誰しもが、健康で文化的な最低限度の生活をしているのであれば、その人生の中で激烈に印象に残った人間というのが自分や家族以外にいると思う。憧れの人でもいいし、心底軽蔑している人間でもよい。とにかく、そいつが存在したせいで今の自我が確定したのだ、とそう思えてしまうような強烈な人が君たちの記憶の中にもいるのだと僕は信じて話を続けることにしたい。
こと僕の人生において、その激烈な端役を誰に当てるのかと問われれば、それは、三木ススムという一人の少年だと迷いもなく答えられる。彼は、僕の少年時代を語る上では、どうしても触れなければならない人物だ。
発端から話そう。
三木ススムは小学五年生のころに僕のクラスに混入してきた転校生のことである。転校生と言えば、「初めまして、〇〇から来ました。✕✕です」等の紹介を教室みんなの前で行うイメージがあるが、特にそんなイベントもなく、彼は一学期早々から当たり前の顔をして教室の一角にいた。
ここで僕は自分の欠点として人の顔を覚えるのが苦手なのだと伝えておく。つまり、最初そいつを見たときは「こんな奴が同じ学年にいたのだな」とぼんやり思っただけで、転校生だとは思わなかった。こんな奴、と称したのは彼の初印象が些か強かったからで、見るからに寸法にあっていない大きなTシャツから死体みたいに白い肌を覗かせ、疲れた顔と荒れた肌は不衛生で不健全であることをこの上なく表していた。何より髪が薄汚れた金色だった。
そんな風体だったから、さして他人に興味のないことで定評のある僕でさえ、あまり近づきたくないという欲求に襲われたほどである。
さて激烈な端役と言っておきながら、結論から言うと僕は三木という人物についてどう感じて、どう考えて、さらにはどう表現したらいいのか実は決めかねている。もちろん、赤の他人というよりかは幾ばくか長い時間を共有したし、彼と関わった様々な場面を切り取れば怒りや呆れや哀れみやといった単純な感情を抱いていたのは確かではある。しかし、別に友人と呼べるほど仲が良かったわけではないし、細かい感情をつなぎ合わせても彼に対する全体的な評価にはならないと思う。初印象と同じく、彼の存在自体も実は僕にとって複雑で微妙なものなのだ。
でも、客観的に彼がどんな人間なのかは説明することができる。
一言で言えば、彼は手の付けられない目立ちたがり屋だった。
授業中に騒がしいのは当たり前にして、なによりも彼の創意工夫を凝らしたいたずらの数々が僕らを大いに困らせた。例を挙げればきりがないし、そのすべてを覚えているわけじゃないから細かいことも言えないが、気に入らない奴の机を校舎裏の焼却炉に放り込んだり、トイレにスプレー缶で落書きしたり、そんなことだったと思う。
特に教師たちは執拗に狙われ、日常的に机の引き出しに虫の死骸を入れられたり、教室の入り口近くに半紙を敷き詰められたりした。後者に関しては実際にすってんころりんした担任が頭から血を流す等々の「ごめんなさい」では済まないことも起きた。それから教職員全員の靴を盗んだこともあった。正確には盗んで隠した。学校の運動場から中庭、果てはプールまで含んだ広大なフィールドの至る所に、教師陣それぞれの靴が隠された。質が悪いのは、三木自身もどこかに隠れてしまったため、彼を詰問して隠し場所を聞き出すこともできなかった。結果、日が完全に沈むまで、教師のほとんどが客員用スリッパをはいて屋内外問わず駆けずり回る羽目になった。この事件は結局、教頭のものを除いたすべての靴が見つかり幕を閉じた。ちょっと面白かったのでこの事件はよく覚えている。
だが、ここまで話した内容は僕には関係のないことなので、割とどうでもよい。当時の、そう、あくまで当時の僕は基本自己中心的だったから、自分だけがよければそれでいいと考えていた。それは翻って自分に害があるなら些細なことも看過できないという、自らの狭量を告白することでもあるのだが、とまれ、それもまた事実だから仕方がないだろう。
しかし、相互不干渉かつ実質無害であれば近所で紛争が起きたとしても平生を保てうる僕ではあるが、三木と僕との間には同じクラスという以上の関係性が半強制的に存在していたために、どうも何の感情も動かさないで過ごすというのは無理な話であった。
三木と僕は同じ通学班で、しかも同じ学年の同じクラスの隣の席である。これは「おはよう」から「さようなら」まで、彼とはおおよその生活空間を共有することを意味している。
余談だが気色の悪いことに誕生日まで同じである。
さらに輪をかけて最悪なのが、彼が怒られる度に「久保君は近くにいたんでしょ?」と毎回事情聴取をされることだ。それが何度も繰り返されいつの間にか事情聴取から「どうして見ておかなかったの?」等々の責任追及へと変化していった頃には、どこかの書面にそういう義務が記載されているわけでもなく、むろん教師たちも無意識的にではあろうが、どうやら優等生然とした僕に対し、三木の監視役としての期待を言外に向けているらしかった。すごく仲のいい友人同士でグループを形成するということはせず、浅く広い交友関係しか持たなかった僕は、彼との友達役としては最適だったのだろう。
世の中は不思議なことでいっぱいだが、十一歳のガキに監督責任を教え込もうとするに比する無謀はそれまでもそれからも記憶にない。
まず強く言っておくが、僕は彼とは対極に位置する生徒である。
僕という人間は、品行方正かつ文武両道を地で行き、存在することによって周りには何の迷惑も不都合も与えない。眉目秀麗でないことを除けばおおよそ、世界に祝福されて生まれてきた部類の人間であることは周知の事実である。けっして、品性下劣かつ浅学菲才を地で行き、存在するだけで周りに迷惑と不都合を与える人間によって、精神衛生を乱される道理などないのだ。正確に言えば、そんな道理は誰も持っていないけれど、ことさら僕である必要は何処にもありはしないはずだった。
くどい話はもうよそう。
【二〇〇九年 七月九日】
パンッ、と爽快な音を立てて五年二組の窓が割れたのは、夏の気配が濃くなる七月上旬のことである。
何事かと駆け込んで来た学年主任と、僕たち私たちは関係ありません、という意思表示のためお通夜でしか見ないような無表情で斜め前を向くクラスメイトと、隣人の奇行に度肝を抜く僕と、野次馬根性をたぎらせ視察に来た他クラスのお調子者とで絶妙な沈黙が一瞬を支配した後、三木は割れた窓から外に飛び出していった。それを見て、はたと頭が状況に追いついた担任は「圭介君。悪いのだけど箒と塵取り持ってきてくれる? 周りの子は机動かして」と指示を飛ばす。
当時、三木は学校に来てから約三か月という短い期間で、窓を割った程度では誰にも怒られない、という立場を確立していた。なぜ彼は普通に生活できないのだろう、と考えるよりかは、あいつはそういうやつだ、と災害みたいなものとしてみんな彼の大半の奇行には目をつむることにしている。もっとも校舎に落書きしたり、校長の愛車のタイヤを画鋲でパンクさせたり、体育の時間に陰茎を晒し、その場の女子生徒から阿鼻叫喚の嵐を浴びた時などはさすがにPTAという組織によって相応の粛清がなされたようだが、なんだか彼の親御さんにだけダメージが向かっているようで、彼自身は怒られようが嫌われようが疎まれようが貶されようが関係ないという様だった。
その日、三木は再び教室に戻ってこなかった。そして大抵この場合、三木のランドセルを彼の家に届ける役目を僕が担うこととなる。
「圭介君、お願い」と、やはりそう言ってきたのは担任の森山先生である。新任の女性教師なのだが、フレッシュな感じがまるでしない。大人とは概して白々しさを纏っているものだが、彼女に至ってはその程度が群を抜いており、イメージだけで言えば乾いた雑巾みたいな人物だ。彼女は「今日掃除当番だったよね」と言うのと何ら変わらぬ口調で、汚いランドセルを差し出してきた。まあ別に、負担ではない。彼の家は僕の通学路の途中にあるし、何も入ってないから重くもないし……あ、何も入っていないわけではなかった。彼のランドセルには毎回なぜか生物の死骸が入っている。一昨日は頭のない青大将が入っていた。その前は確か、ヤモリだ。
「はい」と模範的な返事とともに僕はランドセルを受け取る。さて、中身を見ると、その日はウシガエルだったのだ。
*
僕の通学路は、用水路に沿った道が大半を占め、家まで残り数百メートルといったところから線路に沿った道に変わる。
特に汚いでも綺麗でもない用水路をぼんやり眺めながら、二人分のランドセルを背負い歩いていると、小橋の下に一つ小さな影があるのを見つけた。小走りで駆け寄ると、やはり影の正体は三木である。彼は膝小僧まで水没したまま、水面を凝視していた。
「何してんの?」
そう話しかけると、彼はこちらを振り返り「カメを探してるんだ」と言った。
「殺すのか?」
ついつい飛び出た率直な質問に、三木は「う~ん」と日の光のためか、目を細め眠たそうな表情で唸った。
「カメはやめろよ。カエルとか、蛇とかは、まあいいけどさ」
「なんで? 一緒じゃん」
三木は理解できないといった顔で、眉をひそめた。そして思い出したように、「あ、そうそう。カエル! 持ってきてくれた?」と先ほどと違い溌溂な雰囲気で問うてくる。
「ああ、こん中に入ってる」
