「四時四十四分の十三階段って知ってる?」
「何? 怖い話?」
「そ。四時四十四分に階段を一段ずつ下りていくと存在しないはずの十三段目があって、異界に迷い込んじゃうんだって!」
興奮気味にそう話す明日香ちゃんが、運動場の向こうにぽつんと建つ旧校舎を指さした。嫌な予感がする。
「今日の放課後、実験してみよ!」
やっぱり。私はこれまで、明日香ちゃんの「実験」に何度も付き合わされてきた。動く骨格標本、ひとりでに鳴るピアノ、鏡に映る未来の自分、下半身の無い幽霊、挙げたらきりがない。もうすぐで六年生になるというのに、明日香ちゃんの怪談好きは衰えを知らないのだ。本当に心霊現象に遭うまで続けるつもりなのだろうか。
私は全く乗り気ではなかった。それでも結局、明日香ちゃんと共に旧校舎一階の理科室に身をひそめているのだった。この旧校舎はかなり前に建てられたらしく、祖母と大叔父さん――つまり祖母の弟が通っていたころから使われていると聞いている。もっとも、大叔父さんは幼くして亡くなっているから面識はないが。理科室もだいぶ床のささくれが目立っている。
時刻は四時四十分。日も傾き始めていた。
「ちょっとトイレ」
そう言って突然明日香ちゃんが立ち上がる。言い出しっぺのくせにマイペースだ。仕方なく、私はひとりで待つことになった。秒針の音がやけに耳につく。四十二分。まだ帰ってこない。女子トイレに行くには二階に上がらなければいけないから、それで遅いのだろうか。カチ、カチ、カチ。四十三分。まだかな。カチ、カチ、カチ、カチ。
パリン、とどこかで音がして、私は顔を上げた。時計を見ると、四時四十四分を過ぎてしまっている。今の音は何だろう。明日香ちゃんが心配になった。私が様子を見に行こうと席を立った時だった。教室の外で、四足歩行の何かが走り去った音がした。まるで四つん這いの人間のような。気味の悪さと心細さに耐え切れず、私は教室を出た。薄く西日が差し込む廊下はがらんとしていて、少し埃っぽい。カタッ。背後で物音がした。振り返ると、眼窩に闇をたたえた骸骨と目が合った。「ヒュッ」と変な声が出てしまう。いやいや、ただの標本に何を驚いているんだ。前の「実験」で何もないことは証明済みだ。自分にそう言い聞かせ、とにかく二階のトイレに行こうと歩き出した。そして階段に足をかけた時、上から階段を下りてくる足音がした。明日香ちゃんだ。もう四十四分は過ぎているし、早くふたりで帰ろう。
「……えっ」
降りてきたのは明日香ちゃんではなく、男の子だった。昭和の子どもみたいな短いズボンを履いている。相手もこちらの存在に驚いたように固まっていた。
「何してるの? なんでここに……」
「友達を探してて……。ポニーテールの女の子。見なかった?」
「さあ。ここには誰も来ていないよ。……君以外」
まさかまだトイレ?
