最後にぐっすり眠ることができたのはいつだろう。今日何度目かの欠伸を噛み殺し大きく息を吐いた。体から湧き上がる空腹の警鐘を無視しては一つ背伸びをする。発注ミスのヘルメットを深々とかぶり直し、ルイス・デボッグは辺りをそっと見回した。
壁に身を預け眠気と闘う者、携帯用の黒パンをちびちび食べる者、緊急に備え目をギラつかせる者。四方の囲いに閉じこもったおよそ六十名。彼らは生い立ち、身分に差はあれど、総じて顔に疲労と苦悶を滲ませ、その周囲の空気には汗や血の臭いが立ち込めていた。ルイスは、ウォッチポケットから五分遅れの懐中時計を取り出す。
父親譲りの紺色の髪を持った少年は物心ついたときから父と同様に陸軍の道を辿ることを決めていた。決心を支える柱は、高潔な愛国心というよりは父への羨望であった。ルイスは士官学校を卒業してから陸軍見習いである現在に至るまでの五年間、軍隊で求められる腕っぷしの強さ、権力・結果至上主義を痛いほど学んだ。人じゃない扱いを受けたことも幾度となくある。ここでの経験が齢二十に満たない少年を肉体的、精神的に大きく成長させたことは言うまでもない。
だが、彼が培ってきた自信や経験は二晩としない内に砕け散った。戦地という名の死地はミス一つが死に直結する。鍛えてきた肉体は弾丸一発、深手一つでガラクタになる。昨晩味のしないスープを注ぎあった仲間が冷たくなっている。ルイスは目の前にある結果も、自らの無力さを感じた今では神が与えた偶然の産物にしか思えなかった。
フランス軍の大多数が防戦一方になりながらも、第三十五番陸軍部隊は奮闘を見せた。一つの拠点である国境都市、リパス南部に構えるゴシック様式の教会を他の部隊と合流し占拠する。人数の差が生みだした辛勝だった。
教会は非常に休憩地に適していた。礼拝所は六十人が休めるほど広いわりに、入口は重厚な正面玄関と非常用扉のみ。天窓もなく、骨組みであるリブの隙間を埋めるようにステンドグラスが嵌められている。
教会を占拠して七十分間でドイツ軍から二度攻撃を受けたが、入り口を固め、銃の性能を生かした中距離一斉射撃は効果が大きかった。被害を最小限に抑えつつ撃退。少なからずこの防衛は軍に士気を与えていた。
命令を受けてからはや三日。教会の巡回役を終えたルイスは自然と所定位置に腰を下ろした。特に親しい者などいない。士官学校から相棒の砂っぽいヘルメットを脱ぎ、久方ぶりの眠りにつこうとした。だが、居場所を悟られ狙撃された同胞の死顔が忘れられず、気が落ち着かない。
刃物のような殺意と阿鼻叫喚の地獄に四六時中晒されていたのだ。父の背中は想像以上に遠く、生への執着は全ての欲求に勝る。ルイスは武勲やお国を忘れ、退役した父と優しい母の待つ家を守ることばかり考えていた。
苦悶の中顔をあげると、宙を舞う天使と幼きキリストを抱いたマリア像が月に反射して煌々と輝いているのに気付く。ルイスは首に下げた十字架を握り、何よりも生きて故郷に帰れるよう胸に祈りを捧げる。何度も何度も。
それ以降ルイス・デボッグは眠るのを諦め、椅子に置かれた乾パンと変形した水筒を脇に、自らの胸騒ぎに耳を傾けていた。教会に籠り、手元の時計で三時間十分が経過。十分くらい前からどうも落ち着かない。不吉な予感とでも言うのだろうか。
夜になり戦士達、戦争自体が一日を終えようとしている。だが妙に静かすぎるのだ。小窓から吹き込む風が、生物の呼吸そのものが。不安になったルイスは巡回役の務めを終えたらしいマントを羽織った中年に声をかけた。
「あんた、さっきから胸騒ぎがするんだ。外の様子でおかしい所はなかったかい?」
「いや、特に何もなかったよ。体調でも崩したのかい?」
「そんなことはない。もしかしたら、この教会の中に異変が起きているかもしれない」
「……。少し仮眠をとったらどうだい」
ルイスとの問答を不毛と決めたのか男はのそのそと帰っていった。
去りゆく男の助言を聞いてもルイスはこれを無視できず、座り込みじっと考え込んでいた。農作業を手伝ったときに、父に言われた言葉があった。
「五感で感じることにただ従順でありなさい。さすればきっといいことがある」
ルイスはあのときの父の真剣な表情を思い出し、立ち上がった。生きて帰ることが第一だ。そう心にとめ、立てかけた銃を手取ろうとした。
そのときだった。
パリン、ルイスの前方十メートル先、正面に並ぶステンドガラスの一枚が上部から砕け散り、誰かが放物線上に室内へと飛び込んできた。その落ちる瞬間をルイスはスローモーションで目の当たりにする。
美しかった。現象自体がではない。旋回して地に落ちるツクバネの種のように優雅に加速度運動を始める姿。割れたガラス片々がその存在を栄えある絵画へと昇華させる。
降り立ったそれは一人の美少年だった。中性的な整った顔立ちとウェーブのかかった赤髪。肌はおしろいしたように白く細かい。ダボっとした軍服と袖から延びる細腕は、雑貨屋に売られている着せ替え人形を彷彿とさせた。タッパは多分一六〇に満たない。おそらく十三・四歳だろう。
出来事は言わずもがな、その美しさといとけなさに教会内一同の注目を瞬く間に集めた。
少年は見たことのない迷彩柄の軍服に身を包み、後ろで手を組んで棒立ちしていた。物珍しさからか、祭壇にいた指揮官の一人が体格の良い男を二人連れて歩み寄る。胸元のバッジが散ったガラスに反射し薄く輝く。見下すように指揮官は赤毛の少年に問いかけた。
「戦争の真似事でもしているのかな、坊や」
「……」
少年は何も答えない。
「何か言ったらどうなんだ?」
「……」
沈黙が下りた。指揮官は相当いらだっていたのだろう。最新鋭のピストルをちらつかせる。だが、その少年は眼前に銃を向けられても、臆する様子もなければ動揺する様子もなかった。あきれた表情をした指揮官は一息つき、銃口を足先に向ける。
「じゃあ、嫌でもしゃべらせてやるよ」
ギャラリーの間にざわめきの火がともる。
引き金を引く直前だった。
少年は組まれた右手から何かを取り出し、その手で将軍の喉元手前の空を切った。
一瞬の所業。
追って二秒後、将軍の首筋からは血が噴き出し、膝から崩れ落ちる。見守っていた観客から漏れ出たのは熱気ではなく、微かな吐息。全員が少年の挙げられた手を見る。そこにはダガーナイフが握られ、刃先を鮮血が伝う。もう一方の手にもダガーナイフが握られており、そちらからは鎖と分銅が垂れていた。
この場に顕れてから一分ほど。固く結ばれた口を美少年はようやく開いた。
「Eine Person」
誰もが察した。敵国が送り込んだ刺客であると。
見てくれは良くても、ドイツ語をしゃべる人形は異物であることに限りはない。
もはや用心棒ではなくなった男たちが二人がかりで襲いかかる。一人は亡き指揮官が残したピストルを拾い上げ、即座に一発。
だが弾道を読んでいたかのように少年は最小限の動きでかわす。死角から伸びる殴打を受け流し、距離を詰める。少年は間合いに入ったと見るや、顎に回し蹴りをお見舞いした。頑丈なマーチン靴からの一閃。的確に撃ち抜かれた相手は脳震盪を起こし倒れる。
息つく間もなくさらにもう一発弾丸が放たれる。だがこれも当たらない。切りがないと思ったのか、ピストルを投げ捨てた。軍刀を引き抜いて相手の出方をうかがおうとする。しかし少年はそれを許さない。曲芸師のように跳躍したあとの踵落とし。すんでの所で相手は受け止める。だが、これは罠。反動で体をひねらせ首に肘打ち、過呼吸になった者の首を躊躇なく掻き切った。泡を吹く男も後始末のようにナイフで一突きし息の根を止める。
時間にして十秒。
観客の誰もが予想だにしなかった。壇上で少年は呼吸を乱すこともなく、鍛え抜かれた成人兵士を子ども扱いし、亡き者とした。出てきたのは蛇ではなく悪鬼。少年の姿は命を刈り取る魔物そのものに映ったことだろう。
