五月雨が降る午後に、校庭はずぶずぶと濡れた。
僕は中学校の屋上まで静かな足取りで登る。
登り終えると、カギの壊した屋上の扉を開いた。冷たい突風と同時に、肌を無作法に打ち付ける雨粒が乱入する。空に張り付く厚い雲が、世界を閉じ込める蓋みたく大きくかかって、どんよりと暗かった。
視線を右から左にとゆっくり回すと、屋上の片隅に、なぜだか先客がいた。
そいつは、彼女は、僕がこれから立とうとしていた場所に、先んじて立っていた。屋上を囲む高さ約二メートルのフェンスの向こうから、ぎょろりと大きくて丸い眼が見つめてきた。僕の記憶によると見事に美しかった黒い長髪は強風にさらされ、あられもなく乱れていて、ぐっしょり濡れて久しいブラウスに味気のない下着が透けていた。
この子は知っている。一応クラスメイトだ。たいへん整った面をしているので、辛うじて記憶に残っていた。さらに一応補足すると、クラスメイトというのは、殆ど毎日視界の端っこに入ってくる背景みたいな存在のことで、つまりどうでもいい奴のことだから、彼女の名前まで僕は存じ上げない。
「えっと、何してるの?」
ゆっくりと歩み寄った。
彼女は、言われた意味が分からないのか、それとも聞こえなかったのか、悠長に下を眺めた。それから、またぼんやりした雰囲気で僕を見た。
「何も」彼女は首を左右に振りながら言った。「君は?」
思いがけない返しに、僕はどのように嘘を並べたらよいのか、と少々思案することとなる。
すると、彼女の口角が上がり、僕よりも先に言葉を発した。
「ひょっとして、こっちに来たいの?」ほとんど決めつけるように言われた。「飛び降りたいの?」
その言は、状況から見て僕よりも、彼女にこそ当てはまりそうなものである。彼女の立つそこには人が半身になってやっと立てる幅の足場があるだけだ。
「まさか。そんなわけない」
僕は返した。
彼女はおっかない所を、慎重に移動し、貯水タンクの裏に回るとそこから、よいしょ、という掛け声と共にこちら側に登ってきた。そして、ゆったり僕の前まで歩いてくると、気分が悪くなるほど破顔して、次いで僕の胸の名札に目を落とした。
「鈴原くん」
示し合わせたわけでもないが、僕も同時に彼女の胸元を見ていた。
名札には、徳間、と書かれていた。何か噛み合わない、ちぐはぐな出会い方だった。
*
「くしゅんっ」
徳間は屋上から出た途端に、か細いくしゃみをした。小刻みに震える二の腕には鳥肌が立っている。僕も震えていた。お互いが全身を洗濯機に洗われたみたく濡れているので仕方がない。
「寒いね」
「そうだね」
腕をさする僕たちの目の前には、さっき登ってきた薄暗い階段がある。下に沈むほど、深く暗く、最後が見えない階段だ。振り返るとこんなに不気味な場所だったのかと、妙な怖気が胸にかすった。いや寒気かもしれない。
「邪魔しちゃったかな」
ふと、そんな声に振り返ると、屋上の扉にもたれて外を眺める徳間がいた。鼻先の水滴一粒が、やけに煌々としている。
「何のこと?」
僕は次の言葉を察して、また階段を見下ろした。けれど、彼女は口を噤んだ。
少し間をおいて、徳間が無言のまま階段を下り始めた。そして、階下との間にある踊り場でくるり反転し、こちらを見据えた。
「気が向いたらさ、誘ってよ」
彼女のその言葉には配慮や温かみなどなく、同時に無遠慮も冷たさもない。いたって堂に入った自然な所作だ。
僕は振り返って外を眺めた。少しだけ雨脚が弱まっている。空の端から、夕日の光がわずかながら差し込んでいた。耳だけは勝手に、徳間が下に向かう足音を聞いていた。
*
徳間詩音は、あらゆる角度から、どれほど批判的に見つめたとしても、きれいだ。別にほめているわけでもなければ主観的な話でもない。彼女の、少なくとも外面が美しいことは、本当に周知の事実だった。ただ、僕が彼女について持ち合わせるのは、そんな見てわかる情報だけだ。性格の善し悪しとか、交友関係がどうとか、そう言った込み入った事柄はもちろん一切知らないのだし、あの雨の午後に出会うまで名前すら一致していなかった。けれど、初めて言葉を交わした瞬間が特殊に過ぎたために、好奇心から彼女を観察してしまうという、気色の悪い習慣が僕の中に生まれてしまった。
教室の中で、徳間はよく笑う。それは声に出しても出さなくても、常に笑みを絶やさない。ただし胡散臭い。張り付けたような笑みはいつでも剥がれ落ちそうで、しかも、そう感じるのは僕だけではないらしく、一定数に嫌われている節があった。
友達は厳選しているようだった。とにかくおしゃべりが好きな人が周りに集まっている印象だ。基本的に、聞き上手な彼女だから、それはそうだろうと思う。
食事と字を書く時は右手を、それ以外は左手を使う。おそらく修正されたのだろう。
僕と同じく部活には入っていない。代わりに学習塾に通っている。話を聞く限り、そう悪くない成績らしい。
漫画や小説は好きでも嫌いでもないようだが、彼女の周囲に読書家が多い影響で、流行りものを中心に一通り読んでいるらしい。適宜、薄っぺらな感想を吐いている様子が見えた。どこか仕事の事後報告みたいに見えて、きっと友達付き合いのためだけにいやいや読んでいることが透けていた。
僕は休み時間に寝たふりをしながら、そんな彼女らの話を盗み聞いては、書籍タイトルを暗記して、書店で該当するものの冒頭だけを読んではたまに買って、たまに鼻で笑って元に戻すという、自分でもどうかと思う習慣を二か月弱続けていた。
期末テストの前あたりに、書店でその日盗み聞いた書籍を手に取ったとき、後ろから声をかけられる。
「それ買うの?」
振り返るまでもなく徳間だ。
僕は一応、徐に振り返り、彼女の顔を見た。微笑はなく能面のような顔である。いや、いつも仮面を張り付けたような表情で過ごしているから、むしろ面を取ったような顔だ。
「微妙だったよ」
「そうなの?」
僕は、体の向きを元に戻した。そして本を手に取り裏表紙を見た。
「ジャンクフードみたいな。読んでる最中しか面白くなかった」
「そりゃ、君の解釈が足りなかっただけかもね」
「解釈に過不足なんてないよ。頭の中で出たものが答えだもの」
「どうだろう。表面をなぞっただけの人の意見は、えてして似通るように思えるけど」
粗筋を読み終えた僕は、冒頭に目を走らせる。
「私が言っているのは、量の問題じゃなくてね、位置の問題。どれだけ、ではなく、どこから、っていうの」
「よくわかんないな」
僕はぱたりと本を閉じると、それを手に持ったままレジに向かった。天邪鬼なので不評なものほど買いたくなる僕の悪癖が出た。
「まって」
しかし、声を掛けられ僕は足を止めた。
「買わなくていいよ。貸したげる」
そうして、徳間は眉根を寄せた僕から、ひょいと文庫本を取り上げた。
*
案内されたのは、門構えがしっかりとしている一階建ての民家だ。徳間は迷いなくその門をくぐる。表札には、澤本、と書かれている。
「ほら、こっち」
玄関の前に立つ徳間が、そう言って手招きしていた。僕はしぶしぶ門をくぐった。
門から玄関までは石畳でつながっている。石畳の隙間からは雑草が生えている。その石畳を境に、玄関に向かって左側には、破れたビニールハウスが置かれ、その周囲に割れた鉢植や、それを置いていたのだろう壊れた木棚が散在している。右側は庭園だ。ただし、やはりかなりの期間、手入れを怠っていたらしく荒れに荒れていた。
「ねぇ、それ持ち上げて」
徳間がそう言って指をさしたのは園芸用のベンチだ。箱と一体化しており、中に何かが入っているとすればやたら重いに違いない。
「なんでさ」
「いいから」
「いやだよ」
「はやく」
会話にならぬ。僕は言われたとおりに、ベンチの両端に手をかけ、持ち上げた。やはり重たい。十キロはあるだろう。そのすきに、彼女はそこら辺に落ちていた木の棒でベンチの下に落ちていた何かをひょいっとはじいた。
その何かは硬質な音を立てて、僕の股の下を通り過ぎた。
「もういいよ」
言われてベンチを元に戻した。
「全く」
疲れた声を出す僕に徳間は「これがあったの」と、家の鍵らしきものを拾い上げ見せてきた。
そして、それを使って横開きの扉を開けた。
「僕がいないときはどうしてたの?」
「中のものを全部出して、軽くしてから持ち上げてた」
「今日もそうすればよかったのに」
「使える奴がいるのに使わないのはもったいないじゃない」
こともなげにそう言うと、僕のことを歯牙にもかけず白スニーカーを乱雑に脱ぎ捨て、とっとと家の奥に消えていった。もしかして素は横暴なのだろうか。
「何してるの。上がって」
部屋の中からそう声をかけてきた。たぶん誰もいないが一応、「お邪魔します」という声と共に、すごすごと靴を脱ぎ、家に上がった。
くぐもった塵と古木の匂いが充満している。風通しが悪いのか、その香りは奥に進むごとに増した。ギッギッと床が鳴る。ほのかに西から差し込んでいる光が、屋内にいくつかの筋を作り、空中を舞う埃がそれを反射してチラチラ光っていた。
一室だけ、窓を開け開いているために明るい部屋がある。アンティーク調で揃えられた家具が、六畳一間に並んでいる。とまれ、一人掛けのソファーと小さなローテーブルしかないその部屋は、全く来客など考慮されていない。そんな部屋に徳間がいた。
彼女は、大きな本棚の端から端までを撫でるよう指で追ってゆき、やがて一つの背表紙を見つけるとその動きを止めた。
「ここ、おじいちゃんの家なんだ」一冊抜き取りながら、徳間が呟いた。「今施設にいるの」
「それをいいことに、勝手に使ってるんだ?」
剽軽さを装って僕は聞いた。
「そうだよ」
彼女は、そうして立ち上がると、先ほど僕が買いそびれたものと同じ表題の本を差し出してきた。しかし文庫本ではなくハードカバーのものだ。少し重い。
「どうも」
受け取ってから、読むのが億劫になってきた。心底どうでもいいと思っていた本を、必ず読んで返さねばならない義務に昇華させられたようでちょっぴり嫌だ。
「あげるよ」
彼女は続けて言った。僕が不可解そうな顔をして見つめると、微笑で返してくる。
購入して間もないであろう本だ。裏表紙を捲ると増版本であり、刷られたのは去年だった。
僕は、彼女の裏にある本棚に視線を転じた。装飾のない黒褐色の棚は上半分は色あせた背表紙で埋もれ、下半分が未だみずみずしい色を保っている。経年差である。下半分の本たちは最近買ったのだろう。
「返すさ。悪いよ」
悪いなどとは微塵も思っていなくって、ただただ要らなかった。
「そう」
徳間は別段何も含まない口調で、そう言うとソファーに腰を下ろした。先述した通り、この部屋は座るべき家具がたった一つしかない不親切仕様である。彼女が座ることで僕は立ち尽くすしかない。
なるほど、帰れ、ということなのだろう。
「じゃ」
僕はそう言うとこの場を後にしようとする。
「ねぇ、どうして何も聞いてこないの?」
体の向きを変えた時、眠そうな声で聴かれた。
「何が?」
「気になるでしょ? 私が何であそこにいたのか、とか」
多分、屋上の件である。
「興味ないよ」
「嘘だ。最近私のことよく見てるじゃない」
「……愉快な話じゃないだろうし、どうせ」
「まぁ、そうかもね」
「ほら」
その時、ゴロゴロと天井のさらに上の上から雷鳴が聞こえた。直後、怒涛の勢いで雨水がガラス戸を叩く。長野のわりと標高の高い位置にあるこの街の天気は変わりやすい。
「傘」ぽつりと僕はつぶやいていた。
「傘?」
徳間がやたら眠そうに反芻する。
「うん。傘持ってないんだ。よかったら貸してくれない?」
「玄関にある。余ってたら好きなの持ってきなよ。なかったら……濡れて帰るんだね」
「なんだか、君、眠そうだね」
「ここんところ、眠くってしょうがないの。いくら寝ても、ずっと眠い」
「眠ってしまえばいいじゃないか」
すると、徳間は目をゆっくりと瞬きながら欠伸をした。
「この後、塾に行かなきゃ。寝たら、もう絶対起きらんない。絶対無理」
「家に帰れば……」
と言いかけて止めた。嫌な夢でも思い出すような顔をされた。
「起こそうか」
「は?」
「だから、時間教えてくれたら、起こすよ、僕」
雨脚が強くなる。彼女は、ゆったりと、ソファーの手すりに両肘を置き、次いでそこに自らの顔を埋めた。
「六時」
それだけ言って、静かになった。
*
子供のころから、一度たりとも、仲のいい友達というものを作ったことがない。休日に友達と遊んだり、放課後に一緒に帰ったり、そんなことは全くしていないと言っても過言じゃない。
いじめにあっているわけではないし、ハブられているというほどでもない。教室という一定の空間内でだけは、僕は正常に機能する。隣席の子と談笑するのも、授業中に先生に茶化されるのもやぶさかではないし、多分はた目から見ても変な風には映っていないんだと思う。けど、学校では殆ど、それ以外では完璧に僕は一人だった。父は仕事で遅いし、今はもう家庭にいない母は趣味も仕事もなかったはずだが、不思議といつも夜まで家を離れていた。なんだか面倒なので、その辺は深く考えないことにした。
二年前まで兄がいたが、もう死んでいる。事故というかなんというか、詳しい事情すら僕はおぼつかないのだが、とにかく亡くなってしまった。
兄とは元々、よく話す方じゃなかった。というより、兄は知的な障害を持っていたので、話が通じるような相手ではなかった。
「兄弟でしょ」
それを口癖のように言う母は、何かと兄に関する面倒ごとを僕に押し付けてきた。思えば、遊びに行こうと誘ってくるクラスメイトの誘いを断ってきたのは、その影響が大きい。字を書く練習とか、言葉を出す練習とか、兄はそういう普通である為の訓練を毎週三日の頻度でこなしていて、僕はその送り迎えをしていた。家に帰っても母がいないので、代わりに祖母が夕飯を作ってくれていて、それを一緒に食べた。そのうち祖母も腰を悪くして動けなくなったので、そこからは冷凍食品を温めるだけになったが、そのことについて兄はどう思っていたのかついぞ知ることはなかった。だって話せないし。
徳間が寝てしまった一室を、廊下から眺めていた。シクシクと時計の針が進む音が雨の音と重なっている。疎らに散らされた日光が部屋中に光の粒を作っている。
僕はひんやりする廊下に腰を落とした。それから思い出したように、部屋の引き戸を動かして、徳間の姿を視界から消した。
見てはいけない気がした。
薄暗くなった廊下で、さっきもらった本を読んで時間をつぶした
しばらくの後、腕時計が午後五時五十七分を指していることを確認して、僕は徳間の肩をゆすった。
本当に寝ていたのか怪しんでしまうぐらい彼女はすんなりと上体を上げ、窓の外を見た。雨は小降りになっている。
「六時だよ」
「あがと」
口をもごもごさせながら、そう言うと、彼女はゆらゆらと廊下に出ていった。
玄関に傘は一本だけだった。当然それは徳間のものなので、僕は濡れながら帰る。
徳間は戸口を施錠し、鍵をベンチの下に放り込み、それから傘を広げる寸前で空を見上げた。
「私、雨女でさ。降ってほしくないって思ったときは、いつも降るんだ」
そうして彼女は傘を広げ、「またね」といって、歩き去った。
僕は、本が濡れないように、リュックを抱えると、背中で雨から守るように走り出した。
家に着くまでの途中、雨は止んだ。
*
帰宅すると黙って玄関に入り、そのまま階段を上った。二階の自室に入り、鍵を閉めた。
湿ったリュックを布団の上に投げると、勉強机の上に置かれたデジタルカメラを手に取る。それから、窓を開いて、その鉄枠に腰を掛けた。
しばらくそのまま、ぼうっと外を眺める。この季節になると、午後七時でもほのかに明るい。ややあって、ポケットの中でスマホのアラームが鳴った。
それを合図に、僕は目の前に広がる市街地を、手に持ったデジカメで撮影した。
毎日一枚、決まった画角、決まった時間に欠かすことなく撮ってきた写真はもう七百枚近くになっていた。
僕は、今日の写真の出来栄えを、もっとも善し悪しなど知らないのだが、ともかくチェックすると、満足も不満足もなくそれを机の上に置いた。
階下に行き、カレンダーに書かれたメモを確認する。今日は父が帰ってくる日だ。
警察官の父とは不定期的に、夕飯を一緒に食べる。家には家事をできる人間が僕しかいないので、夕飯も僕の裁量に任せられるのだが、僕も僕で別に器用なわけでも家事が好きなわけでもないので、やらなくてよいなら基本的に何もしたくない。三日四日連続して父が戻ってこない時などは即席ものばかり食べてしまう。もっとも、父はそれを快く思っていない。僕もよい習慣だとは思っていないが気分が乗らないので仕様がないのだ。きっと、給食がなかったら僕の栄養状態はすこぶる悪いのだろう。
冷蔵庫の中身と相談し面倒くさいが買い物に行かねばならないことが確定した。しっとりした制服から、私服に着替えると、近くにある大型ショッピングモールに向かう。
長野県四郷町は、比較的大きな駅とその周囲をぐるりと囲む市街地と、さらにその周りを囲む田園によって構成されている。新設された大型ショッピングモールは商店街との競争を避けるために田園のど真ん中に建てられることとなり、市民としては不便極まりない。皮肉にもならないが、地元の商業を守るためにわざわざ距離を置いて大型商業施設を建設するように法令整備したのは行政なのに、商業施設と市街地を結ぶ太いバイパスを敷いたのも行政である。
過剰に大きな駐車場を通り抜け軽快な音楽の響く店内に入る。冷房が厭に冷たく、体中から湧き出ていた汗はすぐさま引っ込んだ。
道中、思い浮かべた買い物リストに従い、商品を籠の中に放り投げ、そのままレジに並ぶまでに五分も要さなかった。
レジに並んでいると、店内の大きな掛け時計に目が向かった。七時半である。レジを抜けると、僕は少し早歩きで家に向かう。そうだ。今日は徳間と居たからいつもより時間が遅いのだった。
ポツポツと灯る街灯の下を通っているうちに、いつの間にか小走りになった。羽虫が時たま鼻に入り込みそうになって、目を細める。
ふと、後ろから、車の短いクラクションが聞こえた。振り返ると、見覚えのある車がすぐそばまで近づいていた。
「玲。帰りか?」
運転席から顔を出したのは父だった。僕は、この事態を恐れていたのだった。
*
「いつもより遅いよな?」
「今日は、ちょっと色々あったんだ」
父は一度、ルームミラーに映り込む僕を見た。僕は後部座席からその視線を受けて、顔を外に向けた。
「色々って?」
「友達とか」
「ふ~ん」
父は、僕との距離感をいつも測りあぐねているようだった。僕らの会話はいつもちぐはぐで不格好になる。僕は歳を重ねるごとに、父との話し方を忘れ、単に擁護者の皮をかぶった他人と言葉を交えているような気さえし始めていた。感謝こそすれ、信愛しているかは知らない。
「部活か?」
「部活は……やってない」
「そうか、そっか、そうだったな」
父は頬を掻きながら言った。見えないが、どんな表情をしているのかは、何となく察しがついた。
本当は、遊べる程に仲良しなやつなんか居ないくせに、僕はこうして友達という概念を時たま都合よく利用する。
「学校はどうだ?」
「どうって?」
「楽しいか?」
遊びが全くない父との会話は、ちょっとだけ面倒くさい、と思ってしまう。
「まあね」
父はもう何も言わなくなった。僕は、気まずくなって余計に外景をまざまざと見た。そこにはもう暗闇しかない。気まずくなるくらいなら、気の利いた言葉でも返すことができればいいのに、そこまで頭の回転が速いわけでもないから、こんな風に沈黙に頼るしかない。これは父に落ち度があるわけではなく、僕の場合、対人であれば常にそうだった。ちょっとでも気まずさを自覚すると、途端に、適切な言葉が頭に浮かばなくなるのだった。
