熊さんが私の部屋のカーテンをぐるぐる身体に巻きつけてうずくまっているのを見たとき、私はあまり驚かなかった。大学生になって一人暮らしを始めたタイミングで買った、ピンク色の厚みのあるカーテンだ。カーテンレールにはフックの残骸が残っていて、二重にかけてあった白いレースの薄いカーテンだけがかかったままだった。
熊さんは私の同居人だ。熊谷さんだから、熊さん。
お風呂に入ったばかりだったのか熊さんは裸だった。レイヤーが入った先の細い髪の毛が肌にくっついている。カーテンの隙間から白磁のような乳房がちらりと見えて、私は目をそらした。
「濡れてる」
と言って、私は室内干ししていたタオルを手に取る。彼女は、ごめん、と口の中に何か物を含むようにつぶやいた。
*
中学生で谷崎潤一郎を読んだとき、私は身体や本能を伴った恋心を知った。作品のなかの登場人物というよりも作者本人のことを好きになり、その時期は谷崎ばかり読んでいた。そのとき私は初めて自分が女として生まれてよかったと思った。彼の作品に出てくる、美しくうら若い女たちのようになれるのだから。そして私も成長すればそうなれると信じて疑わなかった。そのまま私はさまざまな作家に静かに恋をし、彼らが愛した女たちに嫉妬した。それからふと気になって入った美術館で見たロートレッグの絵に惹かれ、何度も何度も入館料を払って見に行き、その頃はポスター画にどっぷり浸かり、生活の軸がそれになった。
好きな音楽は小さいころからずっと決まっている。木洩れ日が地面に写ったときの、枝葉の陰によって区切られた日の玉が流動しているような、歌詞の一つ一つが粒だって意思を持っているような音楽が好き。
私は好きなことにつねにありったけの力を注ぐ体力と精神力を兼ねていた。周りの女の子たちもそうだった。ゲームやアニメのキャラクターに本気の恋をしている子や、生まれてきた感情に振り回されてしまうくらいの責任感とエネルギーを持った子ばかりとつきあった。そういう子としか分かり合えないと思ったし、なにもかもに軽くなっている人を軽蔑していた。
しかしその誠実さは大学生になったころくらいから急に衰え始め、大人になるまでの過程でだんだんと気持ちが薄まっていった。そうして社会人になった私はいろんなものに本気だった時代の私を消費することでしか、ときめきを感じられなくなっていた。学生時代に好きだった小説を読み、絵を観に行き、音楽を聴いた。憧れの小説に出てくるような女の人にもなれず、顔も身体も薄いだけの面白みのない女になった。新しいものを取り入れるとしても流行りの、しかも、簡単に聴ける音楽ばかりだ。ポップスや洋楽のように頭の中に勝手に充満してくれ、一秒と次の一秒の空間を感じさせない音楽に満たされていた。私はなにがいいのか、悪いのか判断する能力を失っていき、完全にいろいろ麻痺した。昔の自分をなぞっても以前と全く同じ快感を得ることはできない。二度目、三度目と消費するたびに希釈されていくのだ。やがて水を足し過ぎた乳酸菌飲料みたいな味になっていく。つまらないけれど「以前の自分が認めた」という信頼感だけはあるコンテンツで時間をつぶした。
熊さんと出会ったのは、そんな自分に失望しかけていた社会人二年目の秋の日のことだった。公園に訪れた私は彼女を見つけた。まだ夏の暑さが残っていて、熱いお湯のなかに氷を一つだけ溶かしたような気温が続いていた。
通勤用のロードバイクを停めベンチに座ってファストフード店で買ったハンバーガーとジュースを取り出す。時刻は朝の九時すぎ。人はまばらで大人も子供もいた。近くで数人の子供たちが滑り台の頂上に集まっている。一人がゲーム機を持って何人かの子供がそれを覗き込んでいるらしい。
