【一章 二〇一四年】
小林司。十四歳。
彼は隣家に住んでいる私のいとこであり幼馴染であり同級生であり秀才だ。
私たちは同じ祖父を持ち同じような遺伝子を持っているのだが、顔はちっとも似ておらず苗字も異なり、当然触れ回ることなどしないので、我々が親戚同士だという事実を知るものは少ない。
はたから見た彼は、何を考えているのか分からない、はたまた何も考えていない様な不思議な視線の動かし方をするので常々不気味であり、それに拍車をかけるように、肌は病的に青白く、ふとした夜にすれ違ったならば死体が動いていると思わず勘違いしてしまうほどに駄肉がない。
小林司の生態として世界の一部の事以外には極端に関心を持たず、だから、必然的に冷やかな態度で生活する点があげられる。
例えば他人に興味がないから人を貶めることはしない反面、人助けもしない。他人に何かを強制されたとしても拒まない反面、自分から努力しようとはしない。そういった行いから派生する、生きている、というよりかは、其処にいる、という側面が強い気配こそ彼の最も顕著な特徴といえる。その良し悪しは、私には判断しかねるものの、そこまで徹底的に冷たい生き方は多くの人が忌避したいだろうから、それを敢えてする彼はやはり見た目と同じく少し不気味だ。
こんな彼だから、周囲は彼のことが心底気に入らない奴と気が合う奴とで、大方二分されている。私は後者である。遺伝子が似ているので仕方がない。
「なつちゃん。あの子はたまにぼうっとしてるから、よく見ててね」とは十年ほど前に私が聞いた彼の母の言である。幼稚園児でまだ子供の世界に男女の区別がなかった頃に、私と彼はよく一緒に山や川へ出かけた。彼は虫が大好きで、私は大嫌いだったはずだが、奇怪なことに結構楽しかった記憶だけが残骸みたいに残っている。
「よく見ててね」
その言葉を聞いて特別な何かを感じ取ったわけではないし、きっと特別な意味など、はなからないのだろう。しかし、その言葉は何故か呪文の様に頭にこびりつき結局今も離れずにいる。
私は、スピリチュアルなものの大概を結構信じているので、この言葉が粘着質なのは何か使命めいたものだからかも、と考えて、時たま彼を観察してみたりする。
最近になって私は彼について、昔からあんな奴だったかな、と疑問を抱くようになった。というのも昔の彼はもっと素直で感情に富んでいた様な、そんな直感がふと湧いてきたのだ。この直感が正しいとして、彼が変貌を遂げた境界はいつだっただろうか。不思議なもので、距離が近いから変化にも敏感だと思っていたが、違うらしい。
さて、彼のことを話す上で、渡辺という男子生徒を紹介したい。
渡辺は自尊心が高く、背は低く、肌は浅黒く、目つきは鋭く、近寄りがたいという面では司に引けを取らない気配を纏い、将来は自身の父と同じ自衛官を志していた。
週二回ずつ、空手と柔道の教室に通い、小学校の高学年から地元のバスケットボールクラブに入会していた。同じクラブに所属していた私は、彼が熱心というよりかは必死に練習に打ち込む姿を見てその熱心さに感嘆したものだった。
中学に入り、学内に空手部も柔道部も存在しないことを知ると、彼は必然バスケ部に入った。そこで私の従兄弟もとい青春の敵と相対することとなる。
司は背丈に恵まれていたこともあり、中学入学を機に友人にバスケットボール部への入部を勧められた。どこかの部活に所属することが必須であったため、流されるまま生きる彼はすんなり承諾したのだった。
司はそれまで渡辺と関わるようなむさくるしい習い事は一切せず、数少ない趣味は読書と虫取りであり、戦い方よりも逃げ方や殴られ方のレパートリーばかりが豊富だ。つまり、渡辺とは生き方からして正反対で、私の知る限り二人は出会ったその時から犬猿の仲だった。いや、厳密に言うならば、水と油だった。なにせ司には渡辺に対する関心がそこまでないのだから。
渡辺はまず、司のことを自分の日常に入り込んだ唾棄すべき不純物だと思ったに違いない。
部内で共に研鑽を積んで試合に臨み、一喜一憂することが彼にとっての青春であるのに、それに水を差すのが何を隠そう司だからだ。司がもつ、覇気のない瞳も言われたことしかしない怠惰とも勤勉とも取れない中途半端な思考回路も、全てを軽蔑すべきものとして捉えていた節が渡辺からは感じられた。司の有無に関わらず、他の部員が渡辺の青春の理想像についていけていたかどうかは疑問の残るところであるものの、実際、司のそういった生態は部内の士気を下げることはあっても上げることはない。
誰かに強制されない限り、小林司は基本的に何もしない。
その分、いついかなる時も気負いせず一定の成果を上げ続けるので、ある意味では重宝される選手であり、真面目に取り組む渡辺よりも試合に多く出ていたのが少々皮肉ではあったが、それは適材適所というか、よくある現象だし、渡辺よりも辛酸をなめた部員がいたことは事実だ。けれど自尊心が高い渡辺からすると、嫌いな奴が最低限の事だけをして利を得ているように見えて、徐々に劣等感が植え付けられたことは想像に難くなかった。
そして中学二年に上がるころには、渡辺の中の司は、気に入らない奴から目の敵へと変化していた。
今まで語った渡辺の変化は決して私の妄想とかではなく、というのも彼は正直とか素直という言葉では表しきれないほどに、表情や行動に己の感情を出す種の人間だった。思ったことはすぐに口に出すのだし、我慢ならないことに当たれば憤慨するのだし、悲しかったら泣き、嬉しかったら笑うのだ。とどのつまり、彼に嫌われるということは彼の感情のほぼ全てを浴びることと同義であり、渡辺に感情をぶつけられている司を逐一みていた私からすれば、渡辺の情緒にも多少なりとも詳しくなるのは必然だった。
そして、渡辺の敵対意識が加速度的に強化されていることは司自身も感じるところであった。
ある秋の日の帰り道で私は司に対して渡辺のことをどう思っているのか聞いたことがある。
自転車を押しながらあぜ道を歩く彼は、私からの質問に窮したのか、それとも夕暮れの田園を漂う蜻蛉を眺めるためなのか足を止めた。そして、やや間を置いてから呟くように「別にどうとも」と意外でもない答えを口に出した。だが直後、彼にしては珍しく他人に対する考察めいたものを吐露した。
「あいつ、俺のこと嫌いなのかな」
えらく悲しそうに、司はつぶやいた。
「そりゃ……多分」
「そうか」彼はうつむいた。「でも、ただ嫌いというのとは、ちょっと違うような気がする」
私は首を傾げた。嫌悪以外の何か別の感情によって渡辺が動いているという視点が私にはなかった。いや、少し違う。他にも渡辺の原動力となりうる感情があるにしてもその全てが司に対する嫌悪に根差すものだと私は思っていたのだ。
私が続きを待つとちょっと面倒くさそうな顔をして彼は再び口を開いた。
「渡辺のいる環境とか、あいつの行動を見ていれば察することなんだけど、あれはさ、俺を憎むという手続きを踏んで心を安定させているんじゃないかと思うんだよ」
「じゃあ、なんかの八つ当たりってこと?」
「……」
司の足が止まった。私もつられて止まった。彼は困った子供を見るような目を私に向けて続きを述べた。
「逃避じゃないかな」
司はこれ以上言葉を尽くさなかった。立ち止まったまま動こうとしない彼の肩に紅葉色の蜻蛉が寄り添うようにとまった。蜻蛉は私の頭よりも高い位置でこちらを見つめていた。
「またデカくなった?」
見上げながら聞いた。
「かもね」
司は憮然と言い放つと、また歩き出した。同時に蜻蛉が離れた。黒く大きな影が、彼の後ろに伸びていた。
*
渡辺の歪んだ敵対意識は、二年生に入り司と同じクラスになってからは勉学においても現れるようになった。
司は同学年三二〇人の中で、首位を何度か経験するくらいには、学力において一般と隔たりがある。渡辺も決して馬鹿でも阿保でもないのだが、いかんせん親からの半強制的英才教育に支えられた司の学力には遠く及ばず、ここでもやはり自尊心を蝕んだ。
そもそも司は彼の父親から、多様な分野を司る、という願望を名前として貼り付けられ今まで生きてきて、しかも、その名に恥じない程度の器量があることを内外に証明してきた恨めしい秀才である。だから顔に似合わずピアノとヴァイオリンが弾けるのだし、風情のない顔で茶道や絵画を嗜むのだし、性格に似合わず将来の目標は政治官僚なのだ。夏に生まれたからという理由で「じゃあ夏だ」と命名され、ちゃらんぽらんに生きてきた私とはえらい違いだ。
彼のようなキャラクターは、青春の敵役とするにはあまりに危険であり、私は渡辺が一生でも勝てない強敵に挑む悲しい子に見えた。諦めたくないのか、諦められないのか、意地っ張りなのか、とにかく周囲が一様に呆れるほど渡辺は司を敵対視していて、何事においても勝手に張り合い、少しでも敗北感を感じたら涙目になるのだ。そんな姿を晒せば晒すほど、陰で渡辺を嘲ったり馬鹿にしたりする陰口が増えた。本人もうっすら気が付いているだろうに、それでも戦うことをやめないのだった。
その姿は立派でもなく、素晴らしいことでも、尊いことでもない。ただ惨めで、愚かで、同情を煽るものだった。
*
中学二年の冬。昔の夢を見た。
小学生の時、司は入院した。突発的な不調ではあったが、彼は元々から持病があったらしく入院すること自体は最初から決まっていたらしい。
隣の小林家は、両親が共働きで、朝から夜更けまで司と彼の姉しかいないことがほとんどだった。とはいえ、彼らは多数の習い事を掛け持ちしていたから、実際のところ無人である確率の方が高かった。私の父が珍しく早めに帰路についたある日のことだ。いつも通り人気のない小林家の前を素通りしそうになったところ、父は小林宅の中から獣の声を聴いた。見ると、通常なら静かにしている小林家のゴールデンレトリバーが優しい面を崩して、ギャンギャン、と吠えていた。そして、同時に玄関の前でうずくまったまま動かない司を目の端でとらえたのだという。