その日の夜は、父と夕飯を食べ、たまにぽつぽつと言葉を交わしながら静かな時間が流れた。
翌朝になると、父の姿はない。カレンダーを確認して、仕事に向かったのだ、とぼんやり思った。父はカレンダーに今月の予定を詳細に書き込んでくれてはいるが、急な用件の絶えない職場だから、その書き込みの半数以上を僕は信用していない。だから、カレンダーで父の予定を確認するとき、僕はわざわざ明日の部分までは読まないことにしている。
昨日、勉強机の上に投げ捨てたままだった制服を目の前で広げる。一番下のボタンがない。ボタンの留め具を購入しに向かうのが面倒くさくて、そのままにしていた。そう言えば、一週間ぐらい前の身だしなみ検査で先生に怒られたなぁ、と他人事のように思い出しながら、不完全な制服に袖を通した。
教科書の類は学校のロッカーに入れっぱなしになっているので、僕は軽々としたリュックを背負い玄関を出た。
田舎の生臭い早朝とは不釣り合いに奇麗な空。僕はその下を歩きながら、リュックの中に何かが入っているような違和感を得た。空っぽのはずのリュックを開くと、その中には昨日、徳間から借りた書籍だけが入っている。すっかり存在を忘れていたのだ。
学校に着く。既に部活の朝練に励む声がグラウンドから聞こえてきた。
駐輪場で外周をさぼる野球部が二、三人たむろしている。彼らは裏門から入ってきた僕に一瞬だけ怯えたように視線を転じるが、僕が全く無関係で無害な帰宅部だと知るとほっとした表情でまた談話を始めた。
生徒用玄関を通り、誰もいない教室にたどり着く。そして、自分の席で、ふてくされたように顔を伏せ眠った。こうして、じっとしていると、そのうちに教室は騒がしくなり、学校が始まる。この静寂と喧騒の隙間は僕にとってスイッチを切り替えるための時間だった。
喧騒のまだない時間。しかし、いつもなら、もう意識が消える時にも、まだ僕の目は瞼の裏を見つめていた。
何か、いつもと違うのだろう。
いつもできていることが、今日できないということは、そういうことだ。僕はリュックの中から、例の本を取り出した。きっと、これのせいだろうという気がしたのだ。
すでに四分の一は読み終えている。端的に言うと、若者が恋愛する話だ。何一つ面白くない。こういうありきたりなストーリーラインを面白く仕立て上げるのは、専ら作者の手腕や経験だと思うのだが、その部分に魅せられるものがあるかと言えば微妙の一言に尽きた。決して、酷い出来ではないが、褒める点も見つからない。ある意味、究極の駄作と言える代物であるが、しかしながら、こういうものが売れるらしいのは、この世の不可解だ。
などと、取り留めなく考えながら、何となく続きを読み進めていると、二ページ千切れていることに気が付いた。いや、千切れているという断面ではなかった。鋏で二ページ分、奇麗に切り取られているのだ。
勘が善くない僕ではあっても、その切断が、恐らく故意によるだろうことは察しが付く。
わざとではなく鋏で切った。そんなことはまずないのだ。
僕がそんな風に疑問に首をかしげていると、一人の生徒が、教室に入ってきて、僕の横の席に座った。
佐原彗、と言うらしいその女子は、一年前に転校してきた子で、このクラス内では凡そつまはじきにされている人物である。
波風を立てず生きる戦略は無数にあるが、共通する必須条件の一つにコミュニティ内における最低限の情報収集がある。どんな奴が嫌われて、どんな奴が好かれるのか。それさえわきまえていれば、まず自分に危害が及ぶことは少ない。仮にそれができない奴を言い表す言葉があるとすれば、空気の読めない奴、と言うのだ。
佐原さんがこの学校に混入され排斥対象となるまでの流れは、驚くほど滑らかだった。まず片田舎に引っ越してきた都会人と言うだけで、佐原さんは先述した最低条件において大きく出遅れていた。田舎の仲間意識は甘くない。特にこの中学校は幼稚園から殆どメンバーを変化させることなく成長してきている。既に、カチコチに固まった暗黙の了解ないし世界観は、僕らの肌になじみ、形容できないほど当然のものになっている。そんなものに雁字搦めにされている僕らに、佐原さんがするりと馴染めるわけがなかった。さらに言うなら、彼女の父親は大型ショッピングモールの建設を主導した大企業の中堅だから、なおさら運がない。あの施設のせいで、商店街に住んでいる子はみんなして彼女の裏にいる父親のことを快く思っていないのだ。
その点僕は、親の職業柄あまり虐めの対象に挙がらず、この八年以上の時間で空気のように扱われる存在としての地位を確立している。運がよかった。もっともそれを確立と表現してよいのかは甚だ疑問であるが。
何はともあれ、だがしかし、それ以前の問題として、佐原さんは凄まじく心が強い。異質で、どこか、なんというか超越した人だった。
罵られれば罵り返すし、殴られたら殴り返す。その非効率極まる生き方が彼女の単純明快な基本戦略だった。自分にはやり返す権利があると主張して憚らない胆力もさることながら、一番すごいことはそこに一切躊躇がないことだ。半年以上にわたり、いじめの被害を受けながらその殆どを跳ね返し、先生に救いの手を求めそれが叶わないと知ると、黙認の了承を得たと意味不明な理論展開をし、大人が引いてしまうくらいいじめっ子を虐め返すという途轍もなく頭が悪いことをする狂人だ。
去年の秋。佐原さんは四人のいじめっ子たちに髪の毛の殆どを鋏で切られたのだが、その仕返しとして、翌日バリカンを片手に、その四人を坊主頭にして回った。
その日の帰りのホームルームで、怒り心頭の担任教師の前で、坊主頭の佐原さんが言ったことが強烈に印象に残っている。
「先生、私は、自分でどうにかなる範囲の不公平や不平等は、消し去るべきだと考えているんです」
涼やかな顔をした佐原さんの横には、泣きじゃくる四人の坊主頭の女子がいる。佐原さんはその子たちの方を一瞥してから続けた。
「基準。視点。それをどこに置くのかによっては勿論、平等の定義は変わります。例えば、クラスの平等を考えるなら、私が不当に髪の毛を切られたのですから、クラス全員が同様に髪の毛を切られるべきです」
関係ないと思っていたクラスメイトが一様に、怯えた目を佐原さんに集中させた。彼女ならやりかねないという危うさを、その時の僕らは共有していたのだった。
「しかし止めました。それをすると、また別の観点から、不当な行動、だと思ったからです」
「でもね、バリカンはやりすぎです」
先生は言った。それに対して、佐原さんは静かに首を左右に振った。
「いいえ先生。私と彼女たちでは条件が違います。私はいきなり、通常通りの日常を送ろうとしていた、まさにその時、何の前触れもなく髪の毛を切られたのです。その直後私は、彼女たちに言いました。やり返すぞ、坊主にしてやる、と。それで、彼女たちは、やれるもんならやってみろ、と言ったのです。先生。私は卑怯に、陰湿に、圧倒的有利な状況で、奇襲をしたわけではないんです。むしろ、正々堂々、明快に、圧倒的不利な状況で、宣戦布告の上で、ようやくバリカンを手に取ったんです。加えて、先生にもそのことを伝えましたが、お忘れですか?」
「でもね、佐原さん。やり返すのはいけないことなんです。それをするから、戦争とか紛争とかはなくならないんです」
「関係ありますか?」
「ありますよ! いいですか! やり返すのはだめ! それをしたら、またあなたに何かする人たちが出てきますよ。終わらないじゃないですか! 問題は解決しない。だからダメ!」
小さな被害なら喧嘩両成敗。少し事態が大きくなると被害者に我慢を強いる。世間の大人はこの二刀流で生きている。けれど佐原さんは天下一品の一刀流で生きているので、その理屈は響かない。彼女は殊更不思議そうな顔をした。
「もう終わっているじゃないですか」
「え?」
「この件は、これで終わりなんです先生。次同じようなことが起きても、私は、今回のことを後悔しません。その時もまた、同じようにします。手足が動いて、頭も働いて、仕返しできる状況にあるなら、私は仕返します」
先生は、佐原さんから半歩退いた。
「でもやり返すだけです。私からは何もしない。私が何かするときは、私が何かされた時だけなんです。そこには未来を考える余地はありません。現在なんです。私がしているのは、現在において、過去を清算する。その一点に尽きるんです。私は、これが正しいことだと信じています」
その数週間後。彼女は腕を骨折し、さらにその数日後、珍しいこともあるもので、数人の女子生徒が、左腕の骨を折った。
以降、佐原さんを虐める人は消え、彼女は完全な孤立状態になった。
「おはよう」
僕の隣に落ち着いた佐原さんは、そう挨拶をしてからシャキッとした姿勢をそのままに、勉強用具を取り出した。
「おはよう」
消え入りそうな声で、僕が返した。自分へのものだと解っている挨拶には返事せざるを得ない。
彼女は僕の声が届いたのか届いていないのか判じづらい憮然とした表情のまま、通常どおり勉強を始めてしまった。が、少しして何か不審なものに気が付いた様に、ペンを持つ手が止まる。
「鈴原君、今日は寝てないの、珍しいね」
「あ、うん」
話しかけないでほしいので、僕は気まずい表情を作って目を下に向けた。百五頁飛んで百八頁が目の前に飛び込んできた。
「その本、誰から借りたの?」
「え?」
驚いて見上げると、佐原さんは無表情でこちらを見つめていた。常温の視線だった。温かくも冷ややかでもなく、ただの人の目。何も含んでいない純粋そのもの。
「なんで? 僕の本だよ」
彼女は、静かにされど素早く僕の腰から頭までを観察して言った。
「意識的か知らないけれど、君の選ぶジャンルには偏りがあるんだよ」
「偏り?」
彼女は首肯した。
「君はドロドロした暗い話を滅多に読まない。犯罪ものとか絶対にない」
当たっていた。
「でも、あんまりにもキラキラしていてもだめなんだ。だから明るくて希望だらけのものも読まない。青春や恋愛ものは特に避けてる」
的を射ていた。
「そのうえで現実的なものが好き。その対極にある空想、SF、歴史の類は全く読んでない」
妥当な推測だった。
「何より、読書を暇つぶし程度にしか考えていないから、文庫本のなるべく持ち運びしやすい厚さのものしか買わない。でも、今持ってるのは分厚いハードカバーで、内容もキラキラした青春もので、現実離れした聖人ばかりが登場する。それをわざわざ読んでいるというのは、借りたか貰ったか拾ったかのどれかだろうって。それに、いつも顔を突っ伏して寝てるのに、今日は起きてるってことは何か義務感じみたものに迫られているんだろうとも考えたの。だから、借りた、っていうのが一番妥当かなって。あ、違ってたら、そう言って」
「最後以外は当たっていると思う。確かに偏り。うん。あるかも」
僕はそう言いつつも、内心、はっとさせられる思いだった。佐原さんの言っている僕の偏り、性質は、正確に言うと、僕と徳間の重なり合う部分なのだと思った。
だって、僕が読んでいるのは専ら僕が選んだものではなく、教室で徳間が、読んだ、と公言し、そのうえで僕が許容できる面白さを持った小説に限られるのだから。
「最後は違うの?」
佐原さんは、未だ、表情を持っていない。
「義務感なのかは分からないんだ」
僕は再び目を伏せ、何かを隠すように、頁を百九へと進めた。
「そう」
佐原さんが一瞬、全てを見透かしたように目を細めたのを視界の端でとらえた。そのせいで、きゅっと血管が細まった気がした。
「で、でもさ、なんか、よく見てるんだね」
自然っぽく。自然だ。自然な感じで。と念じながら、僕は誤魔化すように、そう話しかけた。自分でも少し変な感じになったのがわかった。
佐原さんは、別にそんな事歯牙にもかけないで「いやだった?」と訊き返した。
「いいや、そうじゃないんだけど。意外だっただけ」
「気になるのよ」
「僕が?」
「人間が」
恥ずかしい。
「ねぇ、もう一つ聞いていい?」
「……なに?」
「さっき、誰を想像してたの?」
「何のこと?」
「今私が君の読書の偏食ぶりに言及した時、ふわっとした答え方だったじゃない。あるかも。確かに。とかさ。可能性をほのめかすぐらいの。でもそれって、ちょっと特殊な言い方だと思う」
「普通だと思うけど? 確かにな、って思ったんだ。自分でも知らない部分っていうかさ、そういうの言い当てられて納得しちゃう感じ」
「いいや。人って、一度思考の網にかけたものについては曖昧な言い方をしないよ。答えはノーかイエス。そのどちらかの可能性がある、みたいな言い方は、とても珍しい。思考の網にかける、と言うのはね、ある種の『理解』を持つこと。小説を購入するとき、なんていうのは、そういう思考の連続。自分の趣向を理解し、それに合致する本を選択し、値段相応の価値があるかを判断し、そこで初めて買う。そうして生まれるのは根拠。なぜこの本を選んだのかという明白な根拠に他ならない。そこには曖昧なものなんてない何一つない。あるのは事実と、その事実にたどり着くまでに踏んだ過程への自覚意識。でも、それが君には見当たらない」
佐原さんはそこで一呼吸おいて、次いで、体を僕の方に向けた。
「勿論、私の考えすぎかもね。君は、もともと何も考えずに本を買う人なのかもしれない。何となく目に映ったものを、印象深いものを選んで買う。でもそうなると、ジャンルに偏りが生まれる説明にはならない。それに仮にそう言う買い方をしたとしても、自分に多少なりとも関心があるなら、そのうちに気が付く。自分は、こういうものが好きなんだという、自分の性質に。けれど君にはそれすらもない。思うに、君は本を買う時、その選択の前段階で自分の意見を持っていない。君は自分の買う本にも、その本を選ぶ自分にも興味を持っていない。いや、正確に言うと、好みがない。あるのは厭なもの、嫌いなもの。それだけ。じゃあなんでそうなるのか。特に自分の意見を持たずして本を買っているにもかかわらず、客観的には趣向があるように見える。それはつまり、君は誰かの選択に依存しているということ。誰かが選んだ本、買った本、読んだ本。それをただ選んで読んでいる。違う?」
彼女は、そんなことを言いながら終始、僕の細かい一つ一つの動きを僕よりも正確に観察していた。所々、僕の目を見据えながら、確認するように、そうやって言葉を紡いだのだった。
多分これは、スタンドプレイで出てきた言葉なのだろうと僕は思った。彼女なりの理論か何か、あるいは思考力を通して得たのではない。僕と言う人間と相対して、この場でくみ取れる様々な情報から一つの情報を探り当てているような、そんな尋問みたいな語りだった。
「そこまで分かるなら、答えはもう出てるんじゃないの?」
佐原さんは、体の向きを直すと、首に手を置き、むむっと唸った。
「そうだねぇ。傾向が似ているところで言うと、徳間さんか矢野君か」
「矢野?」
口が滑った。
「あぁ、徳間さんか」
僕は慌てて口を抑えたが、そんなことしても間抜けなだけだ。
「嵌めた?」
「勝手に墓穴を掘ったんじゃない」
佐原さんは退屈そうに息を吐いた。
「仲良かったんだね。それだけは意外だったよ」
「……どうして?」
「君が徳間さんに向ける視線って……いや、誰に対してもそうかもしれないけどさ、何だか、怖がっている感じがしたから」
「怖がる? 僕が? なんで?」
その時、ようやく佐原さんは表情を崩した。そこに現れたのは倦怠感だった。
「知りっこない。そう見えただけだよ」
捨てるように静かに言った後、彼女は手元に視線を戻した。
そうして僕も体の向きを戻した。直後に一人また一人と教室に人が入り込み、室温が上昇してゆく。僕がスイッチを切り替える暇もなく学校が始まった。
*
四限は水泳だった。僕は水着を忘れてしまったので、見学がてらレポートを書かされる羽目になった。しかしながら、一学期最後の水泳の授業は皆さんプールで自由に遊んでください、というものなので、要するに、みんなの遊んでいる姿をレポートにまとめてくださいということになる。変だと思うのは僕だけなのだろうか。夏服のままプールの脇にあるベンチに腰かけていると、ワイシャツの下がサウナみたいに蒸し暑くなっていくのが分かり辟易した。僕以外の見学組は凄まじい速さで手元の用紙に何か書き込んでいる。
隣にいる矢野君は、誰もプールに入ってすらいない段階でレポートを書き終えていた。水泳の授業をすべて見学してきた猛者はやはり違う。聞くところでは、彼はカナヅチらしい。
矢野浩は無口で不愛想。これと言って目立つ振る舞いをしているわけではないのだが、佐原さん同様にどことなく印象に残る雰囲気をしている。こればっかりは、何の裏付けがあるのか僕にはわからない。佐原さんの場合、行動からして変だし、彼女の纏う空気を異質に感じてしまうのは言ってみれば当然なのだが、他方で矢野君は奇人変人の類でもなければ、見てくれが特徴的なわけでもない。
ただし強いて理由を言うなら、落ち着き方が子供らしくないというのはあるだろう。
物静かな子と言うのは、クールなわけでも、それが好きでそうしているという感じでもない。そうせざるを得ないような、敢えて表すなら静かと言うより、暗い感じがする。それに比すると、矢野君の場合はその静けさの裏にずっしりとした根拠があるように僕に見えていた。というのも、別に彼は相手が誰でも、どんな状況でも物怖じしない。彼は暗くも明るくもなく、究極的にフラットだ。自然体なのだ。学校の中ではみんな何かしら演じる部分を持つのだが、彼からはそういう気質は全くと言っていいほど感じなかった。その辺は佐原さんに近いものを持っていて、実は僕は、彼女らのそういう部分に関してだけは一種の憧れを抱いていた。
僕は、レポートの完成を早々に諦め、水しぶきの舞うプールの全体をぼんやりと眺めた。クラスの半数がプールサイドに寄ってしゃべるだけである。残り半数は、競争するか、鬼ごっこをするか、潜水時間を競うかしていた。風に乗った小さな水の粒が、顔とか露出した二の腕とかに当たった。
ふと、僕と同じで手持ち無沙汰になっているだろう矢野君は、こういう時どんな風に過ごしているのだろうと気になった。横を流し見ると、彼もこちらを同じように見ていた。視線が交差して、すぐさま眼を逸らしたのは、矢野君だった。彼の横顔には、緊張の色があった。
僕も僕で、彼の横顔を見て面白いことも得することもないので、黙って遠くの山を眺めることにした。
「鈴原って」
すっと意識が、この場から離れそうになった時、突然届いた矢野君からの声に、僕は首を戻した。彼は相変わらずこちらを見ていない。
「兄弟とか、いる?」
僕は急な質問の意図がくみ取れなかったのと、その内容が答え難いものだったことの両方で、少しだけ躊躇った後、答えた。
「いる、というか、いた」
何の因果か、それはこの状況だからこそ、思い出さざるを得ないし、思い出したくないものだし、なんで思い出したくないのかもわからなくて気持ちがごちゃごちゃするものだった。
僕の兄は、プールで溺れて死んだのだ。
「そっか」
矢野君は僕の短い言葉から、僕の中に在る嫌な躊躇いを察してくれたらしい。もうそれ以上何も言わなくなった。僕は時計を見る。授業は残りまだ三十分はある。ずっとこの空気は、重苦しくていやだ。見学している男子は僕と矢野君の二人だけで、他の女子はもうそりゃ楽しそうに談笑している。
