みれいが死んだ。そのことを私が知ったのは、地元に帰るための電車に揺られていたころだった。雨粒が窓を叩く音に混じったスマートフォンからの少しかさついた声は震えていた。二、三、適当な受け答えをしてから通話を切ると、私は息を吐いてから座席に腰を下ろす。平日の昼間ということもあり電車は空いていて、電話をしていても私に目を向ける人はいなかった。
鞄の中には読みかけの文庫本があって、何より、充電に余裕のあるスマートフォンがあった。要するに、暇つぶしには困らなかったわけだけれど、なぜだか私はそのどちらも取り出す気が起きなかった。単純に、鞄からものを取り出すという動作が億劫だったからかもしれない。何となしに、私は自らの背面にある窓から曇天を見上げていた。街中を濡らす雨が、あの灰色の雲から滴り落ちている。
できすぎだと微かに笑う。空もあの子の死を悼んでいるみたいじゃないか。そういえば、あの子と初めて話したのもこんな風に、崩れきった天気の日だった。時期もちょうど同じくらいだろう。
六月も半ば、ちょうど梅雨の盛りの頃だった。
*
私がみれいに会ったのは、確か高校二年生のときだった。死んだという報告を受けていて何だけど、私は別にみれいと友達というわけではなかった。話したことも三回あったかないか、友人どころか知人と言うにも遠い関係だった。証拠に、私はみれいの名前をどう書くのか知らない。『美玲』なのか、『三玲』なのか。それとももっとおかしな漢字を当てられているのか。それすら知らなかった。
こんな有様だけれど、私はみれいがどんな女の子だったかについてはよく覚えている。あの子は全てにおいて、どこか浮世離れしていたのだ。ハーフだったのか、それともカラーコンタクトでも入れていたのか、目はきれいな青だった。肌が白かったから、私は前者だと思っている。ただ、それにしては顔立ちが日本人そのものだった。周囲の女子からすれば羨ましいことに、どれだけ食べても太らない体質だったらしく、男子の弁当と遜色のない量を毎日食べていて、運動をしている様子がないにも関わらず、痩せ気味の体型はいつになっても崩れなかった。それと、あの子は常に少女漫画を読んでいた。その方面に明るくない私は、タイトルを見てもその漫画がどれだけ人気なのか分からなかったのだけれど、クラスの誰もそのことについてみれいと語り合っていなかった辺り、マイナーな作品だったのだろう。そもそも、あの子は漫画を読んでいたのだろうか。ページの上に目を滑らせていただけなのではないか。
「薊ちゃん。他の星にもアリっているのかな」
「アリ?」
こんな荒唐無稽な質問を私に投げかけてきたときも、みれいの目は漫画に向かっていた。
「そう。アリ。あ、比喩じゃないの。本当のアリさんね。しゃがんで、じーっと目を凝らして地面を見ていたら、列になって歩いている、小さなあのアリさん。他の星にもいるの?」
漫画のページを捲りながらみれいは私に尋ねてきた。多分そのときの私は、みれいがSFでも読んでいるのだろうと思うだけだった。
「よっぽど条件のいい星だったら、いるんじゃないの」
だから私は大してみれいの言動を奇特とも思わずに素っ気なく言葉を返していた。
「大体、昆虫って宇宙から来たらしいし。真っ当な環境で進化さえできれば、アリくらい生まれるでしょ」
「へぇ。虫さんって、遠いところから来たんだね」
静かにそう言って、みれいは再び漫画のページを捲った。それきりみれいは私に尋ねることもしなくなった。さすがにこのまま終わられるのは釈然としない。気づけば私はみれいに尋ねていた。
「ねぇ、どうしてそんなことを訊いたの? 私は虫に詳しいわけでもないのに」
「薊ちゃん、理系でしょ? だったら分かるかなって思って」
「理系は万能じゃないんだよ。で、一旦この件はこれでいいとして……どうしてアリが他の星にいるかってことを聞きたいと思ったの?」
「アリさんが、人間さんの祖先だからだよ」
漫画から目を離さず、その上で間髪を入れずにみれいは答えた。
「アリさんはね、すっごく合理的なんだ。他の生物とは比較にならないくらい。どこか渡ることもできない場所があったら、何匹かのアリさんが橋になって、他のみんながその上を渡るわけ。橋になったアリさんも戻れればいいんだけど、そんなことはなくって、橋になったアリさんは死んじゃうの。その上を渡ったアリさんは当然感謝もしないし、振り向きもしない。どう? ぞくぞくしない?」
「そりゃあ……まぁ」
私の気のない返事など聞かなかったように、みれいは話し続ける。
「ぞくぞくするってことは、つまり残酷ってことでしょう? けれど、度が過ぎているってだけで、これと同じようなことを人間さんもしているの。仲間を足蹴にして、他のみんながその上を歩いていく。でも、人間さんの場合、こういうことを包み隠そうとするの。後ろめたいって思っているから。アリさんは進んでそれをして、隠しもしないのにね。人間さんとアリさんの違いはつまりそこだよ。自分を騙せるか、他を騙せるか、包み隠せるか……どう? アリさんと人間さんの違いって、たったこれだけ。隠し事ができるようになったアリさん。それが人間さんだよ」
思わず笑みがこぼれた。少し知恵のついた子供のような理屈だ。語り口のせいで、皮肉なのか、そんなもの関係なしのただの気持ちなのかも分からない。みれいはいつもこんな調子だった。綿毛のような声と口調。よく分からない話題と論理。含意も真意も汲み取り難かった。しかし、不思議なのは、みれいの話題は酷く空想的で、導き出される結論も飛躍に飛躍を重ねているにも関わらず、聞き手の心にはすとんと届くのだ。腑に落ちる、とでも言うのだろうか。このときも例外ではない。
当時、私は年頃だったからか、周囲の人間にやけに不信感を抱いていた。「すごいね」は
これをみれい以外ができたとは思えない。彼女の容姿や声が、私たちの脳に作用する何かを持っていたのか、話し方にコツがあるのか。結局分からないままだった。
「人間は、隠し事ができるようになったアリ」
「そうそう」
みれいが結論を出した後も、私たちは少しの間話し続けていた。
「……それはそれでいいんだけど、別にそのアリが宇宙にいる必要ってなくない?」
「あるよぉ!」
初めてみれいの目が私を見た。
「だって宇宙だよ? 私、一回は宇宙に出たいの。まぁるい地球をこの目で見たいの。神様と同じ目を持ちたいの。だから、アダム様のアリさんは、地球が見えるところにいなくちゃいけないんだよ」
私は忍び笑いを漏らした。こらえきれたとは思えないから、みれいにはバレていたのかもしれない。けど、構わなかった。アダム様のアリさん。なんて罰当たりな。神をも恐れぬとはまさにこのことではないか。この時私は、おそらくみれいのような人間にはもう二度と出会わないだろうと直感していた。このときの直感は間違っていないと今でも思う。
『次は——』
気怠げな車内アナウンスで目を覚ました。みれいのことを思い出していたら、いつのまにか眠っていたらしい。目を擦って少し伸びをする。一息ついて、電車が減速し始めた時、私はふと理解した。
私は、みれいのことを気に入っていたのだ。
*
ビニール製の傘を広げる。少し風が吹けば骨組みが折れてしまいそうな安物だった。運が良かった。今日は風が吹いていない。駅から足を踏み出すと、独特の、気持ちのいい音が耳を打った。これで、もう少し気温と湿度が下がってくれれば文句はないのだけれど。早くも汗ばみ始めた肌を鬱陶しく思いながら歩を進める。今日は、六月にしては気温が高かった。
私が歩いているのは、数年前まで毎日のように通っていた高校への通学路だった。学生が興味を持つような店もなければ活気もない、そんな通りだ。母校も通り過ぎるついでに眺めたが、大した予算も降りていない公立高校ということもあってかやはり古ぼけているという感が否めない。卒業してから数年が経っているからか、更に酷くなっているようにも思えた。『サテラ』もこうなっていなければいいのだけれど。そう思いつつ歩いていると、紅色の看板が目についた。剥がれかかった白色の文字で『サテラ』とある。さびれているが、あのときのままだ。私はほっと胸を撫で下ろした。あの頃と何も変わっていなかった。
ドアを開けると、ベルの甲高い音が鳴り響いた。この音も変わっていない。店長は私の顔を見るとそっと会釈し、奥の席へと案内した。見ると、髪を明るい茶色に染めた理央が「あーちゃん、こっち」と手を振っている。相変わらず小太りの大和も私に向かってぎこちない笑みを浮かべていた。とりあえず、コーヒーを一杯注文した後、私は席に着いた。
「あーちゃん、ごめんね。いきなり呼び出しちゃって。まだ家にも帰ってないでしょ?」
「別に大丈夫だよ。家に帰って何かするってわけでもないし、今年はお土産も買ってきてないしね」
何も持っていない手をひらひらと振りつつ言った。持ち物と言えば、小さな鞄に入った文庫本、財布、スマートフォン。それに駅前で買ったビニール傘くらいのものだった。
それにしても、家にも寄らずまっすぐここに来て正解だった。今は気を張って笑っているものの、理央の目の下は赤く染まっており、ついでに化粧を直した跡もあった。相当泣き腫らしたのだろう。ここ一、二年は疎遠になっていたとはいえ、これを放っておくのは友人の身として気が引ける。それに……。隣に座っている大和のことを見る。
彼はマドラーでコーヒーを混ぜている。よく見れば、コーヒーの上に砂糖の粒が浮いていた。きっと、理央のことを宥めている間、手慰みに角砂糖を入れ続けたのだろう。二つのことを同時に進めた方が集中できるというのが彼の持論だ。つまり、彼にしてみれば〝ながら〟で物事を進めるのは本気のサインなのだが、肝心の相手にそれが伝わるかどうかは分からない。彼の疲れた顔を見るに、理央には伝わらなかったのだろう。私は、大和を励ますように肩を二回叩いた。大和は怯えたように身を震わせた。思わず苦笑する。やはり、短い間とはいえ交際していた間柄だ。私は何とも思っていないが、彼からすれば気まずいのだろう。
そんなことをしている内に、マスターがコーヒーを持ってきた。軽く会釈してから、私はそれを口にする。高校時代と変わっていない。可もなく不可もなくの味。
「……それじゃあ、始めていきますか!」
私がソーサーの上にコーヒーカップを置くと、理央があくまで朗らかに言った。しかし、その声はどこか張り詰めている。無理に明るく努めていることがどうしても分かってしまう痛々しさがあった。もちろん、そんな状態が長く続くわけもない。理央の言葉は続かなかった。彼女の表情からは段々と力が抜けていき、ついには笑みが消えた。彼女は俯いてから、ぽつりと言った。
「……どうして、みれいは死んだのかな」
私は、気づかれないくらいに、大和へと視線を向けた。彼は渦を巻いているコーヒーカップの中身を見つめていた。やはり、ショックは大きいのだろう。私は、あまりみれいと関わっていないから、衝撃こそあれ、悲しみはそれほど湧いていないのだが、この二人についてはそうもいかない。二人の高校生活について自由帳にでも好き勝手に書き出すとすれば、その中心には『みれい』の三文字が来る。少なくとも、高校時代の彼らにとって、みれいは全てだと言っても過言ではない。私が二人と知り合ったのだって、『私がみれいと話していた』という一点がきっかけなくらいだ。それがぽっかりと空いた。その穴の大きさは、察するに余りある。
「その……いい?」
私が尋ねると、理央は首を縦に振った。
「聞いてなかったけど、みれいの死因って……」
「転落死。……自殺の可能性が高いって」
すうっと、胸が冷えた。自殺。そんな温度のない、真っ黒な言葉は、とてもみれいに縁のあるものだとは思えなかった。
「みれいが入院したってことはもう言ってたよね」
私は首を縦に振った。帰省の少し前、そのことについては連絡を受けていた。
「病気だったんだよね……えっと……」
「ステージ一の癌だよ」
言い淀んだ私の言葉の続きを、大和がすぐさま補足した。ああ、そっかと、私はひとりでに言葉を漏らした。それを確認すると、理央が淡々と放し始めた。
「早めに見つかったからさ。ちょっとの治療で治って……入院って言っても、体力回復のためだったんだよ。だから、病気になった自分を悲観して……ってわけでもない。面会にも行ったけど、別に普段と変わった様子があったわけでもなかった……」
「つまり、自殺するような兆候はなかったってこと?」
私が訊くと、理央はゆっくりと頷いた。そして彼女は、私のことを疲れ切ったような、しかし、確かな意思を宿した目で見つめた。
「ねぇ、あーちゃん。どうしてみれいが死んだのかを探ってみない?」
*
「ただいまーー」
「おかえり。意外に早かったね」
母の気楽な声が居間から響く。
「お風呂沸いてるから、さっさと入っちゃいな」
「別にいい。濡れてないし、あんまり汗もかいてないし」
軽く手を洗って居間に入ると、私は荷物を投げ出して、そのままソファに横になった。何となしにといった具合にサスペンスドラマの再放送を見ていた母が、呆れたような溜息を吐いた。
「あんたねぇ。せっかく実家帰ってきて、もうちょっと何かないの?」
「お土産だったらそこにあるよ。勝手に取って食べて」
「ソファに寝そべったまま言わない」
「別にいいでしょ。というか、もうちょっと娘に会えて嬉しいとかないわけ?」
「アンタの分だけ食費も光熱費も高く付くの」
「薄情者」
そこで一旦会話は途切れた。しばらくの間、知っているような、知らないような俳優の声だけがしていた。
