朝の教室には澄んだ空気が満ちる。朝焼けの差し込む直前に聖性を帯びたような教室の静謐さは頂点に達した。徹は窓際のプランターに水をやっていたが、一時手を止めて柑子色に染まった空とその色に縁どられ青ざめた積雲を見た。差す光は雲らの輪郭を彫ることで無際限に拡がりゆく彼らを御する職人である。徹は雲の縁を奔る光が自らの眼に宿るような感覚を覚えたが、それもすぐ消えた。後ろから引き戸の音がしたからである。
徹が振り向くとそこには遼がいた。彼は徹を一瞥してにやりと笑うと体操服を詰め込んだ鞄を乱暴に机に置いた。
「今日も朝から水やりか」
遼は単に冗談のつもりでそう言ったが、彼の装う粗雑さから小虫をつついて遊ぶような、そんな揶揄いの響きを人に感じさせた。厚い胸板と切れ長の目を衣装として、教室で立ち回る彼は一流の役者だった。自らの繊細な心根からそういった演技の資質が生まれているとも知らずに。
徹は何も答えることなく水やりを止めて、自分の席に座る。虚ろな目線を黒板に向けた徹の秀でた横顔を遼はじっと見つめていた。黄白色にこけた頬と山桃のような唇が対照的な色彩を成して、そのほど高い鼻梁の存在を支えているようだった。細い首には近頃伸長しだした咽頭仏が特別目立つ。
徹は遼からの視線を感じながらもそちらをちらとも見ることは無かった。彼は小さな胸を緩慢に上下させながら、来たる陳腐な日常に備えて固い精神の殻に籠る準備を始めた。窓の外では太陽が高く昇り、雲足がいよいよ速くなった。麻酔にかけられたような教室の時間を、近づく廊下の喧騒と日の光とが打ち破ってしまった。
*
またある朝、遼は日課としてバスケットボールの練習をしていた。他の人間が体育館に入るまでに自ら課した練習の項目をすっぱり終わらせて、朝夕行われる通常の部活動をふけるのである。彼がそんなことをする理由は二つあった。第一に彼は自分の成長に他者との触れ合いはそれほど必要ではないと感じていたこと。第二に彼が他者を恐れていることであった。──もっとも、彼は後者の理由を頑なに認めなかったが。
ワックスによって輝く床材や誰もいない舞台、細かな傷の刻まれたバスケットゴールなど、体育館に存在する全てのものを限定された時間、所有下に置いているという支配的な喜びによってこれをこなしているのだと遼は考えていたが、実際に彼を動かしているのは紛れもない恐怖であった。他人の無神経に対する恐怖。思春期の少年らのべたつくような関係などは彼にとって紛れもない恐怖の対象だった。
最後のシュートを打ち終えると、服を着替えて体育館から出る。外に出ると、体育館と校舎を繋ぐ廊下に誰かいる。薄明りでよく見えなかったが、体つきと時刻から大方徹であろうという予想は付いた。肩幅に足を広げて、行く手を遮るように立っている。手の平を胸の前で器のように組んで、何かを保持している。
「誰だ」
返事がない。
「答えないとそっちへ行ってぶつぞ」
遼は人影の側からも十分に見えないであろうと分かっていながら強く睨んだ。彼は誰だか分からないからそれを確かめるために高圧的に接しているわけではなく、その人影が徹であると予想できたからそうしたのである。なぜだか、裏切られたような気持ちで無性に腹が立ったのである。
やはり、返事はなかった。
「よし、ぶつぞ。待っていろ」
この際、本気で平手を食らわす気持ちでいた遼だが、近づくにつれて闇から浮かんできた真白い顔がこちらをきっと強く見据えているのに驚いて足を止めてしまった。
束の間睨みあった後、徹から口を開いた。
「……頼む」