ランドセルを彼に見えるように持ち上げる僕に、「ちょうだい」と手を伸ばす三木。
僕は、よいせ、と緩やかに彼の手元へランドセルを投げ飛ばす。彼はそれをキャッチすると中を見て、何かつぶやいた。僕には聞き取れない声だったが、それは死んだカエルに向けたもののように見えた。
「ありがとー」
三木は満面の笑顔で言った。
「カメはあきらめろよ」
僕がまたそんなことを言うと、三木は不満そうな顔で上流の方を見た。
「でもほしいんだ」
ほしい、というのは飼いたいヤツの使う言葉であり、それはつまり自分には生命を育むに値する責任感が備わっていると宣言することでもある。むろん彼のような動物愛護団体から指名手配されそうなヤツが使うには適切な言葉とは思えない。
「レアだから、見つかんないんじゃない?」
彼に、殺すのはよくないと道徳的観点から語りかけても無駄なのは知っているので、ちょっと実用的な理由を提示してみる。
「レアなの?」
「そりゃそうでしょ、こんな流れの速いところには、いないんじゃないか?」
まあ、多分待ち続ければここでも捕獲可能だろうけれど、との言は心の中にしまう。
「じゃあどこならいるかな?」
「教えないよ」
「なんで?」
「いやだって……」
殺すんでしょ? という言葉を言いかけた瞬間、僕の頭の中で「なんでこんな奴としゃべっているのだ」と冷静な声が響き、口の中に渋いものが混じったような感じがした。時間の浪費。それは、損得勘定を信条とする当時の僕にとって世界一嫌いな言葉だ。
すると、僕の方をのぞき込んでいた三木の顔に不安の色が混じっていることに気が付く。そんな表情を見せてくる理由が全く思い当たらない僕は、ちょっと首をかしげてしまう。
「そんなに嫌?」
三木は、その表情のまま僕に聞いた。
「え、うん」
僕が頷くと彼は「じゃあいいや、あきらめる」と言って川べりから道路によじ登ってきた。
「え、いいの?」と明らかに愚かな僕の言葉に「うん。大丈夫」と言って、三木は石を蹴りながら通学路を歩き始める。
その時、チャイムの音が市内に響き時刻が午後五時であることを告げる。西にはどす黒い雲が見えた。
*
【七月十日】
翌日は、異常な低気圧が猛威を振るい、市内外いたるところで土砂崩れや氾濫が起こり、僕の小学校では一部の物理的に出席が難しい子供に限り、出席免除という扱いを受けた。忌々しいことに僕はそこに含まれなかった。ヤダヤダヤダヤダヤダ、と心の中で連呼しながらも、恭しく親の言葉に従い通学を決意した僕は、ヤダヤダヤダヤダヤダ、と実際に連呼する妹を引きずり通学班の集合場所に向かった。だが、その日、僕の通学班では久保家以外は出席免除者に便乗して欠席を選んだ。雨は嫌いだが、三木がいないのは素直にうれしい。
ともかく、ずぶ濡れで学校につくと、ちょっと眼付きの悪い女子生徒が、下駄箱の前に突っ立っていた。なんだろうこいつ、と一瞥しながら靴を脱いでいると「ねえ」と声を掛けられる。低くて不愛想な声だ。明らかに、僕に話しかけたくて話しかけている感じではなかったし、何よりそいつの身長が僕よりもちょっと高いというのが気に食わなかったので「何?」と若干不機嫌な声で応じた。
「ビニール袋余分に持ってたりしない?」
しかし、返ってきた声は意外と本当に困っているヤツのものだった。
その時になってようやく、彼女を正面から見ると、手には汚い物を摘まむように濡れた靴下を持っていた。ビニール袋はそれを入れるためだろう。粗暴な男子ならば無断で雑巾がけに吊したり、そのまま下駄箱に突っ込んだりするが、女子には、いや少なくとも彼女にはそんな真似できないのだろう。そのくらい察せられるし、名前も知らないような奴だけど、それだけの理由で無視するほど僕は腐ってない。無言でランドセルからビニール袋を引っ張り出し、彼女へ差し出す。
「ありがと」
憮然と、彼女はビニール袋を受け取る。そして「また返すね」とボケっとした発言をした。
「いや……いらない」と僕。
そこでようやく彼女は自分が変なことを言ったと気づき、歪な笑みで「はは」とこぼす。そんな様子を見て、この表情に乏しい少女は人と話すのが下手なのだ、と知り、同時に先ほど不機嫌な声を出したことを少し反省した。少しだが。
ちなみに当時の彼女は梅井凪という名前だった。僕にしては珍しくはっきりフルネームを憶えている人物である。
*
雨の日の授業は滞りなく進行し、掃除の時間になると森山先生から校長室の掃除を命ぜられた。なんでも、校長室の掃除係は今日に限って全員休んでいるらしい。厳かさが求められる掃除場所であるので、普段から信頼の厚い忠実なティーチャーズペットである僕や学級委員長、副学級委員長の三人が先生の独断により選ばれた形となる。
「ねえ、ゴミ箱のゴミ捨ててきてって言われたけどさ、どこに捨てればいいのかな?」
清掃作業に区切りがついたころ、竹下さんがそう言うと、副委員長の栗本は「しらね。先生に聞けば?」とあっさりした口調で言う。反抗期のガキが母親に向けるような口調で、隣にいた僕は若干ぎょっとした。しかし竹下さんは「そう」と淡く変化のない声色で応じ職員室に入っていった。バタン、と重い音を立て校長室と職員室をつなぐ扉が閉まる。すると、見計らったかのように窓の外を見ながら栗本が僕に話しかけてきた。
「なぁ。久保って陸上部参加すんの?」
「いや」
僕は首を横に振りながら答えた。
僕の小学校では秋に行われる大会に向け、五、六年生の希望者のみで陸上部が結成される。練習期間は夏休みの間だけと限定的ではあるが、走って飛ぶだけの競技が大半を占めるのでそもそも練習が必要かどうかも疑わしい。そして僕はそのような日焼け同好会に参加するつもりは毛頭なかった。
栗本は僕の方を見て、残念そうな愛想笑いを浮かべた。
「そうか。もったいないな。お前足速いだろ?」
「そうなんだね。初耳だよ」
「興味ないのか?」
「ない」
「そっか~」
栗本は大きく息を吐きながら箒に顎を乗せた。
「リレーの選手が足んないんだよ、いま」
「大変だな」
「当日だけ来るとかでもいいぜ」
「ちなみにいつ?」
「お盆」
「じゃあ、お盆の予定は埋めておくよ」
苦笑した栗本は、茶化す感じで僕の肩をポンと殴った。こういうことしても不自然じゃないくらいには栗本という人物は爽やかな男である。明るく、気さくで、人気者で、ついでに顔立ちが端正である。そんな彼だから、さっきの竹下さんに向ける口調には違和感が残る。
喧嘩中だったのかもしれない。関係ないけれど。
「久保ってさ、ちぐはぐな感じするよな」
栗本は話の舵を妙な方向に切った。
「ちぐはぐ?」
「だってさ、優しくなさそうじゃん? お前」
「失礼な」
「でも実際は優しいだろ?」
「確かにね」
「でも人に好かれるタイプじゃないだろ?」
「失敬な」
「でもお前のこと嫌いな奴もいないだろ?」
「そりゃそうだね」
「ほら、ちぐはぐだ」
「いや、それは僕が極めてスタンダードなだけだと思うよ」
「……難しい言葉使うなよ」
「めっちゃ普通で欠点がないって意味だよ」
「でも欠点がないことも欠点だろ?」
「……栗本もたいがい難しいこと言うじゃん」
「要はさ、お前ってはたから見ると結構変な奴だよ」
とっさに、「みんながずれてるんじゃないのか?」と言おうとしたが、そんなことを言ったら、余計変な奴だと思われそうでやめた。僕の中で変な奴というのは三木みたいな理解できない異常者を指すのであって僕のような常識人は常に人畜無害と呼ばれるべきだ。
「あ、悪い意味じゃないからな。特別って意味だ」
栗本が思い出したように言う。
「なんか気持ち悪いね。言い方が」
とその時、竹下さんがからのゴミ箱を携えて戻ってきた。そして同時に、栗本の顔から笑顔が消滅していく様も目撃した。
「掃除終わったら教室の子を手伝えってさ。森山先生が」
竹下さんはそういうと、ゴミ箱をもとの位置に戻し、さっさと出て行った。
「戻るか」
栗本がそうつぶやくので、僕らも手に持った箒を掃除用具入れにしまう。
「竹下さんのこと嫌いなの?」という僕の言葉を聞いた栗本は、用具入れの戸を占める手を一瞬止め「まあ、好きじゃないよ」と言うと少し乱暴に閉めた。
*
その日、土砂降りの中を歩いていると、用水路のフェンスに黒いものが引っかかっていた。近づいてみると、それはランドセルで、しかも「三木」と名前が書いてある。僕は思い息を吐きながらそのランドセルを彼の家まで持っていくことにした。
ちなみにそのランドセルは、空だった。
彼の家は、僕の家から徒歩二分の場所にある。目の前には用水路があり、後ろには電車が通っている。いい立地とは言えそうもない。しかも、家自体も防音対策がしっかりされているとも思えず、一言で言えば掘っ立て小屋だった。
インターホンのないその小屋の玄関の前に立ち、僕は三回ノックし「ごめんください」と声を張り上げた。すると中から重くゆったりとした足音が聞こえる。それを聞いて、今日はお父さんの方か、とちょっと気を緩めた。
ガラガラと引き戸を開け、顔を見せたのは、三十前半くらいのおじさんだった。
「おー悪いな。いつも」
おじさんは、僕が手に持っているランドセルを一瞥し、そう言った。
首の半分に竜の入れ墨が入っているこのおじさんだが、実はあんまり怖くはない。今のところ悪い態度を見せられたことはないし、何より声が優しくて間抜けな感じがする。
