横切る人はみんな、耳にイヤホンを刺しこんでいた。平日八時すぎのJR大阪駅である。スーツ姿のサラリーマンやOLでごった返す時間だ。だいたいの人が一人で歩いていて、目に映るほぼすべての一人きりの人はイヤホンをつけていた。
「何を聞いているんですか!」と私は叫びたかった。彼らの首元に手をかけ、力の限り引き寄せ、耳元の忌々しい器具をはぎ取る妄想に駆られていた。私の横を歩いている細身の男性がポケットから携帯を取り出して操作し、すぐに戻す。耳に流すものの種類を変えるためか、それとも連絡が来ているのかどうかを確認しただけか、正しいことは判らない。私は見ず知らずの彼の足を蹴って跪かせ問いただしたかった。「ねえ、何を聞いてるの、何を聞いているのよ!」。
身体が熱く体調が悪かった。動きを止めると吐いてしまう気がしたので、私は小走りになった。せりあがってくるものは物理的なものだけではない。もっと遠くへ、と思った私が目指せる「もっと遠く」とは、何だろう。もう今年で二十八になるというのに海外旅行の一つも行ったことがない私には、せいぜい北海道くらいしか現実的な名前が思い浮かばない。浮かんだのは、きらきらしたお寿司と濃い味のソフトクリームと、ジンギスカン! ジンギスカンってどんな味なんだろう。いい。良い! 肉を喰らいたい。骨付きの肉を、アニメの主人公みたいにがぶっと喰らいたい! ところでジンギスカンって、骨付きの状態で提供されるイメージだったけど、実際はどうなんですかね。
会社には断りの電話を入れた。新卒で働き始めてから六年間、無遅刻無欠席の私の体調不良は、案外すんなり受け入れられた。
「だいじょうぶ?」
「すみません」
「あー、しょうがないよ。そういうときもあるって。井上さんは有給ほとんど残ってたよね? 多分使えると思うけど、それでいいかな」
「はい。ありがとうございます。それでお願いします」
「うん、じゃあそれで。今日はお客さんが来る予定もないし、あんまり気にしなくていいから。ゆっくり休んで。落ち着いたら病院行くんだよ」
上司の間延びした「だいじょうぶ?」は案外暖かくて、油断すると全部、心の中のものを話してしまいたくなった。
次の電車に乗っても良かったが、高級ブランドの看板が目に入ってきた。大学の頃からの友達、まやちゃんとユリカが好きだと言っていたブランドである。私は一番近い百貨店の入り口まで走って向かった。それなのにまだ開いてなかった。開店まであと十五分。私は文字通り地団駄を踏んで待った。つま先の痛みが骨に響いてくる。止まりたくなかった。動いていたかった。私は、痛くもないのにお腹をさすってうずくまってみた。みんなイヤホンを耳に刺していた。
ようやく百貨店が開いて、私は一番乗りで駆け出し、看板で見たショップのお店に向かう。エスカレーターに乗りながら私は、ブランドのウェブサイトを開いて何を買うか吟味しようとした。あ、かわいい。私が使っている三千円の財布と比べて、かなりしっかりした作りなのが受け取れた。しかし、なんだ! 財布一つに十二万もする。十二万! 財布が? 確かまやちゃんは大学の頃、このブランドのヘアアクセサリーを彼氏にねだっていた。バカじゃないのか。布に十二万! 私の手取りとほとんど変わらないじゃないか。バカだ。この店の店員も、客もみんなバカ!バカバカ!……ごめん。バカじゃないよ。まやちゃんも、ユリカも、みーんな、バカなんかじゃないよぉ。
何か高いものを買うぞと意気込んだ気持ちを引っ込めることはできなかった。仕方がないので服飾雑貨の階には行かず化粧品がメインの階で降りた。化粧品ならせいぜい天井が一万円くらいだということは知っている。美容部員さんと目が合ったので、その店に入る。ショップに並べられたテスターを試してみた。コーラルピンクとゴールドのラメがきらきらで大変かわいい。いつもなら絶対買わない贅沢な単色アイシャドウ。