「矢野君は?」僕は、真っ白のレポート用紙を見ながら言った。「兄弟とかいるの?」
「妹が一人」
矢野君は簡潔に答えた。
「中学生?」
「いや、来年から。二歳離れている」
「仲はいいの?」
「悪くはないよ。もっとも俺は自分の家のことしか知らないから、何とも言えないけど」
「そりゃ、まあ、そうだね」
ただ、善いか悪いかを語れるだけ、少なくとも、それだけ距離の近い位置に生きているということだ。どれだけ一緒にいても、他人のままでいるよりは、仲が良くても悪くても、それはマシなことだと思う。……マシ。何で僕はそう思うんだろう。陽が眩しすぎて思考が纏らない。
雲から出てきた陽の光が、プールに反射した、一面が余計にキラキラしだした。海辺のように、プールサイドの側溝に水が押し寄せては、ゾゾ、と音を立てて余分な水が吸い込まれていく。
「矢野君は、妹が死んだら、悲しい?」
僕は馬鹿だった。
「悲しむだろうね。間違いない」
矢野君は即座に言いきった。それは脊髄反射的に出た言葉のようだった。そのうち、変に気まずそうな顔をした矢野君は、続けて言った。
「悲しくないわけがない。俺はね、地球の反対側で人がたくさん死んだとかいうニュースを見た時も、悲しくなる。そりゃ、他人事だし、夕飯食って寝たら次の日には忘れるかもしれないけど、その時だけは、絶対同情して悲しくなってしまうぐらいに、どうあっても俺は単純なんだ。悲しみたくなくても、身近な人が死んだら、きっと、それがどれだけ持続するかは知らないけど、悲しむさ。当然」
矢野君は、言い訳がましく、長々とそんなことを付け加えた。ただ全部本当だろう。なにしろ彼は、いつだって自然なのだから。
「むしろ……」と、矢野君は何かを言いかけて、首を小さく横に振った。「ごめん。何でもない」
それから一つ、がっかりした時のような表情になってから、「あくまでだ。あくまで、俺の話だよ」と、ずるい言葉で締めくくるのだった。
*
二日後。明日からテスト週間というタイミングで、僕は読み終えた本を徳間に返さなければならなくなった。正確に言うと、百六、百七頁以外を読み終えた本になるわけだが。
どう返そうかと悩んだ僕は、あの家、彼女のおじいちゃんの家の前で待っていれば、会えるかもしれないという算段を導いた。と言うより、それぐらいしか可能性がないのでそうした。
しかし思惑は良い方に外れて、いざその家まで行くと、門の前で徳間がつまらなそうな顔で立っていた。
「徳間」
声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「ちょうどよかった。これ、返さなきゃと思って」
僕はそう言って、リュックの中からすごすごと本を取り出して渡した。徳間は、「うん」と小さく言って受け取った。
「なんか、切り取られてる頁があったよ」
「ああ、たぶんそれ、弟がやったんだ」
徳間はそう言って、ゆっくりパラパラ頁をめくってゆき、該当する百五頁より後の部分へたどり着いた。
「悪戯? 喧嘩でもしてるの?」
「う~ん。どうだろう。悪戯なのかな。よくわかんないな。昔から、よくわかんないの。弟はさ、変だから、確実に」
「変……」
「そう。変。変な奴。だからわかんないの。宇宙人といきなりコミュニケーション取れないでしょ? そういう感じ」
僕の頭の中には、兄の姿が思い浮かんだ。兄は確かに、僕とは違う星の人だった。
「そう。そういうものなんだね」
僕がそう言うと、徳間は拍子抜けした様に目を丸くしてから、片方の口角を上げた。
「そんなことよりさ、手伝ってよ」
「手伝うって?」
「掃除。この家をね、すっかりきれいにしようかなって思ってるの。草とかさ、家の中だって埃とかすごいんだよ」
「なんでいきなりそんなこと思ったんだ?」
「いきなりじゃないよ。ちょっと前から思ってた。この家はね、私の宝箱みたいなものだから、汚いのは厭でしょ」
「じゃ、僕が手伝う理由は?」
「暇でしょ?」
「暇であるというのは、無駄にしていいという意味ではないよ」
「無駄じゃないよ」徳間は思いのほか力強く言った。「少なくとも、少なくともだよ、私のためにはなるじゃない。だから、無駄じゃない」
裏を返せば僕は普段から誰のためにもならない生き方をしていると決めつけられたようなものなのだけれど、それは的を射ているので、言い返せば虚しくなる。
徳間は、僕の反応を待つことなく、身を翻した。
「夏休み中にはね、終わらせたいんだよ」
徳間はそう言いながら、階段下の収納庫から掃除道具を取り出し、僕に渡してきた。つまり彼女の脳内ではかなり長期間にわたり僕を労働させることが決まっているらしいのだが、先述の通り僕は何の了承も出していない。
「やっぱり納得いかないな。君はさ、僕と違って友達が多いんだから、そいつらに手伝ってもらえばいいじゃないか?」
と言いつつ僕は、塵取りと箒をもらった。徳間は僕の苦言に対して、眉間にしわを寄せた。
「違うよ。あれはね、友達じゃないの。ただの集団」
「僕には違いが分からない。いつも同じ顔触れで集まっているんだ。友達って言っていいんじゃないかな」
「友達って、つまり友情で結びついているわけでしょ? でも、私はあの人たちと、そんなもので結び付いているわけじゃない」
「じゃあ、何で結び付いているんだ?」
「利益だよ」
冷たく言った徳間の横顔は悲しげであり、しかし、確信に満ちている。
「結局ね、私も彼女たちも、お互いの価値を相対的に見ている。何かと比べることができる価値。必要に応じて友達と言う値札を貼っているだけの、ただの他人だね」
確かに、友情の対義語は、ビジネスライクだと一般的には言われる。けれども、僕はビジネスライクな関係ってやつの発展形が友情だと思し、そうでなくてもじゃあ友達に全く見返りを要求しない人なんていない気がする。その面で、結局友達は何かの側面において自分に有益だから友達なんだ。
「君は、心から友達だって言える人がいないんだ」
「たぶんね。一生無理だろうね」
「話を戻すけど、だったら、やはり君に協力するのが僕である必要性はないんじゃないか?」
「必要じゃないよ。必然だよ」
「というと?」
「つまり、君と私は仲間なの。同類だってこと。仲間は財産だよ。守らなきゃ」
「おかしいな。君と何かしらの志を同じくした覚えはない」
徳間は、変に真剣な顔を作ったまま、僕の横を通り過ぎ歩いてゆき、台所の出窓を開いた。すると、埃と錆まみれの鉄格子が露わになった。徳間は端っこの剥がれ落ちそうな錆をぽろぽろ爪で削ぎ落しながら、続けた。
「あの日屋上に来たでしょ? 私たちあの時同じことを考えていたよ。きっと。じゃないと、同じ場所同じ時間に出会うはずなかったもん」
それは運命を妄信する口調ではなく、必然を確認する口調だった。しかし、彼女の中でどれほど確信できる事実であったとしても、結局、それはただの妄信に過ぎないことを僕は察してしまっていた。その原因はきっと、僕と彼女が微妙にだが、ずれた位置から世界を見ているからに違いなくて、同時にはっきりと彼女と僕は仲間じゃないのだ。
ふと、徳間は大きく欠伸をした。顔から生気が抜けている。
「眠たくなってきた」
「じゃあ今日はお開きだ」
「ううん、別にこの後何もないし、始めよ」
「そう。残念だよ」
徳間は肩をしょんぼり落としたくたびれた雰囲気のまま、キッチンの端から、いらないものをゴミ袋に入れ始めた。僕はあらかじめ整頓を済ませてあるという居間の掃き掃除を始めた。
一通りの作業が終わり、ちょうど日が陰ってきたのを見て、また台所に戻った。しかし、彼女はダイニングテーブルに顔を伏せて眠ってしまっていた。作業は半分ほど進んでいた。ゴロゴロと古びた雑貨の入ったごみ箱が横に放り出されている。
肩をゆすって起こそうかと思ったが、寸前のところで彼女の眼の下に一線の隈が走っていることに気が付いて、止めた。頬もよく見ると血色が悪く、整った面も相まって吸血鬼のようだった。
この子は、この場所以外でちゃんと寝ているのだろうか。眠っていたとして、それは十分な質なのだろうか。僕は僕の知らないところで生きている彼女に対して、知る由のない心配をしてしまった。そのぐらいには、彼女の顔に出ている不健康さは隠しようがなかった。
僕にも、別に何か意味があるというわけでもないが、決まった時間に帰ってデジタルカメラのシャッターを切るという任務がある。それに間に合う程度には、寝かせておいてやろう。
そう決めると、僕は台所の戸を閉めて、以前お邪魔した不親切仕様の部屋に入った。勝手ながらそこのソファーに座り込む。
時間を持て余しても仕様がないと思い、学校でもらった一枚の用紙を取り出した。それは、職場見学の希望調査で、無数にある職業、職種の中から今現在興味関心のあるものを選んで丸で囲むというものだ。なりたいものなんかないし、強い欲望もない。いや、強いて言うなら、なりたくない職業とかならある。例えば警察官とか。
僕の心は何に対しても、こうなりたい、ああしたい、という前向きな動機よりも、こうはなりたくない、あれはしたくない、と言った後ろ向きな動機が大部分を占めていて、それで生き方を決めている節がある。やりたいことはないが、やりたくないことなら山ほどある。
「あ」
丁度、このまえ、そう、佐原さんに同じようなことを言われた。
──好みがない。あるのは厭なもの、嫌いなもの。それだけ。
彼女の発言は、僕の本を選ぶ際の趣向について語っているだけだから、そこに僕の人生についての見方を語る教訓が含まれているなんて言うのは、考えすぎで馬鹿馬鹿しい。でも、人の一生なんて言うのも、一つの物語のようなものだから、無数にある選択肢の中から生き方を選ぶということと、無数にある本の中から好みの本を選ぼうとすることとの間には、図らずも関連らしきものがあるのかもしれない。ともすると、僕が購入する本を徳間の選択に依存しているのと同様に、人生の選択肢も誰かに決めてもらわねば満足に生きられないくらい僕は主体性のない人間なのだろうか。
それでもいい。自分らしくとか、僕は求めていないのだ。
「そもそも、なぜ働くことが前提の調査なんだ。多様性とか言って、僕が働かない可能性を考慮していないとは……」
でも、義務教育が国家によって提供されている以上、働かなくても大丈夫、みたいなことを教え始めるわけがないので浅慮な怒りだなぁ、と頭で堂々巡りをしているうちに、時間は流れ、答えは出ず、僕は阿弥陀くじに答えを託し、最終的に管理職という一番仕事内容が想像できないブラックボックスを選択した。これでいい。ある意味最適解。
僕は荷物をまとめ、徳間を起こしに向かった。
徳間は前回と同じように、すんなりと起き上がると、左右を見て状況確認をした。
「ごめん」
「いいけど。君、家ではちゃんと寝てるの?」
「うん。時間は取れてるはず。でも、ちっとも足りてる気がしない」
徳間はまた盛大に欠伸をした。僕は少し心配な気持ちを胸の内に感じた。
「ん?」徳間が僕を見ながら怪訝そうに顔をしかめた。そして、「どうしたの?」の心底怯えた声で訊いてきた。
「何が?」
僕が純粋な疑問を口にしても、依然、彼女はまじまじと僕を見据えている。
「別に何もないけど」
僕はしっかりと念を押すように再度そう言った。それでも、徳間の顔はみるみる曇ってゆく。
「私、何かひどいことしちゃったかな」
いまさら軽口を叩こうにも、全くそんな空気感でもなく、僕の胸中では動揺が膨らんだ。何かを演じたり隠したりする余裕もなく、「どうしたんだよ。本当に何もないよ」と馬鹿真面目に言うしかなかった。
徳間はその言葉を聞いて、無表情になると、すとんと椅子から半分あげた腰を落ち着かせた。それから、深く後悔するように、手で顔を覆って「遅くなったね。帰ろうか」と零したのだった。
帰り際、彼女が携帯を出してきた。もうさっきの奇妙な違和感はどこにもない。
「交換しよ?」
「今携帯持ってない」
「は? どうして?」
「校則で禁止されてる。学校に持ち込んじゃダメって」
「律儀に守ってんの? あきれた」
徳間は、ちょっとイラついた様子で自分のリュックからマジックペンを出すと、僕の左手首をつかみ、腕の内側にスルスルと電話番号とSNSのIDを書き込んだ。くすぐったかった。
「登録しといてよ」
「うん」
「君忘れそうだな」
「たぶん大丈夫だよ」
「ぼうっとしてるし」
「はぁ」
「はぁ、じゃなくて」
徳間は諦めたように、僕の手首を離した。
「じゃあ、来てほしいときは連絡するから」
「はい」
「……登録し忘れたとか、なしだからね」
僕の考えは看破されていた。
「じゃあね」
徳間は、まだ気怠そうに手を振って、夕日の逆側に歩いて行った。
帰ってきて、写真を撮り、カレンダーを確認する。
今日は帰ってくるはずだが……と、携帯を開くと父から一通、『今日は帰れません』というメッセージが届いていた。
僕はそれを見ると、すぐに食器棚に備蓄されているインスタントラーメンの口を開いて、給油ポットから出る熱湯を流し込んだ。
携帯で三分タイマーをセットし、手を洗おうとしたところで、左腕に書かれた文字が目に入った。一瞬、手を洗っているうちに消えてしまって云々という言い訳が胸をよぎったが、相当肘に近い場所に記された油性ペンの文字が消えてしまうほど入念に手洗いをしたというのは、言い訳として苦しい。
僕はしぶしぶ自分の携帯を手に取って、ほとんど使っていないアプリを起動し、彼女を友達に登録した。
それから手早く宿題を追え、風呂に入り、荷物をまとめ布団にもぐる。あまりよくは眠れなかった。
父が帰ってきたのは翌日早朝のこと。眠たそうな目をこすって、コーヒーを入れていた。
「午後にまた戻るんだ」
とそう言う父に、僕は内心で、じゃあ向こうで泊まったほうがよかったんじゃないの、と言いかけてしまう。
「行ってきます」
玄関でそう言うと、父はゆらゆらと手を振って見送ってくれた。昨日の徳間と丁度似たような感じで、途方もなくくたびれた様子だった。
学校について、やはり、いつもと同じように顔を机に伏せる。しかし、少し前と同じように、なぜか僕の意識は覚醒をつづけた。
「おはよう」
しばらくしていると、佐原さんが隣の席に着いた。僕が寝ていないということは、彼女が挨拶をしてくるということである。
「おはよう」
「眠たそうだね」
「わかる?」
「そりゃね」
佐原さんは荷物を机の横に引っ掛け、勉強用具を取り出している。
「佐原さん」
「何?」
「今携帯持ってる?」
佐原さんは無表情で首を左右に振った。
「持ってないよ。校則違反だから」
「そうだよね。そうなんだよ。その通りだ」
佐原さんは余計不思議そうに首をかしげる。
「でも、クラスの半数ぐらいは持ってきていると思うよ」
「そうなの?」
「部活の帰りとかに、コンビニで、なんていうのゲームあるじゃない?」
「ソシャゲ?」
「そうそう。それやってるの、何回か見たことあるから」
「そうなんだ」
「君は帰宅部だから気が付かなかったんだ」
「帰宅部は佐原さんもじゃないか」
「私はね、いつも図書館に残って勉強してるから」
「そっか」
「人間は、バランスのいい食事、質の良い睡眠、適度な運動によって心身を健やかに保つんだよ。睡眠が疎かになるということは、心と体の不健康につながる。無理やりにでもいいから寝ないと、体を壊すよ」
佐原さんは壊れたラジオのような抑揚の無さで、厚生労働省のホームページみたいなことを言い始めた。
「そりゃ知っているけどさ、別に何かしてて夜更かししたわけじゃないんだよ。なんか布団に入ってから寝れなくてさ」
「不眠症?」
「『たまに』だよ。たまにはあるだろそういうこと。その『たまに』が昨晩だっただけ」
「今もでしょ?」
「……確かに。いや、でも一時的だよ。病気とかじゃない」
「そう」
佐原さんは、途端に興味をなくしたようだった。このロボットみたいな同級生にも老婆心があったことに僕は少なからず驚いた。
「博識な佐原さんに訊きたいんだけど」
「私、クラスメイトの前で知識をひけらかした覚えはないよ」
「じゃあ、勘のいい佐原さんに訊きたいんだけどさ」
「何を?」
満更でもなさそうである。
「仮にだけど、寝ても寝ても眠たいっていう病気あるじゃん」
「過眠症?」
「そう。それってさ、原因は何なのかな?」
「特定はできないね。唯一絶対の原因はないし、他の疾患と併発する場合だって多い。要するに、その人の詳しい状況とかが分からない限り、判断できない。ていうか、私は医者じゃないよ。相談相手を間違えてるんじゃない?」
「じゃあ、精神的な理由、とかで発症する場合は?」
「精神的?」佐原さんは顎に手を置いてしばらく考えた。意外に親身だ。
「一番単純で例が多いのは、確か不安障害だね。これもざっくりしているけど、ずっと緊張しているってこと。例えば君は、経験がないから知らないだろうけれど、銃弾飛び交う戦場で爆睡できる?」
「無理だ。音も煩いだろうし、死ぬかもしれない」
「そう危険だから、ゆえに不安だから、眠れない。これは生物としては当たり前のことで、その当たり前が恒常的に発現すると過眠症とかによくなるんだ。身近に危険が迫っている。そんな強迫観念があるから、何かあった時すぐに飛び起きられるように眠りの質が浅くなるのね。それで埋め合わせるために睡眠時間が過剰になってしまう。これが行き過ぎるとそもそも眠れなくなる。これが不眠症」
「なるほど」
僕が感心した様に頷いているのを見てから、佐原さんは少し目を細めてから言った。
「思うに、うつ病や不安障害と併発する睡眠障害は質が悪いよ」
「どうして?」
「そういう人間はね、自分が不安でいっぱいだという状況を理解していないケースが多い。でもそれだと困ったことになる。原因は睡眠と直接かかわる部分じゃなく、自分の生活の中に在る、大きな、あるいは多くの不安なのだから、それを取り除くか上手く折り合いを付けない限り、その人がぐっすり眠る日は来ないってこと」
「どうして、自分の持っている不安に気が付かないんだよ」
「視野狭窄に陥るからだろうね。人間は良質な睡眠を十分な量とらないと、精神が脆くなり、認知機能は極端に減退し、思考も短絡になる。それは生理学的には酔っぱらっている状態と非常に近い。想像してみて。物凄く酔っぱらって千鳥足になった人間に、まっとうな精神療法が通じると思う? 無理だね」
「じゃあ、お手上げ?」
「いいえ。薬で眠らせるの。無理やりね。まずは眠ってもらう。対策はそれから」
「へぇ」
「それで」一瞬、量るような視線が僕を見た。「身近にそういう人がいるの?」
「知人にね」
「そう」佐原さんは、見たことないぐらい気の毒そうな顔をした。「心配だね」
僕は思わず、驚きと笑いがこみ上げて決壊してしまう。いきなり笑い出した僕を見て、佐原さんは何が何だかわからず、固まっていた。
「なに、どうしたの?」
「いやね、佐原さんってロボットみたいだと思ってたから」
「よく言われるけど、私アンドロイドでもサイボーグでもないよ」
本当に言われたことがあるのだろう。
「でもあんまりと言うか全く、笑ったり怒ったりしないよね。いつも淡々としてる」
「不要なことはしないだけ。そりゃ、人前でいろんな表情を作ることは有益でしょうね。コミュニケーションとしては、理にかなっている。けど私には必要ない。だからやらない。不必要なことは、つまり、疲れるし、非効率なの。わかる?」
「ふ~ん。じゃあ、佐原さんはやろうと思えば、喜怒哀楽を滑らかに表現できるんだね」