少年は壇上を飛び降り、立ち尽くすその他兵士に牙をむく。縦横無尽に暴れる少年に対して戦意を保っていようがいまいが保障される命は数秒。抵抗は無に等しかった。近接攻撃のみで次々とひねり倒す。賜し力は神の恩寵。風を切り、舞う姿はカンタービレ。
あまりの猛撃にしばし統率を失った軍は各々が勝手に行動を始める。教会の端では冷静さを取り戻した一部兵士が弾込めを終え、シャスポー銃を構えていた。インファイトに特化したあの化け物に至近距離で勝ち目がないなら中距離で。なかなか英断である。
だが、それは既に読まれていた。
どこから発射されたのか、再び一枚のステンドガラスが割れた。それを合図に教会にいたフランス陸軍兵の一部が膝をついた銃歩兵を急襲。スパイが紛れていたのだ。そして少し遅れて正面玄関が開け放たれ、少年と同じ軍服を着た戦士たち十名ほどなだれ込む。
死神とも言える少年の登場から僅か数分の間に教会内は混沌と化した。いつから潜入していたのか、外の巡回役達はどこに消え何をしていたのか。浮かんでは消えるクエスチョンへの答えをフランス兵士たちは誰一人持ち合わせてはいなかった。
混乱の中一人、また一人と仲間たちが倒れていく。ルイス・デボッグは骸の感触を足の裏に受けながら、低姿勢で非常口へと急いでいた。ルイスが少年の一幕から理性を取り戻して以降最初に抱いたのは神に対する恨みだった。
「自分は親の背中に憧れて軍隊に入っただけだ。何も悪いことはしていない。それなのに……」
まだ女性とのお付き合いも、生きる意味も知らないままこんな惨劇に遭遇する自分の不幸を嘆いた。
だが、逃げるために足を動かしてからルイスの考えは変わっていた。
こみあげてきたのは生に対する渇望だった。生きたい。死にたくない。それだけだった。今すぐここから逃げ出したい。ルイスのはやる気持ちを抑えるのもまた理性。最大限リスクを抑えつつ、礼拝堂椅子の下をほふく前進で移動し続けた。ゴールの非常扉まで目と鼻の先。とってつけたようなドアノブを掴もうとしたその瞬間。
三時の方向からとてつもない視線を感じた。眼球だけを動かすと、あの人間の皮を被った化け物が電光石火でこちらに向かって走ってくる。地毛の赤髪はより赤黒く、刃を伝う血液は先刻より止めどなく。彼の周りにいた兵士たちは全て血の海に転がっていた。
やばい、やばい。
やばい。
ノブをしっかり握り直しひねる。
だが扉は開かない。チェーンがかかっており、隙間から外気が流れてくるが決して開こうとはしない。
「嘘だろ! クソが!」
八つ当たりの不満をぶつける。
「早く!」
チェーンを切ろうと佩いていた軍刀に手を伸ばすが、取り落とした。すぐにしゃがんで拾おうとする。
が、遅かった。
奴は軍刀の腹を踏みつけ、中腰のルイスをじっと見つめる。蛇にらみを食らったように身体が言うことを聞かない。少年の目は澄んでいた。だが、握られるはダガーナイフ二本。
少年はゆっくりと左手を挙げる。
ルイスには止まって見えた。抗えず黙ってそれを見つめる。
コンマ三秒後、ルイスは喉を切られた。
溢れ出す血を止めることも忘れ、仰向けで倒れる。
痛い、より暑かった。身体がポカポカする。もうすぐ死ぬことを肌で感じた。
視界の中に少年はいなかった。あるのは割れたステンドガラスの縁とそこから覗く壮大な月だった。ルイスはこれが最後に見る景色であることを確信する。
──神聖な教会は墓場となり、神は地に落ち、そして俺も死ぬ。
皮肉な話に少し笑う。すがるものは何もない。だからだろうか。
ルイスは最後の力で月に手を合わせる。自分の死に様をただ静観する月に向かってだ。声を出そうとしたら血が出た。薄笑いを浮かべながらただ心で言葉を紡ぐ。
──どうか、取り残された父と母がいい余生を過ごせますように。
合わせた手はゆっくりと綻び地に落ちる。
ルイス・デボッグの短い人生はここで幕を閉じた。
※
とあるフランス兵が亡くなった後、瞬く間に教会の制圧は完了した。
ドイツ軍特殊部隊、セレーネ部隊の圧勝である。
「おーい、アスどこだ~」
セレーネ部隊狙撃班の一人、パウル・ホフマンは迷子になった子を探すように一兵士の名を呼び続ける。
「ここだ」
パウルは非常口前で動かなくなった青年兵を覗き込む少年を捉える。握られるのはペンではなく凶器。返り血を浴びてもぶれない精神はとても迷子の子供には見えない。こいつこそ緊張した戦場で先陣を切り攪乱を起こした張本人なのだ。無理もない。肩で息をしながら、落ちている水筒をくわえようとする姿がそこにあった。
「アス、死体から奪った食料は勝手に食うなと前も言っただろう?」
パウルは少年から水筒を奪い取る。相当嫌だったのか拳を握ろうとした。
「おい待て待て。俺の水やるから」
こいつに殴られるのは死にかねない。少年は差し出されたものをそっと受け取り、躊躇わずそれを飲む。
嬉しそうに水を貪る姿は一見珍しい赤毛をした無教養で無口な少年に見えるだろう。だが、一たび戦闘が始まると鬼神の如き強さと無類の戦闘技術をもった怪物に変貌する。大抵の人間が共通して理解している情報はこれで十分だ。
この少年の名をアス・クローゼスと言う。
アスが水を飲み終えてから二人は仲間が待つ正面玄関へ足を向けた。
五十名ほどいたが、今は誰一人ピクリともせず地に伏せている。アスはパウルを置いてずかずか先へ進む。
「おい、待てよ」
「パウルは俺より身長が高いのだから普通に歩けば追いつくだろう?」
その通りではある。だが骸を避けながら歩く人と気にせず直進する人がいれば言わずもがな直進する人の方が速い。
「人の上は歩くもんじゃないぞ。アスはそう言ったことも覚えろよ」
諭すようにパウルは言う。
「何故そんなことする必要がある? 俺たちは戦う時平然と転がっている奴らを踏み越えたりするじゃないか」
「まあ、そうだけどよ……」
パウルは堪らず閉口する。こいつは人としての礼儀、というか倫理的なところがまるで分かっていない。話が全然続かないこと、これはアス・クローゼスとバディーを組むパウルが抱える大きな悩みの種であった。
一兵士との関係を何故そこまで気にするのか。それには部隊の事情が絡んでいる。
当時ドイツはフランスとは違い徴兵制を採用していた。だが、実際は陸・海軍で有益な兵士を育てる高等学校は存在し、募集の貼り紙は国内至る所にあった。いざ戦争が起こったらという備えは軍部最高司令官の指導下で当然に行われていたのである。
しかし歴史に表があれば裏も存在する。当時、軍事力に力を入れようと考えていたドイツは武器の改良だけでなく、新たな軍隊を形作ろうとしていた。
例えば軍では当たり前とされていたトップダウン方式を捨て去り、それぞれに特化した能力を最大限解放させて自由に戦闘が可能な特殊部隊。
手探りの中多くの部隊が編成されては再編成を繰り返した。ほとんどが没としてゴミ箱に捨てられる中、残った幾つかの組織体は紆余曲折ありながらも戦果を挙げることになる。
有望株の一つとされた部隊、それがセレーネ部隊であった。結成されて僅か三年足らずだが、前回の戦争で大きな戦績を挙げ、軍部から一躍脚光を浴びることになる。三十名足らずの部隊だが、今回の奇襲を含め四つの拠点の奪還を単独で完遂していた。
この部隊では当時珍しい迷彩服を採用しただけでなく、システム的にも他と大きく異なる。特筆すべきは、タイプの異なった二人一組制が採用された点だ。役割を二分化することで、前衛兵をより俊敏に後衛兵の援護をより手厚く。能力を最大限生かし、多様な任務で見せる高い流動性は高く評価されていた。
実践訓練の中、射撃の腕を見込まれた一兵士パウル・ホフマンはこの部隊に二年前に配属された。一年を通して独自の戦術を会得。しかし、周りが続々とバディーを組み実地訓練を積む中、パウルは一向に決まらない日々が続いた。相手を待つこと十ヶ月。幸か不幸か、飛び入り入隊をした最年少十六歳のアス・クローゼスと邂逅した。部隊長の命令でとんとん拍子に話は進み、訓練を共にして一月足らずで急造バッテリーを組むことになり今に至る。
