澄んだ空のような静寂が耳を包んでいた。風が頬を撫で、微かな音が耳を打つ。さざなみのように起こった苛立ちと共に、ヘッドホンを着ける。しかし、そこからは何の音も流れない。再び、静寂が私を包んだ。
ふぅ。
息を吐く音。体の中で大きく響く。……ノイズだ。軽く歯噛みをして歩き出す。呼吸の音、心臓の音……これもノイズ。イヤーマフを操作する。ヴァイオリンの音。パッフェルベルの『カノン』だ。
この曲は好きだ。騒がしくなくて、何より、人の声を感じない。
……ただ、私の音を消すには、優しすぎるのが玉に瑕だ。
*
「畜生また止まりやがった!」
ピアノ型のコントローラーを殴り飛ばす。しかし音は流れない。プログラムエラーによって機能が停止しているため、やむを得ないと言えばやむを得ないのだが。
『しょうがないよ。HODの積載容量増やしたせいで駆動性能落ちてるのにあんな複雑なパッセージで動かそうとするから……』
コックピットに据え付けられたスピーカーから呆れたような声がする。
「俺にぼやいてる暇あったらもうちょいマトモな機体作れ!」
『無理だって。ASGとHODの積載バランスはEMI製造における永遠の課題だし……それくらい演奏者でも分かってることでしょ?』
「うるさい。俺の専属エンジニアなら、そのくらいどーにかしろ」
スピーカーから深い溜息が響いた。
『モレン……そんな調子で今度のコンペどうすんの。授業ばっくれてひたすらEMIの調整してんだから、コンペ取れないと単位やばいでしょ』
「……うるさい」
そう吐き捨てて、スピーカーの電源を切る。
このままではいけない。このままでは……。
そんなことは、俺が一番分かっている。だとすれば、問題は――。
*
私の目の前では、体長十メートル程の人型のロボットとクモのような形状のロボットが組み合っている。
……これが音楽大学の光景であると、十年程前に説明しても、一笑に付されていただろう。けれど、現代において音楽の姿はこんなSFみたいな光景に変わりつつある。それもこれも全部、Equality Musical Instrument、頭文字を取って、EMIと呼ばれるロボットがもたらした結果だ。
EMIは増幅音力発電機(Amplify Sound Generator)と、高調波出力装置(Harmonics Output Device )という二つのシステムを軸にして構成されたロボット……いや、開発者並びに、このロボットの普及を推し進めた我が校の学長に倣うなら、〝楽器〟だ。十メートル以上もの巨躯に乗り込んだ奏者が、楽器型のコントローラーを用いてHODを起動・操作するという点で言えば、確かにこれは楽器であると言えなくもないだろう。
……けれど、私はそれを決して認めない。認めたくない。
そんなことを考えているうちに、円形の建造物が見える。ダルヴァ大学本部だ。自動ドアを潜って支援センターへと向かい、ヘッドホンを外し、受付で事務的な会話を済ませ、手続きへと移る。数台置かれているコンピューターでの簡単なものだ。
転科手続書、転科誓約書……。転科一つでも中々面倒なものだ。うんざりしながら項目を埋めていく。
「……えーっと? マルカ・ヴァーチェ、一年生……。声楽科……おお。で、そこからどこに?」
「楽器制作科に……」
問いかけに答えかけたところで、私は勢いよく振り返った。眼鏡をかけた、髪を後ろに流した男がコンピューターの画面を覗き込んでいる。
「……人呼びますよ」
「ああごめんごめん呼ばないで! なんか奢るからさ、ね!」
周りを見る。人の視線が集まっていた。私としては別にこいつがどうなろうと知ったことではないが、騒ぎになるのは避けたかった。
私は目の前で手を合わせて頭を下げている男を見る。
……まぁ、悪い人ではなさそうだが、ヘッドホンをしていればという後悔は拭えなかった。
*
男はキャンパス内につい最近できたカフェに私を連れて行った。私はこの店で一番高いパンケーキ、男は少し青ざめると、ホットコーヒーを注文した。サイズはS。
「で、楽器制作科に進みたいってことだけど、それはどうしてかな?」
程なくして届けられたホットコーヒーを飲むと、男は私に問いかけた。
「……まず名乗ったらどうです?」
「あっ、ごめん。そうだよね。楽器制作科に進む女子って珍しくてつい……僕はブリオ。ブリオ・ラルゴ。三年生。よろしくね」
そう言って、ブリオは手を差し出してきたけれど、私はそれに応えない。そもそも答える義理がない。気まずそうに笑うブリオを無視して、運ばれてきたパンケーキを口に詰め込む。柔らかな甘味が口の中に広がった。
「……それ、美味しい?」
「……はい」
「そりゃよかった」
ブリオが、私の返事に……もしくは私が言葉を返したことに対してか、安堵の色を含んだ笑みを浮かべた。
「……で、なんで私につっかかったんですか」
「……そりゃあ、さっきも言った通り、楽器制作科に進む女子が珍しくて……」
「つまり、楽器制作科に進む女子が見つかるまで、ずっとあんな風にコンピューターを盗み見てたってことですか? 気持ち悪い……」
「いや、それは違う! 断じて! 断じて違う!」
「だったらどうしてです?」
ブリオが言い淀んだ。やはり、変質者なのかもしれない。見つからないよう、警察を呼べるように準備をしたスマートフォンを手に持つ。
「……人を探してるんだ」
ブリオが、重々しく話しだした。
「……」
私はブリオを睨みつけて、彼の言葉の続きを待った。
「……実は、君に目を付けたのも、楽器制作科に転科するのが珍しかったからじゃない」
「……声楽科だから、ですか」
ブリオは首を縦に振った。
「コンペティション……分かるかい? 学期末に開催されるEMIを使った競技会だ。それに、僕の友人と出てくれる人を探してる」
「……私、コンペになんて出る気ないですけど」
コンペティションに出る学生は二通りしかいない。まず一つは、学内外に自身の名を売り込みたい学生。コンペティションは学年問わずの競技会だ。例えば、一年生が名のある四年生を下したとなれば、学内では騒ぎになるだろう。また、EMIの操縦の練度は概ね楽器の演奏の練度に準ずる。つまり、コンペティションでの成績が良ければプロの楽団からのスカウトを受けやすくなるのだ。
しかし、コンペティションに出場する学生はこのような高い志を持った人間だけではない。単純に、進級が危うくなり、学園生活を懸けて出場している生徒も多い。コンペティションで勝ち上がれば、それは単位として認められる。話によると、コンペティションだけで進級に必要な単位を稼いでいる学生も、数名ではあるが存在するらしい。
さて、私はどうか。私は、別に単位には困っていない。それに、スカウトなんて狙ってもいない。そんなことを狙う学生は声楽科からの転科手続などしない。
「……いや、言葉を間違えた。コンペには出場しなくてもいいんだ。君の成績には傷一つ付かない。出るのは僕の友人で……」
私は、パンケーキを食べ切ると席を立った。
「……訳が分かりません。他の人を探してください。……パンケーキ、ごちそうさまでした」
「え、ちょっ、待ってくれ! きちんと説明するから……」
ヘッドホンをして、カフェから立ち去ろうとしたその時だった。
「……おい、ブリオ。誰だその女。彼女か?」
金属のように重くも、どこか陰鬱な声が背後から届いた。私は、ゆっくりと振り返る。ロクに手入れされていない、肩まで伸びたボサボサの髪、おそらくまともに眠っていないであろうことが伝わる濃いクマ、中途半端に生えているヒゲ……不吉を形にしたような男が、ブリオの背後に立っていた。
「驚かさないでよ……モレン」
少し息を吐いてから、ブリオが言った。モレンと呼ばれたその男はブリオを一瞥すると、すぐに私に目を向けた。私は本能的な恐怖を感じ、その場から逃げ出した。
*
「……おい、彼女逃げたぞ。追わなくていいのか?」
「……彼女じゃないし、逃げたのは君のせいだ。もう少し……というか、常識的なレベルには身だしなみに気を遣ってくれ」
「金ねぇんだよ」
俺だって好きでこんな格好をしているわけではないのだ。ブリオの正面の席……先程まであの女が座っていた席に座り、店員に注文を通す。
「パスタって……昼ごはん食べてなかったの?」
「そんな暇あるか。分かってんだろ」
「……金は君が出せよ」
「無理」
俺は電子マネーの残高をブリオに見せつける。
「……僕もあの子に奢ったせいでそんなにないんだけど」
「そうだ。あの女だ。一体誰だよ」
ブリオは気まずそうに目を逸らした。こいつがこうなるということは一つしかない。
「……俺に不都合な話か?」
「側から見れば都合のいい話だと思うけどね。君にとっては不都合なんだろうけど」
「……どう言う意味だよ」
「彼女は次のコンペの協力者——」
俺は机を力の限り叩いた。カップが跳ね、耳障りな音を鳴らす。机を叩いた音は床に仕込まれているASGによって吸収され、すぐに鳴り止んだ。
「協力なんぞいらん」
「……話は最後まで聞けよ。彼女は協力者にはなってくれなかった。悲しいことにね。せっかく声楽科だったのに」
「……声楽科がどうした」
「……聞きたい?」
ブリオの声が弾んだ。これは話が長くなる合図だ。
「いや、いい」
パスタが運ばれてきた。エビとホタテのトマトソース。
「……よりにもよって一番高いのを……」
ブリオの溜息を気にもせず、俺はパスタを口に運んだ。
*
「……おい、ブリオ。『サリエリ』はどこだ」
「『サリエリ』なら改造中。予算的にも、時間的にも、これが最後の改造になるだろうね」
「……試運転の時間はあるんだろうな?」
「ぶっちゃけるとないね」
「何してくれてんだよ……」
コンペはもう一週間後に迫っていた。本来ならばEMIの調整に入っているはずの時期である。そんな時期にこの男は、俺が三年間使い込んでいた愛機、『サリエリ』を改造に出したという。
「元々ダメな機体だったんだろ? モレンが言ったんじゃないか。新しい機体のデータならシミュレーターに叩き込んだから、訓練ならそれでしてくれ」
「……」
こう言われると何も言い返せない。俺はすごすごとEMI格納庫を去った。
さて、どうするか。これまで一日の大半を占めていたEMI搭乗訓練の時間が丸ごと抜けてしまった訳だから、何もすることが思い浮かばない。シミュレーターを使うか……いや、あのシミュレーターはこの時間帯ではラグが酷い。まともな訓練にならないだろう。遊びに行くにも金がない。
「……あれしかねぇよな」
俺は八番教習棟へと向かった。八番練習棟は、キャンパスの隅という立地と、少し防音壁の機能が弱いということから学生達に使用を渋られている。よってあまり人がいない。授業が粗方終わっているこの時間でも空いているはずだ。
コンペが近いからか、多くの学生がEMIの訓練をしているらしく、ピアノ練習室はガラ空きと言ってもいいほどだった。慣れきっているため殆ど無意識のうちに手続きを済ませて103号室に向かう。ドアを開けると、グランドピアノと一部の塗装が剥がれている防音壁が俺を出迎えた。殆どないが、この練習棟が混雑している際には、隣の練習室からのピアノの音色が微かに漏れ聞こえるのだが、今回はそれもない。通常の練習室と同様だった。EMIの操縦によって指はほぐれているとは言え、普通のピアノと向き合うのは久しぶりだった。何を弾こうか……。少し考えた後に、俺は鍵盤に手を置いた。
もし隣の練習室に人がいたなら、驚くか、笑うかしただろう。俺が弾いたのは、『復讐の炎は地獄のように我が心に燃えて』。本来の演奏ではピアノなど出る幕もない声楽曲だ。ピアノアレンジなどまともにされたことはないため、編曲は自前。だから当たり前と言えば当たり前だが、リズムのズレも、ミスタッチも皆無だ。
……だが。
最後の一音を弾き終える。ふぅ、と息を吐いて、ピアノに反射した自分の顔を見た。
……人を殺した後の顔だと言われても、信じることができるくらいには影が差した顔がそこには映っていた。相変わらず酷い面だ。ピアノを弾き終えた後はいつもこうなる。弾くたびに自らの無能を自覚するからだ。「君の演奏には顔がない」。たった一度だけ言われた、その言葉を思い出す。これ程までに屈辱的で、俺の演奏を端的に表した言葉もそうそうない。顔、顔、顔……“天才”と呼ばれる演奏者の音には必ず備わっているそれが、俺には……。
……いけない。元々持ち合わせることもできないような才能のことなど考えても仕方がない。さて、次は何を演奏しようか。どうせなら、先程とは真逆の曲を弾きたかった。俺は、撫でるように鍵盤を押した。シューベルトの『アヴェ・マリア』。弾き始めたところでしまったと思う。伴奏だけ鳴らしてどうするのだ。しかし、俺は演奏を止めることはしなかった。伴奏だけなら、曲は完成しない。つまり、この演奏が評価されることはない……。そんな臆病な考えが首をもたげたからだった。目を閉じて、メロディーのない、ゆったりとした旋律を奏でていく。穏やかで、退屈な、その音色に溺れそうになっていく。