「……まぁ、そう捉えられなくもないことを言ったのは認めるけど、実際にできるかどうかは別問題だよ。だって、常に鏡を持ち歩いているわけじゃないから、人前で自分がどんな顔をしているかなんて知らないんだし、観察していないものについて評価を下すことは出来ないのは当然でしょ? だから、今まで言ったのは私が、どうして無表情なのかという説明であって、それを逆さにして、私が思い通りに感情を顔に出せるかという話ではないから……聞いてないでしょ?」
「いきなり早口でまくしたてられても困るよ。でも要するに自信はないんだね」
「遊んでない?」
「自分で勝手に墓穴を掘ったんだろ?」
すると、まるで人でも殺しそうな形相で佐原さんが睨んできたので、僕はぎょっとして、口を閉じた。それに満足したのか佐原さんはまたロボットの表情に戻る。
「怒った演技だけは、自信あるんだよ」
佐原さんはぎこちなく微笑みながら言った。
*
『十五時に来い』
と言う不躾なメッセージが僕の携帯に届いたのは、終業式の朝だった。しかし生憎と、この日は兄の三回忌である。そもそも終業式にも出ない。
『無理』と返すと、
『いいから来なさい』と無茶ぶりが飛んできた。
仕方がないので、素直に事情を説明する。『ごめん。ならしょうがない』という徳間からのメッセージを確認した頃、父の運転する車はこじんまりしたお寺に到着した。
僕の親類は少数だ。葬式もそうだったが、母方の親戚は母以外来ていたし、父方も同様であったが、それでも二十人に達しなかった。祖母だけ泣いていた。
諸々を終えると、近くの飲食店を貸し切ったお斎があり、解放されたのは十六時だった。
「夕飯。家に何かあったか?」
運転席から父がそう聞いてきた。
「いや、たぶん何もない」
「買ってくか」
「うん」
父はショッピングモールに続く国道へハンドルを切った。
ショッピングモールに入ったとき、偶然にも父は友人とばったり出くわしてしまい、そのまま世間話に突入してしまった。
「どう。──ちゃんは」
母の名前がそんな風に出た時、父は気まずそうに僕に目を向ける。僕は、僕がいると話しにくそうな父から離れ、同階のフードコートに向かった。
視界に父の姿が入る席に座り、近くの自販機で買った缶ジュースをちびちび飲んでいると、知っている姿が複数目に入った。咄嗟にたまたま設置されていた仕切り板に半身を隠しながら再度覗き見ると、やはりクラスメイトだった。それも、いつも徳間と一緒にいる女子たちだ。
父を見る。まだしばらく口が止まることはなさそうだ。女子たちは四人いて、そのうち一人がなぜだか泣いて俯いている様子で、それを残り三人が慰めているようだった。
僕は息を殺しながら、彼女らの後ろを横切った。
すると、少しだけ耳に会話が入ってくる。いや、会話と言うほどのものではない。「頑張ったよ」「お疲れ」みたいな中身のない励ましの声が届いてきただけだ。
そのうち一人が僕の方に気が付いて、泣いている子に聞こえないように、耳打ちしながらこちらを見てきていた。明らかに嫌悪の色が顔に出ている。けれどそんなことはどうでもよくて、僕にとって重要なのは、その場に何故か徳間だけが足りないことだった。
お惣菜をかごに詰めているうちに、徐々に焦燥感に駆られ始め、駐車場に出た時には頂点に達した。
「ごめん。学校にさ、忘れ物したみたい」
「え?」
運転席のドアを開けたタイミングでそう言われた父は、きょとんとした顔で僕を見つめた。
「まだ校門開いてるから、取りに行ってくるよ」
「送ってくぞ」
「いやいいよ。先戻ってて」
「でも、かなり遠いだろ? 遠慮すんな。お父さんこの後何もないから」
「大丈夫、だから」
父は少し目を細めた。何か怪しんでいるようにも、ただもの悲しげなようにも見えた。
「わかった」
了承する父に、ビニール袋を手渡すと、僕は早歩きでその場を後にした。
足早が、いつの間にか走っている。焦りが心の中に在ると僕は無意識に走ってしまう悪い癖がある。しかも、それは目的地にたどり着くか誰かに留められないかしない限り、自分では気が付けない厄介な癖だ。
あぜ道を走る途中で、ふと何かを踏み、こけた。
よろよろ立ち上がって、僕を転倒させた原因を見る。それは一枚のハンカチだった。淡い空色をした薄くて表面のつるつるしたハンカチ。丁寧に洗い使い続けてきたもの特有の、角の糸の解れが見えた。そしてその近くに名前のイニシャルがある。
すぐにではないけれど、一応は拾って交番に届けよう。失くしても困りはしないだろうが、所有者の愛着がべっとりついていそうなものを放っておく気は起きなかった。
そして次に自分の息が上がっていることに気が付いて、深呼吸の後に歩き出した。
顔を上げて視界を広げると、太陽が沈んでゆき、山の影が端っこから僕らの街をぐんぐんと包もうとしていた。
街の中心近くにあるその古びた家屋は、まだ昼間の気配を残していた。玄関は空いている。
門を一歩入ると、園芸用具が散々と置かれている左側から、誰かがいる気配を感じた。それは決して気のせいではなく、近づくと、草をむしっている徳間がいた。
「ねぇ」
「うわっ!」
徳間は肩をびくりと震わせ、その場で硬直した。そして僕を認知すると、途端に呆れと他に何か劇的な感情の混じった顔をした。
「急に声かけないでよ。びっくりしたなぁ。何? 今日来れないんじゃなかったの?」
「いや、来れないつもりだったんだけど」呆然とそんな返しをすると、徳間は不可解そうに首を傾げた。「でも、来れたみたい」
僕がヘンテコに纏めると、徳間はすとんと表情を消した。
「そう」
小さいとは言えないほどの庭の端っこには若い色をした草が積み上げられていた。地道に隅の方から徳間がむしってきたのだろうことは容易にわかる。彼女がスカートの下に履いている冬用の体操服は、膝の部分だけ土が付着し黒くなっていた。
「どっちにしても、もう引き上げようかなって思ってたんだ」
徳間はまた草を引っこ抜きながら言った。
「無駄足だったわけだね」
僕が言うと彼女はなぜか黙したまま立ち上がった。そして縁側に置いてあった大きなゴミ袋を広げた。逆光で顔は覗けない。
「さっきクラスの奴らを見たよ」
「だろうね」
「徳間がいなかった」
「そりゃそうだよ。ここにいるんだから」
「一人でここにいるとは思わなかった」
「どうして?」
「どうしてって……わかんないけど」
徳間は僕の方を一瞥すると、草の山に近づいてそれを袋に入れ始めた。僕も手伝おうとしたら、いい、とすげなく断られた。
「素手だと切るかもしれないよ」
「そうだね」
ひっこめた僕の手の甲を見ながら、徳間はひっそりと顔を伏せた。
「おじいちゃんがね、ちょっと前に病院に運ばれたんだ」
「そうなんだ」
「もう出てこないかも」
「どこか悪いの?」
「ううん。どこっていうか全部かな。歳だよ」
徳間は、手を止めた。
「耳が遠くなって、足がもたついて、舌が回らなくなって、腰が痛くなって、忘れっぽくなって、視界が悪くなって、歯がボロボロになって。私が知っているおじいちゃんは、いつもそんな感じで、衰退していくっていうの? とにかく死に向かってるんだけど、でも、別にそれを、厭だとは思わないんだ」彼女は黙って下を向いた。「薄情かな?」
「わかんないけど、それで言うと多分僕も薄情ってことになる」
徳間は軍手を着けた自身の掌を見つめ、それを開いたり閉じたりした。
「でもね、最近は得体のしれない汚い何かが、おじいちゃんの中の自然な流れを邪魔している気がする。それはとてつもなく厭だし駄目なことだと思う。無理やり生かされているおじいちゃんは見たくない。私が見て触れて話したいのはいつも生きてるおじいちゃんだから」
それは、分かりすぎるぐらい分かる話だ。今はそう。今の世の中は、生かされることと生きることの境界線がふやけて曖昧になっていて、僕らはそれを自覚しては忘れてを繰り返している。徳間の言う『汚い何か』は人間が作り出したものだけれど、もうすでに人間の操作から離れて、むしろ僕らの日常の無意識に浸透している。畢竟、それは忘却だ。
喉から、何も言葉が出てこない。気まずさを自覚して体が勝手に沈黙に頼ろうとしている。そうしている間に、彼女は作業を再開し、そして完了した。
影が庭全体に行き渡った。
僕らは家を閉め、帰路に就いた。空はピンク色に少しずつ紺色を刺したように、西から段階的に黒に近づいている。
「夏休みは、半分くらい夏期講習で埋まってるんだ」
横を歩く徳間はわざとらしく吐きそうな顔を作ってそう言った。
「大変だね」
「うん。だから休みの半分くらいしかここには来れない」
「塾がない日は毎日来るってこと?」
「塾がある日も来るよ」
「そんなに頻繁に来たら、すぐ家中がピカピカになっちゃうよ」
「住めるぐらいきれいにするつもりだもん」
「家出でもする気?」
「それもいいかもね。絶対しないけどさ」
徳間がそう口にしたときの表情は逼迫していた。まさかそんなことするはずがない、という常識を語っているというより、もっと強い決意を表明するときのものだ。それから一瞬黙ってしまった僕を窺いながら「心配かけるからさ。おや……とか」と変な捕捉をした。
「そうだね」
僕は目の端だけで徳間の輪郭を捉えるようにして、あぜ道を歩いた。見渡す限り遮るもののない田畑で地面を撫でる風が冷たい。視界が徐々に真っ暗になってゆく。ポツポツ明かりが灯る民家が青紫の背景に浮かび始めた。少し遠くを走る道路から車のゴーゴーと言う走行音が響き、水田の生臭さが鼻をくすぐった。こんなに暗いと隣の徳間の顔すらはっきりと見ることは出来ない。ぼんやりとした存在感と温度が横で僕と同じ速度で歩いている妙な感じがした。
田園を縫う道から大きなバイパス沿いの歩道に出た。隣の県に向けて勢いよく通過していく車たちは、代わり代わりに僕らの顔を照らした。
「ねぇ鈴原君。あそこ誰か立ってるよね」
しばらく歩いた時、徳間が足を止めた。暗さで淡くぼやけた視界の中で彼女の形をした影は、歩道から少し離れた場所を流れる用水路の方を指さした。
言われた通り、確かにぼんやりと人影らしいものが二つ立っている。黙っていると、片方の影は、身をかがませて用水路の中を覗き始めた。徳間はバイパスからその暗がりに近づき、携帯のライトで、遠慮もなくその誰か達を照らした。
「「うわっ」」
二人分の驚きが被さって聞こえた。ライトに照らされ現れたのは見知った男子と、知らない女子だ。
「矢野君、何してんの?」
徳間にそう言われて矢野君は、ちらっと横にいる女子を見た。その子はと言うと彼よりも少し年下で、つまり小学生ぐらいの子だが、さっと矢野君の背中に隠れてしまった。
「探し物をしててさ」
矢野君はそう言って立ち上がった。
「探し物……もう暗いよ。諦めるか明日にしなよ」
「だよね」
もっともな意見に矢野君も同意の色を示している。口ぶりから察するに、探し物と言うのは彼ではなく、その後ろの人物のものなのだろう。
「君の後ろにいるのは?」
徳間が聞くと矢野君は「妹だよ」と答え、返す刀のように「そっちの後ろは?」と尋ねた。徳間は、何も言わず僕の方をライトで照らしてきた。まぶしい。目をぎゅっとつむっていると、「ああ、鈴原か」と言う矢野君の声が聞こえた。
彼は、僕と徳間を見比べるように視線を左右に動かした。
「珍しい組み合わせだな」
「さっきそこであっただけだよ。ね?」
徳間はそう言って僕に話を振った。僕は無言で頷いた。
僕はかなり至らないところの多い人間で、欠点や悪癖には事欠かないのだが、その一つを今新しく紹介すれば、咄嗟に話を合わせるのが下手である。例えば、今みたいな場面で、僕が勝手に口走ろうものなら徳間の理想的な形に話が収束することはないだろう。だから、視界が悪いにもかかわらず、身振りで同意を示すしかないのだ。
「まぁいいや。それよりお前らさ、ハンカチとか見てないか?」
矢野君は、念の為にという感じでそう聞いてきた。
「あ」
僕は思い当たる事があって思わず声を上げた。もう一つ紹介すべき僕の悪癖は、驚きや気づきがすぐ声に出ることである。
「もしかして、水色の?」
僕の質問に、矢野君は後ろの子の方へ「そんな色だったよな?」と確認を取った。すると小さな顔がのっそりと彼の背中から現れ、僕を見た。徳間は気を利かせたのか、僕の手元にライトを向けた。僕はポケットから、さっき拾った淡い空色のハンカチを取り出した。
「あ、それそれ、どこに落ちてたの?」
その女子は顔を喜色に染めると、僕の方に来てハンカチに手を伸ばしかけ、「スズ。まずお礼」と背後の兄からの声に体を止めた。それはちゃんと兄の威厳らしきものが染み込んだ声だった。
「拾ってくれてありがとうございます」なぜだか悔しさの混じった声色で彼の妹は礼を述べた。
「はぁ、まぁ、見つかってよかったよ」
僕は彼女にハンカチを手渡した。その子は、ほっと肩の荷が下りたように息を吐く。やっぱり大切なものだったらしい。
徳間がライトを切った。
ぼやぼやした四人の存在感が浮かんだ。ちょろちょろと水の流れる音の上で、示し合わせたように四人の足が同じ方向に向かう。この街の住宅街はおおむね北と南に集中していて、北に昔から住んでいる高齢者宅が多く、南の特に駅近郊は数十年前に移ってきた壮年層の住宅が立ち並んでいる。その家の子供が現在小中学校に通っているわけだから、同級生の多くは南に住んでいることになる。南西から北東へ、ぶった切るように敷かれたバイパス沿いは多くの中学生にとっては通学路で、矢野君たちは落とし物をしたのなら通学路だろうと判断して探していたのだろう。しかし、僕が拾い上げてしまったせいで、もしかするとすぐ見つかったのかもしれない落し物はなかなか見つからなかったらしい。結果的にあの頓珍漢な場所をのぞき込んでいたとなると、何だか悪いことをした気分になる。
駅前まで来ると、矢野君たちとは帰路が分岐した。
「あ、忘れるとこだった。鈴原」
別れ際、矢野君に声をかけられた。
「八月の職場体験、何で来る?」
僕が何のことだろうと思案顔になると、矢野君がつけ足してくれた。
「俺と同じところだろ、確か」
「そうだっけ?」
「班分けの紙貰ったじゃん」
「同じ班の人とか見てないよ」
「どっかで集合してからみんなで現地に行くんだよ。で、俺は班長だから、合流できたら学校に連絡するの。聞いてない?」
僕のことだから、自分が班長じゃないと知った途端に情報を右から左へ流し聞いていたに違いない。
「聞いた気がする」
「……」
電灯に照らされた矢野君は珍動物を見るような眼をしていた。
「どうなってんだよ。クラスでお前とつながってる奴いないしさ、あ、携帯持ってる?」矢野君は頭を掻きながら僕に近づいてきた。僕はすごすごと申し訳ない気持ちでロックを解除した携帯を差し出す。彼はそれを受け取ると、両手で二つのスマホを器用に操作しながら「まったくよかったよ。今日会えなかったら、俺、お前ん家までわざわざ行く羽目になってたよ。同じところに行くやつでグループつくってるんだ。入れとくぞ。いいか?」ちらっと僕の方を見て尋ねてきた。
僕はこくりと頷いた。
そうして、友達欄に矢野君が追加された僕の携帯が手元に帰ってきた。
今日は矢野君に対して申し訳ない気持ちばかりが募る日である。
矢野君たちと分かれて、僕は横を見た。
徳間は駅前のロータリーの中心にどんと構える時計台を見ていた。
「どうしよ。遅刻だ」徳間は確かにそう言った。僕は深く考えず門限か何かだと思った。
「鈴原君。家こっちだっけ?」
「いや、実はもうとっくに過ぎてる。なんかこう、別れづらい雰囲気だったからここまでずるずる」
「ごめんね」
別に謝られるようなことではない。僕の落ち度だし、そのおかげで矢野君の負担を減らせたというメリットもあった。
「私ん家、向こうだから」
「ああ。うん。じゃあ」
「うん。それじゃ」
徳間は、そうして駅内のコンコースに吸い込まれていった。
*
徳間からの連絡は本当に大体二日に一回の頻度であって、僕はその度に、重い腰を上げて、クーラーの効いた涼しい部屋から出る。それを一か月弱繰り返したある日になると、父親が珍しく「お前、いつもどこに行ってるんだ?」と訊いてきた。
「その辺だよ」
と僕はまったく正確さを欠いた返答をした。父は本職を感じさせる鋭さの籠った眼で僕を見た。特に持ち物もなく、身だしなみも整えず、突発的に出かけている僕のことを訝しんでいることは間違いがないのだが、クラスメイトの酔狂を手伝っているとは導出できようもなく、結局父は「そうか」と言うにとどまった。
この街の夏は比較的涼しいとはいえ、暑いものは暑いし日差しは厳しい。勇んで横を通り過ぎる車はすぐに陽炎に吸い込まれていく。歩き慣れてしまった道順を抜け、澤本の表札がかかった家の門をくぐった。
この家は元々そこまで汚れ廃れていたわけではないことも手伝って、この一か月で整理整頓及び清掃が粗方終わってしまい、誰か住んでいると言われれば信じるくらい綺麗になった。生活インフラが整いさえすれば、居住してもよい程度である。
門の裏には要らない廃材や雑貨が積み上げられて、風通しの良くなった庭の縁側では、ぼうっとした顔で空を眺め、足を投げ出して座っている徳間がいた。
「もうやることなくない?」
僕が声をかけると「そうだね」と沈んだ声で彼女は答えた。いつもより余計に生気が抜けたように見えて、顔色はすこぶる悪い。
「眠れた? 昨日は」
彼女は黙って首を左右に振った。
「家だと、やっぱり眠れない」
家だと、と言うのは、少なくとも、この家にいる徳間は頻繁に眠気に襲われそれに負けているからだ。逆に言うとこの家にいる時の彼女は常に眠そうだ。
徳間はまた一つ欠伸をする。目尻に涙を溜め、はぁと息を吐いた。
最近気が付いたことで言うと、彼女にとってこの家の清掃と言うのは二つの意味があるようだ。
一つは、彼女が最初布告した通り、おそらくは、徳間詩音という人間にとってこの家自体が大切にするべき絶対の価値を持っているために、清潔な状態に保っておきたいという願望があり、その成就である。
もう一つには、これは僕の憶測なのだが、彼女は自分のセーフティゾーンを作りたかったのだと思う。ただし、この憶測は、きっと彼女は普段から安心できない状態にあるとか、あるいは、そう思い込んでしまう強迫観念を抱いているとかいう前提あってのことだけれど。
「僕の知り合い曰くね」
と声を発すると、彼女は辟易した顔を向けた。
「不安がどうとかってやつでしょ、分かっているよ。聞き飽きた。」
「いや、そう軽くあしらっていいようなものじゃないと思うよ」
「しつこいなぁ。もしかして心配なの?」
「うん」
徳間は少し驚いたように僕を見た。
「君が言ったんだ。僕と君は同類だって。だから」僕は太陽を避けるように軒先の影に入り、縁側に腰かけた。「同情だってするし、同族嫌悪だってするんだ。きっと」
自分で言っておいてなんだが、詭弁だった。
目の痛くなる青空を眺めて数秒。返事がないので見ると徳間は静かに寝息を立てている。
「流石にない。このタイミングはないよ。寝たふりだろ?」
「……」
「おいってば」
軽く肩を突くと、ククク、と悪戯する子供のような含み笑いと共に徳間はゴロリと僕から背を向けるように転がった。
そうして、じっとしてると、暫くもなく静かに背中が上下しだす。本当に眠り出したようだった。
僕は安堵なのか徒労なのか自分でも分からないが、とにかく嘆息した。