これが春休みの少し前のことで、彼は周囲の心配をよそに新学期には平気な顔で戻ってきた。その顔を見たとき私は無視できないほど大きな不甲斐なさを感じたのだった。
よく見ててね。
呪いの言葉が頭の中で反響した気がして、目が覚めた。カーテンの隙間から見える血の気の引いた空を眺め、ふと思う。境界はもしかしたら、あの時だったのではないか。
目覚まし時計は真夜中二時四十六分を指していたが、横面を殴るように差し込む朝日がそれを否定する。
はぁ、と息を吐き、私はベッドから起き上がる。
知っていた。使い古した目覚まし時計は時折、その針を止めることがある。不思議なことにこの目覚まし時計が針を止めるとき、決まって同じ夢を見ている。呪いだろうか。
机の上にある携帯を確認する。午前六時。
「まだいける」
複雑な計算の末、導き出した結論に従い二度寝を決め込もうと、布団に手をかけたところで、私は体を止めた。間が悪く、その日は早起きしなければならない日だったことを思い出した。
制服とバッシュとタオルと教科書とエトセトラ。超特急で通学用バックの許容量スレスレまで詰め込んだら、ヘアゴムを咥えながら次はぶかぶかの体操服に袖を通す。この体操服は四つ上の兄のおさがりだ。学年カラーが一致したため、私の分は買ってもらえなかったのだ。ちぇ、と舌打ちし、その時ばかりは母を恨みながら、腕まくりをする。髪を結ぶため両の手をうなじの裏にもっていき、直後さらさらと親指と人差し指の間を細い髪がすり抜けていく感覚を味わった。
そういえば髪を切ったのだった。
玄関を出て、箱笈みたいになったバックを自転車のカゴに敷き詰める。本当はハンドル操作に支障をきたすため、やってはいけないことらしいが、背負ってしまえば背骨への負担が計り知れない。
自転車を押しながら、家の門を抜け、頼りない動きでサドルにまたがる。ふと小林宅のリビングから二つの青白い目がこちらを見ているのに気が付いた。驚きと恐怖に肩を震わせるが、よく見れば、件のゴールデンレトリバーだった。
「おはようざいま~す」
家の塀越しに目のあった犬に恭しく頭を下げた後、片方のペダルに全体重をかけた。ぐっ、と車体が勢いを持ち、顔面に冷たい風が被さってきた。
凍えるサドルにまたがり自転車をこぐこと二十分で学校につく。
すでに明るい職員室に入り、顧問から部室のカギを受け取ると、そのまま小走りで部室に直行。荷物を置いて体育館の重い戸を開いた。すると、戸を開けた直ぐ足元にどこか見た覚えのあるリストバントが落ちていた。
普段は男子バスケ部と女子バスケ部でコートを二分し練習を行っている。それは男子バスケ部のテリトリーに落ちている。ゆえに男子の誰かのものだろう。簡単な推測を行い、後で顧問の先生に届けよう、と頭のメモ帳に記した。
バッシュに足を通し、リング下に移動する。靴裏でキュッキュと音を鳴らす。本来モップ掛けをしなければならないのだが、この程度であればやらなくたってばれないだろう。そんなほろ苦い誘惑が胸をかすめる。しかし、せっかく急いで来たのに何もしないのは、それはそれで時間を無駄にしている気がした。
倉庫から比較的綺麗なモップを取り出した。驚いたことに、常備されている十本のモップのうち、八本が汚くて使い物にならなかった。常日頃から一年生に準備と片づけを押し付けているしわ寄せが来た。どうやらモップ自体を洗うということを彼女らはしていないらしい。叱ってやろうという気が沸き立つが、残念なことに彼女らは今日から三日間、自然教室に行っている。三日後にはこの程度の怒りは鎮火してしまうことだろう。
こうして一人孤独に一年生の穴埋めをしているのは、私がいじめられているわけではなく、じゃんけんで負けたからだ。私はこの手のじゃんけんで勝ちを拾ったことがない。きっとそういう星のもと生まれたに違いなかった。
コートを何往復かして、モップ掛けを終えた。朝練まで十五分残っている。少しだけ一人で練習できるかな、と考えていた時、体育館の入り口に人影が立った。振り向くと、司だった。きょろきょろとあたりを見回すさまは、生き血を探すゾンビみたいだ。ともかく私は真っ先に朝練前に姿を現した彼の正気を疑う。しかし、制服を着ていることから別に勇んで練習に参加しに来たわけではない、ということに気が付き、いつも通りだな、とどこか安心する。
彼は、すぐに私の存在に気が付き、「なつ」と言いながら近づいてきた。
「リストバンド見なかった?」
「見たよ」
「どこ?」
私は隅に追いやられたリストバンドを指さした。彼は、ほっと安堵の息を吐きながらそれを拾った。
「わざわざ、取りに来たの?」
彼はものに執着するタイプではないし、いつもの彼ならば「どうせ部活の時に回収できる」と考えそうなものだから少し意外な行動と言えた。そんな疑問を感じていると、すぐ本人の口から補足が入る。
「人からもらったものだから」
そう言って彼は踵を返した。
「練習出ないの?」と背中に語り掛ける。
「委員会あるんだよ」
疑問を浮かべる私の顔面に、司はまた言葉を付け足す。
「選挙の準備」
「ああ」
一週間後が生徒会の選挙で、司が選挙準備委員会に所属していることを思い出した。来年度前期の生徒会は高校の面接でも使える材料になるため、それを決める今度の選挙には多くの生徒が勇んで立候補する。
「誰が出るんだっけ?」
軽い気持ちで尋ねると「知らん」と返ってきた。まあ、そうだろうよ。
すると、その短いやり取りの中で何か引っかかることでもあったのか、司はいったん出口に向かっていた足を止めこちらを振り返った。
「お前、ひとりなの?」
「見りゃわかんじゃん」
何かの嫌味かと思って、ぶっきらぼうに返答すると、ちょっと怪訝そうな顔で「渡辺見なかった?」と予想外のことを言った。
「いや」
おそらく呆けた顔のまま私は首を横に振った。彼は微動だにせず、何かを考えこんでいた。
「どうかしたの?」
普段は見られない不自然な司の姿に私は好奇心半分に聞いた。
「いや、別に」
明らかな違和感を孕みつつも、司は幽霊に手を引かれているかのような挙動でゆらゆらと体育館を後にした。
数日後、自然教室から帰ってきた一年生にそれとなくモップの使用について注意をしたら「え、あたしらちゃんと洗ってます」と拗ねたように言われた。
「じゃあなんでこんな汚れてるんだろ?」と首をかしげる私に「男子じゃないっすか~」と華麗に責任転嫁して見せた。正に口調から声色まで、完璧に何も知らない人のごとし。
少しムッとしつつも、もう一度後輩たちの顔を眺めてみると、はて、そこには明らかに困惑が張り付いていた。再度モップを見てみる。すると、骨組みが少しだけ歪んでいることに気が付いた。何かに打ち付けたみたいに曲がっていた。非力な女子中学生がどんなに乱暴に扱ったとしても、作り出せないであろう金属の変形である。しかも、そんなことをして得する者はいないのは馬鹿な私でもわかる。
あながち彼女らの発言も間違いではないのかもしれない。そう思い立って次には、同級生であり現男子バスケ部部長である飯田にこのことを伝えた。
彼はモップの状態をひとしきり確認した後、顔の周りを飛ぶハエを振り払うときのような、ただただ鬱陶しいとでも言いたげな顔を作ってから「注意しとくよ。多分うちの一年だから」と吐き出した。
この癪に障る男は、ただただ選手として優秀かつ声が大きいという理由だけで皆の人気を集め部長を任されている軽薄な人間だ。幼稚園からの顔なじみではあるのだが私は彼にかけらの愛着すら持てないでいる。素直というより自己中心的で、何の配慮もなく言葉で人を傷つけたりする。しかし妙なことにカリスマ性と言うか、求心力だけは舌を巻くものがあった。美徳の数で言えば、渡辺のほうが多そうだが──。
「そういえばさ、最近渡辺が来てないね」
私は、唐突に思い出しその話題を出した。
渡辺は最近、部活に顔を出さない。授業が終わった後すぐに帰宅しているようだった。
私の言葉に飯田は身構えたように少し、身体を固くした。
「みたいだな。それがどうかしたの?」
鋭い視線と、口調で飯田が放った言葉はまるで威嚇だった。一瞬だけひるんだが、むかし司が口にした「生物の威嚇は余裕の少なさから生まれる」という言葉が胸中を巡り、少し落ち着いた。
「さぼるような奴じゃなかったから、少し気になるんだよ」
すると、今度は飯田の顔から血の気が引いた。下手な言い方をしたらショックを受けているように見えた。
「どうでもいいよあんなの」
「え?」
数秒の間、薄暗い体育館倉庫の中に静寂が下りた。飯田は唇を口の中にしまう。そして私に顔を見られることを拒むように、ゆっくりと俯いた。何か正体の分からない寒気が背中を流れた。それは私の魂を殴るような恐怖や威圧などではなく、どちらかと言えば嫌悪に近いはずだが、私の体を突然静止させるには十二分なほどに強力だった。何かはわからない。わからないが、それでも確実にしかも猛烈に、この場所この時に限って飯田と一緒にいたくない。そう感じた。
「なぁ」
突然、出入り口から声がした。視点を転じると、司が立っていた。
「なんだよ」
飯田のその沈んだ声に対して、司はしかめた面を見せた。
「顧問が呼んでる」
司がそう言って顎でしゃくってみせると、飯田は拍子抜けした声で「ああ」と言って、出ていった。呆けた顔をしている私に「どうかしたの?」と無遠慮な司の声が届いた。
*
中学校は、多くの人にとって挫折するための空間だ。
勉学や、運動や、恋愛や、芸術。私たちはあらゆるところで自分の限界を薄く察してしまう反面、劣等感と和解するには些か以上に人として発達不足で多感な時期に属する。そんな脆弱な子供を逃げられない箱に閉じ込め生活を共にさせる。これが中学校だ。そこは儚い絆と消せない傷が作られる恐ろしい場所であり、ここで正しい挫折を経験しなければ、およそご立派な大人にはなれない。