「……そういや、アンタ。御園さんって子、知ってる?」
「御園ぉ?」
「アンタと同じ高校の子。確か歳も同じだったはずだよ」
私はソファから身を起こした。
「下の名前、分かる?」
「ええとね、確か……みれいだとか、そんな名前だったけれど……」
「その子について何か聞いてない?」
間髪入れず答えたからか、母は怪訝な表情を見せた。
「……その子と知り合いだったりしたの?」
知り合い。私とみれいの間の関係を表すにはピッタリの言葉だった。私は首を縦に振る。
「死んじゃったんでしょ。みれい」
「何だ。知ってたの」
娘に知人の死を知らせなくて済んだという安堵からか、母の声には若干の柔らかさが混じった。それから、気の毒そうな声色で話を続けた。
「自殺だったってねぇ。病院の窓から飛び降りたって……あの時は結構な騒ぎだったのよ。パトカーもよく見かけたしね」
母の口調には、うんざりしたような調子が混ざり始めていた。
「マスコミもいっぱいいたし。『どうして自殺したか知っていますか』なんて訊かれても、分かるわけないじゃないの。辛かったんだとは思うけど……」
私の家は高校へと徒歩で通学できる範囲内にある。何があっても大して気にも留めない母がこれだけ愚痴をこぼすとは、警察の聞き込みやマスコミのインタビューは、当時は相当に加熱していたのだろう。
「というかアンタ。あんまり悲しんでないのね」
「……デリカシー」
私がぼそりと指摘すると、母親はばつが悪そうに口を閉じた。とはいえ、悲しんでいないのは事実だった。
「ねぇ、お母さん。明日って雨止む?」
「それくらい自分で調べなさいよ……明日は晴れるらしいけど。どうしたの、どこか出かけるの?」
「それと、御園さんが自殺したっていう病院、どこにあるの?」
「……お参り?」
「そんなとこ。警察とかいないよね?」
「もういないと思うけど……気をつけなさいよ?」
「え、何。不審者でもいるの?」
「そんなんじゃなくて……何というか、ほら。霊障? そういうのに」
私は大きな溜息を吐いた。
*
翌日。昨日の悪天候が嘘のように空は晴れ渡っていた。夏を予感させるような陽の光が、勢いよく私の肌を刺す。帽子を目深に被り直すと、水溜りが残る道を自転車で駆け始めた。
下宿先には自転車がないから、乗るのは久しぶりだった。しばらく使われていなかったからか、時折怪しい音はしたものの、走行に支障はなかった。みれいが入院していたという病院は、案外家から近い場所にあった。二十分も自転車を走らせれば着いてしまう。高校よりも近かった。
昨日の話からすると、病院に着いても、理央と大和はきっといないのだろう。無意識に苦笑が漏れた。二人が私に頼んだのは、当時の病院での出来事の調査だった。……単純な好奇心から、半ば勢いで引き受けてしまったが、今になって後悔が湧き起こる。警察の捜査が入っても、自殺以外の結論は導き出せなかったのだ。国家権力に、一介の女子大生が勝つことはできやしない。昨日に戻ることができるなら、二人にそう言ってやりたかった。
そんなことを考えている内に、目的の総合病院が見えてきた。清潔感のある、巨大な建物。子供が遊ぶためのものだろうか、玄関前にはちょっとした公園もあった。今も子どもたちが笑顔で走り回っている。無意識的に、私は溜息を吐いていた。ここは病院。そりゃあ、死がありふれた場所なのだろうが……自殺は、とても似合っていないように思えた。
自転車を停め、一歩踏み出した瞬間、思わず「あ」と声を上げてしまう。肝心なことを聞いていなかった。みれいの病室はどこだったのだろう。しかし、私は大して心配もしていなかった。母があれだけぼやいていたのだ。誰かに訊けば、すぐに分かるだろう。すぐに私は、受付へと入っていった。病気も、面会の予約もないのに病院に行くのは妙な気分だった。ほんの少しの罪悪感に駆られる。だが、それはすぐになくなった。悪いと思いつつ、急ぎ足で私の横を通り過ぎようとしていた看護師に声をかける。
「何でしょう」
「あの、御園みれいさんの病室ってどこなのか分かりますか?」
私が尋ねると、看護師は訝しげな顔をした後、慌てたように気の毒そうな表情を取り繕った。
「……お気の毒ですが、御園さんは先週お亡くなりに……ご存知ありませんでしたか?」
なるべく衝撃を受けた風を装う。看護師は急ぎの仕事があるのか、私に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。私はすかさず尋ねた。
「あのっ……みれいは最期、苦しんだんでしょうか」
看護師は、憐れむような視線を私に向け、少し迷いを見せてから告げた。
「こういうことは言いにくいのですが……御園さんは自殺されました」
「えっ……」
白々しくなっていないだろうかと少し不安になったが、看護師は特に私を怪しんでいないようだった。調子に乗った……というわけでもないのだが、そのままの調子で私は続ける。
「じ、自殺って、一体どんなふうにして……」
「ええと……西の入院棟の五階の窓から落ちたんです。即死でしたから、苦痛はなかったと思います」
調べればすぐに分かることだからか、看護師は、特に口を噤むこともなくそのことを告げた。ここまで来たらあと一息だ。できる限り憔悴した感を出すため、声の勢いを弱めて尋ねた。
「……そこまで案内してもらうことってできませんか?」
「はい?」
「せめて、みれいに天国でゆっくりしてくれって言うだけでも……いけませんか?」
「あ、いえ。そういうことでは……」
一瞬、未だ警察の調査が続いているのかと肝を冷やしたが、看護師が自身の持つ書類に目を向けたあたり、ただ自身の仕事が立て込んでいるだけらしい。私はほっと胸を撫で下ろした。そこに、もう一人、若い女性の看護師が通りかかる。これ幸いと、書類に目を向けていた看護師が声をかけた。
「松江さん。この人のことお願いできない?」
「はい?」
「この人、御園さんのお友達らしくてね。御園さんに最後の挨拶したいって。だから、あそこまで連れて行ってくれない? あなた、あの時西棟の当直だったんだし、ちょうどいいでしょ? それじゃあ、よろしくね」
「え? ちょ、ちょっと……」
松江さんのことを見向きもせず、看護師は立ち去っていった。松江はがっくりと肩を落とし、何やらぼやいていたものの、私の視線に気づいて慌てて姿勢を正した。
「え、あ、そ、それじゃあ、とりあえず行きましょうか」
松江さんは一応笑顔を浮かべていたものの、その奥には明らかに面倒くさいという思いが透けていた。
*
「みれいさんって……その、学校ではどんな感じだったんですか?」
松江さんの背中について歩いていると、ふとそんなことを尋ねられた。
「ええっと、高校の時は……というか、高校の時のみれいしか知らないんですけど、不思議な子でしたよ」
「やっぱり。きっと人気者だったでしょう?」
人気者。果たして、そう言ってもよいものか。みれいがクラスメイトと個人的な関わりを持っていたような印象はない。あの二人に関しても、自分から話しかけに行くことは殆どなかった。
「……さぁ、どうでしょうね。私の周りの人達からはものすごく好かれてましたけれど、他のクラスメイトからは、どうだろう」
松江さんは、特に驚きもしなかった。むしろ、合点がいったというように得意げな様子だった。
「みれいさん、面白いんですけどね。そうですよね。万人受けするようなタイプの人じゃないしなぁ」
「あの、松江さんって……みれいの担当だったんですか?」
「はい。そりゃもう。ずっとってわけじゃありませんけど、よくお世話もさせてもらいましたし、いっぱいお話もしましたよ」
思わぬ情報源だと、私は心中でガッツポーズをとった。理央や大和のことが出てきていない以上、彼らと話はしていないのだろう。何か訊いた方がいいのだろうが、あまり踏み込んだ質問をしてしまうと、逆に距離を取られてしまう。具合のよい質問はないだろうか。少し考えてから、私は松江さんに尋ねた。
「みれい、どんな風だったんですか?」
松江さんは、特段間もなく答え始めた。
「ええとですねぇ……ううん、ちょっと恥ずかしい話になるんですけど、みれいさんの担当になったばかりの頃、ドジばっかりしてて……書類はミスばっかり、薬は間違えかけて、データの保存もできてなくって……上司にも、ほとほと呆れられて、怒られて、正直、何でこんなにダメなんだろうっていう思いと、そこまで言わなくてもいいのにっていう思いで、板挟みになっちゃってて。それで、みれいさんにこのこと愚痴っちゃったんです。ほんとはダメなことなんですよ。私たちなんかより、よっぽど怖くて辛い思いをしてらっしゃる患者さんにそんなことしたら。ストレスを溜めさせるだけですから。けれど……」
松江さんは、青春時代でも回顧するかのように、ほんの少し上方に視線を向けていた。
「みれいさん、ベッドの脇に漫画積んでたんですけどね、それ全部床に投げ出して、冷蔵庫の中に入ってたペットボトルとかも全部ぶち撒けて、『何とかして下さい』って。もうびっくりして、腹立ててる暇もなく、慌てて片付けて……その間、みれいさんは私のことを見もせずに、ベッドの上でぼーっとしてたんです。やっと片付け終わったら、みれいさん、やっと私の方見てくすくす笑うんですよ。『これよりマシです』って。……本当だったら怒るところなんですけど、不思議とそんな気は起きなくて、むしろ、何となく清々しかったです」
みれいらしい。私の口元には笑みが浮かんだ。滅茶苦茶という他ない行動だけれど、みれいがやったというだけで、その行為に正当性があるように思えるのだから、やはりあの子は特別だったのだと思う。
「それから、よく話すようになって……みれいさん、いつも楽しそうだったから……だから、まさか自殺するなんて、思わなくて」
松江さんの言葉は、少し震えていた。
「……何か、おかしな様子はありませんでした?」
「そんな様子は全然……たまにぼんやりして空に向かって話しかけてましたけど、そういう人だし……彼氏さんもいたのに、どうして自殺なんか……」
「は?」
私は思わず頓狂な声を上げた。松江さんが驚いて私の方を振り向く。
「え……ご存じなかったんですか?」
「あ……最近、あんまり連絡取れてなかったんで……」
「そうですか……」
気の毒そうな視線を松江さんは私に向けた。久々に会った友人が死んでしまっていた。そんな悲劇の渦中にいる人間として、彼女は私を認識しているのかもしれなかった。みれいが友人ではないという一点を棚上げすれば、彼女の認識は概ね真実だった。だが、現実の私は、疑念を抱かれなかったことに胸を撫で下ろしているだけだった。
というか、それより。
「みれいの彼氏って……どんな人だったんですか?」
「多分、会えると思いますけど」
松江さんはさらりと告げた。
「彼氏さん、あの日から毎日来てて……多分今日も……ほら」
いつの間にか、私たちはみれいが死んだ現場に到着していたらしい。松江さんが指さした先には、背の高い男性が一人、虚ろな目をして立っていた。
彼を見た途端、私は足を止めた。
「ああして、何もせずに……って——」
松江さんの話を聞くのもそこそこに、私はその男に近づいていった。間近まで近づいても、彼は視線一つよこさなかった。
「久しぶり。元木くん。私のこと……覚えてる?」
そう言って初めて、元木くんは私に目を向けた。
*
彼が健康的な生活を送っていないことは一目瞭然だった。頬はこけ、無精髭が伸びている。服も新調していないのか、どこかくたびれていた。彼は私を見ると、戸惑ったように視線を動かした。
「まぁ……覚えてないよね。それもそっか。ただ同じクラスってだけだったし……」
「あ……いや、思い出したよ。確か……ええと、弟切さん、でよかったっけ」
「うん。そう。弟切薊。よろしく」
「……よろしく」
どう話を続ければいいのか分からないのか、数回ちらちらとこちらを見てから、元木くんは再び病棟の一室……みれいのいた部屋に視線を戻した。
「……みれいと付き合ってたって、本当?」
元木くんは視線だけを私に向けた。
「誰から聞いたの」
「松江さんっていう看護師の人。まだそこに……」
私は振り返ったものの、業務が立て込んでいたのか、あるいは変な勘違いでもしたのかもうそこに松江さんの姿はなかった。
「あれ、いない……」
「別にいいよ。顔見知りだし。……それと、みれいと付き合ってたっていうのは本当」
淡々とした口ぶりだった。その声は、感情を押し殺しているというよりは、削ぎ落とされているように響いた。
「……その……何て言えばいいのか……」
想い人が死んでしまった人間にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。
「別にいいよ。気にしなくて」
その言葉は、より一層淡白だった。
「それより……せっかく会ったんだから、せめて座って話そう。向こうにベンチあるからさ」
それだけ言うと、元木くんは私の了解も取らずに早足にベンチへと向かっていった。私も急いでその後を追う。彼がこしを下ろしたのは、日陰の、目立たない場所にあるベンチだった。少し戸惑いつつも、元木くんの隣に腰を下ろす。蒸し暑さが大分抑えられ、休憩するにはいい場所だった。
元木くんは、ベンチに座ってからも、しばらくは何も話さずに、病棟に虚ろな視線を向けていた。しかし、突然私に顔を向けて、
「弟切さんは、ここに何しに来たの」
