霧の濃い、深い深い森の奥。もう朝だろうか。この冬場にろくな厚着もせず、私は彷徨っていた。意識は朦朧としていて、ただまっすぐに歩き続ける。昨日から何も食べておらず、眠ってもいない。それなのに、不思議と喉の渇きも空腹感も、眠気さえも感じない。腕や脚には、どこでできたのかも分からない生傷が無数にあった。今となっては痛みも感じず、ただ流れ出る血の温かさだけが「お前はまだ生きているのだ」と知らせてくる。
それなら、もう少し奥まで行ってみよう。歩けなくなるまで。動けなくなるまで。死んでしまうまで。
どれくらい歩いただろうか。もう誰にも見つけてもらえない。足の力が抜け、その場に倒れ込んだ。後にも先にも進めず、あとはただ死を待つばかり。これでやっと眠れる。そっと目を閉じる。起きればどんな景色が待っているだろう。死後の世界とは、どんな場所なのだろう。この世界よりマシな地獄でありますように、と願いながら。
「お嬢さん、こんなところでなぜ倒れているんだい。」
突然、声が聞こえた。人は死ぬ間際になると幻聴が聞こえるというが、それならせめて、あの頃の好きだった人の声であってほしかった。最期に聞く声が老人のものだなんて、少し悲しい。
「まだ死ぬには早いんじゃないかな。まだ少し歩けるだろう。ついておいで。さあ、早く。」
もう、歩けるわけがない。無視して眠ろう。声も、次第に聞こえなくなるはずだ。
「起きるんだ。まだ大丈夫。生きなさい。」
しつこい。あまりに鬱陶しくて、私は思わず目を開けて叫んだ。
「うるさい! ほっといてよ!」
「元気があるじゃないか。さあ行こう。ついておいで。」
その瞬間、それまで全く力が入らなかった身体が勝手に動き、私は目の前の杖をついた、死にかけのような老人について行ってしまった。
しばらく歩くと、大きな湖に出た。老人は湖畔にある、小さな白い小屋へと私を案内した。今にも壊れそうな扉がきぃと音を立てて開かれる。中には小さなベッド、丸机と丸椅子、そして暖炉があるだけだった。生活感はまるでなく、まるで私が来る直前に、急いで用意されたかのような部屋だった。
「お入り。何にもないし、もてなしもできないが。」
私はなんのためらいもなく、小屋へと吸い込まれていった。カビの匂いが鼻をつき、暖炉の火のパチパチという音だけが部屋に響いている。不思議と、抵抗はなかった。どうすればいいのかわからなかったが、とりあえず椅子に腰を下ろす。老人もゆっくりと、向かいの椅子に腰掛けた。
「お嬢さんは、どうしてこんなところに来たんだい。」
「もう、死のうと思って。」
「やっぱりそうかい。まだ若いのに、どうしてそんなに死に急ぐんだい。」
「生きるのが、辛くなったんです。ただ起きて、ただ食べて、ただ働いて、そして寝るだけ。なにが楽しいのか分からなくなって。寂しいんです。どうしようもなく。大人になれば寂しさなんて感じなくなるって思ってたのに。親も先生も、大人は誰も寂しいなんて言わなかったから。でも違った。大人になるほど、寂しさは深くなるばかり。大好きだった人にも見限られて、もう独りぼっちです。私、子供作れなくて……子供ができないならって、彼はどこかへ行っちゃいました。結局、失恋の反動なんですよ。寂しいとか孤独だとか言ったけど、本当は彼に戻ってきてほしいだけ。浅いですよね。笑ってください。でも、もういいんです。死んだら、寂しさも、悲しさも、何もかも終わるから。」
こんな老人に、私は一体何を話しているのだろう。話したって何も変わらないのに。自然と涙がこぼれる。悲しいわけじゃない。たぶん、今の私自身に対する憐れみの涙だ。
見ず知らずの人の前で泣く私に、老人はそっと語りかけた。
「そうか、寂しいんだね。私と同じだ。若かった頃は、良かった。妻がいたからね。でも今は違う。妻はもういない。私は独りきり。そして老人になって、身体も自由に動かなくなって、死が近づいてきた。死が怖くなって、誰にも触れず、孤独のまま逝くのが嫌になって──だから君をここに連れてきたんだ。悪いが、少しこの老いぼれのお願いを聞いてはくれないか。」
「いいですよ。最期ですし、なんでも。」