「……ria! Unbefleckt! Wenn wir auf diesen Fels hinsinken……」
たった一節。それだけで傷痕のような印象を刻みつける、鮮烈で、美しい歌声だった。
俺は思わず目を見開いた。部屋の中を見回すも、当然声の主はいない。そもそも、その歌声は消え入りそうに小さかった。だとすれば、外か。演奏を止め、急いで外に駆け出た。予想通り、そこには人がいた。しかも、見知った顔だ。
あの時ブリオと共にいた女が、怯えた顔でこちらを見ていた。
*
「小汚い」と「薄汚い」という、ほぼ同義の言葉を同時に使いたくなるような男……カフェでモレンと呼ばれていた男が私の目の前に飛び出してきた。運動不足なのか何なのか知らないが、酷く息を切らしている。逃げようと後退りするも、彼は私を睨みつけている。そう、あれだ。熊と同じだ。下手に逃げたら捕まえられる。
「……あの歌、お前か?」
息も絶え絶えながら、彼は私に尋ねてきた。戸惑っていると、彼は言葉を続ける。
「『アヴェ・マリア』だよ。お前か?」
「え……」
聞こえていたのか。後ろの建物を振り返る。ここは練習棟のはず。
「ここの防音壁剥げかけててな。外で歌ってりゃ聞こえるよ。……実際ピアノの音聞こえただろ?」
「……修理すればいいのに」
「学校がEMIに金回してるから、されるとしても当分先だ」
またEMI……。私は歯噛みした。
「……どうした。そんな顔して」
モレンに言われて、びくりと体を震わせる。急いで私は彼から顔を背けた。
「……モレンさん……でいいですか。あなたこそ、どうしてここへ? うるさかったのなら謝りますけど」
そう訊くと、モレンは表情を歪めた。
「……こっちの質問が先だ。『アヴェ・マリア』を歌ってたのはお前か?」
「……そうですけど、それが何か」
またもやモレンはばつの悪そうな表情を浮かべたが、すぐに思い出したと言うふうに私に向き直った。
「お前、ブリオとはどんな関係だ?」
「……別に何も。コンペに協力してくれって言われただけです。……もう行っていいですか」
ヘッドホンを着けて、この場を立ち去ろうとした時だった。
「いや、待った。一ついいか?」
「……何です」
「どうして俺のピアノに合わせて歌ったんだ?」
「え……」
私の言葉はそこで止まった。答えが思いつかなかったからではない。明確に答えはある。しかし、それを言ってもいいのか。逡巡した。この答えは……。
……いや、いい。これを言えば、この人は私を嫌うだろうから。
「……なかったから」
「……何だって?」
言葉が掠れた。私の心の中には少し躊躇いがあったらしい。少し息を吸う。
「人の声を感じなかったから」
今度こそはっきりと、私は告げた。モレンは呆然とその場に立ち尽くしている。怒りの声すら、彼は出さなかった。段々と、息が上がっていく。これは、何だ。恐怖だろうか。だとしたら話が早い。
私は、その感情に身を任せるままに、その場を立ち去った。
*
君の演奏には顔がない。
人の声を感じなかったから。
頭の中に響く言葉は二つに増えていた。
あの後、俺は練習室に戻る気にもなれず、辿々しい足取りで、EMI格納庫へと向かっていた。寮の自室にでも戻ればよかったのだが、なぜかそうはしなかった。理由は自分でも分からない。
「あれ、随分早いお戻りだね」
ブリオがEMI整備用の足場に胡座をかきながら、タブレットから目を離さずに言った。……この友人の顔が見たかったから、というのが理由なのかもしれない。認めたくはないから、「かもしれない」に留めておくが。
その言葉には答えを返さず、格納庫の隅にブリオが勝手に作り上げた生活スペース……その内の、スプリングが飛び出かけているソファに寝そべる。イヤホンを着ける動作すら煩わしく、ブリオのパソコンを勝手に操作して、ある曲を再生する。スピーカーから高音質な音が流れ出した。曲目は、『復讐の炎は地獄のように我が心に燃えて』。俺がついさっき練習室で弾いた、モーツァルトのオペラ、『魔笛』で最も有名なアリアだ。
「……好きだね、それ」
ブリオが、やはりタブレットから目を離さずに言う。
「……悪いか」
「ほら、すぐそういう返しするだろ。僕はそんなつもりで言ったんじゃないのにさ」
「何が言いたいんだよ」
「別に。ただ機嫌悪い時はいっつもその歌聴くよなって。なんかあったの?」
ブリオはここに来て初めて俺に視線を向けた。
「……なぁ、ブリオ。俺のピアノについてどう思う」
「……またそれかい?」
呆れ混じりにそう言うと、ブリオはお決まりの台詞を言い放った。
「無味乾燥無味無臭、よく言えばレコード、悪く言えば自動人形」
全くもっていつも通りだった。声の調子も、何もかも。安心したような脱力感に包まれて目を閉じる。そんな中でも、スピーカーからはコロラトゥーラが響いていた。
「……で、そんな話始めるってことは、その、〝天才〟に会ったの? その歌歌ってる人みたいにさ」
「ヴィレ、だ。名前くらい覚えてやれ」
「……ああ。そっか」
ブリオはきっと、彼女の通称のことを思い出しているのだろう。
「……それと、ヴィレは俺の基準からすれば天才じゃないよ」
「『ヴィレは』ってことは、他の誰かさんは違うってこと?」
「……誰かさんも何も、今日会ったお前の連れだよ」
「へぇ……」
もう一度、彼女の歌声を思い出す。微かにしか聴こえなかったが、精神的にも、肉体的にも、傷跡のような余韻をもたらすあの歌声は、早々忘れられるものではなかった。
俺は閉じていた目を開き、曲の再生を止めた。刺すような静寂が格納庫に広がる。
頭の中に響くのは、二つの歌声。ヴィレと、あの女のものだ。
きっとこの二人がEMIを用いて試合に臨めば、女の方が勝つのだろう。彼女の歌声は、万人に通ずるものだった。一方ヴィレは、万人にはきっと通じない。彼女の演奏には“自分”というものがないのだ。だが、それは俺とは全く違う。彼女の歌声は常に曲に寄り添ったものであるのだ。彼女が歌うのは常に楽譜に、詞に、音階に込められた意味であって、そこに自分自身が入り込む余地は全くない。ある種音楽の……特に、クラッシックにおいては究極系とも言える歌だった。だが、それ故に、素人には通じない。彼女が辿り着いた音楽の最奥に行き着くためには、相応の経験と知識が必要であったからだ。
だから俺は彼女を天才であるとは認めなかった。俺にとっての天才とは、万人からその行いの素晴らしさを賞賛される人間のことを言う。……幼稚な定義だが、経験上は真実だ。
……同じ天才からそう認められれば、別ではあるが。
「にしても、あの子のこと気に入ったの?」
「……さぁな」
「絶対気に入ってるね。いつもだったら、あの質問してきた後は口きいてくれないし」
笑い混じりにブリオは言った。
「……うるさい。寝るから黙ってろ」
「あ、最後に一ついい?」
「何だよ」
「あの子、明日はほぼ確実に大学本部に来るよ」
「……会う気はねぇよ」
ソファの背もたれに顔を向け、目を閉じるも、ブリオは話し続ける。
「はっきり言うと、命令したいくらいなんだけどなぁ。あの子に会えって。……あ」
ブリオは、ぽんと手を打つと、足場を駆け下り、俺の方へ近付いてくる。
「明日は絶対あの子に会って話をすること。モレンに足りないものは他人と関わることだと思うし。新規EMIの登録がてらさ」
「いっつも登録はお前がしてるだろうが。……それに、他人と話して何になる。俺の演奏がブレるだけじゃねぇか」
「〝俺の演奏〟ができないから困ってるんだろ?」
「……お前に何が分かる」
精一杯の抵抗をしても、ブリオはまるで意に介していなかった。
「それに、僕へのツケ。あの子に会わなかったらこれまでにしてる分全部返させるからね」
……今度こそ、何も言い返せなかった。
*
「……警察呼びますよ」
「怒るなら俺じゃなくてブリオにしろ。俺だって別にお前に会いたくなんてないんだよ」
モレンは面倒臭そうに言うと、EMI登録のための窓口に向かった。相変わらず髪はボサボサ、髭の手入れもしていない。あの調子では、風呂に入っているかどうかも怪しいものだ。
……いけない。あの男に構っている暇はないのだ。昨日のゴタゴタで済ませることができなかった転科手続をしなくてはならない。幸い、コンピューターは空いていた。早速そこへ向かって、昨日はできなかった手続を済ませていく。
「……転科手続?」
背後からの声に、驚いて振り返った。モレンが立っている。どうしてヘッドホンを着けなかったのだろう。これでは昨日と同じではないか。
「……覗き見が好きなんですね。ご友人と同じく」
「俺もブリオもこんなことしたかねぇよ……ええと、マルカ、でいいのか?」
そう言いつつも、彼はコンピュータの画面をまじまじと見つめている。
「……プライバシーって知ってます?」
「知った上で無視してる。住所やら電話番号やらはまだ記入してないんだからいいだろ。……にしても」
モレンは画面から目を離すと、私の目を見て言った。
「何で転科なんかするんだよ」
「……向いてないからです」
「馬鹿言うな。あんなアヴェ・マリア、早々歌えるもんじゃねぇよ」
「……」
こうも正面きって褒められると、返す言葉に困る。逃げ場でも探すように彼から目を逸らす。こちらを不審そうに見つめる人々が視界に入った。つくづく私はこの場との縁がないらしい。モレンもそのことに気づいたようで、気まずそうな顔をした。
「……場所、一旦変えるか」
*
「……まさか連れてくるとは思わなかったよ」
ブリオが驚いたような顔をして、EMI格納庫へ俺達を案内した。
「よく来たね。紅茶でいい?」
「……はい」
マルカは、格納庫の隅の、俺が昨日寝そべっていたソファの端に腰を下ろした。
「俺はコーヒーな」
「はいはい」
マルカの隣に座るのも気が引けた。いや、正確に言えば、彼女はリュックサックを自身の隣に置いていたので隣ではないのかもしれないが、とにかく気が引けた。俺は何が入っていたのかも知れない箱の上に座り込む。少しの間、沈黙が流れた。マルカは俺と目を合わせようともしない。カップに湯を注ぐ音と、ブリオの鼻歌だけが格納庫には流れていた。
「で……改めて聞きたいんだが」
こういう沈黙はあまり好きではない。それに、純粋な興味も手伝い、俺は口を開いた。
「どうして声楽科を辞めたいと思ったんだよ」
「……何でそれを言わなくちゃいけないんですか」
「さぁな。強いて言うなら俺が気になったからだ。別に言いたくないならそれでいいが」
「……」
「だんまりじゃわからねぇよ」
「言っても、理解されませんから」
マルカは、それきり押し黙ってしまった。
「……僕としては、どうして君とモレンが会ったのかって方が興味があるんだけど」
ブリオがテーブルにコーヒーと紅茶を持って来た。
「せめてこの紅茶一杯分ぐらいは、ね?」
取ってつけたような味のするコーヒーを啜りながら、俺はマルカの言葉を待った。マルカは紅茶を飲み、顔を顰めた。きっと俺のコーヒーと同じく酷い味がするのだろう。二口目を飲むのを躊躇って、マルカはカップをテーブルの上に置いた。そして、俺をちらりと見る。説明しろ、ということだろうか。
「……こいつが俺のピアノに合わせて歌ったからだ」
ブリオは目を見開いた。
「へぇ! こいつのつまんないピアノに!」
何の遠慮もない物言いだが、こんなことに一々腹を立てていては、三年間もこいつと付き合っていない。
「……つまんなくは、ないです」
ぽつりと、マルカが言った。俺とブリオは目を見合わせる。
「どういうところが?」
その数瞬後、俺は身を乗り出してマルカに尋ねていた。マルカは身を震わせる。ブリオが俺の肩を叩いた。
「ああ……すまん」
再び箱の上に腰を落ち着ける。マルカは少し怯えた様子で目を伏せていた。
「……でも、教えてほしい。俺のピアノのどこを気に入ったんだ?」
話す内容を整理しているのか、しばらく考え込んでから、マルカは話し出した。
「……ヴィレ・レランドって、知ってますか。声楽家なんですけど」
「……こいつのお気に入りだよ」
ブリオが俺に視線を向けて言った。マルカは意外そうに目を丸くしている。
「ヴィレがどうした」
「……あなたの演奏は、ヴィレの歌に似てました」
俺は首を傾げた。ブリオの表情を伺うも、奴も俺と同意見らしい。ヴィレの歌と俺のピアノがまるで違うことは自覚している。……そもそも歌声とピアノの音色を比較すること自体できるのか。
「そりゃヴィレに失礼だろうが。ヴィレの歌には自分の色がないだけで、それを補って余りある曲への理解がある。で、俺はどうだ? 空洞の中に何がある? 何も……」
マルカが首を振った。
「それは、違います。……言葉にするの苦手なので、上手く言えないんですけど……」
それっきり、マルカは口を噤んだ。
……俺とヴィレが似ている。つまり、俺の演奏にも、空白を埋める何かがあるということだ。……だとしても、それが分からないなら、何の意味もない。
「ふむ……」
ブリオは、顎に手を当てて考え込んでいた。
「どうした」
「……マルカちゃん。やっぱり、僕達に協力してくれないかな」
「え……」
マルカが、露骨に警戒心をあらわにした。
