「あー、降ってきちゃった」
頭上の小さなトタン屋根に打ち付ける雨音を聞いて、私はそう呟いた。
スカスカになってしまった冷蔵庫に衝撃を受けてスーパーに駆け込み、暫く暮らせる分の食料を買い込んだまでは良かった。その帰りに可愛いにゃんこの鳴き声に釣られて路地に向かったのが運の尽き。降水確率三十パーセントの雨雲に足止めをくらっている。
あいにく傘は持っていない。大きな袋を抱えて自宅まで突っ走る体力もない。天気予報を信じない罰がとうとう下ったのか。はぁ、と溜息をつき足元の黒い毛玉に目をやる。
ニャーゴ、と大きく口を開けて鳴いたそれは金色の目をまっすぐこちらに向けた。
「もう何も持ってないよ」
ごめんね、と屈みながら付け加えるとふいっと視線を逸らされた。散々ビスケットをくれてやったのに、もう用はないってことか。それでも動かないのはきっと雨のせいだろう。私だって好んで濡れに行こうとは思わない。スマホの天気予報を確認するとあと三十分もすれば止むらしい。
それまでこの路地裏で黒猫と一緒に雨宿り、か。
ふぅ、とまた息をついて背後の壁にもたれ掛かる。止むまで何してよう。
SNSはさっき覗いたし、ゲームもそれほどやる気はない。LINEの通知もない。
仕方なくスマホをポケットにしまい、ビルに挟まれて細長くなった灰色の空を見上げる。そこからはずっと雫が落下してきていて、地上のあちこちにぶつかり音を鳴らしている。
パラパラ。
タンタン。
パタパタ。
そんな単調な音が幾重にも重なって、私の周りを包んでいる。なんとなく不思議な感じがした。あまりにも雨の音が多すぎてほかの音が聞こえない。まるで世界はこの路地裏だけを残して消えてしまったようだった。
……もし、本当にそうだったら。
世界がこの路地裏と私とこの黒猫だけを残して本当に消えていたら。
面白いな、と思う反対で怖さを感じた。それはつまり私はこの路地裏から永遠に出られないという事だから。雨の降るこの寂しい場所でひとりと一匹なんて、耐えられるわけが無い。
ま、普段とそんなに変わらないか。
視線を下に落とす。水たまりに写った自分が見えた。それを眺めていると、ふいに黒猫がのそのそと動き始める。そして私の足の間に座り込んだ。
こいつ、中々にふてぶてしい奴だな。
「そんな媚び売ったって何にも出ないぞ~」
猫は無視して流れ落ちる雨を見つめている。
元々猫がいた方を見ると、コンクリに飛沫が飛んだ跡が見えた。雨の強さはさほど変わらないが風が少し出ていることに気づく。
「お前そんなに濡れるの嫌か」
尋ねるとニャッと小さく鳴く。
それなら仕方ないと、私は猫の残留を許した。
それからしばらく経ち、雨は心做しか弱くなってきた。だが、それでもまだ傘なしでは少しきつい強さで、私はまだ路地裏に閉じこもっている。
パラパラ。
タンタン。
パタパタ。
雨が地を打つ音がやけに心地いい。足元の猫もいつの間にか体勢を崩し、靴に背中を添わせながら寝転がっている。
「気持ちよさそうだね~」
しゃがんで背中をそっと撫でてやると毛玉はゴロゴロと喉を鳴らした。それが何だか面白くて、私は手を動かし続ける。
ふと懐かしい記憶が呼び起こされる。そういえば、昔もこんなことがあった。
その時私は確か小学生で、こことは違う町の路地裏で子猫を見つけたのだ。茶色いトラ柄で緑色の目をした子猫。ダンボールの中に入っていたからきっと捨て猫だった。
家には連れて帰ることが出来なかった。だから、毎日学校帰りにビスケットを持って通っていた。雨の日も。風の日も。魚の形をした小さな焼き菓子を必死に頬張る小さな命に、魅せられてしまったから。
そんな生活が続いて半年ほど経ったある時。ちょうど今時期だっただろうか。猫が突然いなくなった。今日と同じように雨が降っていた。
パラパラ。
タンタン。
パタパタ。
自分の持つ傘から、地面から、空になったダンボールから、雨の粒がはじける音がひたすらに響いていた。心に穴が開いたようで悲しくて、涙があふれて雨と共に流れていった。