私は顔を上げた。風の強い日は水の中にいるみたい。そして、揺れる木の葉の音は炭酸の音に似ている。サワサワ、でも、ザワザワ、でもなくシュワシュワだ。暦ではもう秋だけれど、夏から受け取った鮮やかな緑を残したまま、葉はみな上を向いていた。植物が吐いた息は細かい粒子になって空めがけて、めいっぱい届けている。そして私はこういうときいつも、太陽にも声があるんじゃないかと思う。今日の太陽の声は一つ一つの音の波がきめ細かくて、下着や高い寝具に使われる糸みたいな柔らかさをもっていた。
私はすべてに包まれていた。自分の身体中の水分量が上がって、ちょうどいい重さになっていくのを感じる。茶道では重いものを軽く見えるように、軽いものを重く見えるように持つ、という作法があるらしい。このとき私の身体は、意図しなくとも、心地よい重みを残しながら、実際の重さよりもずっと小さな力で支えることができていたと思う。
私が視線をまっすぐに戻すと向かいのベンチに座っている女の人とばっちり目が合ってしまった。あまりにもしっかり目が合ったので、私達は気まずさを受け入れるために「ふふふ」と笑った。彼女の隣には大きく膨らんだビニール袋が置かれている。黒いパーカーを着ているので境目が分かりにくいが、髪の毛は長めのショートカットだと思う。表面は黒色だけれどインナーカラーに金色を入れていた。歳は二十五の私と同じか、少し年上くらいに見える。
「ねぇ、会社ずる休みしたの?」
彼女はそう声を掛けてきた。
「違いますよ。今日は祝日だから会社はないんです」
私は彼女の視線がスーツに向いていることに気づいた。
「昨日までは今日が祝日だって覚えていたはずなんですけど、朝起きたらスーツを着てました」
「なんだ、そっか。仕事を飛んだのかと思ったのに」
と言って彼女は食べる? と持っていたポテトチップスの袋を差し出してきた。コンビニで買える最も大きいサイズで、この人、これをもともとは一人で食べる気だったのか、と思うとおかしかった。
私もさっき買ったばかりの厚切りのポテトを差し出した。二人して似たようなものを口に入れた。口に入れた瞬間、ポテトチップスの乾いた咀嚼音が脳に響いた。
「おいしい!」
お休みの日に食べるポテトチップスがこんなにおいしかったなんて。ね、という顔で彼女は私の方を見た。かわいい、と素直に思った。
仕事がない日に公園で食べるお菓子はなんだか涙が出てくるくらいおいしかった。お腹の中がじんわりあたたかくなって、その日、私はすべてに満たされていた。あのときの、しゅわっとした、どこかみずみずしいうれしさを追いかけて、私は熊さんとずっと一緒にいる。この人が好き、というキラキラした気持ちとも、男の人を好きになるときの生々しい気持ちとも違う。熊さんは私のなかのこだわりになった。こだわりたい。この人にこだわりたい。そういう意欲的な気持ちになったのは久しぶりだった。熊さんは私の好意をすんなり受け入れてくれた。そして彼女は私の家に入りびたるようになり、半年経つ頃には、ほぼ同居状態になった。アパートは私が働いている製薬会社から一キロほどの場所にある。熊さんは私より五歳年上の三十歳だが、仕事はしていない。ファミレスのアルバイトと、月に数回だけ時給のいいクラブでホステスをしている。
お互いに外泊したいときには連絡はとらない。部屋も一応分けている。家事も、どちらがやるというルールは特になく基本は別々、という話になったはずなのだが、熊さんが生活費や家賃を半分も出せないという理由で申し訳ないほど担ってくれている。
熊さんがとんでもない大きさのスイカを一玉も買ってきたことや、アニメのキャラクターのモノマネを真剣にやっていたことみたいなくだらないことでも、ずっと一緒にいるのに思い出すと涙がにじんでくるような不思議な気持ちになった。でもそれは悲しかったり切なかったりするものではなくて、何もないのにふいに「ありがとう」と伝えたくなるような、そんな感じの毎日だった。