お互いの背中を預け合うだけではなく、息の取れた心地よい仲でいたい。自分の命を守るためにもこれはパウル自身の課題であり、同時にささやかな願いだ。
だが、願いむなしく一騎当千の強さを見せるアスにとって慣れない連携は邪魔であり、パウルが振り回される毎日。苦境に陥らない分戦闘は楽になったが、休戦時に無礼を働くアスに代わって上層部に頭を下げることは格段に増えた。
パウルの努力はバディという絆と連携ではなく、子どもに振り回される親というような歪な関係として実を結んでいた。
そうこうしている間に二人は正面玄関に着く。
「パウル遅かったじゃないか、何処で油売ってたんだ?」
仲間の一人が声をかける。
「すみません、アスを探してました」
「そら大変だな」
同僚はアスの頭をひと撫でし、二人分のスペースを空ける。
既に戦友たちの多くはヘルメットを脇で抱え「休め」の姿勢で待機していた。スパイとしてフランス軍に扮していた者はそのままの恰好でおり、調和性に欠ける。パウルとアスを含め総勢二十数名。待っていたのは円の真ん中で補佐に耳を傾ける一人の男だった。現状報告が終わったのだろう。俯いた顔を持ち上げたセレーネ部隊隊長、ライナス・ファン・ボォルフは自らを囲む兵士達の顔を鋭いまなざしで一瞥する。何に納得してかコクンと一つ頷き、ゆっくりと口を開いた。
「皆の者よくやった。気を楽にして構わない」
歯切れのよい低音は聞く者の身を引き締めさせる。
「今回の拠点奪還。作戦通りに事が上手く進んだことを俺は嬉しく思っている。医療班応援要請にルートの確保、そして遠方を見渡せる開けた土地。安定して占拠するには難しい場所だが、相手の手から離れたことは非常に大きい。ここを制せたのは君たちの働きのおかげだ。礼を言おう」
ライナスは頭に被った漆黒のベレー帽を脱ぎ兵士達の労いを評す。
「既に気づいた者もいると思うが、進んで潜入役を買って出たカルツフは腹部を裂傷、援護射撃に回っていたジェームズは肺に跳弾が命中。二人は死んだ。彼らの生き様と死を無駄にするな。いいな」
「はい!」
戦士達は呼応する。重なった野太い声が地を震わせ、天に轟く。
「他に多くは語らん。死んだらそこでおしまいだ。生きて生きて生きて国家を、軍を、家族を守るために戦え」
「はい!」
この一言に異論を唱える者など誰もいまい。
セレーネ部隊の面々は首にぶら下げたネックレスを外す。アジャスターの先には名前が刻まれたドッグタグと石膏製のペンダント。月を抱き寄せる女神を模している特注品だ。ペンダントを握った手を月に重ねるようにして兵士達は祈りを捧げる。
「我らに月神のご加護がありますように」
流れる静寂と突き上げた掌を照らす白銀の輝き。夜を駆け回るこの部隊特有の儀式である。運命と勝利を月に願うのだ。だが、その安全を保障するものは何処にもない。
「天候不順により本日の南下はここまで。これから徒歩三十分、北北東に位置した野営地、ルカトーを目指す。周辺はぬかるんだ地面と雑木林で構成されている。既に制圧した土地の一つだ。ここ数日敵兵の痕跡も確認されていない……。四十分後にここを発つ。出立の準備を整えろ。以上」
隊長ライナスの命を受けるなり、兵士達は散開し、各自準備に取り掛かる。大方の者は教会に足を運んだ。降り始めた雨を気にしてではない。手を付けられていない食糧や水を確保しに行くのだろう。それを他所にパウル・ホフマンは参謀と話し合うライナスのもとへ向かった。
「ライナス中佐」
「パウルか、中佐じゃなく隊長だろ」
パウルの頭を軽く小突く。以前から部隊を指揮していたライナスとパウルは長い関係にある。パウルの能力を見抜いたのも彼だ。上位階級の倅であり、軍をまとめるカリスマ性と戦術眼を持つ。人望も厚く、おまけに頭も切れる。女の扱いが下手なところは玉に瑕だが、異例の若さで特別部隊の長を任され、エリート街道を突き進むこの伊達男をパウルは素直に尊敬していた。
「失礼しました、ライナス隊長」
「どうかしたか?」
「一つお願いがありまして……」
「ジェームズのドッグタグを渡して欲しいのか?」
「はい」
パウルは少し驚く。この人はエスパーか。内心そう思った。
「……お前は特に仲良くしていたからな」
ライナスはハンカチに包まれたドッグタグを一つ取り出す。死者のドッグタグは家族の手元に届くまでバディー若しくは特段仲の良かった者が一旦預かることが隊のしきたりだ。
「隊長感謝します」
パウルはアスの問題行動で上官に謝るとき以上に深々と頭を下げた。
「気にするな。てかお前まだそんなもの首から下げてるのか。照準を合わすのに邪魔にならないか?」
ライナスはパウルが首からぶら下げている双眼鏡を手で弄ぶ。子どものときから一緒のそれは幾多の戦火を潜り抜け、シックな雰囲気を醸し出していた。
「特に問題はありません。僕にとっては何よりのお守りなんで」
「……そうか。壊れないように気をつけろ」
そう言いながらパウルの頭を優しく撫でる。部下に対して思いやりを持つ。人の上に立つ者にとって重要な要素は世の中それ程変わらないのかもしれない。
「あと、もう一つだけお願いできますか? ライナス隊長」
「なんだ?」
「戦争が終わったらまた天体観測に行きませんか?」
「……」
沈黙が流れる。二人の仲が良いのは経歴だけではなく趣味が関係していた。
天体観測。血の気の多い十代から二十代。訓練の合間、彼らが夢中になったのは女の尻でも、はした金をかけた賭博でもなく、星を目で追うことだった。パウルは月を始めとする太陽系天体を。ライナスは季節ごとに見える星座や星雲、それに纏わる神話を。出会ってすぐ二人は意気投合。しっかり者のライナスとは意見が食い違うことも多々あったが、戦場だけでなく私生活でも多くの時間を共有した。
だがこの一年間、何故かパウルの誘いにライナスは乗ってこない。
「いや、今は乗り気じゃないんだ。また今度」
「星々が嫌いになったのですか?」
すかさず鞭で返す。
「いや、好きさ」
「ではなぜですか?」
パウルは理由が知りたかった。純粋に。何が彼をそうさせるのか。
葉巻に火をつけ、ライナスは一服する。パウルの勢いに観念したのか。スモークと一緒に言葉を吐き出す。
「怖くなったんだよ。星を追い続けることが」
「え? どういう……」
「そうだ丁度いい。パウル、一つ頼みごとがあるんだ」
ライナスは強引に話を変えた。
「何でしょう?」
パウルの声には自然と怒気がこもる。
「ルヴァン診療所で弾薬と救援物資を受け取ってきて欲しい」
ルヴァン診療所はムーズ川に沿った国境のほとり、山間部にあるドイツ軍が急設した診療兼補給所である。野営地とは逆側にあるが、陸地の高低差を考えても徒歩で三十分も歩けば着く距離にある。ライナスは続けた。
「明朝から進軍するにあたってここで補充しないのは得策でないと踏んだ。あと、救援物資の中にはドイツ軍司令部からの通達が来ているはずだ。仏領パリに入り、他の使えそうな部隊と手を組むうえで一度連絡を取っておきたい。電報の内容はここに書留めてある」
ライナスは一枚の便箋をパウルに手渡す。
「独りで行くのでしょうか? それであれば……」
「いや、アスを連れていけ。意外にあいつは力がある。なに、行きは二人だが、帰りは待機している通信兵二人に運送は手伝わせればいい。合流地点はルカトーに構える変電所。用意が済めば先に出立しろ」
口を開こうとしたパウルだったが、それをぐっと堪える。ライナスといくら友人のような関係であろうと、陸軍においてパウルの上官なのだ。ここで食い下がるのは得策ではない。
「はい、問題ありません。直ちに向かいます」
パウルは敬礼をした後、踵を返し歩き出す。
