「颯太ー。起きてー。今日登山じゃないのー」階下で母の声が聞こえる。
今日は、来週、長野県で行われる四泊五日の夏合宿に向けた練習登山の日で、標高約七〇〇メートルの極楽寺山に登る予定だ。極楽寺山は学校から目と鼻の先にある低山で、比較的登りやすく、近くに住んでいる高齢者や小学生が登っているのをよく見かける。山頂にある極楽寺から瀬戸内海を一望できることで人気だ。僕も何度か登ったことがある。
昨日の午前三時までゲームに勤しんでいたため、寝不足である。窓の外を見ると、細かい目の篩にかけられたかのような小雨が降っており、憂鬱な気分になる。梅雨明け後初の雨だ。今日は快適な登山にはならなそうである。眠い目を擦りながら、朦朧とする頭を抱えて階段を降りる。リビングから聞こえるお馴染みのニュース番組のMCの陽気な声で段々と目が覚めていく。一階に着き、時計を見ると、八時四十五分を指している。あれ? 確か集合時刻は九時だったような。
頭から冷水を被ったような感覚があり、考えるより先にパジャマを脱ぎ登山服を手に取り、急いで着る。朝食を食べる暇もなく、スパッツ、雨具、水筒、タオル、予備の登山服などを手当たり次第にザックに詰め込む。登山家の中では有名なメーカーのザックだ。コンパクトな上、容量も大きく、軽くて使いやすい。
「颯太、弁当は?」母が弁当片手に尋ねる。朝早く起きて作ってくれていたのだろう。
「ああ、忘れるところだった。ありがとう」
「気をつけてな」父がソファに座ったままテレビを見ながら言う。今日は休みなのだろう。
「はいはい」といつものように素っ気なく答える。
テレビの方を一瞥すると、青い傘のマークがずらりと並んでいた。お出かけの際は傘を……とアナウンサーが喋っているのが聞こえた。
集合場所は学校の側のいつもの公園だ。家から二十五分はかかる。玄関のドアを開け、雨が降っていることを思い出す。ザックからさっき詰めたばかりの上下セパレートタイプの雨具を取り出し、着る。自転車に跨り、公園へ向かう。霧吹きのように降りかかる雨のせいでぼやける視界。風に煽られる雨粒は、地面に落ちるのを躊躇っているかのようだ。雨だからかいつもより車通りが少ない。幸運にも、一度も信号に引っかかることはなかった。
急いだおかげでいつもより五分早く着いた。自転車を学校に停め、公園に向かう。
「田中ー。五分遅刻だぞ」村井先生が息を切らして走ってきた僕を見て言う。村井先生は僕らの顧問をしている。最初の頃は、体育教師だと思っていたが、物理の時間に教室に入ってきたときは思わず二度見をした。ほぼ毎日ジムに通っており、休日にはコンビニに行く感覚で近所の山を踏破しているらしく、以前もう登る山がないと嘆いていた。
雨の中僕の到着を待っていたのだろう。みんなの少し不満げな目線を感じ、村井先生の方を見ながら、他のみんなにも聞こえる声で言う。
「すみません。寝坊しました」
「よう、お前また昨日ゲームしてただろ」須藤が話しかける。須藤はこの部活の部長だ。同じクラスになったことはないが、クラスの中ではムードメーカー的存在らしい。
「いやー。だって寝たら起きてすぐに登山に行かなきゃいけないだろ。そう考えたら、ゲームをしてできるだけ登山のことを考えないようにしたくって」
「無茶苦茶な理論だな」
どうやら僕が最後の一人だったらしく、すぐに出発する。山の麓の登山口までは住宅街を通って三分ほどで着く。重装備を着た軍団が閑静な住宅街を雨の中行進する様は異様である。登山靴とアスファルトとの硬い摩擦音が響く。
登山口に着くと村井先生が集合をかけた。
「じゃあとりあえず中腹のあずま屋まで行こうか。そこで一旦休憩しよう。雨がものすごく強くなって、危険だと判断したら下山することにする」村井先生が登山口の前で話す。「そういえば一週間ぐらい前にここに一人で登ったとき、オオルリっていう青い鳥を見たな」そう言ってカメラを取り出し、写真フォルダから一枚の写真をみんなに見せた。画面中央には深い青色の油絵具で塗られたような羽を持つ小さな鳥が、枝に止まったまま嘴を右に向けて写っていた。「見つけたら幸せになれるそうだから探しながら歩くのもいいかもね」確かに綺麗だが、こんな雨の中じゃいても分からないだろ、と思いながら聞く。「後スパッツをつけてない人は今のうちに付けとけよ」と言われ、慌ててザックからスパッツを取り出し、両足に装着する。