「こちらは今月発売の新商品でございます。このカラーは大人気で完売していたものだったんですけど、昨日再入荷したばかりなんですよ。もしかしてお目当てはこちらでしたか?」
「そ、そうです。ずっと、欲しくって。このために、って思って、先月仕事がんばったんです。憧れのブランドで、こういうとこ、普段来ないんですけど、今日こそはって思ってて。申請して午前休とって来ちゃいました」
どうしてこんな嘘をついたのか。美容部員さんが「わあ、嬉しいです」と大げさに喜んで、私をタッチアップの席に座らせてくれた。コットンでアイメイクを落とす。美容部員さんが付属のチップじゃなくて、高級そうなアイシャドウブラシでささっと私の眼もとに塗ってくれた。
「すごくお似合いですよ。とても単色だなんて思わないでしょう」
確かに光の当たり方で丁寧に何色も重ねたように見える。
「あ、本当ですね」
「お客様、顔色がぱっと明るくなったように見えますよ」
一色で四千円。美容部員さんに促されて下地も買っちゃった。合計で一万円と少し。
京都高槻行きの電車に乗り込み、新大阪で降りる。窓口で北海道行きの新幹線の切符を買おうとしたけれど、直通のものはなくて、一度東京で乗り換える必要があるらしいと知った。そのため結局東京駅行きの切符を買う。改札内に入るとフレッシュジュースのお店が見えて、いちごとバナナのスムージーも。
新幹線は二つ並びの窓側の席だった。どうして平日にこんなにも人が多いのか、と不思議に思ったが、今は三月なのだから帰省や引っ越しラッシュのシーズンの一つだ。私の隣にも赤ん坊を抱いた母親が座ってきた。子供はよく眠っていて、幼児特有のだし汁みたいな匂いがした。
ぼんやり隣の席の赤ん坊を眺めながら私は、ここは天国みたいだ、と思う。新幹線が停車するたびに、年齢も、性別も、出身地も、住んでいる場所も、みんなバラバラの人間が続々とおだやかに入ってくるからである。なんだか、現実世界の世界線とは別の世界に集められているような気持ちになるのだ。前の席に座っているOL風の女性も、斜め前に座っている大学生くらいの男の子も、通路を挟んで斜め前に座っているやんちゃしてそうな風貌の青年も、隣の親子も、まったく違う生活をしているのに、変な気分。
「次は京都、京都に停車します」
ここで隣の赤ちゃんが大泣きの助走のような啜り声を出し始めた。母親が申し訳なさそうに子供を揺らしてあやす。スムージーを口に入れる。もう氷が溶けてしまっていて、まだ六割程度残っている液体に倦怠を感じながら椅子にもたれかかった。――疲れた。私は存外疲れていた。
「どうしたの? お腹空いたの?」
「ねんねしようよ、ねんね」
母親が小さい声で話しかけている声が聞こえる。しかし、赤ちゃんの泣き声は激しくなっていくばかりだった。
「どうしたの? しー、だよ。さよちゃん、しー」
やがて、私の前の席に座っている女性が嫌悪感を隠そうともしない表情で振り返り、すぐに顔を戻した。母親は赤ん坊をさらに強く抱き寄せた。そして「どうしたの、どうしたの」とふうわりした声で聞き続けるのだ。
「さっきミルク飲んだばっかりでしょう、どうしたの?」
「どうしたの、どうしたの?」
「ちょっと歩いてみようか? どうしたい?」
「どうしたの? どうしたの?」
「どうしたの、何か悲しいの? びっくりしたの? どうしたの?」
たまらず私はトイレに立った。女性用と男女兼用があって女性用に入った。こういうとき何だか男性に悪い気がしてならないのでどうにかならないものかと思いつつ、そそくさと個室に入る。
一人になるともう耐えられなかった。次々と展開していく心で見過ごそうと努力していたものが、一気に意味のないものになってしまった。涙が一筋こぼれる。つられるようにもう一筋。もっと、もっと。
ずっと前、つらいことがあった。本当につらいことがあった。高校二年の冬だった。私は塾で数学の問題について先生に質問していた。夜の十時ごろ。解説が終わったので帰ろうとしたら、その先生に呼び止められたのだ。