「ありがと」
私はその子の横を通り過ぎてトイレに向かった。しかし、トイレの個室はすべて開いていた。
「誰も来ていないって言ったでしょ」
気づくとさっきの子が入り口に立っている。
「覗かないでよ! 女子トイレなんだけど」
「あっ、ごめん」
「なんでまだ学校にいるの?」
「それは君も同じでしょ。早く帰りなよ。一緒に友達探すからさ」
「えっ、でも、えっと……」
私は彼の胸に「藤沢」と書かれた名札があるのを見た。
「藤沢くんは門限大丈夫なの?」
「まことでいいよ。門限は大丈夫。早く探そう」
そういってまことくんは歩き出す。むしろ私の方が門限大丈夫じゃないかもしれないと思いつつ、私は彼についていった。
「私は桐生葵。友達――明日香ちゃんと四時四十四分の十三階段を確かめようとしていたの」
「それでここに来ちゃったの?」
「どういうこと? 十三階段は試してないよ。明日香ちゃんが直前にトイレに行ったっきり戻ってこなかったから」
「そうなの? ふうん」
私たちは、教室をひとつずつ見て回った。
「……あれ、何か聞えない?」
突き当りの教室に入った時、不意に物悲しいメロディーが聞こえてきた。私は思わずまことくんのそばへ近づいた。
「ああ、真上は音楽室でしょ。先生がピアノを弾いているんだよ」
「先生が? こんな時間に?」
不思議に思い、私は階段を上っていった。「待って」と言いながら、まことくんもついてくる。音楽室の前に来ると、確かに中からピアノが聞こえる。聞き覚えがあるメロディーに引き寄せられるように、私はドアに手をかけていた。
「開けるな。あの「授業」に参加させられてもいいの?」
「授業?」
ドアのガラス窓から中をのぞくと、女性がこちらに背を向けてピアノを演奏していた。おかしなことに、女性の姿には全く見覚えがなかった。やがてその女性は演奏をやめ、板書をしながら誰もいない教室に向かって話し始めた。
「もう行こう。松田先生に気づかれる前に」
「……うん」
音楽室から離れた私たちは、階段を挟んで反対側にある物置部屋に入った。使われなくなった机や椅子やらの備品が雑多に積み上げられている。その中に、大人の身長ほどの高さがある板があった。板には布がかけられていて、布に積もった埃が年月を物語っていた。私はすっと布をめくった。
「わっ!」
板――というより大きな額縁の中に、大人が立っていたのだ。ベージュのスーツに身を包んだ女性で、私と同じ体勢で驚いている。私が一歩後ずさると、相手も一歩後ずさった。もしかして、と思い、近くにあった竹刀を手に取る。相手も竹刀を握る。恐る恐る竹刀の先端を相手に突き出した。すると、ちょうど中間地点でコツンと壁に当たった感触がした。
「なんだあ、鏡じゃん。これどうなってるの。さっきの音楽室といい、ドッキリ?」
私はまことくんの方を振り返った。彼は、放心したように鏡を見つめていた。
「ねえって。」
「葵ちゃんの苗字、桐生って言ってたよね?」
「そうだけど?」
まことくんは「そっか」と呟くと、また黙ってしまった。
*
どうしてこんなことに。私は怪物から必死に逃げながら考えを巡らせていた。新校舎の階段を一段とばしで駆け上がる。足がもつれそうになるが、とにかく動かし続ける。
葵ちゃんを置いてひとりでトイレに行った後、私は急いで理科室に戻ろうとした。一階に下りる最後の一段を踏み、次に右足は一階の床を踏むはずだった。グニャリ。私の右足は、柔らかさのある「何か」の上にあった。十三段目。その時だった。パリンと窓ガラスの割れる音がした。私は音のした方へ向かった。割れていたのは、一階男子トイレの窓だった。これを見に行ったのが失敗だった。気づいた時には、窓の下で不気味に笑う、下半身のない怪物と目が合っていた。テケテケだ、と思った。
「じ、地獄に落ちろ!」
かすれた声で絞り出す。テケテケに効くとされている呪文だ。――果たして効果はなかった。私は襲い来るテケテケと旧校舎を飛び出した。
「なんで効かないの!」
階段を上り切って走り続けた廊下の先に、放送室の扉が開いているのが見えた。なぜ開いているのか分からないが、とにかく駆け込む。椅子でバリケードを作ると、私は大きく息を吐いた。
「テケテケに追われてるの?」
声のした方を向くと、ふわふわの巻き髪に大きなリボンをつけた女の子がちょこんと座っていた。