私が司のことを青春の敵と称した最も大きな根拠は彼が図らずもその悠然さと器量をもって人に挫折を与える存在のように感じることがあるからだった。
渡辺は中学二年の冬には登校しなくなった。
その原因は専ら私たちが妄想する他ないのだが、きっと正しい挫折ができなかったのだろうと思う。司との戦いに耐えきれなくなって、けれど逃げたくなかったのだ。根拠はないけどそう思う。
その後、渡辺の登校拒否を受けて彼の母親が「うちの子が部活でいじめられている」といった苦言を呈した。彼の母親はいわゆるモンスターペアレントらしく、平日の学校にアポなしで乗り込むという、その剛毅なふるまいは瞬く間に中学社交界に知れ渡った。
さて、彼女の発言がそのまま真実かというと、実際のところ判断が難しい。被害者がいじめだと感じた時点で、何事もいじめだと定義されるのだとしたら、そうなのかもしれないが、渡辺がそう口にしたというわけでもなさそうだし、男子バスケ部の誰もそんな自覚はない……とは言い難い雰囲気ではあったがそれだけで決めつけるわけにもいかない。だから、渡辺の母親の被害妄想ということにしておくのが一番誰にとっても適当な着地点なのかもしれない。それでも、少なくとも渡辺自身の心が疲弊しているのは確かなようで、でなければ真面目な彼が登校拒否などするはずがなかった。
そして、何を思ったのかその頃、司は陸上部に転部した。理由を問うと「前から興味あったんだよね」と普段の、のっぺりした声で言い、それ以上は何も言わなかった。
【二章 二〇一一年三月】
私こと小林紗枝は岡崎市民病院に到着するまでの八分間を、弟にかける言葉を考えながら過ごした。
大丈夫? などという、無責任な言葉ではだめだ。もっと私が真剣に悩んで、考えて、ひねり出した言葉なのだと、伝わらなくては意味がない。他には何があるだろうか……。
様々な言葉が頭の中に浮かんで消えて浮かんで消えて……しかし、それでも最後までこれだけは言わなければならないという言葉だけが残った。
ごめん。
この一言だけは、何があっても伝えるのだ。その決心が固まったころに、バスの動きが止まった。
震える三月だったことを今でも覚えている。
岡崎市民病院は小高い丘の上に立つ。周囲には遮るものは何もなく、冷たい風が容赦なく吹き付けてきた。加えて、この日の天気は曇りで昼間とは思えないほど暗い影が地上に差し込んでいた。バスから見えたこの建物は、そんな状況も相まってどこか魔王の城のように見えなくもなかった。
病院と聞いて抱く印象とは異なる賑やかな喧騒が包むエントランスを抜け、きっと寒さのせいで震えている指でエレベーターのボタンを押した。
三階。311号室。そこに弟がいる。今日の日付だ。覚えやすい。
そして、どこか現実感のないまま体を動かし、目的の部屋の前まで来た。だが、固めた意志を挫くように部屋の扉にはどこか温度のない文字で「面会謝絶」と記してあった。私は近くを通りかかった看護師の袖を引き、その紙を指さした。なぜか声が出なかった。看護師は一瞬怪訝そうな顔をした後、けれども、それだけで状況を察した。彼女は「もう少ししたら会えますよ。今、管を入れてるんです」と訳の分からない言葉を残して、いかにも忙しそうにしながら去っていくのだった。
*
私には優しい母と厳しい父と出来のいい弟がいる。
父親は嫌いだった。彼から思いやりのある言葉を投げてもらったことがなかったからだ。とにかく厳しいという言葉が似合うのが、父であり、ただ何時もあれをやれ、これをやれ、と指示を出し、要求通りにできなければ怒るのだし、出来たとしても「もっとうまくやれ」とやはり怒るのだった。配慮というものを持たずしてこの世に生まれ落ちたに違いない、とは私の結論である。この結論を出して以降、私は父にたいして一般的な父親らしさを期待することはなくなった。
母は怖かった。彼女からはきっと私が満足いくだけの愛情をもらっていたのだが、その分その愛情が少しでも離れると思うと、何とも言えない寄る辺なさを感じるのだ。実際、私が齢七歳になるころに母は再び働きだし私の中で愛情が枯渇しだした。両親共働きの家庭ではかなり当たり前のことにはなるのだが、昼間は私と弟の二人ボッチ。これが常だった。私たちと同じ境遇にある子どもは近くにある児童保育施設に一時的に預けられることが殆どだったが父親から強制的に通わされた習い事に忙殺されている私たちがそこを使用することは暗黙として許されなかった。助けを期待した母からは「もう小学生だから、もしも一人で留守番することになっても大丈夫だよね?」と当時の私からすると絶望的な言葉が返ってきたものだった。一瞬母を恨みそうになったが、その発言の前日夜通し父と言い争っている姿を知っているので何も言えなかった。母は私にも弟にも温かい感情を抱いているし、それは私にも察することができて、けれど、その分だけ一緒にいられない時間は寒かった。いつしか、母と一緒にいる時間が憩いの時間ではなく、そのあと訪れる暗闇の前触れのように感じ出した。
そんな私たちを心配してくれたのは、向かいの家に一人で暮らしている祖父と隣家の住人だった。
祖父は私が九歳の時には死を迎えたのだが、ともかくそれまでは暗闇を照らしてくれる光だった。どんな相談にも応えてくれるし、たまに彼の息子、つまり私の父親に注意してくれる。年齢不相応に明晰な頭脳を持っていた祖父は何かと父と言い合っては言い負かすという、ちょっとした英雄だった。
隣家はと言うと、そこには父の兄を家長とする核家族が住んでいた。父の兄は田舎で教師をしていたらしいのだが、結婚と同時に彼の妻の実家が経営していた工場を継ぐことになり「小林」から「田崎」へと苗字をそっくり入れ替えたらしい。温かい人格の持ち主で、目があえば挨拶をするし子供相手でも丁寧な言葉遣いだった。そんな彼の愛娘であるから、田﨑夏も温和で優しい子だった。
田崎家は小林家に私たちしかいない時には、よくご飯を分けに来てくれたし、両親が帰ってこられない夜には宿を貸してくれた。そしてそんな対応を受けている私たちのために本気で怒って、父母に「お手伝いさんでも雇えばいいじゃないか」と訴えかけてもくれた。もっともそれで父の対応が変わることはなく、「他人に頼るのは卑しいこと」という頑固な父の屁理屈にもならない理屈に跳ね返されるのだった。
けれど彼ら彼女らの行動は、私が根本で感じていた寂しさを紛らわせることはついぞなかった。もちろんそれが不幸なのかと言われればわからない。こんな話をして私は悲劇の中にいるなどと、吹聴したいわけではないのだ。
ちょっと寂しい。それが言いたいだけだ。
私はこんな風に結構心が脆いのだが、弟の司はそんなことはない。
多数の習い事をおおよそ完璧にこなし、それでいて弱音は吐かずいつも平然としていた。司は虫が好きで、虫取りが趣味だった。普段厳しい父も決して浮ついてはいない弟の趣味には肯定的で誕生日には昆虫図鑑や標本を与えていたほどだ。確かに直接何かの役には立たないだろうけれど、虫の知識というのは専ら学際的なものだから父の対応も頷けなくはない。ただそれに比べて私への贈り物が適当に見繕った児童文学なのはやめてほしかった。
「これあんたにあげるよ」
私は誕生日に父から貰ったきりほったらかしにしていた小説を司に渡した。別に本を読まないわけではない。あいつからもらったものを読みたくなかった。
「いいの?」
司は目を丸くしたままそう言った。
私は眉間にしわを寄せて頷いた。彼は本を受け取ろうとして、再度「本当にいいの?」と続けた。それはいったいどういう意味なのか私にはつかみきれなかった。喜んでいるのか、迷惑なのか、それとも何かの注意喚起なのか。目の前の少年の瞳には真意のくみ取れない不気味さがあった。
「いいってば」
そう言って、半ば強引に押し付けた。
「ありがとう」
司はその時見たことない顔ではにかんだ。私は咄嗟に恥ずかしくなった。思えばその日から弟は読書家になった気がした。
*
もう少ししたら会える。
この看護師の言葉をそのまま受け取り、私はしばらく、病院の中庭を歩くことにした。病室の扉から離れるとき、坊主頭のいかにもなスポーツ少年とすれ違った。少年の進む先には弟の病室しかないため、もしかしたら友人かもと思い、少し動向を観察した。そうすると案の定311号室で彼の足が止まり、ぽりぽりと困ったように頬を掻き始めた。声をかけてみようかと近づくと、あちらも私に気が付いた。少年は急に私から顔を隠すように俯いて、速足でエレベーターまで歩き去ってしまった。追いかけようかとも思ったが、気分でもキャラでもないのでやめておいた。
わざわざ温かい建物の中から脱して外に出る。
私は病院の潔癖な雰囲気が嫌いだった。無機質で正に死の淵のような感じがする。その感覚は、昔のある思い出に起因する。
司は二年前も脾臓の病気で入院した。詳しいことは説明を聞いてもよく理解できなかったのだが、医者が重要なことらしく何度も「体が大きくなったらもう一度来ていただく必要があります」と念入りに言っていたことだけは鮮明に覚えている。
当時、職場の近かった父は足しげく病院に赴き司の様子を覗いていた。信じがたいことに司のことが心配だったのだろう。そしてまれに気乗りしなかったが私や母もそれに付いて行くことがあった。そんな折、私と父が幼い司を見舞いに行った時のことだ。呻く老人を乗せた大きなベッドを、怖い顔をした看護師がガラガラと音を立てながら移動させ、私たちの前に現れた。
父は「すいません。あけて下さい」という声が聞こえる数秒前には通路の端に体を寄せ、ついで私の腕を引っ張り自分の方へ寄せた。軽い会釈をした後看護師は、そのまま私たちの前を通過していく。