「瑞樹には話したことがあると思うけど、うちはだいぶ前に父さんが死んだから、実家には母さんしかいないんだ」
と、いつか熊さんが話してくれた。そして彼女は何かにつけてよく実家に帰った。庭の草刈り、地元のお祭り、ちょっと真面目な家の掃除、節目の料理の手伝い……。
「お母さんと仲いいの?」
「いいのかな。でも、私はちゃらんぽらんだから、こういう方法でしか親孝行できないんだ。今回は父さんたちの墓の掃除してくるよ。母さんは最近、歳で動けないからさ」
ある日、仕事が終わって家に帰ると、熊さんがいなくなっていた。脱ぎ捨てられた彼女のパジャマだけがぽつねんと残されている。こういうことは別に珍しくなかったが、その日は二人で一緒に映画を観ようと約束していたので不思議には思った。次の日、熊さんはちゃんと帰ってきてくれた。私が夕食にレトルトカレーを食べているときだった。
「おかえり」
玄関の入り口が開く音がして私は振り返った。彼女は真っ黒な喪服を着ていた。口の端っこが引きつって変に力が入っている。目が見開いて、言いたいことを言っても怒られるから、もしくは気持ちを形容する語彙がなくて黙っているだけの、なにかを主張しようとしている子供みたいだった。そうかと思えば、「ああ」とか「うう」とか声をあげて泣きだした。彼女が私になだれこむように身体を預けた。私はどうしたらいいのかわからなかったけれど、なんとなく彼女の重みがうれしかった。引っ付いていたら、熊さんの身体のなかから強い流れのようなものを感じた。寒い夜、海の底なしの闇をはらんだ波が押し寄せてくるときみたいな乱暴な流れだ。
「母さんが死んじゃった」
かすれた声で彼女が言った。
「死んじゃった……どうしよう」
急にあつらえたのだろう喪服の黒は、なにもかもを含んでいて、私にはすべてを掬い取ることができない。どんな気持ちでその喪服を買って、どんな気持ちで家に帰ったのだろう。私は彼女にどうしてあげたらいいのかわからなくて、ただ見つめて夜を明かした。
そしてその次の日、熊さんのカーテンぐるぐる事件が起こった。仕事から帰ると彼女が布団の上でカーテンを巻き付けていた。お風呂から上がった後に衝動的にやってしまったのか、彼女は服を着ておらず、髪の毛から水滴がぼたぼた落ちている。私は彼女からカーテンを少しずつ剥きながらタオルで水分を拭った。されるがままの彼女の身体は全体的に硬質だった。丈夫そうな硬さではなくて、例えるならガラスとか西洋のアンティークの陶器のような、もろさをはらんだ硬さだった。首から胸のふくらみ、腰、足まで、一本の筆で描かれたような流れをもっている。くまなく拭き終わると、彼女はまたカーテンにくるまって、それから眠ってしまった。
「つらかったね……」
さっきまであんなにきちんと身体を触ったのに、頭を撫でていいのか戸惑う。私は遠慮しながら髪の毛の先に触れた。
それからというもの、私は熊さんにかかりっきりになった。熊さんは家事もアルバイトも、近所にちょっと散歩に行くのでさえできなくなってしまったのだ。カーテンから脱出するときといえばお風呂とトイレくらいだと思うが、特に私が家にいるときには出てこようとしない。会話も減った。さみしい気持ちはしなかった。部屋の中にはいつも熊さんの気配がしたからだ。
カーテンを新調しなければならない。私は治樹に電話をかけた。
「悪いんだけど、車を出してくれないかな。できれば今日」
電話一本でいつだって彼は動いてくれる。彼は同じ大学のボランティアサークルの同輩だった。そして私が最後に本気で好きになった男の人だ。今は高校の数学教師をしている。近所のホームセンターは治樹の学校の生徒がいるかもしれないというので、わざわざ隣町のお店に連れて行ってもらった。幅のサイズ感的に合うものが一つしかなかったので、それを買い、治樹の車に乗せる。