と訊いてきた。目は虚ろで、無精髭は生え放題だったが、整った顔立ちは学生時代から変わっていなかった。
「高校のとき、みれいの取り巻き達と仲良かったよね? その付き合い?」
「え……っと、そうじゃなくてね」
取り巻き達。その言い方には何となく棘があったものの、気にしないことにする。あの二人の様子は傍目から見れば奇怪なものに見えたのもまた事実だった。
「そりゃあ、みれいとも付き合いあったし、お参りのつもりもあるけど……けど、みれいが自殺するとはどうしても思えなくて」
「つまり、誰かに殺されたって?」
「え、いや、それは……」
元木くんが急に私の方に顔を向けた。私は反射的に顔を反らした。返答もはっきりしなかった。
他殺……みれいが自殺したのでないならば、当然頭に浮かぶ選択肢。そして、この選択肢があるからこそ、私はこの件に関わることを最後まで迷っていたのだ。一度首を突っ込めば、人を一人殺した人間と関わるかもしれない。これは相当な恐怖だった。昨日、二人はこのことには言及していなかったが、他殺を否定する根拠でもあるのだろうか。
「……元木くんは、殺されたと思ってるの?」
私の口からは、そんな問いが自然と漏れ出ていた。
「うん」
平然と、何でもないように元木くんは答えた。その声は、どこまでも乾いていた。
「自殺だとは思えない……心情的にも、物理的にも。その上で、事故死でもなかったら、もう他殺だとしか思えないだろ?」
そう言うと、元木くんはみれいがいた病室を見上げた。
「あの病室の窓、結構高い位置にあるんだよ。弟切さんの身長なら、腰の辺りに下枠が来るくらいの位置に」
元木くんの言わんとすることは何となく理解できた。みれいは背が低かった。少なくとも私よりは。つまり、病室の窓に軽く寄りかかるくらいでは転落などしないということだ。
だが、それだけでは足りない。
「でも、それだったら事故死の可能性は否定できても、自殺の可能性は否定できないよ。窓枠を乗り越えるくらい、みれいの体格でも楽に——」
「できないよ」
それ以上言葉を続けるのは無駄だと告げるように元木くんは私の言葉を遮った。
「そっか。弟切さんはみれいと会ってないのか。……みれいね、手術の後だったから体力落ちてて、歩くのもちょっと苦労するくらいだったんだよ。そんな状態で、ベッドから起きて、窓枠に手をかけて、身体支えて飛び降り自殺……なんてことは、自力じゃできないだろ?」
「それは……そう、だね」
あまり、元木くんの言葉を肯定することはしたくなかった。みれいは自殺しようにもできなかった。かといって、事故も起こることがない。この二つを認めると、元木くんの言ったように、みれいは誰かに殺されたという可能性しか残らない。そして、その人物についてもかなり限定されてくる。何せ、みれいを殺すことができたのは、彼女の病室に出入りすることができた人間以外にいないのだ。
それはつまり、真っ先に疑うべき人間が、理央と大和であることを示していた。
「……やっぱり、そんな目で見るよな」
私と目を合わせて、苦笑交じりに元木くんが言った。警戒心か、それとも敵意か、何にせよ元木くんに向けた視線にそれが混じっていたらしい。
「……理央と大和のこと、疑ってるの?」
「疑わない理由がないからね」
「……私にみれいの死因を調べるように頼んできたけど」
「その間に、証拠でも隠滅する気なのかもな」
私は元木くんのことを睨みつけた。
「仮説でしょ、そんなの」
「そっくりそのままお返しするよ」
しばらく私達は睨み合っていたが、やがて元木くんが表情を崩して笑った。周囲の張り詰めた空気が一気に弛緩する。
「まぁ、水掛け論になるだけだ。これ以上は止めとこう。みれいも、自分の知り合い同士が喧嘩してるのはいい気分じゃないだろうしさ」
「……そうだね」
私達は互いに視線を外した。二人とも、何も言わなかった。ただ、風がそよぐ音だけが耳に届いていた。風が止んで少ししてから、私は口を開いた。これだけは、やはり訊いておかなければならなかった。
「……ねぇ、もし理央とか、大和がみれいを殺してたとしたら——」
「許さないよ」
先回りして、冷徹に元木くんは答えた。
「恋人を殺されたんだ。誰が犯人だろうが、許すなんて選択肢はないよ」
その言葉には一切の淀みがなかった。別にショックではない。元木くんからすれば二人は他人だし、恋人を殺した人間を許すことができないのは当たり前だろう。そう考えれば、元木くんの答えは至極真っ当なものだった。
そのまま黙っていると、元木くんが少し笑った。
「……どうしたの?」
「ああ、ごめん。多分理由があるんだと思うとか、月並みなこと言わないんだなと思って」
「理由があったって……結局そのことを判断に入れるのかは元木くんが決めることでしょ? わざわざそんなこと訊かないよ」
「気に入った」
「え」
私は反射的に元木くんから身を引いていた。彼は笑うと、「変な意味じゃない」と、元の席に戻るよう促した。
「……で、変な意味じゃないならどういう意味なの」
「結論から言うと、協力しないかってこと」
「協力?」
「俺達二人の利害は一致してるだろ? みれいの死因を暴く。弟切さんの友人が容疑者で、弟切さんが庇うんじゃないかっていうのが心配だったけど、そんなことはしなさそうだし。それに、俺にしてもその二人は犯人じゃないほうがいい」
理由は訊くまでもなかった。彼氏の身としては、友人に裏切られて殺されるなどという末路をみれいに辿ってほしくはないのだろう。
「俺が知ってる限りで良ければ、弟切さんの知りたい情報も教える。悪い取引じゃないと思うんだけど、どうかな?」
少し、私は考えた。特段親交もない相手と連絡先を交換するのは少し抵抗があったが、元木くんの様子からして、そんなことをする気力が彼に残っているのかも怪しかった。万が一、何かしてきたとしても、彼は私の住所も何も知らない。いざとなればブロックしてやればいいだけだ。
「……いいよ」
私のその言葉を聞くと、元木くんはひび割れたスマートフォンの画面を差し出した。そこに映し出されたQRコードを読み取る。元木くんのアカウントが表示された。
「これでよし……と」
「……えっと、私、今日の所はこれで帰るね。ちょっと用事があって」
「ああ、うん。俺はもうちょっとここに残っとくよ」
「それじゃあ、また……でいいのかな?」
「ここに来たら、大体いるから。それじゃあ、さよなら」
手を振る元木くんに軽く頭を下げて、私はベンチを後にした。ふと気になって、少し進んだところでもう一度振り返ってみる。元木くんは私に目を向けることもなく、ただひたすらにみれいのいた病室を見つめていた。彼が何となしに理央と大和のことを敵視していた理由がわかった気がした。同族嫌悪、という言葉がこれほど似合う状況もないだろう。
彼もまた、みれいに寄りかかっていただけなのだ。
「さて……」
私は再び正面を向いて歩き出す。他人の色恋沙汰に思いを巡らせている場合ではない。目下私を悩ませているのは自らの色恋沙汰だった。
『久しぶりに話したい。よければお茶でもどう?』
昨日、大和から送られてきたメッセージだった。
*
正直、大和に一度別れた彼女と一対一で話す度胸があるとは思わなかった。最も、いつもなら集合時間の十分前には目的地に着いているところを、今回に限っては三分前になっても姿を表さないところは、〝らしい〟のだけれど。
指定された喫茶店で、コーヒーを飲んでミルクレープをつつきつつ、私は大和を待っていた。かれこれ三十分になる。平日ということもあってか、店内に人はあまりいなかった。窓際の席に案内されたものだから、定期的に窓の外を眺めてみるものの、小太りのシルエットは未だ姿を表さない。多分、集合時刻丁度にやってくるのだろう。大和なら、きっとそこで腹をくくる。というか、諦める。
つまり、あと二分程待てばいいのだが、いい加減に退屈がやってきた。皿の上に残っているミルクレープは一口分しかない。コーヒーにしても、うっすらとカップの底が見えている。全て平らげてしまうまで三十秒もかからない。スマートフォンを開いたとして何か見るものがあるかと言えばそんなことはないし、本を一冊持ってくるにしろ、手持ちの本は昨日の晩に底を突いてしまった。
仕方がないから、ミルクレープの残りを口の中に放り込み、コーヒーで流し込む。苦味と甘みがごちゃまぜになった異様な味が舌の上を駆けた。タイミングよく現れた店員が、カップと皿を持っていく。これで本当に手持ち無沙汰だ。大和がやってきたら一つは文句を言ってやらないと。そう考えたが、すぐにその考えを頭の中から消し去った。彼は冗談めかして言ったとしても、言ったことを真に受けてしまう。面倒なことになる……私は小さく息を吐いた。思い返せば、大和と別れたのはこうした小さなことが積もった結果だった。薄氷の上に積もった雪が、その重みで氷を割るように……そんな比喩が自然と頭に浮かんだ。
……そういえば、みれいと恋愛について話したことがあったっけ。
退屈から逃げるように、記憶は高校時代へと巻き戻っていった。
*
「ねぇ」
細かいところはもう覚えていないのだけれど、きっとみれいと私は席が近かったのだろうと思う。そうでなければ、わざわざみれいが私に話しかけてくるような理由がない。多分、私は鬱陶しげにみれいに返答した。実際に会話をしている中では、全くそんなことはないのだが、みれいの言葉は、彼女を離れてしまうと途端に輝きを失い、重くなってしまう。みれいの言葉が力を持つのは、あくまでみれいが会話している間だけなのだ。おそらく、以前みれいと会話したのは大分前だったのだろう。記憶の中の私とみれいは、共に冬服を着ていた。要するに、私はみれいと言葉を交わす感覚を忘れていたのだ。
「薊ちゃんって、大和くんと付き合ってるの?」
可愛らしく小首を傾げてみれいは尋ねてきた。
「そうだけど、何か不満?」
確か私はそう答えた。本でも読んでいた中、急に声をかけられたのだろう。そうでもなければ、ここまで邪険な対応はしない。しかし、みれいは嫌な顔ひとつせず、むしろ目を輝かせて私のそばに座った。
「どんなところが好きになったのっ」
言葉尻が弾んでいた。私は少し困った。真面目に応対していては、きっと話が長くなる。様子こそ小学生のそれと変わらないものの、みれいは高校生だ。少しは考えてもらおう。
「みれいの方がよく知ってるんじゃないの?」
そう言うと、みれいは目を丸くした。そしてしばらくはその目を天井に向けて考えを巡らせていたようだが、やがて再び小首を傾げた。
「何で私が知ってるの?」
「何でって……みれい、大和とはよく一緒にいるでしょ?」
「うん」
「だったら、いいところの一つ二つ……」
「あるけど、そんなこと私が言ったってしょうがないよ。私が訊きたいのは、どうして薊ちゃんが大和くんのことを好きになったのかってことなんだから」
みれいは、目を輝かせたまま私のことをじっと見つめていた。溜息を吐きそうになった。どうしてここまで、私と大和について訊いてくるのか。私は、みれいが少女漫画ばかり読んでいることを思い出していた。漫画と現実のそれを重ねてしまっているのだろうか。だとすれば目も当てられない。何と答えようか苦慮していると、みれいはいきなり私の両頬をつねり、引っ張った。
「はひふんほ」
言葉にもなっていない私の説得も虚しく、みれいは私の両頬に交互に目をやりつつ、難しい顔をしているだけだった。頬をつねられている間は痛みこそなかったものの、手を離されてみると、微かにひりひりとした痛みが残った。私が頬を擦っている様子を見て、みれいは満足げに頷いた。多少苛ついた。私は、みれいの片頬を思い切り引っ張った。
「いだい」
目尻に涙を浮かべながら、みれいは訴えた。
「……じゃあ、何て言うの」
「ごべんなざい」
私が手を離すと、みれいの白い頬は、片方だけ赤く染まっていた。虫歯でも庇うように、みれいは頬を抑えていた。
「それで、何でこんなことしたの」
「……だって、ほっぺたが赤くなかったもん」
「……はぁ?」
まるで意味が分からなかった。あまりに意味が取れなかったからか、もう片方の頬を引っ張ることもせず、私はみれいの次の言葉を待っていた。
「好きな人の、好きなところを話すなら、ちょっとは照れるものじゃないの?」
「……人によるんじゃないの?」
「それに、薊ちゃん、迷ったんじゃないの?」
みれいの声が、突然鋭さを帯びた。
「……何が言いたいの?」
私は反射的にみれいを警戒していた。しかし、みれいは全て見透かしたような笑みを浮かべているだけだった。この顔は、今でもはっきりと覚えている。
「薊ちゃん、あんまり私とお話したくないんだよね?」
「だったら、話しかけないでほしいんだけど」
私がそう言ったにも関わらず、みれいは変わらない調子で言葉を続けた。
「そう思うなら、適当な理由つけてお話を終わらせようとすると思うんだけどなぁ。『優しいから』とか、本当に適当な理由。でも、薊ちゃんは何にも言わなかった」
「……はっきり言ってよ」
私はみれいのことを睨みつけて、本題に切り込んだ。
「私が、本当は大和のことを好きじゃないって言いたいの?」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、どういうことなの?」
みれいは、珍しく悩まし気な顔をした。
「……私も、よく分かんないんだよ。ただ、気になったの。恋愛とかしたことないから、どういう気分なのかって」
そう言うみれいの視線は、自然と元木くんの方を向いていた。彼は、何人かの女子に囲まれて、困ったように笑っていた。