「嫌なら嫌でいい。だけど、話だけでも聞いてくれないか?」
「……協力って、コンペのことですよね」
ブリオが頷く。
「EMIって、一人乗りですよね。モレンさんが乗り込むんじゃないんですか。それとも、私に替え玉でも頼む気ですか」
「そんな度胸僕にはないよ」
「……というか、別に何だっていいんです」
マルカからは、今や刺し貫くような怒気が発せられていた。
「私、EMIのこと、大嫌いなんです。あんな……あんな下らないもの」
練習棟の裏で話していた時、EMIの名を出した時の彼女の表情を思い出す。今の彼女の顔はあの時の比ではない程に憎悪で歪んでいた。
「二人だって、ヴィレがどうしていなくなったのか知らない訳じゃないですよね」
「……お前、ヴィレのファンか?」
「憧れの人です」
そりゃあ、EMI嫌いにもなるだろう。俺もブリオも、何も言えなかった。マルカは少し深呼吸すると、目を伏せつつ立ち上がった。
「……すみません。気分悪いのでもう帰ります。もう関わらないでください」
そう言うと、マルカは格納庫から駆け出ていった。
*
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
動悸の音、耳鳴り、呼吸の音、脳内で鳴るヴィレの歌声、あのピアノの音、あのピアニストの声……。
いけない。思い出してはいけない。全部、全部雑音だ。ヘッドホンをする。しかし音は消えない。当然だ。私の体内からの音なのだから。私はその場にうずくまる。
深呼吸を繰り返す。いつも、いつもこうだ。EMIに関わると……。激情を何とか静めようと目を閉じる。だが、外界の情報をシャットアウトするということは、必然的に自身の内面からの情報を受け入れることにつながる。再び湧き出た雑音を消そうと、ヘッドホンを強く耳に押し当てる。しかし、その強さに比例するように、雑音は大きくなっていく。なぜこんなことに。こうなってしまうと、結局この結論に辿り着く。どうして。どうしてどうしてどうして……。螺旋のように連なっていく思考を止めようとしている時だった。ヘッドホンが強引に外された。
「……何してんだ。こんなとこで」
恐る恐る目を開ける。最早見慣れた顔がそこにはあった。
「……モレンさん?」
「これ、忘れてたぞ」
彼は私にリュックサックを差し出した。
「あ……。ありがとうございます」
「……体調悪いのか?」
「え……」
「そこにベンチあるのに、そんなとこに座ってるから……」
モレンの指す方を見ると、小綺麗なベンチがそこにあった。少し恥ずかしい。頬が熱くなる。
「座るなら向こうにしろよ。今はいいけど、人目も引くしな」
現在は授業中ということもあってか、この付近の人通りはないに等しかった。私はモレンの言う通りに、ベンチに座る。そして、彼はさも当然かのように私の隣に座り込んだ。
「……何のつもりですか」
「隣に座るくらいいいだろ。リュック持ってきてやったんだし」
「……」
モレンは、しばらくは何も話さなかった。私もそれに沈黙で返す。私は特に沈黙が気にならないタイプだった。やがて、気まずくでもなったのか、モレンが口を割った。
「……そこまで嫌いか? EMIのこと」
何を、分かりきったことを。
「嫌いに決まってます。モレンさんだって、ヴィレのこと、知らない訳じゃないでしょう」
モレンさんは、少し躊躇う素振りを見せたが、どこか仕方がないと言う風に息を吐くと、言葉を返した。
「『黒星』のヴィレ、だろ」
私は、無意識のうちに俯いていた。
「……いくら憧れとは言え、そこまでショック受けるもんかね……っと、すまん」
私が睨みつけると、モレンは軽く頭を下げた。
「……人の憧れを、勝手に推し量らないでください」
「だからすまんって……」
モレンさんは何と続ければいいのか思い浮かばないようで、ぽりぽりと頬を掻いていた。
「……モレンさんこそ、ヴィレのことを気に入ってるなら、EMIについて何か思う所はないんですか」
そう尋ねると、モレンは頬を掻く手を止めた。そして、少し目を伏せる。
「……そっちが話したら、話してやる」
モレンさんはそう言ったきり、口を開かなかった。嵌められた気がしなくもないが、まぁいい。気晴らしには、なるだろうから。
「……モレンさんは、EMIが何の略か知ってますか」
「Equality musical instrument……平等な楽器って意味だろ。あんまり人を馬鹿にするもんじゃねぇよ」
「すいません。……でも、これを確認しておかないと、この先の話ができないから……。モレンさん。〝平等〟って、何と何に対する平等か、分かりますか」
「……ああ」
モレンの声色が少し暗くなった。私がEMIを嫌っている理由を察したのかもしれない。
「……主観と、客観」
音楽への恣意的な評価を防ぎつつ、奏者の紡ぐ音楽の芸術性を保証する。分かりやすく言ってしまえば、音楽家の演奏の自由度を守りつつ、コンクールにおける優劣を、はっきりと、目に見える形にする。
それが、EMIが作り上げられた理由だった。
「……もちろん、ヴィレのこともありますけど、それが大嫌いなんです」
EMIの登場により、世界の音楽シーンは大きな転換を迎えた。それはそうだろう。例えば、クラッシック音楽。楽しむための予備知識がなくなった上、その優劣もはっきりと分かる。しかも、全長10メートルを超えるロボットの組み合いがおまけに付いてくるともなれば、もうそこには高尚の二文字はない。様々なコンクールが、今や煌びやかなショービズへと変化していた。おかげで、音楽は現在、世界で最も金を生み出せるコンテンツとなりかけている。
……けれど。
「つまりお前は、音楽は曖昧なものでないといけないって言いたいのか?」
モレンがこちらを見ることもなく訊いた。
「曖昧なもの……って、一概には言えないですけど、大体そんなところです。少なくとも、はっきりとしたものではいけない……。納得なんてなくてもいい。独断でいい。偏見でいい。誰か一人にでも届けば……。音楽はそういうものじゃないとダメだと思うんです。……もし、EMIがなかったら、ヴィレだって……」
ヴィレ。私がEMIに抱く嫌悪感を決定的なものにしたのは彼女だった。顔のない声楽家……。もちろん、蔑称じゃない。彼女は楽曲の魅力をそのままに、そして、鮮やかに伝えることのできる、第一級の声楽家だった。実際、デビューしたての頃の彼女の評価は非常に高かった。幼い頃、この耳で聴いた歌からも、もはや文面を覚えてしまったファンレターの返事からも、彼女の迸る自負の念を感じることができた。
だが、数年後にEMIが普及し始めたことで、彼女の人生は大きな転換を迫られることになった。
彼女はコンクールで全く勝てなくなった。理由は分からない。しかし、彼女の駆るEMIは、相手のEMIに翻弄され、瞬く間に敗北した。一次予選敗退……そんな結果が続いた声楽家はコンサートにも呼ばれることはない。ショービズと変化しつつあった当時の音楽界では尚のことそうだった。
そもそも、もう彼女を見ること自体稀なことになっていたが、そのころの彼女からは生気が抜け落ちていた。歌声も生彩を欠き、私には彼女が最早抜け殻のように感じられた。
……彼女の末路については、言葉にしたくない。生き地獄とあの世のどちらが居心地がいいかなんて、考えたくもない。
「……なるほど」
重々しく、モレンが言った。
「……私の話はこれで終わりです。次はモレンさんの番ですよ。EMIについてどう思ってるんですか」
「……面白かねぇぞ。少なくともお前にとってはな」
「……何でもいいです」
「感謝こそすれ、嫌う理由はねぇよ」
モレンの方を見る。彼と目が合った。
「……知らねぇだろ、お前。誰からも顧みられない奴のこと」
「……どういうことですか」
「俺からすりゃあ、EMIは選別の道具だ。その点じゃ、お前と同意見かもな」
けれど、そこから生まれた結論はまるで真逆だ。
「EMIは結果を示す……これが弱者にとってどういうことを示すか分かるか?」
私は首を横に振った。
「叶わない夢を見なくてもいいってことだ」
そう言ったモレンの声色は、暗く沈んでいた。
「EMIがなかったら……いるはずもない観客を求めて、無意味な演奏を続けることになるんだろうな。お前も知ってるだろうけど、音楽には終わりがないから」
どれだけ練習し、どれだけ上達しようとも、求める音は遥か彼方へと遠ざかっていく。ここにいる者は誰しもその飢餓感を感じている。感じなければならない。
それを感じなければ、音楽家など名乗れない。
「けれどEMIは結果を示す。第三者の恣意でも、自分の思い込みすらなしに、極限まで公平に、平等に……。等しく現実を突きつける。天才にとっちゃ福音かもしれんが、俺達にとっては死刑宣告だよ。『お前は無才だ』ってな。でも、さぱっと殺してくれるだけいいだろ?」
モレンは、おどけるように首を切るジェスチャーをした。
「そんなの……」
「お前のそれは強者の理屈だ」
反論しようとした途端、モレンが強い語調で遮った。
「誰か一人にでも届けば? 馬鹿言うな。誰にも届けられない人間が大多数だから、音楽には価値があるんだよ」
嘲るようにそう言うと、モレンはやるせなく笑った。
「……ここまで言って何だけど、お前の理屈を否定してる訳じゃない。希望を持つのは強者の権利……俺にはないのが鼻に付くけどな」
モレンはベンチから立ち上がった。
「……んじゃ、もう行くわ。付き纏って悪かった」
手を振って、振り返ることもなくモレンは歩いていく。その姿はやけに弱々しく、まるで寒空の下に放り出された痩せた犬のように思えた。
「……待って!」
私は思わずモレンを呼び止めていた。彼はふらりと振り返った。私の頭の中で、ヴィレの姿が重なった。
「どうして……そこまで諦めてるのにどうしてまだここにいるんですか」
モレンは力なく微笑んだ。
「……忘れられない。それだけだよ。たったそれだけ……」
何を。夢なのか、思い出なのか。それを尋ねる前にモレンは顔を背けて再び歩き出す。
「……そういう意味じゃ、才能はあったのかもな」
〝無駄な〟が頭に付くのかもしれないけど。消え入るような声でそう漏らすと、モレンは今度こそ本当に去っていった。
チャイムが響いた。気づけばもう授業が終わる時間だ。喧騒が次第に周囲を包み込む。
胸に穴が空いて、そこを風が通っていくような感覚と、腹が静かに、重く燃えるような感覚を抱きながら、私はその場を立ち去った。
*
「おかえり。ちゃんと渡してきた?」
「……ああ」
ブリオへの返事をぞんざいに済ませると、俺は廃品のようなソファに倒れ込んだ。ブリオは何も訊かない。こういう時はいつもそうだ。
「なぁ、ブリオ」
「何? 泣き言に付き合う気はないけど」
「俺、もう諦めた方がいいと思うか?」
ブリオは溜息を吐いた。
「それは僕が決めることじゃない」
「……そう言うだろうと思ったよ」
三年来の友人だ。何を言うのかなんて分かっている。
「……けれど、いざいなくなったとしたら、気持ちのいい馬鹿がいなくなったって、寂しくもなるかもね」
俺はブリオの方へ視線を向けた。ブリオの表情にはほんの少し影が差しているように見えた。
「……あの女……マルカか。やっぱり駄目だ。俺とは真逆だ」
「……僕らが選り好みできる立場かっていうのを棚に上げて言えば……まぁ、駄目だろうね」
そもそもあんな会い方したら嫌われるに決まってる。ブリオはそう付け加えた。
「そういやブリオ。『サリエリ』が帰ってくるのはいつだ?」
「もうすぐだよ。……それと、もうその名前変えなよ。気が滅入る」
サリエリ……モーツァルトと同時代に活躍した音楽家だ。……だが、現代では、モーツァルトを毒殺した、という根も葉もない醜聞の方が有名になってしまっている。
醜聞でもよいから名声を。……そんな卑屈な性根から、俺はそんな名を自らのEMIに付けたのだ。
「……だったら、お前が付けてくれ」
「考えとくよ」
素っ気なく、ブリオが言った。言い方からして、大方そのつもりだったのだろう。
俺たちの間に会話は起こらない。沈黙が続く。俺は沈黙が好きではない。またもブリオのパソコンを操作して音楽を流そうとした、その時だった。
「……ちょっと、いいですか」
先程まで聞いていた、耳に馴染んだ声がした。格納庫の入り口に目を向ける。酷く息を切らしたマルカが、そこに立っていた。
「……どうしたの。何か忘れ物でも――」
「違います。コンペの協力の話、詳しく聞かせてもらえませんか」
ブリオが目を丸くした。そして、俺の方を見る。俺はソファから起き上がると、彼女へ歩み寄った。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「あなたに協力したくなった。それだけです」
俺の心中で、冷たい怒りが湧き上がった。
「……施しなら受けんぞ」
先程の会話で同情でもされたのか。だとしたらたまったものではない。しかし、彼女の表情は依然として毅然としたまま変化しなかった。
「施しなんかじゃありませんよ。……私は、モレンさんの言い分を聞いて……納得できなかったんです」