「いえ……あの、これ」
「ああ。どうも」
おじさんはランドセルを受け取ると、「あいつが家にいれば謝らせるんだけど」と続けた。
「え、いないんですか?」
「ああ。どっかいっちまってよ」
「こんな天気ですよ? 大丈夫ですか?」
「え? まあ、いつものことだし」
おじさんは、心配しすぎだ、とでも言うように笑いながら僕の言葉を受け流す。そして「じゃあな」といって、中に入っていった。
【九月八日】
飼育委員会の顧問に渡されたタッパーを開けると、鼻につく甘い匂いが広がった。中には人参やキャベツが細かくカットされ敷き詰められている。
赤い眼をしたウサギたちが僕を急かすようにじっと見つめてくる。早くしろ、と多分そう思っているのだろう。
「貸して。私やる」
そう言って僕の手元からタッパーを奪い取ったのは篠崎という女子だった。こういう時は「貸して」ではなく、素直に「寄こせ」というべきだろうに、と思うが仕事を率先してやってくれるなら構いはしない。
篠崎は野菜を一切れ持つと、ウサギたちに差し出した。そしてそれにかぶりつく姿を見て「かわいい」と満足気にこぼす。それを見て「私もやる」と別の女子Aが篠崎に近づいて行った。名前は憶えていない。
新学期に入り、委員会やクラス内係も新しくなった。僕は女子からの人気はあるが男子からの人気はない飼育委員会に配属されることとなった。一応最低男女一人ずつで最大人数四人という決まりがあるため、森山先生が勝手に僕を飼育委員に入れたというのが真相だ。不満はあるが別に文句はない。僕が拒否したら、僕以外の男子が困ってしまうし、そうなったときに責められるのはきっと僕だ。
僕のクラスの飼育委員は僕と、篠崎、梅井、Aの四人である。
僕は楽しそうに餌やりをする女子二名の裏で、強奪されなかったタッパーを開き人参ステッキを一本、謙虚にも後ろで順番を待っている兎さんに差し出した。しかし、謙虚すぎるのか僕の差し出した野菜を見つめてくるだけで、食べてくれない
「大丈夫だぞ~」「怖くないぞ~」と語り掛けていると、横にいた梅井さんに笑われた。それでも、恥をかいてまで丁寧に差し出された人参ステッキは兎さんの喉を通ることはない。ただ、じっとこちらを見るばかりの兎さん。
「やり方が悪いんじゃない?」と梅井さん。
「そんな馬鹿な。餌のやり方にいいも悪いもないでしょ」と僕。
梅井さんは僕の手元のタッパーからキャベツを一切れ取り出すと、兎さんの目の前に差し出した。兎さんはそれをためらいなく齧る。「ね」と得意げな彼女に、「いや、人参が嫌いなだけかもしれない」と反論する。すると、彼女は僕が手に持っている人参ステッキを手に取ると同じように兎さんに食べさせた。
「ほら、やり方が悪かったんだよ」
「……いや、もしかしたら僕のことが嫌いなのかもしれない」
「それはあるかもね」
否定してほしいときにかぎって彼女は否定しない。
「仮に、もし仮に、僕のやり方が悪かったとして、何がいけなかったと思う?」
「久保君はちょっと上から目線すぎると思うよ」
「そうかな」
「兎はずっと低い位置から私たちを見てるんだから、下からそっと手を出さないと」
ちょうど、その時もう一匹、僕のもとに恐る恐る近づいて来る兎がいた。その兎は光の加減で茶色だと思っていたが、どちらかというと金色に近い毛並みをしている。
僕は梅井さんの言に従い、今度は下からゆっくりと人参を近づけた。
金兎はしばらく僕の方を見つめてから、人参に嚙りつく。
「あ、食べた」
「良かったじゃん」
ただ兎が餌を食ったという、よくわからない感動に身を震わせていると、篠崎達の方から「え、何してんの?」と高く大きな声が聞こえた。振り向くとそこには新しく学級委員長となった松田という女子の姿がある。松田は自分もやりたい、と言い、篠崎もいいよ、と勝手に承諾した。松田は意気揚々とウサギ小屋の低い柵を跨ぎ侵入してきた。その後しばらく「うわぁ、いいなぁ。私も飼育委員入ればよかったぁ」等々語りながら、餌やりをした松田は、一言「あ、でも此処ちょっと臭いね」といった。篠崎は「わかるわかる」と全面的に同意し、一方でAさんは苦笑いで応じた。
僕の目の前にいる二匹の兎たちが、なんだか悲しい顔でこちらを見ているような気がして「そんな顔で見るなよ」と心の中でぼやいた。
【九月二十九日】
毎年、秋になると、山登りをする。
趣味ではない。学校の行事なのだ。
市内で一番高い山を登り、山頂で飯を食い、帰ってくるだけなので何も楽しくないし、疲れる上に、運動不足の子はもれなく筋肉痛になる。一部の生徒の間では不評であり撲滅運動が計画されているようだ。最悪なのは山道の途中に幾つものチェックポイントがあるため、サボタージュは容易に摘発され、厳しく処罰される。つまり必死こいて登る以外の選択肢はないという、いうなれば人生の縮図である。
この行事は中学生も参加する。いくつかある中継点で大人が待機しているとはいっても小学生だけに山登りをさせるのは些か心配という大人たちの嬉しくない配慮により、中学生を混ぜているというわけなのだが、彼らはその責務を全うする気などさらさらないようで、僕らを置いてぐんぐん登っていく。あれだけの歩幅があればなぁ、と男子中学生に羨望の眼差しを向けていると、ふらりと獣道に入っていく人影を見た。
人生には気づかなければ良かったものが無数にある。僕は直感として、目撃した人影がその類なのだと判断した。そう判断したからには、無視すればいい。それが一番得だからだ。
けれどその時の僕は血迷っていた。立ち止まって、しばらく人影が消えていった獣道を見つめ、次の瞬間には一緒に歩いていた友人に断りを入れて駆け出していた。
視界を邪魔する背の高い雑草をかき分け、一心不乱に走り続けると、見覚えのある汚い金色の髪が目に入ってきた。
「三木!」
呼びかける声に応じ、そいつは静止すると、こちらを振り返ってきた。そして、いつか見た嬉しそうな笑みを浮かべると、直後猛烈な勢いで駆け出した。鬼ごっこをするガキのようだった。事実ガキだけど。
「くそ! なんだあいつ」
文句を言いながら、血迷った僕もそれに続く。どのくらい歩いたかわからないが、とにかく服のあちらこちらに草が巻き付いてきたころ、ようやく彼の動きが止まった。
立ち止まった彼の目の前には、大きな洞窟があった。いや、子供のころはそれが洞窟に見えたというだけで、もっと小さな何かだったと思う。三木はその前に立ち僕に向かって言った。
「ここ、僕の秘密基地なんだ」
それは妙に誇らしげであり、気色の混じったものであり、僕の琴線を逆なでするような声だった。殴ろうか、と本気で思ったが、それは僕の信条に反するものだ。冷静さを取り戻し「よく来るのか?」とちっとも楽しくなさそうな声を三木にぶつける。
しかし彼は相変わらず、笑顔で頷く。僕の言外に込めた鬱憤は伝わらなかったらしい。
「来てよ」
三木はそういうと、秘密基地の中に入っていった。
僕はそれについていくことなく、外から三木がいるだろう暗闇に向かって語り掛ける。
「なあ、戻ろうよ」
「なんで? どうして?」
暗闇の中から声が聞こえる。
「こんなところにいるって知られたら、怒られるし、心配される」
「心配なんてされないし、怒られたって平気だよ」
彼の、その言葉は否定すること自体簡単だった。しかし、否定できるとしても否定してはならない部類の言葉だった。ただ駄々をこねているだけではなく、確固とした意志をもとに発せられた言葉なのだと、子供時分の僕だからこそ感じるものがあった。
「でも、僕らは子供だから、大人の言うことを聞かなきゃ」
「いやだ」
「じゃあ、僕だけ戻るよ」
「……」
三木は、悔しそうな顔で、暗闇から出てきた。出てきたはいいものの、何一つ声を発せずただ立っているだけだ。僕は、一つ嘆息をこぼして獣道へ歩を進めた。その時、背中に痛みが走った。何事かと思って振り返ると今度は額に痛みが走る。
僕は両手で額を抑え、痛みに顔をゆがませながら前を見た。すると原因はすぐにわかる。
三木が泣きながら石を投げつけていたのだ。
「おい! なにすんだ! やめろ」
静止を促すが、彼は投石をやめようとしない。これは仕方がない、と急いで獣道に駆け込もうとしたとき、やたら硬いくせに、軽い物体が僕の腹部に当たった。地面に落ちたその物体はミドリガメの死骸だった。
それを見た途端、急速に体の温度が下がり、次の瞬間には、人生で一度も出したことないほど大きな声で「いい加減にしろ、馬鹿!」と叫んでいた。腹の底から出た声は、まず僕の意識に届き、冷静さを取り戻させた。しかし、それと反対に三木は全身で自らの動揺を表していた。何か言いたげに口をパクパクさせていたし、足も手も震えていたし、怒られた後というより、いつ怒られるのかと大人の顔色を窺い怯えているような子供相応の態度だった。
僕の声一つが彼をそんなに委縮させたことが信じられなかった。というのも、彼は周りをかき乱すことはあっても、周りにかき乱されるような奴ではないと僕は理解しているつもりだったからだ。しかし、その理解が今は揺らいでいる。
三木は、しばらくおびえた顔を僕にさらしてから、反転して暗闇に駆け込んだ。