その時思ったことは、ただ一つ。この建物は病人や死人を運ぶために最適化されているのだということだった。無駄に広いと思っていた廊下も、エレベーターも、病室の出入り口も、実は無駄に広いわけではない。そう知ったとき、急に凍えそうな寒さを感じた。死や病魔を前提とした施設設計。それは病院としての機能を十全に果たすためには当たり前のことで、むしろ狭いところで敷き詰められ、死んだときに満足に運び去れない我々の生活環境の方が間違っているのかもしれない。人生を真摯に生きる方法は、死を真摯に見つめるところから始まる。それが本当だとしたら、死んだときのことをよく考えていないというのは翻って人生のことをよく考えていないのと何ら変わらないのではなかろうか。そう思うにつけ、漠然と生きてきたそれまでの人生に対して恐怖したのだった。
そうして過去の記憶を反芻しながら、中庭を歩く。やはりこの季節に外気に触れようとする奇特な輩は見当たらなかった。吐く息が白い。ポケットに入れていた手が真っ先に温もりを失ってゆく。中庭をぐるぐる回り、そろそろ戻ろうかと踵を返したとき、ブルゾンの胸ポケットの中で携帯が震えた。取り出して、二つ折りの携帯を開くと、父の名前が表示されていた。病院内では電話できないので、ちょうどよかったかもしれない。いや、出ないでもいい口実を逃したとみるべきだろうか。無駄な思考を巡らせながら、通話ボタンを押した。
「なに?」
努めて感情のない声で、そう言うと、そんなことなど気に留めない無遠慮な大人の声が聞こえてきた。
「着いたか? どうだった?」
「まだ会ってない」
もろもろの説明をすっぽかして、現状だけを述べた。
「そうか」
沈んだ声を聴いて私は少し良い気分になったが、その原因が弟の不調だと気が付いて、軽く自己嫌悪に陥った。
「それだけ?」
突き放すように言った。
「ああ」
「……じゃ」
共通の話題などないため、会話は会話らしくなる前に終わる。乱暴に携帯を折ると、一つため息をついた。
建物の中に戻って、もう一度司の部屋に向かった。今度は先ほどとは違う妙に明瞭な意識のまま無機質なL字型の廊下を曲がった。
すると、到着寸前で目的の部屋から白衣の男性が出てきた。その男は司の主治医である。つい四日前に見た顔なので覚えている。それはその男としても同じようで、突っ立っていた私に向かって「ごめんね。今日は休ませておいてあげられるかな?」と言った。私は内心で安堵の息を漏らしながら、神妙な顔で頷いた。
*
帰ろうと、病院の出入り口まで来たところで、見知った顔と出くわした。
「こんにちは」
如才ない笑顔で挨拶してきたのは、田﨑豊。父の兄である。横には端正な顔立ちの奥さんと、その顔によく似た田﨑夏がプリザーブドフラワーを抱えて立っていた。
私は「こんにちは」と言ってから軽く頭を下げた。そして彼らに見えないところで面倒くさいなと、眉間にしわを寄せた。
「司君。起きたって聞いたよ」
彼の顔には明白なまでに、ほとほと安心しきった、という気持ちが出ていた。
「はい。ですが、今日は、その……」
私は夏が持つ物を見ながら申し訳なさそうな声を出した。そう言葉を濁せば察してくれるだろうと、子供らしからぬあざとさがそうさせた。すると、やはり残念そうに豊はうなずいた。
「そうか。ちょっと折が悪かったか」
「ええ。すみません」
「いやいや」
豊はかぶりを振った。
田﨑豊という男は、子供に心労をかけるのを何かと嫌う。こちらが少しばかりつらそうな顔をすれば、存外簡単にへりくだる。表情の使い方を間違えなければ扱いやすい男だった。
「今日はどうやってきたの?」
豊が聞いた。これも想定の範疇であった。
「バスで」
「じゃあ送っていくよ」
私が提げているヴァイオリンを見て豊が言った。ほら、やっぱり。
「え……いや」
「いいから」
「……ありがとうございます」
そんな定型文みたいな問答の後、私たちは駐車場に移動し、鈍色のエステートに乗り込んだ。
運転席に豊が、助手席にはその妻が、後部座席には夏と私が並んで座った。車が滑らかに走り出した。それと同時に勝手に鳴き出したカーラジオを豊が無言で消した。
「今日は、お母さん居るんだよね?」
豊が、何気ない風を装って私に事実確認をした。しかしその事実確認は半分不正解だ。今日、母はかなり遅い時間に帰ってくる予定なのだ。しかし、この場合は訂正しないほうが、面倒を避けられる。
「はい」
私が答えると「そっか。さすがにね」と歯切れの悪い声が返された。小林家の内情は田﨑家に筒抜けになっている。だから、今更面と向かって文句や苦言を言われることはないにしろ豊が小林家のシステムに思うことがあるらしいことは彼の性格や雰囲気からして理解できた。ことさら司や私に優しく接するのもそのためだ。迷惑などとは思わないが、豊に向けられる慈悲に近い優しさが嬉しいとも思わない。彼が、あるいは彼らが何をしたところで、私に良い変化を及ぼすことはない。
ふと、左手の甲が温もりに包まれた。視線を移すと夏の右手が重なっていた。ぬくもりの分だけ何かがこちらに伝わってくるようで、それは同時に受け入れれば今の私にとって危ういもののように感じた。
不安が滲む夏の瞳が静かにこちらに向けられていた。すぐさま、左手を引きそうになったが、ここでそれをしてしまえば、あまりにも卑屈で余計に自分を嫌いになりそうだ。
「何か困ったことがあれば、いつでも頼ってね」
なんだか、別次元から聞こえる空耳の様な男性の声に「はい。ありがとうございます」と反射的に答えた。
「ここで大丈夫です」
そういって音楽教室の近くで下車した。
「気を付けてね」
豊は私に笑顔を向けてからウィンドウを閉めた。後部座席で夏が手を振っている。私がそれに応えようとしたとき、また車が走り出す。中途半端に上げた腕をポケットに戻した。
*
閑散とした住宅街を歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。声の主は振り返る前には私の横にたどり着いた。
「よかった~。今日紗枝ちゃんと一緒だ」
朗らかな笑みを浮かべながら飯田美佳は両手を前で合わせた。彼女とは同じ音楽教室に通う間柄なので下手な友人よりもよく話す。
「ああ、うん」
淡泊な私の反応に、彼女はしばらく目をしばたかせた。歳は司の一つ下のはずだが、女子にしては顔が面長で、きっぱりとした一重なのも手伝って、どこか大人びていた。
「なんか、元気ないね」
しかし直球に疑問を投げかけてくるところは歳相応らしい。
「ちょっと失くし物しちゃって」
「紗枝ちゃんしっかり者なのに珍しい」
「そんなことないよ。私結構そそっかしいところあるし」
私の表情が暗いのを見取って「失くしたものは整理してる途中に見つけることが多いっていうよ?」と美佳は努めて明るい声色を出した。戸惑ったような彼女の表情を見ながらも、私はこの少し硬くなった空気を柔和しようとはしなかった。少し疲れていた。
「整理か」
ぼそりとつぶやいた。
それができたら何の苦労もない。
凍える手を呼気で温めようと、美佳が「はぁ」と吐き出した。その時ちらりと見た右手の甲に大きな絆創膏が張り付いているのが見えた。すぅ、と血の気が引く。
「ちょっと。それ」
「ん?」
美佳が私の指さす方を見て、苦笑いを浮かべた。
「転んじゃって……」
「気を付けなよ」
叱りつけるように言ってしまった私の声に、ぎょっと美佳の目が開かれた。その顔に私は心を落ち着かせながら、再度静かに言いなおした。
「気を付けなよ……ほんとに」
「うん」
美佳は釈然としない様子でうなずいた。
*
午後三時ごろに帰宅した。
無言のまま玄関に入る。ふと、カタカタ、と固い音が聞こえ、振り返ると愛犬のテトがこちらに歩み寄ってきた。
「あ、お前はいるのか」と思い出し、続けて「ただいま」とこぼす。なるべく優しい手つきで頭をなでてやると、不服そうに振り払われた。嫌われてんのかな、と若干悲しくなる。
この愛犬と私は基本的に接点がない。世話は大体が司と母が行っているし、私が犬に対して関心がないからというのもある。だから多分、時間をかけなければ生まれない絆みたいなものがこいつと私の間にないのだろう。
尻尾を下げて、私から離れてゆくテトの姿を見て「なんだよ」と口の中で愚痴った。
リビングを抜け、冷蔵庫を無造作に覗く。賞味期限すれすれの納豆と、卵が二つ。それからネギとほうれん草……。食材を数えながら今日の夕食の算段を立てる。父は仕事で帰ってこない。母は職場の人と食べてくると言っていた。だから二人分……じゃない一人分だ。
「……めんどくさ」
二人分以上なら作る気になれるが、自分のためだけにとなると途端にやる気がなくなった。冷凍庫に何か入ってやしないかと、見てみるが、凍えたブロッコリーしかなかった。我が家は冷凍食材を過度に嫌っているので、まあ、こんなものか。ちょっと乱暴に冷凍庫を閉めた。
とりあえず洗濯物を取り込み、さらに米を研いで炊飯器を動かした後、一人ぼっちの家の中で弟の携帯を探すことにした。というのも、司が身体を抱えて玄関前で倒れていた日、彼の所持品の中には常日頃から持ち歩いていたはずの携帯電話がなかったのだ。持病がいつ発症してもおかしくない司は、いざというときソレを使えと執拗に母から言われていた。だから、その言いつけを破って、一人で黙ったまま倒れる訳がなく、もしそんな事態が発生するとしたら、それは彼がそもそも携帯電話を持っていなかった状況しか可能性として考えられない。
弟の携帯に電話をかけてみる。……つながらない。重いため息をついて、考え込む。
うっかり家に忘れたわけではない。もしそうなら電話自体がつながらない説明にはならないと思う。数日使わなかっただけで電池切れということもないだろう。
他に考えうるのは、司がなんらかの理由で壊したか、第三者が奪って破壊したか、どこかに落としてそのまま破損したか。おそらく、三つ目ではなかろうか。私の弟はたまに抜けているところがあるから。
視線を転じると、壁の時計が午後五時を指していた。
「諦めるか」
区切りをつけるようにそうつぶやき、リビングのソファーに腰を下ろす。
