玄関のドアを開けた。埃っぽい匂いが澄んだ空気に押されて、僕の背後に流れていく。リビングに入って荷物を下ろした。深夜の三時を回ったばかりだった。朝が待ち遠しい。この家の夜の空気はひんやりと心地よくて、どうしたって好きにはなれなかった。僕はソファに座って、温くなったビールをビニール袋から取り出した。庭の雑草は伸びて、汚れた踏み石や萎れた花の上にしなだれかかっている。人が住まなくなるだけで、これほどまでに早く家が死んでしまうとは思っていなかった。家具や公共料金や雰囲気は居座り続けて、人間だけがこの広い家から去って行った。まだ一ヶ月しか経っていない。僕は溜息をついた。否応なく出てしまう種類の溜息だった。僕はあいつが使っていたグラスでビールを飲んで、あいつが座っていたソファに腰を下ろして、あいつのことを考えていた。やりきれない気持ちは何処にだって付き纏ったけれど、この場所が一番強くそういった気持ちを呼び起こしていた。壁に掛かった世界地図も、壊れかけのテレビも、何もかもが嫌だった。思い出さざるを得ないものを脇に置いて、僕はあいつの良い面ばかりに目を向けているような気がする。これでは駄目だ、と思った。
夜風が開け放った窓から音も無く入り込んでくる。僕は縁側に続くガラス戸を閉めた。縁側には今でもあいつが座っている気配がする。気配だけがそこに居る。僕は舌打ちをした。
取り敢えず、家中を見て回ることにした。風呂、トイレを見て、次に二階。二階にはあいつの部屋と僕の部屋がある。僕の部屋のドアは少しだけ色褪せてはいたが、昔のままだった。流石に入る勇気は起きなくて、不格好にあいつの部屋へ向かった。
あいつは僕を部屋に入れたがらなかったから、この部屋の記憶はほとんどない。覚えているのは、あいつが書きかけた小説と、それに関するちょっとした事件のことだけ。もう忘れてしまった臭いを探してベッドに鼻を付けてみたが、もう遅いらしかった。本当に気配だけを残して、あいつは死んでしまったんだ。冷えたシーツが頬に当たって気持ちがいい。僕は目を閉じた。
僕のことを何よりも大事に思ってくれた人はもういない。何も話さないままに死んでしまって本当に良かったの、という問いかけに答える人はもういない。あいつは死んだ、圧倒的に。一瞬でこの世を去った。心臓発作だった。僕が連絡を受けた時には、あいつはもう息は無かったそうだ。僕は受話器を置いて、老木のように干からびたあいつを想像した。
二十年間会っていなかった。たった二十年でずいぶん老けた。だけど、棺の中で眠っている顔は、昔のままだった。とても静かで優しい顔だった。愛する人がいなくたってそういう顔が出来るんじゃないか、と僕は笑った。僕がいなくて淋しかっただろ。僕がお前の全てだったはずだろう。僕が絞め殺すべきだった。僕の手の中であいつは、仕方ないよな、という風に目を瞑るんだ。そして僕は、こいつは思ったよりもいい人間だったんだ、と思うに違いない。仕方がない。こういう風に育てたのだってお前なんだから。僕はお前が嫌いなんだ。お前が、興奮して、涎を垂らして、静かにしろよと怒鳴って、荒々しく、醜く、僕をゴミ同然に扱うような奴だったら、何も感じないでいられたのかもしれない。お前が、イギリスの高貴なR-15映画に出てくる低俗な毛むくじゃらの男であって欲しかった。アッパー系の薬を拾うために、汚い便器に頭から突っ込むような奴であればどれだけ良かっただろうか。僕が嫌そうな態度をとったからって、止めてしまうような正しい人間であってはならないんだ。
どっちなのだろう、と僕は思った。結局、僕は正しいのだろうか、正しくはないのだろうか。何も考えずにずっと過ごすのが悪で、果敢に前に進み続けるのが善なのだろうか。僕は前に進めているのだろうか、その場に居残り続けているのだろうか。僕はどんな人間であって、どんな人間でないのだろうか。僕は境界線の上に立っていた。片方の足は望まない所に、もう片方は僕があるべき場所に置いてあった。僕はこの場所にも、もう慣れてしまっていた。どちらでもいいよ、と皆がそう言っているような気がしていた。
床の軋む音で我に返った。具体的な何かを思わせるようなしっかりとした音だった。僕はゾッとした。音の元は、間違いなく僕の部屋だった。背筋に冷たい汗が流れる。あいつがそこにいる気がした。僕は胸の高鳴りを抑え込んだ。あくまで冷静に、様子を見に行こうと思った。多分そこには誰もいないはずだ。ただ、確かめに行くだけだ。
僕は廊下に戻った。また僕の部屋からぎしり、と音がする。僕は廊下の中程で足を止めた。ドアを開ける音、あいつの足音、ベッドに入り込んでくる音。何か聞こえないかと思って耳を澄ますが、何も聞こえない。少しがっかりした自分に、僕は腹が立った。僕はやっぱり、あいつの良い面ばかりに目を向けている気がする。僕は部屋の前に立った。中には中学生の頃の僕がいる、あいつがいる、誰かがいる、誰もいない。僕は月の薄明りの中でゆっくりとドアノブに手を掛けた。空気を吸い込む。期待と不安が交互に顔を出した。あの頃の色鮮やかな感情が蘇ってくれるような気がしていたし、こんな些細なことでこのドアを開けてしまって良いのだろうか、とも考えた。