「それでは、遠慮なく。手を出しておくれ。」
何をされるのかと一瞬身構えたが、ただ手を、というだけだった。私は小さな手を老人に差し出す。老人も手を出し、そっと私の手に触れた。冷たく、乾いていて──彼と行った動物園で触れたリクガメの背中を思い出した。
「ああ、シルクのように白く、なめらかで美しい。あの頃の妻のようだ。若かったあの頃と同じだ。」
しばらく私の手をさすったあと、老人は私をベッドに案内し、横になるよう促した。
「妻は、私にとって命よりも大切な存在だった。失ったとき、私もあとを追おうと思った。でも怖かったんだ。一人で死ぬのが。一人で生きるのも辛いが、一人で死ぬのはもっと怖かった。それで結局、決心がつかなくて、今の今まで生きてきた。」
「じゃあ、一緒に死にませんか。すぐそこにある湖に入って。月の光がキラキラと反射する湖に身を任せて。私たちも光になって、天に昇るんです。あ、でも自殺じゃ天国に行けませんかね。それでもいいですよ。こんな世界よりひどい地獄なんてあるはずない。冷たい水に飛び込んで、そのままふわふわと意識が遠のいていく──気持ち良いですよ、きっと。もう、一人じゃないんです。」
「生きようとは思わないのかい? 君はもう寂しさを克服したように見えるが。」
その言葉に、私はハッとした。さっきまで彼のことで頭がいっぱいだったのに、今は違う。彼がいなくても、生きていける気がした。あんなに優しく、丁寧に触れてもらえたのは、いつぶりだっただろう。ザラザラとした亀のような老人の手の感触が、まだ残っている。決して温かくはなかったが、人間の温もりを感じた。そしてそれは、私に「生きろ」と言っているように思えた。
だけど──
「でも、人生って後戻りできないじゃないですか。今さら帰っても、居場所なんてない。寂しくなくても、帰る場所がないなら、生きていけない。だから、もう……いいんです。」
「そうかい。それが君の答えなんだね。じゃあ、夜になったら出かけよう。それまで、ゆっくりお休み。疲れたろう。時間になったら、起こしてあげるよ。」
そう言われた私は、抗う間もなく、急な眠気に襲われた。
目が覚めると、老人は暖炉の前でぼんやりと火を見つめていた。私に気づくと、そっと火を消した。
「さあ、行こうか。今夜はきっと、月も星も綺麗に見えるよ。」
私は黙って頷き、老人のあとに続いた。外はとても静かで、湖は夜の空をそのまま映していた。私と老人は、何も言わず湖に近づき、静かにその水に入っていった。頭まで沈んで、呼吸ができなくなり──私は、苦しさも感じないまま、意識を手放した。
気がつけば、自宅のベッドに寝転がっていた。見慣れた小さな寝室。時計は朝の5時を指している。日付は12月20日──私が彼に振られて、生きることを終えようと決めたあの日だった。
夢だったのか。そう思いながら身体を起こすと、足元に一通の手紙が置かれていた。黄ばんだ紙に、丁寧な筆跡。あの老人からだった。
『もう余命幾ばくもない老人の話に付き合ってくれてありがとう。あなたの言葉で、わずかながら死への恐怖がやわらいだ。しかし、あなたの世界はまだあなたを失いたくないようだ。私にできることは限られているが、ほんの御礼として、ささやかな贈り物を送ろう。どうか、あなたに新たな人生を。』
──嘘つき。二人で死のうって、言ったのに。
冬の真っ只中、私はコートも羽織らず、ミニスカートを履いて外へ出た。刺すような寒さに思わず声が漏れる。冬って、こんなに寒かったんだ。ふと、久しぶりに空腹を感じた。駅前のコンビニで冷たいおにぎりを買い、口いっぱいに頬張る。気づけば、涙がこぼれていた。拭っても、拭っても、あふれてくる。
私は、名前も知らない、どこかの世界で独りで死んでいった老人のために涙を流している。
「……あの、大丈夫ですか?」
誰かが声をかけてきた。私は黙って立ち去ろうとした。
「……あんまり動かないほうが。服、汚れちゃいますよ。」
「え? あ……」
凍てつくような空気の中、生温かい赤い液体が、私の太ももを伝っていった。それと同時に感じたことのない腹痛を感じる。たしかに痛いが、それは私にとって生きるには十分過ぎる理由となった。