最近は、買い物のほとんどをインターネットで済ますことができるようになったので、店舗に行くことがめっきり減った。ものぐさの僕にとっては願ったり叶ったりなのだが、とはいえすべての消費をネットショッピングで代替できるわけではない。まさかAmazonで理容師を注文するわけにはいかないので、昨日、寒風吹き荒ぶなか理容室に出掛けた。約2か月ぶりの散髪である。
もう5年くらい通っている店だから「大体いつもと同じ感じで」と伝えるだけで了解してもらえる。小1時間ほど鋏を入れられ、前後左右確認が済んだら料金を支払って帰宅する。毎度同じことの繰り返しである。しかし、毎回寸分違わず同じ髪型ができあがるわけではない。たぶん僕にしかわからないだろうけれど、「会心のできだ!」と満足することもあれば、当然「今回はいまひとつかな」と落ち込むこともあるわけである。昨日がどちらだったかは、まあ読者の想像にお任せするとしよう。
理容師も人間なのだから日によってパフォーマンスに揺れがあるのは仕方のないことだし、僕の頭髪の調子だって日によって違う。僕自身がそう感じるのだから、数か月に一度しか触らない理容師はもはや別人の頭だと感じるに違いない。そして何より「いつもと同じ」という注文も決して不変ではなく、例えば1年前と昨日とでは、その中身はかなり違うはずである。そろそろ僕と理容師との間にできてしまったイメージの乖離を修正しなければならない。
今年の7月、この『金魚鉢』は当初「夏の企画誌」として、いくつかの公募賞に提出するために活動が始まった。「部として公募に挑戦したい」という声は以前からあり、今年、念願叶ってそれが実行に移されたのだ。「2歩手前」まで敢闘した作品が2作あったものの(どの作品が該当するかはやはり読者の想像にお任せするとしよう)残念ながら受賞することは叶わなかったが、文学パートとして今回の活動は大きな前進だったのではないかと感じている。
このように書くと、あたかも僕らが前人未到の一歩を踏み出したようだが、そうではない。断片的な過去のデータとかろうじて残っている部誌のバックナンバー、そして伝え聞くところによると、過去20年の間に少なくとも3回は同様のことが行われたようだ。
僕は最近、幹部総括の引き揚げ作業を進める中でこのことを知った。過去の記録が良好な状態で保管されていなかったために、文学パートの活動は数年間隔で断絶していると『澪標 2021年・秋』の編集後記に書いたが、では記録が残っていれば活動の質は維持されただろうか。おそらくそうはならなかっただろう。「ランニングマシン上に留まるためには走らなければならない」という言説をたびたび耳にするが、僕もこれに同調したい。理容師への注文と同様に「現状」の上に胡座をかく期間が長いほど、それは変質し、悪化していく。現状維持というのは前進と同じくらいには困難なことなのだ。年の瀬が迫り、当代の幹部の任期も終わりが見えてきたが、次期幹部にはぜひ向上心を忘れずに邁進してほしいと願っている。僕も時間が許す限り協力を惜しむつもりはない。
では恒例の謝辞を。初出の作品を収めたものとしては、この『金魚鉢』が年内最後の部誌となる。「千里山文学」の製作という大仕事が残っているが、編集者としての業務には1つ折り目がついた。この1年あまり、編集者としてちぐはぐな指摘をしてはなるまいと一貫した姿勢を崩さないことを心がけてきたつもりだが、おそらく至らぬ点も多々あったと思う。申し訳ないと思うと同時に、付いてきてくれた部員には感謝の念でいっぱいだ。本当にありがとうございました。任期満了まで、もう少しだけお付き合いください。
最後に表題について。今冊子は結果として公募に落選した作品を編んだものとなった。『金魚鉢』という表題には、冊子製作の経緯といまの実力、将来への期待を込めたつもりだ。いつか『鯉池』、いや『竜の巣』(これはまずいかもしれないけれど)が発行されたらいいな、と夢想している。
それではまた、最後に『千里山文学第五十三号』で。
2021年12月3日
山本哲朗