僕は手に力を込めた。カチャ、と小さな音がする。部屋の中は真っ暗だった。何も見えない。だけど、ベッドの方から誰かの微かな寝息が聞こえた。僕は目を凝らした。誰もいないはずの家に人がいて、恐らく寝ている。その事実はどう考えたって危険だし、正常なことではない。それでも、何故だか恐怖は無かった。入り口に立ち尽くす僕とベッドに歩み寄る僕。感情は二分され、感覚がなくなっていった。僕はその場に留まったまま、ベッドに向かう僕の後姿を見ていた。僕は布団に手を掛けていた。目が暗闇に慣れてきて、小さく上下する膨らみを鮮明に捉えることが出来た。僕は目を凝らした。僕はその布団を剥がして、どうするつもりなのだろうか。あいつと同じような汚らわしくて神聖な、言わば普通ではない僕になってしまっているのだろうか。僕はゆっくりと布団を剥がしていった。桃の皮を剥くように静かに力強く剥がした。
少女が寝ていた。恐らく高校生くらいの女の子が、猫のように体を丸めて眠っていた。睫毛が長く伸びて、唇は咲きかけの蕾のように軽く開いて、長くて黒い髪がエロティックに顔に降っている。彼女は下着しかつけていなかった。レースなんかは付いてないシンプルな水色の小さな下着が、未だ成長し切っていない胸と局部を覆っている。白い手足には、シミや産毛は全く見えなかった。周囲を見回して、彼女の服を探したが、何処にもなかった。茶色のスクールバッグは部屋の隅にキチンと置かれていた。僕は茫然と立ち尽くした。僕は美しい女の子に見とれてしまっている事実に安堵すると同時に、どうすれば良いのか分からなくなった。この少女がどういう経緯でこの部屋に存在しているのか分からなかった。僕は多分この子が生まれる前に家を出た。ひょっとしたら、ここはもう彼女のための部屋であって、僕のための場所ではないのかもしれない。僕は混乱していた。当然のように自分とあいつのためだけにあった場所に、見知らぬ人間がいる。その子は性交渉の前のように、何かを待ちわびているかのように眠っている。僕は怒鳴りたくなって、泣きたくなって、悲しくなった。結局何もせずに、布団を元の位置に戻してあげた。部屋を出る前に、机の上に置いてあるコンドームが目に入った。箱から出されて、三つだけ残ったコンドーム。そういうことだ、とあいつが僕に言っている。くそ、と小さく呟いて、部屋を後にした。あの子が僕の理解者であると同時に、大いなる敵であるように感じた。呆気なく終わるはずの結末など無く、まだ僕の手元には何も無かった。
*
五月十七日〔金〕
今日の学校は最悪だった。みんな同じような話をしていてつまらなかった。暫くの間、ホントの意味で笑ってない気がする。今日は我慢できなくて、久しぶりにおじさんの家に来た。合い鍵が変わっていたらどうしようかと思ったけど、すんなりと家に入ることが出来て安心した。埃っぽかったけど、掃除もせずに二階へ上がった。おじさんがいたら掃除してあげるけど、もう誰もいない。この部屋へ来ると安心する。おじさんが帰って来てくれる気がして、取り敢えず服を脱いだ。とても悲しい気持ちになった。もう一カ月も経つのに、私はおじさんのことが今でも好きみたい。
*
僕は眠っていた。自室のベッドで眠っていた。今は少女のものになったであろうあのベッドだ。僕は夢を見ている。そのことは分かっていた。僕は別の場所で寝たはずだ。だけど、いつもこの場所に戻って、この場所で眠っていた。部屋のドアが、小さな音を立てて開く。廊下の灯りがスッと部屋を横切る。今夜もまた、僕の部屋にあいつが来る。あいつはゆっくりと、弄ぶようにこちらに歩み寄った。とても静かな夜。月が窓から見える。僕はあいつの方を見ないようにしていた。僕がどんな顔であいつを見るのか、誰にも知られないように。
あいつが布団を持ち上げて、僕の横に滑り込む。息が首の後ろにかかる。僕は息を吐いた。熱くて、エロくて、酷く気味の悪い吐息。僕は何をしているんだ。僕は思う。こんなことは正しくない。こんなことは間違えているはずだ。だけど、僕の体は熱くなるばかりで誰も僕とあいつを止めてはくれない。服の中にあいつの手が入ってくる。僕の腹をじっくりと愛撫する。感じてはいけない。感じてはいけない。僕はせり上がる声を押し殺して、眼を瞑った。あぁ、もうこんなにも僕は間違えている。僕は生きている。僕は間違えていない。間違えていない。死んでしまいたい。こいつのせいで、僕は台無しだ。僕はちゃんとした道を歩きたかっただけなのに。僕はこんなことで悩んでいなくちゃいけないのは、どう考えたってこいつのせいなのに。あいつの手が段々と下に……
僕はちゃんと帰って来たじゃないか。決着をつけるために帰って来たのに。お前は、僕を許してくれないのか。寂しい思いをさせてごめんなさい。出て行ってごめんなさい。嫌じゃなかったんだ。怖かっただけなんだ。そんなに悲しい顔をしないで。僕は何もわかっていなかった。僕はずっと迷っていたんだ。僕を、僕だけを、僕だけのために……
酷い寝覚めだった。縁側で眠ったせいで節々が痛んだ。涙の通り道が風にさらされて冷たく跡を残していた。気分が悪い。僕は立ち上がって、トイレへ向かった。玄関を通る時に、二階から物音がした。昨日と同じような、天井が軋む音だった。僕はジッと次の音を待ったが、それっきり何の音もしなくなったので、静かにトイレに入った。