前から村井先生、須藤、僕、一年生三人、二年生二人の順に列になって入山する。基本的に足の速い人が前である方がいいのだが、安全を考慮してまだ登山歴の浅い一年生を間に挟む形で行進していく。今回は大した登山ではないが合宿を想定しての順番だ。朝に比べて雨足は激しくなっていて小声の会話だと聞き取れないほどだ。須藤が僕に話しかける。「お前、前回の模試の判定どうだった」雨の音でよく聞き取れなかったがおそらくこう聞いてきた。
「悪かった。過去最低」僕は喉に力を入れ、須藤の背中を見ながら答えた。「須藤は? どうせよかったんだろ」
「可もなく不可もない感じかな。いつも通りの。お前志望校変えるん?」
「いや、悩んだけど多分変えない。変えたら後々後悔するかもしれないから」
「そうか、まあ、お互い頑張……や、あとちょ……」
「ああ」最後がよく聞き取れなかったが、聞き返すほどのことじゃないだろう。雨具に絶え間なくぶつかる雨粒の音で銃撃戦の中にいるように錯覚する。心なしか雨粒がさっきより大きくなったように感じた。
登山開始から十分も経つと、前後の人の間隔は大きくなり、自分のペースで登れるようになる。雨の量も一定となり、雨粒が単調なリズムを刻んでいる。雨具にぶつかり、砕け散った雨粒が顔にかかり、煩わしい。汗なのか雨粒なのか分からない水滴が頬を伝う。雨の中の登山と普段の登山は別物であると改めて実感する。
しばらく進むと、あずま屋まであともう少しのところまで来ていた。下を向けば湿った土の香りが鼻に入る。雨具の中は汗で蒸れ、小さなサウナのようになっている。雨に濡れて滑りやすくなった岩に気をつけながら進む。もう少し行くと山頂近くから湧き出た水が形成する小川に差し掛かるはずだ。
ふと顔を上げると、小川の前で村井先生と須藤が立ち止まっている。見ると、いつもは水深が脛の真ん中くらいしかない小川が、濁流となって、滝のような勢いで流れている。腰までは余裕で浸かりそうな深さだ。
「うーん。これは流石に渡るのはやめといた方がいいかもな」村井先生が渋い顔をして言う。
「どうしますか?」後ろから須藤が聞く。
「さっき別れ道があっただろう? あそこを左に曲がれば、橋があって小川を渡れる。少し遠回りになるがそこからでもあずま屋に行けるはずだ」軽く微笑みながら言う。「こりゃあ、青い鳥を探すどころじゃないなあ」
全く同感だ。早く家に帰って、コーラ飲みながらゲームをしたい。
後続の一年生と二年生も追いついてきた。
「どうしたんですか?」と二年生の一人が尋ねる。
「小川が氾濫していて通れないから、少し戻って別の道から行くことにした。さっきと同じ順番で行くから、ちょっと脇へどいてくれる?」と須藤が言う。
「分かりました」
一年生と二年生は一旦道の端に寄り、また村井先生を先頭にして今来た道を戻る。すぐに先程の分岐点に着き、別の道を進む。初めて通る道だ。普段ここを通る人は少ないのだろう。道の左右から草が飛び出し、道幅もさっきより狭く、拳大の石が転がっている。道といっても獣道のようである。少し進むとコンクリートでできた長さ十メートルほどの簡素な橋があった。苔も生えておらず、ヒビも入っていないところを見ると、まだ新しいのが分かる。森の中に急に現れた人工物は周りとの調和を乱しており、いささか違和感を抱く。橋の下には、茶色い水が流れていて、ごうごうという川の音と雨音が重なり合って聞こえる。水面からは十分な高さがある。増水時の水かさも考慮して作られたのだろう。橋の両端も固定されており、問題なく渡れそうだ。間隔を空け一人ずつ、滑らないように慎重に渡る。整備されてない道をしばらく進むと元の登山道に合流し、すぐにあずま屋についた。