それだけ言って突き出された両手には一羽の鳥の雛が抱かれている。鳴きもしないそれはほとんど死に体で、痙攣じみた小刻みな震えを見せていた。彼の手の甲を下から包むようにして遼はその雛を受け取った。小汚く貧弱な身体、全身を覆うに至らない羽根、青みがかったように見える嘴。到底長くは持たないだろうと遼は感じた。
「どこで拾ってきた。衰弱が酷いと見える。元居た場所に置いてきた方がいいぜ」
遼は突き放す調子でそう言って、徹の胸に雛を持つ手をぐいと押し付けたが、彼は受け取らなかった。瞳を上瞼にぴたりと貼りつけて遼の顔を見つめている。黒曜石で造られた珠が埋め込まれたようなその目。遼は触れている彼の胸の冷たさとは裏腹に、見据える瞳に暖かい意思を感じた。自らが何度も演じた生木を燃やしたような感情とは違う、炭に潜む火のような意思、伝播する熱のような意思。……
校舎の東に位置する生駒山の稜線はすでに黄金色に燃え上っていた。──空が徹の瞳孔から貰い火をしたのだ、と遼は考えた。この考えは彼の悟性そのものが温度を帯び始めていたことの証明でもあったのだが。
「頼む」
徹は遼の腕をひしと掴んで言った。
「よせよ。頼むったって何をすればいいかも分かんねえよ」
遼は掴む徹の腕を振りほどいた。徹から逸らした視線に鋭く日光が差して遼の目は少々眩んだ。
「第一、そんなにこいつを助けたいなら他の奴に頼めばいいだろう。俺が手を貸してやる義理はない」
光に晒される目を細める。その生理的現象のために彼の苦痛を覆い隠すための演技はより完璧なものとなった。
「君しかいない」
「なぜ俺なんだ!」
遼は徹に向き直ってまた睨んだ。大声に驚いた木陰の土鳩が少し羽ばたいて彼らから離れた。
徹は何も言わなかった。何も言わずに遼の手の中にある小さな命を注視した。それは気が付いたようにか細い声で鳴き始めた。遼はその瞬間全く無防備になった。粗野の果皮を取り去られ、真っ白い、甘い感受性の果肉を顕わにされてしまった茘枝のように……。遼がその一瞬間に見せた慈眼の表情を徹は見逃さなかった。
「君しかいないんだ」
冷たい硝子の指先が遼の頬にひたと触れた。彼は少々身動ぎしたが、それは単なる身体的反応に過ぎなかった。初めて母に抱かれたような、そんな心持ちになってこの接触を心理的には受け入れた。
遼は頬に触れる手が離れるように、顔を逸らした。彼は赤面していたが、徹にはそれが昇る朝日の作用かと思われた。
「あぁ」
遼は呻くように肯んじた。
彼は正面に見える生駒の、影に覆われて暗くなっている裾野を見た。尾根の光を糧として、その存在を確かなものにする闇を。……
*
「ちっち」
遼は朝、自ら課したバスケットボールの練習メニューさえふけり、小鳥に餌をやっていた。手に載せた虫を仮巣の中で口を開けて待つ鳥にやる。初めより羽根も生え揃って、今にも飛んでやろうといわんばかりの小生意気な目をしている。
遼は下の徹を見下ろして言う。
「元気だが、どうも反抗期らしい」
遼は悪戯っぽく笑うと一息に木から飛び降りた。猫科動物のようにしなやかに着地する。
「あの鳥、家出の機会を狙っているようだぜ」
汚れた制ズボンの裾を払いながら言った。徹は微笑みで答えた。
このところ二人は鳥の世話にかかりきりになっていた。というよりは遼が。体育館の裏手にある欅に仮巣を設置し、雛を据えて、登校から下校まで一時間ごとに近いペースで虫などの餌をやっていた。徹は木登りが出来なかったので、営巣から餌やりまで遼が一手に担ったが、律儀にも徹は彼が行うそれらの作業のほとんどに付き添っているのだった。最初の頃は授業を抜け出してこの作業を遂行していたが、徹が無断欠席に抵抗を感じているようであったのと、二人があまりにも同じ時間出払っているので、生徒らの間でおかしな噂が立ったことが原因で作業は休み時間中に行うことになった。