子猫を探したとして、悲しい結末に出会ってしまうのが怖かった。きっと誰かが拾っていっただけだろう。そう信じて疑いたくは無かった。それでも戻ってくるんじゃないかと段ボールの前にしゃがみ込んで、その場から動けなかった。
そういえばそこからどうしたんだっけ。
自身の記憶がそこで朧気になっていることに気付く。確かあの後、誰かが。
そこまで思考を進めたところでふと顔を上げた。視界いっぱいに広がっていたのは空に似た青と。
「お嬢さん、そんなところで何を?」
「……誰?」
緑色の目をした謎の男。年は見た感じ五十代くらいだろうか。全身茶色っぽい服とか怪しすぎる。
スマホを取り出し緊急通報画面を開く。
よし、通報だ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私怪しいものでは」
「怪しいかどうかは私が決めます。通報されたくなければどっか行ってください」
「そんな……私はただこれを返そうと」
そう言いながら男は持っている青い傘を差し出した。どこかで見覚えがあるような気がする。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私はこの傘に助けられたのです。そう、あれは忘れもしない雨の日……と言うかあの日々……」
「妄想はそこまでにしておいた方がいいですよ」
「覚えていらっしゃいませんか……」
しゅん、という文字が見えそうな勢いで男が落ち込む。なぜか罪悪感がすごい、私何も悪くないのに。
それにしてもあの傘に見覚えがある。両親の……では無い。一人暮らしだし、まず趣味じゃない。となると私の傘になるが……。
あれ?
傘の柄の部分にシールが貼ってあるのが見えた。うさぎとピンクの花で縁取られたそれは、紛れもない自分の傘に貼ってあった名前シールだ。
「それ、小学校の時の」
思い出した。この青い傘は猫がいなくなったあの日持っていた傘だ。
しゃがみこんで動けないでいる私に茶色いシャツを着た同い年くらいの男の子が話しかけてきて。それで猫がいなくなったことを話したら一緒に家まで帰ってくれて。そして傘がないから濡れて帰ると言う男の子に、渡したんだった。
「……! 思い出して下さりましたか……!」
「でも、私がその傘渡したのって同い年の男の子だったんだけどなぁ……」
「あっ、えっとそれは、その少年は私の息子、でして」
「怪しい」
「ううう……」
またしゅん、と男が落ち込んだ。
なんなんだ本当に。雨宿りなんてしていないで帰ればよかったと深く後悔する。足元にいたはずの黒猫はいつの間にか姿を消していた。くそ、自分だけ逃げたな。
しかし。男に下心があるとして、ここまで食い下がるのは少し不自然な気がする。それにこんな無防備な女を襲おうともしない。そういう手口なのかもしれないが、何より傘が気になる。私が幼い頃使っていた傘なんて誰も知らないのに、どうしてこんなおじさんがそれを持っている?
「……どうして貴方がその傘を持っているのかとか、どうしてその持ち主が私だと知っているのか、疑問は尽きませんがとりあえず話だけは聞きます」
「本当ですか……!」
「でも、少しでも不審な動きをしたら直ぐに通報しますからね」
「えぇ、えぇ、分かっていますとも。貴女は昔からそうだった」
「はい?」
「いえ、なんでもないです。それよりここで立ち話もなんですし、その袋生物が入っていますよね? ご自宅までお送りしますよ」
「話を聞いていませんでしたか?」
「いや、そういう意味ではなく。本当に、ただ純粋に貴女を雨に濡らさず送り届けたいだけです。そろそろ、この路地裏から抜け出したいでしょう?」
言葉に詰まる。図星だった。スマホの天気予報は大ハズレ。雨が少し弱くなったっきりで、一向に止む気配はない。
それに正直寂しかった。本当に、世界に取り残されたような気がして。
「……わかりました。お言葉に甘えさせてもらいます。それでも、自宅の直前まででいいです」
「はい。予てからそのつもりでした。袋も私がお持ちしましょう。では」
男が手を差し出す。取らないのもなんとなく申し訳なかったため、遠慮がちに掴ませてもらった。何かを思い出したような気がするが、知らないふりをする。脇に置いていた袋を男に渡して、同じ傘に入った。
