目が覚めると私は電車の古びた席に座していた。どこか親近感を覚える電車だなと思ったが、それもそのはずである。その電車は私が普段大学に通う際に利用している電車であった。窓の奥は暗闇が広がっており、車内の蛍光灯のみが唯一頼りにできる光明であった。更に、私以外の人間が車内にいる様子は無い。しまった、寝過ごしてしまったかと考えたが、どうも何時からこの電車に乗ったのかを思い出せない。そもそも私はこの電車に自ら進んで乗ったのだろうか。何も思い出せない。
電車はひたすらにその設けられた軌道を進み、何処かの駅に停止する様子は見られなかった。
「周囲に私以外の人はいない。しかし、電車であるからには、運転士はいるに違いない。とにかく、先頭車両に向かおう」
今、自分が何両目に座しているのかは定かではなかったが、ゆっくりと腰を上げ、小刻みに揺れ動く電車の中を歩き始めた。
*
何両目かの重い連結扉を開けると、相も変わらず、人のいないただ重厚な金属音を発し、小刻みに揺れ動く車内の光景が広がっていた。
「この電車ってこんなにも車両があったのか」
しかし、考えてみれば、誰もいない電車に乗り合わせるなど中々ないことであった。こういった非日常的な出来事を経験するのも悪くないなどと呑気に考え、私は軽い足取りで前を目指した。
しばらくしてまた何両目かの連結扉を開けると、奥の方の緑色の優先席に人が座していた。
「なんだ、他にも人はいるじゃないか」
私は困ったことに時刻を知り得る機器を身に付けてはいなかったので、その席に座している人に尋ねることにした。
「失礼、恥ずかしながら時間が分かるものを身に付けておりませんもので、どうか教えて頂きたいのですが」
その人は口を閉ざしたまま窓の方を眺めていた。私もその人と同様に窓の方に顔を向けたが、窓の奥に広がるのは暗闇のみであった。しばらくすると、その人はゆっくりと口を開いた。
「揺れるだろう。席に座るがよい」
私は言う通りにその人の目の前に、つまり対面に腰を下ろした。
「この電車は何処に向かっているのでしょうね」
「この乗り物は、君が望む限り進み続ける」
「それだとわたしがこの電車の運転士みたいではありませんか」
「そうであると言っている」
おや、電車には多種多様な人間達が乗り合うと言うが、目の前のは厄介なタイプであるな、と私は密かに思い、眉を顰めた。
「お尋ねしますが、あなたはいつからこの電車に乗っているのですか」
「私は遥か昔から、ここにいる。私からも問おう。君は何処に向かいたいのだ」
「……家でしょうか」
「煮え切らんな」
「自分でも分からんのですが、家に戻るべきなんでしょうが、力強くそうは思っていない。何処に向かうかもわからぬ電車に乗り合わせていても、変に落ち着いている。私以外の乗客はいる、もしくは、いたのですか?どうやらこの電車はさっきから走り続けているようですが」
「人間ならば君以外にもいる。それぞれ異なる車両をうろつき、異なる座席に腰かけ、異なる景色を眺めている。中にはこの車両を通りゆく者もいる、君の様にね」
私はその言葉と同時に首を左に右に動かしてみるが、どうやらその人の言うような乗客は見当たらない。さては、この不思議な電車に乗り合わせてしまって、精神がやられちまってこのような気の狂ったことを言うのだなと私は脳内で結論付けた。
「君が考えているように、中には私を狂人と呼ぶ者もいる」
何故、分かる⁉念動力か?もしくは、メンタリストを生業にしているのか?いや、でもメンタリストでも流石に人の考えは読めまい。
「私には人っ子一人見えんのですが、もしあなたに見えているのであれば呼び止めて、私に見せてくださいよ」
「君に彼らを見せることはできない。君と彼らは、異なる存在であるから。この乗り物の中では、それぞれは単独者なのだよ。人々はお互い見えているようで、実際は見えていない」
「呼び止めないのですか? 見えない彼らにもあなたの声は届いているのでしょう?」
「ただ聞こえているのと、耳を傾け、聴いているのとでは大きく異なるのだよ。同様に、ただ見えているのと見ているのとでは大きく異なる。彼らは見えているが、聞こえているが、私とは異なる景色、異なる声を見つけているのだ。残念ながら、私は立って彼らの肩を掴むことはできん」
私は彼が何を言っているのかをいまいち理解できなかった。しかし、私はその人の言葉に続けて耳を傾けたいような気もした。
「君が察している通り、この乗り物は来るべき時が来るまで、降りるべき時までは止まらない。それまでに人々はこの乗り物なかでそれぞれの私を見つける。場合によっては見つけた私次第でこの乗り物を止めてしまう者もいる」
「それぞれのあなた?」
「そうだ。中には、それぞれの私を見つけようとせず、その場に居座り続け、現状維持を望む懐疑的な者たちもいる。彼らは何かを見つけるよりも疑い続けることを選んだのだよ。しかし、彼らは、既に現状維持が彼らの答えになっていることに気付いてはいない。君はいずれこの席を去り、先に進むかもしれぬし、戻ってくるかもしれぬ。進んだ先に納得する景色が広がっているかもしれぬ」
「進んだ先に納得する景色はあるのでしょうか?」
「それは君自身が行けば分かることだ。この乗り物は広く長いのだ。君は若く、時間もある。得られるものもあるやもしれぬ。ただし、この乗り物の構造上、最もらしい論説を用いたとしても、最後には、君は信じる、ということしかできないことは言っておこう」
なにやら話のスケールが大きくなってしまっていた。その人はまるで有識者の様に語るが、やはり、ただの狂人である可能性もある。その人の言う通り、私は腰を上げ、当初の目的を果たさんとし、彼を背に歩き始めた。その時、私はひどい眩暈を覚えた。視界がグニャグニャと波打ち、私は姿勢を保てず、その場に座り込んでしまった。その後、急激な睡魔に襲われ始めた。後ろにいる人に麻酔銃でも打たれたのだろうか?
「今から、君はこことは異なる世界を生きなければならない。君がどう思うかは知らぬが、その世界で生きることは権利ではなく、義務である。だからこそ、君は他の者の義務を妨げてはならぬし、君自身怠ってはいけない。真剣に、知性を尽くして、その世界を生きるのだ。またいずれこの世界にも戻ってくることもある。次にこの世界に来る時は、どの席に座り、どんな景色を見ているのかはその時になってからのお楽しみだ」
いよいよ私の瞼は重くなり、何も聞こえなくなってきた。
「学べ、知れ、それが最も可能な時、場所に君は身を置いているのだ。また会うことがあれば会おう。しかし私はいつでも君のそばに」
*
目が覚めると私は電車の古びた席に座していた。
「次は、〇〇大前~〇〇大前~」
単調な車内アナウンスが目的地到着を伝える。私は目を擦り、席を立ち、リュックを背負い、扉の前に立った。周りには当然だが、同じような恰好をした人達がいた。
「そういや、現実と夢とを区別する方法はないんじゃないかって言ってた哲学者がいたような気がするな。忘れたけど」
私は、駅から出て、欠伸をしながら、大学に向かった。ちょうど散り桜が美しい頃合いであった。