今日はまだいい方で、普段は機械のスイッチを切られたように何の告知もなく彼女は寝てしまうものだ。そんな時は大抵十八時までは起こさず放っておく。もっとも、完全に放っておくことも出来ないので、この家の中で時間を潰さざるを得ないのだが。
僕は縁側から家の中に入り、既に見飽きた本棚の前に立った。ここにある書籍は全て読み終えてしまったのだが、奇妙にも、どこかの頁を切り取られたものが半数を占めている。
さすがに偶然とか悪戯で片付けるのも気分が悪く憚れるので、僕は勝手に該当する部分を書店で立ち読みした。
結果的に切り取られたページの内容には、ある規則もとい条件があることに気が付いた。
血だ。
恐らく、生々しい血液の描写がある箇所が切り取られている。だから、あの本棚にある推理小説の大半はひどい虫食い状態で、全く情報が完結しない。徳間は弟の仕業だというが、どのような動機があってこんなことをするのか意味不明で果たして不気味だった。
ふと遠くから、ゴゴゴ、と雷鳴が聞こえた。窓から外を見ると薄暗く分厚い雲が、町の上空に流れ込んできていた。
雨が降りそうだ。
「徳間。起きて」
家の中からそう呼びかけると、彼女はすぐにむくりと起き上がった。相も変わらず寝起きがよい。少し名前を呼ばれるだけで目覚めてしまうのは便利なようで心配だった。
「あめか」窓を閉めながら、徳間が不貞腐れたように呟いた。「やっぱし降ってほしくない時は、絶対降るんだ」
「そう言えばそんなこと言ってたね」
「今日はね、文句のない一日になるはずだったんだよ」
「文句のない一日?」
「そうだよ。理不尽も不愉快も全くない一日」
徳間が家に入ってきた途端に、外は薄暗くなり、豪雨に包まれる。草木のない庭は水はけが悪いせいで瞬く間に沼のようになった。吹きすさぶ風により雨粒は縦横無尽に飛び回り、ガラスを叩いては一つの流れになって下に落ちていった。
「台無しだよ」
徳間は肩を竦めて言った。反対に顔は愁眉を開いたように明るいのは奇妙である。
「どうしよう。僕傘持ってきてない」
「天気予報は?」
「一日中晴れだって」
「じゃあすぐに止むんじゃない?」
「だと良いけど」
電気が通ってないので、屋内は外と同調して薄暗い。窓際の色褪せた畳には淡い光がぷくぷくと泡のように映り込んでは弾けて流れ、断続的に動物の毛のような模様を作っていた。
それから雨は、けれど、数時間たっても止まなかった。徳間は、また浅くて脆い眠りについてしまい、僕は夏休みの宿題をして時間を消費する。寝息とペンと雨風と雷。何も無い部屋に四つの音がごった返し反響している。
午後四時頃、いつの間にか問題集の下敷きになっていた僕の携帯が通知音を発した。後ろで、徳間がピクリと身体を動かした。
『今どこだ?』
父からだった。
『友達の家にいる』
と返し、ポケットに戻すがすぐに返信が来た。
『注意報が出てる』『どうやって帰ってくるんだ?』『今なら迎えに行くぞ?』
大げさだな、と思って立ち上がり、僕は玄関に向かった。それから試しに外に出てみた。
一歩出て、目に映ったのは門のすぐ外側を雨水が川のように流れている光景だった。横殴りの強風は貧相な僕の体なんて吹っ飛んでしまいそうなくらい強い。服も顔も一瞬で水に浸り、おまけに戻るときに足を滑らせ背中から盛大に転倒した。
中に入り慌てて引き戸を占めるのでも一苦労する。これでは、外を歩くことさえ至難である。
なんてことだ。全くふざけている。雨女どころか嵐女じゃないか。
そのまま家に舞い戻ると、僕の悲惨な姿を見て徳間が驚き声を上げた。
「うわ、どうしたの?」
「外やばいよ」
「拭いてきなよ」
「え、あ、何か拭くもの持ってるの?」
「洗面台にあるよ」
「ああ、そうなんだ。分かった」
いつの間にか生活用品を持ち込んでいたらしい。本当に住むつもりなのかもしれない。風呂場の前の洗面台に移動し、その下の収納を開くと確かに小さいタオルが何枚か備えてある。
僕は上のシャツを脱いで、半裸になった。想像通りに衣服はあらかたお釈迦になっている。
「はい。おっきいタオル」
なんの声かけもなく徳間が背後に現れた。僕は、きゃ、と声を上げた。
「声ぐらいかけてよ」
「あ、背中。私と同じところにほくろがある」
「見ないでよ」
「水道だけは通ってるから、頭は流せるよ」
「話を聞いてよ」
「なんで縮こまってるの?」
「恥ずかしいからだよ」
「どうして?」
「上裸なんだぞ?」
「それが? 水泳でいつも見られてるじゃない」
「じゃあ聞くけど、君は僕の目の前でスク水になれるのか?」
「余裕」
徳間はモーニングルーティンでも訊かれたような、堂々を通り越して退屈そうな顔で答えた。
「えぇ」
困惑する僕を差し置いて彼女はタオルを広げて、僕の肩にかけた。
「やかましいな。隠せばいいんでしょ。要は」
夏だし、あまり寒いとは思わなかった。ただし、それも程度の問題でさすがにずっとこのままでいるのは不衛生で不健康につながるのだろう、と言うのは僕にも分かることだった。
厭だけど、父親に頼るしかない。ああ、どんな言い訳があったら、この場所に僕がいることを不自然なく受け入れてもらえるのだろう。客観的にそれも親の視点からすると、こんな空き家に同級生の女子と居るのは、その、変だ。
僕はポケットの中のスマホを取り出し、その画面を見て数秒逡巡し、やがて父親に迎えを頼もうとした。文面まで打ち込んで後は位置情報とともに送るところまで済んでいた。そうなのだが、それを見ていた徳間が僕の手首をつかんだので、動きを止めた。
まだ背後に彼女がいたことにも驚いたが、手首を握る掌の圧が思いの外強いことに僕は当惑した。
「一キロ先にコインランドリーがあるけど、こっからだと、行って洗って干して戻ってくるまでに二時間弱かな」
「たどり着いた時には洗い物が一つ増えるね」
否定の口調でそう言った。
「私レインコート持ってるし」
「でもさ」
「洗い物は大きなビニール袋に包めばいいでしょ?」
「いや」
「私は構わないよ」
「僕が構うよ、そこまでしてもらわなくてもいいし、君にも僕にもメリットがないだろ」
「そうじゃなくて」
「大体、そこまでして僕がここにとどまるりゆ」と、言いかけて噤んだ。徳間が俯いて震えていた。それは微小なものではなくて、僕の手首まで伝わった。
僕は、この時驚くほど心が冷え渡って、それから冷静かつ迅速に真っ白な状態から思考が復帰したのを感じた。
これはどう解釈するのがいいのか。
僕の精神に異常がないなら、だって、そりゃもう、この彼女の言動は、僕をこの家の中にとどめておきたい人間のそれとしてしか、受け取ることが出来ないのだ。
「馬鹿言うなよ。どう考えてもさ……いや、それに、君が外に出てる間、僕は何を着ればいいのさ? 無理だよ流石にさ」
「タオルにでもくるまってれば」
声まで震えていた。
「あのね。そりゃ」
無理の、む、の口を作りながら、僕はまた言葉を止める。そして観念の意を表して、声を柔らかくして言った。
「うん。わかったよ。わかったからさ。手を離してよ。痛いよ」
徳間は、そっと僕の手首を離した。そこに爪が食い込んだ跡が、くっきり残っていた。
びっしょりと濡れた僕の服を抱えて「下着は?」と徳間が尋ねてきた。
「それは無理」
「でも気持ち悪いでしょ」
「君はいいかもしれないが、僕は厭なんだ。これは譲れない」
徳間は言うことを聞かないガキでも見る目を僕に向けた。先程はその視線を僕が彼女に向けていたはずである。
「じゃ、行ってくるよ」
レインコートを羽織った徳間はそう言って、この家を後にした。残された僕は、バスタオル三枚で体をミノムシみたいに包みながら、居間の隅っこで体育座りをした。
頭はぐちゃぐちゃしていた。僕の冷静な部分は、今の僕を冷笑しているし、ナイーブな部分ではもっと上手い立ち回りがあっただろ、と後悔を促している。さらにその脇で、徳間は無事に帰ってくるのだろうか、やはり無理にでも父に迎えにきてもらうほうが良かったのではないか、とか考える自分も存在していて、収拾がつかない。
僕はそんな取り止めのない思考を振り払うべく、スマホを取り出し、心配している父へ色々苦心しながら返信をしたり、職場見学の件で矢野君に交通手段を伝えたりして過ごした。
そうしているうちに、心が徐々に凪いでいった。
思えば、単独でこの家にいるという経験はこれが初めてだ。しんと静かな時は何度もあった。でもそういう時でも、この家のどこかでは寝息を立てる徳間がいるのだ。
今は、この家の中で僕は一人きりだ。
雨音が部屋を満たしていた。タオルからは、僕の家と同じ柔軟剤の香りがした。背を壁に預けていると、うとうとと眠気が来る。目を閉じる。風邪をひきそうだから寝てはいけない、と思っていてもなかなかに抗いがたいほど心地が良かった。
静かに、神経を聴覚に研ぎ澄ましていたからこそ、微かな異常事態に気が付いた。
外から足音が聞こえる。
僕は目を開けた。頭蓋の中で黒い稲妻みたいなものがバチっと走り、霧散していた意識が急激に体内に戻った。
勘違いじゃない。確かに人がいる。今玄関の前に立っている。
携帯の画面を確認した。まだ徳間が外に出て一時間しか経過していない。彼女だろうか? いや、それなら、何か僕に連絡でも入れるんじゃないか?
誰だ?
疑念が徐々に、恐怖らしきものに変わり、僕はたまらず居間の押入れに身を隠す。
玄関を開く音がした。外の音が数秒侵入してきて、ガラガラと引き戸を引く音があり、パシッと閉まる。傘の水を払う。靴を脱いで家に上がる。何もかも明瞭に聞こえた。静かででもずっしりとどこか重みのある足運びだった。徳間じゃない。徳間の足音はもっと軽いし早い。
足音は僕の近くまで来ると、止まった。
「詩音? いるの~? ねぇ? いるんでしょ?」
僕が隠れている押入れの殆ど目前から、壮年の女性の声が発せられた。その嫋やか且つ艶やかで、でもそこに少し幼さが足された声色が、厭に徳間と似ていた。
「ねぇ? わざわざ来たのよ?」
女性は遠慮も何もなく、家中をドカドカと歩き回りながら、この場にはいない徳間に話しかけ続けた。
「どうせどこかに隠れてるんでしょ? 頼むわよ。 帰ってこないと母さん困るんだから。今日はあの人帰ってくるって知ってるでしょ?」
ドタドタ。ドタドタ。
「ねぇ。ねぇ。返事くらいしなさいよ」
女性の声が徐々に声量を増してゆく。
「いい加減にしなさいよ。迷惑かけないでっていつも言ってるじゃない。あんた最近おかしいわ」
声はヒステリックになってゆく。バタバタ。バタバタ。足音。足音。畳を踏む振動が、こちらにも伝わる。それが脳に伝播し、警戒心で毛が逆立つ。
「リュウセイはどうしたのよ? ほったらかし? 今日は母さんが面倒見たのよ。疲れてるのに。ちょっとは私のことも考えなさいよ。毎日毎日……好き放題、ねぇ、ねぇ、ねぇ。私どれだけしんどいか知らないでしょあんた。知ってたら迷惑かけないでしょ。馬鹿にしてんの? 見下してるでしょ? 聞いてんのかよ!」
最後は奇声だった。声と言うより壊れた機械が不調をきたしたみたいな音だった。僕はなぜだか悔しさが込み上げて、けれども、じっとしていた。
足音が落ち着いてきた。スタスタ。スタスタ。足音。足音。僕は、静かになった足音を追いかけるように、押し入れの引き戸に耳をそばだたせ、聴覚に意識を集中した。
ガン! と真横で何かが蹴り上げられた。僕は驚きのあまり静かに肩を飛び上がらせた。
「くそ! くそ! クソ野郎! 早く出てこいよ!」
数分間、女性は何かを蹴り続けた。それから、嘘のようにピタリと静寂が始まる。
僕は口を押えて、息と動悸の音を殺した。耳の奥で血管を流れる血液の音がギュンギュンと聞こえた。目が熱い。でも内蔵が冷たい。
再び足音は鳴りだす。女性は家中を歩き回り自分の娘を探していたが、やがて足音は押入れの前に戻ってくる。僕は最初から押入れに収納されていた布団の一番下に潜り込んでぎゅっと目を閉じた。そして静かにその戸が開かれた。さらに女性は、たぶん顔を中に入れ見渡した。そして、僕を覆い隠している布団を上から一枚、一枚と捲り始めた。
これはもう駄目だと僕はかえって冷静な心持ちで、布が捲れていく音を聞いた。だが、布団は最後まで捲られなかった。
「はぁ~」
深いため息とともに、女性の気配が遠ざかり押入れの戸が閉まる。足音も玄関のほうに向かい。外へと、消えていった。
押入れからようやく僕が顔を出したのは、それから二十分後くらいだった。もしかしたら、女性が家の外から窓腰にこちらを見ているかもしれない、とか怖い想像を色々膨らましていたら、そのくらい時間が経つまで出られなかった。
部屋はひどく荒らされてしまった。
徳間の仮眠中いつも僕が使っている一人掛けのソファーは横転していたし、タンスは引き出しが全て引かれ、中に入っていたものは床にばら撒かれていた。窓にかかったカーテンは端の部分がレールから外れている。
僕の呼吸も荒れていた。長距離を走ってきたように心臓が煩くて、だらだらと汗が首を流れた。
さっきは僕の眠気を誘っていた雨音が、今は不安を煽る。
はっとして、僕は荒らされた家を元通りに整頓し始める。この惨状を徳間に見られたら、何も言い訳できず、ここに誰か来た事が知られてしまうと思ったのだ。それはきっと、ここをセーフティだと思い込んでいる彼女にとって、とても残酷だと思った。
十分ほどかけて、見える範囲だけでも元通りにした後、僕はまたミノムシに戻った。
感情が自分の中で渦を巻いているのがわかった。努めて落ち着こうと息を整えても、代わりに肩が震え、体を抑えると今度は息がまた乱れる始末だ。半狂乱になった女性の奇声と足音が頭の中を木霊して落ち着かない。
口ぶりからしてあれは徳間の母である。あれが母? 僕は信じられなくて、視界がくらくらした。
母と言うのはもっと、こう、子供に興味がないものなのだ。あんなふうに感情を振り乱して、叫んだりしない。絶対的で誰にも文句を言わせない暴君のはずで、断じてあんな雌のサルではない。たとえ自分の子供が死んだとしても、何も感じず、何も語らない。少なくとも、僕の考える母像とはそういうものだ。そうでなくてはならない。
徳間は、そこから更に十分ほどして戻ってきた。彼女は隅にいる僕を見て心配そうに声をかけた。
「どうしたの? 寒いの?」
僕は黙って首を振った。
「じゃあ、なんで震えてるの?」
僕は黙って顔を伏せ「悲しい、から」とだけ言った。
徳間は僕の体の前に、乾いた服を置いた。
「着なよ。私あっち行ってるから」
徳間はそう言って居間から出た。それから少し廊下で立ち止まって、それから階段を上がっていく音がした。
僕は少し暖かくなった服を着ると、また隅っこに座り直した。
数分後に恐る恐る部屋をのぞいた徳間は、僕の姿を見て、「やっぱり、変だよ」と沈んだ声を出した。一方で僕は依然、畳の汚れを見つめた。この時、僕の胸中は悲しいのと恐ろしいのでいっぱいになり、他の何かが入る隙間などなかった。
あの女のいる家に、徳間が帰る。
その事実が心底から怖かった。
いいのだろうか。このまま、帰らせるなんて、していいのだろうか。
徳間は、普段通りの顔つきで、僕を見ていた。厳密に言えば、睡眠不足で彼女は会うたびに衰退しているようだったのだが、やっぱり病的に綺麗なことだけは、出会った時から変わらない。
「徳間」
「ん?」
「僕の家に来ない?」
「は?」
「だから、僕の家」
徳間は、奇怪なもの、あるいは気味の悪いものを見つけたように目を細めたが、やがて僕の表情から何か感じ取るや、すっと真面目な顔になった。
「厭、というか、行かないよ。いきなりどうしたの?」
「……君は帰っちゃいけない……気がする」
徳間は沈黙した。続きを待っている。僕はそんな彼女に縋るような声を出す。
「それに少なくとも君は帰りたくないと思ってる。違う?」
顔にあった血液がどこかに吹っ飛んでしまったようだ。立ちくらんだように目が霞んだ。その不明瞭な視界の中で、徳間が首を縦に振った。僕は、ちょっと安心して、「だったら」と言葉を繋げようとした。しかしそれよりも先に、徳間が「でもね」と言った。
「でもね、弟が、いるんだ」
急にそんなことを言われて、僕は静止した。
「うちの弟、変な子だから、その、色々面倒見ないといけないような、そういう子」
徳間は喜びと諦観が同居したような、つまり儚げに顔を綻ばせた。
「やっぱ、私いないとさ……だめなんだよ。帰らないと」
「そりゃ君の義務なの?」
僕の口からは無意識に冷たい声が出ていた。走馬灯のように、今は亡き兄が僕の目の前でご飯を食べている姿が浮かんだ。兄は文句を言わない人だった。僕は兄がいることを何度も呪ったのに。
「え?」
徳間は呆気に取られたように目を丸くした。僕はなおも、どす黒い衝動をそのまま言葉を投げた。
「兄弟なんて、血の繋がった他人だよ。絶対そうだ。友達とか仲間とかじゃなく、ただ同じ腹から生まれたってこと以外、何も繋がりのない他人なんだ。だから」僕は顔を伏せた。気分が悪かった。「縛られるほうがおかしいんだよ」
少しの間の後、徳間は慎重に言葉を選んでいる人特有の、ゆっくりとした口調で言った。
「そういうもんでしょ。家族って。義務じゃないよ。運命だよ。私の親や兄弟が、私にとって親や兄弟であることに理由なんてない。家族は、つまり、最小単位だよ。大切にすることに理由のいらない唯一の他人、なんだよ」
僕は、よりにもよって彼女がそんなことを言い出したことが許せなくて、またも意地の悪い言葉を発した。
「みんなそう思っているなら、世界は平和で綺麗なんだろうね」
ダンッ、と畳が踏み鳴らされた。僕は咄嗟に顔を上げた。見れば徳間は泣きそうな顔で僕を睨んでいる。あまりの予想外に今度は僕が目を丸くした。
「関係ないじゃない。意味ないよ。私にとってはそうなんだもん」
詰まったものを吐き出すような声は、とても聞きづらかった。
「みんながどうとかなんて、関係ないんだもん」
僕は何が起こったのか分からないまま呆然と、目の前にへたり込む徳間を見ていた。
「私だもん。私がそう思ってるだけで、いいんだから、だから、世界が逆でも、関係、ない。関係ないよ」
不明瞭な視界の中で徳間が泣いている。ちっともはっきり見えない。そもそも、僕にはっきり見える物なんか、この世に存在したのだろうか。疑わしかった。何もかも。
徳間は黙って泣き続けて、僕は意識と身体が分裂した様に、震える心でそれをぼんやりと眺めた。そうして時間を重ねるにつれて、じわじわと取り返しがつかなくなるまで傷が壊死しているような気さえした。
一時間、二時間、と時を重ね、雨が落ち着いてきた時、徳間は立ち上がった。そして何も言わないまま、外に出ていき、僕は虚ろなまま反射的にそれを追いかけた。けど体が思うように動かなくて、廊下に出るときに前に倒れるように転んだ。僕は「うっ」と声を上げた。
それに気がついた徳間が咄嗟にこちらに駆け寄りそうになり、しかし、直後に渋るような眼を僕に向けながら、結局は外へと出ていった。
僕は倒れたまま、動かなかったし、動けなかった。
劈くように耳の奥でキーンと耳鳴りが起きている。床が冷たい。鼻は埃臭い家の輪郭を捉え、目は焦点が合わないまま居間のソファーを中心にグラグラ揺れている。僕に備わった感覚全部が、各々独自に暴れて統率が取れない。
僕はこの時、自分と世界の境界が分からない奇妙な感覚を、しばらくじっと味わった。
*
ずぶ濡れのまま家に帰ると、父さんが僕を叱責してきた。物凄く怖いと思ったが、体は全く彼の怒りには取り合わず、二階に行き、着替え、布団にもぐり、寝た。
鍵をかけたドアの向こうから、父の声が何度も聞こえた。