「……どういうことだよ」
「……あなたは、自分で自分の価値を分かってない。誰にも届かない? ふざけないでください。それが本当なら……あなたの演奏につられて歌った私が馬鹿みたいじゃないですか」
「あ……」
俺は動揺を隠すことができなかった。そうだ。その通りだ。こいつは俺の演奏で歌ったのだ。
「……言語化は、申し訳ないけどできません。けれど、私はあなたの演奏が好きです」
はっきりと、彼女は告げた。
「誰もあなたの演奏には見向きしない。それはあなたの勝手な思い込みです。……私一人じゃ足りないって言うなら、もっと多くの人を振り向かせればいい」
俺はこう言われて初めて、彼女の協力が施しなどではないことを理解した。
「いいですか。私があなたに協力するのは、あなたが可哀想だからとか、そんな理由じゃないです。あなたの思い込みを砕いて、私の希望を信じ抜きたいから……だからあなたに協力するんです」
マルカからは、口を差し挟むことを許さない、覇気と言ってもいいような空気が流れていた。彼女は、俺に向かって手を伸ばした。
「……私の協力を受けるなら、この手を取ってください。けれど、覚悟しておいてくださいよ。私はこの希望を捨てたくない。この希望を捨てるってことは、ヴィレの死に……憧れがいなくなったことに納得してしまうってことです。だから、絶対に捨てたくない。だから、あなたには血反吐を吐いてでも、私についてきてもらいます。それでもいいのなら、その覚悟があるのなら、手を取ってください」
俺の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。安心したのだろうか。平気で、真剣に、青臭い理想論を語る彼女に惹かれたのだろうか。ただの、思い込みかもしれないのに。
けれど、もう嫌だった。諦めを隠しながら、生きていくのは。
「……ああ。覚悟はあるよ」
俺は彼女の小さな手を取った。
「生憎、諦めの悪さだけは、人一倍あるからな」
彼女は笑いはしなかった。その表情は、これから勝負に出る人間の顔だった。
「……あと、もう一つだけいいですか」
「何だ?」
「もう少し、身なりを整えてください」
少し顔を逸らして、マルカは言った。
「それにはすごぶる同感だ。……それと、二人とももう少し壁に寄ろうか」
これまでずっと静観を決め込んでいたブリオが俺達に呼びかけた。格納庫の入り口に影が差している。そういうことか。俺はマルカを連れて壁に寄った。
「何ですか?」
「見てりゃ分かるよ」
格納庫に、シートに包まれた巨大な物体を乗せた歪な形の車が入り込む。EMIの運搬車だ。ブリオの指示で、EMIは格納庫のハンガーに設置されていく。シートが剥がし、人間でいう肩の辺りをハンガーで固定した後、運搬車は格納庫を出ていった。
俺は新たなEMIを見上げた。これまで俺が使っていた『サリエリ』とは大違いだ。夜空のような漆黒の塗装、『サリエリ』よりも幾分細身になった体躯、関節部のジョイントは特に拘って作られているようで、俺の見る限り人間と大差なかった。
「さて! 必要な役者も揃ったことだ! 紹介しよう!」
ブリオが大手を振り上げて、EMIを指した。
「君達の乗り込むEMI……その名も、『夜の女王』だ」
*
「二人乗り⁉︎」
隣のモレンが頓狂な叫び声を上げた。私は思わず耳を塞ぐ。
「おい、モレン……。隣に女の子いるのにそんな大声出すなって」
「あ……すまん」
「いえ……」
二人乗りの何が悪いのだろう。EMIについては殆ど無知な私だ。よく分からない。
「ああそっか。マルカちゃん、EMIのこと知らないのか」
「はい。EMI関係の講座、殆ど取ってませんでしたから……」
「こりゃ一から話した方がいいな。もしかしたら必修の講座で習ったことと被るかもしれないけど、ちょっと付き合ってね」
私は頷いた。EMI基礎講座は殆ど寝ていて内容は記憶にない。大体、月曜の一限なのが悪い。ブリオは部屋の照明を落とすと、プロジェクターを起動させた。目の前に、EMIを簡略化したものと思われる人型の図が表示される。
「えーっとね……EMIはASGとHODの二つが主に使われてるってことは分かる?」
「はい」
HODはともかく、ASGについては最早常識の部類に属するものだ。実際に、今私の足元にも設置されている。
増幅音力発電機。元々は航空機の騒音削減のために研究が進められた装置だった。しかし、現在それは、世界中の地下に張り巡らされ、エネルギーを作り出している。試しに何度か足を踏んでみる。全く音がしない。振動が電力に変換されているのだ。
「音響増幅に使われてる四次元立体結晶構造については……言わなくていいか。あんまり関係ないし。ええと、要旨だけ言うと、奏者がコックピットで演奏した音をASGで増幅し、その振動を使って発電……EMIの動力にしてる。厳密に言えば、百パーセント電力に変えてる訳じゃない。そもそもそんなことできないしね。で、変換できなかった振動を上手く反射させて動作補助に使う。だからEMIって、結構スカスカなんだよね」
なるほど。納得を覚える。補助金が出るとはいえ、学生が個人でこんなロボットを所持できることには少し疑問を覚えていたのだ。
「んじゃ、次はHODだ。ここがEMIの一番面白い所なんだけどね……」
ブリオは楽しげに手を擦り合わせてプロジェクターの画面を変えた。
「さて……マルカちゃん。いくら楽器とは言え、EMIは巨大ロボット……実際、EMIと同様の原理で動くロボットは、大体重機と同じ扱いだ。そんなもので取っ組み合いしたら、EMIはぶっ壊れるし、パイロット……奏者は事故死したっておかしくない……。けど、歴史上そんなことは起きてない。つまり、EMI同士の戦闘は競技として成立してるんだ。これはどうしてだと思う?」
「……HOD……?」
ブリオが頷く。
「EMIの面白い所はね、マシンの心臓部……即ち基盤が剥き出しになってるってことなんだ」
プロジェクターから映し出される画像が切り替わる。美しい光の紋様が表面に浮かび上がっているEMIの画像だ。
「この光がHODで発生した高調波線……言わば、EMIの神経網だ。この高調波線が、奏者の命令を伝達して、EMIを駆動させるんだ。それに剥き出しとは言え、高調波線の干渉以外の影響は基本的に受けないし、常に振動を纏ってるから、頑丈は頑丈だよ」
プロジェクターから映像が映し出される。光の紋様を纏ったEMI同士が、煌びやかな旋律を放ちながら格闘戦を繰り広げている。何度見ても、この光景には慣れそうになかった。しばらく、一進一退の攻防が繰り広げられるも、一方が後退した所に、もう一方が紋様をより一層輝かせ、勢いよく踏み込み手をかざした。後退した側の紋様が段々と薄れ、消える。それきり、そのEMIはもう動かなかった。
「……と、こんな具合に、互いが纏っている高調波線を干渉させ合い、相手のEMIを動作不能にすること……。それがEMIでの勝負における勝利条件だ。HODの積載容量を多くすれば、高調波線を伸ばして遠距離から干渉することもできる。熟練すれば、高調波線の振動を相手のASGに伝えて持ち上げたりなんてこともできる。……僕達には今の所関係ないけれど」
ブリオが『夜の女王』をちらりと見て言った。
「……高調波線に干渉されちゃいけないって割に、さっきの映像のEMIは両方、近距離の戦闘を仕掛けてましたね」
「ああ、そのこと。えっと……高調波線はそんなにヤワじゃなくてね。ただ闇雲に別の高調波線を当ててもそこまでの影響はないんだよ。だから、EMIの動作不能を引き起こすぐらいに干渉しようと思ったら、まず相手の高調波線の展開を読んで、それに合わせなくちゃならない。そうして相手の高調波線の隙を読み切って、そこにこちらの高調波線を送り込んで相手のHODのエラーを引き起こすっていう手順が必要になる」
私は少し苛立ちを覚えた。高調波線は奏者の演奏によって発生する。その展開を読み、適切なタイミングでそこに干渉。自身の音を挟み込む……相手の音を止めるという目的さえ除けばまるっきりセッション。憎たらしいくらいに音楽だ。
「これでEMIの基本については説明したけれど、何か質問は……あるみたいだね」
手を挙げている私を見て、ブリオが言葉を止めた。
「あの、結局〝二人乗り〟の何が問題なんですか?」
「あ……いけない。忘れてた。ちょっと待ってて」
ブリオは走って部屋の隅の倉庫まで向かい、ヘッドギアのようなものを持って戻ってきた。
「……それは?」
「奏者の脳波を読むためのヘッドセットだよ」
「……どうして脳波なんか」
私が言葉を漏らすと、モレンが大きく息を吐いた。
「……演奏だけで、走って飛んでブン殴れなんて指示出来る訳ねぇだろ」
「モレン、もうちょっと優しく教えてやりなよ。……ええっとね、EMIの操縦系は、二つの要素で成り立ってる。まずはコントローラー……要するに、コックピットに据え付けられてる楽器の音色だ。これが動作の精度や高調波線の印象を決めてる。演奏技術が高ければEMIの動作も洗練されるし、演奏で上手く感情を表すことができたのなら、高調波線のパターンや展開を変えられる。で、具体的な動作の内容を決めるのに必要なのがこれ」
ブリオがヘッドセットを指差した。
「これで奏者の脳波から動作の内容を汲み取って、奏者の演奏から得られたデータとミクスチャーする。それで初めてEMIは動くって訳だ」
そこまでの説明を聞いて、私は初めて“二人乗り”がいかに無謀かを悟った。
「……二人分の脳波なんて、合わせられるものですか」
「二人が同じ人間の脳味噌でいっぺんに動いてるとかでもない限りは無理だね」
それだけではない。今ブリオが無理だと断じたのは、脳波を合わせるということだけだ。しかし、演奏を合わせるのも至難だ。何とか形にするのにも一週間はかかるだろう。それも、決まった楽譜を合わせるという条件付きだ。話を聞く限りでは、EMIでの演奏は基本的にアドリブ……ジャズ・プレイヤーでもないのだ。どう考えても、一週間足らずの残り時間でまともなセッションができるようになるとは思えなかった。
「……なぁ、ブリオ。お前、調整の時間はないって言ってたが……こういうことだったのか。……そもそも二人乗りって規則違反じゃねぇのかよ」
「別にルールブックには二人乗りはダメって書いてなかったし……なんか言われたとしても、マルカちゃんを備品扱いすればなんとか……」
「人を何だと思ってるんですか」
怒りを滲ませた声で意見すると、ブリオは目を逸らしてから、思いついたように言った。
「えっと、とりあえず僕は『夜の女王』のチェックするから、二人は親睦深めといて。ほら、もう時間ないよ!」
逃げるように『夜の女王』に向かっていくブリオの背を見つめていると、おもむろにモレンが私の肩を叩いた。
「……泥舟にようこそ」
その油に鉛を落としたような声からは、心からの同情が感じられた。
*
【後期競技会総則】
第一節:本競技会の意義について
・本競技会は、実技演習、音楽理論の学習及び実技試験では図ることが困難な本校学生の資質を測定するため実施するものである。本競技会の開催において、講師及び職員は、本競技会における成績を正当な評価として取り扱う義務を負う。
第二節:本競技会における楽器の規定について
・本競技会では、Equality musical instrument (以下EMIと呼称)のみを使用可能とする。
・EMIとは、増幅音力発電機を動力源とし、高調波出力装置及び奏者の脳波制御で駆動する機動機械のことを指す。
・EMI建造に使用できる費用は、本校から支給される補助金及び、その半額までの私費とする。
・EMIの全長は十五メートル以内でなければならず、また、その機構に他EMI及び人体を故意に損壊させるものがあってはならない。
・EMIはその体表に高調波線を展開していなくてはならない。
・EMI製作者は、奏者に危害が加わらないよう最大限の努力をする義務を負う。
第三条:本競技会における評価方法について
・本競技会出場者には、前学期の成績により、白星と黒星が合計五つ振り分けられる。白星と黒星の内訳は事前に本校から通達される。
・本競技会において、参加者はEMIを用いての対戦を行い、勝敗を決める。勝者は敗者の持つ白星の数を自身の白星の数に加え、敗者は勝者の持つ黒星の数を自身の黒星に加える。本競技会参加者は同様の対戦を十回行う。対戦組合せは事前に本校から通達される。
・黒星の数が白星の数より五つ以上多くなった参加者はその時点で敗退とし、その参加者と対戦する予定であった参加者は一律で白星を二つ獲得する。
・全対戦終了後、所有する白星の数から黒星の数を差し引いた数を、その参加者の単位として認める。
・白星を五つ振り分けられた参加者と対戦し、勝利した場合、通常得られる白星に加え、必修単位に変換できる白星を一つ獲得できる。この白星は第四条で示される禁止事項に抵触しない限り、剥奪されることはない。
第四条:本競技会の禁止事項について