「ああいうのがタイプなの?」
「いや、全然」
素っ気なくみれいは言った。元木くんとは特に関わりもないし、彼がみれいにどのような感情を抱くかなど全く分からないけれど、こうもばっさりと断じられれば気の毒だという思いが湧く。
「元木くんだったっけ? あの人に寄ってる女の子は、本当にあの人のことを好きだなんて思ってないでしょ? 特に興味もないけれど、その人がアイドルだからって理由で一緒に撮った写真と同じでさ、アクセサリーみたいなものとしか思ってない。当然そんなことはあの人が一番分かってる
だから、可哀想だなって思わないことはないけど。そう言い加えると、みれいは口を閉じた。私はみれいの顔にもう一度目を向ける。その顔は、なぜだか酷く冷たく見えた。少なくとも、みれいは元木くんには欠片も好意を抱いていないことはよく分かった。
「恋愛って、どんなのなんだろうねぇ」
みれいは、子供のような調子でそう言うだけだった。きっとここで会話は終わったのだろう。ここからの記憶は、どうやっても思い出せなかった。
*
「薊?」
気づくと、大和が向かいの席に座っていた。彼は心配したように私の顔を覗いていた。
「あ、うん。どうしたの」
「どうしたのって……呼びかけても何も返事しなかったから……」
大和は背負っていたリュックサックを脇にどけつつ、パラパラとメニューをめくり、ケーキセットとカツサンド、そしてコーヒーを注文した。
「……アンタ、昼食べてないの?」
「食べたよ」
「何食べたの」
「カツ丼」
「……何でカツを重ねるの」
そんな食生活をしているとメタボリックシンドローム一直線だと言ってやろうと思ったが、それ以前の問題だった。というか、高校時代からそうだった。朝にカレーパン、昼に学食のカレー、そして夜にもカレー。大和はこんなメニューを平然と選ぶ男だった。こんな食生活をしておいて、肌には吹き出物の一つもない。だが、肌が焼けている様子はないから運動はしていないのだろう。その丸み以外は、何とも羨ましい身体だった。
「まぁ、いいや。それで? どうして呼びつけたの」
「メッセに書いたろ?」
「わざわざ元カノ呼びつけて、話をしたがる人とは思ってなかったから、裏があるのかと」
「……別に悪いことしてるわけじゃないんだから、いいだろ」
「それはそうなんだけどね」
私と大和は、別に喧嘩別れをしたというわけではない。その別れ方は至極穏やかで、人に別れ方の理想は何かと訊けば、そもそも別れることがないの次くらいには来そうな別れ方だった。具体的に言ってしまえば、友人でいる分にはまだ許容できた部分が、彼氏・彼女という関係となってしまった後には段々と目につくようになった。だからお互い、友人でいる方が幸せだと意見が一致し、友人同士に戻ったと、こういうわけだ。……完全に元に戻れたわけではなかったのだが。
「アンタ、卒業するまで私のこと避けてたのにさ。どうして今になって……」
「あれから二年だろ? いい加減頭も冷めたよ。だから、その……せっかく友人同士に戻ろうって言ったんだしさ」
「そこで煮えきらないのがねぇ……」
「……」
大和は頬を赤くして下を向いた。丁度、大和の頼んだ三品がテーブルに運ばれてきた。恥ずかしさを紛らわすように、カツサンドにかぶりついた。大和の口元は、カツサンドを咀嚼する度に幸せそうに緩んだ。こういうところは変わっていない。彼がかつサンドを飲み込むまで待つと、私は話を切り出した。
「それはいいとして、まずみれいのことについて色々訊いていい?」
「あ……うん……いいよ」
みれいという名前を出した瞬間に、大和は目に見えて落ち込んだ。食事を口に運ぶ手も止まっていた。
「……嫌なら、話すの止めるけど」
「いや、いいよ。続けて」
大丈夫だということを示すかのように、大和はカツサンドを齧った。
「アンタら、みれいに彼氏いたってこと、知ってた?」
大和は一瞬、身体を震わせたものの、コーヒーを一口飲むと、すぐに答えを返した。
「ああ……元木のことだろ」
淡白なその口ぶりからして、大和は元木くんにあまり好感を抱いていないようだった。
「やっぱり、自分の親友を他の誰かに取られるのは嫌?」
からかうように言うと、大和はつまらなさそうに息を吐いた。
「別に嫌じゃないし……それに、何だか、その理屈でいくと、僕がみれいのことを好きだったみたいだろ?」
「好きだったんじゃないの?」
「そういう好きじゃない。もしそうだったら、薊とは付き合ってないだろ」
この話はやめだと言う風に、大和はコーヒーをあおった。
「……一つだけ言っとくけど、あんまり理央の前でこの話するべきじゃないよ」
「分かってる」
わざわざ言われるまでもなく、重々承知していた。理央の前では色恋の話は厳禁。それは高校時代から、私達三人の間での暗黙の了解だった。私も大和も、このルールは厳格に守ってきた。破れば面倒だと言う気持ちはもちろんある。だが、一番の理由は理央のことを案じていたためだった。
理央は、中学時代に付き合っていた彼氏から散々に捨てられたのだという。涙ながら、息も絶え絶えに話していたあの様子からして相当なトラウマらしい。だから私達は恋愛関係の話題を出さないように努めた。私達が付き合っていた数カ月間は、はっきり言って苦労した。
「それで、元木とは話したの?」
「うん。色々と……あ」
「どうしたの?」
「ええと……」
少し迷ってから、私は口を開いた。
「もしかしたら……というか、元木くんはアンタらのことを疑ってる。多分、ちょっとでも怪しい動きをしたら——」
私が話していると、大和は私に向かって手を招いていた。微かに不審に思いはしたものの、私はすっと大和に身体を近づけた。瞬間、大和の指が、私の額めがけて弾き出された。
「あんまりそういうことを言うもんじゃない」
「ごめん……」
「そういうことじゃなくて……疑惑をかけられている人間の前で、その疑惑について話さない方がいいってことだよ。もしも僕がみれいを殺したのなら、襲われたっておかしくなかったよ」
「ってことは、元木くんの考えは的外れってことでいい?」
「僕たちを疑ってるってことに関しては、そうなる」
大和は深刻そうに言葉を続けた。
「……でも、みれいは誰かに殺されたって可能性が高いのは認めなくちゃいけない」
私は溜息を吐きたくなるのを堪えた。大和たちが犯人ではないということが分かったとしても、みれいを殺した誰かという気味の悪い影は消えないのだ。
「……ちょっと訊きたいんだけど、大和と理央はどこか別のところで調べてるの?」
「ん? ああ……みれいに自殺するような動機があったのかどうかについて調べてる。もちろんそんなことはないって信じてるけど、現場の状況的にそう結論付けるのが一番現実的だからね。裏を返せば、この選択肢が潰れれば、いよいよ他殺って線が濃くなるってこと」
「それって、具体的にはどういうことを調べてるの?」
「ええと……みれいの親族の人を探したり……そうだ。みれいを担当してた看護師さんは色々と話をしてくれたな」
松江さんか。こちらが訊いていなくとも色々と話してきたのだ。きっとあれよりもっと多くのことを聞き出せただろう。
「にしても、みれいが自殺するような理由か……」
少し考えてみたが、まるでピンとこなかった。私自身、彼女と過ごした時間は短いから、思い浮かばなくて当然かもしれないが、それを抜きにしても、あの子がそれほどまでにネガティブな思考をするとは思えなかった。あの子は……少なくとも私の前では……ただ柔らかく微笑んでいるだけだった。もちろん、他の表情もとるが、いずれもその下には同じ微笑みがあるのだ。形は違うが、根は同じ表情……みれいのことが分からない理由はそこだ。常に微笑みを湛えている口元。はっきり言って、作り物めいていた。だが、彼女の微笑みはいつでも、どこまでも自然なのだ。
作為的であり、同時に自然体。この矛盾がみれいにはあった。だからだろうか。私が彼女を思い浮かべると、いつの間にか彼女は蜃気楼じみたヴェールの向こうへ消えて行ってしまうのだ。そしてこれは、みれいと長い間付き合いを持っていた大和や理央にしても同じだっただろうと思う。試しに、私は大和に訊いてみた。
「ねぇ、みれいが笑ってないときってあったの?」
大和は訝しげに私のことを見た。
「……どうして急にそんなことを?」
「気になったの。少なくとも私は、みれいの感情が強く動いているようなところを見たことないから」
その理由で納得したのか、大和は顎に手を当てて考え込み始めた。しばらくして、彼のコーヒーから湯気が立たなくなる頃、彼は口を開いた。
「僕も……うん。見たことはない」
大和は、後ろめたいように私から目を逸らした。
「……隠すようなことなの?」
「へ?」
「『へ?』じゃないよ。私じゃなくたって、今のアンタの言葉が嘘だって言うのは分かる。嘘を吐くなら、もうちょっと上手くやって」
「……ごめん」
「謝るんだったら、本当はどうだったか言ってよ。言って困ることでもないでしょ?」
私が詰め寄っても、大和は黙りこくったままだった。
「みれいが笑わないって、そんなに深刻なことなの?」
そう尋ねても尚、大和はすぐには答えなかった。しかし、冷めたコーヒーを一口啜ると、彼はゆっくりと話し始めた。
「……話、してもいいか?」
大和の声は弱々しかったものの、芯に有無を言わせない強さがあった。私はそれに気圧され、首を縦に振っていた。
「話って言っても、ただの愚痴みたいなものなんだけどさ」
大和の声は、そこで一旦止まった。彼は迷ったように目を左右に動かした後、諦めを現すように息を吐く。そして、陰のある目を私に向けて、こう告げた。
「……僕たちは、みれいを裏切った」
*
すぐには、話を飲み込むことができなかった。大和と理央が、みれいのことを裏切った? 高校時代の二人を見ていた私からすれば、とても信じられなかった。
「みれいが笑わないことがあったかって、そう訊かれたからさ。何というか、良い機会だなって。話す決心がついたんだよ」
私のことは気にもとめず、大和は一人で言葉を垂れ流し続けていた。
「元木とみれいを付き合わせたのは僕たちなんだよ」
「へ……」
私が反応しても、大和はそれを認識していないように話を進めるだけだった。
「元木を連れてきたのは理央だけどね。それで、どういう手段を使ったのか、あいつにみれいと付き合うように仕向けたんだ。元木も元木で、それに素直に従った。……納得はいってないみたいだったけど」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
声を張って、手を前に突き出して、ようやく大和は言葉を止めた。そして彼は申し訳無さそうに顔を歪ませる。
「えっと……どうして、そんなことを?」
「理央にとっては、それが最大限の復讐になるからだよ」
言われてみれば、そうだと納得することはできた。理央の最大の心の傷は、ほとんど確実に中学時代、彼氏に捨てられたことだ。友人の前でも隠すことができていなかったのだからまず間違いない。そして、それほどまでの心の傷を負っているのなら、彼女にとって恋愛とは苦痛の煮凝りでしかない。もし彼女が心底から誰かに苦痛を味あわせてやりたいと願うのなら、このことを使わない道理がない。
しかし、肝心な部分が未だ抜けていた。
「……みれいに、何されたの?」
尋ねると、大和は嘲るような笑みを口元に浮かべた。その笑みが誰に向けられたものなのかは、分からなかった。
「何をされたか……か。難しいな。……でも、一言で言ったら、騙されたって言えばいいのかな」
そう言うと、大和は悲しげに目を伏せた。
「……みれい本人に、騙していたなんて認識はなかったのかもしれない。けれど、僕たちにとっては確実にそうだったし、そうでなくたって同じだ。とにかく、みれいに何か報復をしなくちゃ、僕たちはどうにかなってたんだよ」
大和の手は今や震えていた。怒りとも後悔ともつかない感情が彼から発散されていた。それを受けつつ、恐る恐る私は問いかけた。
「結局……みれいに何をされたの?」
「みれいには、本心がなかったんだよ」
答えにもなっていないようなことを大和は告げた。しかし、その響きから、私はそれが紛れもない答えであると直観した。
「みれいはただの硝子細工だったんだ。……意味、分かるかい?」
私は首を横に振った。だろうね、と自嘲するように言ってから、大和は話し始めた。
「僕たちは、硝子の彫刻に好きな角度から光を差し込んで、返ってきた光を見てただけなんだ。その光は確かに屈折して、色も形も変わっているけれど、元を正せば徹頭徹尾自分由来……そこにみれいからのものはない」
大和の表情は、そこで悔しげなものに変化した。
「僕たちはね、これまでみれいに救われたって、そう思い続けてきたんだよ。みれいが新しいものを僕たちにくれた。そんな風に……。でも違った。みれいが僕たちに投げかけていたものは僕たちが現実から目を反らすための願望でしかなかった。みれいに言葉をかけられて、救われた気になったとして、けれどそれはみれいが僕を救けたんじゃない。僕が僕の理想像を垣間見ていただけ……。みれいは、内側に僕たちの理想像を映しだすだけの硝子細工でしかなかったんだよ」
それから、大和は助けを求めるように私のことを見た。