僕は便座のフレームに手を突いた。胃が重しを押し上げるように大きく動いて、唇をこじ開けて吐瀉物が口から流れ出て行った。少し空気が混じってしまうせいで、ゲロとゲップが交互に出た。排水溝の近くにそれが当たって、ビチ、ビチャ、というような決して上品とは言えない音を響かせている。僕はただ一日をかけて取り込んだものを、そのまま吐き出しているだけだった。水に流すのが惜しい気がして、目の前の汚い僕の姿を眺める時間は日に日に増えていった。何も口にしなければ、卵白のように透明な液体だけになったから、なるべく何も食べないように心掛けていたのに、昨日はどうしようもなくお腹が空いて遅めの夕食を取ってしまった。飲み屋で色々摘まみながら呑んだせいで、どれくらい出て行くのか分からない。オレンジと茶と黒が賢しく混じり合って、ドロドロに溶け合っている。口の中は胃液の酸味で一杯だった。
一ヶ月続く嘔吐も、手の甲に食い込む腕時計のリュウズも、今はどうでもいいことだった。あの少女は誰なんだろう、と思った。この家の鍵を持っているのは僕だけのはずだ。寝る前にあれこれと考えたけど、良い予想は出来なかった。あの少女はあいつと寝たのか。揺れる柳のような魅力的な体で、あいつに抱かれて少女は喘ぎ声を上げたのか。手に力が籠る。リュウズが更に食い込んできた。僕は何だってこんな気持ちにならないといけないんだ。
また、胃が大きく動く。苦しくて涙が出てきた。涎が口蓋を蔦って零れ落ちた。喉の奥から犬のような呻き声が出た。涙が涎に混じって、便座に落ちる。僕は僕を汚いままにした。その方が正しい気がした。他の誰かが僕と同じ境遇になった時、恐らくはこうするだろうという自分を演じているだけだと思った。僕はグチャグチャに泣いた。蜃気楼を追い続けるように悲しんでみせた。その内、僕は自分が演技をしているのか、本心で悲しんでいるのか分からなくなった。ひょっとすると、僕は何でもないことを大げさに捉えているだけなのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか?」
突然、背後から声を掛けられた。僕が驚いて振り返ると、トイレの入り口から、昨日の少女が心配そうにこちらを覗いていた。昨日とは違い、学校の制服を着ている。扉を開ける音はしなかったから、どうやら閉め忘れたらしい。
「水とか持ってきた方がいいですか?」
少女の眼は、便座に溜まる吐瀉物を見ていた。僕はその視界を遮って、便座の水を流した。当然のように声を掛けて来る彼女に苛立つと同時に、彼女には自分の弱い姿を見られたくないと思った。僕は彼女に何処か負けたような、見下されているような気がしていた。
「君は、どちら様?」
僕は出来るだけ平静を装い、涎や涙をワイシャツの裾で拭った。彼女はそんな僕を不思議そうに眺めていたが、暫くすると焦ったように顔を赤らめた。自分が他人の家に無断で上がり込んでいて、それを家主に見られたことを、たった今気付いた様子だった。
「おじさんに鍵を貰ってて、いつでも来ていいって言われてたから……」
「おじさんって、ここの家主のこと?」
僕が死んだ父の名前を言うと、彼女は子犬のようにしおらしく頷いた。
「それ、僕の父なんだ。もう死んだけど」
僕がそういうと彼女は顔を曇らせて、訝しげに僕の顔をジッと見た。表情や纏う雰囲気がコロコロ変わる。眠っている時は妖艶で、噎せ返るほどの女の匂いがする。さっきは純朴な少女。今は厳しく僕を律する大人の表情だった。
「あまり似てないですね」
悲しくないんですか、と彼女は言った。僕はそれには答えず、黙ってリビングへ向かった。彼女は道を空けて、これまた黙って付いて来た。僕が悲しんでいないように見えるのか、と背中で語ろうと思ったが、上手く出来なかった。僕はソファに座り、彼女はテーブルの近くの椅子に腰かけた。
僕たち二人の間には妙な空気が流れている。互いが互いの何かを知っていて、それを何もないようにやり過ごすような、そんな二人だけの空間。僕は認めたくはなかったけど、彼女のことを知っていた。僕たちは探り合うようにじっくりと視線を交わした。君は僕のことを何も知らない。でも、僕は君のことを知っている。そんな感じに、僕たちは暫くの間見つめ合った。僕と君だけには分かるだろう。あいつがどんな奴で、あいつがどんな風に愛するのか。
「無断で入ってきてしまってすいませんでした。これからはあなたがここに住むんですか?」
彼女が最初に口火を切って、ポケットに手を入れた。多分、この家の鍵がその手に握られているのだろう。それを僕に返すつもりなのか、鍵だけはずっと大事に持っておくつもりなのか、僕には分からなかった。どっちみち、僕はそんなものを受取るつもりはなかった。愛の結晶か何か知らないが、それは僕には関係ない。
「僕はこんなところには住まない。今日と明日で簡単に掃除したらすぐ帰る。多分その内売りに出すけど、それまでは好きに使っていいよ。あいつの数少ないお友達だろうから」
『お友達』という言葉に、彼女が反応した。僕は昨日見たコンドームを思い出した。あぁやっぱり、と言う顔をしてやると、彼女は分かり易く狼狽した。今度は上手くいったようだ。
「父とはどんな関係だったの?」
僕が尋ねると、彼女の顔がまた赤くなった。質問の仕方が気に食わなかったのか、眉間に皺が寄る。
「友達です。いけないんですか? 私の話をちゃんと聞いてくれるし、子供扱いしないし、おじさんといると楽しかったんです。おじさんだってきっと……」
「別に君とあいつが何をしてたかなんて興味ない。便宜上訊いてあげてるだけだから。そんなにムキになるなよ」
僕は彼女の言葉を遮った。本当に興味がない。僕には関係ないことなんだろ。
「だけど、それが良くないことだとは思わなかったの? 君、今いくつだ?」
