カエルが人間を飼うようになった頃。カエルの中でも上等な、みずみずしいカエル、フロウ・クヴァッペは雨の音がひどく鳴る夜、人間を待っていた。
「呼んだかい。フロウくん。」
飼われている人間にしては敬語もなく、無邪気とも捉えらえる声のトーンで答えたのは、フロウの親友、漸内(ざない) 福太郎であった。
ふう、とゆっくりと胸から葉巻たばこをふかす。カエル特有の湿った肌に吐いた煙と香りがまとわりつく。フロウは人間の嗜みを理解しようとする、数少ない紳士であった。決して人間を無下には扱わず、飼うというよりも働いてもらう、という言葉に等しいくらいフロウはカエルと人間をそれほど区別しなかった。
「今宵も付き合ってくれるかい。」
ひし形の瞳孔が漸内のほうに一瞬で向く。
「ええ。今日はなんのマジックを見せてくれるんです?」
漸内はフロウの前にある豪華なひじ掛けソファに腰掛けながらそう言った。
前には漸内の肩幅くらいのゴシック式のデスクがあり、そこに置かれている加湿器———いや、水ロウソクといったほうがよい。ロウソクの形をしているのだが、火は灯されていない。代わりに炎の形をした水がゆらゆらと音もなく揺れている。他にも、水ロウソクは白く淡く部屋を照らし、机の周りをぬらしていた。
「今日はマジックなんかじゃないさ。ただ語り合うだけでも楽しいじゃあないか。」
クックッ、と笑うフロウはなぜか色気をまとわせているように見えた。
「最近は戦争がひどくなってきただろう?君たち人間の意見も聞かなくちゃあね。」
カエルと人間の戦争の始まりは単純であった。人間のアイデンティティというのはそう簡単に崩れるものではない。カエルという下等生物に劣るはずがない、そのような感情は日に日に大きくなっていた。
西暦300年前、人間はすでに人間という枠を超えていた。肉体を持たず、声も発さず、テレパシーで会話し、時空を超えることすらできた。
だがその頃から人類は急速に減少し始める。
時空を越えて、自分を変えようとする者は少なくなかった。権力者ですら、今よりも良い未来を求め、過去へと時代を巻き戻した。 しかし、現代に帰ってくる者はほとんどいなかった。帰還しても、必ず自殺した。 なぜか?
“変えられた過去”は幸福だったのだ。
時間すら自由に操れるようになった人類は、いまよりも幸せな時間を感じていたいと願うようになる。もっと、もっとと。人間の欲望に底はない。
現実は忘れられていった。
そして──誰も帰らなくなった。帰還しても過去を忘れられず、絶望し、諦観し、自死する者が続出した。何億という人間が過去へと一斉に移動するたび、時間は歪み、空間までもが歪んでいく。
その歪みは生物の進化を激しく加速させ、中でもカエルが特異な進化を遂げた。
人間がカエルに力で及ばなくなったとき、ようやく人類は“声”を取り戻し、忘れかけていた現実を思い出し、再びプライドを掲げたのだった。
「この戦いはいつ終わると思うかね。どちらが勝つと考える?」
フロウは雨の降るアーチ窓を見つめながらそっと呟いた。葉巻たばこはもう火が消えていた。雨の音が響く。フロウは漸内が答えないうちに、ゆっくりと口を開いた。
「人間は必ず負けるさ。必ずね。──なぜかわかるかい?」
フロウは、雨音を背にゆっくりと言葉を続けた。
「人間は、“人間自身”によって敗れるのさ。カエルと人間が戦い始めて、もうすぐ十年になる。奴隷として飼われていた人間が、仲間を集めて初めて反抗に出た──あのときが始まりだった。 1年目は良かった。我々は人間を甘く見ていたからね。だからこそ、君たちには勝機があった。だが、人間が“分裂”しなければ、の話だ。」
フロウの瞳孔が、雨と同じリズムで揺れながら、鋭く光る。