ぐったりとした雰囲気が流れた。それは、ひょっとしたらあの洞窟の中には誰もいないのかもしれない、とそう思えるくらいの空虚さだった。彼は死んでしまったのかもしれない、と馬鹿な想像がよぎる。
「おい」
僕は暗闇に近づきながら、呼びかけた。しかし何も返ってこない。もう一歩踏み込もう。
洞窟に一歩踏み込もうとした途端、ぼそぼそとした声が何度も「しね」と繰り返しているのを耳は明瞭に聞き取った。ここで、歩みは止まる。
聞こえてきた「しね」に敵意は籠っていなかった。それはもっと、自分のために呟く呪文みたいなものだと思う。だから、僕自身に彼に近づくのが怖いという感情は、その時ばかり存在していなかった。どちらかというと、この時は僕がどうしたいかではなく、僕の行動は三木にとってどうなのだろうと考えていた。なにせ暗闇の中から姿を見せない彼からは、膨らんだ風船みたいな危うさがある気がしたのだ。
そして、この時の僕は血迷うことなく、元のコースに向かって歩を進めた。
*
三木に構ってだいぶ時間を浪費したため、時刻は正午になっていた。多くの人は登頂し、速い人なら昼食を終えている頃だ。焦りに急かされ小走りで獣道を抜けコースに復帰した時、急に草むらから出現した僕とぶつかり、転んだ奴がいた。
「あ、ごめんなさい」
高学年か、中学生かもしれないという可能性から敬語で謝るが、よく見ると転んだのは梅井さんだった。
「ごめん、大丈夫?」
梅井さんは僕が差し伸べた手をとらず、かわりに自らの額を指さして「血、出てるけど?」と言った。伸ばしていた手を自分の額に移動させ、それから手のひらを確認する。安い絵の具で塗ったみたいに紅葉色が張り付いていた。
「ほんとだ」
梅井さんは自分で立ち上がると、リュックから絆創膏を取り出して「使う?」と差し出してきた。
「あ、ありが——やっぱいい」
「そう?」
梅井さんは不思議そうに可愛い花柄の絆創膏をしまった。僕の方は懐からハンカチを取り出し、額に当てる。
「何してたの? めっちゃ草ついてるし」
当然の質問が彼女の口から発せられる。
「血迷ったんだよ」
「は?」
「梅井さんはどうしてまだここにいるの?」
都合の悪い質問を流して、そう聞き返すと、梅井さんは気まずい顔で目をそらした。そしてその時山道の先から「ねえ~。歩くの遅いんだけど」と品位のない大きな声を掛けられる。そこにいたのは松田とB君だった。Bの名前は忘れた。確か当時の副学級委員長だった男子生徒だ。
「あれ、久保じゃん。どっから出たの? あんたも迷ったの?」
「も?」
反射的に梅井さんを見ると舌打ちされたので、咄嗟に視線を松田に戻し「松田さんたちは何でいるの?」と場をつなぐ。
「安全委員と学級委員は先生たちと一緒に後からスタートするの。知らない?」
「へぇ~」
多分、足をくじいたり、道に迷ったりする人を救うための処置だろう。
「で、なんでそんな汚れてんの?」と松田が僕を見下ろして聞いてくる。
「……迷ったんだよ」
「あっそ」
自分から聞いたくせに、松田からは冷淡な声で返される。どうでもいいなら聞かないでほしい。でも、松田は何となく脊髄反射的に話している印象があるため、怒っても意味はなさそうだ。そして彼女は不機嫌そうに歩き出し、僕と梅井さんはそれに続いた。松田は黙って歩くということができないようで、定期的に「めんどくさい」「友達とご飯食べたかった」等々の愚痴を隣にいるB君に投げかけては、B君が困ったようにつまらない反応を返すので、やがて何も言わなくなった。それでも一応責任感はあるようで、逐一振り返っては、のんびりと歩いている梅井さんと僕に、急げ、早くしろ、と激励? を発していた。実際梅井さんは遅いが、それが意図的というわけでもないようだ。彼女は息も絶え絶えといった調子で必死に足を動かしている。つまり純粋に体力がないのだろう。
「持とうか?」
見かねた僕が発した声だが、梅井さんは足元を見つめたまま無言で首を横に振った。
「ちなみに姿勢をよくした方が疲れづらいよ」
「……うっさい」
アドバイスしたのに。
そしてしばらく静かに歩いていると、今度は彼女の方から話しかけてきた。
「三木君にやられたの?」
梅井さんは不思議なことに体力は枯渇しているくせに話す余力はあるらしい。
「どうしてそう思うの?」
「消去法で」
「ふ~ん」
彼女がどんな形で様々な可能性を消去し、三木が僕を傷つけた奴だという結論を導いたかは、想像に難くない。
「久保君はさ……三木君とは友達なの?」
「違うね」
「じゃあ……どうして構ってやるの? ……あんな……面倒そうなやつ」
「そりゃ、先生に怒られたくないからだ」
すると梅井さんはまた首を横に振る。今度はしっかり顔を上げていた。
「違う。もっと、こう、根本的なさ、あるじゃん?」
「わかんないけど」
「先生に怒られるっていうのはさ、言い訳でしょ? 本当はどうなの?」
「いや……」
否定しかけて僕の口は止まった。何となく恰好がつかないから考えないようにしていたが、確かにその通りだとも思った。先生に半ば強制されているから仕方なく三木と関わっているというのは因果性が逆で、僕が三木に中途半端に構っているから先生にいいように利用されているだけの話だ。きっと僕が確固たる意志をもって、三木を無視し続けることができたなら、だれも文句を言わないだろう。それができない原因は、もっと、根本的なことで、僕の中にあるもののせいで、つまり誰かのせいでなく僕のせいなのだ。
梅井さんに尋ねられ、ちょっと悩んだあと結論を出す。
「多分、なんか、僕は三木のこと可哀想だと思ってるんだ」
僕の言葉のせいかは知らないが、直後に梅井さんは動きを止め、荒い息のまま膝に手を置いた。僕も立ち止まり再び彼女が歩き出すのを待っていると、前の方から「ちょっと! 止まんないでよ!」と容赦ない松田の声と「まあまあ」と宥めるB君の声が聞こえた。
「……もって」
下を向く梅井さんが恐らくそう呟いた。
「え?」
「やっぱもって。はい」
そして、自分のリュックを肩から外すと、僕に差し出してきた。
「……うん」
受け取ったリュックは汗でしっとりしていて、僕はちょっと後悔を覚えた。
【一月十三日】
秋が過ぎた。冬になった。死にそうなくらい寒い。
僕が最も嫌っている季節に突入し、学校全体もやや落ち着いた雰囲気に包まれていた。
そして、六年生には卒業の足音が聞こえていることだろう。一部の生徒は私立中学の受験結果に喜んで発狂するか、悲しんで発狂するか、当然という顔で済ますか、茫然自失するかしている。僕も一年後には同じ状況に立たされる予定なので、結構気が滅入る。
さて、そんな六年生に向けて、三学期始業式の翌日のホームルームで「クッキーを贈ろう」という、字面そのままのサプライズイベントが催されることを知らされた。二月中旬に袋詰めしたクッキーをお別れのメッセージカードと一緒に贈るらしい。
この手の卒業おめでとうイベントは一年生から五年生のそれぞれの学年で企画実行されるが、毎年五年生だけは手の込んだものを作る。去年は押し花で本のしおりを作っていた。
「前日に家庭科室を借りて作ります。一クラス二時間の作業時間を予定していて、時間内にできないと他クラスに迷惑がかかります。みんな真剣にやってください」と森山先生が他クラスへの迷惑という部分を強調した発言をし、ホームルームが締めくくられる。
「クッキーか。誰が考えたの?」
その日の掃除の時間に堀という同じ掃除場所の男子生徒がぼやく。彼は普段から声が大きいだけで特に何か取り柄があるわけでもないくせに態度だけでかいという、つまり松田みたいなやつだった。
「篠崎さんだって」
C君が答える。名前は忘れた。
「クッキーなら家庭科で一回作ったよな?」
「いや、あれシフォンケーキだよ。確か」
「え。俺のやつ膨らまなかったぞ?」
「それ失敗してんじゃん」
「そっか~。なんか変だと思ってたんだよ」
横でそんなくだらない話する二人をよそに、僕と栗本は黙々と地に落ちた落ち葉を集めてはゴミ袋に流し込んでいた。いつかの校長室の時もそうだが、栗本は一通りの仕事が終わるまで口を動かさないので他の二人と比較し好印象だ。
「まあ、一番心配なのは三木だよな」
話の流れが「クッキーを贈ろう」の件に戻ると、C君がそういった。
「絶対面倒ごと起こすもんな。来てほしくないわ」と堀君。来てほしくない、という部分以外は同意できる発言だ。
「あ、知ってる? あいつの姉ちゃん高校退学になったんだって」
「え、何それ?」
C君が少し興味深げに聞き返した。その反応に満足したようで、堀君はどこから引っ張り出したかわからない情報をぺらぺらとひけらかし始めた。
「子供出来ちゃったんだって。頭もめっちゃ悪いし、後たばこと酒」
「全部じゃん」
下世話な話で下品な笑い声があふれる。
「やっぱこういうのって遺伝子だよ。やばい奴の家族はみんなやばいっていう」
「いやさ、血はつながってないらしいんだけど」
堀が若干声を低くして言う。
「え? 親バツイチなの?」
「そうそう。たしか、あ──」
「おい、あんま関係ない話するなよ。先生に聞かれたらどうすんの?」
猿みたいに手を打って笑いだしそうな雰囲気を、栗本の声が一蹴した。C君はびくりと肩を震わせ小さくなり、堀は面白くなさそうに栗本をにらんだ。