「花子さん……?」
「失礼ね! そんなにおばあちゃんじゃないし、私はもっとおしゃれでしょ!」
「おしゃれなのは確かに」
「ふんっ。せっかくあいつの祓い方を教えてあげようと思ったのに」
「ご、ごめん」
「まあいいや。あいつはね、一般的に語られるテケテケじゃないの。みんなの負の感情が生み出した地縛霊みたいなもの。だから供養してあげないと」
「供養……」
供養なんて、どうすればいいのだろうか。私はおばあちゃん家の仏壇を思い出す。
「そうだ! お線香なら!」
灯台下暗しだ。私はきつく靴ひもを結びなおした。
*
物置部屋を出ると、空の半分はすっかり紺色に染まっていた。廊下には時計が無く、どれくらい経ったのかよく分からない。
「まことくん、明日香ちゃんは旧校舎にはいないのかな。新校舎も探そうよ。」
「いや、もう帰った方がいい。もうじき日が沈む」
「でも……」
抗議する私をよそに、まことくんは歩き出した。
「家族が心配するよ。葵ちゃんは大事な娘でしょ」
「大人みたいなこと言うね。ねえ待ってよ。」
まことくんはまるで急いでいるみたいに早足で歩いていく。私は追いかけるしかなかった。まことくんは理科室に入り、私と明日香ちゃんの荷物を担ぐと、そのまま校舎から出て行こうとした。
ピンポンパンポーン。突然校舎に大音量で鳴り響いた音が、まことくんの足を止めた。
「女子がひとりテケテケに追われている。理科室にて援護!」
声の主は私の知らない女の子だったが、まことくんはすぐに理解したように頷き、私に荷物を押し付けた。
「葵ちゃんは荷物持って校門で待ってて!」
「……わかった」
テケテケに追われているとはどういうことなのか、明日香ちゃんは無事なのか、質問したい気持ちをこらえて、私は走り出した。
*
私はまた足がもつれそうになりながら、とにかく走った。テケテケは急カーブで必ず壁に衝突するから、それを利用して距離を稼ぐ。階段をほとんどジャンプするように駆け下り、旧校舎に繋がる渡り廊下へ飛び出す。すぐ後ろから、猛スピードで地面に手をつく音が迫る。追いつかれる寸前で旧校舎に辿り着き、素早く右へ曲がる。テケテケが壁に激突している間に、理科室へ駆け込んだ。
「こっちだ!」
いきなり、横から知らない男子に手を引かれる。見ると、ドアから入って直線方向の通路には糸が張られていた。
「僕があいつを押さえるから」
「わかった」
私は戸棚へと走り、お線香とマッチを取り出した。前に実験で使ったのを覚えていたのだ。
私がお線香に火をつけたと同時に、テケテケが弾丸の如く入ってきた。その勢いで、机と机の間に張られていた糸に引っ掛かり、バウンドしながら床に転がる。すかさず男子がテケテケの両手を背中に回し押さえつけた。
今だ。私はテケテケの前で膝をつき、お線香と一緒に手を合わせた。
「みんなの負の感情が、解放されますように……」
目を開けた時には、テケテケは消えていた。私が男子の方に顔を向けると、彼はもう大丈夫、と頷いた。
「葵ちゃんが校門で待ってる。急ごう」
私たちが校門に向かうと、大きく目を見開いた葵ちゃんが立っていた。
「明日香ちゃん!」
「ごめんね、私のせいで、巻き込んじゃって」
「ほんとだよ。もう「実験」は終わりだよ」
何も言い返せない。私はしょんぼりしながら、葵ちゃんに続いて門を出た。空に太陽の姿はもう無く、おまけみたいなオレンジの光が薄く残っているだけだった。なんだか、さっきより空気が爽やかに感じる。
「でもほんとによかった。まことくんに感謝しなきゃだよ」
そう言って葵ちゃんは振り返る。私も来た方向に視線を動かした。しかしそこには誰の姿も無く、ただシルエットになった校舎が見えるだけだった。
*
少女たちが去った世界で、少年は目を閉じて過去の記憶を思い返していた。
「姉さん、さっきそこの角で話していた男の人、だあれ?」
「やだ誠、見てたの。彼、男前でしょ。桐生さんっていうの」
「ボーイフレンド?」
「誠にはまだ早いわ」
少年と現世を結び付けていた唯一の記憶が、姉だった。姉はちゃんと幸せになっていたのだ。
「よかったわね。これでお別れね」
いつの間にか放送部の少女が隣にいた。
「君の魂もいつか解放されることを祈っているよ」
「どうかしらね」
少年は薄れゆく意識の中、姉によく似た少女の横顔を思い出した。