先客のテトが隣で、目をつぶったまま座っている。背中を撫でてやると、ゆっくりと首がこちらに向き鼻をフンと鳴らして、また目を閉じた。愛犬の背中で手を温めながら、テレビをつける。不景気な顔をしたニュースキャスターが映ったので、すぐに番組表に切り替えようとしたとき、午後のニュース番組の雰囲気がいつもとは大きく異なる事に気が付いた。
「福島第一原発では今のところ放射性物質が漏れるなどの外部への影響はないと、言うことです。原子力保安委員会は引き続き監視を続けています」
耳なじみのない言葉と、落ち着きながらもどこか上ずった調子のキャスターの声色。画面の右下には日本地図と一緒に大津波警報の文字が浮かび上がっていた。キャスターが何かの専門家に話を振った。専門家は、しゃがれた声で、なんとか話し始める。しかし緊張のため、どこか舌足らずだ。
「先ほどの午後四時にですね、あの、ディぜ、ディーゼル発電機が停電等で使えない事を示す、いう、ぃう、が確認されまして異常事態の通報、それから今緊急事態の警報ということになりました。原子力発電所をですね、あの、緊急時冷やすのに必要な冷却水。その冷却水を作る際に必要となるディーゼル発電機。これが使えなくなったわけ、ですね。ですから……」
二人の男性の会話が続く中、画面はめまぐるしく移り変わる。半壊した街と、稼働するコンビニに殺到する人々。追い打ちをかけるように彼らを雪と雨が激しく襲っていた。口を半開きにさせながら、それを眺めていると、いつの間にかまた画面が変わった。
「では引き続き津波と地震に関する情報をお伝えしていきます。今日午後東北地方で相次いで強い地震がありました。この地震で太平洋沿岸の地域を中心に大津波警報、津波警報などが出ていまして、各地で既に数メートルの大きな津波が確認されています。一度津波が押し寄せましても、引き続き厳重な警戒が必要です。安全な高いところに避難をしてください。安全な高いところに避難をしてください。避難できている方はそのまま安全な場所を離れないようにしてください。また、高台が近くにない場合、丈夫な建物の上の方に避難してください。建物で言いますとビルの三階以上の高いところに避難する必要があります。また海岸や、川沿いからは避難してください。海岸や川沿いには絶対に近づかないでください」
まるでもう言い慣れているかのように、キャスターが語り掛けてきた。その大きくて聞き取りやすい声はすんなりと頭に浸透してきた。言葉の背景で、茶色の波にのまれる田畑や、水没した市街地が映し出されてゆく。何か、大変なことが起こっている事だけは理解できた。
後に、東日本大震災と呼ばれる現象は我々東海地方の人間に、そんな現実感を伴いきれない感触を残し伝わった。歴史の教科書を眺めているような、どこか他人事な大災害による死者数、行方不明者は延べ約一万八千五百人。突如発生した脈略のない暴力はでたらめな数の生命を飲み込んで、残骸だけを残してそのまま海へ帰っていった。親戚、知人の一切いない遥か東の地で起こった出来事を見ながら私は思った。
テトの散歩に行かないと。
*
すました顔で尻尾をプロペラみたいにぶんぶん振り回すテトと一緒に玄関を出た。ふと、近所の野良猫が現れた。真っ黒の毛並みと金色の瞳がテトを一瞬見据えた後、離れていった。その一瞬間でテトは怪物でも見たかのように硬直した。そのうちに、猫は重力を感じさせない軽やかな跳躍で塀を飛び越えると、一切の迷いなく隣の田崎家の庭へと入ってゆく。家の誰かが餌付けでもしているのだろうか? と考えたところで、ビュッ、と強い風が吹いた。
「さむ……」
リードの持ち手に手首を通し、そのままポケットに突っ込んだ。
多分、他の家のペットと比較して落ち着いている我が家の愛犬は、私の後ろを一定の間隔を保ってついてくる。少し陰りの見える住宅街を歩き、しばらくすると目の前に現れる小さな階段。それを登れば河川に沿って続く土手に辿り着く。河川には決して小さくはない橋がかかっていて、そこを渡った先には田畑が広がっている。普段司がどのルートを通っているのかは分からない。知ろうともしなかった。けれど、流石にこの橋を渡ることはないだろう、と考え、橋に差し掛かったあたりで反転し、復路に入った。
右手に見える河川敷を眺めながらとぼとぼ歩くと、しんと落ち着いた空気に騒ついていた心が同調していくのを感じた。
河川敷のサッカーコートで遊んでいる父子を見つけた。楽しそうに掛け声を出し、ボールを蹴りあっている。目を細め、しばらく呆然とその様子を眺めていると、子供のほうが私に気が付いて何やら指をさしてきた。私はそこでようやく、はっとして歩き出した。しばらく歩いて、もう一度、二人を見た。彼らは私と一匹のことなどとっくに忘れた様子で、また楽しそうに遊びだした。その光景に何故か惹かれて見てしまう。きっと、これは羨望なのだと思う。理想的な家族像を前にして、私は、ふぅ、と深い息を吐いた。白い息とともに無駄な感情を排斥した。
父性や母性の中に、決まって含まれていなければならないものは、子への愛なのではないかと思う。翻って見れば、子への愛がなければ、父でも母でもないのだし、誰からも愛されないなら子供ではない。いやしくも子供を自称するのなら、誰から愛されているのかを自覚せねばならない。
私には時々、自分に向けられる愛の出所が分からなくなることがあって、そう思うにつけ、子供の条件を満たしていないのではと考えてしまう。父や母の親らしい一面を、つまりは私たちを愛してくれていると思わせる一面をかれこれ数年ほど見ていない気がするのだ。どうすればいいだろう。この寄る辺なさを。
そんな風に自信を無くした時、私は何も考えないことにしている。
すべきことも、やった方が良いことも山積しているのだから、そこにだけ目を向ければいい。その間だけは、迷わなくて済む。
そう。例えば今は、ただ家に帰るのだ。
ふと、テトとつながっているリートがピンと張った。振り返るとテトは地べたに座り込んでいる。
「帰るよ」
冷たく言い放つが、一向に動く気配を見せてくれない。そして有ろうことか次は土手を勝手に下り始めた。
「え、ちょっと」
大型犬のびっくりするくらい強力な力に引っ張られて、土手を下ると、そこにはベンチがあった。サッカーコートから少し離れた位置にあるそのベンチの下にテトは頭を突っ込んで何か探すように首を動かした。所詮は犬よな、と思いながらその様子を呆れた顔で眺めていると、何かを咥えたテトが戻ってきた。
「あ……」
それは、司の携帯だった。犬って偉大だな、と感心しながら、受け取るものの、それは泥まみれでびしょびしょだった。どこを押しても引いても、反応すらしない。おそらく壊れているだろう。過去二日間において夜に雨が降っていたのを思い出す。
それは、まあ、雨に打たれれば壊れるよな。
*
翌日。ヴァイオリンと重い気持ちを提げながら、外に出ようとしたとき、テトがこちらに近寄ってきた。昨日はありがとな、という気持ちを込めて、頭を撫でるが、やはり振り払われる。
齢五歳になるこのゴールデンレトリバーはいつも朝夕と司が散歩に連れて行く。だから、ここ三日間は私がその代わりをしているのだが、その何か訴えるような眼を見て、今朝の散歩を忘れていた事に気が付いた。
「そっか、ごめんな。帰って来たら連れてくから」
そう言い残して、玄関の扉を閉めた。完全に締まる直前、諦めたように家の奥に消えてゆく愛犬の姿が見えた。
バスで八分。同じ手順を踏んで病院にたどり着く。そういえば何か持って行った方がいいだろうか。そう思って、エントランスの脇にある売店で適当なお菓子をいくつか買った。交通系ICカードで支払うと、残高が帰りの運賃に僅かに届かないことに気が付いた。
私もたまに、抜けているところがある。
広いエレベーターで三階まで上がり、L字の通路を曲がる。病室の扉の前に立った。自分の心に余裕を与えないためすぐさまノックをした。しかし、帰ってくる声はない。怪訝に思いながらももう一度ノックをした。やはり返ってくるものはない。その手続きを都度、五回繰り返して、やっと、部屋の中から小さな声で「はい」と聞こえた。
想像以上になめらかな扉を横にスライドさせるとまず飛び込んできたのは、なぜか涙を流す司だった。彼の後ろから、テレビが今朝からしきりに放送されている津波の映像を映している。
最初の言葉を謝罪にしようと決めていた。
実は、司が倒れた日、私の携帯電話に彼からの着信履歴があった。それが彼の身に起こった危機を伝えるもので、私がそれを無視したのだとしたら、どれだけか細い思いをさせたことだろうと、気が気でなかった。あの時私はどうせ大事じゃないだろうと、震える携帯電話を無視したのが、ずっと罪悪感として残っていた。
しかし、無表情の泣き顔を見て、「これは私の弟だ」という気持ちが体を貫いた。今まで一番近くの他人だと思っていた子供が家族なのだと知り、同時に今まで思考がどこかに霧散し、探していたものが現れた気がした。
ゆっくり横まで近づくと、彼は頼るように私の腕をつかんで、そこにずっしりと全ての体重を預けた。小さな体はやたら重く、ベッドのシーツには言うまでもなく涙が滴り滲む。しばらく、止むことのない本当に静かな泣き声がじんわりと病室に充満した。最初は遠慮からか何とか体を支えていた彼の腕が力をなくし、ついには私の腹に顔がうずまった。
こういう時、どうしたらいいのか。何が最適なのか。
呆然としてしまい思考が回らない。よしんば考えられるだけの冷静さが残っていても答えは出そうになかった。
ただそばにいることしかできそうにない。家族が、それも一番多くの時間を共有した奴が、理由は分からないにしても傷ついている。そんな時に最低限何をしたらいいのか、私には推測することもできない。データがないから分析できない。答えを導くための材料が圧倒的に足りない。それだけでなく家族にはこうあってほしいという理想が私の中に無いのだと気が付く。