・第二条に違反するEMIを使用した学生については、本競技会において獲得した単位を全て剥奪し、学則に従い停学など相応の処置を取る。
・故意に対戦相手を負傷させた参加者については、学則に従い除籍処分とする。
*
ワックスを手に広げ、髪に付ける。このベタつく感触が大嫌いだ。クソッタレ。数分の後、鏡を見る。……文句は言われないだろう。ワックスを洗い流し、口元に手をやる。剃り残しはない。隈だけは消えなかったがこれは仕方ないだろう。スーツも……どうせEMIに乗っていれば見えやしないのだから整えなくてもよいのだが、この服装に関しては勝負着だ。きちんとネクタイを締める。寮から出て、大学に向かう。正門から入って程なく、驚いたような表情のマルカと鉢合わせた。
「……どうした?」
「いえ……ちょっと、びっくりして。結構かっこいい……」
予想外の発言に少しギョッとする。
「……冗談言うな」
軽くマルカの頭を小突く。
「何するんですか……それにしても、一週間ってすぐに過ぎますよね」
「ああ……」
コンペ当日。道を行く学生達の間にも、俺のようなスーツ姿や、ドレス姿が散見された。
俺達の……正確に言えば俺の持ち点は白星2、黒星3だ。白星の数が黒星の数を下回っている。はっきり言って下位層だ。
「……聞いてなかったですけど、モレンさんが必要な単位って何単位ですか?」
「……五単位」
「ってことは……今は黒星一つだから……六個の白星が必要……」
「もちろん黒星をこれ以上稼がないこと前提でな」
マルカの表情が曇る。ここ数日間の訓練のことを思い出しているのだろう。
「……私達の対戦相手は……」
既に確認しているはずの対戦表をマルカに見せてやる。大体は俺と同格もしくは白星三つの奏者しかいないが、ぽつぽつと白星四つの奏者がいる。そして何より、注目すべきは二戦目だ。
「……あれ、君……」
ふと、声がかけられた。薄く金色がかった髪をした、細身の男だ。
「エスト……」
エスト・ジュスト。器楽演奏学部ピアノ学科の主席だ。スーツできっちり決めているのを見れば分かる通り、こいつもコンペに参加する。当然、与えられた白星は五つ。俺達の二回戦での対戦相手だ。
……そして、俺にとっては何よりも、「君の演奏には顔がない」と言い放った張本人である。
奴は、しばらく考え込んだ後、首を捻った。
「……どっかで会ったっけ」
「お前な……モレンだよ。モレン・レグロ。一年の時、授業同じだっただろうが」
「んん……。人の顔とか名前覚えるの苦手だからなぁ……」
「人に話しかけといてお前な……」
「……? 君に話しかけたんじゃなくて……」
エストはマルカを指差した。
「彼女に話しかけたつもりなんだけど」
マルカは目を丸くしてエストのことを見つめていた。
「知り合いか?」
彼女は弱々しく首を振った。
「ああそっか。面識はないんだ。彼女の歌を僕が一方的に聴きに行っただけだから」
俺はマルカの方を見た。
「えっと……入学してすぐの演奏会の時ですか……?」
「ああ。多分それだ。君の歌、はっきりしてて好きだよ。顔も可愛いし、すぐ覚えられた」
「かわっ……⁉︎」
こういうことを言われ慣れていないのか、マルカが赤面した。
「……あんまりからかってやるなよ」
「本当のこと言っただけなんだけどな。“顔無し”さん」
特に何の感情も宿っていない虚ろな目で、エストは俺のことを見た。
「……覚えてなかったんじゃないのか?」
「顔はまだぼんやりしてるけど、声は何となく思い出したよ。空っぽのピアノ弾く人でしょ?」
空っぽのピアノ。その言葉に少し胸が疼いた。
「……君、コンペ出るんだ。当たるかもね」
「かもじゃねぇよ。二回戦で当たるんだ」
「へぇ」
エストは、驚いているのかいないのか、そんな言葉を返した。
「……面白い試合にはなりそうにないけど、よろしく」
この野郎……。二年ぽっちじゃ性根は変わらないらしい。背を向けて、エストは悠々と去っていく……その途上、奴はこちらを振り向いた。より具体的に言えば、マルカの方に。
「……そういえば、君はコンペに出ないの?」
「えっ⁉︎ ええっと……はい」
「……ふぅん」
つまらなさそうにそう漏らすと、エストは再び歩き出した。
「……一体何なんですか、あの人」
「ピアノ科の主席だ」
「主席……」
圧倒されたように、マルカが言葉を漏らした。
「もちろんEMIに乗ったってめちゃくちゃ強い。下手すりゃ一瞬で負けるかも」
「……どうするんですか」
「どうするも何も……負けたって黒星くらう訳でも……」
そう言いかけて、言葉を止めた。マルカを見る。彼女は俺を睨みつけていた。俺は自ずと笑みを浮かべると、口を開いた。
「……さて、どうするかね」
「……それならいいです」
もう開会まで時間がない。俺達は足早に会場まで向かった。
*
「……むくれんなよ試合前に……」
「本当に備品扱いされて、怒らない人間がいますか」
まさか、大きめの箱に入れられて台車で運ばれるという、最近はコメディでも見ないような運び方をされるとは思っていなかった。
『あー、あー、マイクテスマイクテス……二人とも聞こえる?』
コックピットにスピーカー越しのブリオの声が響く。スピーカーの音質はいいらしく、直に話しているのとあまり変わらない。
「マルカがご立腹だぞ、ブリオ」
『え? あ……ごめんね! 雑に運んで。でもあれが一番バレにくいし。ほら、まさかって思うでしょ?』
「思いますよ。ですけど、それがあんな運び方していい理由にはならないです」
「だそうだ。後でパンケーキでも奢ってやれ」
『……もうちょっと安いもので勘弁してくれない?』
何も返事は返さなかったが、その懇願を受け入れる気は毛頭なかった。
『一回戦開始一分前。コンテスタントは準備して下さい』
無機的なアナウンスがコックピットに響いた。緩くシートに腰掛けていたモレンが、改めて深く腰を下ろす。ヘッドセットを付け、二層に分かれた鍵盤型のコントローラーを数度叩く。私も一応、周囲に据え付けられた音声入力装置の具合を確認する。特に問題はないようだった。
「……本当に、私は操縦に参加しなくていいんですか?」
「お前な……訓練のこと覚えてねぇのかよ」
そう言われると、苦い顔をするしかなかった。やはり、人間二人の脳波を合わせるというのは中々に無謀であり、実践レベルでの機動は不可能だった。
だから、通常はEMIの操縦に熟達しているモレンのみが操縦を担当し、私はどうしようもなくなったときに操縦に参加するということになっている……なので、実用半分、興味半分で観戦用の外部モニターを接続しておく。
『カウントダウン開始。十、九……』
モニターが起動し、相手のEMIが見える。私達と同じくオーソドックスな人型EMIだ。対戦表によると、モレンさんと同じ白星二つの相手。
『三、ニ、一……セッション、スタート』
合図と共に、二台のEMIの表面に光の紋様が浮かんだ。モレンの指先が、流れるように、正確無比なタッチを繰り出していく。しかし、そこから流れる音色はピアノのものではない。トランペットやトロンボーン……ブラスバンドのものだ。改造前はピアノ型だったコントローラーは、ブリオの独断によってシンセサイザー型に変更されていた。
『夜の女王』が、金管楽器の力強い音色に呼応するように恐ろしい速度で敵EMIに迫る。『夜の女王』は、高調波線延長によるリーチをかなぐり捨てたASG過剰搭載型のEMI。そのため、機体の単純な駆動性能で言えば、標準レベルのEMIとは桁違いだ。
相手EMIが吹き飛ばされたかのように飛び退きつつ、高調波線を展開。光の筋が『夜の女王』の表面に触れる。その部分の高調波線の輝きが鈍る。しかし、そんなことはお構いなしにモレンはEMIを走らせる。『夜の女王』は一瞬で距離を詰め、相手EMIの胸部に触れた。『夜の女王』の高調波線の輝きが一際増し、相手EMIの輝きが減じていった。モレンが楽曲を締めるように思い切り鍵盤を押し込んだ。けたましい音が鳴り響く。それと同時に相手EMIの高調波線が完全に消失した。
『登録名『フーガ』動作不能。勝者、モレン・レグロ』
無機質な声で、私達の勝利が告げられた。
「やった……モレンさん、勝ちましたよ!」
しかし、モレンは汗を流しながら俯くだけだ。
「……どうかしたんですか」
訊くと、モレンは短く答えた。
「……これじゃあ、ダメだ」
*
「決定力不足?」
「ああ」
二回戦までの休憩時間。俺とマルカ、ブリオの三人は控え室に集まっていた。
「けど、さっきの試合は一瞬で勝負ついたじゃないですか」
「そりゃ運がよかっただけだよ」
「……運?」
「まず対戦相手の操縦技術の不足。咄嗟の判断にしても、あの高調波線延長はお粗末すぎた。……それに、駆動パターンの問題……。『夜の女王』のアクチュエーターを使えば、人間と大して変わらない動きができる。普通はそうじゃねぇんだ。EMIは振動を使って動くから、ある程度突発的に動く。分かりやすく言えば動きがカクつくんだ。さっきの試合の相手も、吹っ飛ばされたみたいに後退してただろ。あれが普通なんだ。だから、対戦相手は『夜の女王』の機動を読めなかったはず……俺があの試合で勝てたのは大方その二つが理由だ」
まぁ、あの程度なら相手がベストの状態でも勝てただろうが。
「……決定力不足って、それは……」
「平均レベルのHODが搭載されてりゃ、あそこでフォルテッシモなんて鳴らす必要なかったんだよ」
相手は下手に高調波線を延長したことで、全身を覆う高調波線に隙間ができていた。通常、そんな隙間にこちらの高調波線を打ち込めば、簡単にHODのエラーを引き起こせるはず。しかし、そんな致命的な隙にさえ、『夜の女王』は全身全霊をかけて干渉しなければいけなかった。
「機動力を求めすぎて、HODの積載容量を最低限にしたツケが回ってきたね。一人っきりじゃ、まともな高調波線が出せない」
ブリオが気楽に言った。
「……お前次の相手誰か分かってんのか?」
「知ってるよ。エストくんでしょ?」
「……相性、分かってるか?」
「最悪」
呆気なく、ブリオは言い放った。
「……ブリオさん、何か解決策とかないんですか」
「二人とももう知ってるでしょ」
俺とマルカは目を見合わせた。ブリオが言っているのは、おそらく二人が同時に操作を行うことで初めて使用可能になる機能のことだろう。
「……それが使えねぇから言ってるんだろ」
「僕は奏者の手に余る楽器は作らないよ。アドバイスはそれだけ。メンテ行ってくるから後は自分達で考えな」
ブリオは『夜の女王』の下へ走り去って行った。
「……さて、どうする」
マルカに問いかける。彼女は悩ましげに目を伏せている。
「……とりあえず、エストさんとの相性が最悪ってことについて教えて下さい」
「……一言で言えば、俺達とは真逆のEMIを使うんだよ」
「HOD特化型ってことですか」
俺は頷きを返した。
「動力は殆どHODの起動、高調波線の展開に使うから、EMI本体の動作としては、立つことすらやっとって具合だ。でも、高調波線の密度、その拡張範囲については全EMIの中でもトップだ」
昨年の試合のログを再生する。エストの駆るEMI、『アマデウス』から発せられた夥しい数の光の筋が、本体を守るように周囲を埋め尽くしながらも、正確に相手EMIの四肢と急所を貫いていた。
「……つまり、機動力特化の『夜の女王』は高調波線の檻のせいでまともに動けない上、本体も高密度の高調波線で覆われているからHODが出力不足のせいでダメージも与えられない、と」
「本人の演奏技術のおかげで高調波線のパターンがひっきりなしに変わって、向こうの動きに合わせようにも合わせられないってのもおまけで付いてくる」
マルカは額に手を当てて考え込んだ。しかし、すぐにこちらを向く。
「……やっぱり、〝消音器〟を使うしかないんじゃないですか?」
〝消音器〟。それが二人の同時操縦により、初めて使用できる機能だった。
「使えたら、な」
そう返すと、マルカは俯いてしまう。彼女も提案はしたが、それが現実的ではないということが分かっているのだ。
俺とマルカのお互いの演奏を合わせることは可能だった。それでEMIを操縦することも同様に可能だ。しかし、実践レベルの操縦には至っていない。いくら〝消音器〟が強力であるとは言え、当てられなければ意味はない。その上、〝消音器〟の使用には決して少なくないデメリットがある。
さらに、二人の演奏を合わせることが可能だと言っても、それはアドリブで合わせることができるという意味ではなく、譜面を用意した上で合わせているという意味であるのが何よりの問題だ。譜面通りに合わせたとしても、それでは高調波線の動きがあまりにも単純になる。ただの相手ならそれでも押し込めるかもしれないが、相手はエスト……既存の声楽曲なんて、知りすぎるほどに知っているだろう。
深刻な顔をしながら思考を巡らせるマルカに視線を向ける。……こいつの歌声の正体を、知ることができたなら……。そんな考えが頭をよぎる。だったら、アドリブとはいかなくとも、アレンジくらいならさせてやれそうなものなのに……。
……〝させてやれそう〟?