「これ、つけてやろうか? 一人だと大変だろう」
彼は後部座席に乗せたカーテンを一瞥して言った。
「ううん、いいや。私の家まで連れてってくれれば自分でやるから」
そういったものの、私達は結局、治樹の家に向かった。私も止めなかった。彼と身体を重ねている間、ほうけた脳を使ってかすかな言葉に耳を澄ませていた。治樹はいつでも音楽をかける。歌詞の意味がわかっているのか、いないのかわからない洋楽だ。流れていく言葉が脳に留まることはなく、私も無理に追いかけようとはしない。一つ、意味がとれる言葉……慣用句だった気がする、が流れた気がしたが、私はそれをきちんとつかむことはできなかった。
行為が終わると彼は「疲れた」と聞こえるように言って私にもたれかかろうとした。その身体は熊さんよりもずっとずっと重くて、私は柔い力で反抗した。
「なんだか最近、参ってるんだよ」
治樹が立ち上がって、水道の水をそのままコップに入れて飲み下す。
「参ってるんだ」
私は何も言わない。
「子供っていいよな。いや、もう高校生は子供っていう歳じゃないと思うけど。いろいろ守られて、俺は守らなくちゃいけないのに、何をやったって結局帰るところあるじゃん。俺とあの子ら、別になにも違わないはずなんだけどな」
最近はいつもこうだった。治樹がだんだんと弱っていくのを眺めているだけだ。彼と初めて身体を重ねたときを呼び戻す。あの時私は、正しいことをしていると感じた。ずっとうっすら恐れていたものがこんなに簡単に、しかも納得感をもった穏やかなことだったなんて。大学時代、私達が世間的にちゃんとした関係だったころ、私は彼の弱さを包み込んであげたい、自分ならそうできるというある種の傲慢さを持ち得ていた。なぜなら私は女だから。女って、そういうものだと思うから。
でも今の私は違う。私は彼の孤独をきちんとわかっている。同情も共感もできる。どうしてあげるのがいいか、その方法すら私には備わっている。それは今の私達の生々しい関係によって解消できるものではないのだ。もっと、違うもの。でも私はそうしない。私は家でカーテンにくるまっているのだろう彼女のことを考えながら目を閉じた。
熊さんから治樹とのことを咎められたことも詮索されたことはない。私は彼女が私のためにご飯を用意してくれていることを知っていながら何度も無断で外泊した。数日開けてから家に帰っても、熊さんは必ず「今お腹減ってない? 何か食べる?」と聞いてくれる。「昨日のご飯、冷凍しておいたから好きな時に食べて」とも。
「熊さんって私のお母さんみたい」
と言ってみたことがある。スーパーで半額になっていたスイカを食べていた時だった。
「こんなに大きな娘を産んだ記憶はありません」
熊さんがティッシュペーパーで私の口元を拭いてくれる。やっぱりお母さんじゃん。すると熊さんは何かを思い出したように話し出した。
「そういえば、あたし、四歳くらいのころまでお母さんのお腹の中の記憶があったの。スイカの匂いがしたってお母さんに言ったことは覚えてる」
「いっぱい食べていたのかな」
そんなことを話していたのを思い出した。
私はもしかしたら熊さんに本当にお母さんになってほしかったのかもしれない。私には母親がいなかった。父親のいない熊さんと、母親のいない私。得られなかった母性を私は彼女に求めたし、彼女も私に父性を求めた。それでもやはり、幼いころに得られなかったそういうものは、大人になってから得るのは難しいらしい。私の父親役は執着から破綻したし、熊さんの母親役は淡泊さから破綻した。
一度だけ、熊さんの働くクラブに行ってみたことがある。そこでの彼女は、その場にいる誰よりも色っぽかった。流れるようにお酒を作る指先や、スリットから剥き出しになった脚がそうさせるのではない。彼女は色気とは知性から生まれてくるものだと知っていた。