「全員体調が悪いとかはないな。よし、じゃあ、しばらく休憩しようか」あずま家に入り、村井先生はそう言うと、びしょ濡れの雨具を脱ぎ、木造のベンチに座った。僕らもそれに倣った。ベンチは四脚あり、円を描くように外側を向いて配置されていた。普段なら、青々とした木々を見て、鳥の囀りを聞きながら憩うのだが、今日は日光が雲で遮られており、薄暗い上、四方を霧に覆われている。よく言えば神秘的だが、悪く言えば、何も見えない。雨具を脱皮するように脱ぐ。抜け殻には体温が残っていた。ザックを下ろすと、体が軽くなったように感じた。他のみんなも適当に座って休憩している。僕は須藤と同じベンチに座った。所々朽ちているベンチからは年季を感じる。
「お前、登山中に風呂入ってた?」薄笑いを浮かべた須藤が水滴の滴る僕の頭を指して言う。
「そんなわけないだろ。雨と汗のせいだよ。ていうか、須藤もなってるだろ。風呂上がりみたいに」顔にタオルを押し当てながら、僕よりも多く水分を含んだ須藤の頭を指して言う。
「ははは。確かに」
急に無言になる。また何かくだらないことを言おうと考えているのだろう。
「お前さ、将来の夢ってある?」ふた呼吸分の間を開けたあと、須藤が真顔で聞いてくる。予想外の問いだ。
「え? 何で急に? 須藤はあるの?」
「あるよ。獣医になろうと思ってる」
「何で?」
「いや、元から動物好きだったし。あと、殺処分される猫や犬が多いって言うのをテレビで見て、救いたいって思ったから。大変なのはわかってるけど……」と、照れ臭そうに言う。
「意外だな。そんなに将来について考えてたとは思わなかった。僕なんか受験勉強で手一杯で、何も考えてない」質問に答えようと思い、付け加える。「とりあえず、公務員目指してるけど」
「そうか。まあ俺も明日になったら気が変わってパン屋とか志してる可能性あるからな」
「そんなんで本当に獣医目指せるのかよ」
「でも、将来の夢ってそんなもんじゃない?」また数秒間の沈黙を挟む。「なんか、人生と登山って似てるよな」須藤がおもむろに言う。
「どう言うこと?」
「例えば、登頂までのタイムを競う人もいれば、景色や自然を楽しむことを醍醐味だと考える人もいる。青い鳥を見つけるために山を登る人もいる。同様に、自分の利益だけを追求して生きる人もいれば、道徳的に善く生きることを重視する人もいる」水筒のお茶を一口飲む。「みんな同じ登山口からスタートして同じ山頂を目指すのに、その目的は人によって違う。人生も同じな気がする。」
「なんか須藤って時々変なこと言うよな」
「そうかな。結構良いこと言ったと思ったんだが」
「まあ、確かに、今日みたいに小川が氾濫して、一旦来た道を戻って、一度も通ったことのない道を通るって言うのも、人生っぽいかも」
「ごめん、それはよく分からん」須藤がはにかんだ顔で言う。
「何でだよ。何となく分かるだろ」笑いながらつっこむ。
「ただ、登山が人生と違うのは、下りもあるってことだよな。しかも、下山の方が事故が多い」
「やめてくれ。登山中に下山の話はするな。下山の事なんか考えたくもない。何のために登っているのか分からなくなる」
「ははははは。まあ、結局人生も登山と同じで、無事登り切っても残るのは達成感だけなんだろうな。」と、須藤が何かを悟ったように、遠くを眺めながら話す。「そういえば、さっき村井先生が青い鳥を見つけたら幸せになるって言ってたな。そういうのがきっと人生にも人それぞれあって、みんなそれを探すことを無理矢理生きる理由にしてるんじゃないかな」
「じゃあさ、須藤の人生における青い鳥って何なの?」
「あー、なんだろうな……。やりがいがあって安定した仕事に就くことかな。普通すぎるけど、そうしたら結婚して幸せに暮らせるし。お前は?」