「これがどれだけ悲しくて、虚しいか想像できるかい? ようやく認められたと思ったら、実のところ独り言を喋り続けていただけ……。自分は何も変わっていないし、それを肯定されてもいない。急に、そのことに気づいたんだ。途端に、どうすればいいのか分からなくなった。けど、何もしないわけにはいかなかった。目の前ではみれいが何も変わらない様子で笑ってる。この感情を、ぶつけないわけにはいかなかった」
救いに聞こえたその言葉が、実際は自分自身の内にある、逃避の言葉でしかなかった……傍から聞けば、おかしな話であることには違いなかった。いくらそれが自分の意思と合致していようが、他人が言ったものであるならば、それを自分自身と重ね合わせるのはおかしな話であるはず。しかし、彼の感情が理解できないことはない。寄りかかっていた柱がへし折れれば、次には何をしたっておかしくはない。
「理央も同じ気分だったみたいだ。だから、実行まではすぐだった。計画は全部理央に任せてたから、元木と突き合わせてどうするつもりだったのかは分からなかったけど……その前に、みれいが死んだから、それを聞いたってどうしようもないんだけど」
大和の話はそこで一旦、話をやめた。組まれた両手は、今や隠しきれないほどに震えていた。
「後悔してるの?」
「……ああ」
ぽつりと、大和は言った。
「気にすることはないと思うよ。元木くん、みれいのこと本当に好きだったみたいだし。みれいも……」
「そういう問題じゃない」
大和の声は震えていた。
「そういう問題じゃないんだ……みれいがどう思ってるかなんて、問題じゃない。……僕がみれいを貶めようとした。その事実があることが問題なんだ。確かに、理央がしようとしていたことが成就する前に、みれいは死んだ。みれいはずっと笑ってたよ。辛そうなことなんて、何一つなかったんだ。……だから、みれいが死んだとき、僕は……僕は、ほっとしたんだよ」
大和は、今にも泣き出しそうだった。
「恩知らずもいいところだ。これまでずっと頼ってきて、感謝して、崇めるくらいに思ってた相手をさ、僕は踏みにじったんだ。これで、みれいと自分を切り離せたのならまだいい。けれど……」
大和は、テーブルの一点を見つめていた。彼はその向こうに、何か別のものを見ているように思えた。
「けれどあの後、まだ話してるんだ。……みれいが」
大和は話を続けるように、口をパクパクと動かしたものの、何も言わなかった。そして、彼はおもむろに席を立ち上がった。
「ごめん……勝手なこと話し続けて。このケーキ、好きにしていいから」
全く手のつけられていないケーキセットを私の方へと寄せ、数枚の札をテーブルの上に置くと、大和は席を後にしようとした。
「ちょ……ちょっと待って」
彼の背中に向かって私は呼びかけた。客が少なかったせいか、その声はよく響き、数少ない客からの視線が私に向けられた。大和は、足を止めて、どこか虚ろな目を私に向けた。これだけは、聞いておきたかった。
「……どうして、みれいにそこまで執着できるの?」
大和の目が少し揺れた。私の問いに驚いた様子だった。しばらく私を見つめた後、大和は微かに怒りを込めたような表情をして口を開いた。
「……薊って、僕たち以外にもそれなりに友人がいて、勉強もそこそこできて、特に悩みもなかっただろ」
心外だと一瞬感じたものの、すぐにその思いはおさまった。確かに、私には理央や大和以外にも友人がいるし、少なくとも大和達よりは成績がよかった。高校時代、悩みはないことはなかったが、今になって思い返してみると、悩むようなことでもない、下らないことばかりだった。何も言い返せないでいると、大和は再び私に背を向けた。
「だったら……分からないよ。取り柄も何もかも失って、輪郭がぼやけたような人間が、それを思い出させてくれた相手をどれほど思うのか、なんて……分からないよ」
それきり、大和は何も言わずに喫茶店を出ていった。間もなく、彼が乗ってきたであろうバイクのエンジン音が段々と遠くなり、消えていった。
*
「ああ。その通りだよ」
翌日、病院のベンチで本当に、理央に言われてみれいと付き合ったのかと尋ねると、元木くんはあっさりとそれを認めた。それから、彼は悲しげな笑みを浮かべる。未だに無精髭は剃っていなかった。
「その事実はもうないことにしたいんだけどね。きっかけが何にしろ、俺とみれいは付き合うことになったわけだし、どうせなら最初から好き合ってたことにしたい」
にこやかにそう言っていたものの、次第に彼の顔からは笑みが消えていった。
「けれど、あいつら……何しようとしてたんだ」
元木くんの目は冷徹な光を宿していた。目を向けられていないにも関わらず、隣りにいるだけで怖気が走る。そんな圧力があった。元木くんの表情は段々と不愉快そうに歪んでいった。彼もおそらく、二人のみれいに対する執着に気づいたのだ。二人がみれいに直接何かをする可能性は低い。現に、元木くんとみれいを引き合わせるという手間を取ったにも関わらず、みれいはそのことと全く関係のない方法で死んでしまっている。だとすれば、二人は元木くんにみれいを害させようと考えていたのだろう。それに思い至ったのであれば、元木くんの怒りも理解できる。私でも怒るに違いない。結局、何も思いつかなかったのか、元木くんは苛立たしげに息を吐いて、ベンチの背もたれに身体を預けた。
「……何をさせるつもりだったにせよ、これであいつらがみれいを殺した犯人だって可能性は高まったわけだ」
身体が強ばるのがはっきりと分かった。一応は友人である都合上、この方向に話が向かうことは面白くない。話題を変えようと、私は少しだけ気になっていたことを元木くんに尋ねた。
「そういえばさ、大和の話だったら、元木くんのことをみれいと引き合わせようとしたのは理央らしいけど、二人ってどこで知り合ったの? 高校のときは、クラスはずっと別だったよね?」
高校二年の時も、私と同じクラスだったのは大和だけで、理央は別のクラスだったはず。休み時間の度、いつの間にか理央がみれいと話していて驚いた記憶があった。そして当然、みれいと会話した時、彼女がじっと見つめていた元木くんも同じクラスだ。一年と三年のときは理央と同じクラスで、元木くんが一緒だった記憶はないから、理央と元木くんが一緒のクラスだったということはないはずだった。
元木くんの表情は一瞬固まった。訊かれてはいけないことを訊かれた。そんな具合だった。しかし、焦ったように動いていた眼球は、何かを思いついたかのようにさっと光を取り戻した。しばらくの沈黙の後、元木くんは私の方を見て言った。
「……中間発表ってところかな」
「えー……っと?」
「つまり、この時点でのみれいの死についての仮説を話し合おうってことだよ。実のところ、犯人の候補についてはある程度絞れてる。後は、第三者にその意見を精査してほしいんだ。感情任せに考えたから、狂ってるところもあるかもしれないだろ?」
「そう、だけど……でも、私でいいの?」
私は二人の友人で、元木くんが疑っているのも同じ二人。私が元木くんの仮説を信じないというのは自明だった。
元木くんは笑って首を縦に振った。
「むしろ、君みたいな人を探してたんだ。友情に篤くて、僕がどれだけ微に入り細を穿っても尚、穴を見つけてくれそうな人を」
元木くんの言葉は、裏を返せばどれだけ細かいことを問い詰められようが、自分の論理は正しいと証明できる。そう言っているに等しかった。背中に汗が一筋流れるのを感じる。生ぬるい風が、私の髪を揺らした。
「今日は空いてる? できるだけ早く済ませたいんだけど」
「空いてるけど……」
「だったら決まりだ。集合場所は送るから、また見といてくれ。……それじゃあ、今日のところはもう帰るよ。……また後で」
清々しいような顔をして、元木くんはその場を後にした。別に帰ることもなかったのに。そう思った次の瞬間、誰かが私の方を叩いた。振り返り、その顔を視界に入れて、私は元木くんがさっさと帰ってしまった理由を理解した。
「あーちゃん、ここにいたんだ」
笑みを浮かべて、手を後ろに組んだ理央が、そこには立っていた。
*
向こうから話しかけてきたにも関わらず、理央はどこか気まずそうに私の隣に座っているだけだった。視線も、私に向けるでもなく、ぼうっとみれいのいた病室を見つめている。
「……えっと」
たまりかねて、私は自分から話し出していた。すると、理央は焦ったように口を開いた。
「あ、ごめん。こっちから来たのに、何もしないって変だよね」
私の方を向いて理央はそう言ったものの、彼女はすぐにその視線をみれいの病室へと戻していた。
「でも、やっぱりここに来たら色々考えちゃって」
悔いとも、悲しみともつかないような色に顔を染め、淡々と理央は言った。
「……あーちゃん、大和から色々訊いたんでしょ?」
私は驚いて理央のことを見た。昨日の今日で、もう話が伝わったのか。私の顔を見た理央は、申し訳無さそうに笑った。
「大和がさ。連絡寄越してきたんだよ。わざわざ言ってこなくていいのに。何というか、おせっかいというか無駄というか、余計なことするんだよなぁ。だから——」
理央が、いけないとでも言うように口に手を当てた。私は軽く笑みを漏らした。
「……当たってるよ。そういうことの繰り返し。だから別れた。お互い、友人でいる分には不満はなかったしね」
当時の大和といったら、冗談のようだった。何を勘違ったのか、何をするにも私の感性に合わなければならないと考えたらしい。一緒に出かけるようなときには、私服についてつぶさに尋ねてきたし、当日の計画については全て任せてあったのに、事細かに訊いてきて、結局私が全て決める羽目になるということが多々あった。それがいわゆるデートの時限定であればまだ可愛げもあったのだが、大和の場合、それが私生活まで拡大していった。通知を切った後で、私は大和が自分の彼氏だということを思い出した。こうなってしまっては、もうこの関係を続けることはできない。だから別れ話を切り出したのだ。
「友達同士でいる分には何にもないのに、ちょっと恋仲になったら途端に崩れる……全く、どうなってんだか」
「……ま、今ならもうちょっと上手くやるだろうけどね」
呆れたのか、理央は冷淡にそう言った。それきり、しばらく二人は何も話さなかった。風が耳を撫でる音が鈍く鳴った後、先に口を開いたのは理央だった。
「……私達のこと、軽蔑してる?」
「……どうして私が、理央達のことを蔑まなきゃなんないの」
大和に続いて理央もか。うんざりしかけたものの、みれいへの惹かれぶりという一点においては、二人は全く同じと言って過言ではなかった。そう考えれば、この話を切り出すことは何もおかしいことではない。
「はっきり言っとくけど、私はあなた達ほどみれいのことが好きってわけじゃない。みれいと話をしたのも二、三回くらいだし、それも、会話って言っていいものか……」
みれいとの〝会話〟は、そのほとんどがみれいから私への一方通行だった。そりゃあ、相槌くらいは返せていたが、みれいに対して私が意味のある言葉を話したという記憶は覚えている限りではないと言っていい。
「……とにかく、こんな調査に協力しといて何だけど、私にとってみれいは友達って言うよりも他人って印象が強いの。みれいが悲しんだとかなら、思うところはあるけれど、傍目から見て何も変わってなかったんでしょ? だったら、いくら理央達が悪意を持って行動したとしても、私は何も思わない」
「……」
私の話を聞いているのかいないのか、理央は神妙な顔をして黙っているだけだった。
「これだけは言っとくけど、もしも私に救いを求めてるなら、やめたほうがいい。私はそんな大層なことができる人間じゃないし、する気もないから」
何の嘘でも誇張でもない、真実だった。理央や大和が寄りかかって、自らへし折った柱がみれいであるならば、私にはどうすることもできない。私にはその柱がない。逆立ちしたって、二人の考えは分からない。
「そっか」
短く言ってから、理央は私の肩にもたれかかった。
「けど、慰めるくらいはしてくれたっていいんじゃない?」
私は、言葉を返す代わりに、肩にもたれる理央をそのままにしておいた。理央はそれを肯定と受け取ったらしい。「ありがと」と一言呟いてから、彼女は更に体重を預けてきた。
「……一つだけ……私もまだ、理解も納得もしきれてないことがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」
「うん」
「私、みれいに復讐しようとしたことについては、全然後悔してないんだよ」
私は、ちらりと理央の顔を見た。穏やかな笑みが浮かんだ、何の変哲もない表情だった。
「もう大和から聞いたんでしょ? みれいが、ただ私達が願ってる人間を演じてた……いや、人間になってたってこと。私は、どうしたってそれを許せなかった。このままにしておくわけにはいかないって思ったの。……けど、不思議だよね。みれいが私を救ったって、そのことだけは、私の中じゃ揺らいでなかったの」
「……どうして?」
「だって、そこがなくなっちゃったらさ。もっと怖いことになってたから。私に望み通りの言葉をかけていた人間がみれいじゃなかったら、じゃあ、私を救ったのは一体誰になる? ……幻に救われたなんて、そんな馬鹿みたいな話はないでしょ? そもそも、それは『救われた』なんて言葉じゃなく、『騙された』って言葉で表されるべきだよ。で……騙されたとしたら……」
理央は、唇を固く結んでから、小さく言った。
「……ここにいるのは、酷い男に騙されたまま泣き続けてる馬鹿な女の子ってことになる」
消え入るような声で、理央はそう漏らした。
「元木くんを使おうとしたのも、それが理由ってこと?」