「君は、きっとこの戦争に興味がないんだろう。だが、もうすぐ無関心ではいられなくなるよ。なぜなら、いま人間は──人間自身との争いを生み出そうとしているからさ。 人間の中には、カエル側につく“破戒者”も現れた。彼らは同族を殺す。皮肉なことに、カエル側にはそうした裏切りの思想は、ほとんどないというのにね。それが、君たち人間の破滅を起こす。 プライドがあるようで、ない。それが人間という存在なのだろう。」
フロウの声には、笑みが混じっていた。
「君は思うかい?カエルは、人間の憧れが進化した姿だと。カエルは“華”だよ。人間もまた、私はそう思っている。だが、社会ではそれじゃ通用しないらしい。 私たちカエルにも、いまや“アイデンティティ”というものが生まれ始めている。私はそれを、一種の進化の証だと見ているよ。」
フロウはわずかに笑い、指先で水ロウソクを撫でた。
「進化の果て、我々カエルは“色彩”を獲得した。その色彩に、人間は慣れすぎてしまったんだ。まるで、美しさに目が慣れすぎて、価値を感じられなくなったように。 ──心底、人間はもったいないと思うよ。」
フロウはそっと、漸内に向き直る。
「人間である君の、その“色彩”は──本当に鮮やかに、見えているのかい?」
漸内はフロウをただ、みつめていた。しかし、空間には静かな揺らぎが生まれていた。
「フロウくんは人間がきらいなのですか?」
雨の音にメロディーをのせるような言葉だった。
「きらい?まさか。人間はひどく美しいものだと思う。その美しさに気づいていない、または気づこうとしない意識があるまじき行為だと私は考えているだけだよ。」
フロウの口調が少し、饒舌になる。葉巻たばこの灰の粉末が灰皿の中で崩れていく。揺らぎは大きく波打つ。
「人間はカエルにないものを幾万と持っているのに、なぜ使わない?なぜ利用しない?なぜ持て余すだけなんだ。人間は羅列がない。乱雑すぎる!」
フロウの肌には水分が浮き出ていた。
「カエルは人間よりも衛生的なのだよ!」
フロウの拳が、デスクに鈍い音が波紋のように広がる。崩れかけていた灰は形を成さなくなってしまった。
「ふふ。カエルの頂点に立っているあなたがそのようなことをおっしゃるとは。これはまた、少しさびしいものですね。」
フロウの激昂を流すように、漸内はさわやかにほほ笑む。漸内は懐からハンカチーフを取り出し、フロウの額にヒタ、と優しく押し付ける。 フロウは大きく息を吸い込み、ソファの背もたれに身をゆだねた。
「寂しいか、カエルにはない感情だな。今私は、君という存在を罵ったつもりだったんだがね。」
天井を見つめながらつぶやくフロウに、漸内は瞬きをしながら、ハンカチーフを折りたたむのをやめた。
「罵るとは、これは大変珍しい。フロウくん、疲れているのですか?」
フロウは首を傾げながら、
「ああ、これは失敬。親しき中にも礼儀あり、だった。そうなんだ、最近自己認識が曖昧でね。寝不足な日々が続いているんだ。」
少し申し訳なさそうな声色だった。水ロウソクは今も尚、ゆらゆらと揺れている。
「ああなんと。さすが統率者はお忙しい。もう何日も眠っていないのでは?」
ハンカチーフを懐にしまい、ひっそりと笑う。
「何日だろう。今日は少し休むとするかな。睡眠は大事だと、君にこっぴどく言われているからね。」
大きなため息をついた後、フロウはつぶやいた。
「ええ、そうしてください。休養はとても大事ですよ。」
漸内がそういった途端、フロウはああ、とため息交じりのままぐたりとソファにもたれかかった。 明かりはだんだん小さくなり、雨音の美しさだけが、漸内とフロウを存在させていた。
*
フロウが眠りについたあと、漸内はゆっくりと立ち上がる。フロウのそばにより頭にそっと手を置いた。
「少し手入れが必要か。」
置いていた手がフロウの頭にあるジッパーをつまみ、静かにおろされる。おもむろになったフロウの脳。ぱかり、と頭蓋骨を開ける。漸内は胸元に入れていたハンカチーフを広げ、二本の金属棒を取り出す。 フロウの脳に金属がすうっと入り、器用に動かしていく。くちゃくちゃとリズムよく鳴り響く肉体音。花のワルツの指揮者のように。かちゃ、と音を立てたと思えば、漸内は脳内に入っていた黒い、小指より小さな薄いチップを取り出した。