「……十四」
彼女は短く答えた。まだ中学生だ。完全に狂ってる。
「馬鹿な子どもだ」
僕はこの哀れな女の子を怒らせてやりたかった。きっとこの子が悪かったわけではない。あいつがどこかから引っ掛けて来たに決まっている。そういうことに決めてしまって、僕は精一杯彼女を憐れんだ。怒れ、と思った。家を出る前に、僕が自分自身にしたように思いっきり怒ってしまえ。僕は間違ってなんていなかった。あいつから受ける愛情は、あの時の僕が考えた通りに途轍もなく汚らわしいものだった。君にだってそういう考えが心のどこかにあるはずだ。怒ってしまえ。そして、今の僕がそうしているように黙ってちゃんとした人間のふりをするんだ。僕は間違えていない。
彼女は僕を睨みつけた。
「子ども扱いしないでください。私は私なりにちゃんと考えてるし、あなたなんかに説教されたくないです」
あなたなんかに? あいつはこの子に僕の話をしたのか? この子はどこまで知っている? 僕は怖くなった。
「おじさん、寂しがってました。息子と長い間会ってないって。元気にしてるか気になるって。どうして帰ってきてあげなかったんですか?」
「君には関係ないだろ」
「関係あります。おじさんと友達だったし、亡くなる前日も会ってました。私があなたの代わりに娘になってたんです」
僕の代わり? この子が僕の代わり? ふざけるな。
「普通の人間は、子どもとセックスなんてしないだろ」
僕が発した声は思ったより荒々しいものだった。彼女は身を固くして黙り込んだ。彼女のその表情から、否応なく二人が肌を重ねる画角が浮ぶ。僕の頭の中は、それで一杯になった。嫉妬にも似た感情か、あるいはそれ自体。
「君は自分の父親とヤるのか? 僕の代わり? 冗談じゃない。誰が自分から進んで好きな人から離れるんだ。あいつにとって、僕はたった一人の大切な人間だろ。そうじゃなきゃいけない。そうじゃなきゃあんなこと……」
僕は言葉に詰まった。何も言うことが出来なかった。口に出すとどうしても考えてしまう。いつものあの夜、綺麗な月の夜。僕とあいつが果てる夜。僕は自分がとてつもなく格好の悪い人間になっていることに気が付いた。だけど、口から出した言葉を戻すことは出来ない。僕は久しぶりに本当の言葉を口にした。僕は彼女の言葉を待った。
だけど、彼女は何も言わず立ち上がった。僕はそんな彼女の強さに驚いた。僕が家を出たのは十五歳だった。あの頃の僕は、目の前の彼女から見たらかなり子どもなのかもしれない。僕が本を読んだり映画を観たりして培った感覚を、彼女は歳の離れた男との恋自体で得ることが出来たのかもしれない。落ち着きと冷静さと諦め。好きになったんだから仕方ない、と彼女は思ったのだろう。僕はそう思えなかった自分が、とても愚かな人間に思えた。
彼女はツンとした表情をそのままに、リビングを後にした。玄関が閉まる音がする。僕は必死に彼女を追いかけて、もっとたくさん話すべきだと思った。だけど、僕はそこまで悪い人間にはなれなかった。
僕は彼女が去った後、僕は一日かけて家を掃除した。窓を開け放って、曇りは全部拭き取って、汚れは全部洗剤で落とした。リビング、トイレ、風呂、あいつの部屋、最後に彼女の部屋。コンドームは持って帰ったくせに、彼女は髪ゴムを忘れていた。僕はそれをどうしようか悩んだけど、結局ベッドの上に戻しておいた。
沢山のことを考えることが出来た。僕は彼女に対して酷いことを言ってしまったのかもしれない。彼女に対する僕の対応は、ただの嫉妬であって教示ではでは無かった。彼女が考えるべき何かを僕が考えてきた何かにすり替えて、僕が深く考え込んだ二十年間という長い距離の先から、遠くの彼女に向かってひたすらに罵倒をしていただけだった。酷い大人じゃないか、と僕は思った。僕は自分が嫌った無関心な人間にならないようにして、その実、もっと醜い人間に成り下がっていた。どちらでもいいよ、と言ってあげられる大人にすらなれてはいなかったのだ。
掃除が終わる頃には日が暮れて、時計の針は午後十時を指していた。僕はクタクタの心を引きずって、近所のコンビニでカップ麺と朝食用にサンドイッチを買った。味の濃い人工的な味を感じながら、あいつの料理の味を思い出した。
*
五月十八日〔土〕
朝起きたら、男の人がトイレで泣いていた。この家に人が来るなんて考えても無かったから、とても驚いた。声を掛けるか悩んだけど、本当に辛そうにしていたから、つい話しかけてしまった。おじさんの息子さんだった。彼が泣いて、吐いている姿を見て、何だか自分を見ているような気になったけど、気のせいだった。少なくとも私とは全然違う。悩みなんて何にも持たないで、とても強かった。あんなに繊細なお父さんがいたのに、どやったらあんな人になれるのかわからない。あの人はおじさんのことを話す時に、とても嫌そうな顔をするし、お母さんみたいに馬鹿なことで怒ってる。私がおじさんと色んなことをしていたのに気付いてるみたいで、そのことでねちっこく私を叱ってきた。ホントに最悪。だけど、夜にコンビニの前で見かけたあの人は、辛そうでかわいそうだった。きっと何か事情があったんだって思うことにした。明日、もう一度あの家に行ってみよう。掃除を手伝いたいし、あの人と話してみたい。たぶん私なんかよりも沢山おじさんのことを知ってるだろうし、何よりも、あんなに強くて悲しい眼の人が悪い人じゃないと思うし。
*