なぜそんなことを思ったのだろう。自分で言うのも何だが、俺は他人をわざわざ目立たせてやる程に優しい性根はしていない。だが、それならどうして……別に〝アレンジくらいできそう〟などと思わずに、〝アレンジくらいさせてやれそう〟と思ったのだろう。
些細な言い間違いかもしれない。通常ならそれで済ませるだろう。だが、俺にはこの違いがやけに引っかかった。
「……モレン?」
急に呼びかけられ、声のした方に振り向いた。ブリオが少し驚いた顔でこちらにミネラルウォーターを差し出していた。
「あんまり考え過ぎるのもよくないよ。そ二回戦は別に負けても問題ないし、気楽に行こう。このまま〝消音器〟を他人に見られずに終わるのならそれはそれで安心だよ。……まぁ、実戦で見られないのは残念だけど」
確かに、二人乗りにしろ、〝消音器〟にしろ、規定には反していないとはいえ、限りなく黒に近いグレーであるという点では変わらない。それに、エストは白星五つ持ち。負けた所で黒星は増えない。
……それでは駄目なのだ。これはチャンスだ。もう学生生活も最後の一年に入ろうとしているこの時に舞い降りた、おそらく、最後の。これを掴み損ねたら、俺はまた……。
ブリオから受け取ったミネラルウォーターを頭から被る。冷えた水が、俺の熱を奪っていく。
……考えろ。理解しろ。マルカの歌を、俺の音を。あいつは俺の音に目を付けた。つまり、俺の音とあいつの歌には何か繋がり合う所があるはずなのだ。考えろ……考え……。
「……おい、何してんだ」
「何って、拭いてあげてるんじゃないですか。このままじゃスーツ濡れちゃうし……。動かないでくださいね」
されるがままに顔を拭かれる。この女、力加減もあまり考えていない。そこそこ痛い。こんな状況で考えが纏まるはずもなかった。
「これでよし、と」
「……よくねぇよ」
マルカは聞き捨てならないといった様子で眉を顰めた。
「人に顔拭いてもらってなんですかその言い草は。びっくりしたんですからね。水を飲むでもなく被るって……アスリートでもないのに何してるんですか。ちょっと飛び跳ねたし」
「……すまん」
それで気をよくしたのか、マルカの表情が和んだ。
「二人とも、言ってるうちに二回戦始まるけど?」
『夜の女王』の最終チェックに戻っていたブリオが俺達に呼びかけた。
「……結局、使うんですか? 〝消音器〟」
マルカが尋ねた。しかし、彼女の顔に答えを待ち望む色はない。もう俺が何と返答するか分かっているのだろう。
「……ああ。使う」
待っていましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、マルカは『夜の女王』へ向かう。しかし、彼女はその途中で足を止め、こちらを向いた。
「……あ、そうだ。二人で合わせる曲、何にします?」
「……そっちが決めてくれ。ちょっと考えに集中したい」
「……別に何でもいいんですか?」
「ああ」
主要な声楽曲は大体網羅している。伴奏の実技経験もあるからどの曲をリクエストされても大丈夫なはずだ。
「二人とも、そろそろ時間だよ。なんか作戦立てた?」
「はい。私の歌で……」
「おい」
これは聞き捨てならなかった。マルカの言葉を遮る。彼女は不思議そうにこちらを見た。
「何が〝私の〟だ。〝俺達の〟だろうが」
「モレンさんは歌わないじゃないですか」
「そこは演奏だかなんだかに言い換え……」
そこまで言った途端、唐突に頭の中でピースが繋がった。
「……どうしました? もしかして、どこか調子が悪いとか?」
「いや、大丈夫だ。……行こうか」
俺の演奏と、彼女の歌については理解した。しかし、それだけではいけない。マルカの背中を見る。彼女にも、自身の歌を理解させなくてはならない。だとすれば……初めの待機時間だけでは足りない。試合中に作れる時間は精々三十秒……。
その三十秒が勝負だ。
*
『二回戦開始一分前。コンテスタントは準備してください』
先程よりも入念に機器の確認を行う。ブリオの整備は完璧だったようで、どこにも異常は見当たらない。モレンも同様だったらしい。
「……マルカ。何の曲にするか決めたか?」
「はい。『復讐の炎は地獄のように我が心に燃えて』にします」
モレンは少し目を丸くした。
「……歌えるか、なんて訊かないでくださいよ」
この曲は超絶技巧のコロラトゥーラを要求される、声楽曲の中でも屈指の難曲である。
だが、歌えなければこんな提案はしていない。
「いや……そんなこと訊く気はないよ。……ただ、ぴったりだと思っただけだ」
モレンは顔を正面に向けて言った。
「……どういうことです?」
「気づいたんだよ。お前がどういう歌を歌いたいのか」
とことんまでブレがない、落ち着き払った声だった。その声に、私は心中を覗き込まれたかのような悪寒を覚える。
「お前、自分以外の歌は聞きたくねぇだろ?」
ナイフを突き刺されたような冷たい衝撃が私の体を走った。
……そうだ。その通りだ。私が最も嫌いなものは雑音……ノイズだ。そしてその中でも殊更嫌いなものは……。
「……人の声」
口から言葉が、漏れ出ていた。
「……そもそも、ヴィレが憧れって時点でおかしいとは思ってたよ。あまりにも歌声が違いすぎたからな」
「そんなこと……」
「そんなことはないって? 憧れと真逆に進むこともあるって? そりゃあるだろうが、もしそうなら、憧れを踏み越えた跡が感じられるはずだ。お前の演奏にそんなものはなかったよ」
おかしな感覚に襲われる。体の自由が効かなくなるような、体が、ひび割れていくような……。
『カウントダウン開始。十、九……』
モレンがヘッドセットを装着する。私もそれに続こうとしたが、モレンに制された。
「俺が合図するまでは付けなくていい。三十秒稼ぐ。……その間に」
モレンが鍵盤に指を置いた。
「腹、決めてくれよ」
『セッション、スタート』
目の前にエストの操るEMI、『アマデウス』の姿が見える。棒のような手足を持った、骸骨のような機体だ。
向かい合った数瞬後、モレンは猛烈な勢いで『夜の女王』を後退させ始めた。目指しているのは競技場の隅らしい。『アマデウス』はそれを目の当たりにしても微動だにしない。しかし、その身を覆う虹色の高調波線が一際強く輝いた次の瞬間、私はこの逃走が遅すぎると言ってもいいくらいのものであると理解した。
幾条もの、幾色もの光線が、繊細優美な音を撒き散らしながら正確無比に『夜の女王』を捉える。迫り来る光の鞭をモレンは器用に避けていたが、やがて限界が来る。三本の高調波線が『夜の女王』の右足を貫いた。右足の動きが止まる。HODがエラーを起こしたのだ。モレンの演奏に乱れはない。ここまでの流れは想定通りだったのだろう。這うような格好で、『夜の女王』は進み続ける。
だが、周囲では高調波線が織り重なり、巨大な檻を形作っている。あと三秒もすれば、『夜の女王』は完全に拘束されてしまう。
「ッ……!」
モレンが気迫を放ち、演奏のテンポを上げる。それと同時に、『夜の女王』は自らを追う光の鞭に左手で鋭く抜き手を放つ。当然、高調波線に打撃は通用しない。左腕はあえなく絡め取られ、その輝きを失った。
それだけではない。ジャイロスコープのような回転構造によって、EMIの動作の影響を受けないようになっているはずのコックピットを、微かにではあるが震動が襲った。モニターに映し出された光景を見て、私は驚きを隠すことができなかった。地面が遠のいている。つまり、『夜の女王』はその身を刺し貫いている高調波線によって持ち上げられているのだ。もがくも、四肢の内二つが動かない状態では逃れようもない。四本の高調波線が『夜の女王』の胸部を捉えた。万事休す。自然に、頭の中にその言葉が浮かんだ。高調波線が胸部を貫こうと迫る。私は思わず、目を閉じた。
……が、敗北のアナウンスは一向に流れない。恐る恐る、目を開いた。
『夜の女王』の高調波線が胸部に結集し、眩い輝きを放っている。その輝きが、高調波線をせきとめていた。
「……危ねぇな。間一髪、間に合った」
息も絶え絶えに、モレンが口を開いた。
「これは……?」
「説明してる時間はねぇから、結論だけ言うぞ」
モレンが私の方に振り向く。その目は真っ直ぐ私のことを見据えていた。
「俺は、じゃじゃ馬慣らしができる。だから、思う存分歌え」
*
マルカが、呆けたような顔をこちらに向けていた。それはそうだろう。全く言及もしていなかった、ともすれば、思うことすら咎めていたようなことを、会って数日の他人に言い当てられたのだから。
「……どうして」
思えば、不可思議な点はいくつかあったのだ。最も、根拠はあまりないが。
まず、彼女の首に常にかけられているヘッドホンだ。彼女は、俺やブリオが話しかけない限りは、常にそれを着けていた。音漏れしていたとはいえ、仮にも防音室からの音色を正確に聴き取れていたことから聴覚過敏なども考えられたが、俺やブリオと話している際には特にそのような兆候が見られた訳ではないから、この線は捨ててもよいだろう。
なら、どうしてヘッドホンを着けていたのか。好きな音を常に聴いていたいから? それもあるだろう。しかし、それは裏を返せば自分の認めた音以外を聴きたくないということだ。特に、試合開始前の彼女の言葉からして人の声を。
なぜそこまで他人を拒絶するのか。元来そういう性質なのかもしれないが、俺やブリオとはまともに話せていた。この線は薄いだろう。で、あるならば過去に他人とのトラブルに巻き込まれたことが容易に想像できる。
ここからは完璧な想像だ。妄想と言っても差し支えない。こんな、人の声を嫌っているような人間が、声楽家など志すだろうか? そもそも、どうして彼女はこの学校に入学したのだろうか?
俺はその答えを、彼女の歌声に求めた。彼女の、聴くものの脳髄にその音を刻むような、俺とは真逆の、刻銘な顔を持った歌声に。彼女にとって、歌うこととは自身を証明することであったに違いない。そして、彼女が認める歌声……〝顔〟と言った方がいいかもしれないが、それは自分のものだけだったのだろう。「私の歌声で」。彼女の言葉を思い出す。彼女にとっての音は、それだけなのだ。
歌うことでしか自分を証明できない。さらにその歌声は他を一切塗りつぶしてしまう程の〝顔〟を持っている……。軋轢の一つや二つ、簡単に生んだだろう。同じ声楽家を志す人間だけではなく、協調すべき伴奏者とも。
……その過程で、〝じゃじゃ馬〟とでも呼ばれたのではないか。そこまで考えたのだが、説明している時間などない。
現在は、四肢のHODを全て胴体に回した上でフル稼働させ、なんとか高調波線の干渉を食い止めているが、耐えられて三十秒が限界だ。そして、この状況を打破し、なおかつ勝利を勝ち取るためには、完璧なセッションをこなさなければならない。だから、俺はこの三十秒で、彼女に自身の歌と、俺のピアノを信用させなければならないのだ。
マルカの様子を伺う。彼女も状況は理解できているようだ。ヘッドセットを装着する準備をしている。俺は頷く。ヘッドセットを装着しろという合図。マルカが円形のヘッドセットを取り付けた。後はスイッチを入れれば彼女の命令が『夜の女王』に伝わる。
「……さぁ本番だ。腹ぁ括ったか?」
尋ねると、マルカは弱々しく首を縦に振った。
「おいおい、俺に啖呵切った時の気合いはどうした?」
「……」
マルカは何も言い返さない。これまで思い出すことも避けてきたであろう過去を突きつけられたことに相当応えているのだろう。
……だが、俺にはもう分かっている。こいつの本当の姿は俺に手を取らせたあの姿だ。
あの姿を、マルカの決意を、そして俺の決断を、嘘にしてたまるか。
「……じゃあ、こう言おうか」
残り十秒。これでマルカをその気にできなければ、俺達は負ける。
「お前の目の前にいるのはヴィレだ。意味、分かってんだろ。これでも不安か?」
マルカは、少しの間俺の言葉の意味を図りかねていたようだが、やがてその意味に気づいたらしい。
『夜の女王』の高調波線が破られる。その瞬間だった。
アリアが、響いた。
*
……そうだ。ヴィレ。その通りだ。モレンの演奏を思い出す。彼のピアノの音色はヴィレの歌に似ていた。顔のない、空っぽの音色……ヴィレと違うのは、彼女の場合、空白を埋めている曲への理解があるのに対し、彼のピアノは空っぽのままだということ。
彼の演奏の空白には、何が入るのだろう?