そしてその場所での彼女はこの上なく優しかった。私は暗さをわかっていない人からの優しさなんていらないと、つくづく思う。そんな品性のかけらもない優しさは上から目線の施しにすぎない。しかし、彼女の底にある闇が、彼女の優しさに深みを持たせていた。
その日私はなぜだか自分でもわからないほど、むくれていた。彼女が男性客の手を自分の腿の上に持って行ったり、キャストの女の子と仲良さげに話しているのが気に入らなかった。
「今日、来てくれてありがとね。最近あまり出勤してなかったから、指名取れるか不安だったんだ。瑞希とか、前々から良くしてくれてたお客さんが来てくれたおかげでなんとか持ったよ」
「客と普段から連絡取ったりしているわけ」
「そりゃあお客さんだから、メールくらいはしないと」
ふぅん、と言って、私は食べていたアイスのゴミを投げた。入らなくて、舌打ちして入れに行く。
「瑞希は純粋だから、ああいう場所、嫌だったよね。ごめん」
そういうことじゃ、ないんだけど。
私は治樹に送ってもらい、熊さんのいる家に帰った。土曜日とはいえもう昼頃になっていたけれど、カーテンにくるまったまま眠っていた。私は少し迷って、彼女の横に座った。そしてカーテンを被って布団に横たわっている彼女の背中をトン、トン、トン、トンと絶えずゆっくりと叩いた。心臓の拍動を整えてあげるように。彼女を私のゆるやかな脈拍にそろえてあげるのだ。加えてそれは、まるでドアをノックするときみたいな気持ちだった。大丈夫だよ。と私は念じた。大丈夫、大丈夫。今はつらいかもしれないけれどそのうちきっとよくなるよ。
「何かしてほしいことがあったら、できる限りやってみるから言ってね」
伝わっているのかも、もう眠ってしまっているのかもわからないけれど。
私はさなぎのようになった彼女の身体に触れ続ける。きっと、私のなかの、かすかに残った本当をかき集めたら彼女ができるんだ。言葉にしようと努力してみても簡単にはできない、そういう誠実な気持ち。彼女は私の本当を担っている。本当に好き。本当に大事。彼女がいる限り私は本物の私をきっと手放すことはないと思う。そんな私を、身体も喜んでいるようだった。彼女の世話をきちんとするためにネイルをやめた。早く帰るために買い食いもやめて少し痩せた。そういう変化は、私にとって植物を育てるときのようなもので、一つ気づくたびに、寒い日にホットミルクを飲んだ時のようなうれしさがあった。
熊さんのことだけで精一杯だった私は、治樹とのつながりを疎かにしていた。電話がかかってきたらとる。ずるいとわかっているけれど、拒絶もしないし積極的にもならない。
「あの小説、読んでみたんだ。ほら、前……ずいぶん前になるけどおすすめしてくれたやつ。俺は好きじゃなかった。ああいう、作者が読者に教育を施そうっていう高飛車な意図が見え透いたの、ダメなんだ」
「いまなにしてるの。眠れなくてさ」
「きみが好きだって言っていた音楽、聴いてみたよ。いいと思う。今度近くでライブがあるみたいだけど行かないの」
電話口の彼は大学時代のように甘く、内容はすべて遠回しに私に関することだった。
ただ、彼もわかっていると思うけれど、彼との関係はもう恋愛でなかった。特に私にとって人を愛する、というのは、相手を自分のなかに取り込まなくちゃいけない。自分の肉体や精神の一部にして、それが傷つけられそうになったなら、全力で阻止しなければならない。だから私は好きなものや人ができたとき、簡単に人に明かすことができない。本当のこだわりっていうのは、自分のなかにあって、他者との関わりでありながら、自分との関わりであるのだ。つまり好きなものやことを明かすことは、自分の肉体の一部を差し出すことになる。それくらいの真剣さが彼との間にはないのだ。私は治樹が病気になっても心の底から心配などしない。ランダムなエネルギーの突出でしか会うことがなくなっていた私と治樹は、全く離れることになってしまった。それでもたまに治樹から連絡をくれた。たまに返してたまに返さなかった。「来て」と言われたら行っただろうけど、はっきり言われなかったから行かなかった。