最初はやはり、怒ったような言葉だったようだが、徐々に語気がふやけて、ついには心配する言葉になったようだった。父の体から出る様々な音とそれに伴う印象を、そんな風に感じながら、けど言葉まではなぜだか理解できないのだった。宇宙人がしゃべっているのを聞くとき、きっとこんな気持ちになるのだろう。
僕は目をつむって、いつの間にか、体と意識の接続がぷっつりと切れた。
体が再起動したのは、そこから三時間後だった。
ぐっすりと寝たつもりでも、その程度しか経過していなかった。そして、なぜこんな中途半端な時間に覚醒したのか、気がついて体を起こした。
体は自動的に動き、午後七時。市街地の写真を撮った。
その後、気だるさが抜けきれないまま階下に向かうと、玄関では父と誰かが話していた。
「あ」
父と話していた人が、階段を下って姿を現した僕を見て、声を出した。その音を聞いた瞬間に僕は顔を上げた。聞き覚えのある、女性の声だ。
一目見てわかる。父の前に立っているのは徳間の母親だった。
僕は自分でも驚くほど冷静に父とそれからその女性の顔を交互に見た。
「忘れ物を届けてくださったんだ」
父は僕にそう言った。見れば彼の右手にはビニール袋が下げられている。中に何が入っているかははっきり知ることは出来ないが、浮かび上がるシルエットは冊子の形をしている。
そうだ。あの家に、僕は問題集を忘れたのだ。
徳間の母親は表面上嬉しそうにこちらを見た。
「ごめんなさいね。焦っちゃって」
彼女は僕の忘れ物をこんな日のこんな時刻のこんな天候の中を、わざわざ焦って届けに来たことを恥じらっているようだった。
その所作は当然嘘っぽくて、教室の徳間を見ているようだった。
徳間の母は頬の上に薄く浮かんだ皺を除けばびっくりするほど整った相貌で、徳間詩音の時間をそのまま進めたら、こうなりそうだと思った。
父は、迷惑をかけて申し訳ない、と頭を下げている。僕も雰囲気に促されて、淡々と謝意を伝えた。
女性はじっと僕を見ていた。
徳間の母が帰った後、父はリビングに向かった。僕はそれに無関心に再び自室に戻ろうとした。
「玲。ちょっと来なさい」
厳格な父の声に呼び止められた。僕は言われるがまま、父の背に続いた。
ダイニングテーブルに向かい合って座ると、さっそくといった感じで父が「どこ行ってたんだ?」と訊いてきた。
「友達ん家だよ」
僕がそう言うと。父は「本当か?」と訊いた。
「本当だよ」
僕は静かに、そう伝えた。
「そうか。信じるよ」
「うん」
父は、ゆっくりと息を吐き、それから腕を組んだ。
「さっきの徳間……くん? のお母さん。嘘をついてたよ」
僕は目前の男性の目を見た。そこには確信が宿っているようで、下手な僕の芝居や嘘では揺らいでくれそうにない。
「厭な感じだった」
父は、言いにくそうにそう言った。
「すごいね。嘘とか見破れるんだ、父さんは」
僕は皮肉っぽく言ったつもりだったけれど、父は真面目な顔で答えた。
「嘘じゃないよ。俺に見えるのは」父はテーブルの汚れを凝視しながら低い声を出した。「悪意だよ」
父はうっかり出た言葉を後悔するように、そっと静かに、掌で口元を覆った。
*
五日後。職場見学の日。僕は隣町の地下街の警備及び管理の仕事を体験することとなった。これは思いのほか退屈な仕事で、やることと言えば巡回と監視カメラの確認くらいである。片道数時間かけて県外にまで足を運んで見たものの、驚くほど学びがない。
昼休憩で入った駅の地下街のレストランは、ゆっくりとランチタイムを楽しむ人と、栄養補給に勤しむ労働者で二分されている。でも僕はどちら側に属する人間なのか分からない。
僕に向かい合って、矢野君が座っていた。彼は、僕から発せられる陰鬱さみたいなものを敏感に感じ取っていて、気まずそうに店内に飾られた絵画を見ている。その隣にいる佐原さんは気にした様子がまるでなく、メニューを眺めている。注文を決めあぐねているようだった。
友達がいなくて昼食の時間をぼんやり何も食べずに過ごそうとしていた僕と、同じく友達がいないが一人で店を探そうとしていた佐原さんが、単独で昼食は禁止との忠告をしっかり覚えていた矢野君によって引き留められ今の状況が完成した。他の奴らはどっか行った。
僕は何か腹に物を入れる気にならなかったからカフェオレだけ注文することにした。
ようやく決まった注文を佐原さんが店員に伝えている間、僕は矢野君とは反対に店外を眺めた。午前に比べて地下街を歩きゆく人波が勢いを増している。せっかくの天気の中、太陽の光の届かない土の下でこれだけの人間が右往左往しているのは、自然の摂理に反しているようで落ち着かない心地がする。
やがて注文が僕らの前に並んだ。
「鈴原」
矢野君が唐突に僕に声をかけた。
「なんかあった?」
「何も」
僕の素っ気ない返答に彼は納得いかない風に一旦は閉口した。
僕は矢野君と数回会話したことがある程度で、別に友達じゃないし、何か良からぬことがあったからって、思いのたけを吐き出すような間柄では、勿論ない。それは矢野君からしても同じように思っているはずで、だから、僕のことなど空気のようにあしらってしまえばいいのにと思うが、やっぱり彼はチラチラ僕の方を見ながら、気まずい顔色を隠そうとしない。
僕は多分、矢野君のお節介さ、を過小評価していたのだと思う。
「具合が悪そうだね」佐原さんが僕の方をのぞき込みながら言った。「瞬きの回数も多いし。少し水分不足かな。顔を見るにあんまし食べてないんじゃない? 駄目だよ、不摂生は」
僕は何も言わず、そっぽを向いた。
「へぇ、そんなことわかるんだ」
矢野君は関心気に言った。
「嘘っぱちだよ。顔色悪そうだからテキトー言っただけ。矢野君は純粋すぎるね」
「あ、そう」
矢野君は怒るでも落胆するでもなく、酷く呆れた様子で佐原さんを見た。僕は流石に何も言わないのが申し訳なくなった。
「確かに最近、食欲ないよ」
そうつぶやいてみると、佐原さんと矢野君は二人して顔を見合わせた。
「これ、ちょっと食べる?」
佐原さんが自分の皿から、小さなピザの一切れを渡してきた。
「いらない」
「ほら水飲め」
矢野君がウォーターポットを僕の方にずらしてよこす。
「水分は今取ってるじゃん」
僕はカフェオレを片手に、ポットをもとの位置にずらした。芝居がかったやり取りの後、はたと真剣な顔つきで、矢野君は僕の目を見据えた。思いのほかその眼力が強くて、僕は体を委縮させる。
「でもさ、倒れるかもよ。今日は暑いし、ここは長野じゃないし、見た感じ今日のお前はふらふらしてるしさ」
「矢野君。それはいつものことだよ」
佐原さんのどうでもいい捕捉をさらりと無視しつつ、矢野君はなおも続ける。
「前も話したけど俺は単純なんだよ。鈴原とはほとんど話したことないけど、結構心配してるんだ」
そう言いつつ、彼は横に置いてあった佐原さんのピザをずらしてよこした。僕はそれを無言で受け取り、じっと見つめた後、一切れだけ口に運んだ。佐原さんは神妙と唖然を混ぜた顔でそれを見た。
「この場合、私はどっちに文句を言えばいいのだろうね」
「さっき鈴原にやるって言ってたじゃないか?」
矢野君がとぼけたように言うと、佐原さんは「それは、さっき時点の話だよ」と返した。「さっきはそうだけど、既に一度鈴原君が断っているから、もうその話は終わってるんだよ」
「でも、分ける意思があったから、俺の行動を黙って見ていたわけだろう?」
「いいや。私は虚を突かれたんだ。まさか、鈴原君が食ってしまうとは思わなかった。彼が食べるまで、私は少しおちょくられているのだと思ってたから。でも食べちまったものは仕方ない。吐き出せと言っても無理だろうし要らないから。ともなると、ピザ代金の四分の一をどちらかに請求したいと思う」
「大いに飛躍したね」と矢野君は面白そうに言った。
「でも、どっちに責任があるんだろう。これは難しい」
本当に険しい顔で佐原さんは腕を組んだ。彼女に至っては既に返金されるのは当然で、その請求先に思い悩んでいる段階のようだ。
「そりゃ……俺だろうな。鈴原は俺が皿を差し出さなきゃ、食べなかったんだからさ」
「しかしね矢野君。彼は君の人の良さを利用して、つまり、ここでピザ一切れを食べたところで自分の責任にはならぬだろう、という姑息な考えがあったうえで食べたのかもしれない」
「鈴原はそんな奴じゃないよ」
「そうだね。鈴原君はそこまで頭が回る人じゃないね」
失礼をされた気がするが、とまれ事実だし、ここで否定したら請求先が僕になるので黙った。
「あとで三百二十四円ちょうだい」
「細かいよ」
「しょうがないな、じゃあ四百円でいいよ」
矢野君は今になって佐原さんの面倒臭さに気が付いたらしい。黙って財布を覗いて閉じた。
「で、なんでそんな死にそうな顔になってんの?」
会話が紆余曲折の上、元に戻った。矢野君は頬杖を突きこちらを見ている。僕は焦って言葉を吐き出した。
「いや、えっと、なんというか、心配事と言うかムカつくことと言うか……つまり、人と喧嘩しちゃったんだけど、いや、喧嘩じゃないか。怒らせた、とも違うような、その」
「つまりよく分からないんだね」
じれったそうに佐原さんは要点をまとめた。正にその通りだった。僕は今の僕の状態が全くよくわかっていないのである。
「えっと、友達との仲が悪くなったと?」
矢野君のその発言は、おそらく場をつなぐためのものだったが、僕はそれを強く否定しなければならない。
「友達、じゃないよ」
「じゃあ家族?」
矢野君は、滑らかに次の可能性を持ち出した。佐原さんは黙って成り行きを見守る姿勢に入った。
「家族、でもない」
「仲違いしたってことはさ、一度は仲良くなったってことじゃないか。そりゃ友達か恋人か家族しか選択肢はないぜ」
矢野君は指折り数えながらそう言った。恋人の線はひっそりと消された。
「仲間だよ」
僕がそう言うと、矢野君は一瞬思案顔で黙った。佐原さんも通常通りの無表情で黙った。
「それはさ」少しして、矢野君から言葉が出た。「同類ってこと? それとも、目的を共有しているっていう意味?」
「同類だと思う」
「そうか」
矢野君はそう言うと、一息ついて、水を飲んだ。そして湿り気が乗り移ったように、べっとりと重たい声で言った。
「鈴原。同類は喧嘩しないんだよ」
僕はその言に少なからず動揺した。
「お前と、その誰かさんは、きっと最初から全く違う人間だよ」
もちろん実のところ、それは僕も知っていた。
「そう……だろうね。僕もそう思ってる」
僕は顔を上げる。矢野君は黙って僕の言葉を待っていた。
「僕は、同じになりたいんだと思う。あいつの仲間に」
「変な話だよ。同じ奴なんかいないのに」
今まで黙っていた佐原さんが言った。
「私以外は他人。他人の中に区別があるだけ。世界はこんなにシンプルなのに」
その声にはどこか、あざ笑う色が刺していた。
「同類だとか、仲間だとか、そう言うのは重なり合う部分が多いだけの赤の他人だよ。そこに何か特別な価値があるわけでもない」
「佐原。それはお前が強いだけだよ」
矢野君が確信の籠った声で彼女の言葉に間を指した。佐原さんは、矢野君に発言を邪魔されたことに一度は眉根を寄せはしたものの、一聞の価値があると思ったのか表情を落とした。
「人は他人と重なり合う部分で安心を得るんだ」
矢野君は矢野君らしからぬ複雑な顔をしている。
「誰とも重なり合いのない人間っていうのは、至る所で、孤独を突き付けられなくちゃならない。ただ独りぼっちなんじゃなくて、自分だけが違う、っていうタイプの孤独はそれ以上に分解することのできない純然な恐怖だ。みんなそれを無意識に避けながら生きている。怖いからさ。佐原みたいに、自分はこの世にたった一人きりの孤独な人間だという事実を直視するのが、怖いんだよ」
ふと、右手首を掴む震える手の圧力がよみがえる。
「だから、価値が有るとか、無いとか、そういう話ではないんだ。秤にかけるものじゃないんだ。仲間っていうのは、寄る辺だよ。強くない人間は、その寄る辺を持たないと、恐怖に溺れて消えちゃうんだ」
「私じゃわからないっていうのが、よくわかった」佐原さんは常温の声で言った。「けど、筋はわかったよ。つまり」そして彼女は僕を見る。「鈴原君は、その誰かさんに、縋ってたんだ」
とうとう言われたという感じがした。妙に勘のいい二人だから、ふわっとした僕の態度や言葉から、僕が無意識に言語化を忌避していた部分までずけずけと言い当ててしまう予感が、つい先ほどからしていた。
けれど、少し訂正するなら、僕が、徳間に抱いていた感覚は恐らく縋るなんて言う消極的なものではない。服従だ。だから僕は今、捨てられた子犬と仲間になれそうな気分だった。
マグカップの底に、泥色の液体がこびりついている。
──余りもの。
はるか昔の記憶の中で、化粧の濃い女性にそう言われた。その発言を聞いて父が憤怒し、僕が泣き、兄がほんのり悲し気に僕を見ていた。僕は泣き疲れて寝てしまい、起きた時には兄がいない。どこに行ったかと思えば、学校のプールで溺れていた。いじめらしい。
カップに入った飲み物を飲むといつも思い出す。底に溜まった数滴の液体は、必要とされることなく洗い流されるか、放置している間に蒸発する。
蒸発したい。別にいいじゃないか。何かに縋って生きるのだって死ぬよりましなのだ。縋るもののない人生は、死んだほうがましな人生に違いない。
この時漸く気が付いた。僕は僕の為にとにかく徳間を壊したくないのだ。そして僕はこの前、徳間の中に在る、何か繊細なものに罅を入れてしまったに違いなかった。
*
夏休みが明けるまで、徳間からの連絡はなかった。
そして学校に彼女が姿を現したのは始業式の次の日だった。ざわついた教室に入ると、彼女は自分の席にすとんと腰を下ろし、無言のままただ座り始めた。
いつもならそれで、勝手に彼女のお友達が近づいてくるのだが、その日はそんな予兆すらなくて、彼女の周囲数十センチだけ時が止まっていた。夏休み前の徳間は四人の女子と親しくしていたはずだが、その子たちは寧ろ徳間から少し離れた位置で談笑している。終業式の日に、フードコートにいた生徒たちだ。ただ彼女の教室の中でのお友達は、彼女たちだけではないので、完全な孤立ではなく、隣の人と話すなり、お調子者の男子に揶揄われるなりして時間が流れていた。教室全体にとっては僅かな歪みでも、一日中そんな感じだとさすがに皆が雰囲気の悪さを察し始めた。
「徳間。夏の間に二人に告られたらしいよ」
と言う話が耳に入ったのは午後過ぎの着替え室でのことだった。どういう経緯でそんな話が出てきたのかは知らない。僕の耳は徳間という名前が出るまで基本的に外部音をシャットダウンするようにできている。声を発したのは、家田という陸上部の生徒だった。特別、会話のセンスがいいのでも、顔が良いのでもなく、成績は中の上で、運動はそこそこ止まりの、つまり標準的な生徒だった。なぜこれだけ情報が出そろっているかと言えば、彼が僕の目前の席だからである。いつも下向きに生活している僕は、故意ではないにしても彼の手元を覗き放題だった。
「え、誰に?」
「隣の加倉と俺」
「当事者じゃん」
「いけると思ったんだよ」
家田はその後数人に失恋を揶揄われ、次いで、話題が加倉に移った。僕はそいつのことは知らない。隣のクラスの住人なので知るわけがない。ただ話を聞いていると、ちょっと暗くて内向的だけど、頭がよくて、嫌いな人はまずいないだろうという奴だった。それから、話の中で、これが僕にはよくわからないのだが、その加倉なる男子生徒が、徳間の周囲の雰囲気を悪化させた要因の一つだろうとの話である。いや、直接に明言されたのではなく、彼らの話しぶりがそう物語っていた。
気になって仕様がないので、その後、唯一クラスで話ができる矢野君に訊いてみることにした。聞かれた矢野君は訝しむように片方の眉を上げたが、結局すんなり教えてくれた。
「加倉な、終業式の日に垣内のこと振ってるんだよ」
そう言って彼はグランドにまた一つカラーコーンを並べていく。次の時間が体育祭の行進練習なので、その準備をしているところだった。
「垣内って?」
「いつも徳間と一緒にいたやつだよ。クラスメイトの名前くらい覚えるだろ普通」
「男子はそれなりに覚えるけど女子まではね。関わりあんまりないし、僕は記憶力がそんなに良くない」
「あ、そう」矢野君は、呆れたように言った。「覚える気がないだけだろ?」
矢野君がそう言って僕を見た。僕は、返答せずにグランドの中央に目を向けた。反対側では噂の垣内たちがコーンを並べている。徳間はそこから少し離れたところで、他の生徒たちと体育祭で使う応援旗を運んでいた。
「じゃあ、垣内は。徳間に嫉妬してるの?」
「いやぁ、そう言うんじゃないと思うぞ」
首をかしげる僕に、矢野君は「説明しにくいんだけどさ」と保険をかけたうえで言った。
「嫌悪感みたいなもんだよ。多分、徳間はあんまり垣内のこと大切にしてこなかったんだろうな。そのツケが今回ってきたんだ。垣内は今、徳間が加倉に告られたことが気に食わないんじゃなくて、徳間という人間が嫌いになってるんだよ」
「よくわかんないな」
「簡単に言うと、仲良いように見えて元々そこまで仲良くなかったってこと」
「そんな自分勝手なことってあるの?」
「自分勝手はお互いさまってところだろ。徳間もそれが解ってるから何も言わないんじゃないのか?」
「そうなのかな。そう言うもんかな」
「そう言うもんだ。しょうがない所ではあるけど。人って面倒臭いよな」
僕がフードコートで見た垣内は、では、加倉に失恋した直後だったのだろう。でもやっぱり、徳間からしたら、そんなの知りっこないことで、その後に加倉に告白されたのだって、言ってしまえば不可抗力の産物で、そんなことで、恨まれたり嫌われたりするのは、やりきれないじゃないか。
「でもやっぱり、徳間が可哀そうだよ」
僕が言うと矢野君は、僕の方を横目でちらりと見た。
「じゃあ、何かしてやれることがあるのか?」
どこか冷たい言い方に、少しだけ胸がざわついた。僕が言い淀んでいると彼は自身の頬をぽりぽりと掻いた。
「言い方を間違えたな。えっと、お前は徳間が苦しんでいて、その苦しみを取り除ける状況にいるとしたら、助けるか?」
言い直されたけれど、やっぱりと言うより余計に発言の意図が分からなくなった。
「どういう意味?」
「そのまま受け取ってくれ」
僕は一瞬の間、色々思案した。例えば、空腹で死にそうな徳間に食べ物をあげるところとか、溺れている彼女に浮き輪をやるところとか、理由は分からないが何かに悶え苦しんでいる彼女に対して神的な力を行使して苦しみを取り除くところとか、そう言うどうしようもない想像が駆け巡って、けれども、果ての結論は一緒だった。
「助けるよ」
「じゃあ、代わりに自分が酷く辛い目に合うとしたら?」
「関係ないよ。助ける」
「それは徳間だから?」
「いや、赤の他人でも同じようにする」
「……なんかな、もう少し自分を大切にした方がいいんじゃないか?」
「極論を言い出したのはそっちだよ」
矢野君は最後のカラーコーンを置くと、そこにしゃがみこんだ。
「俺はな鈴原。自分が大切だよ。他人が苦しんでいてるのを見て、俺は悲しい気持ちになるけど、じゃあ代わりに俺が苦しみを肩代わりしようとは考えない。自分が苦しむくらいなら、その時感じた悲しみとか、罪悪感とかをちゃんと引っ提げて生きていく方を選ぶよ。それが俺の線引きだ」
「どうしたの急に」
「お前、壊れてるよ」
「え?」
「心が壊れてる。普通、そんな風に即答しないんだよ。それが嘘でもホントでも格好つけでも」