小林司という人間と多くの時間を共にしながら、弟と暮らしている自覚を捨てていた。不甲斐ない。その意味からも「ごめん」という言葉が出そうになるけれど、そんなもの必要でないことは、いやしくも人間である私にも分かることだ。
時間に身を預けているうちに、最もあり得ないと思っていた言葉が、心底から漏れてきた。
「大丈夫」
安心させたくて、弟の背中に手を回した。
【第三章 二〇一〇年】
名鉄東岡崎駅を降りて閑散とした住宅街を歩くこと五分。私の通う音楽教室は、藍色の空を背景に怪しく光っていた。
うだる夏の日。記録的猛暑により連日テレビから熱中症による死亡者が報道され、全国に警鐘が鳴らされた。一方で日本経済は凍えるような停滞状況を続け、返す刀で切られるように中国がGDPで日本を追い抜き世界第二位の経済大国となったことが、日本の労働戦士を戦慄させた。
しかし、どれも所詮は大人の世界の出来事であり、私の心は平熱だった。
音楽教室の前には自販機とベンチ。夕暮れ時には近くの駄菓子屋のアイスを片手に談笑する子供の姿が見られるが、現時刻ではお菓子の袋が落ちているだけだった。風に煽られ飛んでゆきそうな袋を、烏が咥えて飛び去った。ちょっと綺麗なものを感じてそれを眺めた後、私は自販機の前に立つ男子に話しかけた。
「こんばんは」
彼はいつも通りの涼しい視線をくれた後に「こんばんは。飯田」と挨拶を返してきた。
毎週木曜日午後八時。音楽教室。この時間、この地点において、私たち二人の予定は重なる。
知的で冷静で、嘘みたいに謙虚。というか主張のない男子。兄の対極に位置するこの人物に好感を覚えるのにはさほど時間はかからなかったのだが、私の内情とは裏腹に、知り合ってから最初の数か月間、彼は一向に私の顔と名前を覚えないという驚異的な他人への頓着のなさを発揮した。いや現状でも苗字以外を覚えているのかはほとほと怪しい。
司は硬貨を入れて、その細く綺麗な指で左斜め上の天然水を選択する。そんな何度も見た所作のあと一口水を含んで、物憂げに街灯に群がる羽虫の方へ首を傾けた。ふと、彼の頬に痣が出来ていることに気が付いた。
「惜しかったね。この前」
私の言葉に、彼の首がまたこちらに向き直る。
「何が?」
司は驚くほどあっけらかんとそう返した。
「コンクールだよ」
彼は本当に忘れていたみたいに「ああ」とぼやいたあと「三番だったけどね」と紡いだ。
名古屋で行われたジュニアコンクール。上位二名は、埒外に上手かった。聞いた話によると親がプロなのだとか。住んでいる世界が違うというか、宇宙人だった。それを除けば人間筆頭ともいえる成績を残した司だが、彼の顔には悔しさも惨めさも歓喜も感慨も、果ては何の感情すら映ってはいなかった。
その時、教室の扉が開き、紗枝が姿を見せた。音楽教室の冷えた空気が吐き出され、ふくらはぎに届いた。
「あんたの番」
紗枝が言った。それに促され司は「じゃ」と残して建物の中に入っていった。
「何話してたの?」
司の後ろ姿を追っていた私は、はたと声の主を見ると紗枝の視線がこちらを捉えていた。
「この前の──」
「コンクール?」
かぶさるような確認の声に私はうなずく。
「あいつ、なんか言ってた?」
「悔しいって」
「嘘だ」
「もうばれた」
紗枝は苦笑の後に、さも卑屈さを顔に貼り付けたまま言った。
「司が結果を気にするはずないよ。心が鋼鉄製なんだから」
返す言葉はなかった。正論というよりも、それは確定事項のように思えた。
この時になってようやく先ほど湧いた疑問をぶつける。
「そんなことより司の、あの痣。あれ何?」
「ん? ああ。あれね。父さんにやられたの」
「え、ダメじゃん」
「大丈夫。よくあることだから」
「余計ダメじゃん」
「ほんとに平気だよ」
紗枝のどこか諦めの滲む声が、私には危険信号のように感じられた。
「いやそれってほらストックホルムなんちゃらって」
「そんなの良く知ってんね。けどあれ、加害者のこと好きになるんでしょ? 私と司は父さんのこと死ぬほど嫌いだから関係ないと思うよ」
「えぇ……」
戸惑う私に、一瞬だけ目を閉じた紗枝は思い出すように語り始めた。
「ちゃんとした人に教えてもらえってさ」
何の話か分からず首を傾げた私に紗枝は補足する。
「あいつ、才能あるからさ。音楽教室なんかじゃなくて、しっかりした専門の人を家に招いて教えてもらった方がいいって、父さんに言われたの。でも、珍しく断ったんだよね。そしたら……殴られた」
どう反応していいのかわからなかったけれど、別に疑問の残る話ではなかった。司みたいに才能があっても情熱の欠けた人は、たとえ一流の環境に身を置いたとしても、成長しなさそうということは何となく理解できる。
紗枝は自販機の前まで来ると、先ほどの司と同じ動作をまるで見ていたかのようにそっくりそのまま行った。羽虫に虚ろな目を向ける紗枝の姿を見ながら遺伝子の凄まじさに呆気にとられていると、彼女はしかめた面を向けた。
「何?」
「いや、仲いいなって」
こぼれた言葉は、表層意識にあったものからは少しずれていた。
紗枝は目を丸くして、「あれと?」と言って、司が入っていった扉を一瞥してから「まさか」と乾いた笑い声を漏らした。
「じゃあ悪いの?」
紗枝はしばらく黙ってから、自信なさげにねだる様な顔で「逆にさ、仲の悪い姉弟っているのかな?」と変に歪な質問で返した。
「いるよ。そりゃ。私ん家とかまさにそんな感じだし」
わかりきったことだ。そう思って答えた。意外そうに「へ~」と吐き出す彼女からはどこか無垢さがある。
「わかんないな」何も含まれていない、乾燥した口調だった。「私、司のこと良く分かんないからさ、きっと、仲が良いとか悪いとか、それ以前の話なのかなって」
小林姉弟は、たまにこういう乾いた気配を纏う。それが本人たちの生まれ持った資質なのか、それとも育った環境のせいなのか、はたまた私にそう見えてしまうだけなのかはわからないが、ともかくとして、私の知る一般の子供とは一線を画すような達観した雰囲気が、彼ら二人にのみ纏わり付いているように思える。
生ぬるい風が吹く。家屋の上に悠然と佇む烏がこちらを睨み「ガー」と鳴いた。
「はぁ~。あつ」
襟元をパタパタと扇ぎながら紗枝は建物の中に体を入れた。その影を追うように、私もうつむいたまま歩き出した。
*
兄が嫌いだ。
頭が悪く、直情的で、がさつで、うるさい。けれどいつも周りには誰かがいる。そんな兄、飯田翔に対する嫌悪と劣等感が私の人生の羅針盤だった。
「美佳は本当にいい子なのよ」
親戚の面々に向かって母はいつも私のことをそう紹介した。そして「でも翔はね」と続けた。今思えば親としてはあまり褒められた人格の持ち主ではなかったと思える。身内とはいえ他人に自らの子供を比較し、あまつさえ評価を伝えるなど非常識の部類だ。なんだろうか。いわゆる毒親というか、母からは私たちを慮るというよりかは、宝物を丁寧に扱っているような印象を受ける。私たち兄弟は、本人の自覚はともかく、母のなかでは所有物のような位置にいるのかもしれない。けれど、そんなものはどうでもよかった。私は兄に比べ少しでも勝る部分があるのであれば、他人に生き方を固定されたとしても何ら気にしないのだ。
さて、なるほど、いい子か。悪くない。私はいい子なのだ。兄とは違う。
私は早い段階から自らにその設定を追加し演じることにした。
いい子たる条件はいくつかあるのだが、最重要は面倒くさい奴だとは思われないことだ。正義とか道徳とか仁義礼智とか関係なく、他人の都合を優先し、極力自分の欲求を殺しさえすれば、誰でもいい子になれる。方法は安いが、対価は安くはない。不自由を自分に課すわけだから当然だ。けれど、自由が何かを手放す対価として得られるものならば、不自由を甘んじて受け入れることによって得られるものは多い。周りからの評価とか、信頼とか、教養とか、優越感もその一つだ。
そうして唯一譲れない点として残ったのは、兄が嫌いだ、という精神の芯のみだった。この一点に限れば、私はだれよりも頑固になれる自信がある。これを捨て去れば、全てが壊れる。
飯田翔は努力というものをしない。先述した点を持ち出せばわかるように、およそ関わりたくない要素を詰め合わせたようなこの男と一つ屋根の下で生活せねばならないのは私の要求とは関係なく天から与えられた人生の汚点である。断言しよう。家族というのは呪いだ。私は何とかこの兄を反面教師にして、勉強のほか、身の回りを清潔に保ち、人には優しくし、何事も丁寧に扱い、謙虚に生きることにした。
このような経緯により、私、飯田美佳の生き方は固まった。
私が小学四年生の時、それまで通わせてもらっていた近所の音楽教室が閉業することになった。これを機会に、別の習い事をするか。そんな提案が母の口から出てきた。けれど私はかぶりを振った。
別にピアノが好きなわけではなかったが、ここでやめてしまえば自分の付加価値が下がるような気がしたのだ。果たして私は少し遠くの音楽教室に通うことにした。母は「前のとこより高いわ」と何度も言っていた。けれど、家計を圧迫する代わりに、そこで自分の上位互換と出会ったのは幸運以外の何物でもない。
小林司は、自己を極力殺し、親に従順で、行動全てが効率的だ。
つまり無駄な要素がない。
どこから見ても世間が望む合理的な子供ですぐ私の憧れになった。
「小林は、ロボットだよ」
忌まわしい兄は、しかし、私の憧れを簡単に貶して見せた。
「教室でずっと笑わず本読んでんだよ。何考えてんだかな」
兄は歪に口をゆがめて見せた。その視線の先には今朝死んだカブトムシがいる。兄はせっせとその墓を作っているわけではなく、ただ死骸を処理するために手持ちスコップで中庭に立つドングリの木の根元に穴を掘った。
「嫌いなの?」と私。
「嫌いだね~。めちゃくちゃ」