「双眼鏡だけじゃなく、アスとも相棒になれよ」
ライナスは湿った葉巻を吹かしながら、どこかもの悲しい独り言を言った。
砂利を踏みしめながら一歩、また一歩。渡された麻袋を片手に、パウルは細く長い溜息を吐き出す。雨足が強くなってきた。不出来な舗装はボロをだし、濡れた服は体温を奪う。石油ランプの光は歩行を支えるには心許なかった。斜面を上ってはいるが、ムーズ川は未だ見えてこない。思いの外診療所までの道のりは時間を要すかもしれない。
アスと部隊を離れてから十五分が経つ。ライナスとの会話直後、アスに声をかけた。彼は嫌そうな顔をしたが、「任務」という一言で取り直す。
拾ってくれたライナスに対する感謝なのか、アスは忠犬のように命令に従う。だが反して発する声はどこか突き放していて、質疑に対する応答が会話のほとんど。歳に見合わない幼顔なだけに声をかける者も休憩時大勢いたが、根負けするように相手が去る日々。一ヶ月しないとしない内にアス・クローゼスに話しかける奴はライナスと、バディーであるパウルだけになっていた。
「アス、少し寒くないか?」
「いや、別に」
「寒いと言えばあれだな、シベリア偵察。覚えてないか? あのときアスが防寒服を着ずにやせ我慢をしてさ、基地に戻った後高熱を出したこと」
「……ああ。そんなこともあったな」
弾むものが弾まない。膨らむものが膨らまない。アスとの会話のラリーは味気なく冷たい。おそらく親からそういったことを教わっていないのだろう。世間話に花を咲かせるのが好きなパウルにとって、降りしきる雨よりも近づかない二人の距離感の方がよっぽど堪えた。
こいつとの会話に探りなんていらないよな。パウルは含み笑いをし、再び口を開いた。
「今日も月の話をしようか。前はどこまで話したっけ」
「……月にあるデコボコの話」
「クレーターね。じゃあ、満月も近いことだし、今日は国によって違う月の模様について話をしよう。俺たちがいるドイツからもう少し北の方、北欧では本を読む老婆の形をした姿が見えるんだ。この部隊に来る前遠征で北海を渡ることがあってね。見たときは衝撃的だったなぁ。図鑑に書かれた通りで」
「……」
「俺のおじさんが航海士で以前東洋に行ったらしい。そのとき月には餅をつくウサギが見えたんだって。なんでこうも月の見え方が違うかっていうとだな……」
どこか得意げで楽しそうに語るパウルと聞き手に回るアス。会話は成立していない。だがパウルはある一点を期待していた。
パウルは朗らかで聞き上手、それもあってか友達に困ったことはない。しかし星、特に月の魅力を理解できる者は誰もいなかった。思春期なこともありパウルはこれに深く病んだ。お気に入りの望遠鏡で星を眺めようと何度誘ったことか。現実は冷たく、彼と関わる者のほとんどは誘いを断り、誘いを受けた者でもものの数分で興味を失った。唯一趣味が重なったライナスにはそれこそ多くを語ったが、結局自分の興味のある分野じゃないと一蹴されたのだった。
「じゃあこの地で見る月はどんなのだろうな」
アスは違った。聞き流しているようで、話を聞いてくれる。自分がそう思いたいだけかもしれない。彼に教養はないのだろう。でも、だからこそ染まり切っていない、未成熟な少年なら……と。
押し付けたい訳じゃない。ただほんの少し分かって欲しいのだ。その一点をパウルは誰よりも期待していた。
「パウル、一つ聞いていいか?」
「なんだ?」
パウルは精一杯微笑みかける。不気味に映ったかもしれない。
「……教会で殺した一人に、死に際月に祈っていた奴がいた。勘違いかもしれないが……」
「それで?」
「そこに意味はあるのか、俺には分からなかった。息を引き取る前にそんなことしても未来は変わらない。ましてや月は人間を助けることもない。俺たちが日頃していることもそうだ。なぁパウル。お前が月を好きな分はいい。でも、その行動に意味は宿るのか? 報われるのか? 教えてくれよ」
鳴りやまない雨音の中アスは歩みを止め、答えを待つ。パウルは一瞬その無垢な子供のような眼に吸い込まれそうになった。腰に手を当て、考えをまとめる。
「……アスはそう思っているんだな、人間の一部の行為と万物が内包する意味について」
「そうだ」
パウルは曇天を見上げながら語り出す。
「俺はさ、少なくとも月を愛でること、月自体にも意味はあると思っている。一見意味がなさそうでも、自分の世界を取り巻いている以上意味はあるんだよ。……じゃないとなんで生きているのか俺は分からないや」
「俺はその根拠が知りたい」
間髪入れずアスは一歩距離を縮める。ヘルメットからはみ出た赤毛がはずむ。
「……それはさ、アス。自分で考えるからこそ意味があるんだよ」
パウルはアスの肩を叩いた後、再び先を急ぐ。アスは何か思うところがあるのか半歩遅れながら後に続いた。
※
鼻を突く安酒の臭い、赤毛は忌子だと自分に向けられる罵詈雑言と理不尽なまでの暴力。十歳までの家での記憶の大半はそれだった。学校に行かせてはもらえず、煙立ち込める路地裏で汚れ仕事の毎日。雀の涙ほどの賃金のほとんどがお酒に変わった。どうしようもない酔っ払いの父から教わったのは一つだけ。
「弱い奴は生きていけない」
十歳のとき無断で家を飛び出した。とある靴屋の下働きを夜通しして寒空の下眠る日々。飢えを乗り切るため、盗みも平気でやった。
そんなある日のこと。日照りの強い昼時、軍人の一人から包みを盗んだ。慣れたものだ。路地裏を抜ければ人ごみに紛れる。だがあと一歩の所でそいつに先越され、捕まった。何を思ってか、どこを気に入ったのか打たれるのではなく、手を差し伸ばされた。
「俺の下で軍人として働かないか」
弱い奴は従うしかない。促されるまま、門をくぐった。初めは戦闘技術や最低限の言葉など教わることばかり。これが学校なのだ、そう思うと苦じゃなかった。実地訓練の後、すぐに戦場に駆り出された。そこで大勢の人が死にゆくのを直視した。だが、違和感はない。
結局弱い奴は生きられないのだ。だから生きるため、戦下で敵と認知した奴は片っ端から殺した。全ては生き抜くために。他の奴よりこの一面は優れていたのだろう。教官や兵長からはよく褒められた。
寮の自室で横になっていたある日。
「おい、十四歳になったから名簿の更新がいる。ファミリーネームってあるか?」
くだらない質問を投げられた。ファミリーネームなんて覚えていない。そもそも聞いたことさえない。右に首を捻ったらふとクローゼットが目に入った。
「……クローゼス。アス・クローゼスだ」
それからは訓練をして、最低限食って寝て、戦場で人を殺す、その繰り返しだった。自分にとって人生とは戦場であった。他に意味などない。そう、ただそれだけ。手に握る武器も、他の生き物も、踏み荒らす花も、うるさくてつまらない毎日も……。
※
目的地に着いた。それは標高一四〇メートルにひっそりと建つ。針葉樹林は切り倒され、膝くらいの高さの柵が立ち並ぶ。中央にはドイツ張外壁塗装を施された家があり、両脇を診療所代わりの倉庫が縦に並ぶ。母屋はひっそりと静まり返っていたが、対照的に一軒家にはディムライトが灯っていた。談笑も聞こえる。アスとパウルは傾いた字で「ルヴァン診療所」と書かれたアーチをくぐり、一直線に声の元へ向かう。普段は農作業もしているのか、鉄製のクワが立てかけられていた。
「夜遅くにごめんください、ドイツ軍特殊部隊所属パウル・ホフマンです。既に上官から連絡は差し上げています。どうぞ中に入れてください」
ドアフックを三度叩き、応答を待つ。
十五秒程待った後、キャップを外しながら従軍看護師の一人が扉を開けた。おそらく室内で最も高い地位の者だろう。
「パウルさんですね。お伺いしています。どういったご用件でしょうか?」