私がそう尋ねると、理央はびくりと身を震わせる。
「理央って、元木くんと面識あったんだね。意外だった。確か、クラス一緒だったことないでしょ?」
「部活が同じだったの。伝手はあったよ」
「……弱みでも握ってたの?」
尋ねると、理央は私に訝しげな視線を向けた。
「元木くん、みれいについてはともかくとして、みれいとつきあわされたことに対してはおもしろく思ってなさそうだったけど」
すぐには返答がなかった。しかし、しばらくしてから弱々しい、冷たい声がした。
「……うん。みれいから聞いたの」
「……?」
理央の発言には明らかな矛盾があった。みれいが元木くんと付き合い始めたのは、当然ながら理央が元木くんに頼んだ後だ。しかし、頼みを聞かせるための弱みを理央はみれいから聞いたという。
「みれい、元木くんと知り合いだったの?」
私の記憶の限りでは、みれいは元木くんに対しては冷めた視線を投げかけているだけだった。同じクラスであった一年間、みれいと彼が仲良くしている様子はおろか、話をしている様子すら、私は見たことがなかった。
「……さぁね」
理央も心当たりがないらしく、短くそう答えるだけだった。そして彼女は私から身を離した。
「もう大丈夫?」
「……うん。ありがと。それと……一つ、訊いてもいい?」
「何?」
「どうしてあーちゃんは、みれいの死因を探すことに協力してくれるの?」
「それは……」
すぐに答えを返すことはできなかった。
「……理央達の頼みだから」
「それは違うよ。分かってるでしょ?」
理央は、はっきりと否定した。
「もしもみれいの死因が分かったとして……私達は必死で他殺だった証拠を集めようとしてるけど、本当のところ、自殺って可能性が一番高いでしょ? 死因が自殺だったとしたら、その原因は……もう、言わなくても分かるよね」
理央は目を伏せて口を閉じた。彼女の言う通り、理解していた。みれいが自殺したということを暴けば、当然その理由を問わなければならなくなる。みれいの心に変調をきたすような出来事……決まっている。元木くんと付き合い始めたことだ。そしてそれを招いたのはどこの誰なのか……。
要するに、この件に首を突っ込むということは、理央と大和に責め苦を負わせるということと殆ど同義なのだ。それを進んでしているとなれば、理央と大和のためなどという理由はとても口にすることができない。だとすれば、どうして私は——。意外にも、答えに辿り着くまでにそれほど時間はかからなかった。
「……多分、みれいのことを知りたかったんだと思う」
理央は静かに私に目を向けた。
「……これは、分かっといてほしいんだけど、理央と大和のことは本当に友達だと思ってる。けど、どうしたって受け入れられないところもあってね。それがみれいに対しての二人の態度。はっきり言って、気味が悪かったんだよ。高校生にもなってさ、一人の女子にあんなに入れ込んで……」
苦笑を浮かべる理央に構わず、私は話し続けた。
「けど、気になりもした。みれいがどんな人間なのかって。もちろん、みれいと話したことはあるし、みれいのことを面白い人だとも思った。けれど、理央や大和みたいにはなれなかったんだよ。高校のとき……ううん、みれいが死んで、その死因を探ってみないかって言われたときに初めて、みれいに興味が湧いたんだ。もうこの世にいないから、いくら理想を押し付けたってそれが裏切られることはないっていう、程度の低い理由からかもしれないけれど」
そこまで話し終えて、私は息を吐いた。
「だから、後悔してる……って言ってもいいのかな」
「……そっか」
理央の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。要点も纏まっていない説明だったが、納得してくれたらしかった。
「みれいは、あーちゃんのこと気に入ってたと思うよ」
そう言った後、笑みはそのままに、理央の表情には影が差した。
「……みれいに、意思があったのか……私にはもう分からないけれどね」
そう言った後、理央はベンチから立ち上がった。
「私、そろそろ行くね。言いたいことは言ったし、聞きたいことは聞いたし。あーちゃんに教えてあげられるようなことも、もうないし……あ、そうだ」
ぽんと手を打って、理央は私の方を向いた。
「みれいの担当だった看護師の人で、みれいに詳しい人がいるから話を聞いたらいいと思うよ。……私達の話ばっかりじゃ、印象も偏る
「それ、松江さんって人?」
「……もしかして、もう話聞いてた?」
「ほんのちょっとだけ。っていうか、理央達も仲良かったの?」
「名前まで覚えられたよ。……そっか。そこまで詳しくは、まだ聞いてないんだ。だったら、無駄な話じゃなかったね」
どこか安堵したような様子で理央は言った。
「それじゃ、そろそろ……あ、最後に一つだけいい? すぐ済むから」
私は首を傾げて、理央の言葉を待った。
「……みれいのこと、私達は信じきれなかったけど、できれば、あーちゃんは信じ切ってあげて。……なーんて、勝手なお願いだけど」
じゃあね。それだけ言って、私の返答も聞かずに理央は去ってしまった。走るようにして去っていくその背中を見ながら、私は何となく、二人の友人の正体について理解した。
結局、彼らも何の変哲もない普通の人間なのだ。家族だったり、夢だったり……誰にでも寄りかかっているものがある。二人の場合、それが一個人だったから目立っただけなのだ。気味が悪い。彼らと出会った当初から抱いていたその思いは今も消えてはいないものの、大分薄れていた。家族が死ぬ、夢に敗れる……二人の言うところのみれいの本性に気づくということは、それらに等しかった。種が分かってしまえば、こんなものなのだ。みれいの姿が自然と脳裏に浮かんだ。知る限りでも二人。それだけの人間の生きる指針になっていた彼女は、どんな人間だったのだろう。二人の言うような、機械のような少女だったのか、それとも——。
私は立ち上がった。ここで座って考えていてもどうしようもない。松江さんは暇をしているだろうか。どうにか話を聞ければ……瞬間、スマートフォンが振動した。見てみると、元木くんだった。話し合いの場所を決めたらしい。ここからそう遠くないアウトレットモール内のファミリーレストランだった。理央と話していてすっかり忘れていた。そういえば、そんな話もあった。若干の申し訳なさとともに、いい機会だという気も湧いた。みれいの恋人。……みれいのことを好いていたという点では二人と同じだが、きっとみれいに対する印象は全く違ったものだろう。メッセージには、できるだけすぐに来て欲しいとあった。仕方がない、松江さんはまた次の機会に——。
駐輪場へと向かおうとした足がふと止まった。何か違和感があった。微かなものだったが、だからといって安全なものでは決してない。むしろ、危機を伝えるように、その違和感は胸を刺していた。
立ち止まって考える。こういう時、これを抜かして行動すればろくなことにならない。何か、見落としがあるはずだ。何か……。
「……あ」
私は、その正体に気がついた。しかし、そんな……。
……いや。ある。
一瞬躊躇した。しかし、深呼吸を済ませると、私は駐輪場へと足を運んでいた。
*
現在時刻は午後四時。時間が時間だからか、ファミリーレストラン内に客は殆ど入っていなかった。そのせいか、それとも身なりが昼に見たときと全く変わっていなかったからか、元木くんはすぐに見つかった。彼は隅のテーブルで、メロンソーダを飲んでいるところだった。
「お、来たね」
「……髭ぐらい剃ったら?」
元木くんは、無造作に生えている自らの髭を数度撫でると、肩をすくめた。
真実であると確信している自らの持論を開陳できるからか、彼は上機嫌であるようにも思えた。
「理央とはゆっくり話せたかい?」
「やっぱり、気づいてたんだね」
「……経緯が経緯だ。気まずいんだよ。察してくれ。それで、どうなんだい。何かいい話でも聞けた?」
「いい話……かどうかは分からないけれど、あの二人がいたって普通の人間ってことは分かったよ」
私が言うと、元木くんは軽蔑するような乾いた視線を私に送ってきた。脇から汗が伝った。私は無意識に拳を握りしめていた。
「それより、早く本題に入ろう。元木くんは、犯人が誰だと思ってるの?」
元木くんもさっさと話したかったらしい。彼は口元に笑みを浮かべると、鋭い眼光で私を刺した。
「僕が犯人だと思っているのはね、君だよ。弟切さん」
心臓がびくりと跳ねた。私は両手をさらに強く握りしめ、動揺を隠した。大丈夫。ここまでは予想の範囲内……しかし、最悪のケースだ。
「私、みれいが死んだときにはまだ帰ってきてないんだけど。理央と電話した時の記録もあるし……」
「そんなの、いくらでも用意できるだろ。証拠にはならないよ」
睨みつける私の顔を、元木くんは勝ち誇ったような顔で眺め続けていた。
「理由としては、ただの消去法なんだけどね」
見た目の通りの調子で、元木くんは話しだした。
「みれいを殺すことができて、なおかつ動機も持っているような人間はぐっと限られる。あの二人くらいしか疑えないくらいにはね。けど、みれいが死んだその時、あの二人はみれいの病室にいなかった……みれいを遠隔で操る術があるはずもない。とすれば、当たり前のことだけど犯人はこの二人以外の誰かになる。で、みれいを殺す手段ってところを考えてみると、ここで詰まるんだよ。けど、みれいの関係者って考えるともう一人役者が出てくる」
「それが私ってわけ?」
首を縦に振って、再び元木くんは口を開いた。
「考えてみれば、一番安全な人選だ。その場にいないはずなんだから。そうだ。連絡云々の話からして、他の二人との共犯かな? そりゃそうだよな。無罪になる役がいないと成立しないんだから……ってことで、これが俺の考えたみれい殺しの犯人だ」
私は一瞬、目を閉じた。思考を整理する。よし。言いたいことは定まった。
「……松江さんって知ってる?」
弁解は必要ない。私が犯人でないということは自明だ。その気になれば、新幹線のチケットだの何だの持ってくればいい。
「みれいの担当だった看護師さん。おしゃべりな人でね。親族でもなければ入院してる患者のことなんて、一般人には話しちゃいけないだろうに、あの人は話しちゃう。それはもう事細かに。それだけなら……いいこともないけど、もっとまずいのは、お見舞いに来た他人の名前なんかも出しちゃうってこと」
元木くんの顔から笑みが薄れていく。彼を睨みつけながら、私は話し続けた。
「当然、みれいのお見舞いには元木くんも来てたはず……だから、松江さんはみれいに彼氏がいるってなったら、元木くんの名前を漏らすはずなんだよ、けれど——」
元木くんの顔からは、完全に笑みが消えていた。
「——元木くんのことは、ずっと〝彼氏さん〟って呼び方だった。……松江さんって、みれいから聞いて、名前を覚えてるらしいの。で、元木くんは毎日お見舞いに来てた。そのことを不思議がられていない以上、お見舞いにも結構な頻度で行ってたんでしょ? けど、松江さんは名前を覚えてなかった……これって、みれいが元木くんのことを、名前も出したくないって思ったからじゃないの?」
彼の刃物のような視線を受けて、全身に鳥肌が立った。
「彼氏なんてとても言えない、滅茶苦茶なことしてたからじゃないの?」
「まどろっこしいな」
霜のように冷たい声で、元木くんは言った。
「結局、何が言いたい?」
体が震えそうになった。爪が手に食い込まんばかりに、私は拳を握りしめる。何とか目を元木くんに合わせ、私はそれを口にした。
「みれいを殺したのはあなたでしょう?」
刹那、銀色の光が視界を舞った。
*
私の予想に反して、客も店員も、誰も私たちの様子に気づかなかった。私たちの席が、店員の目につきにくい隅にあるからか、それとも元木が大きな音を立てずにナイフを向けているからか、血も何も出ていないからか……理由はなんでもよかったが、とにかく、私がステーキナイフの切っ先を向けられていることに気づいている人間は、他に誰もいなかった。
元木の目は、初めて会ったときに見せた虚ろなものとは打って変わって、冷徹に光っていた。
「みれいを殺した、ね」
「……何がおかしいの」
湿った笑いを浮かべた元木を私は睨みつけていた。それが気に障ったのか、元木はナイフをさらに突き出す。首筋に微かにちくりとした感覚が走った。思わず顔を歪ませる。それを見て満足したのか、余裕に満ちた声で元木は話し始めた。
「いやね、テメェの馬鹿さ加減に呆れただけだよ」
「……みれいを殺したことを知られたから、こんなことしてるんじゃないの?」
私の問いを、元木は鼻で笑って退けた。
「どうでもいいよ。テメェのことなんざ。みれいについてもそうだ。そうだな……ほら、いるだろ? 消えてくれた方が都合のいいやつ。俺にとって、テメェらはそれだった。アンタが死ぬのはそれが理由だよ」
話の流れが見えてこない。頬を伝う汗を感じながら、私は元木の言葉の続きを待った。元木は、そんな私に向けて、驚いたように目を見開いたが、やがて合点がいったように、馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「そうか……アンタ、何にも知らないんだな?」
「……何にもって」
「俺が唯一、はっきり自分の手で殺したいと思ってるのは、理央……あいつだけだよ」
一瞬、頭が真っ白になった。理央? どうして彼女の名が出る? 元木は早口で捲し立てる。秘密の暴露。その快感でハイになっているようだった。