「ああ。少し劣化しているな、葉巻なぞ吸うからだ…。葉巻を吸うのもなしにしよう。これはもう一度システムを大幅に組みなおす必要があるな。チッ煩わしい。」
チップと金属棒を胸元にしまい、頭蓋骨を閉じる。ジッパーを静かに閉め、またそっと手を置く。
「安心してください。人間が負ける負けない以前に、すでに貴方達は咀嚼されているのですよ。」
静かに、さわやかな笑みを浮かべ、頑丈で装飾煌びやかな、重い扉をゆっくりと開ける。雨はまだ止みそうにない。
*
漸内はチップを取り出し、フロウの行動記録を追う。そこには重役のカエルたちが重厚な机を囲み議会を開いている様子である。いつもの漸内であれば、カエルたちの議会などめっきり興味もないが、なぜか今日だけは違うらしかった。システム改変の手を止め、一部始終を見始める。
カエルA「君たち、この戦争を終わらす気はないだろう。さんざんに人間という自尊心をつぶしたいのが丸見えさ。」
カエルならではの曖気が笑い声と共に酷く唸る。
カエルB「まあ所詮人間さ。人間に今できることなどほぼない。せいぜい奴隷としてしっかり働いてもらわんとな。」
カエルC「だが、そろそろこちら側の軍も疲弊がみられている。このままでは民衆に不安の種をまくことになるぞ。」
陽気だったカエルたちは、カエルCの発言によって突然静まり返った。カエルは人間よりもカエル同士の反乱を嫌がる。その反乱は人間にとって有利でしかなく、人間の超越した頭脳には勝てないと、潜在的にも認知しているのだろう。
カエルC「どうする、フロウくん。君が決めていい。」
一斉にカエルの目玉がフロウのほうへ向く。独特の目玉文様が異様さを放つ。今まで何も言わずにただ、この状況を見守っていたフロウはここでついに、口を開く。
「これは単なる記録媒体さ。漸内君。きみは私を制御しているつもりだろうが、君もまた、制御されている身なのさ。」
ぷつん、と映像は途絶えた。漸内は思い出す。否、何も思い出すことができない。今、自分が何をしているのか、いったい自分は何なのか。徐々に自己認識が不安定になっていく。
「僕は一体__________」
*
「実験体Nも失敗ですねー。」
「やはり精神コントロールはうまくいかんな。どれもう一回。」
「いやいや、これ以上やれば本気で壊れますよ。新しいのに取り換えましょう。一旦このNは廃棄場に持っていきましょうよ。」
「そうだな、自己認識の揺れが前よりも数段階速い。もうその時期か。持っていけ。」
「ええっ。僕が持っていくんですか?廃棄許可証とか、処分書類書かないといけないのわかってます?」
「それが君の仕事だろう。助手はしっかりそういうこともやらんとな。」
実験体Nのベッドを廃棄場へと向かわせる。実験体が手に何かを握っているのに気付いた。
「なんだこれ。黒い破片?どうせまた先生お得意の記録媒体だろ。はあ。もう廃棄するしいいか。ええと、廃棄許可証に実験体の名前を…漸内 福太郎っと。今月で三体目か。何枚許可証書かなくちゃいけないんだ。」
ぶつぶつと文句を言いながら、山積みにされている実験体の山に投げ込む。流れ作業のように助手は書類に書き込み、自分の研究室へと戻っていく。帰り道、途中で高級品のコーヒーを購入し、佇みながら考える。
「でも、あの記録が本当に別世界で行われていて、それを僕らが垣間見ているとしたら、
実験体N はまだ生きているのか…。生きていたとすれば…?あーあ、こんなこと先生に言えば一発殴られるんだろな、推測でものを語るなーとかね。このシミュレーション空間も何年もつのかなー。」
飲み終わった容器は粒子となって消えていく。背伸びをしながら、助手は研究室の扉を開いた。
廃棄場では実験体Nの握っていた黒い破片が微々たる光を放ち、誰かの、何かの、目覚めを待っている。