言葉は丁寧だが、語尾は苛立ちを帯びている。室内には看護師が六人いた。椅子を寄せ集めてポーカーをしていたようだ。壁にかかった振り子時計は十時二十八分を指している。勤務の合間のささやかな休息を邪魔したのかもしれない。
「休憩中でしたか、失礼しました。こちらで管理されている予備の弾薬・救援物資を受け取りに参りました。それからこの便箋を電報で打っていただきたいのですが」
パウルは指先で便箋をひらひらさせた。
「拝見いたします。……上官というのはもしやあのライナス・ファン・ボォルフ中佐でしょうか?」
彼女は上ずった声で尋ねた。様子を窺っていた他の者達も風に煽られる麦穂のようにざわざわと口を立てた。
「はい如何にも」
「大変失礼致しました。ただいま弾薬と救援物資を荷支度します。当直医以外の医師は日頃の疲れから寝静まっているので……二十分から三十分程かかります、お急ぎでしょうか?」
「いえ、お気になさらず。三十分後にここを発てると助かります」
パウルは変わらぬ声音で返事しつつも、先ほどより笑みがこぼれ出ていた。
「かしこまりました」
斜に構えた看護師長は慇懃に頭を下げ、後ろに控えていた看護師達はトランプをそのままに準備に取り掛かる。
上官が中佐と言う上級軍人なだけでなく、若くして軍の上層部に抜擢された隊長だからこその応接と言えよう。手紙を読んだ後の様変わりは面白いものだった。
「すみません、こちらに収容されておられる負傷兵の様子を視察させて頂けますか? 戦友がこちらに運ばれたそうですので……」
これはライナス隊長と別れる前、参謀越しに伝えられた情報だ。まず間違いはないだろう。
「勿論でございます。それではお連れしますね」
看護師長は腰を低くしながら、ろうそく皿を持ち、パウルを左手の長屋へ誘導する。アスもそれに続いた。
重厚な引戸が軋みながら開かれる。消灯時間を迎えた診療所は予想以上に暗い。中から強い鉄のにおいが漂ってきた。悪夢や痛みにうなされる声が反響している。暗さと相まって異様な不気味さが滲み出ていた。
あの会話以降、後ろを振り向かなかったパウルは、
「アス、準備が済むまでの間、暇だろ。もしあれならそこらをぶらついてもいいぞ。ただし敷地から出るなよ」
そう言い残して看護師長と共にパウルは建造物の黒に染まっていった。
さて、どうしたものか。行く当てもなく、アス・クローゼスは荒漠な大地で立ち尽くす。
命令があれば楽なのに。
出撃がないとき、彼は大体じっとして座り込むか糧食を摂るか、昔の癖で靴を磨く。通り雨だったのか天候は落ち着いた。だが粘度の高い土と汚れた靴。どうも気が進まない。アスは少し迷った挙句、取りあえず散策してみようとした。
バン!
壁を叩いた音が、続けざまに怒鳴り声がアスの耳に入った。トラブルに巻き込まれるのは御免だが、様子が気になる。忍び足で発生源を探る。
間もなくして目星はついた。場所は隅に詰められた納屋の裏口、家を中心とするとパウルが入っていった診療所玄関とは点対称に位置している。
視線の先には看護師が二人いた。見覚えがないため、おそらく夜勤の者達だろう。アスは物陰に隠れるようにかがんで聞き耳を立てる。
「貴方いつになったら今晩の洗濯が終わるの? 随分と時間が経っているじゃない。ぼうっとしてたんじゃないわよね!」
「申し訳ありません。ですが、感染症で体調を著しく損なう方が多く、おまけにこの雨……」
「言い訳おっしゃい‼」
ふくよかな看護師が一方の頬を平手で打つ。打たれた側は力なく横に倒れた。黄ばんだ病衣が床に飛び散る。
「半人前が調子に乗るんじゃないわよ!」
相手をぶった方は金切り声を上げ続けていた。
「いま汚れたやつもさっさと洗って、こっちを手伝いにきなさい。あるお偉いさんから物資の準備を頼まれて大忙しなんだから。分かったわね!」
気が済んだらしく、お尻をぷりぷりさせながら看護師は診療所の方へと駆けていった。
アスはすっと立ち上がり、まだ膝をついていた女性の元へ歩み寄る。
「ふぅー、痛い!」
「歯が折れたわけじゃなさそうだし大丈夫だろ」
至近距離で顔を近づけるアスに女性はやっと気づいた。
「いや、あなた誰よ」
びっくりして女性は身を起こした。アスは小柄で筋肉質な手を差し出す。
「それよりさ、食いもん持ってない?」
「いや、そこは『大丈夫か?』とかハンカチ差し出すところでしょ。どんな神経してるの?」
女性は怪訝な表情を浮かべながら泥を払い、衣服を整える。
「そういうものなのか?」
「そういうもんでしょ。……あなた名前は?」
純粋な疑問符を顔に書いたアスに彼女は尋ねる。
「……アス・クローゼス。君の名は?」
「申し遅れたわね。私の名前はエミリア・エビングハウス」
舞台の真似事か泥で汚れたスカートの裾を掴み彼女は殊勝に一礼した。
「にしてもアス。顔は良いくせに変わった人ね」
納屋に備え付けられた蛇口をひねり、病衣の血やシミ汚れを取りながらエミリアは言った。
「……そうかな。このパン固いね」
食べにくそうにアスは咀嚼を繰り返す。このパンは物乞いをするアスを見かねて譲ったエミリアの夜食だった。食べ方が汚い。
「バゲットって言うの。薄くスライスして焼いた表面にバターでも塗ればきっと美味しいわよ」
「バターってなんだ?」
「そういうところが変わってるのよ」
エミリアは子供を相手するように肩をすくめた。
「さっき何故あのおばさんに殴り返さなかった?」
「世の中『やられたらやり返せ』っていかないもんでしょ。第一カメルさんの言うことも満更間違いではないもの」
痛みをどこか懐かしむように腫れた頬をさする。
「アスは上官を殴ったりする人なの?」
「……ないな」
「じゃあそう言うこと」
二人の会話はがぷつりと切れる。蛇口から流れ続ける水音と、民謡を奏でる彼女の口笛が聞こえる。あまり上手ではなかった。
すすぎと絞り作業が一通り終わり、放置されていた竿を引っかけて丁寧に吊るしていく。日のない天日干しだ。アスはこの時間に日頃味わわないのどかさを感じていた。その思いがそうさせたのかもしれない。珍しくアスから口を開く。
「なんでそんなに上機嫌なんだ?」
月光を浴びたエミリアの姿はよく見えた。白い肌に不釣り合いな青い打撲痕、当て布でつぎはぎだらけの白衣。労働環境だけを原因としない暴力がそこにはあった。エミリアは変わらない調子で言う。
「気にしないで、仕事の出来ない私を看護師見習いとして雇ってもらえるだけで満足。つまらないことでくよくよしてられないでしょ……それにしても見てみてよ、あの月」
指された先には霽月があった。雲で霞がかっているが、散りばめられた星々に劣らず一際存在感を放っている。
「今日は一段とこう……綺麗ね。アスはどう思うの?」
アスは道半ばのパウルとの掛け合いをふと思い出す。
「……俺には何がキレイか分からないんだ。人間が月を見上げてて拝んだり、死者を弔ったりする意味が」
「綺麗、イミ……?」
「そう、意味だ」
エミリアは洗濯物から手を放し、近くにあった腰掛け石に座り込む。一度考える為であろう。干されたシーツを挟み、二人の距離は三メートル。俯いたエミリアの目とアスの目が合った気がした。
「アス、あなたは盲目のwanderなのね」
「何が言いたい?」
はためくシーツでエミリアの顔は見えない。彼女は困っているのだろうか、笑っているのだろうか。
「……上手く言えないけど、全てのものには価値がある。でもね、そこに意味があるかは誰にも分からないの。だってみんなワンダラーだもの。その意味で合っているかもしれないし、間違っているかもしれない。もしかしたら意味自体ないかもしれない。それでも何かの先に自分なりの意味を見つけられる。それってきっと人生にとって意味のあることじゃない? ワンダラーとしての救いじゃない? 私の言うことは間違っているかもしれない。けど私はそう思うわ」
どこか自己解釈めいた言葉にアスは深い理解の闇へと落とされた。普段から冷静なアスの瞳に動揺の色が浮かぶ。