「何言ってんだかわかんない」
矢野君は立ち上がると、朝礼台の方へ歩き出した。僕もそれに続いた。
「鈴原。お前には線引きがない。なんでって、先を考えてないからだ。ずっと今と過去を行き来してる」
「そうかもしれない。僕は過去ばっかり見てるから、後悔が絶えないんだと思うよ」
「いいや。後悔っていうのは、過去に対して抱くものじゃなく、あり得たかもしれない現在に対してするんだ」僕の足が止まった。次いで矢野君の足も止まる。「あの時こうしていれば今頃は……っていう具合にな、後悔の矛先は過去じゃなく今なんだ」
彼は、そして、徳間の方を見ながら続けた。
「前言ってた仲間って、あいつだろ?」
僕は静かに首肯した。
「やっぱり、全く違う人間だな」と矢野君がぼそりとつぶやいた。
「そりゃ徳間と僕はキャラが違うにもほどがあるし」
「そうじゃない。もっと深いところでだよ」
「なんだよそれ、教えてよ」
「……当事者に言ってもわかんないよ」
矢野君はどういった意図があったのか、むしろ意図も何もないことを悟られまいとしたのかは分からないがそこで言葉を切ってしまった。
*
それからも教室にいる徳間は普段通りに振舞っていた。僕が知っているいつも眠そうで、少し素っ気ない彼女ではなく、教室モードの徳間だ。最近はそればかり見ているので、夏休みの出来事などはすべてまやかしで、現実ではなかったのかもしれないとすら思えてくる。ただ、何度確認しても僕の携帯には彼女との会話の履歴が残っている。
僕は学校内では半ば徳間のストーカーみたいになっていて、常にその姿を視界の端に捉えながら生活していた。そうしているうちに、ある日の昼休みのこと。真顔の佐原さんに「ちょっとは自重しなよ」と小さな声で言われた。彼女に言われるほどとなると相当だろう。
「心配なんだよ」僕も小さな声で応じた。
「心配? 何が?」
「徳間は今、多分不安定なはずなんだ」
「ていう妄想を?」
「見てないよ。多分」
佐原さんは、教室の隅で本を読んでいる徳間を見た。
「普通そうだけどね。少なくとも見た目は。でも今の君は見るからに気持ち悪い」
「不快にさせて申し訳ない」
僕が平謝りすると、佐原さんは「私に謝っても意味ないんだけどね」と言いながら顔を僕に向けた。それからすごく小さな声で言った。
「ちなみに、君が知ってる徳間さんは、どんな人なの?」
「少なくとも学校にいる時とは別人だよ」
「へぇ、外で会ってたんだ。片恋慕だと思ってた」
「何それ?」
「知らないならいいよ」と佐原さんは小馬鹿にするように鼻で笑った。
最近気が付いたが、佐原さんは人を不快にするための表情やしぐさのレパートリーだけが豊富らしい。
「しかしね。それだけなら普通のことだよ。学校と家とで性格が乖離している人なんて、ざらにいる。何なら、それが普通ともいえる。コミュニティに属する以上は、その場で生きやすいように適応するのは人間の優れた能力だよ」
君がそれを言うのか、という心の声は飲み込んだ。
「僕はなにも、学校外のあいつが安定していると言っているわけじゃないよ」
徳間は活動している限り何か危うさを帯びている人物だ。比較的安定しているのは睡眠中くらいである。
「ふ~ん。じゃあ君はずっと心配しっぱなしってことか」
「ああ、そうだね。そうなるね確かに」
佐原さんは僕の返答で、少し真剣みを帯びた目になった。首をかしげて、こめかみに指でこんこん小突いている。そしてその動きがぴたりとやんだ時、声を出した。
「安全領域というものがあるよね、人間には」
僕がポカンとした顔で続きを待っていると、彼女は最初からその反応を待っていたように話し出した。
「字の通りだよ。セーフティな空間のこと。単純に私的空間と捉えてもいいよ。この反対にアンセーフティな場所がある。現代だと職場や学校がこれに当たるね」
佐原さんは右手と左手の人差し指を立てた。
「人はこの二つを行ったり来たりする。どちらが欠けても駄目なんだ。どっちも必要で、けれど、人によってその割合は変動する」
佐原さんは指同士を近づけたり遠ざけたりしながら話した。やがて、指が重なった。
「稀にね、この二つが重なったまま固定化されることがある。つまり、ずっとアンセーフティな空間に身を置くか、反対にずっとセーフティな空間に身を置くか」
そこまで言って、彼女は息を吐いた。
「認めたくないけど私は完全に後者に属するよ。生まれてこの方全く緊張感というものを抱いたことがない。いや、これ本当だよ。だから私は社交辞令も演じることも碌に出来ない、そんな人間なんだよ。これはこれで不都合は多いし欠点だという自覚はあるけれど、性だから仕方がないね。何より、私は運がいいことにこの状態の私に満足している」
昼休みの教室の片隅で、何だかえらく堅苦しい高説を拝しながら、彼女が次に何を言い出すのか僕はぼんやりと察していた。
「私は人の嘘とか演技とかを見抜くのは、実はかなり得意なんだけれど、それはその本人に演じている自覚があるときに限られるんだよ。四六時中、素顔や本音を一度も出すことなく生きている人間を見破ることは不可能に近い。というかもうそこまで行くと、本人ですら嘘と本音の区別がつかなくなっているケースが多いからね。見破るという表現自体が、そぐわないよ」
それは類い稀なる慧眼から出た考察なのか、彼女が生きていくうえで仕方がなく身に着いた技能なのか、ともかく当然のことのように彼女は語った。
「嘘も本音という言葉があるけれど、あれは少し言葉足らずだ。何が嘘で、何が本音か、という区別は、それを口にする本人が判断して初めて決定されるんだよ。口に出してる言葉が全部嘘に思える時も、それが全部本音である可能性は同じくらい高いんだ。本音の数は嘘と同じ数だけ、つまり無数にあるんだよ」
「簡単に言ってくれない?」
「その時の本人の解釈次第ってこと」
「心根は、でも一つだろう」
「複数あるに決まってるじゃない。一本の木の下にいったいどれだけの根が張っていると思っているの? いつだって、そうありたいと思う心根が本心で、それ以外は嘘だと人は考える。けれど、その実、それらが合わさって人格が芽吹くんだよ」
表現が詩的になってきたのに気が付いたのか、佐原さんはちょっと考える間を入れた。そして顎に手を置き、難しそうに目を細め、口を開いた。
「しかしそれだと上手く生きて行けないから、人間には解釈フィルターっていうのが備わってる。TPOによって本音と建前を使い分ける人はよくいるけど、あれはこの解釈フィルターが上手く機能しているんだよ。順序立てて言うと、まず自分の中に外部と隔絶された『本心』というものを形作る。反対に、外部状況によって変化する適切な対応が『建前』だね。本心をさらけ出せる空間が安全領域。建前を用いて上手く適応しないといけないのがアンセーフティな空間。つまり解釈フィルターというのは自分の置かれた状況がセーフティかアンセーフティかを見極める機能だよ。これが壊れると、その機能に頼って用いられていた本音と建前の区別が曖昧になってしまう」
「つまるところTPOがわきまえられない人間ってことじゃないか。そりゃ物凄く生きづらいし、というか、生きていけるのか怪しいもんだよ」
「社会に適応して生きていけるのか、と、心にある種の障害を持つことは切り離して考えるべきだよ。適応しながらも心は取り返しのつかないくらいぐらい故障している場合だってあるし、その逆もある。私の場合、生まれた時からそんな機能はなかった。人としてみると構造の欠陥だよ。だからある意味不完全ながら私は私としてこれで完璧なんだ。けれど、後天的にこのフィルターが壊れるケース、欠陥でなく故障の場合は、こりゃもう大変だ。多くの場合適応できずに心を閉ざすか、適応することを優先しすぎて自壊する」
そこまで説明して、彼女はもう一度徳間を見た。今の徳間は隣の席にいる男子と話している。見た限り、やっぱり普段通りで無理をしている感じもない。
「少なくとも私から見た徳間詩音は、演じているという風ではない。そして、適応できている。できてしまっている。だから可能性は二択だよ。あれが彼女の素顔か、素顔になってしまった建前か」
僕は、唾を飲み込んで、佐原さんから目を逸らした。
*
体育祭の日。もう九月なのに、酷く蒸し暑い変な気候だった。僕はもう一か月以上続くもやもやした気持ちを抱えつつ、学校に向かった。
練習通りに行進し、蒸し暑い中をわざわざ直立して校長の話を聞く。若い衆の心身の健全さを表すための文化だというが、やっていることは健康を害しかねぬ蛮行である。それを証明するかのように、二、三人の生徒が看護教諭に肩を借りながら全校生徒の整列からドロップアウトした。そこまでいかずとも、既に満身創痍の顔をした人間が何人もいて僕もその類だった。元気いっぱいの顔をした人間の大半は運動部の者らで、やっぱり体力がものをいうらしい。
僕が必ず出なければならないのは走り幅跳びとクラス対抗の応援対決である。後者に至っては、採点基準も知らされず、ただ元気いっぱいで炎天下の中恥も外聞も捨ててポジティブな言葉であふれたヒットチャートに合わせた奇怪な振り付けを踊り、しかも何を応援しているのか当の僕たちですらよく分かっていない意義不明の種目なのだが、一番配点がでかい。加えて複数の親御さんがカメラを向けてくるのがなお厭だった。記録しないでほしいのだ。
そんな種目は昼休憩の後、すぐに始まる。
僕は昼食を取りながら、覚えきれていない振り付けを頭の中で反芻し、たまに曲の続きが分からなくなって同じメロディーの部分を脳内で延々踊り続けていた。
すると、突然教室の入り口から大きな声が轟いた。
「俺たち二番目だから、裏庭で練習しようぜ!」
そんなふうに応援旗を片手にやる気旺盛な応援団長が、気の狂ったとしか思えないことを言いだして、さらに奇妙なことに、多くの人がそれに賛同しぞろぞろと教室から出ていき始めた。
僕と、僕の隣の佐原さんは断固として席から離れようとしなかった。
「おい。お前らも!」
やがて二人しか残らない教室に向かって応援団長が吠える。ちなみにこの応援団長は僕らよりも一つ年上の三年生のため、僕らのクラスの事情にはもちろん精通していない。
「厭です」佐原さんは平然とそう言った。「休憩時間は休憩時間です」
もっともな発言だった。異論の余地のない完璧なトートロジーである。
「じゃあお前、本番では絶対にミスしないんだな!」
どうして、今の流れから「じゃあ」という接続語が導出できるのか甚だ疑問の残るところだが、ともかくそう言われた佐原さんは、またしても平然と「私は休憩時間に休憩させてもらえないことに文句を言っているだけです。私の踊りの出来栄えまで保証する意図はありません。もっとも、ミスはしませんが」と憎たらしく返した。ちなみに僕は彼女が練習でいつもワンテンポ早く踊っていることを知っているので冷や汗ものだった。
沸点が低いらしい応援団長は、その後も佐原さんに食いかかり、佐原さんは休憩を優先して、喚く先輩を無視して昼食の続きを取り始めた。それがさらに火に油を注いで廊下まで響く音量で応援団長が怒鳴りだし、僕は今が隙だとみて教室から抜けたのだった。
廊下には、クラスメイトがひしめき合っていた。彼らは僕が近づくと、「先輩はいったい何をしているのか?」「あの怒声はなんだ?」と訊いてきたので「佐原」と答えた。たいてい僕のクラスではそれだけ言うと、皆すぐに原因を察するので「またか」とか「あいつホントにさ」みたいな憎み事をぶつくさ零しながら裏庭に歩いて行った。時間を無駄にしないだけあの情熱迸る団長より、僕のクラスメイト達の方が合理的だった。
もちろん練習に参加する気のない僕は、静かに彼らから離れ、屋上に向かった。
申し訳程度にキープアウトの黄色いテープが張られている踊り場を通り、階段を上って、扉のノブに手をかけた時「好きです。付き合ってください」という野太い男子の声が聞こえた。
終わってからやれよそう言うの。ずるいだろ色々。
引き返して、結局人気のない駐輪場に身を隠すことにした。
そして出会った。
「あ」
徳間がいた。彼女は駐輪場の脇にある大きなゴミ捨て用コンテナに寄り添うように、体操座りしていた。僕の咄嗟に出た声に気が付いて、俯いていた彼女がぼやっとした間抜けな顔で僕を見た。そして、数秒僕を見つめた後に、はたと意識が戻ったように驚き、すぐに顔を埋めてしまった。
僕は歩き寄って「何してるの?」と訊いた。
「ほっといて」
と彼女が言うので、僕は目のまえに立ちながら放っておくことにした。数分そうしていると「どっか行って」と言ってきた。僕は彼女を放っている最中なので、発言には取り合わずその場に居た。少し暑かったので、木陰に入ろうと思い、結果的にではあるが徳間の横に座った。
裏庭の方から、応援の練習をしている声が聞こえる。ざわざわとグラウンドの方からは人々の気配が伝わる。屋上を見上げると寄り添う二つの影があった。炎天下の中あれだけ引っ付いたら暑いだろうに。
横にいる人影がかすかに震え出した。痙攣するようなその挙動には見覚えがある。見るとやっぱり泣いていた。ずっと、頭の片隅で覚えきれていない応援ダンスの振り付けがリピートされていたが、それがすっと消えていった。もう必要ないと思ったからだろう。
「徳間、どっかに逃げようか」
徳間は即座に首を振って「駄目だよ」といった。
「僕は逃げるよ」
ぴたりと徳間の肩の震えが止んだ。どんどんドンドンと太鼓の音が聞こえる。聞き馴染みのある音頭は敵組の応援ダンスが始まった合図だった。
「ついてきてほしい」
僕は、そう言って立ち上がると、裏門の塀の上に手をかけた。僕の中学校は外側が用水路でぐるりと囲まれた構造になっているので塀の高さはそこまでない。内側からは案外簡単に出られる。それでも百五十センチくらいはあるので超えるためにはちょっとばかし腕力が入用だった。すると、僕の肩に手が置かれた。
「先私行くから、肩かして」
僕は振り返らず「うん」と答えて、塀の縁から手を離し側面に両の掌を押し付けた。僕の背中から肩にかけて徳間がよじ登っていくのがわかった。そして塀の縁の上に立った彼女はそのまま外側へずるずると落ちていった。次いで、かすかに土を踏む音が聞こえた。用水路の横に着地できたらしい。
そして今度は僕も塀をよじ登った。
*
二人で、静かに学校から離れ、田園を突っ切る真っ直ぐな道路を歩いた。等間隔に並んだ電柱とそれを結ぶ電線がくっきりとした影を落としている。
「目的地は?」
「この街以外」
「歩いていくの?」
「まさか」そう言って、僕はポケットから携帯を出し道順を検索する。「電車に乗るよ」
徳間はきょとんとした。
「なんで持ってるのよ?」
「なんでって、持ってきてたから」
「校則違反じゃん」
徳間が笑いながら言った。
「君は……そっか。学校に置いてきたのか」
「ううん。今日はおじいちゃん家に置いてある。財布も」
それから、徳間の祖父の家に向かった。庭には少しだけ青草が生えてきていたが、それ以外は僕が最後に見た状態のままであった。
駅に着くと、切符を買って隣りの市に行くことにした。一時間に一本しかない五両編成の電車は、ガラガラに空いていて話声の一つすらなかった。時刻を確認した。既に、覚えた振り付けを使う機会は無くなっていた。
電車が発車する。横にいる徳間はずっと静かだった。たまにトンネルをくぐったり、川を跨いだりしながら電車は進む。車窓を抜けた太陽光が、じりじりと項を焦がすように照っている。東を向く僕らは影の中で静かにもぞもぞしたり、携帯を見たりした。
「ここがいい」徳間が外を見ながら言った。「ここで降りよう」
そこは、目的地の手前にある小さな無人駅だった。四方か緑の山に囲まれていて、駅のすぐ横には崖があって、その崖の底から水の流れる音が漏れている。鳥の鳴き声が穏やかに反響している。
「うん。降りよう」
僕らは無人駅で下車すると、無賃乗車を逃すまいと待ち構えている車掌さんに切符を渡した。車掌さんは僕らの格好を一瞬だけ訝しむように見つめたが、結局何も言わずに通してしまった。
駅には小さな自販機と、その横に色の剥がれたベンチが置かれていた。ベンチの足は鉄製で錆びて茶色く変色している。座ると僅かに左右に揺れた。冷たい風が崖に吸い込まれるようにゆっくりと吹き抜けていた。山間で影も濃いこの場所は学校に比べて大きく気温が低いようだった。体操服の長袖だけ着てきたのは正解だった。自販機で買った缶ジュースを飲みながら、どうしようか、と二人で話し合っていると、ゴーンと鐘の音が聞こえた。
「神社が近くにあるんだね」徳間は自分の携帯を見ながら言った。「行ってみようよ」
そうして、直線距離にして二キロ先の山の中腹にある寺院に行ってみることになった。よくこんなところまでアスファルトを敷いてくれたなと感心するほど、山の中にぐねぐねと細い道が伸びている。当然傾斜はそれなりに合って、僕らは殆ど汗だくになりながら歩いた。人の気配が少なくなるほど、どこか心地よかった。歩けば歩くほど正体の分からない焦燥感は消えて行く。
「昔、知的障害の兄ちゃんがいたんだ」
距離だけで言うと半分ほど歩いた時、僕はそう切り出した。徳間は目だけこちらに向けた。
「そう、なんだ」
徳間は軽く息が上がっていて、返事も億劫そうだった。
「家族の中に障害者がいると、二つのパターンに分かれるらしいよ。家族がその子を支え合うために一致団結するか、その逆か。意外にも、前者のパターンの方が多いみたい」
「だろうね。血を分けてるんだもん。嫌いになんて、簡単になれないよ」
「うん。そうだね。でも僕ん家の場合は奇麗に壊れちゃった。母さんもそれでどっか行っちゃった」
僕は項垂れながら続けた。
「僕は、兄ちゃんのことが嫌いだったんだ。でも今思うと少し違ったんだと思う。僕は、兄ちゃんのことが嫌いだったんじゃなくて、兄ちゃんがいない生活に憧れていただけなんだ。……徳間はそういう気分になったことある?」
「あるよ」
徳間は僕と同じように項垂れながら歩いている。ぜーはーと息を荒げながら、足を順調に前と進めている。
「弟が何かしでかすとね、うちの母さん、厳しいんだけどさ、その、私のせいだっていつも言ってくるの。ちっさい頃は、あぁそうなんだ、って、思ってたんだけど、なんかさ、私たちもう十五じゃん?」
「うん」
「気づくよね。他の家はなって」
「そうだね」
「そんで、お父さんはその……あんまし、家族のこととか興味ないみたい」
「つらいね」
「うん。そう。つらいの。いま」
歩いて歩いて歩き続けている。途中から明らかに太陽の光の色が変わった。真っ赤に燃えるような色で僕らの旅路を照らしている。徳間の足元にはぼたぼたと、多分汗が滴っていた。
「でもさ、家族だからって、何でもわかるわけじゃないけど、弟もさ、耐えてるんだよ。私よりずっと小さい子、なんだけどさ」
「うん」
「いい子なんだよ。とっても」
「うん」
「私だけじゃないんだよ。つらいの」
「うん」
「最近、そう気づいたの。遅いんだけど」
「ううん。遅く無いよ。偉いと思う」
「いや」
「偉いよ」
「やめてよ。違うって」
「すごい奴だよ君は。頑張ってる」
徳間は応答しなかった。ただ懸命に、小さく頭を揺らしながら、前へ前へと歩を進めた。