「しのちゃん、ついて来て」
そう言われて先生の後ろについていった。正直どきどきしていた。私はその先生のことがちょっと好きだった。私だけ先生に下の名前で呼ばれるのも嬉しくてときめいていたし、本当はよくないんだろうけどバレンタインも渡した。
先生に促されて二人で後部座席に乗り込んだ。ちょうどホワイトデーの二、三日前だったから、もしかしたらお返しかな、なんて期待していた。
その時だった。ピッという短い音が聞こえたのだ。先生が手元のボタンで車のロックを閉めたのだろうと思った矢先、私は強い力で肩を掴まれ押し倒された。口と肩を押さえつけられ、股を先生の足で固定された私は、最初は抵抗していたものの、段々目の前の人物が何やら怖いものの概念のように感じられ、すっと全身の力が抜けていった。ただひたすらに後部座席の窓に張られているカーテンを見つめていた。
「気まずくなりたくないしさ、皆には内緒な。気を付けて帰れよ」
一通り終わった後、先生は人間の顔をしてその車のまま帰って行った。呆けた頭のまま私も帰った。深いことは考えられなかったが、先生の「気を付けて帰れよ」ばかりがこだましていた。気を付けるってなんだろう。
帰ってから制服のスカートに乾いた体液をみとめて、親にばれないように制服を洗った。そしてそのまま寝た。
目が覚めたら世界が変わっていた。いや、変わっていたというよりも思い至ってしまった。私の信じていた優しさなど存在しないのかもしれないことに。優しさや慈愛や慮りと信じて疑わなかったものが、共感なのだとわかったのだ。共感とは、大体の場合、めぐりめぐった自己防衛だ。自分と重ねやすいものに対して人は甘くなる。その甘さは結局自分のためだ。
私が誰かに昨晩のことを話したとして、聞いた人は共感しやすい方に肩入れするだろう。可哀相な被害者としてだけ見られるわけにいかないだろうということが私の口を閉じた。
ここで初めて「気を付けて帰れよ」の意味がちゃんとわかった気がした。こんな恐ろしい世界にいたなんて。
「ぎやあああああああ、わあああああ」
断末魔の叫びのような子供の泣き声がトイレの個室にまで届いてくる。
「うわあ、あああああ、うええええええええええ」
顔を上げて鏡を見ると、涙で目が腫れていた。塗ってもらったアイシャドウがほとんど落ち切ってしまっている。あどけない瞳でいつまでも心の中に住み着いている高校生の私に、私は話しかけた。
私、結婚するんだ。来週。白井さんって人と。
白井さんとは結婚相談所で出会った。医療機器メーカーに勤めている一回り年上の男性で、私の初めての彼氏である。白井さんが考えていることを聞く時間が好きだった。色々なことを知っているのに、私のたどたどしい話もちゃんと聞こうとしてくれるところも好きだった。出したご飯をおいしいおいしいと言いながら食べてくれるところも素敵だと思った。
先月、いつも通り白井さんの家でおしゃべりしていたら、白井さんが私の手をごそごそ触っていた。何をしているんだろうと思っていたら私の指に指環がはまっていた。すごくすごく嬉しかった。すごくすごくすごく、嬉しかった。涙が出た。白井さんはやさしい。私の母親の「入籍日は大安の日にしなさいよ」というこだわりにも合わせてくれた。明日は白井さんと約束した婚姻届を提出しに行く予定なのである。
結婚はしたい。白井さんくらい暖かい人と一緒になれば、つらい過去も、まるっと、過去として割り切れる日がくるのかもしれない。あの日のことは誰にも話していないのだから、私が忘れられればなかったことにできるかもしれない。しかし、それがどうしてこんなにつらく苦しいのだろう。
いつまでもトイレを占領しているわけにもいかないので席に戻った。隣の赤ちゃんは泣き疲れたのか、すやすや眠っている。
新幹線は品川を出て東京駅へ向かっている。