「……分からない」
絞りだせたのはその一言。シーツをくぐり、エミリアに助け舟を求めようとした。
その時。
「おーい、アスそこで何してるんだ? 隠れんぼでもしているつもりか?」
十メートル後ろからパウルの声が聞こえる。救援物資と弾薬の準備が済んだのだ。思ったよりも早い。
「アス、呼ばれているよ。行ってあげたら?」
「いや……」
そうこうしている間にさっきの看護師が疲れた顔で近づいてくる。エミリアに用があるのだろう。
「私のことは心配しないで。アスもこんな戦争で死んじゃダメよ。あなたのこと気に入ったわ。また会いましょう」
焦る口調で、だが晴れやかな表情でアスにお別れを告げる。
「おい、アスいつまでそうしているんだ?」
彼女を呼び止めようとしたが、パウルに帰りを急ごうと手を引かれる。
アスは諦めて、パウルと一緒に来た道を引き返し始めた。
後ろから先ほど聞いた金切り声が再度聞こえる。
自分だけ分かってずるいじゃないか。
アスは振り返らずにルヴァン診療所を後にした。
懐中時計は二十三時過ぎを示し、名も知らぬ虫たちの織り成す喧騒と夜風のざわめきを受けながら部隊の待つ場所、ルカトーを目指す。行きとは違い、通信兵二人を伴っていた。一人は麻袋を抱え、もう一人は荷車を引いている。足並みは自然と遅い。
「さっき話していた女の子は誰?」
「エミリアっていう看護師見習いだよ」
「にしても珍しいな。どういう関係?」
アスは基本独りを好み、自分から話しかけることは滅多にない。思春期真っ只中、一つくらい淡い経験をしそうな歳だが、噂話さえ上がらなかった。
そんなアスが女性と二人で話す光景はパウルにとって大スクープ。逃す手はない。
「一人の歩兵と従軍看護師だが?」
「正直になりなよ~、アスちゃん。恋心でも芽生えたんじゃないの?」
パウルは茶化し続ける。足音は軽快でそれでいて楽しげだ。
「いや無いから」
「吐いた方が楽だぜ」
やけに馴れ馴れしいパウルを睨みつける。が、パウルも今回はなかなか引かない。
押し問答を続けること五分。先に折れたのはパウルだった。否定のスタンスを一向に崩さないアスに白旗を上げる。負けた本人は口を尖らせて不満気だ。
「今日は月が良く見えるなぁ、月齢は十四・一くらいかな……そう思わないかアス」
気を紛らわしてか、パウルは首から下げた双眼鏡越しに夜空を見つめる。
「……双眼鏡で見ているからだろ」
「そういうことじゃなくて。ほんと変わり者だな」
思わずパウルは苦笑した。
「……なぁ、パウル」
「ん?」
アスは問う。
「診療所にいたときからずっとお前に言われたことを考えていた。人間の行動と世の中にある物の意味について。でも、エミリアと話しているときもずっと月を見ていたけど、全く分からなかった。何がキレイで何がイミで、何がイミある行動なのか。パウル。本当にお前は少なくとも月について、意味を分かっているのか?」
さっきと同じ目だ。無垢でいてガラス細工のような繊細な瞳。どうもこれに弱いらしい。
パウルはそれを真剣に受け止め一度考える。アスにとって自分にとって腑に落ちる答えは何かと。
「一度しか言わないぞ……」
「ああ」
答えは出た。先を行くアスを呼び止めて、パウルは囁き声の届く範囲に手招きする。無駄なものは何も聞こえない。アスはエミリアとのワンシーンを頭によぎらせていた。
「アス、伏せろ!」
「⁉」
アスは抱きつかれる形で強制的に伏せさせられた。
銃声が響き、背後にいた通信兵の一人が倒れる。前方を見ると男たちが複数名、武器を構えていた。急ぎ荷車で身を隠す。藍色ジャケットに赤い帽子。間違いない、フランス兵である。
部隊でも想定外のケース。軍の調査ではフランス軍の痕跡はなかったはず。目的は何だ。この荷馬車に積まれた物資の略奪? ルヴァン診療所の襲撃? 地面を腹に当てながらアスは事態を整理する。隊を組みつつ、彼らは武器を構え迫ってくる。どうやら交渉の余地はないらしい。
「通信兵! どこかで屈んで待機していろ。相方は戦闘が終わり次第、面倒見てやる。自分の命のことだけ考えろよ。パウル! タイミングを計って俺が突っ込む。援護射撃を頼む」
「了解! 持ちこたえろよ」
通信兵は一目散に近くの茂みに飛び込み、パウルは転がり近くの雑木林に身を潜める。
双方が鉢合わせになった直後、名もなき戦いは静かに始まった。
数は九、シャスポー銃を構えるのが四名、銃剣もしくは軍刀を握るのが五名。お互いどちらから仕掛けるか様子を窺う。敵兵は人数差からか、余裕の表情を見せていた。
完全不利な状況、アス・クローゼスは負ける気がしなかった。
アスは抜いたナイフを片手に手首を二度捻る。合図を受けたパウルのドライゼ銃から弾丸が発射された。間もなく銃撃隊の一人の眉間を打ち抜く。そしてまた一人の足を射る。応戦する形で相手方も射撃を始めるが、弾は当たらなかったようだ。そこから一分ほど銃撃戦が続いた。
アスは横たわる荷車から飛び出して敵陣に迫る。相手は突飛な行動、ましてや小柄な少年兵に一瞬抵抗を覚える。
まずは一匹、敵軍の意識がアスに集中した瞬間。
何かが爆ぜた。発煙手りゅう弾である。荷車から飛び出す前アスが事前に投げ込んだものだ。予想外、死角から生じたそれは相手を混乱に陥れた。無風のため煙は浮遊するクラゲのように立ち込め、広がる。あとはアスの一人劇場だ。疾風迅雷。衣擦れの音、汗の臭いを察知して最短最速で忍び寄っては命を刈り取る。慌てふためく者もいたが、冷静さを失った抵抗など無に等しい。痛みに悶え、人一倍の断末魔の叫び声を上げた後、こと切れる。
腰を抜かし無様に撤退を始める残り二人の標的にアスは狙いを定める。一人の首根っこを早々と捉え息の根を止めようとしたその時。
後方で一発の銃声が鳴った。
八時の方角。パウルがいた辺りではないか? 確認したのは九名のはず。一人が身を潜めていた? 焦燥が思考をかき乱した。アスは逃げ惑う奴らに見切りをつけ俊足を飛ばす。銃口から漏れ出る火薬と、血の臭いを頼りに右一面に広がる雑木林へ足を踏み入れる。どこにいる? 草木をかき分け、手あたり次第に探す。
目当ての人物は直に見つかった。
年を重ねたミズナラの大木に身を預けて荒く息をしている。伸ばした足先には敵兵一人が倒れていた。
「パウル大丈夫か?」
「……」
尋ねた直後に気づいた。右手で押さえる横腹からは暗赤色の血がじっとり流れている。額には玉のような汗が溢れ出ていた。
「内臓がやられている。……ライナスの言うようにもっと護身術会得すべきだったなぁ」
「荷車から薬箱を……診療所から看護師を呼んでくる」
踵を返そうとしたアスの腕を力なく掴み、首を横に振る。アスは膝を立てて傍らに座り込んだ。
「もっと生きられるものだと思っていた。展望台に居座ってさ、持参した望遠鏡でずっと空を眺めるんだ。……テルーナと一緒に見たかったなぁ……」
喋るべきじゃない、そんなことは本人が一番わかっている。アスはただ頷いていた。
「そうだ、アス。俺の答えがまだだったな……」
「……そうだったな」
パウルは吐血を繰り返した後、寝転がる。呼吸を整えてから口を開いた。
「……アス、お前の言う通りかもしれない。俺は多くの時間を注ぎ込んで、勝手に分かった気でいて実は全く月の意味を分かっていないのかもしれない……だがな、きっと何かの意味を「分かる」っていうことは『理解する』ってものより深くって、誤解の空と正解の海に溶け込んでいる。それくらい分かるって曖昧だけど、誰でも持っているもんだと俺は思うよ」
「……いや、全く分からないよ」
頭で言葉を反芻するが、アスには一向に分からなかった。
「……大丈夫、焦らなくていい。お前にもきっとあの光を分かる日が来るさ」
パウルはアスの頬をさする。誰よりも優しい手だった。
「……アス最後の頼みだ……月をよく見せてくれ……」