「僕は須藤みたいに頭も良くないから、多分そこまで良い仕事には就けない気がするんだよな。たとえ公務員になったとしてもそれが幸福につながるとは思えないし。だから仕事以外で青い鳥を見つけなきゃいけないんだろうけど、今のところ何が青い鳥なのかさえ検討もつかない。このままダラダラ過ごすだけじゃ味気ない人生になるのはわかっているんだけどなあ」少し悩んでから続ける。「よくわからない会社に入って、よくわからない商品を作って会社のために命を捧げる。足跡を残そうと硬いコンクリートで舗装された道路を歩き回る。それでも、自分よりも通勤用電車一両いや、一席分の方がはるかに社会的貢献度が高い。死ぬまでに何か歴史的な発見をしたり、総理大臣を暗殺したりして世界中の注目を浴びることができたらなあ。まあ無理だろうけど」
「相変わらず考え方が暗いな。人生長いんだからいつか青い鳥の一匹や二匹見つかるだろ。気づいてないだけじゃないの」
「そうかなあ」
話すことがなくなり、軒から滴る雨垂れを眺めながら、水筒のお茶を流し込む。数カ所からランダムに落ちる雨垂れは背景の雨音にアクセントを加えている。須藤がザックからカロリーメイトを取り出し、僕に差し出す。
「食べる?」
「要らないの?」
「うん。まだあるから」
少し悩んでから答える。
「やっぱり要らない」
「何で? チーズ味だよ」
「そういう問題じゃない」
須藤は持っていたカロリーメイトの包装を破き、かじりついた。
「美味いよ」
「よかったね」
「よし、じゃあそろそろ行こうか」いつの間にか村井先生がザックを背負い、立っている。
「えっ、もう行くんですか?」須藤がカロリーメイトを食べながら聞く。地面にはカロリーメイトのかけらがこぼれ落ちている。
「ああ、雨のせいでいつもより時間がかかってるからな。正午には山頂に着いて昼食を食べたいだろ」
「そうですね」正直あまりお腹は減っていないのだが……。
須藤は急いで残ったカロリーメイトを口に押し込み、包装紙を手早く丸め、ザックに突っ込んだ。
重い腰を上げ、再びザックを背負い、雨具を着る。雨の音は相変わらず続いていて、ノイローゼになりそうだ。束の間の休息だった。一歩でもあずま家の外に出ると、もう後戻りできない。いっそのことみんなが戻ってくるまでここで待機してようかと逡巡する。しかし、すぐにそれはそれで虚しいと気づく。結局は登らなければならない。そう思いながら、雨の中に飛び込む。
また村井先生を先頭とする順番で進んでいく。雨に濡れてくたびれた格好の木々と角ばった石や腐食した枯れ枝が転がるぬかるんだ道。降り続く雨の音をBGMに、どこを切り取っても同じ霞んだ景色が続く。繰り返される微妙なアップダウンは徐々に体力を削る。けれども、少しずつではあるが確実に登っていく。なるほど。人生に似てなくもない。
人は何のために山に登るのだろう。縄梯子を上り、大きな岩を越えて山頂に着いたとしても、結局下山するときには再び岩を越えなければいけない。馬鹿らしいとは思わないのだろうか。村井先生に聞くと「そこに山があるから」というテンプレ的な返事が来そうだ。生きる意味が見出せないように、登山にも意味なんてないのだろうか。意味を求めるのは野暮なのだろうか。それとも登り続ければいずれ分かるのだろうか。
あずま屋を出発して一時間ほど経っただろうか。少しずつ気温が上がってきた。須藤の背中はとっくに見えなくなり、霧の中を一人で登っていると遭難しているように錯覚し、孤独感に襲われる。すぐそこの木の陰に誰かが隠れており、飛び出してくるんじゃないかという幻覚に怯える。少し雨の勢いが衰えてきた。空気が薄くなったように感じるのはきっと気のせいだろう。呼吸が浅く、短くなってきて息苦しさを感じる。自分の呼吸音と雨の音だけを聞く。言葉では形容し難い倦怠感と疲労が身体中にまとわりついている。段々と傾斜がキツくなってきた。ザックの重さはそれに比例し、残りの体力はそれに反比例して減っていく。