嘔吐はいつも通りやってきて、いつも通り水に流した。麺と汚れた胃液と僕の涙。そっくりそのまま吐き出した。昨日は酒を飲まなかったから、喉はあまり痛くない。
僕はサンドイッチを食べながら、ぼんやりと庭を眺めた。あいつがいつ園芸に目覚めたのかは知らないが、名前も知らない植物が隅の方に所狭しと並んでいた。僕はそんなかわいそうな植物たちを見て、やっぱり何かを持ち帰るべきだと思った。僕が知らないあいつ、もしくは僕が知っているあいつの何かをちゃんと持って帰るのが、僕が出来る最良の選択のように思えた。
あいつに関するものは、この家には溢れる程ある。だけど、ひしめき合う物質の中で、僕が持ち帰ることができるのはただ一つだけの何かだと思った。欲張らずに一つだけ。僕があいつのために、あいつのせいで持って行かなくちゃいけない、ただ一つの何か。
世界地図はどうだろうか。僕が興味本位で聞いた国の首都を、必ずと言っていいほど空で教えてくれた。ノルウェー。オスロ、国の人口の半分がオスロに集まってるんだ。アルゼンチン。ブエノスアイレス、街並みがとても綺麗。タジキスタンは。ドゥシャンベ、『月曜日』って意味だ。
僕はあいつに憧れて、世界地図をよく見るようになった。学校で世界地図をもらったら、すぐにそれをリビングに飾った。ずっとその時のまま残ってる。
写真にしようか。休日はほとんど家の中で過したから、アルバムにするほどいっぱい写真はない。だけど、一枚だけ覚えているのがある。僕の中学の入学式の写真だ。撮ってやるから、そこに立ってろ、とあいつは言った。『入学式』って書いてある看板の前には長蛇の列ができていたから、あいつは校庭をバックに僕を撮った。背後にあるだだっ広い校庭の前で、僕はピースも何もしないで突っ立っていた。何故だかあいつは満足そうで、僕も嬉しくなった。
あの写真は今どこにあるのだろう。リビングを掃除している時も、あいつの部屋でも見かけなかった。今からちゃんと探すか悩んだけれど、面倒になってやめた。思い出せる記憶だったけど、色褪せてしまっても良いもののように思えたからだ。
僕は考えた挙句、もう一度あいつの部屋に入った。あいつが書いた小説をもう一度読みたかった。僕が中学生の時、勝手にあいつの部屋に入って、書きかけの小説を見つけて読んだ。題名は、僕の名前だった。宝箱を開けるようなドキドキと期待を膨らませて読んだけど、書かれていたのは僕とは似ても似つかない誰かのお話だった。就職前の息子から誕生日を祝ってもらう、という内容だった。僕とは年齢も特徴も何もかも違うのに、原稿用紙の上のそいつは僕の名前を名乗っていた。今となっては馬鹿馬鹿しいことだけど、その時の僕はとても心を乱された。僕じゃ満足できなくなって、他に息子を作りたいと思っているように感じられたからだ。あいつは仕事から帰って、息子の機嫌が悪いことにすぐ気付いたようだった。だけど、僕が部屋に戻るまで特に何もしなかった。何をすれば僕を宥めることが出来るか知っていた。その夜はいつも通り始まって、いつもより高い位置で終わった。忘れることが出来ない。色褪せはしない思い出。最低で、最高な夜。
「ダメだ」
こんなことではダメだ。僕は普通だ。こんな気持ちは捨ててしまった方がずっと楽だ。楽に生きられる。いや、ひょっとすると捨ててしまっていけないのだろうか。僕が僕であるためには、どうしても必要なものだから、ちゃんと仕舞い込んでおかなくてはいけないのだろうか。これからもずっと? それも無理だ。捨てたいけど、捨てられない。ずっと同じところをグルグルと回って、結局何も進展しない。そして、あいつは死んだ。そして、僕はどこにも行けなくなった。
僕はとにかく部屋中を探した。あの小説を持ち帰るつもりで探していたのに、途中からは破り捨てるつもりで探して、また持ち帰ろうと思い直した。僕の中には今の僕以外にちょっと前の僕がいて、今の僕はすぐに後ろへ下がっていった。机の引き出しを開けて、僕は変わって、本棚を漁って、僕は変わって、床に積まれた本の山をかき分けて、僕は変わった。必死にあいつを嫌いになって、振り返ってあいつに歩み寄って、突然自分に酔い痴れて、そして怯えて小さくなって。僕は一生同じ場所には立ち続けていられないような気がしていた。
僕は当てもなく部屋を探し続けた。一通り探し終えると、もう一度同じ場所を探した。ひと段落するたびに、ドアの前に戻ってぼんやりと部屋を眺めて、本を蹴飛ばしては元の位置にきちんと直してから、また同じことを繰り返した。窓から見える空は一段と明るくなって、段々と赤くなった。部屋を何周したか分からなくなった頃に、インターホンが鳴った。
「こんにちは」
私服姿の彼女は、中学生と思えないほど大人びていた。ネイビーのワンピースに白いカーディガンを羽織って、黒のバレエシューズを履いていた。化粧はしていないようだったが、大きな目と綺麗な肌を持っている子には必要ないようだった。
「昨日は何も言わないで出て行っちゃってごめんなさい。良ければ掃除を手伝わせてもらいたいんですけど」
彼女はつっけんどんにそう言った。僕は彼女がちゃんと僕を嫌いになっていることに安心して、謝罪の言葉を飲み込んだ。
「掃除はほとんど終わっちゃったんだ」