手を握り、懇願する。アスは無言で承諾し、パウルの頭を自らの膝の上に乗せた。なるべく無理をしないように、傾いた月が捉えられるように。
木々の隙間から差し込むは夜の輝き。
世の中は無情だ。雲に隠れるようにして月は佇んでいた。どんなに美しい月も雲を通してではよく見えず、地上を照らしはしない。だが……
「綺麗だ、きれいだ……」
パウル・ホフマンは涙ながらにそう呟く。
眺望に満足したようにパウルは瞼を下ろし、手は地に伏せた。
「お休み、パウル」
目を再び開かせ、首に下げた双眼鏡とドッグタグを手にしてアスはその場を後にした。
どうか、ずっと月を愛でられますようにと。
※
アスが負傷者含め二人の通信兵とセレーネ部隊の待つルカトーに帰還してからおよそ四か月後、一月二十八日ドイツフランス間の戦争は終わりを迎えた。
ドイツの歴史的圧勝である。その年の五月に終戦協定は結ばれ、ドイツ軍上層部は賠償金と有力地帯を割譲させる等新たな国富を祖国に持ち帰る。この一連の出来事は西欧に瞬く間に轟いた。
軍としての戦績とは裏腹に、ドイツ側の戦死者は一万以上にものぼる。亡くなった者がはっきりしている場合首都から通達が送られる。軍人を抱える大抵の家族はこの知らせ一つが息子・父親の訃報となり得る。だが、通達が中々行き届かない田舎・辺境地においては話が別だ。死者と同僚の軍人が口頭でそれを伝えに行くこともある。
ちんちくりんで無教養な赤毛少年、アス・クローゼスもその任を受けた一兵士だった。
終戦後、騒がしい酒場で部隊長ライナスに言われた言葉を思い出す。
「タグを託されたのはアスだ。御家族への伝達の任務は頼んだ」
「ですが長くお付き合いをされていたのはライナス隊長で……」
「いや、お前が最適だ。……あいつが最後に本気で話せていた人間はアス・クローゼスなんだから」
ライナスはリキュール片手に顔を赤くしながらそう言った。彼の言葉には逆らえない。未経験の特例任務をアスはその場で承諾した。
しかし今となっては適任者かどうか疑わしく感じる。ライナスにつままれて士官学校に入って以来、他の家の敷居を跨ぐのは初めてだった。事前にライナスからは最低限の礼儀を教わっている。だが、経験不足の不安が心に降り積もる。
三年前に開通した鉄道列車に身を任せ一日と十五時間。無人駅に降り立ち、そこから市街地まで馬車で行きまた一泊。朝方出発し山道を歩くこと七時間。
パウルの家がある田舎シュラムベルク地方まで残り数十キロ。寄宿舎を後にしてから丸三日が経とうとしていた。訓練や二十キロを超える荷物を背負い歩き回ることに比べれば幾分マシだが、それでもかなり重労働だ。電報を送るために必要な電柱の敷設がここら一帯では全く進んでいないのも頷ける。
ライナスに渡された軍での思い出の品、パウルが好んだというお酒をザックに詰め込んで地図一枚を頼りにアスは歩き続ける。
あの日から落葉を踏み鳴らし、咲き乱れる花に酔いしれ、梅雨の匂いの終焉を待ち望み、やがて夏になる。黒森を抜けると出会うは青々と葉をつかせる木々とそれを頼りに飛び立つセミの羽音。初穂を揺らし風になびく田園地帯。見るものすべてがアスにとっては異郷に映る。移動疲れを忘れアスは目的地を目指す。
道草を食ったせいもありパウルの家が見えてきたのは日没、十八時を回った頃だった。所有する土地には区分けされた花々が凛と咲き誇り、二階建てで堅牢な家と納屋がブナの木をバックに建っていた。辺りに隣家はなく、ポツンと一軒だけ。
ライナス曰く、パウルはそこそこ名家な次男坊で年下の妻を既に持っているそう。父親に気に入られていたこともあって、結婚と同時に家業を引き継ぐ形で別荘込みのこの地を相続したようだった。パウルの死後、後付けのように聞かされたこの情報は全く知らないものだった。貧民の立場にあったアスに気を遣わせないため伏せていたのかもしれない。
恐る恐る玄関の呼び鈴を鳴らし、反応を待つ。誰も来ない。もう一度押そうか、そう思い手を伸ばしたそのとき、家の中から声が聞こえた。
「あの、どちら様でしょうか?」
「よ、夜遅くに失礼します、パウル夫人。セレーネ部隊でパウル・ホフマン一等兵にお世話になったアス・クローゼスと申します。ほ、本日はお届け物と報告がありお伺いした所存であります」
少しばかり間が空いた後、鍵の外れる乾いた音が聞こえた。
「遠方からどうもありがとうございます。私がパウルの妻、テルーナ・ホフマンです」
扉から姿を現したテルーナは亜麻色の髪を後ろでまとめたそばかす顔。土地の雰囲気に合った控えめな色のワンピースと喋り口調は、家庭的な様子と慎ましやかな印象をアスに与えた。想像した人物と違ったのか、自分より背の低いアスに少し驚く。
「こ、こんばんは」
アスのぎこちない姿を見たテルーナはあら、可愛らしい子ねと呟きお辞儀を返した。
「戦争が終わりましたでしょ。パウルさんは何処にいるのですか? 朗報がありますの」
流石のアスも言葉を詰まらせた。パウルの妻は夫の帰りを信じて健気に待っていたのだ。
どう伝えたら悲しみや痛みは中和されるのだろうか。
「どうかされました?」
黙りこくるアスの顔をそっと窺う。揺れた一房の髪からは夏の穂の匂いがした。考えた挙句、誤解のないように、反復練習をした言葉をアスは伝える。
「……お悔やみ申し上げます。私の同胞、パウル・ホフマンは戦争の最中敵兵から深手を受け九月二十九日の深夜、ルヴァン診療所近くの雑木林で息を引き取りました」
無情な通達に気を失い崩れていくテルーナの身体をアスはすかさず支えた。アプローチの手摺を背もたれにし座らせること数十秒。テルーナは意識を取り戻し手摺の柄を頼りに立ち上がる。まだ顔は青ざめたままだった。
「アスさんありがとう」
「いえ、気にしないでください……ここに入っているのが軍の所有するパウルさんの思い出の品。……あと肌身離さずつけていた双眼鏡とドッグタグです。それでは……」
ライナスから託されたものをザックごとテルーナのもとに置き去りにし立ち去ろうとする。自分の任務は完了したのだ。
だが、テルーナはすかさず腕を掴む。
「……主人の、パウルさんの話をして頂けませんか? 少しだけでも……お願いです」
夫婦とは似てくるものなのだろうか。零れる言葉、熱をもった弱弱しい手。最後の頼みとアスに告げたパウルの姿と重なる。
「……はい。俺でよければ……」
テルーナにそっと手を引かれ、アスは導かれるように家に足を踏み入れた。
通されたのはリビング。丸テーブルには針が刺さった毛玉が二つと編みかけのセーター。サイズから推察するに幼児用だろうか。テルーナはそれらを隅にどけ、アスを向かい合った席に座るよう促した。
「アスさん、紅茶かコーヒーどちらにしますか?」
「……コーヒーで」
コーヒー一杯を抽出するゆとりはテルーナには落ち着きを、アスには空間への肌馴染をもたらす。終始無言の二人をフォローするようにサーバーに落ちる不定期なドリップ音が空白を適度に埋めた。
淹れたてのコーヒーと自分用のティーカップを持ってきた彼女は席につき、アスに手渡す。
「どうかしら?」
「大丈夫です。あ、おいしいです」
微笑みながら、気にしなくていいと目で合図を送る。
「良かったわ。……さっきは本当にごめんなさいね。自分でも覚悟はしていたの。人里離れたこの家にパウルさんでない軍の方が一人会いに来る。……考えられるのは一つしかない」
テルーナは続ける。
「でも期待しちゃうのよ、もしかしたら何か事情があるのかもしれない。きっと彼は生きているんだって、鍵を外すの。……でもそこにいたのは貴方。……必ず帰ってくる、そう言い残されたあの日。私は兵士の妻になったんだと覚悟を決めたの。でも、何度も夢を見たの、夫が遺骨となって帰ってくる夢。女が夫を信じ切れず、生きていることを願うのは兵士の妻として失格なのか。……女が夫の死を名誉と思わず、生きて還ってくることを望むのは悪なのか。兵士の妻のイミって何か今でも分からないの」