遼は不意に鋭い眼光を体育館横のスロープに向けて叫んだ。
「待てっ!」
人影を認めた遼はスプリンターの如く駆け出すと集団から出遅れた一人の襟を引っ掴んで拳骨を食らわせる。他の生徒らは二、三人程が口々に遼と徹のことを囃し立てて、さっと校舎へと引き込んでしまった。
「許してくれよぅ」
捕まえられた少年は林といった。脂肪で膨らむ白い餅のような肌に、鼻孔から顎にかけて滔々と流れる鼻血の朱が映える。
遼は鬼の形相だった。背中側から襟を掴む手を離すと、次は胸倉を掴むよう持ち替えてそのまま林の体をスロープの壁へ押し付けた。
「今逃げた奴らの名前を言え。でないと、次は本当にその鼻へし折るぞ」
「勘弁してくれよぅ。吐いたら袋にされちまうよぅ」
「そうかい。だが、俺のゲンコは痛いぜ?」
遼が見せつけるように自らの握った拳に息を吐きかける。林は蛙のような口を大きく開けてがたがた震えていた。少年の、年相応には見えぬ拳は前腕部筋肉の隆起と相まって大木の枝につく木瘤のように見えた。それは少々肥えた蛙の鼻づらなど容易に潰してしまえるだろうと思われた。
掲げられた拳骨は細い指に包まれた。遼は振り返って背後に立つ徹を見た。──またあの目だ! 遼はそう思った。彼の着ける暴君の、魔王の仮面の癒着が熱によって剝がれてずり落ちる。……
林は遼の隙を見て、ひらりと彼の腕から逃れる。とろくさい見た目からは想像し難い俊敏さだったが、それがまたむしろ彼の愚鈍な性質を強調した。遼は追わなかった。脇目も振らずに逃げる林の汚れた背中をただじっと見ていた。
徹はその場から離れて欅の上の仮巣を見上げていた。やがて、余暇の終わりを告げるチャイムが鳴った。遼はゆっくりと教室に足を向けた。帰る途中に後ろの徹を顧みたが、やはりまだ樹上を見つめていた。何か思いつめた様子で。
結局、次の時間の教室に徹の姿はなかった。
*
その問題と雛がクラスの預かりとなったのは、数日後の夕方のことだった。問題とは、徹と遼が校舎内で無断に生物を飼育していたこと、及びそれを理由として何度か授業を無断欠席したことである。前者はそれほど気にはされなかったが、後者がまずかった。
帰りのホームルームが行われる前の余暇にいつも通り二人は仮巣のある欅へと向かった。欅の近くで後ろを歩いていた徹が急に脇から駆け出したので遼は少し驚いた。少し遅れて欅の下に辿り着いた遼は徹がしているように仮巣を見上げた。あるべきはずの仮巣が、そこにはなかった。
徹は強く下唇を噛んで、口端の辺りがうっすら薔薇のような赤みを帯びた。
「どこかに落っこちたのか?」
遼は木の周辺をざっと見たが、どこにもそれらしきものは落ちていなかった。
「持っていかれたんだ」
苦々しい面持ちで徹はそう言った。
「何処へ?」
「分からない」
「誰が?」
「それは分かる。きっとこの前の林君達だろう」
「当てつけか」
それぎり二人はどちらともが俯いて黙りこんでしまった。
「……あの鳥は死んだのか?」
遼は徹も持っているが、口に出さなかったであろう考えを確認する。
「分からない。けれどどちらにせよ……」
徹はひどく遠くを見据えるような表情をした。遼は彼の語尾の尻切れに暗いものを感じて、ともかく教室に帰って奴らを問い詰めようと提案した。徹は否定も肯定も表さなかったが、教室に向かうと、とりあえずは付いてくるようであったのでそのままにした。
遼が教室の戸を開けると、教師の無感動な目と目前の教卓に置かれた不恰好な仮巣、雛、幾らかの好奇と嘲笑の眼差しとが彼らを迎え入れた。
「これは何だね」
中老の、背筋のしゃんと伸びた教師が仮巣を指して遼に問いかけた。遼は答えない。
「これは何だと聞いているんだ!」