類は友を呼ぶという。少なくとも人種のかけ離れた司のことを兄が毛嫌いするのは頷けた。
ザク、とスコップをわきに突き刺し、カブトムシの死骸を小さな穴に放り込んだ。その上からまた土をかぶせる。タンタン、と盛り上がった土を足蹴にした後、兄はこちらを一瞥した。
「お前、あいつ好きなの?」
「違うけど……」
兄の目が細められた。私は唇をしまい、何の感情も顔に出さないように努力した。
「……変な奴」
「違うって!」
兄はへらへらと笑いながら、私をあしらい、その場を後にした。
中庭に面している台所から母の声と、飼っているチワワの鳴き声が聞こえる。私は置き去られたスコップをため息交じりに拾い上げた。
やっぱり嫌いだ。
猛暑の終わりを知らせるように、少しひんやりとした風が吹いた。
*
九月下旬。近所の文化会館で発表会が行われた。特に気張るような行事でもないので、軽い気持ちで挑み、結果やんわりと担当の先生からダメ出しの嵐を食らった。前の音楽教室とは違ってちょっぴり本格的なのだな、と認識を改めることになった。沈んだ気持ちで、午後の空でも眺めようと自動ドアをくぐる。すると、木陰の下で紗枝が誰かと電話していた。そこから少し離れた位置に、置物みたいに無表情の司が立っていた。
「お疲れ」
司は私の声に「うん」とだけ淡白に答えると、自らの姉の方に目を向け短く言った。
「母さんと話してるんだ」
それはおそらく私が向けた疑問の眼差しに対しての回答だろう。
「じゃあね」
ちっとも楽しくなさそうに紗枝が電話を切った。そしてため息交じりに「今日来れなくなったって」と司に言った。
「どうすんの」
紗枝の言葉に、面接官の様な雰囲気で司が聞き返した。
「田﨑のおばさんに、頼んどいたってさ」
「ここに来てくれんの?」
小さく横に首を振ってから、紗枝が「隣の体育館。今ミニバスの試合やってるらしい」と文化会館のさらに向こう側を見る。
「ああ」
それですべて理解したとでも言いたげに、司が頷いた。田﨑というのが誰なのかは知らないけれど、多分懇意にしているご近所さんか、親戚といったところだろうか。隣で行われている大会というのは奇しくも私の兄が参加している大会であり、母から発表が終わったらそっちに来るように最初から取り決めていた。かくて、この時点で自分と小林家の予定が重なった。
まだ、発表が残っている紗枝を残し、私と司で隣の体育館に移動した。涼しい文化会館に楽器を置いてきた司と、元から何も持っていない私という手持無沙汰のガキ二人が、それなりに着飾った格好でむさくるしい体育館に訪れるという場違いな状況がなんだかへんてこだ。
「司君。こっちこっち」
体育館の入り口に目鼻立ちのくっきりとした凛々しい中年女性が立っていた。彼女がきっと田﨑のおばさんだろう。おばさんという程老けては見えなかった。そしてその横になぜか私の母がいた。小太りのパッとしない私の母は、その傍らに立つマネキンみたいな理想的母親像と比べるとずいぶんと滑稽だ。ちゃんとしたおばさんだ。
殺伐とした体育館一階から階段を上り、二階に移動した。一階とは対照的に、何処か気の抜けた賑やかな雰囲気があった。試合そっちのけで談笑にふけるママさんたちの姿がちらほら。殺気すらまき散らして応援するような保護者は一階に集められているらしい。
母と田﨑のおばさんは、子どもが同じクラブに所属している経緯から知り合ったのだと、聞いてもいないのに教えてくれた。
母らの会話は、母が一方的に語り田﨑のおばさんが相槌を打つという一辺倒な展開だった。それは田﨑のおばさんが聞き上手なのと、うちの母が聞かせ上手だから成り立っている光景だった。私たち二人をそっちのけで話を続ける二人だが、ポカンと突っ立っている司と私に気が付いたおばさんの方が、主に司に向かって「あっちに夏がいるから」とだけ言った。司はそれに対して呆れたような表情をした。しかし、特に何か言うわけでもなく、歩き出した。このまま待つというわけにもいかないので私は彼の後を追った。
二階テラスの隅っこに、件の夏さんがいた。おばさんによく似た顔立ちだからすぐにわかった。地味でもなく、派手でもなく、鼻につくわけでも、癪に障るわけでもない。けど物語の主人公のような、どこか特別な印象が彼女にはあった。
田﨑夏は何人かの友達に囲まれて、とても近づいて良い雰囲気ではなかった。彼女らからやや離れた位置にとまり、司は全く関係のない風を装って、一階で繰り広げられているバスケの試合に視線を落とした。私も彼に習って、手すりに体重を預けた。
すると、すぐに何かセンサーでも搭載しているかのような挙動で、夏が周囲を見渡し、すぐにこちらの存在に気が付いて迷いなく近づいてきた。司は最初からそうなることが分かっていたかのように軽く片手をあげた。普段の彼からはかけ離れただらしない所作だった。
「話しかけろよ」と夏。司のすねを軽く蹴りながら、しょうがねぇ、という顔をしていた。
「無理だろ」
至極真剣に司が言った。短くてぶっきらぼうなやり取りが、短くない時間の中で醸成された二人の関係性を表している気がした。
ふと、夏の視線がこちらに向かった。上位の捕食動物に睨まれたように私は勝手に委縮する。そんな情けない私を助ける意図があるのかはともかく司の口から「飯田の妹だよ」と出てきた。
「え……」
夏はよく確かめるような眼差しでこちらを舐めつけた後「うそ。似てない」とこぼした。私はこの少女に好印象を持った。私にとって、兄に似ていない、は誉め言葉だった。
「降りてるね」
不意に私たち三人の外部からそんな声がかかる。見ると声の主は先ほど夏を囲っていた少女たちの一人だった。夏は「わかった」とだけ爽やかに返して、その群れに小さく手を振った。少女たちも手を振り返す。その直後、彼女たちの値踏みするような視線が、一瞬だけ私を捉えて離れていった。それだけで、何となく田崎夏のあの集団内での立ち位置が知れた。この人はたぶん本物の「いい子」だ。
ガシュ、と音を立ててリングにボールが入った。ぶわぁ、と緩やかに歓声が上がる。気が付けば、さっき負けていたチームが逆転している。
「今、兄貴出てるよ」
夏が私に向かって言った。確かに今シュートを決めた背番号一三は兄だった。相手チームがタイムアウトを入れ、試合が一時中断される。ベンチに座った兄は二階の方へと視線を巡らせ、私たちの存在に気が付いた。それほど離れていないから輪郭までくっきりと把握できる。
「女子は勝ったの?」
「負けた~」
二人が何気ない会話をはじめた時、私は心だけが弾かれたみたいに、居場所をなくした。意識を下に落とすと、兄がこちらをじっと見ていた。彼は夏を数秒見上げた後、私を、それから司の姿をゆっくり捉えていく。確実にその目元には私が知る中で最も強い類の感情が映っていた。私だけが見たその意外な兄の表情は多分一番知っておくべき二人にだけは見られなかった。じくじくと不快さが全身を巡る。不思議と兄の感情が行き場をなくしていることがたまらなく、私にとっても屈辱的だった。
その後、ややあって「俺、ちょっと飲み物買ってくるよ」と司はその場を離れ、残された私たち二人は数分の気まずさを味わった。
「ねぇ。下の名前なんて言うの?」
夏が話しかけてきた。放っておいてほしいと思いつつ、相手が話しかけてくれると、どこか救われたように感じるのは不思議だ。
「美佳です」
「どう書くの? 美しいに……香る?」
「いや、カはケイって読むほうです」
「……ああ、にんべんのほうね」
「そうです」
私がうなずくと、夏は困ったほうに頬を掻いた。そんな表情を浮かばせることをしただろうか、と自分の行動を振り返る。けど落ち度はないはずだ。
「そんな畏まらないでよ。なんか悪いことしてるみたいじゃん」
私が驚くと、彼女はきっと私を気遣って笑って見せた。他人に言われて初めて余裕がなかったのだと気がつくと同時に、敗北感らしきものに頭を殴られた。
「美佳ちゃんは、司と同じ所行ってるんだよね?」
あえて私を見ることなく、彼女は一階の試合を眺めながら言った。
試合は最終クウォーターに突入している。ベンチからあふれる声援が不協和音となり私の胸をざわつかせた。
「うん」
「何弾くの?」
「ピアノだけど」
「すごい」
「全然。はじめたばっかだし。何なら司の方が上手いし」
「司とは比較しちゃだめだよ。いろいろ変だもん、あいつ」
また不快感が胸ににじんだ。何かを得意げに説明するような批評家めいた響きがあった。
「……心が鋼鉄製だからね」
試すような口調で、いつか聞いた言葉を夏にぶつけてみた。すると、彼女は手すりに預けた腕に顎を乗せながら「う~ん」と唸り「いや、ちょっとずれてるだけだよ」と続けた。
「どういうこと?」
その時、田崎夏の流し目が一瞬、私の核心を穿つように貫いた。そして不自然な間が挟まったのちに、「急所がね。他とは違うんだと思う」と確信に満ちた口調で放った。
「急所?」
「そう。誰にでもあるでしょ。それを捨てたら、人生がガラッと変わっちゃうような」
それはすんなりと理解できる話だった。生きていく中いつの間にか頼りにしている行動指針。いついかなる時も自分の行為を支える心の拠り所。逆にそこを攻撃されない限り、人は存外にしぶとい。
小林司には、他の子にはない強さがある。けれど、彼が人間である以上、間違いなく何か寄る辺があるはずだ。それは私には思いもよらないもので、もしかしたら他人が故意に干渉できないものなのかもしれない。
とするならば、司は強いのではなく私たちの生活圏とは一線を画するところで、別の戦いをしているのだろうか。
その時、試合が終わった。兄のチームは二点差で敗北した。
*
夕暮れ時に大会が終わった。兄のチームは準優勝という結果を残す。
少し不機嫌な私と兄を連れたって母はずんずんと体育館裏の駐車場を歩いた。
「兄ちゃんさ」
私が話しかけると、兄は首をこちらに向けた。少し前を歩く母もちらりと覗いてくる。
「夏ちゃんのこと好きなの?」