誰かに打ち明けたかったことかもしれない。物憂げに語られる言葉をアスは相槌も打たず聞いていた。
「アスさん、貴方にとってパウルさんってどういう人でした?」
唐突な質問に戸惑った。バディーを組んで過ごした四か月を回想する。焦らなくていいのよ、宥めるようにテルーナは呟く。
「……俺にずっと話しかけてくれた人で、中距離射撃が上手くて、ご飯を分けてくれる良い人で。……二人になると月の話しかしないちょっと変な人でした」
一兵士として立派でしたなんて常套句を彼女は望んでいない。パウル・ホフマン一人の人間について求めているのだ。
「ふふ、『月の話しかしないちょっと変な人』か。ホントそうよね! あの人ったらずーっと月のこと考えてたわ。パウルさんから聞いた? 私との初めてのデート。海岸に聳え立つ灯台から月の周期の観測よ。考えられる? 山降りて劇場とか買いものに行くでしょ。普通!」
そこから数分はパウルへの愚痴オンパレードだった。アスはつけ入る隙もなく、テルーナから求められる同意をテンポよく返すことで精一杯になっていた。
満足したのか、紅茶を一すすり。お互いのコップから湯気は知らぬ間に消えていた。
「……でもね。その姿が、ひたむきな姿勢が、あまり見せない満足そうな笑顔が、月に興味を持たせようとする声が、仕草が……大好きだった」
困ったような、それでいて嬉しそうに外を眺めるテルーナの横顔を見て確信する。彼女は心からパウル・ホフマンに惚れているのだと。
何処かから泣き声がする。テルーナは慌ててリビングから飛び出し、赤ん坊を抱えて戻ってきた。顔を赤く染め、泣きわめく姿は産まれたての太陽のようだ。
「さっき言っていた朗報っていうのはこの子が生まれたことなの」
赤ん坊が泣き止み眠ったのを確認すると、テルーナは台所の傍にあったベビーチェアに寝かせる。
「……そういえば聞いてなかったわ。パウルさんは最後になんて言ったの?」
「月を見ながら、『綺麗だ、きれいだ』って言ってました」
「ふふふ、あの人らしいわね」
アスにとってもパウルとお別れの数分間は忘れがたい瞬間だった。今も記憶に鮮明に焼き付いている。
「それから……」
「?」
「『お気に入りの展望台に居座って貴方とずっと持参した望遠鏡で空を眺めていたかった』……確かにそう言ってました」
テルーナが彼を愛するようにパウルも彼女を愛していた。その橋渡しになるようアスは高い自分の声をなるべく低く、そして丁寧に伝える。
彼女は台所の裏に隠れ、人前を忍んで身体を震わせながら蹲った。
「……ほんと、ほんと馬鹿なんだから……」
そんな鼻声の言葉が繰り返し漏れ出ていた。
「あ! 忘れてた」
しばらく時間が経った後、テルーナは跳ね上がるように立ち上がった。泣き腫らした目をしながらアスの元へ駆け寄ってくる。
「アスさん! 一緒に観に行きましょう」
「何をですか?」
ぐいぐい来るテルーナに気押されながらも返事した。
「何って、月を観に行くの。ついて来て」
卓に置かれた遺品の一つ、双眼鏡をひっつかみ二人は急いで二階へと上がる。二階フロアの突き当りには木製のラダーはしごがぶら下っていた。どうやら天井と二階の間に隠し部屋が一つある様子。踏み外さないように慎重に登った。
悲鳴を上げるラダーの最後の段を押し返したあと、アスは部屋を見渡す。そこには隠し部屋とは言い難い一室が広がっていた。本棚に敷き詰められた天体図鑑と専門書、論文の数々。
少し足元が冷えるが、一人が十分に寝泊まりできる室内空間の確保がなされていた。何より目を見張ったのは景色が一望できるようにと大きく縁取られた窓と首を下げた小型天体望遠鏡。
「ここはあの人特製の別室。一番星や月が綺麗に見える場所はやっぱりここだから連れてきたの。天候に詳しい知り合いが言うに今日のこの時間綺麗な月が見えるそうよ。あ、ちょっと待ってね、すぐに準備するから」
そう告げて、テルーナはテキパキと望遠鏡の角度、レンズの調整を行う。
「よくテルーナさんはこの部屋に入られるんですか?」
「勝手に入るとあの人に怒られちゃうけどね。パウルさんが家を留守にしている間、何度も足を運んでは望遠鏡越しに空を観たわ。……どうしてもあの人が見ている世界を、あの人を虜にさせる月の秘密を知りたくて」
作業中の手を止めて、滔々と語りだす。アスはその言葉にどこか覚えを感じた。
「テルーナさんは見えたのですか? パウルが見ていた世界を、その理由を」
アスは固唾を飲んで返答を待つ。
「ハッキリとは分からないわ。でもね、毎日顔を変化させる月を見てるとね、分かる気がするの。パウルさんが言っていた言葉とか、なんで月を愛していたのかってことがね」
再びテルーナは望遠鏡をいじり始める。暫くは無機質な機械音が一室に響く。
「さぁできた! アスさん、カーテンを開けてもいいかな?」
「待って下さい」
「……どうしたの?」
テルーナは引っ掛けていた留め具を外し、カーテンを開こうとしていた手を止めアスを見つめる。
「……俺はパウルが亡くなる前夜、彼に聞いたのです。『月を愛することに意味はあるのか』と。あの日以来、あるときは肉眼で、あるときはこの双眼鏡越しに月を見て考えるのです。でも未だにコップに残る水滴程さえもその意味について分かっていません。……テルーナさん、俺も貴方のように月を、その意味を理解できる日が来るのでしょうか?」
少し驚いた後、テルーナはアスの問いに対して一言だけ述べた。
「焦らないで。きっと分かるときが来ます」
そう言ってローラー付きのカーテンを勢いよく引っ張った。露になったのは遠き山々と澄み切った群青に広がる満天の星。
「アスさん、見て!」
右斜め上には雲隠れする満月があった。それはパウルが最期に見たあの月を思い出させた。
テルーナに催促されるままセットされた望遠鏡から月を覗く。
だが、案の定あのときと同じで雲が邪魔でよく見えない。いくら望遠鏡でもその光を捉えることはない。大きなため息を一つ吐き出し、肩を落とす。
その刹那、一つの言葉が脳裏を駆け抜けた。
『大丈夫、焦らなくていい。お前にもきっとあの光を分かる日が来るさ』
アスは振返って月を眺める。今にも霧が晴れるように雲が蠢き、全貌を拝む。
『一見意味がなさそうでも、自分の世界を取り巻いている以上意味はあるんだよ』
また一つ脳に訴えかける。右手に握った双眼鏡を顔の前に持っていく。それが正解のように感じたのだ。
アス・クローゼスは双眼鏡越しに何千回と見てきた月をじっと見つめる。欠けたり、満ちたりしても変わらないもの、それが月。
閉じていたはずの口が自然と開き、話し慣れないように音を生み出す。
「綺麗だ、きれいだ」
景色から目を離し、隣でそっと佇むテルーナ・ホフマンに話しかける。
「彼の、パウルが言った意味が分かった気がします……」
アスの頬には一筋の涙が流れていた。涙と鼻水で声はしゃがれている。
「……そうなのね」
何処かの誰かが言った。『私たちはワンダラーなのだ』と。
「何故信じるのですか?」
意味が分かるということは理解よりも深く、また真と偽の水平線上にあって。
「私も同じような美しい涙を流したもの」
何人もその上を走ることは許されない。森羅万象の意味を完全に分かるなど禁忌に等しい。
「貴方は月の意味ってあると思う?」
だが、何人もそれを想起し、恋焦がれ、自己解釈をするのは許されているのだ。
「俺はあると思います。その意味はさ、きっと……」
そして人と意見と愛を分かつことでそれは深淵に迫る。それこそが人間と自然の調和を体現し、その者の心と身体に意味を持たせる。
走れない、歩けない、だから浮くので精一杯なのだ。どうにかそれを成しえようとするその者たちのことを、
人は「水平線に浮かぶワンダラー」と呼ぶのだ。