その答えは、私がモレンの演奏を初めて聴いた、あの瞬間にあった。
彼が弾いた曲は二曲。『復讐の炎は地獄のように我が心に燃えて』と、『アヴェ・マリア』。どちらも声楽曲……つまり、歌おうと思えばどちらも歌えたはずなのだ。けれど、私は『アヴェ・マリア』しか歌わなかった。この二曲の違いは何だ。……簡単だ。メロディーがあったかどうか。それだけだ。それだけで、モレンの演奏はまるで違うものになった。メロディー……主張がなくなることによって、完全な空白が演奏に生まれたのだ。
……誰かのメロディーを嵌め込むためにあるかのような空白が。
彼がどう思っているのかは分からない。自分が望んでいたものとは真逆の才を持っていたことに対する感情なんて、考えてみてもわかりっこない。
けれど、彼の表情には私のような迷いはない。というか、私は何を迷ってるんだ。
彼をこの場に引き込んだのは、私だ。
ヘッドセットのスイッチを入れる。そして、深く息を吸い、逡巡を追い出すように、声帯を震わせた。
アリアが、響いた。
*
シンセサイザーからは、ストリングスの音色が響いている。しかし、こんな音色は飾りだ。……それでいい。飾りでいい。観客が聞き惚れるのは彼女の歌声……それだけでいい。
『夜の女王』の右腕に星空を溶かしたような輝きが宿る。青白いその輝きは、マルカの歌の昂りに呼応し、刹那の内に膨らみ、爆ぜた。目も眩む程の輝きが辺りを包み込む。その光が収まった時、俺達は、この武装が正常に作動したことを知った。
『アマデウス』から放たれ、『夜の女王』を持ち上げていたはずの高調波線が、周囲の高調波線諸共消え失せていた。
「着地!」
間髪入れず指示を出す。二人での操縦の際、舵取りをするのは俺の役目だった。『夜の女王』は、さもそうすることが当然の摂理であるとでも言うように、華麗な着地を見せる。一人で操縦している時と大差がない。素晴らしい操作感だった。
俺はモニターで、今は漆黒に包まれている『夜の女王』の右腕を見る。〝消音器〟が発動した後には十秒のクールタイムが必要だ。その間は、HODは一切使用できない。つまり、その部分は十秒間使い物にならなくなる。
十秒。時としてコンマ単位の駆け引きが要求されるこのコンペでは、重すぎるハンデだ。しかし、そのハンデを負う程の価値がこの機能にはある。
反発振動生成機構。それこそが、『夜の女王』の四肢に搭載されている〝消音器〟の正体だ。高調波線から、その高調波線が纏っている振動を読み取り、それに反発する振動を繰り出す。多様なベクトルからの音波に対応するため、そして〝消音器〟を使用するEMIが耐えられるように、二人の演奏による複雑な振動が発動に必要という難点こそあるが、その効果は絶大。先程のように軽く放つだけでも、HOD特化型のEMIが放つ高調波線を掻き消してしまえる。EMIに直撃でもさせようものなら、HODだけでなく、EMIに動力を送っているASGすら停止させてしまう文字通りの一撃必殺が可能になる。
ブリオによると、EMIと同様の原理で動く軍用兵器から着想を得たらしい。……軍用兵器。その響きに顔を顰める。二人乗りといい、この機体はとことんグレーだ。
……と、そんなことを考えている暇はない。『アマデウス』との距離を見極める。およそ二百メートル。着地の際、かなり前方へと進んだらしい。好都合だ。この距離であれば、『夜の女王』のトップスピードで五秒とかからず走破できる。『アマデウス』から伸びる高調波線も、警戒するように空中に留まっており、こちらに干渉する素振りは見られない。
「マルカ。真っ直ぐ、フルパワーだ」
マルカが、力強く高音の旋律を歌い上げる。それと同時に、『夜の女王』が駆けた。その身に纏う光が眩き始める。二歩目を踏み出す。その時だった。『夜の女王』がバランスを崩してその身を崩した。モニターを確認すると、左足に高調波線が突き刺さっている。
「左腕! 〝消音器〟!」
〝消音器〟作動の命令を通した瞬間、聴き覚えのある旋律が耳を打った。間違いない。俺達と同じ、『復讐の炎は地獄のように我が心に燃えて』だ。
完璧にピアノのために編曲されたその音と、原曲の魅力を少したりとも損なうことがないように、俺があの日弾いたアレンジとは比べようもない程に複雑性を増している譜面を弾きこなすその技量を前にして、一瞬だけ思考を止めてしまう。しかし、〝消音器〟の大音響が俺の意識を現実へと引き戻した。
……危ない。こんなことでは操縦をしくじる。それにしてもあの野郎……相手の曲に 合わせるならまだしも、全く同じ曲を演奏するなんて不利になるだけなのに……真っ向からかち合って来やがった。……いや、不利になるとか、そんな気はないのかもしれない。声楽曲の魅力を保ちつつ、ピアノ曲として成立させる。そんな矛盾をはらんだ題目を見事に成功させることで、俺の戦意を挫くことが目的だったのかもしれない。
……だとしたら、逆効果だ。
「右足、〝消音器〟!」
再び、大音響が響いた。それと同時に、『夜の女王』が跳ね飛ぶ。〝消音器〟によって発生した振動を利用して、EMIを跳躍させたのだ。『アマデウス』まではもう少し。そして、右腕のクールタイム……十秒は既に過ぎている。星空を溶かしたような輝きが、再び右腕に宿った。
だが、その輝きが爆ぜることはない。光の槍が、『夜の女王』の右腕を貫いていた。光り方からして、大部分の高調波線を結集して作り上げているのだろう。
これで、『夜の女王』は動くことができない。右足、左腕は〝消音器〟を使った後のクールタイムのため動かせない。左足は〝消音器〟からの衝撃を防御もできない状態で受けたため機能停止状態だ。
コックピットが揺れる。右腕を貫く高調波線が右腕に巻き付き、『夜の女王』を持ち上げているのだ。
マルカとエスト、互いに天賦の才を持つ者同士が、跳ねるようなコロラトゥーラを奏でる。音色に合わせ、『アマデウス』から高調波線が鋭く打ち出されたのに対し、こちらは少しもがき、半身を逸らすことくらいしかできない。そんな状態で、高調波線を避けることなどできるはずもない。まず、四肢に一本ずつ高調波線が突き刺さる。まずは〝消音器〟を潰しておきたいのだろう。それに、大部分の高調波線を光の槍に使っている現状では、二人分の高調波線を纏う『夜の女王』の胸部装甲を貫くのは難しい。
光の槍が、その輝きを減じていく。高調波線の力が弱まり、『夜の女王』の高度が少し下がった。とは言え、四本の高調波線に絡め取られているのだ。このままではどうすることもできない。そして、そんな中でも『アマデウス』は、胸部を貫くための光の槍を作り上げていた。
あと二秒で再びコロラトゥーラが奏でられる。『夜の女王』は身動きが取れないのだ。エストとしては、わざわざ危険な賭けに出る必要もない。攻撃が来るとしたら、高調波線に最も力を込められるそこだ。
額に汗が滲む。考えろ、考えろ。どこか、祝福のようなマルカの歌声を背に受けながら頭を回す。一瞬が無限に変じるも、残酷なまでに時が過ぎていく……不思議な感覚に囚われた。感覚も研ぎ澄まされているのか、やけに肌がひりついた。心拍が上がっていく。焦燥? それとも……。何一つ解決策など見出せないまま、時間だけが過ぎていく。そんな時だった。
マルカの呼吸音が鼓膜を撫でた。
瞬間、俺は無意識的に鍵盤から手を放し、マルカの、耳を刺すようなコロラトゥーラを合図に、思い切り押し込んだ。
光の槍が『夜の女王』を貫く。……『夜の女王』の、左脇腹を。急所である胸部の高調波線には届きうるが、この状況ではあまりに遠い。
……行け、行け。行け!
俺はモニターを眺めて、必死に指示を出した。右腕の高調波線が心なしか輝きを強めた気がした。
『夜の女王』が、マルカの歌声の高まりと共にその右腕を振り抜いた。『アマデウス』の胸部の高調波線の輝きが、段々と薄まっていく。それは、マルカの歌がパッセージの終わりを歌い上げると共に、完全に輝きを失った。
『アマデウス』は、もう動かなかった。
マルカも、歌うことを止め、息を切らしてその光景を見ている。
「……勝った?」
どこか呆けたようなマルカの声と共に、コックピットにアナウンスが響く。
『両コンテスタントは、そのままコックピット内に待機して下さい』
*
……どことなく適当な人だと思っていたけれど、今、この時ほど、ブリオに文句を言いたくなったことはない。
「やっぱりそうですね。申請書の設計図と違う。こんな機構登録されてない」
「……四肢の機構は〝兵装〟とも取れる……」
今、私達のEMI、『夜の女王』は整備員数名に監査を受けている。
そして、私達も似たようなものだ。
「……どうして未登録の学生が搭乗しているのだね」
壮年の男(どうやら教授らしい)が目の前で頭を掻いている。
私は、私とモレンに挟まれて座っているブリオを見る。モレンも同じく、彼に視線を向けていた。
「ええとですね……彼女は、そのう、備品というか何というか……」
「そんな言い訳が通用すると思うかね」
教授の立場でこんなことに駆り出されているのが腹立たしいのか、ふん、と鼻を鳴らして、男はタブレットに何かを書き込んだ。
「……このEMIにしてもだよ。このような兵器紛いの機構を搭載するなど……総則二条に反する代物だろう」
モレンの顔が青くなったのが目に見えて分かった。総則二条を違反した際の罰則……このコンペでの全単位喪失。そんなことになれば、こんな顔になるのも頷ける。
「……で」
男は、私とモレンに視線を向けた。
「君達はこのことについて知っていたのかね」
「いいえ」
「申請書と違う云々は、全く」
「……つまり、兵器については知っていた、と。知っていて当然か。実際に使用していたのだから」
流れるように、男はタブレットに何かを入力していく。そして、一通りの操作を終えた後、男はこちらを向いた。
「で、君らの処分についてだが、ブリオ・ラルゴ、今学期の全単位剥奪及び一年間の停学。モレン・レグロ、本競技会における獲得単位剥奪及び一ヶ月の停学。マルカ・ヴァーチェ、一ヶ月の停学となるが、何か異論はあるかね?」
「大」「あり」「……です」
最後の弱々しい〝です〟はブリオのものだ。流石に自分の分を弁えているらしい。そこにむしろ苛立ちがつのった。
男は表情を頑として変えない。説得という選択肢に暗雲が立ち込め始めた。
「……ちょっといい?」
背後からの声に私は振り返った。細身の、スーツ姿の男……エスト・ジュストだ。
「これって、この人達の処分の話?」
エストが淡々とした声で尋ねた。
「……そうだが、何か君に関係があるかね、ジュスト君」
「ある。その処分、取りやめてくれない?」
私達は目を丸くしてエストのことを見た。
「僕、別に怪我してないんだけど。『アマデウス』も無事だし。その人達に僕を傷つける気がなかったのは明確だと思うんだけど」
「……確かに、四条の二項が論点ならば、それでどうにかなるだろうな。しかし、今はそのようなことを話しているわけではないのだよ」
男は、ちらりと『夜の女王』に目を向けた。
「あのEMIに兵器と取れる機構が取り付けられていたのが問題なのだ。つまり、四条の一項。そこが……」
「アレの直撃、あのEMI自体が喰らってたじゃんか。だからあの時左足動かなかったんでしょ?」
「……ああ」
モレンが、少し困惑して頷きを返す。エストは、それを見ると、ハッチで作業をしている整備員に向かって大声で呼びかけた。
「あのー! すいませーん! そのEMI壊れてますかー!」
「え? いや、そんなことはありませんけど」
男が不機嫌そうに表情を崩した。
「これで、四条の一項……だっけ? もクリアじゃないの?」
「……まだ申請書偽造の件が残っている」
「それは知らない。じゃあね」
「ちょッ! 待ってよォ!」
ブリオが死に物狂いでエストを掴む。エストは迷惑そうにその手を振り解いた。
「……何で僕が君の弁護までしなくちゃいけないのさ。ほら、さっさとお縄に……」
「君、あの勝負が楽しくなかったのか!?」
エストは数瞬考え、口を開いた。
「……楽しかった」
「それは誰のおかげだい!?」
「あの二人」
私とモレンを順に見ながら、エストが即答した。
「じゃあないだろ! あの二人がその実力をフルに発揮できたのは何のおかげだ!?ほら!」
エストは気に入らないような顔をしながらも、『夜の女王』を指差した。