僕がそう言うと、彼女は考え込むように俯いた。夕暮れの中で、彼女の髪が靡く。邪魔そうにそれを耳にかけて、悲しそうな眼を僕に見せた。僕も彼女に悲しい眼を見せている。見せる気はなかったけれど、僕は一日中そんな眼をしていたはずだから、仕方がなかった。悲しくて淋しい。たったそれだけのことだけど、僕と君はそれだけを共有している。同じ大きな瓶の中から、二人で途方もない量の水を汲み出している最中だった。こんな子を見てしまったら、僕が時々手を止めることが申し訳ないことのように感じられた。僕はもう不完全で、彼女はまだ完全だった。
「今、探し物をしているんだ。どうしても見つからなくて、どうしたらいいか分からないんだ。君さえよければ一緒に探してくれないかな」
彼女は僕を見て、小さく頷いた。
「あいつが書いた小説を探してるんだ。昔、読んだことがあって。もう一度見てみたいんだけど。あいつの部屋はどれだけ探しても無かった。もうどこを探しても見つからないような気がする。もう見つからなくてもいいんじゃないかとも思ってるんだけど」
彼女は僕の顔をまじまじと見た。何か珍しいものでも見たように、ちょっとだけ口角を上げている。僕はなんだか居た堪れなくなって、顔を背けた。
「何?」
僕がそういうと彼女はちょっとだけ笑った。
「恥ずかしそうな表情とか、すぐに顔を背けるところも、おじさんそっくりですね」
僕は記憶を辿って、あいつの表情を思い出そうとした。笑った顔とか、鼻を掻く指の動きとか、そんなありふれたものは何となく思い出せるけど、多くは確実に抜け落ちていた。目の前の少女の中では、未だ鮮明で、僕の知らないあいつがいる。もうそれはどうだっていいことだった。この子はちゃんとした人間で、僕は弱い人間なんだと、割り切っていた。
「おじさんが小説を書いているのは知ってましたけど、読ませてもらったことはないです。私が頼んでも読ませてくれなかったですし、おじさんが何処に原稿を置いてるかも分かりません。ごめんなさい」
「いや、別にいいんだ」
僕はもう一度あの部屋を探そうかどうか悩んだ。だけど、彼女があいつの全てを知っているわけではないという事実に、僕は妙に清々しい気分がした。そしてこの世の中で、誰もあの小説の在り処を知らない、それでいいと思った。探し出してしまえるほど浅い場所にはもう無くて、誰にも、彼女ですら手を出せない深くて暗い場所にある。暗い焼却炉の中で、あいつと一緒に死んでいるあの小説が思い浮かんだ。鮮明に思い出せる、怒りと快楽の最高の夜。もう届かないから、いつかはきっと消えてくれるはずだ。
彼女は唇を曲げて、リビングを見回した。僕にはそれが、何かを探しているように見えた。
「君は、この家で探しているものはあるかい?」
彼女は目を丸くした。予想外の質問だったからなのか、僕が昨日に比べて随分大人しくなったからなのか、自分が考えていたことを言い当てられたからなのか、よく分からなかった。
彼女は暫く考え込んでいた。僕が世界地図とか写真とか、そういう色んなものを思い浮かべたのと同じで、彼女は彼女なりに自分が持っていくべき何かをずっと探し続けているように感じた。
「うーん……、特には無いですね。私のものはこの家に無いですし、ここにあるものは全部おじさんのものですから」
彼女は困ったように鼻を掻いた。あいつにそっくりな動きだ。
「あいつもそんな風に鼻を掻いてたよ」
僕がその真似をすると、今度は彼女が恥ずかしそうに顔を背けた。
「おじさんのマネしてたら染みついちゃったんです」
僕は、あいつと彼女がどんな話をして、どんな思い出を持っていて、どうしてそんな仲になったのか想像した。真似をして、それが染みついて、愛し合って、死んだら悲しむ。どうしてだろう。
「君はどうしてあいつが好きなの?」
僕は単純な興味で聞いてみたら、彼女は言いにくそうに身をよじった。
「言いたくなければ良いんだけど。気になっちゃって」
彼女は横目で僕を見た。僕がどんな人で、どんなことを考えていて、あいつと自分のことをどう思っているか推し量るような見方だった。僕はその眼に覚えがあった。そんな眼で見る僕は、どんな人として映るのだろうか。
「初めは私から声をかけたんです。何となくそうしてみようと思って。駅前の広場でした。別に誰だってよかったんですけど、たまたま声を掛けたのがおじさんだったんです。今思えば本当に子供っぽかったと思います。派手な化粧して、肩を出して、短いスカート履いて。恰好だけは一丁前にしてるのに、緊張してしどろもどろでしたから。そしたらおじさん、『そんな恰好は似合わない』って言ったんです。私が呆気に取られてる内に、おじさんは帰っちゃいました。その日はそれで終わったんですけど」
彼女はそこまで言うと一度言葉を切った。もう僕の方は向いていなくて、縁側の方を見ていた。
「その日から、何だかおじさんのことが気になっちゃって。一人で家にいるときとかに、おじさんのこと考えたりしちゃってたんです。同級生の男の子とかを好きになったことはあったんですけど、それって本当は好きじゃなかったんだって思えるくらい、静かに好きだったんです。そういうことに気付いたらどうしようもなくなっちゃって、出来るだけちゃんとした格好で会いたくなりました。それで、この服を着ておじさんに会いに行ったんです。簡単には見つからないと思ってたんですけど、もう一回広場に行ったら、運命みたいに会えたんです」
彼女はどこか遠くを見ていた。庭の先、遠くの空の上に視線が流れている。空はもうずいぶん暗くなって、紫から濃紺へ移り替わろうとしていた。