路地から外へと歩き出す。細い道の先がなんだか眩しくて、目を細める。完全に路地を抜けると、元の世界に帰ってきたと酷く安心した。
そして、しばらく歩みを進めたところで男が口を開いた。
「先程もお伝えしたように、私……の息子はこの傘……というか貴女に救われたのです。貴女に濡れたらダメだと言われてこの傘を貰ったのだと、おかげで無事に帰れたと、とても感謝しておりました」
「はぁ……」
「その後、なんとか貴女にお会いしてこの傘を返そうとしました。ですが、中々機会が無く……遅くなってしまい、誠に申し訳ございません」
「いやそんな、私もさっきまで忘れてましたし。私の方こそ荷物まで持ってもらって申し訳ないです」
「いえ。なんてことないですよ。私は恩返しに来たのですから」
そう言って、男はニコリと笑う。その笑顔には見覚えがあった。あのトラ柄の子猫によく似ている。そういえば目の色も。エメラルドに似たきれいな緑色だった。
いや、そんなわけ無い。首を横に振る。もしかしたら私は、自分で思っている何倍も疲れているのではないだろうか。今日は早く寝よう。
「……恩返しって具体的には何をするつもりなんですか」
「何でもです」
「じゃあ百万円くださいって言ったら?」
「……常識の範囲内でお願いします」
はあ、とため息をついてみせる。すると男は慌てて言葉を続けた。
「そ、そんなお金は無理ですが、何か力になれることなら……。そう、例えば悩み相談など」
「悩みですか……」
曲がりなりにも恩返しと銘打つにはあまりにもしょぼいような気がする。というか、この雨の中、不審な男と相合い傘をしているのが今一番の悩みだ。
男の方をチラリと見る。エメラルドの瞳が私の顔に穴を開けるような勢いで見つめていた。この状況から抜け出す方法は一つしかなさそうだ。
「一つだけあります。悩み」
はい、と男が返事をした。まっすぐな声だと思った。本当に下心なんてこれっぽっちも無いのだとも。
パラパラ。
タンタン。
パタパタ。
傘に当たる雨の音が耳に響くのを感じる。息を一つ吸った。
「私、この春から大学に通い始めたんです。憧れていたところに入れて、新生活はきっとうまくいくと思っていました。でも、なかなかうまくいかなくて。勉強は得意だからいいんです。だけど友達は未だにいないし、バイトもミスばっかで」
どうしたらいいんでしょう。
心の底からの悩みだった。こんな真面目な悩みを、こんな数分前に出会ったばかりの人に話してもよかったのだろうか。引かれていないだろうか。
うつむきながら、またチラリと男を見る。表情は硬く、不機嫌そうに見えた。やってしまったと思った。
「ごめんなさい。こんな重い話、初対面なのに」
慌てて謝ると男がこちらを向いた。そして、優しくふわりと笑う。
「何度も言っているでしょう。私は貴女に恩があると。その恩を返しに来たと。そうですね、一つ昔話をしましょうか」
男はそこで言葉を切り、その昔話の時を眺めるように遠くを見つめた。口は緩く弧を描き、まるで自身の記憶を懐かしんでいるようだった。その横顔に自然と目が行く。綺麗な目鼻立ちをしているのに気付いた。
「昔、とある路地裏に子猫が捨てられていました。その子猫が持っていたのはボロボロのダンボール箱一つだけ。誰も来ない暗い路地でひとりぼっち。腹ぺこで、寂しくて、世界に取り残されたような気持ちでした。そんなある日、女の子が現れました。彼女は痩せ細った子猫に驚いて、わざわざ買ってきたビスケットを子猫に与えました」
はっとして、男を見上げる。同時に男もこちらを見てニコリと笑った。
まさか、いやそんなわけ。
「子猫はとても嬉しかった。お腹いっぱいに何かを食べることができたこと。そして何より、少女に見つけてもらえたことが。自分はひとりぼっちじゃ無かったことが分かったのです。少女に優しく撫でられながら、子猫は思いました。〝いつかこの恩を返したい〞と」
「その少女って」
「はい。紛れもない貴女のことです。あんなみすぼらしい猫に、毎日エサを与えてくださった。子猫が拾われた日も心配して泣いてくださった、この世界で誰よりも優しい貴女」
