「そういえば、明日合唱練習だね」
「……そうね」
友人の牧野におざなりに受け答えしながら、部活帰りの夜の商店街を歩く。ぼんやりと見上げれば、アーケードの吹き抜けから星が煌めいていた。この空を今日もう三十回は見ている。星が好きだという人間は、全く同じ空を何度も見せられても毎回同じように感動できるのだろうか。
「それでねー、古典の鈴木が……」
昔は街の中心だったらしいこの商店街も、今ではもう随分と寂れてしまっている。それでもしぶとくここで営業している店も、この時間までやっている所は中々ない。本屋。喫茶店。ドラッグストア。呉服店。シャッターを挟んで居酒屋。雑貨店。そしてまた──本屋。
「そういえば、明日合唱練習だね」
さっきと全く同じ表情、同じ声のトーンで牧野が言った。
「それさっきも言ってなかった?」
「え、そう?」
「……まあいいや。私ちょっとこの店に用事があるから、先に行っててくれない?」
「おっけー。じゃ、また明日」
軽く手を振って離れていく牧野に私も手を振り返し、そのまま店には入らずに近くのベンチに座る。スマホについてるストップウォッチの機能を起動して、写真を撮ったりメッセージを送ったりしながら時間を潰す。
「──そういえば、明日合唱練習だね」
秒針が三から四になった瞬間、手に持っていたはずのスマホが消え、座っていたはずのベンチが周囲の風景と同化した。このセリフを聞くのも今日もう何度目だろう。
「めんどいなー。休み時間潰れちゃうよ。あ、話変わるけど古典の鈴木がさあ……」
もう頭がおかしくなりそうだった。バッグからスマホを出してみてもストップウォッチ機能は起動されてないし、私が撮った写真や送ったメッセージも当然のようになかったことにされている。
「おかしい。これ絶対におかしいよ」
時間が巻き戻っている。それも何度も。
「どしたの? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫。大丈夫だから。先に行ってて」
「え、ええ?」
心配そうにこちらを振り返る牧野の背中を強引に押した。今はとにかく一人で考える時間が欲しい。巻き戻る時間の中で牧野に相談したことも一度や二度じゃない。その度に彼女は真剣に話を聞いてくれたが、その内毎回同じような反応を返す彼女が気味悪くなってやめた。
「私がこの状況を楽しめたらよかったんだけどなあ」
最初の方は私にも興奮があった。物語のようなタイムループ。今私が何をやったとしても、それを覚えていられる人間は私以外に存在しない。なら少しくらい好き勝手してやろうと……まあ、小心者の私にできたのは牧野に「最近太った?」って言ってやることくらいだったんだけど。欲しかった化粧品とか盗んでもどうせ次のループの時には消えちゃうし、気になってる先輩に告白してもしフラれたら立ち直れない。正直、今はもうさっさと家に帰って寝たい。
「神様、悪いことをしたのなら謝りますからもう許してください。ナンマイダ」
胸の前で何度も十字を切って祈った。
「──そういえば、明日合唱練習だね」
「だめかあ」
「どうしたの?」
「ううん。私あの店に用があるから、先に行っててくれない?」
私は商店街の一角を適当に指差した。
「あの店って……探偵事務所? 何でそんなところに用があるの?」
顔を向けて見れば喫茶店の上、同じ建物の二階の窓に『浮部探偵事務所』とプリントされた紙が貼ってあるのが見えた。当然、適当に指差した場所なので私はあんな所に用はない。けど。
「うん、ちょっと行ってみようかな」
「ふーん。じゃ、また明日」
明日、来るといいんだけど。
喫茶店の周りを何往復かして、ようやく裏口から少し入った所に上へ続く階段があるのを見つけた。あわよくばこのおかしな状況を解決する知恵を貸してもらえたらとは思ったけど、この所々塗装の剥げた壁を見る限り、あまり期待はできなそうだ。そもそも探偵事務所というのは浮気調査や失せ物探しが主な業務で、謎を解決してくれるわけではない。頭脳は大人な名探偵は漫画だけの存在なのだ。
「すみませーん」
所々錆びついた、重い鉄の扉を開ける。キーッと扉が擦れる甲高い音と、私の声とが階段に反響して抜けていった。
「誰かいますかー?」
「います」
さらに入って呼びかけると、男の人の声でボソボソした返事が返ってきた。おかしいな、結構近くから聞こえたと思ったんだけど。
「待ってくださいね」
もう一度同じ声が聞こえた後、目の前の机が揺れ始めた。驚いて固まる私の前に、ソファの死角から黒い背広を着た痩せぎすの男がニュッと現れて、こちらに向かって軽く頭を下げた。
「ふぅ。あ、ども」
驚いて何も返せなかった。何でこの人、机の下に潜ってたんだ。
「いや、ね。猫ってよく狭い所に隠れたりしてるでしょう?」