「そしてアレを作ったのは僕! ね! 弁護したくなってきたでしょ」
「そんな気はしないけど、アレが面白いEMIだっていうのは認める」
「ねっ!」
渾身の笑顔と共に、ブリオは男を見る。男は表情を変えない。
「……半年の停学。これ以上は譲れん」
「エスト様ァ!」
涙目でブリオはエストに縋り付く。こんなに情けない人だっただろうか。最早怒りすら湧かなくなった胸の内で、そんなことを思う。エストも呆れ顔だ。
「……最初から正直にしとけばよかったんじゃないの」
「申請通るわけないじゃんか! 君が楽しい勝負ができたのは僕の勇気ある規則違反のおかげ! ね! 助けてよ!」
エストは、もう面倒くさくなったのか、溜息を吐いて、男と話し出した。
「教授。そういえばオケのピアノ探してましたよね。『ラプソディ・イン・ブルー』の」
「……それが何だね」
私は男の顔が、ほんの少しだけ期待の色に染まったのを見逃さなかった。
「あれ、僕が引き受けますから、その分と言っては何ですけど」
「それを早く言いたまえ」
男は、まるで遊びに出かける子供のように足取り軽く席を立った。
「……僕らの処分は?」
ブリオが消え入りそうな声で尋ねた。
「君は一ヶ月の停学。モレン・レグロは一回戦の戦績を剥奪及び来年度前期までの競技会への出場停止。マルカ・ヴァーチェも同様だ」
それだけ言って、男は去っていった。
「神様仏様エスト様ァァァ!」
ブリオがどこかの宗教で礼拝として定められていそうな、とにかく大仰な礼をした。
「エスト。マジで助かった。ありがとな」
「……ありがとうございます。でも、なんで……」
「別に君らのためじゃないよ。僕のためだ。僕の人生に、偽物の白星はいらない」
はっきりと、エストは言い放った。
「……それよりも、ボルン」
「モレンだ」
「あの試合の最後……どうして高調波線を延長しなかったの? いくらHODが貧弱とは言え、あそこまで近づいてたら有効打になったはずでしょ。ほら、『アマデウス』の高調波線も薄くなってたし。君が伴奏を使ってコントロールすれば僕に気付かれずにできたでしょ」
モレンは、少し悩んでから答えた。
「……あの時は無意識で、何も考えつかなかったってのもあるけど……。それよりも、こいつの歌を邪魔しちゃいけないって気持ちが強かった。だから……この言い方が正しいのかも分からないけど、こいつの歌に殉じようって、そう思ったんだ」
「……それで、君があんな捨て身の策を取ったってことか。……うん。やっぱり面白いな」
私に笑みを向けながら、エストが言った
「……ちょっといいですか?」
「何だい?」
「……えっと、最後に何が起こってたんです?」
モレンとエストが、目を丸めて私を見た。
「……君も無意識だったの?」
「俺もてっきり意識してたのかと……」
そんなことを言われても、何が何だか分からない。
「……いいかい。あの時、君らのEMIは『アマデウス』の高調波線で両手足を絡め取られてた。当然、身動きは取れない。HODを作動させられるのも胸部だけだ。普通、胸部のHODは本体を守るのに使うんだけど、あの状況じゃどれだけ守りを固めたって負ける。そこで、君らは胸部のHODから生み出される高調波線を、必要最低限の分だけ残して全部右腕に回したんだ。これで、右腕の拘束が解ける。その時の体勢の変化で狙いが逸れるから致命打を避けられた。後は、あのEMIの運動性能に任せて殆どの高調波線を攻撃に回した『アマデウス』に一撃を与える……それが君達がしたことだよ」
「……意識してなかったとはいえ、よくあんな賭けに出たよな」
「……はい」
ああ。そうか。合点がいった。私の歌っていたアリアは、壮絶な復讐の念が歌詞に込められている。声楽だろうと何だろうと、歌を歌うならそこに込められた意味を感じ取り、それを呑み込み自分の一部としなければならない。優れた歌手は、ヴィレほどではないが、必ずそれをしている。
あの時、私はあのアリアの歌詞から、命よりも、右手に握ったナイフを選ぶ程の、それこそ題にあるように炎のごとき復讐心を感じ取っていた。……私にとっての復讐の相手……。決まっている。EMIだ。
歌詞と感情が、完全に一致した結果の一撃。必然のような、偶然のような。
「……何だか、落ち着きません」
「何言ってんだ」「何言ってんの」
二人から、同時に頭を小突かれた。
「お前はこの学校のトップの一人に勝ったんだぞ? 誇れ誇れ!」
「……もっと喜んでくれないと、僕の格が落ちる」
「……でも、勝敗がはっきり告げられた訳じゃあ……」
「どう見たって勝っただろうが……そうだ」
「ひゃっ!」
モレンが急に私をエストの前に突き出した。
「どーだ。俺の演奏のこと糞味噌に言いやがって。油断してたら天才引き連れて復讐に来るんだぞ分かったか!」
どこかわざとらしい、芝居がかっているとでも言えそうな調子で、モレンが言った。しかし、エストの反応は芳しくない。
「……君もか?」
「……何のことだよ」
「僕、君に才能がないなんて一言も言ってないんだけど」
「……は?」
その時、エストが腕時計を見た。
「……もう三回戦だ。行かないと」
「おいちょっと待てよ。説明してけ!」
エストは表情を歪めた。
「あんな空っぽの演奏できる人、そうそういないって言ってるの。いい意味で……もうこう言った方がいいか。あんまり好きな言葉じゃないけど……」
エストは私達に背を向け、手を振りながら告げた。
「僕の負けだよ。天才共」
エストは、すぐに曲がり角を曲がった。その表情を伺うことはできなかった。
モレンを見る。彼は目をしばたいていた。今の言葉が信じきれていないらしい。
「よかったね、モレン。〝天才〟だってさ」
今の今まで地面に頭を擦り付けていたブリオが、爽やかな笑みを浮かべていた。私とモレンは同時に動いた。流れるように彼の胸倉を掴み上げ、壁に叩きつける。
「申請まともに通してなかったって……どういうことです?」
「ぶん殴ってもいいよな。マルカ」
「薄情な!」
「……ダメです。モレンさん」
「マルカちゃん……!」
「ピアニストが手を傷つけたらダメです。蹴りにしましょう。キックはパンチの三倍の威力があるらしいですし」
「マルカちゃん⁉︎」
「ああそうだ。それだけじゃねぇ」
モレンが、ブリオを睨み付けた。
「お前、全部分かってたんだろ?」
「……何のことかなぁ」
「しらばっくれんじゃねぇよ。マルカのことも、俺の才能のことも、俺とマルカが組んだらエストとも渡り合えるようになるってことも全部!」
「へ……?」
私が小首を傾げると、モレンが早口で説明しだした。
「よく考えろ。偶然引き合わされた俺とお前の演奏が完璧に一致した……できすぎだろうが。多分、こいつもエストがお前を見たのと同じコンサートに来てたんだよ! そこでお前の歌を知った!」
「モレンさんの才能については……?」
「エストは一回聴いただけで、お前は一週間で見抜いた! 三年もつるんでりゃ気付く! 仮にも音大生だぞ、こいつ。あとは、『完全に自我を取り除いた伴奏』と『自我を百パーセント引き出した歌』が完全に噛み合うっていう二歳児向けのパズルをするだけだ! テメェなんでさっさと言わなかったこの野郎!」
「待って! 待って‼︎ 弁解させて!」
モレンは仕方ないという風に手を放してやる。ブリオはずれた眼鏡を直した。
「……僕さ、この大学入るまではサックス吹いてたんだよね」
その声にふざけているような色はない。私達は黙って続きを聞いた。
「でもヘッタクソでさ。どうしようもないくらい。そのくせサックス吹くのは好きだったから辛かったよ。けどね」
ブリオは過去に思いを馳せるように視線を落とす。
「これも、サックスをうまく吹くための足掻きだったんだけど、サックスっていう楽器そのものに目を付けたんだよ。僕が上手く吹けるサックスを作れないかって……。けど、そんなこと考えていく内に、楽器を作るってことに魅せられた。それに、元々機械弄りなんかは得意だったから、EMIを作る道を選んだ」
ブリオは、モレンに視線を向ける。
「モレンに本人が望んでない形の才能があるってことは結構早くから気づいてたよ。言うべきか言わないべきか……結局、言わないことを選んだ。その結果、モレンは段々やつれていった。流石にまずいと思ったよ。言わなかった僕の責任でもあるからね。だから、ペアを見つけることにした。伴奏だけじゃ、どう頑張ったって完全な音楽にはなれないから。そこで見つけたのが君だ」
今度は私に目が向けられる。
「これだと思ったよ。ともすれば、伴奏すら食いかねない歌声……食うものすらない伴奏となら、完璧に合わせられる。僕は君に組んでもらおうとしたけど、君をこっちに呼び込む口実がなかった。伴奏者なんて、大体学校側が決めてるしね。困った僕は考えた。ないなら作ればいいってね。そのために設計したのが『夜の女王』だ」
私は、『夜の女王』に目を向けた。美しい黒色の装甲が目に入る。素人目に見ても高性能な機体。予算も上限ギリギリだったろう。……私のために作られていたなんて。
「けど、いざ誘う段になってびっくりしたよ。君は転科しようとしてたんだから。慌てて止めた。……ごめんね。ほんと。あんな強引な手段になっちゃって。でも、体が勝手に動いたんだ。よりにもよって、楽器制作科に行こうとしてたんだから」
「……何かまずいことでも?」
「信念もなくやっていけるような場所じゃない。特に、主役になる栄光を知ってるような人間には合わないと個人的には思うね。楽器制作って、どう頑張っても裏方だから」
……それは、その通りだ。自身の軽率極まる行動に、頬が熱くなった。
「……ここからは、二人も知ってる話で」
「どうして」
モレンがブリオに迫った。
「……どうしてさっさと俺に才能があるって言ってくれなかったんだ」
どこか、やるせなさを宿した声だった。
「……それについては、本当悪いと思うよ」
「……才能が、俺の好みじゃねぇからか? お前、知ってるだろ。俺がなりふり構わなくなってったの。それ以前に、お前は俺の専属エンジニアだろうが」
それを聞いたブリオは、はっきりとモレンに視線を合わせた。
「……僕はモレンの専属エンジニアである以前に、君の友人だ。だから……身勝手だとは思うけどさ。こう思ったんだよ」
ブリオは、話している内に逸れた視線を再びモレンに合わせた。
「自分の才能に気付く瞬間……僕がサックスの作り方を調べた時に感じた、世界で一番ワクワクする瞬間は、本人に取っておいてあげたい、って」
*
澄んだ空のような静寂が耳を包んでいた。風が頬を撫で、微かな音が耳を打つ。それを飲み込むようにして、俺は耳を塞いだ。くぐもった、それでも消えない音が耳の中で流動する。
「……どうしました?」
不思議そうに、マルカが俺を覗き込んでいた。ヘッドホンは首にかけてこそいるが、電源は入っていない。
「いや……全くの無音って、どんな具合か知りたくて」
マルカは少し嬉しそうに笑った。
「消えないですよね? 音」
「……ああ」
「ちょっと前まで、よくしてました」
「……変わった奴だな」
「モレンさんだってそうですよ」
俺は笑って歩き出す。
「今日は何するんだっけ?」
「ブリオさんの停学明けパーティーです。モレンさんが言った通り、費用は全部ブリオさん持ち。エストさんも来るらしいですよ。『夜の女王』に正式に許可が出たから、リベンジしたいのかも」
「……今度は……どうだろうな」
「勝つんでしょ? ドキドキぐらいしてそうですけど」
言われて初めて、鼓動の高鳴りに気がついた。静まれ、静まれ、と胸を叩く。
「……落ち着きませんか?」
マルカがヘッドホンを首から外して俺に差し出した。
「聴きます? 落ち着くと思いますけど」
こいつが何を聴くか興味があった。ヘッドホンを受け取って、イヤーカフを操作する。ヴァイオリンの優美な音色が流れ込んだ。パッフェルベルの『カノン』だ。祝福のようなそのメロディーは、不思議と人間味を感じさせなかった。
「……ありがとよ」
ヘッドホンを外して、マルカに渡す。
「……気に入りませんでした?」
どこか不安気にマルカが訊いた。
「いや……。ただ……おっ」
EMI格納庫が見えてきた。微かに漆黒のEMIの影が見える。既に格納が終えられたらしい。
「行こうか」
「はい」
心臓が跳ねる。その鼓動に引きずられるようにして、前に進んでいく。
……この胸の高鳴りを抑えるには、どんな音だって優しすぎるだろう。