何度目かの曲がり角を曲がると、矢印形の苔むした標識が目に入ってきた。「極楽寺」と書かれている。同時に霧の中から唐突に石段が現れた。霧に阻まれていて石段の先は見えない。鉛のように重くなった右足を一段目に乗せる。そのままの勢いで左足を二段目に乗せ、石段の上の濡れた落ち葉で滑らないよう一歩一歩踏みしめながら進んでいく。手で膝を掴み、片足ずつに全体重を乗せながら上る。二十段ほど上ったところで呼吸が乱れてきた。喉の奥に何かがつっかえている感覚がある。足が上がらなくなってきた。動悸が激しくなる。めまいがして、全身が脱力する。ザックの重さで後ろに倒れないように慌てて前傾姿勢になる。視界が狭く、暗くなる。一瞬上下の区別がつかなくなるような感覚に襲われ、脳が急速に冷却されるように感じる。一段階段を上るたびに意識が朦朧とし、たまらず座り込む。一段上の石段を虚ろに見つめながら回復するのを待つ。貧血だろうか。脱水だろうか。昨日深夜まで起きていたのが良くなかったのかもしれない。冷静さを保とうとする。しばらくすると少し落ち着いてきた。お茶を一口飲む。また少し落ち着いてきた。動悸が穏やかになると、ふと言いようの無い空虚感を覚える。漠然とした不安に襲われ、また動悸が激しくなる。
「大丈夫ですか?」遠くで声が聞こえる。「肩貸しますよ」そういうと彼は僕を起こし、右肩を貸してくれた。一年の……確か空谷という名前の後輩だ。遠慮をする余裕もなく、彼に寄りかかった。後輩に支えられていることの気恥ずかしさから、顔を見ることもできない。自分を情けなく感じ、溢れた涙はすぐに雨に溶けた。
「おーい。あとちょっとだぞ」須藤の声が聞こえる。
僕は声を発する気力もなく、ただ彼の歩く速さに合わせて足を動かした。
「おい、お前大丈夫か? 顔が青白いぞ」気づくと目の前に心配している様子の須藤がいた。いつの間にか石段を登り終えている。力尽きてその場に倒れ込む。
「ああ……なんとか」掠れた声で目を合わさずに答える。聞こえたかどうかは分からない。
「水飲め、水」村井先生が透明なペットボトルを差し出す。飲む。
雨はまだ降り続いているが、なぜか気分が良かった。安堵感からか、青い鳥になれた気がした。目線が全て僕の方を向いていた。場違いな感情なのは分かっている。
「しばらくあそこで寝てろよ」須藤の目線の先には展望デッキがある。そこには屋根があり、いくつかベンチが置いてある。
「そうだな」力なく答える。
「立てるか? 手を貸そうか?」村井先生が尋ねる。「ザック持とうか?」
「いや……平気です」親切心から言ってくれているのだろうが、少し鬱陶しく思い、自力で立ち上がり展望デッキへ向かう。
さっきまで須藤が座っていたのだろう。須藤のザックが地面に無造作に置いてある。その隣に自分のザックを置き、ベンチの上に横になり、木でできた屋根の骨組みをぼーっと眺める。少しずつ視界が鮮明になり、脳に血液が巡っているように感じる。誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえ、その方向を向くと須藤が立っていた。
「もう大丈夫か? お茶飲むか?」
「いや、いい」やんわりと断る。しばらく横になっていれば回復する気がした。「それより、空谷君はどこに行った? 運んでもらったお礼が言いたい」
「他の一年生と一緒に極楽寺の本殿の方に行ったんじゃないかな。呼んでこようか?」
「それは悪いよ。後でお礼を言いに行こうかな。二年生はもう登り終わったの?」
「まだ戻ってきてないな。もうそろそろ戻ってきてもいい頃なのに。あっ、今到着したぞ」
そう言って須藤が指差す方を見ると、ちょうど最後の二人が石段を上り切るところだった。お疲れー、と村井先生が手を叩きながら言っている。雨はすでに弱まっており、雲の隙間から太陽が覗いている。もう十二時を回ったかと思い腕時計を見ると、十一時四十五分を指していた。
寝ている状態から、上半身を起こし、ベンチに座る。前を見ると、遠くには瀬戸内海が、真ん中には見知ったスーパーや国道、目を凝らすと僕の学校が望めた。一つ一つの家に様々な家族が住んでいて、生活を営んでいると考えると、不思議な気持ちになる。手前の錆びたフェンスの向こうには雨に濡れた木々が生い茂っていて、それがなだらかな坂を形成し、麓の住宅街まで伸びている。スマホを取り出してその景色を写真に収めた。深く息を吸って吐くと気持ちが軽くなった。雨具を着たままだったことに気づき、上着だけ脱いでベンチに置いた。