そこから先、彼女は口を開かなかった。僕も黙っていた。彼女の頭にはあいつと彼女で行われた会話と繋がりがちゃんとした形を持って浮かんでいるようだった。僕はそんな二人のことを想いながら、自分が考えられる精一杯の祝福を送った。僕はもう彼女に対してどうしたい、こうしたい、と思わなくなっていた。僕は僕で、彼女は彼女だった。
「そんな感じです」
永い沈黙の後で、そう言って彼女は締め括った。
その夜、僕と彼女は酒を飲みながらひたすらに自分の話をした。あいつのことは長い間どちらも口にしなかった。口にはしなかったけど、二人で瓶からゆっくりと水を汲み出した。奇妙な通夜のようだった。彼女は少しだけ酒を飲んで、苦い、と言ってすぐにグラスを置いた。だけど、どうしても飲みたいらしくて、ちびちびと舐めるように飲み続けた。
「うち、お父さんがいなくて、お母さんもあんまり帰ってこないんです。帰ってはこないんですけど、家にいるときはたくさん話しますし、多分仲もいいと思います」
彼女はまた、グラスを持ってビールを舐めた。
「だけど、それ以外の時は全く連絡が取れないし、私に何か重要な話をしてくれることも無いです。何回かそのことについて聞こうとは思ったんですけど、どうしても聞けないんです」
十四歳。色々なことが上手くいかなくなってくる年齢だ。何も知らないことが許されなくて、自分や周りのことにある程度の知識とか意見が求められる。何も気にしない、というのは無理な話だと思う。彼女の周囲には大人になりたがっている人間が溢れ返っているはずだ。彼女があいつに恋をしたのには、そういうことが関係しているのかもしれない。
「多分、私と同じようなことを考えている人なんて、世の中にはいっぱいいるんだと思うんです。こんなことで考え込んじゃうのって、ひょっとしたら自分が弱い人間だからだって、私は時々思っちゃうんです」
その通りだ、と僕は思った。グラスに入ったビールを一気に流し込んだ。それでも仕方ないんだ。僕はそういうやつで、そんな弱い人間だ。僕が頷いたことに、彼女は気付いたのだろうか。だけど、君はずっと強い人間だと思うよ。頷いた後で、心の中でそう付け足した。
「そういえば、ベッドの上にヘアゴムを忘れてたよ」
僕は忘れないうちに彼女に言っておいた。
「本当ですか? 気付きませんでした」
彼女は立ち上がって、玄関の方へ向かった。足元がおぼつかないようで、ふらふらとゆっくり歩いている。
「今日は泊まっていいから、そのまま二階で寝たら」
彼女はこちらを振り返って、小さくお辞儀をした。
「あの部屋、あなたのだったんですよね。勝手に使われて嫌じゃありませんでしたか?」
僕は少し考えた。だけど、今はどう考えても、それが嫌なことには感じられなかった。彼女があの部屋を使うことが当然であって、僕がそれを使うのは間違えたことだったんだ。僕が首を振ると、彼女は満足そうに階段を上がっていった。
とても良い気分だった。ソファに寝転んで、縁側から外を眺めた。満月が煌々と輝いている、いつもと同じ夜の景色。一人になると、酔いが一気に回った。視界がギュッと小さくなっていき、僕はそれに合わせて眼を閉じることにした。そして、あいつがじわじわと僕の中に沁み込んでいく感覚を味わった。
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五月十九日〔日〕
あの人はやっぱり良い人だったみたい。家で悩んでないで、もっと早くあの家に行けばよかったと思う。今日のあの人は昨日とは違ってとっても優しくて、私がする話を静かに聞いてくれた。私の周りの人たちとは全然違う。それが良いのか悪いのかはまだ分からないけど、私はそういうのが好き。色んなことを話したと思う。家族のこととか学校のこと、おじさんのこと。私は私のままで良いって、そう言ってくれてる気がした。私はひょっとしたらずっとお母さんのことが嫌いで、おじさんのことが好きなのかもしれない。でもそれは、絶対に悪いことじゃない。あの人を見てたらそんな風に思えた。あの人も多分、ずっとおじさんのことが好きなんだと思う。私はそれだけで嬉しかった。私と同じ人がいてくれる。すごく嬉しい。
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どれくらい時間が経ったか分からない。眼を開けると、満月はもう見えなくなっていた。外套の明かりの中で、庭が明るく照らされている。僕はこの家にいる。あの部屋ではなく、ソファの上で眠っている。夢を見なかったことに安堵した。僕はちゃんと前に進めた。もう一日も終わり、今は狭間の時間だ。あの子と話せてよかった。僕はあいつが嫌いだ。それでいい。僕は何にも間違えてなかったんだ。あの部屋でのこと、あの時の感情はもう過去のものになって、僕は普通にこの世界で暮らす。好きな女の子が出来て、その子を愛して、結婚して。そうやって生きていける気がしていた。その子と一緒に住んで、家庭を持って、子供を産んで。
子供を産んで? 僕はハッとした。その子にどうやって接してあげられるのだろうか? 僕は父が嫌いだ。その子も僕を嫌いになるのか? 僕がその子のことを愛してしまったら、どうすればいい? 何もしないって言える保証はどこにもない。僕は自分が子供のベッドの横に立っている姿を想像した。僕は大丈夫なのか? だって、あんなに最高で、気持ち良くて、愛おしくて、美しくて、ずっと僕の中にあり続けたのに、僕は何もしないでいることは出来るのか?