ある日、急に、何か思い出したように、彼に呼び出された。
「俺、最近ものすごく痩せたんだけどわかる?」
と部屋に入るとすぐに彼が言った。治樹が急にご飯を持って家に来てほしいと言ったからだ。「確かに痩せたかも」と私が言う。
「最近は一日に一食も食べていないくらいなんだ。俺も流石に気にして食べるようにはしているんだけど、カップラーメンとかそういうのしか食わない」
彼が痩せたかどうかは正直わからなかった。しかし部屋は目に見えて汚れるようになった。半分飲んだペットボトルや脱ぎ捨てられた服やらが散らばっており、髪の毛やほこりはそのままだった。最後に掃除機をかけたのはいつだったのだろう。間接照明やら室内香水やらが好きな人だったのに、どれも埃を被っていた。
「いいの?」
と彼が言った。
「俺、こんなに細くなっているけど、いいの」
いいのと聞かれて、私は何も言わなかった。そんな私を見て、彼は興味をなくしたみたいだった。わかるよ、と私は心の底ではちゃんと思っている。そういう気持ちが満たされないことのつらさ、私にもわかる。同情の気持ちと、それとともに私の心はいらだっていた。
「機嫌悪いの? 今日はもう帰る」
私は熊さんのいる家に帰った。深夜の二時くらいの時間だったけれど、一人で歩いて戻った。するとなんだかもう耐えられなかった。私はそっと彼女の部屋のドアを開けた。ミノムシのようになった彼女がそこにいた。もう眠っているだろうと思っていたけれど、かすかに声が聞こえた。
「……さん」
泣いている。彼女が泣いている。
私は彼女のそばにかけよった。また、効果があるのかわからないけれど、あのおまじないをかけてあげようと思っていた。
すると、彼女の言葉がはっきりと聞こえた。
「母さん……」
途端に、治樹のことがうらやましくなった。彼のことをずるいと思う。私は初めて治樹と身体を重ねた日のことを思い出す。人とのつながりをこんなに簡単につくることができるなんて、と涙が出るほど感動したのだ。私が彼だったら、私が男だったら、熊さんのことを簡単な方法でなぐさめることができるのに。男なら女の横に一瞬で座ることができるのに。
そのとき私はひらめいた。治樹とできることが、どうして熊さんとはできないことになるんだ。
私は電気をつけて、彼女の身体からカーテンをはがした。彼女は面倒だったのか、下着以外、なにも着ていなかった。真っ赤に充血した目が泳ぐ。
「瑞希……?」
彼女の白みがかった唇から発される私の名前が、私の心を満たしていく。
「簡単なことなんだよ」
私は彼女の髪を梳いた。そういえば、と治樹の家で聞いた歌詞の一部が浮かんだ。「stick with you」。そうだ。「そばにいる」だ。
「どうしたの」
怖いよ、と小さく彼女が言って、またカーテンを取り戻そうとさぐる手を私が押さえつけた。熊さんが弱い力で遠ざけようとする。大丈夫だよ。私はずっとそばにいるから。私は離れたりしない。だって、私達はーー。ひゅう、という小さな息を吸う音が聞こえる。
「いやだ、なに、」
彼女の下着に手を掛けた。硬そうだと思っていた彼女の身体は柔らかかった。
「こんなの……」
彼女の目にうっすら涙が浮かんだ。
「こんなの、間違ってる」
熊さんが明確に私の肩を押し、拒絶した。
*