栗本はゴミ袋をちょうちょ結びすると、「久保そっち持って」ともう一方のごみ袋を指差した。ほんとは一人で持てるのに、僕を使うのはきっと彼なりに気を遣ったんだと思う。さらに彼は「悪いんだけど、これ戻しといて」とC君に自身と僕の掃除道具を押し付けると、悠然と焼却炉横のごみ捨て場に向かって行く。僕も栗本の横に並んで歩きだした。
「お前、ああいうの嫌になんないの?」
栗本は別に不機嫌という風でもなく、事務的な口調で僕に尋ねてきた。
「まあ、嫌というか……いい気分にはならないな」
「三木ってお前の友達だろ? 三木の陰口言われて、あいつらに文句の一つでも言ってやろうって思わなかったの?」
「さあね。そもそも友達じゃないし。仮に友達だったとしても、あそこであいつらに何か言うことが三木や僕の得になるかって言われたら多分ならないよ」
「……じゃあお前、嫌なことされても得しないなら黙ってるのか?」
「まあね」
「久保ってなんか、つめてぇな。俺そういうのわかんないわ。嫌なら嫌っていうのが一番だと思う」
僕のことを冷たい奴だというのなら、栗本みたいなやつを温かい奴だというのだろうか。
僕らは、ゴミ捨て場に到着すると大きなコンテナの中にゴミ袋を放り込んだ。僕は一つ気になったことを彼に聞く。
「今の話だとさ、栗本は、嫌な気分になったってことだよな」
「ああ」
「それは何で? 正義感?」
「そんな恥ずかしいことじゃないけど……まあ、陰口ってムカつくし、ダメなことだろ?」
「それ正義感っていうんだよ」
「……あと、お前ちょっと怖い顔してたし」
全く意識していないことだが、他人が言うなら確かにその時僕は怖い顔をしていたのだろう。怖いといっても様々だからどういったベクトルの負の感情が表れていたのかは知らない。でもその理由はたぶん栗本と同じだろうと思う。
「初耳だね」と、微妙な気持ちで答えた。
【一月二十一日】
僕が学校の教育課程で一番嫌っているもの。それは、習字だ。別に字が下手くそというわけでもないが、単純に墨で字を書くことに意義を感じられない。とはいえ作品は教室の裏に張り出されるので、手を抜けば「あいつ字が下手なんだ」と思われる。それは避けたい。そんなわけで「旅行」という、特にためになるわけでもない単語を真剣に筆で書いていた日のことだ。目立たない程度のクオリティの「旅行」を眺め、満足していたその時、いきなり僕の半紙に無数の墨汁が降り注いだ。そして、直後「ねえ!」と怒気の籠った甲高い声が斜め後ろから聞こえる。振り向くと篠崎さんと松田が立ちあがっていた。二人は三木に向かって狂犬のような眼光を向ける。眼光を向けられた三木は、きわめて真剣な顔をして、ヒットを打った直後の野球選手のような体勢のまま墨汁の入ったボトルを手にしていた。
春以来、数度席替えが行われ、三木は今、一番後ろの真ん中にいる。その前の席が篠崎と松田。松田の横が竹下さんでその横が僕という配置である。
その時の状況から察するにまず間違いなく、僕の作品を台無しにしたのは三木だろう。竹下さんの机を一瞬覗くと、僕と同じような状況になっていた。彼女は自身のチェック柄のスカートに無数の黒い水玉が出来上がっているのを眺め「はぁ」と重たい息を吐いていた。落ち着き払ったその態度に少し感心する。
そして竹下さんのその息遣いを合図に、クラスメイト全員が息を殺し、ストーブが「ジジジ」と音を立てた。書道の先生はおろおろしながら「どうしたの~」と駆け寄ってくる。三木は何も言わず、逃げるように廊下へ出ていく。松田は「最悪」と何度もつぶやき、篠崎はそれに何度も同意する。彼女らは、思いっきり後ろから墨汁をかけられたらしく、うなじは真っ黒で、青い長袖の体操服にもまだらな黒模様がつけられていた。
三木の軽挙妄動に慣れている僕は、すぐに水の入ったバケツと雑巾を用意し、床を拭く。それを見て、隣にいる竹下さんを含め何人かの生徒が僕を手伝い、また何人かは先生にぎこちない状況説明をし、残りは我関せずと筆を動かした。
松田と篠崎は終始「何もしていない」と先生に言い続け、周囲もそれを肯定した。僕も少ししゃべり声がうるさいなと思った程度で、彼女らが三木に対して何かしたという記憶はない。三木の気まぐれか、あるいは彼女らが会話の中で三木の癇に障ることを無意識に口走ったのだろう。真相は、最後まで分からなかった。
*
「なんかあったの?」
放課後に、兎の餌やりをしながら現在三木の隣人である梅井さんに聞く。篠崎たちはもう兎には飽きたらしく、ここ最近は梅井さんと僕がローテーションを回していた。
「何が?」
少しイラついた声が返ってきて、若干委縮する。彼女を怒らせた記憶はない。
「三木だよ」
梅井さんは僕から離れ、まだ餌を食べていない兎たちのもとに近寄ると、しゃがみこんだ。そして、キャベツを一切れ兎たちの前におくと考え込むように手に顎を置いた。
「知らない。私集中してたし、周りのこととかよく覚えてない」
「そう。……あのさ、なんかイライラしてない?」
聞こえているのだろうが、梅井さんから声は返ってこない。つまり、答えたくないのだろう。
そうして沈黙の中、着々と昼と野菜だけが嵩を減らしていく。
「久保君っぽくないね。そんなこと聞くの」
ふと、もう何もしゃべらないと思った不愛想な女子からそんな言葉が出た。
「ごめん」
浅慮な質問が彼女を不機嫌にさせたのだろうと察し謝る僕。しかし梅井さんは首を横に振った。
「そっちじゃなくて。三木君の方」
「え?」
「勘違いかもしれないけど、久保君は今まで三木君に興味ないんじゃないかなって思ってた」
「どうしてそう思うの?」
あえて否定も肯定もせず理由を聞くと、彼女はようやく僕のほうを見上げてきた。その視線はどこか品定めしているように感じた。
「前、三木君のこと可哀想だって言ってたでしょ?」
「そうだっけ?」
「言ったよ」
梅井さんの手元にあるタッパーから餌がなくなった。それでも、彼女は動かず、兎を撫でた。「可哀想って、興味のない奴に使う言葉だよ。地球の裏側で苦しんでる貧困者とかに使うんだ。可哀想だね、大丈夫かい? って」
「それはちょっと極端じゃない?」
「……」
僕は、まだ開かれていないタッパーを彼女に差し出した。彼女は無言でそれを受け取ると、空のタッパーを差し出してきた。
それからしばらく、薄暗い小屋の中で、しんみりと餌やりを続ける。普段から梅井さんとの会話はぶつぶつと途切れ沈黙が目立つものだけれど、気まずいと感じたのはその時が初めてだった。話したければ話して、話したくなければ黙っている。そういった単純な話じゃなくて、その時の梅井さんからは、どこか危険なにおいがしていた。
そしてとうとう空になった二つのタッパーを持ち、僕らは立ち上がった。
「鍵、持ってるよね?」
「うん」
僕はポケットの中に入っているウサギ小屋のカギをジャラジャラと鳴らした。うなずいた梅井さんは何も言わず、小屋から体を出し、それを確認した僕は鍵を閉める。いつものように僕らの動きを兎の赤い目が追っていた。ふと、梅井さんが次のように聞いてきた。
「ねえ、愛ってさ、どこから生まれるんだろう?」
「脳内ポエムは口に出さないほうがいいよ」
適当なことを言ってごまかそうとしたが、彼女は結構真剣な顔でこっちを見ていた。息をのんで、こっちも真剣に答えを探る。
「……どうなんだろうね。脳とか? 梅井さんはどう思ってるの?」
「私? 私は……エゴかな」
「そりゃまたありきたりだね」
「でも本当だと思う。だから、一方的じゃダメなんだよ」
この時になって鈍感な僕はようやくこの話すのが苦手な少女が何かを真剣に伝えているのだと気が付いた。それは、僕のために、そして彼女のために大切な何かだ。
「私ね。可哀想って言われるのも思われるのも嫌いだよ。そう言ってくる奴は寄り添う気がないと思うから」
「寄り添ってほしいの?」
「うん。嫌になるくらい優しくされたい」
「……」
「三木君もそうだと思う。私と同類だから。哀れみよりも他人のエゴが欲しいんだよ。よく分かるんだ。そういう気持ち」
夕日がもうほとんど姿を隠した。昇降口から出てきた飼育委員会の顧問が「おい、早いとこ帰れよ」とい注意をする。
「久保君」
名前を呼ばれ振り返ると、やたら神妙な梅井凪の顔があった。
何を言われるのだろうと、かたずをのんで待つと「また明日」と気の抜ける言葉が届く。
「明日土曜だけど」と返す僕に、梅井さんは気まずそうに口角を上げた。
*
結局飛び出したきり、返ってこなかった三木のランドセルを背負い、いつもと同じ用水路沿いの道を歩いた。すっかり冬なので、五時近くになるとほとんど暗闇になっていた。
そして、三木家にたどり着くと、玄関の前で三木がうずくまっていた。
「……何してんだ?」
「……」
体操座りで、顔を伏せていた三木は声に応じてゆっくりとこちらを睨みつけてきた。
「ここ、ランドセル置いとくからな」
僕は三木の目の前にランドセルを置く。
家の明かりはついていた。話し声も聞こえる。ちょっと怖いけれど、戸に手をかけてみると、鍵がかかっているわけではないようだ。虐待かも、と一瞬頭をよぎったがおそらく杞憂だろう。
「じゃあな」
僕は簡単に別れを告げ歩き出そうとしたが、体の向きを変えた瞬間三木の小さな影が動き出した。振り向くと彼は立っている。
「何?」
