こんこん、とノックの音が響く。深夜二時ごろ、用を足すために起き出してきた時のことだ。
こんな時間に玄関ドアをノックするだなんて、誰だろうか。気味が悪い。私は非常識な来訪者を無視することにした。
こんこん。またもノックの音が響く。
いい加減にしてほしい。こっちは早く用を足したいのだ。
「開けてください」
ドアの向こうから声が聞こえた。機械で無理やりに変えられたような、高い声だった。
なんだあの声は。自然に喉から出ているのか。それともドアの前でわざわざボイスチェンジャーでも使っているのだろうか。
不審に思っていると、リビングに設置されているインターホンがピンポンと鳴り、続いてインターホンからあの声が聞こえた。
「開けてください」
「え?」
思わず声に出てしまった。事の異常さに気づいたからだ。
うちのインターホンはこちらから操作しない限り相手の声が聞こえることはない。そして家には私しかおらず、誰もインターホンを操作などしないはずである。なのにあの耳障りな声が、インターホンから確かに聞こえたのだ。
考えてみれば最初からおかしかった。なぜ気づかなかったのだろう。頭が回っていなかったのか。
深夜二時に訪ねてきてノック。異様に高い不気味な声。そして勝手に外の音声を流し始めるインターホン。
理解した瞬間冷や汗がどっと吹き出し、鳥肌が立った。その場に立ち尽くしてしまう。
こんこん。こんこん。こんこん。
ノックの音が連続して鳴る。
「開けてください」
ドアから声が聞こえる。
「開けてください」
インターホンから声が聞こえる。
そして、ドアの向こうから、インターホンから、同時に声が響く。
「開けてください、サクラさん」
サクラ。サクラは、私の名前だ。
「あああああああ!」
半狂乱になって寝室へ向かう。
なんで、なんで私の名前を知っているんだ。あいつは一体何なんだ。なんで私なんだ。頭の中で疑問が次々と浮かび、膨らんでゆく。
こけそうになりながらも寝室に着いた。
トイレなんてもうどうでもいい。
私は布団に潜り、息をひそめる。
かすかにあの声が聞こえた。
まだいるのだ、玄関前に。まだ私を呼んで、開けるよう要求しているのだ。
「どっか行け、どっか行け、どっか行け、どっか行け……」
私は小さく呟き続けた。
すると、あれの発していた声が、突如として止んだ。
本当にどこかへ行ったのか。
呟くのをやめ、耳を澄ます。
バン!
大きな音がすぐ近くで鳴った。
そして、あの耳障りな、異様なほど高い声が続く。
「開けてください、サクラさん」
小さな悲鳴が自分の口から飛び出るのを感じた。あまりにも近い。さっきよりも声がはっきりと明瞭に聞こえた。
おそらくあれは、寝室の窓の外、ベランダにいる。
私がここにいるのに気づいたのだ。
バン! バン! バン! バン! バン!
何かを──おそらくは窓を──叩く音が連続して鳴る。
「サクラさん、お願いです。サクラさん、サクラさん、サクラさん。開けてください」
声を押し殺して耐える。
「サクラさん」
うるさい。私の名前を呼ぶな。
「開けてください」
嫌だ。しゃべるな。
「時間がないんです」
知らない。そんなこと知らない。知ったこっちゃない。
「黙れ!」
私は震える口を動かし、布団の中で叫んだ。
「ああ、あい、もえ……う……」
あれが訳の分からないことを呟き、そして何も聞こえなくなる。
静寂。
しばらく経っても何も起こらない。
消えたのか?
諦めたのか?
私は少しだけ安堵し、目を瞑って落ち着こうと試みる。
心拍数が下がっていくのを感じる。
途端に、私は布団から出たくなった。
全身にかいた汗や張り付いたパジャマ、縮こまった窮屈な姿勢。冷静になればなるほど、それらすべての不快さが際立った。
もしかしたら、未だにあいつはベランダにいるのかもしれない。私が布団から出てくるのを虎視眈々と狙っているのかもしれない。
だが私の不快から逃れたいという気持ちは、次第に、あれがまだベランダにいるかもしれないという疑いより大きくなっていった。
出たい。
欲求が頭を埋め尽くす。埋め尽くして、行動に移させた。
私は布団を内側からめくりあげ、窓の方を向く。あいつは──
心臓が跳ね上がった。血の気が引いてゆく。
人間のような何かが、手形の大量に付いた窓にべったりと張り付いていた。異常なほどの長身。不自然なほど大きな顔。白いドロドロとしたものに覆われた身体。シャツとジーンズが辛うじて見えた。
あれは、あの化け物は待っていたのだ。私が耐え切れなくなって出てくるのを、待っていたのだ。
「開けてください」
化け物が声を放つ。
次いで、手を後ろに引いて何度も窓に叩きつけた。
バン! バン! バン! バン! バン!
窓が揺れ、白い手形が重ねられる。
上がりきった口角をさらに、口が裂けるほどまでに上げた化け物が私の名前を呼んだ。
「サクラさん、サクラさん、サクラさん、サクラさん、サクラさん」
ああ、誰か助けて。
動く気力もなくなり、ただぼうっと化け物を見る。
化け物はなおも私の名を呼び続け、窓を叩いていた。しかし、心なしか勢いが弱まったように思える。また、時々悶えるように身体を捩らせていた。
化け物の行動の変化を見ているうち、私は限界を迎えた。意識が遠のいてゆく。
「も、れう……も…う……も……」
薄れゆく意識の中、化け物が恨めしそうな顔で呟いているのが見えた。
朝、起床時刻を告げる目覚ましがけたたましく鳴る。
私は目覚ましを止め、そこで昨夜のことを思い出した。咄嗟に窓の方を見る。
窓には、向こうが不鮮明になるほど夥しい数の白い手形が付いていた。だが、あの化け物はいない。
私は立ち上がって窓に近づいた。手形でいっぱいとなった窓が視界に広がる。
窓の向こうに何かが落ちていた。
身構えたが、明らかにあの化け物ではない。
私は恐る恐る窓を開け、落ちている何かを見た。
「これは……」
そこにあったのは、脱ぎ捨てられたズボン、同じく脱ぎ捨てられたパンツ、そしてパンツの中にぶちまけられた、茶色くて、異臭を放つ──
「時間がないってこういうことだったのか……」
私はその場にへたり込み、上司に休みの連絡を入れた。