私はロードバイクで会社に向かっていた。八時二十分。空気が乾燥しているからか、唇が乾燥して皮が剥げ、血が出てきた。その日、私はすべてが煩わしかった。頭の輪郭がカッと痛くなる寒さだった。自転車の車輪と地面が擦れる音は、まるで虫の羽音の集合のようで私の心をざわめかせた。通勤や通学で歩いている人の、一人一人の規則的な足音は、合わさると不規則なリズムになって、私の頭を叩き続ける。
私はこの気持ちの悪さを振り払うためにギアを変えて一気に加速した。そして、ドラッグストアの横の脇道に入ったときに事件は起こった。刹那、誰かの悲鳴が聞こえると思い、一旦止まろうと思ったときだった。何を言っているのかわからない奇声や、「やめなさい」という静止の声がやけに近いところから聞こえると気づいたときにはもう遅かった。私は身体に激しい衝撃を感じ、意識を失った。
目が覚めると、私は病院にいた。結果、私は二週間もの間、病院に入院することになってしまったのだ。腰を骨折してしまい、リハビリが必要なのだそうだ。骨折と言っても、病院に運ばれたときには内蔵の位置がずれてしまうほどの大けがだったらしい。治療の末、内臓に関してもう心配はないらしいが、骨折の治療にしては長めの、二週間病院で休むことになった。あの日、ブレーキとアクセルを踏み間違えた車が暴走してしまったらしい。目が覚めたとき、看護師さんから大体のことは教えてもらった。それでもあの場に居合わせたなかでも私はかなり軽症な方で、死人も出たというから驚いた。
看護師さんから「一人部屋も空いていますが、どうしますか?」と聞かれたが、もちろん一人部屋の料金を払えるほど裕福ではないので四人部屋にする。上司にはすぐに事情を話した。労いの言葉を掛けてもらったけれど、きっと今、職場はてんてこ舞いになっているのだろう。二週間、労働時間で考えると七十時間もの間、人が一人消えることになるのだ。申し訳なさに胃が痛んだ。
最初は休暇をもらえてラッキー、くらいに思っていたが、そんなことはなかった。一枚千円もするテレビカードは何枚も買うわけにはいかない。大人数の部屋だったのでWi-Fiも使えず、ゲームや動画を楽しむこともできない。入院初日、父親に無理を言って実家から私の洋服を持ってきてもらったきり、知り合いには誰にも会っていない。手元にある娯楽は通勤用の鞄に忍ばせていた文庫本一冊だけ。しかもそれも初日に読み切ってしまった。同室の人の雑誌をめくる音や、ベッドの布ずれの音でさえ、私の脳には不協和音となってひびく。
限りなくゆっくり流れる時間のなかで、生まれてきたのは不安だった。身体の奥底が吐き気がするような、一秒一秒で確実になにかを失っているような、そして不本意に何かから切り離されている疎外感だ。それは時間が経つほどにつのっていき、私はとうとう狂った。眠っていても窓からの風が触れただけで飛び起き、威嚇し、本当になにもないか病院内を徘徊して確認するまで眠れない。このときは不思議なほど腰の痛みを忘れた。夜勤の看護師さんやお医者さんに取り押さえられ、小さな子どもをあやすようになだめられて、ようやくベッドにつく。これで寝られると思ったら、今度はどうしようもない渇きに苦しめられる。どれだけ水を飲んでもおさまらない。身体が水分を受け付けられなくなり、吐くところまでやって、また水を飲む、の繰り返しだ。
熊さんに会いたい。私のなかの強い流れをおだやかにしてくれるのは熊さんしかいない。
私は彼女に会えばなにもかも解決すると確信していた。彼女には目が覚めてすぐメールを送った。もう五日経ったが返事は帰ってこない。もともと数日は携帯を見ない人なのだ。
私は窓の外を見た。私のいる病室は四階にある。真正面の下には大きな門が見えた。右下は駐車場だ。街で一番大きな総合病院らしく、門から入り口の自動ドアまでが長い。病院の周囲はきれいに整えられた木々に囲まれている。車いすで散歩している人や、家族の見舞いに来たのか父親らしき人が自販機で子どもにジュースを買ってあげているのが見えた。