教師は見つめるのみの遼にしびれを切らして怒鳴り立てた。怒るとにわかに赤ら顔になって、顔中の皺々を深くするその教師は”狒々爺”と生徒達に揶揄されていた。遼は不良少年の大胆さを持って、冷たく教室を見渡した。にやにやと笑う生徒が何人かおり、その中にやはり林もいた。顔には痛々しい痣がぶちのように浮かび上がっている。あの後、仲間内で殴られたのだろうか、と遼は考えた。畢竟暴力を振るう者、振るわれる者という関係も一つの連帯であり、連帯内での優位などは関係なく、そういった関係を持たない者よりも持つ者の方が一等偉いという所属の優越感から林は遼を笑っていたが、笑われる少年は抱く本人も気づかぬこの論理さえ見透かして憐れんだ。──野を駆ける狼を豚舎に囚われた豚が笑うのか? 遼に視線を向けられた林はすぐさまそっぽを向いた。
狒々爺に視線を戻して黙っていると、赤ら顔は徐々に元の黄胆じみた褐色に戻っていった。大きなため息をついた。
「ともかくだ。この事は親に報告させてもらう。もういい、座りなさい」
二人が席に着くと、雛に関して様々な取り決めが彼ら以外の生徒の間で公布された。教師は自主性という便利な言葉にかまけて、面倒に関わることを拒否し、その一切を生徒に任せている。雛の名前や世話係、置き場所などの選定は林が属する一団のリーダー格が音頭を取った。二人の手の及ばない場所で、命の取り扱いが決まっていく。
遼はついに諦観の念を抱いた。鳥に対してだけでなく、人に対しても。自らの知覚を理解してもらえることのなかった少年はそれでも他人の抱く観念を図りかねて、無意識的に演技をすることで他人との距離を取って身を守り、観察していたのだ。しかし、ここで彼は自分の知覚や感受性にどうやら意味がないらしいことを発見した。このまま机に突っ伏して、耳も塞いで、眠りこけよう。……
黄昏れ色の空に象牙じみた色彩の雲がぼんやりと揺れている晩景。当事者不関与の約束がどんどんと為される教室。差す日が暑いのか、ままごとにうんざりしたのか、窓のそばにいた狒々爺は各々帰ってもよいという旨を告げて、早々に職員室へと引っ込んでしまった。
徹は立った。教室は既に雑然としていて気が付いた者は遼しかいなかった。西日を遮って、大きな影を揺らしながら華奢な少年は教卓まで歩む。集団が割れて、彼を導く道のような空間を作った。徹が前に進む過程で彼に横切られた者は、例外なく不思議そうな顔で彼を見つめた。雛の下まで辿り着く。彼はそれを両手で掬い上げるようにして抱いた。
それを誰も口を挟まずにあっけに取られて見ていた。徹はそのまま窓の外、遠くの地平の一点を凝視する。燃えさかる入日がちょうどそこに落ちて、地平に連なる家々は、天上の雲々を黒煙として真赤に燃え上がった。日に照らされた建造物や木々は東に向かって巨大な影を作り、それが繋がって一つの生き物のようにうねる。低い唸り声を想起させるすきま風。
あの時と同じだ! あいつが空に、意思の熱を分け与えたあの朝と! 光と闇が一所に集って、蠢いている。これらは一つのものなのだ。大切なのは、それがどちらの形態をとるかということではなくて、ただ”在る”ということなのだ。遼は思った。
徹は雛を抱えて、燃える空へと歩み寄る。彼と空とを隔てるものは一枚の硝子だけ。それをも彼は窓をおもむろに開くことで取り去った。
完全に没する直前、太陽は驚くべき輝きを見せた。徹は窓から手を目一杯伸ばして、雛を手放した。雛は直下に落ちていくように見えた。日は落ちて、東から生暖かい夜が空を覆った。生徒らは皆、息を呑んだ。
やがて、夕焼けの余燼がくすぶって微妙に明るむ西の地平に一点、黒い影が浮上し、校舎を背にして遠ざかっていった。