「聞いてないか? 昔、あいつは男に捨てられたって……」
私の頭の中で、パズルのピースがはまった。
「まさか——」
「俺だよ」
考えついた通りの台詞を、元木は口にした。
「笑い話だよな。名字が変わって、クラスが違って……それだけで、あいつ気づかないんだよ。仇が同じ学校でのうのうと過ごしてるって」
けたけたと小声で笑いながら、元木は言った。私は混乱から、無意識に口走っていた。
「どうして、そんな、なんで……」
それを訊いた瞬間、元木はぴたりと笑いを止めた。
「あいつ、死にかけやがったんだ」
感情が削ぎ落とされたような平坦な声で、彼は言った。
「手首切って、風呂に浸けてっていうさぁ、絵に書いたような自殺未遂だよ。パニクったあいつの親が警察なんかに知らせやがったせいで、滅茶苦茶になったんだよ。あいつ、俺の言動とか諸々日記に書いてやがってよ。……大体日記ってなんだ気持ち悪い。とにかくさ、それが証拠みたいなことになって、俺に疑い向けられて……そりゃ、中学生がちょっと心移りして、そのことに文句つけてきた奴にちょこっと物申したくらいじゃ特に罪にもならないよ。けどな、それは法律の世界の話でさ。問題は、その、何だ。大げさに言えば世論っての? アレなんだよ。あの馬鹿女が勝手に死にかけただけなのに、俺が加害者みたいなことになっちまって……親は別れるし、学校ではハブにされたし、滅茶苦茶だよ。本当に」
聞くに堪えない讒言を聞き流しつつ、私は口を開いていた。
「……おかしいでしょ」
「何が」
「理央は、アンタと同じ部活だったって……」
「ああ……? アイツ、そんな馬鹿みてぇな出鱈目抜かしてやがったのか?」
元木は不愉快そうに舌打ちをした。
「今年に入るまで、俺達に接点なんざなかったよ。顔も見たくねぇ……アイツにしたってそうだったろうよ。けどな、何をトチ狂ったのか知らねぇが、アイツは俺に連絡を取ってきやがった。あの時のことちらつかせて一人前に脅してきやがったんだ。まぁ、胸糞悪いわな。すぐに切ってやろうと思ったんだが……」
元木の顔に、不気味な笑みが浮かんだ。
「アイツの話を聞いて気が変わった。自分の友人と付き合ってくれだと。気ぃ狂ってるとしか思えねぇ頼みだったが……考えてみりゃチャンスだった。みれいと会ってみて尚更そう思った。アイツがみれいにどれだけ心酔してたかは知ってるだろ? それをぶち壊してやれりゃあ……これ以上ない復讐だろ?」
「……でも、それを遂げても理央は壊れなかった」
「ああ。ってことだ。分かったか?」
「……何を?」
分かりきった答えを、私はわざわざ待ち受けた。満面の笑みを浮かべて、元木は言い放った。
「アンタが殺される理由」
高まる心臓の音を聞きながら、私はできる限り冷静に答えた。
「……そのナイフで一刺しってわけ?」
周囲に視線を配ってから、私は軽く笑った。
「こんな、人目にもつくし、逃げられもしないような場所で?」
当然、そんなことは分かっていたのだろう。欠片ほどの動揺も見せずに元木は口を開いた。
「確かにそうだ。けどな、こっちだって訊きたいんだよ」
「何を?」
「俺がこの場でアンタに襲いかかれば、まぁまず間違いなく俺は捕まるだろうな。少なくとも平穏無事に逃げおおせるなんてことはない。……けれども」
睨みつけるようにして、元木は私を見た。
「だからと言って、アンタにこの状況がどうこうできると?」
私は口を開きかけたが、そこから言葉は出てこなかった。
「今の状況ってのは、そうだな……飛行機の中でハイジャック犯が乗客に銃突きつけてんのと変わらねぇんだよ。乗客全員が寄ってかかればどうにかできないこともないが、それを先陣きってするやつは中々いない。死んじまうからな。で、アンタはどうだ? ん? 命賭けてまでこの状況をどうにかできるか?」
鼻で笑ってから、私は言葉を返した。
「けど、どうせ私のことは殺すんでしょ? だったら、助かる方に賭ける」
「動きもしねぇのによく言うよ」
私は拳を握りしめた。そんな私を見て、彼は勝ち誇ったように笑う。
「……人のことは言えないけどな。俺もここでアンタを刺す度胸はない」
「だったらこのナイフ、いい加減にどけてくれない?」
以外にも、元木はその言葉にすぐに従い、ステーキナイフを元の位置に戻した。しかし、それで難を逃れることができたというわけではない。彼はすぐに自前のカッターナイフを取り出した。
「立て。出るぞ。俺の前を歩け」
彼はナイフを突きつけたまま、冷徹に言った。
「……会計は?」
「この状況でそんなことを訊く馬鹿がいるかよ」
私に向けられた刃は、銀色に光っていた。
*
会計を済ませる際も、逃れる隙を見つけることはできなかった。こうした状況になることを予見していたのか、私に対する元木の位置取りは極めて上手かった。周囲に怪しまれず、尚且つ私と離れすぎない絶妙な位置に彼はいた。
「行くぞ」
会計を済ませた私を先に歩かせ、元木がその後ろを歩く。背中に虫が這っているような、嫌な感覚だった。
「二階の駐車場だ。早くしろ」
背筋に悪寒が走った。車に連れ込まれればもう打つ手はない。自動車……走行中であれば、それは最も手軽に作り出せる密室に変わる。どれほど格闘技を極めていようが、あれほどスペースがなければ、成果を発揮しようがない。
しかし、この状況で元木を何とかできるとも思えない。彼は今すぐにでもナイフで私を切りつけられる位置にいるのだ。それに、私が一か八かの抵抗を試みることも想定済みだろう。この場で私がいきなり掴みかかったとして、驚きもしないはずだ。何度考えても、今の私には打つ手がない。
そんなことを考えている内に時間は過ぎ、気づけば彼の言う駐車場まで辿り着いていた。ショッピングモール自体寂れているのか、平日にしても車の数が少なかった。一瞬、悪態をつきそうになったものの、元を正せば元木が指定した場所だ。人気がないということも加味して選んだのだろう。事実、ここに来るまでも殆ど人とすれ違わなかった。
「そこを左に曲がって……あの赤い軽だ」
趣味の悪い、メタリックレッドの軽自動車だった。ガチリという音と共に車のロックが外れる。
「こっちからだ。助手席に乗り込め」
元木は運転席側のドアを開け、私の背中を思い切り押し込んだ。バランスを崩し、ダッシュボードに顔をぶつける。痛みを堪えつつ前を向くと、当然ながらドアがある。ここから逃げられるかもしれないと脆い期待を抱いたものの、窓に反射したカッターナイフの刃を見てそれを捨て去った。
「速くしろ」
その言葉に従うようにして、私は助手席に乗り込んだ。すぐさま元木が乗り込んで、エンジンをかける。
「シートベルト」
刺すように彼は言った。シートベルトが装着されていない旨を伝えるアナウンスに苛立っているのだろう。このままでは今この場で切りつけられかねない。逃げる際には手間になるものの、やむなく私はシートベルトを着けた。据え付けのラジオからは、あまりにも場違いなアイドルソングが流れている。
「どこに行くの?」
元木がアクセルを踏むまさに直前、私は尋ねていた。
「……死に場所を知りたいか?」
そう返すと、元木は車を発進させる。もうこれで、私は逃げられない。いざどうしようもない状況に追い込まれてみると、言葉の一つも言えなかった。計画の成功を確信しているのか、無精髭が生え放題になった元木の面には歪んだ笑みがあった。よく考えれば、ロクに見てくれが手入れされていなかったのも彼の計画の内なのだ。私を始末した後に、外見を変えられるように。気休め程度かもしれないが、逃げる時間を稼ぐには十分だと彼は踏んだのだ。
とにかく、いくら考えたところでどうしようもない。こうなってしまえば、チャンスは目的地に着いた後……そう考えていた、その時だった。
光が私の目を眩ませたかと思えば、次の瞬間には私たちは横殴りの衝撃に襲われていた。
*
「クソッ! どうなってんだっ!」
衝撃で動転したためか、元木の怒号にもすぐには反応できなかった。元木は血走った目をしつつ、アクセルを蹴るようにして踏んでいた。しかし、自動車が走り出す気配はない。場違いなラジオもいつの間にか止んでいた。
「エンジン潰れて……バッテリーまで上がりやがったのか⁉ ふざけんじゃねぇぞ! 大体、どこの馬鹿が……」
逃げられる。すぐさま窓を見たものの、ドアと壁の間隔が狭すぎて車から出ることはできそうになかった。
すると突然、嫌な音と共に運転席側の窓に罅が入った。二回、三回と同じようなことが起こる。罅だらけになって、白くなった窓からはハンマーで窓を殴っているフルフェイスヘルメットの男が見えた。男はハンマーを再び振りかぶった。私は咄嗟に身をかがめる。予想通り、派手な音とともに窓は割れた。破片が背中に当たる間隔があった。
「お前……おくッ⁉」
男は、元木の胸ぐらを掴み上げ、思い切り頭突きを食らわせる。衝突の拍子にドアのロックが外れたのか、男は容易く外からドアを開けた。そして、呻いている元木に向かって冷淡に告げた。
「降りろ」
元木は少しの間、その言葉に従うことを渋っていたものの、男の手にハンマーが握られているのを見てか、不服そうな顔をして車から降りた。
「お前……奥野だな?」
元木がそう言って初めて、私はヘルメットの男の正体に気づいた。確かに、少し太った体型は大和そのものだった。
「一体何を——」
「もう通報してある。諦めろ」
簡潔に、まるで元木には何の興味もないという風に、大和は言った。
「お前、そんなこと言うなら縄の一つでも持って来いっての。これなら簡単に」
大和はハンマーを振りかぶった。情けない悲鳴を上げて、元木は身を屈める。
「……この通り。代わりになるだろ?」
大和はそう言うと、元木に移動するように指示をした。最早元木は脅迫される側だった。元木がトランクの辺りにまで移動したところで、大和は私に声をかけた。
「ここから出て。そしたら、できる限り逃げて」
そう言われても、衝撃が抜けきらなかったためか、すぐには足が動かなかった。しかし、身体の感覚が鈍かったためか、周囲の風景はやけに目に入った。
自動車には大きな凹みができていた。フロントガラスには大きな罅が入り、周囲には細かなガラス片が散乱している。少し離れた場所には横倒れになり、あちこちに傷が入ったバイクが転がっていた。大和はあれで自動車に激突したらしい。見れば、大和の履いているズボンは擦り切れ、酷い擦過傷が覗いていた。
「薊っ」
強く大和が呼びかけた。早く逃げろ。声色がそう言っていた。私としても、自分のことを殺すと明言している男が視界に入るような場所にいるのはごめんだった。強ばる身体に力を込めて、私は走り出した。一旦店内に戻ったほうがいいのか、それとも自動車用の通路を駆け下りた方がいいのか。一瞬迷ったその時だった。
「……おいッ!」
大和の怒号が飛んだ。私は咄嗟に後ろを振り返る。そこには、血走った目で私を捉え、がむしゃらに走り寄る元木の姿があった。芯から凍るような寒気が一瞬走った。同時に、元木の言葉が蘇る。『命賭けてまでこの状況をどうにかできるか?』。彼にはその覚悟があったのだ。彼の右手には銀色に光る刃があった。火事場の馬鹿力というやつなのか、私よりも速い。距離が離れていたわけでもないから、もう目と鼻の先まで彼は迫っていた。
元木は、カッターナイフを突き出した。特に狙いを定めていたという風ではないが、距離が距離だ。外れることはないだろう。
刺される。いざ危険を目の前にして、私の身体は無意識に動いていた。元木の腕を咄嗟に掴み、そのまま相手の勢いを利用して地面に叩きつける——。高校の頃、何となしにこなしていた合気道の成果だった。最も、こんな状況で放たれたからか技と呼べるかどうかも怪しいものだった。体勢が取れていない。力を込めた際にバランスは崩したし、何より——。
脇腹には鋭い痛みが走っていた。
私と元木は二人して地面に倒れ込んだ。コンクリートの冷たい感触が、転倒の痛みを際立たせた。起きなければと思うものの、脇腹の痛みが酷く、身体が思うように動かない。
「大丈夫かっ⁉」
大和の声もどこか遠かった。体勢を変えることも、声を出すこともできず、私は向かいに倒れている元木を見つめていた。倒れた際に頭を打ったのか、元木はぴくりとも動かなかった。
「ッ……今、救急車呼ぶから」
意識がだんだん朦朧としていく。狭まっていく視界の中に、何か光るものがあった。何てことはない、スマートフォンだった。私ではなく、元木のものだろう。倒れこんだ拍子に地面に落ちたのだ。私は、意識が暗黒に呑まれる直前、ひび割れた画面を見た。
そこには、ベッドの上で柔らかな笑みを浮かべるみれいが映っていた。
*
「あーちゃん……無事でよかったよ」
あの後、私は最寄りの総合病院……即ち、みれいが入院していた病院に緊急搬送された。幸い傷は浅く、一週間もすれば退院できるらしい。もう痛みも殆ど残っていなかったから、何の苦もなく理央と会話を交わすことができる。
「……大和は来ないの?」
「事情聴取。事件の当事者だからね。警察も、簡単には放してくれないっぽい。けど、今日は多分早く済むからって——」
「……遅れた」
噂をすれば何とやら、息を切らした大和が病室に入ってきた。吹き出る汗をハンカチで拭いつつ、彼はパイプ椅子に腰を下ろした。
「薊……その、ごめん。もっと早く助けてれば……」
「ううん、大丈夫。それより、ありがとうね。はっきりした根拠があるわけじゃなかったのに」
元木と出会う直前に私は大和を呼びつけていた。私をつけて、何かあれば通報するようにと。