そのなかで噴水のある小さな庭のような場所に釘付けになった。正確にはそのなかにある、一本の背の高い木に目を奪われた。幹が太くて枝葉が鷹揚に広がっている木だ。季節はもう冬に差し掛かっているのに、ただ一本、その木だけが葉を朽ちらせることなく上を向いていた。
あの木の下には彼女がいると思った。
私は走り出していた。パジャマのまま階段を下りてあの木の下に向かった。途中、看護師さんから「走らないでください!」というお叱りを受けながら走った。あの、きっとみずみずしい柔らかな水分感のなかにきっと彼女はいて、私を包み込んでくれるはずだ。
受付の前を走り抜け、自動ドアを突破し、高い木を目指して走った。
しかしそこに、熊さんはいなかった。
私は酸素をつかむように呼吸をした。急に動かした身体の関節がふるえ、腰の濃い痛みが身体じゅうにひろがっていく。身体を支える筋肉の全てが限界をむかえ膝をついた。なにもなかった。よく見ると木の幹は思っていたより太くなくて、乾燥した皮が剥がれ落ちそうになっていた。葉の重なりも隙間だらけだ。外から見てあんなに大きくて潤っていた木の実態は、まるでシャボン玉のようだった。外側だけは立派でも、内側は乾燥してなにもない。
私はその場を立ち去ろうとした。そのときだった。
「瑞樹!」
私の身体に甘い衝撃が走った。そこにはグレーのスウェットを着た彼女が立っていた。髪の毛は整えられていなくて、一部逆立っているくらいだった。走ってきたのか息が上がっている。もちろんあのカーテンを半分羽織っていた。
かわいい、かわいい、私のーー。
声が出なかった。彼女が私の身体を支えてくれる。近くのベンチまで移動し、ようやく座り込んだ。
「今、さっき、携帯確認して。これまでも何日か瑞希が帰ってこないこと、あったから。それかなって。それに、やっぱりあたし、怒っていて。この前の、あの日のこと、どういうつもりなのか、さっぱりわからなかったから、もしかしたら瑞希が何日かは帰ってこないかもしれないとは思っていて。そうしたら、事故に遭ったって、入院したって、びっくりして」
彼女はまだ整っていない息で話してくれた。
私は自分がちゃんと自分を取り戻していくのを感じた。
「あの時はどうかしていて。すみませんでした」
私が謝ると、彼女は深呼吸してから、小さくうなずいた。
「正直びっくりしたし、今でも腹が立ってしょうがないけど、瑞希が事故に遭ったっていうから気が抜けちゃった」
「そのカーテン、やっぱり大事なの」
と以前からずっと気になっていたことを聞いてみる。
「入ってみる?」
と彼女が言うので、私もそのなかに入れてもらった。真っ暗でほのかにあたたかかった。ただ、私にはなにも感動がなかったのですぐに抜けた。
「瑞希、よくわかってない顔してる」
そういって彼女はベンチに座ったまま、またカーテンにくるまった。そして私はその横から彼女にかぶさるように抱きしめた。一枚の隔たりを持った、彼女の重みと温もりが伝わってくる。
すると、身体と心の奥底から歓喜の声が聞こえてきた。そしてその声は身体じゅうをめぐる。冷え切っていた心の体温が、まるで二度くらい上がったような感覚。急激に私の身体が作られていくのを感じるのに、安心感と納得感に浸される。この瞬間なくして私はどうやって生きてきたんだろうと思うほど運命的な思いだった。
目に見える色彩の全てが息を吹き返す。あの木の葉の紅は、なんて鮮やかなんだろう。一枚ずつ、葉の力はなんて強力なんだろう。布越しの命のはばたきが徐々に私と合わさり、まるで一つの生き物のように同化していく。私は今、この瞬間のために生まれてきたのだ。
腕をきつくしすぎてしまったのか、彼女が身体をふるわせる。
「動いた!」
私達は目に見えるもの、すべての祝福を受けた。そして頭に浮かぶのは、覚悟と、あなたとの未来のことだった。