ふと、通路を挟んで斜め前に座っている不良風の青年が気になった。青年は通路側の席である。何やら不自然にごそごそしていたのだ。そこで見てしまった。青年は、左腕を右腕の下へ潜り込ませ、彼の隣、窓側でアイマスクをしてぐっすり眠っている女性の手提げバッグに左腕を忍び込ませたのだ。そして、視線は通路側にやりながら、バッグの中をごそごそあさり始めた。女性は口をぽっかり開けて眠ったままだ。やがて、桃色の財布らしきものを抜き取ると、すっと手を引き、男性はそれを自分のバッグの中に収めた。
「あ」
と私が小さく声を漏らした。隣の母親は何も気づいていない様子で子供を抱き続けている。その時丁度、赤ちゃんを抱いた母親が席を立った。そしてトイレに向かって行った。どうしよう、と思っていたら、私の丁度斜め前の座席の男性も同じようにきょろきょろしていた。私と目が合い、その人もかすかに頷いたように見えた。
すかさず、私も、と思った。今だ!! と母親のリュックサックに手を伸ばす。チャックの隙間に手を差し入れた。財布やモバイル充電器のような硬いもの、ノートっぽい大きな紙質のもの、食品っぽいものが手に当たって、グミやチョコレートの小袋を取り出す。お菓子を自分の鞄に詰め替えた。舌をぺろっと出す。足が落ち着かなくて、両足をわざとぶらぶら動かした。
母親と赤ちゃんが帰ってくる。私はわざとらしく、スムージーと一緒に盗んだお菓子を食べた。チョコレートは中にクッキーが入っているタイプのもので、口に入れると咀嚼音が響く。いつ気づかれるか、チョコレートを噛みしめる度、心が躍った。
サク、サク、とチョコレート菓子を噛む。横目に親子を見る。噛む。見る。噛む。見る。あまーい、甘い。
それなのに母親は全く気付かない。
「まもなく東京、東京に停車します」
次で降りるらしい母親がごそごそリュックを背負いだした。次が終点なので、みんな降りる準備を始めている。がっかりした。結局、何も声を掛けられず、新幹線を降りることになりそうだ。前の席や斜め前の席に座っていた人や、母親と赤ちゃん、盗人の青年と一緒に出口の方に並ぶ。母親はいつまでも子供にこそこそ話しかけているし、なんだ、つまんない。つまんないの。
東京駅に着き出口が開き私が列に並んで出ようとする、そのときだった。
目に入ってきたのは制服を着た人たちの姿である。その中の一人がぎゅっと私の腕を掴んだ。
「痛いっ」
腕を引っ張られて私の身体はよろけた。制服のお兄さんの方に倒れかけるとき、前に並んでいた母親の目が見えた。下を見ていた。子供の方を。
「痛い、痛い!!」
痛い、と言いながら、心と身体は目の前の人に委ねていた。抵抗などしなかった。目の前のお兄さんは、イヤホンを耳に刺していなかった。真剣なまなざしで私だけを捉えていた。
しかしーー。
「すみません!!」
「……は」
ぱっと手を放された。なぜ謝られたのか分からない。私は確かに人のリュックをあさり、物を盗んだ。しかも食べた。まだ食べていないグミの小袋が私の鞄の中に入っている。なぜ腕を放す。なぜ、なぜ。顔を上げるともう目の前に私を引き寄せた男性の姿はなかった。
視界に通路を挟んで斜め前に座っていた青年の姿が入った。やんちゃ風の、あの、男の子だ。駅員っぽい人と警察っぽい人と眺めたい人が、青年の周りに集まっている。みんな彼に注目していたのだ。
気分が悪くて私はホームのベンチに座った。視界の先にわらわら人が青年の近くに集まってきている。きっと斜め前の席のあの人が通報したんだ。新幹線内のトイレ近くにでも移動して電話を掛けたんだろう。盗んだ人がいるって。その風貌も。
新幹線はやっぱり天国なんかじゃなかった。
通りがかる人は誰も私に振り向きもしなかった。母親は「だいじょうぶ?」とは聞いてくれなかったし叱ってもくれなかった。みんな耳にはイヤホンを刺していて、一人、また一人と私の前を通り過ぎていった。