私の疑問の視線を感じ取ったのか、軽く肩をすくめてそんなことを言われた。
「猫を探してたんですか?」
「いや、これから探すんだよ。だから今のうちに猫の習性を学んでおこうと思ってね」
それと机の下に潜ること、何の関係があるんだ。
「今お茶入れますね。そこで待っていてください」
彼はそれ以上説明する気はないようで、何事もなかったかのように事務所の奥へと消えていった。
「ええ……」
なんというか、すごく変わった人だなあ。
やがて戻ってきた彼は私の前に小洒落たティーカップを置くと、自分の前にも同じようなカップを置き、正面のソファに腰を下ろした。
「改めまして。僕が浮部探偵事務所の浮部です。今日はどのような御用件で?」
「えっと、実は、私の周りがタイムループしてて」
「…………なるほど?」
そのわかったようなわかっていないような返事にハッとした。よく考えなくても、こんな相談を持ってくるやつなんて頭がおかしい人だ。絶対変な人だと思われる。
「……まあいっか」
どうせ次のループには忘れるだろうし……それに、この人も変な人だしね。
「どうしました?」
「いいえ、なんでもないんです。それで、帰り道の商店街から二十分くらいを……」
牧野に何度も同じ説明をしたからか、スラスラと言葉が口をついて出た。浮部さんはそれを否定することなく、かと言って大きく肯定することもなく、どこを見ているのか分からない瞳で「なるほど」とボソボソ繰り返しながら聞いていた。
「──というわけなんです」
「なるほど。面白いね」
浮部さんは肘掛けに寄りかかると目を閉じた。
「最近病気とかにかかった?」
「かかってません……やっぱり、信じられませんか」
「それはこれから決めることだよ」
その後も浮部さんは色々と質問をしてきた。最近見た夢。トラウマ。眠る前のルーティーン。普段どんな姿勢で座っているか。どんなおもちゃを好むか。毛の色。オスかメスか。
「最後の方は絶対関係ないでしょう」
「まあまあ。ほら、君がここに来てからもう十五分だ。そろそろループするはずだろう? 信じるかどうかは見てから決めるよ」
「あ、本当だ。でも、それだと私がここに来た意味ないんですけど」
ループすることを証明できても、この人はそれを覚えてないわけだし。
「確かにそうだ」
浮部さんはまるで盲点であったかのように目を開き、手をポンと打った。おい。
「まあでも、僕が考えるに、原因はやっぱり君にあると思うな。今日一日変なことをしなかったか、最初からよく思い出してみるべきだと思うよ」
そんな毒にも薬にもならないアドバイスをされましても。
「もし次のループでも僕に会ったら、伝えてよ。僕に迷い猫探しは向いてないってね」
もう彼はこれ以上私に構うつもりもないらしく、空のカップを二つ持って奥へと消えていった。
「──そういえば、明日合唱練習だね」
今回に関しては、ループできて少し安心した。あれで私がずっとあそこに座ったままだったらどんな顔をすればいいのかわからないもん。さてと。一応あの探偵さんのアドバイスを聞くとして、私は最初どんな反応を返したんだっけな。思えば、牧野の話を真剣に聞くのも久しぶりだ。古典の鈴木がヅラだって話永遠にしてるからな、牧野。そういや明日合唱練習だったか。
「由紀子、合唱委員なんでしょ? 大変よねー」
「あーそうだったね」
最初の時もそんなことを言われて、めんどくさいなーってなって、合唱練習なんか永遠にしたくないなーってなって……え、もしかして、そんなこと?
「ごめん、牧野。私行くところある!」
あの見つけにくい階段に走りながら、私は考えた。さっきは直感的にループの原因が合唱祭じゃないかと考えたけど、実際どうなんだろう。ループの原因が私にあるというなら有り得なくはない……んだろうか。とにかく、あの人の意見が聞きたい。
「猫探しなんて向いてませんよ、浮部さん!」
事務所に押し入り、机の下に蹲っている黒ずくめの男に向かって叫んだ。
「君は……?」
「前回のループでお会いした由紀子です! ああ、もう! めんどくさいな!」
私はもう一度さっきと同じ説明を繰り返した。浮部さんは相変わらずどこを見ているのかわからない瞳でボソボソとなるほどなるほど繰り返している。それが何だかすごくおかしい。
「それで! ループの原因が合唱祭じゃないかなって!」
「合唱祭、そんなに嫌なの?」
「嫌ですよ!」
私は話した。普段は愚痴とか言うタイプじゃないけど、この時ばかりは止まらなかった。吹奏楽部というだけで強制的に合唱委員にされたこと。男子が非協力的なこと。女子は女子で友達と同じパートがいいと言って聞かないこと。気づいたらループの時間なんかとっくに過ぎていて、いつもだったらもう寝ているような時間帯だった。申し訳なくなった私は「今度猫探し手伝いますね」とだけ言ってそそくさと帰ったのだった。