口説かれたような気がするがそれどころでは無い。どうしてあの子猫のことまで知っているのかなんてどうでもよくなるほど、無視できない情報が聞こえた。
「あ、あの子猫本当に拾われていたんですか……!」
「はい。本当です。とても温かな家庭に拾われましたよ。幸せに暮らしています。……きっと」
「そう、だったんですか……よかった……」
嬉しさのあまり思わず歩む足が止まってしまう。自分の手で助けられなかったこと、そして無事だと信じ切ることができなかったこと。あの雨の日に起きたすべてに自信が持てていなかった。それが今報われた。
ただただ、嬉しい。
「だからどうか、自信を持ってください。こんなにも優しい貴女ならきっと、いえ、絶対に大丈夫です。貴女は、助けを求める人に気付いて傘をさしてあげられる人です。それを忘れないでください」
ぱっと目に映るものすべてが一気に明るく見えた。それは次第にぼやけていって、同時に目の周りが熱くなっていくのを感じる。
大丈夫。今一番欲しい言葉だった。
新生活が始まってずっと、不安で自分がしていること全てに自信が無かった。周囲は次第に生活に順応して言っているのに、自分だけが取り残されていた。
世界が、自分だけを残して消えていく。
私はずっと、知らぬ間に雨の路地裏に閉じこもっていたのだ。
この男はそこから連れ出してくれた。まるで子猫の時のようだと思う。あの時は少年が、今回はおじさんが。私に傘を差し出して元の世界に連れ戻した。本当に優しいのは、あなたの方だ。
「ありがとうございます」
「お礼なんてもったいないです。繰り返しになりますが、私は恩を返しに来ただけ。たいそうなことはしていません」
男がそう言ったところで、傘が少しこちらに傾いている事に気付く。見てみると、男の肩の色が少し暗い茶色に変わりつつあった。
「あっ、ダメですよ。肩が」
「……大丈夫ですよ。多少濡れても」
そう言われても心配なものは心配だ。鞄からハンカチを取り出し肩に当てる。すると、男は一瞬驚いた顔をしてフフッと小さく笑った。
「な、何ですか」
「いえ。変わらないなと思いまして。……本当に大きくなられましたね」
「はい?」
「いいえ。何でも無いですよ」
パラパラ。
タンタン。
パタパタ。
弱々しい雨が傘を打つ音が聞こえた。
それからしばらく歩いて、自宅が見えるようになる頃には雨が上がった。男が傘を閉じたところで、ここまでで大丈夫だと告げる。
「本当にありがとうございました。お礼がしたいのですが、今手持ちが」
「そんなお構いなく。私は貴女の手助けができただけで満足です。それではこれ、お返しします」
男から買い物袋と傘が手渡される。傘の柄の部分に触れると男のぬくもりが伝わってきた。よくよく見てみると、全く古びていない事に気が付く。それだけ大切にしてくれたんだろうかと自然と笑みがこぼれた。
「それでは私はこれで」
男が会釈をして背を向けた。私も軽く頭を下げ、自宅の方角へ身体を向ける。
……やっぱりお茶でもごちそうしよう。
そう思いつき、男の方を振り返る。しかし、そこに男の姿は無かった。
代わりにいたのは。
「ニャーオ」
茶色いトラ柄の、緑色の瞳の猫。あの頃と違うのはその大きさだろうか。
そういうことだったのか、と全てを理解する。そりゃ私のことも子猫のことも知ってるし、傘も持っているはずだ。
「大きくなったね」
私がそう言うと、猫はシッポを二、三度振って見せどこかへと走り去っていった。
「ねえ、そんなところで何してるの」
「……誰、キミ」
「ちょ、防犯ブザーしまってよ! こんなとこにいたら風邪ひいちゃうよ」
「子猫がいなくなったの。……無事、かなぁ……」
「大丈夫。ボク猫がどうなったか知ってるよ。拾われたんだ」
「本当?」
「本当だよ。だからほら、安心して。家まで送っていってあげるから」
「ねえ。キミはどうするの?」
「どうするって?」
「雨だよ? 傘ないと風邪引いちゃう」
「大丈夫、ボク濡れたって平気だよ!」
「ダメ! 私の傘貸してあげるから!」
「……ありがとう。絶対返しに来るから。待っててね」
「うん。待ってるよ」