僕は、急に苦しくなった。引っ込んだはずの酔いが体を回り、嘔吐の感覚がせり上がってくる。今日はダメだ、と思った。僕は必死にそれを堪えた。さっきまでの感覚はもうなかった。またなのか、と僕は思った。縁側にはあいつの気配がある。離れてしまった分、余計に近くに鮮明に、気配だけがそこにいた。またなのか。僕は縁側に背を向けた。どうして、こんな夜にもこんな気分にならなくちゃいけないんだ。あいつがソファに歩み寄ってくる気配がする。僕の横にあいつが立っている。僕は自然にあいつのためのスペースを開けていた。僕はやっぱりそうやって生きていくしかないのか? 僕はこうやって生きていくしかないのか? あいつが僕の横に寝そべって、その手が僕の服の中へ。眼をつぶって、僕はそれを受け入れる。激しく求める。どうしてだろう、好きなのに好きじゃなくて、嫌なのに嫌じゃない。自分が何人もいる感覚。僕の中に色んな僕がいて、鬩ぎ合って、混じり合って。
もう何もかも終わりだ。僕が進もうとしている方向には何にもない。ただの無関心と、否定と否定と否定と否定と否定と否定と否定。たったそれだけ。それだけのことが僕は怖い。だって、どう考えても最低だ。たまには彼女のように肯定してくれる人がいるかもしれないけど。ただただ否定と否定と否定。ゴミみたいなただの否定。飲み屋で冗談みたいに喋っても、許されないようなただの否定。何が悪いんだ。好きだって思ったっていいじゃないか。それが僕にとって自分を守れる狭い道なんだ。僕は悪くない。僕を変えたい。僕が正しい人間だって言ってくれる世界が欲しい。父親だって、男だって、どれだけ年齢が上だったって。不倫だって浮気だってセフレだって何だって。抗いようのない、否応なく引きずり込まれる渦だってあるんだ。僕が正しくて。正しくて。正しくて正しくて正しい。僕は僕が好きで、父が好きで、このクソッタレな世界が大好きなんだ。馬鹿な友達がいて、馬鹿な女がいて、天国みたいな快楽があって、クソみたいな僕がいる。こんな世界で生きたくはないのに。この世界で生きたいって。あいつがあんなに、あんなに。嫌いだ。テレビの中で若いサミュエル・L・ジャクソンが言っている。『正しいと言い切ったやつが勝ちなんだ』って。ちくしょう。もう寝る。もうどうなっても構わないから。もう寝させてくれ。もうアスタリスクのキーさえ見つからない。シフトキーも押せない。もう眠りたい。死にたい。だけど、どうしても生きたいんだ。おやすみなさい。静かに眠って、僕の安楽の時を脅かさないでくれ。ただただ、死んだように眠ってくれ。このクソッタレな世界の人々よ、死んだように、眠れ。
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起きると、彼女はもういなかった。缶とビンは片付けられていて、机の上に『ありがとうございました』と書かれた小さなメモだけが残されていた。僕はソファに寝そべって、昨日のことを思い出していた。「お母さんが嫌い」「大嫌い」「私、明日からちょっとだけ変われる気がするの」「ありがとう」。強い彼女はしっかりと前に進んでいった。僕はどうなんだ?
僕は起き上がって、真っ直ぐ二階へ上がった。今度はすんなりと自分の部屋に入れた。別に何がどうなったわけでもないし、あいつがどんな人間であるか知れたわけでもない。
部屋に入って窓を開けると、少しだけ暖かくなった風が部屋に入ってくる。中の空気は、外に押し出される。この場所ではないどこかへ押し流されていく。
今の僕はすぐに後ろへ下がって、時が経てば経つほど遠く離れた存在になる。そして、ある一瞬で急に近付いてくる。机の引き出しを開けて、僕は変わって、本棚を漁って、僕は変わって、床に積まれた本の山をかき分けて、僕は変わる。女の子が好きになって、僕は変わって、家庭を持って、僕は変わって、子供を産んで、僕は変わる。僕は一人の人間として、とても弱くなって、弱くなって、弱くなって。口にする愛の言葉だって、心の底から発されたものかどうかわからなくなる。あいつが脳裏に浮かんで離れない。きっと離れはしない。離れてくれない。離さない。僕はどう考えたって強くない。僕は弱い。彼女のように美しく光り輝くことは出来ない。僕は歩き出さなきゃいけない。多分、一生そうやって生きていかなくちゃいけない。そうやって繰り返し迎える、このクソッタレな世界の終わり。