例えば駅前のサブウェイで頼んだ期間限定モ~ッツァレラ・クリーミーチキン(ふざけたネーミングだ)のソースが過剰だったとか、青春時代に敬愛していた先輩がビアンだったとか、そんな些細な不幸でピストルを抜くような奴はみんな決まってキチガイなのだと思っていた。
「じゃあ、絶交ですね」
「えっ」
閉館時刻を過ぎた図書室。〈自然・科学〉の書架も貸出カウンターも悉く夜闇のテクスチャに覆われている。にもかかわらず、窓際の前島未希は仄白い輪郭を保っていた。月の光を吸って淡い青色を放つオーガンジーのカーテンを背に、凛とした姿を幽かに浮かび上がらせていた。
一線を越えたのは私だ。だから、未希のそれはいわば正当防衛のつもりだったのだろう。右を殴りつければ左のカウンターは免れないし、世界史の教科書の巻末の年表が報復の血に塗れていることからも自明であるように、防衛は人間の、ひいては生物の本能。そう、つまりやはり正当な防衛だったのだ。
けれどハンムラビ法典だってデタラメではないので、行為そのものは正当だったと認めたい。したがって、直前まで私の中にあった明確な躊躇は、こういう事態を危惧したものだったはずなのだ。
「え?」
にもかかわらず、私の頭は宣告にも似たその言葉を正しく受け止め損ね、未知の音節群として扱おうとした。鼓膜を通過した時点では意味不明。海馬が大慌てで大辞林をひっくり返してようやく、事態を把握できた始末だった。
[名](スル)交際を絶つこと。
用例:「友と絶交する」
おいおい、おい、まさに私じゃないか。世界公正仮説を妄信する小市民である私は、よもや自分がこんな物騒な言刃を向けられるとは思いもしなかった。なぜならそれは切り札であり、鬼の爪であり、埃を被った核弾頭であると思っていたからだ。いわゆる想定外。あらゆる終末ボタン。それを持ち出すなんて、え? やり過ぎじゃない?
「ちょ、え? それ、え? どういう、え?」
ソース塗れのクリーミーチキンハートから絞り出した声は零点だった。動揺して気の触れた私の脳味噌はカラスに突かれまくったゴミ袋みたくなっていた。つまり、「絶交します」は効果バツグンだった。
冗談でも人を傷つけない子だと思っていた、そういうものなのだと。夜風にカーテンが揺らぎ、月が見え隠れする。目と鼻の先にいるはずの未希の姿が怪しく滲み、生意気な敵意を向ける少女が突如、別の何かのように思え始めた。誰だこいつ?
そいつは見たこともない目で私を睨んだ。眉間に嫌悪の「川」が出現し、幻滅するほど美人だった。
純潔を思わせる白い肌と庇護欲をくすぐる華奢な体躯と愛らしき口もと目は薄茶。未希は人の理想と欲望の間の子みたいな女の子だ。「あたかも人形のような」なんて比喩を過去にしてしまうぐらいに人工的な感じを放つ未希を、その日初めて本心からこいつも人間なんだと思えた。
人間ということは心を持つのである。のであれ。あれ? 私はいつから、何を間違えていたのだろう。
翌日、未希は学校に来なかった。らしい。同じく私も授業をブッチしてまったので知るところではなかったが、クラスで一番ウワサ好きな女の子が訊きもしないのにEメールで教えてくれたのだ。将来は優秀なゴシップ記者になるだろう。刺されろ。
「クラスで一番人気のあの子」はいつも誰かの話題に上るのだ。クラスで一番人気のあの子はクラスで一番人気の女生徒であると同時にクラスで一番勉強できる子でもあった(もはや予定調和じみている)ため、ただ学校をお休みしただけでこの有り様なのだ。というのはあまりに雑な優等生観だと思われるだろうが、誇張してもなお余りある完成した人格こそが未希に求められたパーソナリティだった。PTAに生徒会に隣の席の学生Aに同じものを期待され、寸分の狂いもなく応えてみせる。笑顔で!
私は違う。美人でも無ければ頭も悪い。平凡を地でいく私の不在に、いったい誰が気づくだろうか。私がいないと知っているのは、せいぜい担任教師が小脇に抱える出席名簿ぐらいじゃないだろうか。
「未希」
未希は優しい子だった。今もこうして電話に出てくれる。
いや、嘘だ。未希は応えるために生まれたのだから。私の期待に応えざるを得ない。そういうものなのだ。
「美希」
最悪だ。
「未希」
私は最悪だ。
「未希」
「言いました。私、言いましたよね」
絶交? 無理だよ。
どうしてですか。
美希に知らないことがあると知って私は嬉しかった。
だって未希は人間じゃないから。
電話が切れる。ツーツーツー。
ツーツーツーツーツーツーツーツーツーツーツーツー