兄は唇をしまった後、少し間をおいて「……違うけど」と答えた。それは本当に造作もない口調で、その声色だけで判断すれば、私の勘違いということで終わりそうだった。
「ふ~ん」
私はさも当てが外れたかのように返した。
だいぶ昔、私が「あんな野蛮な兄と血がつながっているなど信じられない」と母に言ったことがある。それに対して母は一つの癖を持ち出して否定した。
「ちゃんと兄弟だよ。あんたら」母は少しほうれい線の入った顔に幼げな笑みを浮かべた。「あんたたち二人とも、動揺すると、必死にそれを隠そうとして唇をしまう癖があるからね」
母は嬉しそうにそう言うのだった。
私は兄が嫌いだ。母も大好きじゃない。きっと、他人だったら関わろうとしないだろう人達だ。ふと、後ろで烏が鳴いた。それに反応して私だけが振り向いた。地面には、母と兄と私の影が一つに重なっていた。それを見て、なんだか和やかな気持ちを抱きながら、こう思った。
なるほど、家族って呪いだ。
【第四章 二〇〇九年】
「テト、散歩行くよ」
玄関から聞こえるその声に応じて私は寝ていた体を起き上がらせる。てくてくと歩いてゆくと、いつも通り、物憂げな表情で司が靴ひもを結んでいた。彼は私の足音に気付くと、こちらを向き、私に首輪とリードを取り付けた。
玄関を出て、西日に照らされる道路を歩く。階段を上り土手を越え河川敷に辿り着く。そして、サーカーコートからやや離れたベンチに腰を下ろすと、彼はぼんやりと流れてゆく水を眺め始めた。
いつも通りの景色。
いつも通りの散歩
いつも通りの飼い主。
これらが私の世界の大方を構築しているので、つまり、私の世界は今日も大方いつも通りだった。司が川を眺めていると、通りかかった母親の集団が近づいてきて、甘ったるい声を出した。
「かわいいですね。撫でてもいいですか?」
言外に、いいに決まってる、と言いたげな目に対して、司はちらりと私の目を見てから「いいですよ」と答えた。乾いた川の石みたいな匂いのする女性の手は、不愉快な手つきで私の頭と首をまさぐった後、離れた。それから、二三ほど司と言葉を交わして、彼女らは帰っていった。
「いいな」
ややあって、今度は司が私の頭に手を置いた。しかし、ただ私がそこにいることを確かめるように彼の手は動くことはなかった。一人と一匹だけが残る静まった河川敷に、初夏の湿った風が吹いた。黄色のセイタカアワダチソウが、ゆらゆらと揺れていた。
「どうしたら。お前みたいに愛されるのかな」
呟かれた言葉は、どこか感情が抜け落ちていて、凍てつくようだった。
鼻を近づけ、彼の掌の香りをかぐと、ほのかに木の匂いと血液がぎゅんぎゅんと回る音がした。くすぐったかったのか彼の口元が和らぎ、掌がやさしく頭をなで始めた。その感触を確かめていると、ぬくもりが体から離れた。そして見開いた私に「帰ろうか」と声がかかる。少しだけ、日が動いていた。
*
三年前。血統書付きゴールデンレトリバーとして小林家に来た。
最も私と深く関わるのは司と呼ばれる少年とその母の陽子だったが、陽子は私の世話をするというよりかは可愛がりに来ている節があるために、実質的に私の飼い主は司だった。
私は、犬として心身共に健康的だ。満足な食事を与えられ、適度なストレスにさらされ、規則正しい生活を送っている。犬である私はそれで十二分だけれど、人間は「ひたすら生きること」の更にそれ以上を望む生き物だから、彼は平生どこか不健康な顔をしている。
「人間と、ほかの動物の違いは何だと思う?」
ある日、近所の猫がそんな風に話しかけてきた。ベランダの物干し竿の下で優雅に腰を下ろすその猫は、全身が黒の毛並みで不吉な外見をしているが、金の瞳の中には理知的な光を宿していた。
「集団の数だろうか。人の群れは膨大だ」
「なるほど。悪くない答えだ」猫は偉そうに私の答えを評した後、欠伸を挟んで続けた。「人間の顕著な特徴の一つは、意図的に集団の中で自我を希釈し常識を作ることだ。そうしなければ集団を維持できないし、集団を維持しなければ、人ひとりが生きることもままならないからだ。お前が言うように、人は膨大な頭数で集団を作るが、これは人間の習性が生み出した一種の副産物と言える」
「常識が群れの中の規則だとすれば、それは人間だけの特徴とは言えなのではないか?」
猫は小さくかぶりを振る。
「いいか。意図的に、という部分が重要なのだ。例えば猫が集団と規則を作るとき、本能によって作られる。生まれた時から私やお前のような動物は群れを作るように設定されて生まれている。そこに心は介在しない。ただ我々はそういう生き物であるというだけだ。しかし人間は違う。人間は集団を作る際、己の心を削りあうのだ。群れに含まれる個人たちが、少しずつ我慢し、妥協し、調和を生む。小さな自己犠牲の積み重ね上に、成り立っているのが人類なのだよ。だから多様だし時代と共に歪んでゆく」
猫は、ぐっと腰を丸めると、隣家へと跳躍した。そしてそのあと、こちらを振り向いて「だからな、人間っていうのは生物として本当にダメな奴らなんだ。関わろうとするもんじゃない。心の削りあいに巻き込まれるからな」と、そう残して、去っていった。
心を傷つけあうのが人間の習性だと猫は言う。
本当にそうだろうか? もしも、それが正しいとしたら、誰も生きようとしないのではないだろうか?
*
「帰ろうか」
そう司が口に出した時、一人と一匹の影が近づいてきた。見知った顔だった。飯田というその少年は、軽く手を上げ司の横に座った。それと同時に、一緒に来たチワワが私の腹のにおいをかぎ始めた。
「司様にどうしても頼みたいことがあるのですが」
「やだよ」
「これなんですがね」
「興味ないって」
「頼むよ」
そうして、何か薄い冊子を押し付けあった後観念したように、司はそれを受け取ると、中に何か書き込み始めた。
「やぁ、助かる」
「これさ、僕に何かメリットあんの?」
「じゃあ、これやるよ」
飯田は懐から新品のリストバンドを手渡した。目を丸くして司はそれを受け取る。
「何これ」
「リストバンドだよ」
「そりゃわかるけどさ。なんで?」
「前バッシュ買ったときに特典でついてきたんだけどさ。ポッケに入れっぱなしだった」
「ふ~ん」
司は無表情のまま、リストバンドを見つめた。飯田の顔がみるみる暗くなる。
「いらないなら別にいいぞ?」
「うれしいよ。凄く」
「ほんとかよ」
嘘をついていると決めつけるような言い草で、飯田が言い放つ。
「お前って何考えてるかわかなないよな」
「翔はわかりやすいよね」
飯田は苦笑いを浮かべながら、司に続けて問いかけた。
「じゃあ今何考えてるか当ててみろよ」
「申し訳ないな、って考えてる」
「すごいな」
「顔に書いてあるよ。もし君が平気な顔してたらこんなことしてない」
「そっか」
風に運ばれて、私の鼻に飯田の首元の制汗剤のにおいが届いた。チワワが私の周りをぐるぐると回り、おちょくってくる。それを制止するかのように、飯田がチワワを抱きかかえた。
「お前ってさ、好きなこととか、嫌いなこととかあるの?」
なぜか私のほうを向きながら、飯田が司に言った。
「虫が好き。で、人間は嫌いかも」
「かも、ってなんだよ。はっきりしないな」
「心って複雑なんだ。嫌いが好きになったり、好きが嫌いになったりする。だから僕の好き嫌いは、僕の本心じゃないかもしれない」
「よくわかんないけど、でもそういうの全部ひっくるめてお前なんじゃん」
飯田は何の気なしに、たぶん本当にすぐさま思ったことを口にした。司はぎょっと目を見開いて、飯田のほうを見た。
「なんか変なこと言ったか?」
しかめた面を見せる飯田に、冷静さを取り戻した司は川の流れを眺めながら、うなずいた。
「うん」司はもう一度、何かを確かめるようにうなずいた「翔の言うとおりだよ」
自転車で土手を並走していた中学生が、元気に「さようなら」と声を掛け合っている。川向こうの電柱からたくさんの小鳥が羽ばたいた。その群衆は一つの生物のように空中をうねり、太陽から逃げるように東の空に消えていく。
「あ、一つ好きなものがあるよ」
思い出したように司が言った。
「なんだよ」
「川が好きだよ。大量の水が全部流し去ってくれるところを想像すると、背中がぞくぞくする」
返す言葉が見つからない様子で、飯田は黙りこくりチワワの顎を撫でた。そうこうしているうちに司は何かを書き終えた様子で、冊子を飯田に返した。太陽はその姿のほとんどを地平線へ隠し、空は藍色に染まり始めた。
*
司は、内側がひどく脆い子供なのだと思う。誰がどう見ても大きな欠点のない小さな少年は、私の前では静かに泣くことがある。誰の視線もない公園やあぜ道や河川敷などで、ふと見上げると、頬に涙が伝っていることがある。何が奇妙かっていえば、それがあまりにも静かなことだ。嗚咽もなければ、息の乱れもなく、ただほろほろと、本人も自覚できているのか疑わしいほどにすんなりと彼は泣く。
涙は心の出血だ。ともすれば、彼はいずれ内側から壊れ倒れてしまうのではないか。いつの日か、息をしない小林司の姿。それを想像したとき、心底から肝が冷えた。
肝が冷えたということは、お前はその恐怖の分だけ、あの少年を愛しているのだろう。誰かからそう言われた気がした。
とある秋の日、司との散歩の途中で猫の死体を見た。その黒色の毛並みと半分しか残っていない頭に付いている濁った金色の瞳には、確実に見覚えがあった。私が足を止めると、司もつられて足を止めた。
「知ってんのか? 近所の野良だ」
多分、私に向けられたその声に答えることはできない。私には言葉がない。こんな時、言葉があれば、その配慮に満ちた声色を少しでも明るくすることができたかもしれない。
不意に思う。そうか、言葉か。
「歩こう」
そうつぶやいて彼は歩きだした。その小さな後ろ姿は、何かにおびえているように見えた。
いつか、彼を安心させられる言葉が投げかけられることを私は、切に願った。