「っていうか、通報してくれるだけで十分だったのにさ。まさかあんなことまでしてくれるなんて……バイク、壊れちゃったでしょ?」
「別に構わないよ。中古の安物だし、そろそろガタが来てたから」
「……そう」
しばらく、沈黙が続いた後、耐えきれなくなったように理央が口を開いた。
「あーちゃん、ごめんなさい……私が、元木とみれいを引き会わせたから……」
「違う」
大和が、はっきりと首を横に振った。
「『僕たち』だ」
「……気にしてないよ。もう終わったことだし、元木くん、しばらくは刑務所でしょ? それよりさ、話したいことがあるんだけど、いい?」
「そう言えばあーちゃん、それで私達を呼んだんだっけ」
二人は、伏せていた目を、ベッドに身を預ける私に向けた。
さて、どう話せばいいのか……まぁ、話していれば形にはなるだろう。最初に話すことは決まっているのだし。
「……みれいがどうして死んだのか、何となく分かったから話そうと思って」
理央と大和は、殆ど同時に首を傾けた。
「えっと、薊。みれいを殺したのは元木なんじゃ……」
警察では、みれいの死について、元木が犯人であったらという方向での再調査が進んでいる。大和は、それをよく知っているのだろう。
「……元木は悪人だよ。それは間違いない。間違いないけどね……でも、普通の人だったんじゃないかなって思うんだよ」
「そんなこと——」
「私ね、元木のスマートフォンのホーム画面を見たんだよ」
理央の言葉を途中で止めるようにして、私は言った。
「映ってたのはみれいだった。自分の彼女の写真を壁紙にする……これって、普通のことでしょ? 私、思うんだよ。確かに元木は性根が歪んでたんだろうけど、みれいに対しては人並みに恋愛してたんじゃないかって」
私を殺した後、印象を変えるために、元木は見た目の手入れを怠っていた。それが真実だったとしても、彼がやつれていることには変わりなかった。わざと不調を演出したとして何かできるわけでもない。だとすれば、あれは本当にみれいを失ったことによる不調だったのだ。
「……それにさ、そもそもの話——」
『テメェの馬鹿さ加減に呆れただけだよ』。元木の言葉が思い出された。あのときは苛立つ以外の感情は抱かなかったが、いざこういう身になってみて、私は彼の言葉を認めざるをえなくなった。どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのか。私は、病室の一角を指さした。
「——あんなのがあるんじゃ、殺せるものも殺せない」
私の指の先には、じっとこちらを見つめている監視カメラがあった。
「色々すっ飛ばして、先に結論から言うね?」
理央と大和の顔は、今や蒼白に染まっていた。
「みれいは自殺した。そうなんでしょ?」
*
反論があるのではと身構えていたが、二人は何も言わなかった。少し考えてみてそれもそうかと思い直す。二人にとっては、みれいが自殺であろうが他殺であろうが、それは重要なことではないのだから。
「あの監視カメラがあって、その上でみれいは自殺だと断定された……つまり、カメラにはみれいが殺された現場なんて映っていなかったってことになる」
「……待って」
震える声で、理央が言った。
「けど、みれいは、あの窓から転落死なんてできる身体じゃあ……」
「うん。だから、そこには協力者がいるんだよ」
「……あーちゃん、言ってること滅茶苦茶だよ? みれいが殺された映像はあの監視カメラには映っていなくて、けど、みれいが死んだのには他人の手が加わってるなんて……そんな、ありえ——」
「ありえるよ」
言い切らせるまでもない。理央はきっと、このカラクリを知っているのだから。
「監視カメラの映像ってね、大体一ヶ月周期でリセットされるらしいの。つまり、リセットされる直前にみれいを窓際に立たせておいて、リセットされてからみれいが飛び降りる。そうすれば、みれいは誰の手も借りずに自殺したって映像が出来上がる」
理央と大和は、深刻な顔をして俯いていた。裁きがくだされるのを待つ囚人のような顔だった。
「……もちろん、こんなことをするためには病院関係者の協力が不可欠になる。まぁ……松江さんなんだろうね。リセットされるまで、監視カメラの映像を誰にも見られないようにする、怪しまれないように、みれいが死んだ後、みれいが自殺したって証人として信用されるために、みれいが飛び降りる直前に病室に駆け込む……これをこなさなきゃいけないから、みれいを窓際に立たせたのは別の人」
これで、松江さんが犯人だという可能性も潰した。いよいよ二人の表情は暗く沈んでいった。もう覚悟はできているようだった。その覚悟に応えるようにして、私はそれを告げた。
「協力者は理央、大和……二人なんでしょ?」
理央は力なく頷いた。大和は逆に、ゆっくりと顔を上げた。
「僕たちは、みれいに復讐をしたかった。……けど、死んで欲しいなんて思ってない」
「……論点がずれてるよ。みれいは自殺した。だから、みれいが死んだ理由はみれい自身に求めるべきであって、他の誰にも問うべきじゃない……けど」
言葉を切ったその瞬間、頭によぎったのは硝子細工のイメージだった。理想を映す、少女の形をした硝子細工……。
「二人にとっては、みれいは自分自身を映す機械でしかなかった……だから、大和の言ってることもあながち間違ってない。だからね、ちょっと考えてみたんだよ。元々気になってたこともあったし」
大和が、手を強く握りしめた。目はしっかりと私に向いている。こういうところで逃げないところは、好きなのだけれど。
「……みれいの病気、確か癌だったよね? 早期発見できたって言うけどさ、どうやって見つかったんだろって思って。私達はまだ大学生なわけで、健康診断とか、人間ドッグとか、そういうものがあるわけでもない。初期の癌なんて、自覚症状もないでしょ? だから、自分から気になって病院に行ったってことも考えにくい」
大和の頬を汗が一筋流れた。私は、自らの仮説が正しいと悟った。
「だったら、次に考えられるのは他のことを検査したついでに癌が判明したってこと。けど、二人からみれいに持病があるって話は聞いたことなかったし、何か事故にでも遭ったなら、話ついでに聞いてるよね。みれいが自殺する直前も連絡とってたんだしさ。だったら何なんだろうって……色々考えたんだけど、これしか思い浮かばなかった」
話してもいい? そう言うつもりで、私は大和に目を向けた。彼の目は揺れたものの、私から背けられはしなかった。
「ここ、総合病院だからさ。色んな科があるよね。外科、内科、消化器科、歯科、精神科、そして——」
大和が、祈るように目を閉じた。
「——産婦人科」
憑き物が落ちるように、大和の身体から、力が抜けていった。私は、視線を天井に向けた。そして一言、こう告げた。
「みれい、妊娠してたんでしょ?」
*
みれいが天に向かって話しかけていたという松江さんの話が、少し気にかかっていた。そして、大和と二人きりで話したときに彼が漏らした、みれいがまだ話しているというあの言葉。てっきり、死んで尚、みれいが大和の中で生きているということだと思っていたが、入院して、考えるにつれて、もっと単純なことを大和は言っていたのではないかと私は考え始めていた。
要するに、彼が言うところの『あの後』とはみれいの死後ではなく、もっと前のどこかだったのではないか、ということだった。そして、みれいにとっての空とはどういう場所なのか。あの雨の日の会話を思い出す。
みれいは空の向こう、則ち宇宙を見ていたのではないか? そして、みれいは、宇宙から地球を睥睨することを神の目を持つと表していた。おそらく、宇宙はみれいにとって神様の領域なのだ。神様の領域……みれいがその領域重ねていたのはありふれた世界……あの世だったのではないか?
死者に、みれいの入院、そして大和の言う『あの後』……これら全てが成立する選択肢が、みれいの妊娠だった。とはいえ、半ばこじつけのような理屈だ。外れてくれという思いも大いにあった。
しかし、結果は正解らしかった。
病室は今や、身を刺すほどの沈黙に満ちていた。理央は居心地悪そうにしていたものの、何も口にしなかった。
「大和と理央の、みれいに対する態度がさ、何だか違うように思えたんだよ」
いつもの二人なら、すぐに食いついてくるだろう話題だったが、二人とも、何の反応も返さなかった。
「理央はみれいに復讐したいって思っていたけど、みれいへの感謝は全く失せてない。けれど、復讐をしたことに関しても後悔はしていない。そういう態度だった。けれど、大和は違った。ひたすら、みれいに対して悔いがあるような……そんな様子。今考えてみれば、それもしっくりくるよ。……ねぇ、大和」
私が尋ねると、大和は力なく私のことを見た。
「……みれいの相手、大和なんだよね?」
大和は一瞬、泣きそうに顔を歪めたが、声にもなっていないような声で、「ああ」と告げた。声に出すのは、これだけでもう十分だった。
大和が何を求めたのかは分からない。いつからみれいと繋がっていたのかが分からないのだから当然ではある。もしかしたら、私と別れた後からかもしれない。大和は、不器用を極めた方法だったけれど、確かに私を好いてくれていたらしい。
だとすれば、悪いことをした。友人の方がいい。そう思っていたのは私だけで、大和からすればそうではなかったのかもしれない。あるいは、純粋にみれいを好きになったのかもしれない。いずれにせよ、みれいは彼の願いに答えた。
しかし、子を成してしまったとなれば、いかにみれいと言えど理想を叶えてばかりではいられない。おそらくではあるが、両者の親族を巻き込んだ騒ぎになったのだろう。二人ともまだ大学生。親になるにはまだ早すぎる。堕胎の際か、それとも別の検査の際か、みれいの癌はそのとき見つかったのだろう。
大和は相当疲弊していたに違いない。彼女の妊娠の後処理……両家の親族を交えてとなると、その負担は考えたくもない。復讐云々の話がどこまで進んでいたのかは知るべくもないが、具体的な方法が決まったのはこの辺りだろう。元木にみれいを引き合わせるという、今考えてみれば危険極まりないその方法も、意気消沈していた大和なら特に考えず受け入れたに違いない。この時の大和は、少なからずみれいがいなくなってくれることも望んでいただろうから。
だからこそ、みれいは自死を選んだのだ。きっと、いつもと変わらない、全てを見透かしたような笑顔で。
俯いている理央に目を向ける。気の毒と言えば気の毒だ。彼女はきっと、みれいが常人からは遥か遠くにいる人間だということを目にしてしまったのだ。みれいは何も変わっていない。恋愛感情を理解できてすらいなかった高校時代から、何も。大和は恋愛感情など抱かれていたはずもないだろう。そんな相手に簡単に身体を捧げてしまい、自分と大和とで全く異なる人間になってしまうようなみれいの異常性……それを彼女は目の当たりにしてしまったのだろう。
「……ああ、そっか」
私はふと思いついた。
「今回のこと、全部二人が仕組んだんだね」
理央と大和のみれいに対する感情が相当に異なってしまったとしても、二人がみれいに感謝しているということは共通している。みれいの自死の協力を受けたのも、二人の弔いだ。みれいを、自分たちが信じていたみれいとしてこの世に残すための……。そしてこの弔いは、みれいについてある程度知っている人間、つまり私に、みれいは高校時代そのままの人間として死んだと信じ込ませれば済んだのだ。
そのために私にみれいの死因を調査させ、元木と出会わせ、彼を犯人として、みれいを悲劇のヒロインに変えてしまおうとした……。
「……あーちゃん」
泣き出してしまいそうに、理央が口を開いた。
「あーちゃんは、私達をどうしたいの?」
「……別に」
本当に、はっきりとした理由はなかった。ただ、こうしなければいけないような気がしただけなのだ。そしてそれは、正義だとか道徳だとか、そういったものではなかった。感情の正体もつかめずに、私は窓に目を向けた。
「……行こう」
椅子から立ち上がるとともに、大和の弱々しい声がした。理央がか細く、それに応えた。やがて病室のドアが開いて、すぐに閉じた。さよならの一言もなかった。二人は私に会いに来るのだろうか。きっと、来ることはないだろう。理由のない確信があった。寒風に吹かれたような寂しさがあった。だが、悲しみは感じない。
*
窓からは、青い空が見えていた。みれいはこんな窓から飛んだのだ。まぁるい地球をこの目で見たい。彼女は、そう言っていた。空の青さのその向こうに、みれいは行くことができたのだろうか?
そもそも、みれいとは何だったのだろう? 何のために、人の理想を演じていたのか。二人が言ったように、何の意思もなかったのか。それとも、人々が幸せであればいいという、子供のような夢を叶えたかったのか。
硝子細工。言い得て妙だ。黒、白、青、赤……変幻自在に色を変えつつ、尚透き通ることは変わらない。皆、彼女に何を見たのだろう。自らを殺すために人々を使い、悪漢に愛を覚えさせ……。魔女のようにも、天使のようにも……今や私は、彼女の輪郭を思い出すことができなくなっていた。巡り巡って辿り着くのは自分自身だ。どうして彼女は私に声をかけたのか。私の望みを見出したのか、それとも、そんなものを見いだせず、むしろ興味を抱いたのか——。
どこかで、聞いたことがある。硝子を重ねれば、そこには色が生まれる。
みれい、みれい、みれい。
あなたの、色は——。