何か言いたげにこちらを見る彼だが、表情とは反対に口元は何も言うまい、と固く閉ざされている。彼の背中のほうから女性の笑い声が聞こえた。僕はそれがちょっと恐ろしくなり、足早に掘っ立て小屋から離れる。しかし、僕の背後を何故かというか、やっぱりというのか三木が追ってきた。
「なんなんだよ」
ちょっと語気を荒げた僕に、びくりと三木の肩が跳ねた。でも、返事はない。溜息を吐き、歩き出す。
用水路沿いの道を抜け、線路沿いの道に変わる。自宅に向かう緩い坂道。この先には右折も左折もない。
「なんでついてくるんだ?」
背後霊みたいな三木に尋ねる。
彼は肘をポリポリ掻きながら視線を合わせない。ふと、先ほどの梅井さんの言葉を思い出した。彼女は、三木がまるで寂しがり屋だとでも言いたげであったが、やっぱり僕にはこの目の前の男子は僕を困らせたいだけの様な気がしてならない。
「あ」
すると、ようやく三木の口が動いた。
「あの……カメはさ、僕じゃないから」
「は?」
「だから……カメ、殺したの僕じゃない」
「だから何だよ」
三木は驚愕の表情で、目を見開いた。一方、多分僕は困惑していた。なぜ彼がそんなことを伝えてきたのかを理解できなかったし、する気もなかった。ただ、その表情を見て、何となく、三木との間にある細い糸が切れかかっている感覚がした。
「いや、違うな、えっと……気にしてないよ」
どうしてそういう言葉が出たのかは、よくわからない。けれど、もし理解できない異常者と決めつけていた三木に心というものがあって、僕がそれに寄り添い何か語り掛けるとしたら、そう言うだろうと確信はあった。
「わかった。あと、今日はごめん」
消えそうな声で、そう言うと三木は引き返していった。
ちょうど暗い空に、五時の鐘が鳴った。
【二月十二日】
家庭科室にクッキーの甘い匂いが立ち込めてきた。オーブンの中で徐々に固体へと変化していくベージュ色の液体たち。
ほとんどの生徒はクッキーが焼けるまで仕事がなく、教室にて六年生へのお別れの言葉を大量生産している。ちなみに三木はどちらにも参加していない。一緒に登校したのでおそらく学校のどこかにはいる。つまりいつも通りだった。
家庭科室には松田とB君。僕と篠崎さん、それから堀君と竹下さんの計六名が残された。仲のいい篠崎と松田は談笑し、堀君はB君にマシンガントークで一方的に話し続け、僕と竹下さんは生地と念話していた。
ふと隣の竹下さんが着ているチェック柄のスカートに墨汁の跡があるのに気が付いた。
「汚れ、とれなかったの?」
そう話しかけると、竹下さんは方眉をひそめて僕の方を見た。それから、僕の指が自分の足の方を指しているとわかると、「ああ」と納得の息を漏らした。
「目立たないし、別にいっかなと思って。お気に入りでもないし」
そこまで話し、竹下さんは首を傾げ、こちらを見つめた。そして心底不思議そうに言った。
「久保君ってしゃべりかけてくるような人だったんだね。知らなった」
「それはどういう意味?」
「そのままの意味だよ。話すの嫌いな人だと思ってた」
「そんなことないけど」
「でも、隣の席になって一か月くらい経つけど、会話したことないよね」
「朝の挨拶ぐらいしてたけど」
「それ会話に入らないよ」
入らないのか……。
その時、クッキーが焼きあがったことを電子オーブンが知らせてきた。
篠崎は普段からお菓子作りが趣味と公言していたので、さすがの手際で焼け具合を確認し、頷いていた。彼女の班が作成したクッキーはどれもデザイン、形がしっかりしたものになっている。特に焼く前は無理だろうと思っていたパンダの顔のクッキーが何の歪さもなく見事に出来上がっていたのには感心した。方や僕や竹下さんの班が作成したニコちゃんクッキーはオーブンの中で壮絶な何かを経験したらしく、おしなべて般若の形相になっていた。
呪いのクッキーと題すれば売れないこともないだろう。
「なんか怖いね」と竹下さん。
「ね」と僕。
松田さんと篠崎さんは「みんなよんでくるね」と仲良く手をつないで、家庭科室を出て行った。
そして二人が家庭科室から消えた数分後、突然「あ、っち!」と堀が叫んだ。それに反応し、僕と竹下さんが振り向くとガシャンと 硬質な音を立て、先ほどまで篠崎さんたちの力作が乗っていただろう鉄板が床に落下していた。当然クッキーたちは、その多くが形を失いバラバラになった。一部始終をくまなく見ていたわけではないが、それは明らかに堀が何かをしたせいで発生した事件だった。
どうせ台無しにするなら、今僕らの手元にある呪いクッキーにすればいいのにとふざけたことを考えていたが、少し冷静になってその状況が思いのほかまずいことだと気が付く。
「あ……」
言葉を失った堀が、口を半開きにして、裏返った天板を見つめる。
「あーあ」
竹下さんが、テレビで衝撃映像を見たときの様な、薄い反応を口に出す。
「やばいよなこれ」
堀の言葉に誰も答えない。ただ、じわじわと空気が重くなっていく。加えて折悪くそこに先生とクラスメイトを引き連れた松田が現れる。
家庭科室に入ってくるときはかなり騒がしかったクラスメイトが静かになるのに、時間はかからなかった。その大きな要因としては篠崎が泣いてしまい、クラス内に同情の雰囲気が充満したからというのと、意外にも森山先生が激怒したからというのが大きい。とくに後者に至っては、大きな衝撃を僕らに与えた。何せ森山先生は三木のいたずらによって頭から血が出た時ですら怒らなかったのだ。ここにきてその態度は当時十一歳のクソガキ、つまり堀にとってこの世に生まれ落ちた時と同じくらい恐怖だったのだろう。堀はとっさに何もかもから逃れるため「三木がやった」と、そう言った。
きっとその発言に対してその場にいる多くの人間が納得と諦めを抱いた。もちろん、三木がやったという証拠はないが、同様に彼がやっていないという証拠もなかった。それは堀も同様なのだが、天涯孤独の三木に比べれば信用性は高い。
堀の主張は簡潔に言えばこうだ。
三木が突然やってきた。いきなり暴れた。クッキーが砕けた。三木は逃げた。自分は止めようとした。
堀が一番危惧し注視していたのは事の真相を知る僕、竹下さん、B君の三名の動向だ。しかし、僕含めその三名は口を閉ざしたままだった。
真相を口に出せば堀を糾弾する空気を作り出しえたのかもしれないが、それも確実じゃない。もちろん三人が口をそろえて「堀のせいだ」と言えば確実ではあるが、B君が沈黙を保つのは明らかに堀をかばってのことだろうし、竹下さんに至ってはどういう人間なのか、何を考えているのかさっぱり読めない。それでは僕が真実を言ったところで二人が同調する可能性が薄い。現状、堀の発言とクラスメイト全体に流れる「三木ならやってもおかしくない」という共通認識が巨大な力を振るっていた。それに、どこかで僕も三木に押し付けたほうが損は少ないと思っている。煩くて品性の一欠けらもない堀でも、三木よりはましだし、何よりおかしなことに彼は友達が多い。そういう人間が悪いこと、というよりクラスに不利益を与えたという状況は、教室全体に大きな不和を与える。一方で三木ならどうだろうか。三木は災害だから仕方がない、と諦めるのではなかろうか。確かに少なからぬ憤怒のベクトルが彼に向くのだろうが今に始まった話じゃない。
たかがクッキーが砕けただけの話ではあるが、森山先生の怒りと篠崎の涙が事態を深刻なものに変えてしまっていた。泣き始めた篠崎の周りに、松田を含めた仲のいい女子たちが慰めるために集まる。全部は聞こえてこないが「三木が悪い」という風なことを投げかけ、心底同情するという意を何度も伝えているようだった。男子陣はもうどうでもよくなった奴らが大半で、家庭科室から離れる者まで出てきた。この空気のなか僕が「実は……」と話し始めたらどうだろう? ちょっとした悪役になるんじゃなかろうか? 嘘をついていなくとも嘘つき呼ばわりされるんじゃなかろうか? 全部三木のせいにして落ち着こうとしているこの状況を余計混乱させることになるのではないだろうか? それもたかが三木ごときのためにだ。冗談じゃない。
「久保君」
その時、隣から竹下さんに声をかけられる。移した視線の先に感情のない彼女の目がある。
「とりあえず、運ぼう」
竹下さんは、迷惑そうな表情を篠崎や先生の方に向けてから続ける。
「クッキーは割れちゃったけどさ、全部じゃないし。焼き直せないなら、今ある分を均等に分けて袋詰めするしかないじゃん? でも先生は何も指示してくれないし。私たちだけでも作業再開しないと」
竹下さんは時計を指さした。
「時間内に終わんないよ」
「ま、そりゃそうだけど」
「じゃあ、ほらそっちもって」
竹下さんは天板の縁を持ちながら僕に指示した。
「……」
「何? どうかした?」
指示を無視、いや、ただ動かないだけの僕に竹下さんの淡泊な疑問が届く。
この状況でもしも、僕が何も発言せず立ち去ったのなら軌道修正は不可能だ。ここで何もしないということはつまり、三木にあらぬ罪を着せることになる。それは、果たして釣り合いの取れる選択だろうか? 因果応報という言葉は平等な社会の上では真理だ。しかし、このような形で三木に天罰が下ることは果たして美しいのか? 三木は変な奴だし、馬鹿だし、不潔だし、救いようがないし、たぶんいなくなっても誰も困らないような奴だけど、じゃあそれが、こんな便利に利用されてよい理由になるのだろうか?