「ご飯食べようや」須藤がザックから弁当を取り出しながら言う。
「あんまり食欲ないんだよね。まだ十二時になってないし」
「食べんと栄養つかんよ。絶対、食べられるときに食べとった方がいいって」
須藤の言うことも一理あると思い、渋々ザックの下の方にある弁当を取り出し、膝の上に乗せ蓋を開ける。中身は白ごはんとスーパーのお惣菜と卵焼きだ。いや、よく見ると昨日の夕食に出てきた肉じゃがも入っている。長時間ザックの中で揺られていたため、おかずが全体的にご飯側に偏っていて、白ごはんの上の梅干しも中心に紅色の跡を残して隅に寄っている。だが、味には全く問題ないので気にせず箸を進める。
「そういえば他のみんなはご飯食べないのかな?」ふと思い出して尋ねる。
「さあ、どうなんだろうな。後で食べるんじゃない」須藤が唐揚げを箸で挟んだまま答える。
「そうか」
黙って食べ進めていると、村井先生が近くに来て隣のベンチに座った。
「もう体調は大丈夫なのか?」
「はい」と箸を止めて答える。
「それはよかった。夏合宿では倒れないように気をつけろよ。はははは」と笑いながら言う。
笑ってくれたおかげで救われた気がした。
「話は変わるが、今住職の方と青い鳥について話していたんだが、どうやら雨が降っていなければ極楽寺付近にもごく偶に飛んでくるらしいぞ。それもオオルリだけじゃなくて、ルリビタキやカワセミなんかも見られるらしい。もう雨はほとんど止んだから運が良ければ見られるんじゃないか」
「見れたらいいですけどね。もうすでに満身創痍なので、何か一つくらいは良いことがないと割りに合いませんよ」と苦笑しながら言う。
「はははは。確かに。そうだな」と村井先生は愉快そうに笑い、僕の体調が回復したと知ると、本殿の方に戻っていった。
弁当を食べ終わり、ザックに戻していると、一年生と二年生を従えて、首からカメラをぶら下げた村井先生が戻ってきた。
「全員でそこの景色をバックに集合写真を撮ろう。三年生はベンチに座ったままでいいから、二年と一年はその後ろに立って。帽子は脱いで」
何人かが帽子を脱ぎ、僕らの後ろに立った。背景の眺望を写すため、村井先生が少し高めにカメラを構える。
「じゃあ撮るよー」と言ってシャッターを押す。「うん。オッケー。後で送っとくよ」村井先生が満足そうな顔で言った。「じゃあ今から三十分くらいは時間があるから、昼食を食べるなりして自由に過ごしてくれ」
僕は一年生の中に空谷君を見つけ、駆け寄る。
「空谷君、さっきはありがとう。助かったよ」
「もう大丈夫なんですか? 無事でよかったです」と言うと軽くお辞儀をして他の一年生の元に戻っていった。割とあっさりしているなと思い、僕もベンチに戻った。
「この後どうする? まだ下山まで時間があるし」と須藤に聞く。
「どうしよっか。とりあえず本殿の方に行ってみようか」
「そうだな」特にすることもないので須藤の意見に同調する。
おもむろに立ち上がり、須藤とともに、先程登ってきた石段の前を通り、砂利が均等に敷き詰められた道をまっすぐ進むと一段上がったところに本殿があった。
本殿の前には賽銭箱があり、斜め上にはバスケットボールほどの大きさの鈴から鈴緒が垂れ下がっている。何も言わず、須藤が鈴緒を振り、鈴からカランコロンという音を響かせた。
「お前小銭持ってる?」須藤が財布を開けながら言う。
うん、と答え財布から十円玉を取り出す。須藤が賽銭箱に小銭を投げ入れたのを見て、賽銭箱に十円玉を落とす。須藤が静かに手を合わし、一礼する。僕もそれに従う。須藤が礼をし終わったのを感じ、僕も顔を上げる。
「何を祈願したの?」と聞く。
「そりゃあ、合格祈願に決まってるだろ。お前は?」
「無事に下山できて、青い鳥が見つかりますようにって」
「二つも? ずるくないか?」
「いいでしょ。神様も許してくれるよ」
既に雨は上がり、青空が広がっていた。濡れた境内は太陽の光を反射し、輝いていた。