱なパーティーにまで来て只酒を飲むのかと呆れてしまった.(これが政治家なのだ.)
---- 2021.11.04原稿落手,音声入力にてテキスト変換&編集 ----
付記
東光𠩤 旧制第五高等学校の運動場,
編集後記
隈本大学薬学部昭和38年卒の級友 益田 豊君から寄稿文(勝手に解釈)を受け取った.B4の400字詰め縦書き原稿用紙8枚に,鉛筆書きした文書である.キーボードから入力し始めたが,すぐに音声入力に切り替えた.声を出して読むだけで文章に変換してくれるアプリとしてはGoogleドキュメント(フリー)を利用した.適切ではない漢字変換を修正して,編集は短時間で終了した.
安保闘争(1960}は,教養課程の2年次に在籍していた時である.益田君は当時,日記を書いていたのだろうか.記憶を頼りに書いたのであれば,脱帽である.
あれから61年後,日本を取り巻く国内外の情勢変化を重ねながら読むと,寄稿の意味が読み取れると考えるのは考えすぎだろうか.
私が覚えているのは,警察官であった叔父がデモの際は警備陣側に居て,デモが終わって帰宅すると,その叔父が我家に立ち寄って左翼国家の話を聞かされたことである.叔父は,戦後,ソ連軍の満州侵攻を逃れて帰国できた引揚体験者であり,現地人に親切に対応していたため,密告されることなく匿ってくれたとのことであった.
2021.11.05