「久保君?」
首を傾げた竹下さんが、こちらをのぞき込んでくる。
「ねえ、これほっといてもいいのかな?」
僕の口はいつの間にか同じ状況に立たされている竹下さんにそんな疑問を投げかけていた。すると彼女は一瞬だけ、ポカンとした顔になるが、すぐに彼女なりの最適解を教えてくれた。
「ほっとくも何も、関係なくない?」
竹下さんは持ち上げていた天板をいったん調理台に戻し、話を続ける。
「堀君が勝手に馬鹿なことして、勝手に嘘ついてるだけだよね? じゃあそれって私たちには関係ないよ」
「いや、でも堀君がクッキーを割るところを見て、堀君が嘘をついていることを知っているわけで」
「見てないって言い張れば問題ないじゃん」
「いやでも」
「そっちのほうが、面倒ごとを避けられる。本当のことを言えば面倒なことになる。やること明白じゃない?」
「それじゃ、三木があまりにも可哀想だ」
「へ~」と竹下さんは意外そうにぼやき「久保君が何するのかには別に興味ないけど、私はあくまでも何も知らないし、何も見てないから」と言い切った。
それはどこまでも自分勝手で、どこまでも冷静で、そして一つの正答だった。さらに念を押すように一息おいてから彼女はこう続けた。
「私に迷惑かけないでね」
その一言を聞いて妙に腑に落ちる気分だった。思えばそこが分岐点だ。僕はのちに竹下さんに心の中で感謝した。なぜなら彼女のような僕の信条を具現化したような人物が目の前にいたからこそ、正誤でも善悪でも損得でもなく、今までの僕が服従していた唯一のものが何なのかを知ることができたからだ。
ふと、堀がこちらを見ていることに気が付く。
何も言うな。そう表情で訴えていた。
僕は極めてシンプルに考えることにした。堀か三木。どちらに対しより多くの愛着を持っているのか。つまり、どちらに対してより多くの優しさを注ぎたいのか。
冷静になった森山先生が、とりあえずと生徒たちにクッキーを運ばせ、堀とB君に砕けたクッキーの後始末を申し付けた。黙々とクラスメイト達が家庭科室から消えていく。その、誰も注意を払わない状況を好機とみて動き出す。堀は下手くそな威嚇をしていた。それでも止まらない僕の腕を彼は無言でつかんでくる。僕はそれもまた好機ととらえて「先生」と声をかける。こちらを見た森山先生は、まず明らかに慌てた表情の堀に対して額に皺をよせ、次に声の主である僕に「はい。何ですか?」と聞いた。
僕は事の顛末を話した。
*
結果から言うと、森山先生は今回の件を連帯責任という形でうやむやにした。そして、クラスメイト達は今もクッキー粉砕事件は三木のせいだと思っている。
僕から話を聞いた森山先生の第一声は「もう終わったことだしさ」である。鬱陶しそうな顔で森山先生がそう言ったとき、僕の中には「やっぱりな」という呆れがあった。正直大逆転は無理だと思っていた。別に何かと戦っているわけじゃないけど。
森山先生は最後まで分かりやすい人だった。彼女はずっと自己責任を避けて生きていきたい人間なのだ。
【三月十六日】
クッキー事件の翌日から、三木に対して主に女子から、ちょっとしたいじめが横行した。
たかがクッキーでと思うかもしれないが、三木に対する鬱憤はもとから存在していたし、女子たちはクッキーの恨みでそういった蛮行に身を投じたのではなく、それは彼女らなりの篠崎の仇討ちだった。
その内容は三木の持ち物が紛失したり、授業中先生に気づかれないように三木の机を蹴ったり、一番多かったのは何かにつけて三木に冤罪を擦り付けるというものだった。窓を割ったら三木のせい。黒板にマジックペンで落書きをしたら三木のせい。掃除用具を壊したら三木のせい。やりたい放題した挙句全部三木のせいにした。最終的にこれを全部一人でやったのなら大した奴だと思えるほど、三木の冤罪が積み重なった。教師陣も馬鹿ではないので、そう時が経ないうちに、これは三木個人の問題というよりもクラスの異変であると気が付き、普段使い道のない道徳の時間を活用した特別なホームルームが開催される運びとなった。題して「ものの大切さを考える会」である。器物損壊の甚だしい五年二組の面々に改めて、物の大切さを知ってもらうという催しだが、高圧的な女子は一貫して「三木のせいで、私たちは何もしていない」という主張を変えず。それに対する先生の言葉は「集団責任です」であった。
このような馬鹿馬鹿しい状況は存外長引いた。その一番大きな要因は、三木が沈黙を貫いたからだった。いじめが発生する前なら授業中何度も奇声を上げていた彼だが、クッキー事件からは一回もそういった奇行に走らなかった。ただ教室の裏で、置物みたいに冷たい目をして座っているだけだった。
*
「六年生になったら苗字が変わるんだ」
終業式前日。ウサギ小屋のカギを閉めながら梅井さんがそう言った。
「ああ、そう」
いきなりそんなことを言われ、どう返したらわからず平凡な相槌を打った。
「次は田村だって」
「じゃあ今のうちから田村さんって呼んだほうがいい?」
「いいよ。梅井のまんまで」
「わかった」
彼女は歩く気配を見せず、柵にもたれた。
「正直さ。いつ離婚すんのかなって、だいぶ前から考えてた」
「だいぶってどのくらい?」
「三年くらい前」
「そっか……三年は長いね」
「たかが三年だよ。大人にとっては」
「そうだね。確かにそうだ」
「やだね。大人は」
嫌なのは大人という概念なのか、それとも今を生きる大人そのものなのか。どちらにしても悲観的な物言いだが、それとは裏腹に、彼女の声色や表情はどこか晴れやかなものだった。その時、僕はおそらく彼女と正反対の顔をしていた。
その後、梅井さんと別れ、二つの空のタッパーを玄関前の返却ボックスに返した。今日で飼育委員会の活動は終了だ。四日に一度の餌やりは面倒だったが、習慣となってしまえばなんだか名残惜しかった。
三月でもまだ日が暮れるのは早い。来賓用玄関を覆う午後四時半の暗闇。無遠慮にそこへさすのは職員室から漏れる蛍光灯の光である。相変わらず、コーヒーのにおいが充満する室内では大人たちが働いているのだろう。僕らが家に帰った後何して遊ぼうかとか、ウサギの世話が面倒くさいとか考えている間もあくせく働く彼らにとっては、子供の悩みや主張は無意識にしても矮小に映るに違いない。
ふと、静かな廊下から声が聞こえる。
「お疲れさまでした。大変だったでしょう。特にそちらのクラスは三木君がいましたし」
聞き覚えのある、耳障りなおばさんの声だった。誰の声だろうと記憶を探り、確か隣のクラスの担任だと思い出す。
「ええ、まあ。大変は大変でしたけど、ああいうタイプの子にも慣れておかないと」
そしてそう答えたのは間違いなく森山先生だ。声だけしかわからないが、あのざらざらした覇気のない声色は彼女にしか出せない。ただ、その声に覇気はなくとも、言葉は強力な呪いのように僕にまとわりついてきた。
ああいうタイプ。タイプ。型。種類。
いやな表現だ。
【三月十七日】
終業式が終わり、森山先生からのありがたい言葉も受け取ると、クラスの面々は名残惜しそうな雰囲気もなく解散した。「午後みんなで集まって遊ぼう」と、もうすでに名前も覚えていない当時の友人とそう約束した。
そして、何をしたのかは記憶にないが夕暮れまで遊び、解散。自転車に乗り、小学校の横を通り過ぎたとき、校庭の真ん中にぽつりと人影があった。誰かに見つけてもらいたくてそこにいる。そんな気配のする人影が気になり、じっと目を凝らすと、残念なことに三木だった。噂だと彼は来年から、また別の学校に転校するらしい。それを考慮するとなんだか最後くらいは彼のために時間を浪費してもいいような気分になった。
小学校の横にある駐輪場に自転車を止め、彼に近づいていくと、僕が声を出す前に向こうから僕に向かって「ねえ、あそこにいる奴らさ」と発した。
彼はオレンジ色の光がともる職員室のほうを指さした。そこを指し示しているというよりも、手に入れがたいものを、掴もうしているようだった。
「ちゃんと天国に行くのかな?」
小さく細い声と体から発せられる奇天烈な気配が僕の口をふさいだ。病人みたいな白い肌が、夕焼けに照らされ真っ赤に染まる。
「死んだ後も、あいつらは幸せなのかな?」
三木の顔からは、何も読み取れなかった。無表情でもなければ、喜怒哀楽のどれかというわけでもない。ただ人間の面が張り付いているだけだ。彼からは生気が欠乏していた。
「僕はきっと地獄行きだ。頭も悪いし、性格も悪い。それに皆に嫌われてる。だから地獄に行くんだ。でも、それでいいと思う。僕のことが嫌いな奴も、僕が嫌いだと思っている奴も、天国に行くなら、僕は地獄に行ってもいい。あいつらと仲良くするくらいだったら、一人で苦しんでたほうがマシだ」
いつも通り脈絡のない話だけど、その日は自然と言葉が浸透してきた。三木は奈落のように深い瞳で僕のほうを見て続ける。
「久保君は優しいから、きっとあっち側だね」
「僕は天国も地獄も信じていないよ」
するりと出てきたのは、そんな本音だった。
僕は天国や地獄を信じない。自分の生き様が勝手に評価されて、善人か悪人かを決められるなんて理不尽は受け入れがたい。そもそも善悪の基準は目的があるから生まれるので、生きる目的が最初から宇宙に存在していない限り、僕らの存在が邪悪や正義になることなんてないはずだ。もし、三木が何かに縛られて自分のことを悪い奴だと思うのならそれはきっと、彼の設定した生きる目的が間違っていることに他ならないだろう。
そしておそらく、もう彼の奥底にはその答えがある。だからこそ、駄目なことだとわかっていても奇行に走った。そうしなければ満たせないものが、彼にとって何物にも代えがたい本当の目的だ。
「ないと困るよ。それじゃ僕はいつになったら幸せになるの?」
「お前は今不幸なのか?」
「どう思う?」
三木はねだるように聞いてきた。
「僕に聞かれても困る。不幸比べなんて誰にもできない」
「……不幸だと思う。だって生きててこんなにも楽しくない」
返ってきたのは素朴な感想だった。
「好きなことをして生きたらいい」
「好きなことなんてない」
「じゃあ、嫌いなものを壊し続ければいい」
「……」
その時になって、三木の瞳がちょっと揺らいだ。
認めたくない話だけど、僕はこいつにある程度の愛着を持っている。じゃなきゃ、わざわざ近づいて話しかけたり、クッキー事件からの一か月で不快な気持ちを蓄積したりすることもなかった。もし、三木が近所で起こっている紛争に参加すると言い出したら、僕は全力で止める。そのくらい、僕はこいつをほっとけない。
彼は無言で駆け出し、校庭の倉庫に立てかけてあるトンボをずるずると引きずって戻ってきた。
「久保君は、もう帰ったほうがいいよ。今から僕、悪いことをするから」
「いや、手伝うよ」
「……大丈夫?」
いろいろな意味が詰まった、三木にしては思慮深い質問だった。
「俺は別にお前のこと好きじゃないけどさ。一つ汚点を残してもいいくらいには、お前のこと嫌いでもないんだよ」
それに一度くらい、ティーチャーズペットも飼い主の指に嚙みつきたい。
その後、二人で重たいトンボを持ち上げ、職員室の窓を三枚割り、逃走した。
窓を割った瞬間に近くにいた女性教員が「きゃあー!」と甲高い叫び声をあげた。T字型のトンボに窓のフレームが引っ掛かり、フレームが、ぐにゃり、と歪んだ。職員室にいた人間の半数が反応できずポカンとし、半数が反射的に身をかがめるか縮めるかしていた。そして、もう一度振りかぶろうとしていた三木を制止し、僕は彼の冷たくなった腕をつかむ。
「逃げよう!」
そう言って駆け出した。その時なぜか、笑ってしまった。
状況を飲み込んだ男性教員の聞いたことないほど困惑と怒りの混じった「おい! 誰だ!」という叫び声を背に、僕ら二人は一心不乱に振り向くことなく逃走する。けれど逃げたところで僕と三木の顔は見られただろうから、意味はない。その逃避行に意味はないのだ。
*
我が家のママチャリは痩せこけた少年を荷台に乗せて坂道を疾走していたが、途中でバランスを崩し大きく転倒する。ちなみにこの時僕は左腕を骨折した。でも興奮していて痛みは感じなかった。
「大丈夫か?」
自転車を起こしながら、道路上を寝転がる三木に聞いた。
「……うん」
空返事が返ってくる。
「ほんとに大丈夫か?」
「……」
「おい返事しろよ」
三木は首を動かさず、ただ仰向けになって空を見ていた。街灯が卵色の光で彼を照らしていた。通行する車の運転手は僕らに対して警笛を鳴らすか、険しい顔でハンドルを切り避けていく。何とか避けてくれるのは、ちょうど僕らが街灯の真下にいるおかげであり、もし真っ暗な道路の真ん中でこんな風に立ち止まっていたら、轢かれていたかもしれない。
「ねえ。今から秘密基地行こうよ」
にやりと笑ったかと思えば、三木はそんなことを言い出した。
「こんな暗いんだぞ? 危ないって」
「抜け道知ってるから暗くても迷わないよ」
「よし。じゃあ行くか」
興奮していた僕は深く物事を考えるのを放棄した。
「ついてきて。こっち」
三木が起き上がり歩き出す。ちょっと足を引きずっていたが、怪我でもしたんだろう。
ま、そんなこたぁ、どうでもいい。
ママチャリを引きながら、ちょっと左腕痛いな、とか考えながら三木の後ろをついていくと、たどり着いたのは長い階段だ。登山道の入り口の横にあるその階段はこのあたりで一番大きな社へと続いている。
「境内を突っ切ると秘密基地だよ」
三木は苦痛に顔をゆがませ階段を昇って行った。僕はママチャリを茂みに放り投げその後を追う。途中からさすがに足元が見えなくなり、携帯の液晶画面で照らしながら進んだ。肝試しみたいだけど、怖いとは全く感じなかった。
階段を登りきると何処からか、たぶん神主さんのものだろう話し声が聞こえる。ちょっと息を殺して通過し、三木は獣道に入っていった。肌寒く、虫の声すら聞こえない森はその日だけは僕らのために存在しているようだった。
やがて秘密基地にたどり着く。
九月。山登りをした日。三木に石を投げつけられたあの場所だ。
「こっちだよ」と三木が手招きする。
暗い洞窟の中に入り、三木の指さすほうを照らすと、「かめ」「へび」「かえる」「とかげ」などと書かれた木の板があり、それぞれが少し盛られた土の上に刺さっていた。
「墓?」
三木がうなずいた。そして、墓の前にしゃがみ込む。
「こいつら、帰り道で死んでたんだ。だから埋めた」
「なんで?」
「久保君ならわかるでしょ?」
「変な期待するなよ。お前の考えることなんか知らない」
「そっか……そっか」
寂しそうな三木の声が、小さな暗闇に響き渡った。
「帰るぞ」
そういうと、僕は三木の背中をつま先で軽く蹴って、洞窟を出る。
この時になってようやく、かじかんだ指先と冷たくなった耳鼻に意識が向かった。悲惨な夢から覚めたように意識が明瞭になり、空には不自然なほどきれいな星空があった。何となく、それはきれいな星空を見ているのではなく、今日の星空をきれいだと思いたいから、きれいに見えているのだと思った。
それから三木と電話番号を交換し、帰路に就いた。
*
母親から腕の骨折と職員室を何の理由もなく襲撃した暴挙をこっぴどく叱られた。不思議と、何の罪悪感も後悔も恐怖もなかった。被害があるとすれば、六年生になったときに友達が減ったくらいだ。久保も頭がおかしくなったんだ、と噂され、栗本には「お前やっぱ変な奴だよ」とよく分からないが得意げに言われた。
そんなことよりもちょっとだけ傷ついたことが二つある。
一つ目は、あれ以来三木と連絡が取れなくなったことだ。どこか別の地方へ転校したらしく、直接会おうにもどこにいるのかは不明。何度か電話をかけたが繋がらなかった。
二つ目は、あの秘密基地に行けなくなったことだ。登山道と神社が整備され、僕や三木が通った獣道はフェンスで閉ざされた。高校生になったとき、ちょっとした出来心でフェンスを越えて中に入ったが、そもそも時の力で獣道が消えてしまっていた。
自分史におけるちょっとしたランドマークにもう二度とたどり着けそうにないということだけが、なかなか悲しい。