僕らが寺院に着いたのは、そこから三十分立った時だった。境内では近所の小学生が、鬼ごっこをしていた。寺の管理人らしきお爺さんが一人いて、汗だくで登ってきた僕らになぜだか麦茶を寄こしてくれた。「向こうの中学の子だろう? なんでわざわざこんなとこに?」といらんことを聞いてきた。徳間は青息吐息だったので、僕が学校の課外学習だなんだとほら話をして切り抜けようとしたら、お爺さんは大変嬉しそうに寺の宗派だとか、歴史だとか、所縁の偉人だとかの話をはじめてしまい、それでかなりの時間を溶かしてしまった。
僕が老人の対応をしている間、徳間は関係ない風に鬼ごっこをするちびっこを眺めていた。長いまつ毛の先に汗が滴って、瞬きをするたびにそれが頬に落ちている。半開きになった唇は、けれど、血色が悪そうだった。
老人は暗くなる空を見て、僕らを駅まで送ると言ってくれた。僕は横眼で徳間を見た。これは彼女のための逃避行だから、徳間がノーだと言えば僕は老人の好意を断るつもりだった。
「うん。遅いし帰ろうか」
徳間は、やわらかい笑顔と共に言った。
*
「ほんとによかったの?」
電車にガタガタ揺られながら、僕は訊いた。
「よかったもなにも、夜になったら補導されておしまいだよ」
それはその通りだった。学校を抜けだした時から、最終的には帰宅という選択肢を取るしかないことは、子供ながらに合理的な部分で分かっていたのだ。
「でも、今日ぐらい帰らなくてもいいかもしれないね」
そう言う徳間は背後にある車窓から外を眺めている。ぐるりとねじった首と肩の付け根にはやけどをしたような黒い痣がある。ちょっとして、僕がその痣を見ていることに気が付いた彼女はそっと痣を手で隠して薄く笑った。
「変でしょ。生まれつきなんだ」
「ちっとも変じゃないよ」
「そ」
徳間は車窓から顔を離した。電車が短いトンネルに入り、車内が電動のおぼつかない光に包まれる。次に、トンネルを抜けた時の小さな解放感と一緒に彼女が言った。
「君ん家行っていい?」
「いいよ」
「弟と一緒に」
「いいよ」
「あ、でも親はだめって言うよね」
「今日、父さん帰ってこないんだ。それに、家にいたとしても、そりゃ怒ってくるだろうけど、君の意思を尊重すると思う。頭ごなしに追い出したりしないよ。そう言う人だから」
「いいお父さんだ」
「良いかどうかわかんないけど」
電車が次に停車する駅名を告げゆっくりと速度を落とし始めたのを感じて、僕らは立ち上がった。
駅に着いた時、時刻は六時だった。嘘みたいに明るい半月が、山に切り取られた空の中心に浮かんでいて、西の果てはまだ少しピンク色に輝いていた。
駅の裏側にある大きなマンションの四階に彼女の住処がある。僕はその部屋の前まで導かれた。「ちょっとしたら、戻ってくるから」と言って、徳間は扉に吸い込まれた。
僕は手持ち無沙汰にそこに立って、三歩歩いて回れ右を何度も繰り返しながら待った。数分後、扉の向こう側から、少年のものらしき呻き声が聞こえてきた。僕はびっくりして、状況を詳しく捉えようと扉に近づいた。そして運悪く同時に開いた扉と額がゴツリと当たった。
「いっ」
「ぁ、ごめん」
開いたのは徳間だった。
「ちょっと時間かかりそう」
「あ。うん。そう。親は?」
「たぶん、まだ帰ってきてない」
「わかった」
扉が再び閉まる。
また同じところを行ったり来たり歩きながら待つ。刻一刻と時間が経過してゆく。中からは何の音も聞こえない。
今日は親がいないはずだから、とここに来る途中の徳間が言っていた。だから、多分扉の先では暴れる弟と徳間の取っ組み合いか何かが始まっているのかもしれない。
もうさらに数分が経過した。
ドンッ! と扉の内側から何かが衝突した音がした。そして次の瞬間に、
「──────!」
体の空気が抜けるような胃に響く怒声が聞こえた。男性のものだった。ブー、とマナモードにしていた携帯が震えた。扉の中から「痛い!」と叫ぶ少女の声が聞こえて、それがまた男の怒声で掻き消えた。
何か尋常でないことが起きているのは確かで、隣の部屋に住んでいるのだろう若い男性が、扉を開くなり顔を出し、僕の方へと疑念と困惑の入り混じった眼を向けていた。
そして再び、何か叫ぶ男の声。手元の携帯を見た。
『助けて』
徳間から贈られた端的なメッセージを見て、まず思い起こされたのは矢野君の言葉だった。
──お前、壊れてるよ。
壊れてなんかいなかった。ちゃんと怖いし、逃げたい。知らなかっただけだった。人を助けるという行動に、自分が危険になるという条件がつけ足されることで、実際には想像の何倍も足を竦ませるのだ。
でも矢野君の発言と一緒に、僕はあの時の無知な自分の発言も思い出していた。
──関係ない。助けるよ。
足の震えが止まった数秒後、扉の中の声も止んだ。
僕はゆっくりと扉を開いた。自分でも変だと思うくらい頭が冷静で、同時に狂っていた。僕の方にずっと視線を向けていた男性はぎょっとした顔で見てきたと思えば、すぐに部屋に引っ込んだ。
扉は、完全には閉じないようにドアロックを挟んだ。そして、扉の中に目を凝らす。
月明かりが微かに届く薄暗い廊下は青白い。じめじめしていた。ほんのり湿った晩夏の生温い空気が閉じ込められている。シンクで規則正しく弾ける水滴の音。駅から聞こえる停車音。大人の男性の乱れた息遣い。少年の何かをぶつぶつしゃべる声。少女の泣き声。
泣き声。……徳間だ。何処かで泣いている。
僕はじっとそのまま耳を凝らした。その泣き声に何か、微細な違和感があった。反響しているような……そうだ。バスルーム。
すると、キュっと蛇口をひねる音がして、次いでシャワーの音が聞こえた。徳間の泣き声が、小刻みな吃逆みたいなリズムに変わった。僕は足音を立てずに、音源に近づいた。
暗い暗い廊下を歩くと、一箇所だけ照明が点っていた。脱衣所の洗面台だった。その光を頼りに中を覗く。
バスルームの扉を隔てた先に、一人分の巨大な影が立っていた。お腹がぷっくり膨らんだその影は、何かに向かってシャワーの水をかけている。泣き声もそこから聞こえる。そこにいる。
また別の位置では、少年の呟く声が止まらなかった。
多分、いま僕が徳間の所に突っ込んでも何もできない。そう判断すると、僕は少年の声の方に向かった。
リビングの片隅に彼はいた。昼間の徳間と同じように、体操座りで蹲っている。
僕は慎重に近づいて、声をかけた。
「なぁ君」
彼は反応しなかった。よく見るともこもこした耳当てをしている。ああ、これは無駄かもしれない。そう思いつつも、声をかける。
「なぁ」
やはり何の反応を示さない。駄目で元々と肩を揺する。すると、びくりと彼の肩が震え、「あー!」と叫んだ後、顔をさらに丸め込んで、それを腕で囲い込む形になってしまった。
「なぁってば」
僕がもう一度揺らすと今度は彼の呟き声が少し大きくなってしまう。彼は、ずっと何か数字を連呼しているようだった。多分こんな風になるだろうとは思っていた。
蛇口をひねる音がして、シャワーの音が止んだ。ガラガラとバスルームの扉を開きこちらに近づく足音。僕はリビングの小さなソファーの後ろに身を隠した。
「ぁぁ~、もう、たく」
男性が、そんな声をあげながら、テレビ台の下から何か黒くて四角い物を出した。そしてまた、バスルームの方に向かうのかと思ったら、黒い箱を見ながら、何かに気が付いたらしい。
男はチッと舌打ちをして、別の部屋に行った。
僕はひとまず少年をそのままに、徳間のところに向かった。少し焦りに促された足運びになり、転びかけながら、脱衣所に入った。
洗面台の真下の暗がりに、投げ出されるように落ちている体操服に目が向かった。
極めて不快なものが、肺いっぱいに広がる。頭蓋の中でバチバチと稲妻が走った。バスルームの更にバスタブの中から、ツーツー、と歯に息を当てる鋭い音が聞こえる。真っ暗に近い浴室。床には無造作にシャワーヘッドが落ちている。蛇口を締め切っていないらしく、そこからちょろちょろと水が漏れていた。
変な匂いがする。僕はバスルームに足を踏み入れた。足の裏に水の感触。そして、そこまで近くに来て、自分が踏んでいるのが、水だけではないことに気が付いた。足元に視線を凝らす。
血だ。……誰の血?
いや、考えている場合ではない。僕は徳間を見た。下着姿の徳間がバスタブの中で震えていた。自分で自分を抱きしめるように蹲っている。ふっと昔の記憶が蘇ったが一瞬で消えた。
「徳間」
小さく問うと、彼女の震えが止まった。そして音もなく首を小刻みに左右に振りだした。
「大丈夫。全部大丈夫。心配ない」
根拠のない言葉を並べた。そっと彼女の肩に手を置いた。ひんやりとした肌に掌の温度が吸い込まれていく。数秒お互いの動きが止まって、徳間はまた肩を上下しだした。そして、僕の方へ視線を向けた。濡れてべっとりと頬に張り付いた黒髪の隙間から、茶色がかった大きな瞳が覗いた。僕の背後から刺す脱衣所の照明光で、その湿った瞳の美しさがより一層際立った。震える下唇を彼女はぎゅっと上の歯で噛んで、僕を見上げると、額にいっぱいの涙をためた。それから、僕の腰を静かに両手で掴んだ。
「ぁ」
徳間は何かつぶやいた。
僕はそれを聞き逃さないように、聴覚に意識を集中させた。その時、後ろから届いていた照明の光が著しく少なくなった。僕は、はたと危機感と共に振り返ったが、その時には、頭に衝撃が走った。
殴打された。僕は、頭部をバスルームの扉に叩きつけられた。キーン、と大きな耳鳴りがした。ぐにゃりと歪んだ視界の中で、大きく太った男が僕に追撃を入れようとして、横にいた徳間が割り込んできた。徳間が何か叫んでいて、男がそれを煩わしそうに振り払った。
数秒の後、耳鳴りの音が小さくなった。でも、それを埋め足すように徳間の声が大きくて騒がしかった。
立ち上がりかけた僕に、男は蹴りを入れてきた。またしても僕は吹っ飛んで、脱衣所の洗濯機に体をぶつけた。
また耳からキーンと音が鳴りだした。頭がどこにあるのか分からない。
そして頭上から何かが降ってきて、僕の頭頂部にゴチンと当たり床に落ちた。ふらふらした意識の中、それを見た。
デジタルカメラだった。
デジカメ……今日は校庭でたくさん見たデジカメ。違う、家に帰って写真を撮らないと。いや、それも違う。なんだっけ、何かやろうとしてたんじゃなかったか? このデジカメで……あれ?
点灯しているデジカメの端に映る時刻は七時半。二年間、欠かすことなく、毎日午後七時に街の写真を撮り続けてきた。
しまった。今日はまだ撮ってない。遅れてしまったけど、撮らないと。撮らないと。
止まった僕の、時が、無慈悲にでも、進んでいる証明を、残さないと。現在を更新している、あかし。
グラグラする。気分が悪い。なんでこんなに視界が歪んでいるのか。吐き気がする。なんか体が少し濡れている。意味が分からない。イライラする。
横にあったデジカメを手に取って、二階に、上って、それから……。
よろよろと床を張って、進む。頭が痛い。腰も痛い。首に生温かい何かが伝っている気がする。振り子みたいに視界が左右に揺れて定まらない。ちゃんと進んでいるのかもおぼつかない。気持ち悪い。
突然後ろから、蹴り飛ばされたような気がして、次に、冷たい床に頭がぶつかった。どこかから、誰かの泣き叫ぶ声。なんだこれ、フローリングだ。廊下? 僕の家の床は、こんな色だったか。
九十度に曲がった世界の中心で、太った男が、僕を何度も蹴っている。
ひどい奴。誰だろう。分からないけど、デジカメが壊れないように、しないと。僕は身を丸めて、デジカメを抱えた。そしてまたしても、頭に何かがぶつかった。
男が蹴ってきたのかと思ったら、小さな足。小さな少年の足だ。僕の頭は無理矢理向きを変えられて、今度は視界の中心に外に続く扉が見えた。
少年は僕の頭に躓いて、転倒した。しかしまた、すぐに立ち上がると、叫び声をあげながら、扉の方に向かっていくと、押しただけですんなり開いた扉から、外へと走り去っていった。
「にいちゃん。だめだよ、そとに」
ぁ、眠い。少女の泣き声だけが聞こえる。それが耳の中で反響する。雨みたいだ。ざーと、テレビの砂嵐みたいに、ざーと、ひびいた。
*
「好きにしなよ」
投げやりに母に言われた。彼女はリビングのローソファーに凭れながら、足の爪を切っていた。パチパチ、と鋭い音が散発する。夕暮れ。蛍光灯の付いていない屋内。薄暗い。でもなんだか緩んだ気配が充満していた。
「冷蔵庫、空だったよ」と僕が言う。
「ん~、そぉ」
母さんは、財布から千円札を出した。それを、卓上に置いて、ティッシュの箱を上から置いた。
「これでなんか買ってこれば?」
母は僕を見ない。母は僕に触れない。母は自由だ。母にとって僕は存在してもしていなくてもよい。
「二人で?」
「当たり前でしょ、もぉ」
溜息と一緒に言われた言葉は乾燥しきっていて、何も滲んでいない。
横にいる兄が、僕を不思議そうに見つめている。二歳差の兄とは体格が随分違う。僕の身長は彼の肩ぐらいだけれど、精神的身長で言えば、僕は兄の遥か頭上に頭があって、彼より状況を俯瞰できるぐらいには健康児だった。
僕の服の袖を引く兄。何かねだる様な、心配するな、そんな視線。僕はそんな兄が煩わしかった。何も自分で決められない兄が嫌だった。自分は他人に迷惑ばかりかけているくせに、他人ばっかり優先して自分を大切にしない。この人がちょっとはマシな、まともな人だったなら……。
──兄ちゃんがいない生活に憧れていただけなんだ。
ふと、天空から誰かの声がした。僕は上を見上げた。けどそこには疎らに夕日を反射した白い天井しかない。チッチッチッチ、と時計の秒針が鳴る。
「早く行きなよ」
母が急かすように言った。顔は相変わらず、僕らの方を見ない。見てくれない。こっち見て、僕らがいるよ。ここにいるのに、何で見ないの? 母が、無言で自分の足の爪を切っている。パチッパチッ。無関心が突き刺さって、胸が痛かった。
「早く出てきなよ」
怒気を孕んだ声で再び母に言われた。そして、彼女の手元が止まり、搾りかすのように本音が僕らに届いた。
「私から離れてよ」
兄が駆けだした。彼はそのままリビングを出て、外に飛び出す。
「あ」
僕は、手だけを宙ぶらりんに兄の背に向かって伸ばして、でも足を動かして追いかけようとは、ならなかった。体が動かなかった。
空間がぐにゃりと歪んだ。僕はいつの間にか、深夜の家の真っ暗な廊下から、オレンジ色に照らされたリビングを覗いていた。
「だからって、玲は関係ないじゃないか」
久しぶりに帰ってきた父が、母さんに詰め寄っている。母さんは泣いている。ガキみたいに泣いている。それは不思議な光景だった。先生に怒られて思わず涙がこぼれてしまう女児のような、そんな母を見ていると、僕が彼女の腹から生まれて、彼女の庇護下にあって、彼女に世話されてここまで大きくなったのだと、信じられない気持ちになる。
でもきっと、アレが母という生物なのだ。
「じゃあもっと、助けてよ」母さんが、悲しみをねじりこんだ声で言った。「あんた何もしないじゃない。私が悪いの? 全部」
暗い廊下から、兄が飛び出した。何をしているのだろう、あいつ。何処から出てきたのだろう、あいつ。
兄は母のところまで駆けつけると、彼女に被さるように抱き着いた。母さんはそれに構わなかった。受け入れているという様子ではなくて、兄にそうされるのは、自分の当然の権利だと主張している光景に、僕には見えた。
兄は、母さんが好きだったのだ。世界で一番。
また、ぐにゃりと空間が歪んで、僕は視界の全部が黒く染められた場所にいた。いや、違った。父が僕を抱きしめていて、僕はその胸に顔を伏せていた。
「ごめんな。ごめんな。いっぱい、我慢させたな」
父は、そうして何度も謝っていた。上を見た。父の顎が見える。その更に向こう側に、天井につるされた照明がある。ここはリビングだった。机上には父と母の名前が書かれた紙が置いてあって、僕は母がもうこの家には帰ってこないのだな、と悟った。安心と不安と寂しさが同時に体中を駆け巡って、何かにしがみついていないと爆発してしまいそうな気持ちになった。
「ごめんな。ごめんな」
父がずっと、壊れてしまったように何度も呟いた。僕が恐る恐る父の背に腕を回そうとする。僕も抱き着こうと思った。でかい背中。たくましい背中。あったかい背中。頼ることが出来たら、僕はきっと心底から安堵できる。
「ごめんな。歩」
父が兄の名前を零した。僕は腕を止めた。頭が白一色になった。だらりと脱力した。腕が宙ぶらりんになった。父はずっと、僕を抱きしめた。
潰れてしまいそうだ。
また空間がぐにゃりと、歪んだ。
僕は自室にいた。勉強机の引き出しを何となく引いてみる。そこに、祖母からもらったデジタルカメラがあった。僕がうんと小さい頃、家電量販店でねだったら「内緒だよ」と言って、祖母がこっそり買い与えてくれたものだ。もっとも、僕は嬉しくなって母や父に自慢してしまったのを覚えている。父はちょっと複雑そうな顔をしていたが「そうかそうか、よかったな」と言ってくれた。そして、僕は母の方を見て、その表情を見て一言、反射的に言ったのだ。「ごめんなさい」と。
夏の終わりの午後七時。何となく、街の写真を一枚撮影した。出来栄えを見る。
ただの写真だった。
でも、右下に表示された撮影日時が僕を安心させた。日付は、しっかり、次の日もその次の日も更新される。たとえ僕が過去ばかりを見ていたとしても、着々と現在は連続してゆく。どれだけ辛くても、痛くても、死にたくなっても、時間は進む。それだけ。僕のこれからはきっと、それだけの人生。ただ、今を続けるのだ。それだけ、それだけ。
……それだけ? 本当に、それだけ?
僕は階段を下り、カレンダーを見た。父は今日も帰ってこない。でも、夕食の時間だ。
「兄ちゃん。ごはんだけど」
そう言ってから僕の胸に重たくて粘っこい寂しさが宿った。兄は母と同時に家庭から消えたのだ。
これは……僕の、現在だったものの残骸たち。
*
目覚めた。
首を動かそうとしたら、痛くてやめた。風が入ってきている。横にクリーム色のカーテンがあって、天井が真っ白。
目だけ動かすと、横に父がいた。腕を組み、椅子に座って、首を上下に揺らし目を閉じている。
「あ」
と声を出すと、父は、すぐさま跳ね起きて僕を見た。それから、ほっと息を零すと、僕の額に手を置いた。
「ここ、どこ、僕、しゃしん、とらないと」
父にそう伝えると、困ったように破顔した。
「病院」
父は単にそう言った。
「びょういん」
目だけ動かす。点滴の瓶。清潔なベッド。廊下から漏れ出る機械音に、カラカラとカートを押す音。ささやかな人の話し声。穏やかな場所。暖かい。
「びょういん」
僕はしばらく天井を見上げた。そして徐々に頭の奥に、意識が途絶える前の情景が蘇り、すぐに勢いよく上半身を起こした。そして、ずきずきと痛む首と背中の痛みに悶えた。
「おい、こら」
父は慌てて、僕の体を支えた。僕は、荒い息を治めながら、父を見た。
「大丈夫か?」
父は僕の顔を覗き込んでいる。
──大丈夫。全部大丈夫。心配ない。
天空から、声がした。
僕は恐る恐ると言う感じで、父の腰に抱き着いた。
父は戸惑っていた。けど、抱き返してくれた。彼は僕の体を気遣ったのだろう。花を扱うように優しい力だった。
頭にずっとあった黒い霧。度々僕を苦しめた黒い稲妻。それらが、すっと、僕の体から消えていった。戻ってきたんだな、と気づいた。
「ただいま」
僕は、口の中で呟いた。
*
「ありがとうございました。お大事に」
二人の婦警さんはそう言って病室から出て行った。僕は彼女らから今しがた聞いた話を頭から追い出すように、深く息を吐きだした。
厭なことは……忘れていい。
僕が徳間の家で倒れた後、すぐに警官が来たらしい。何でも横に住んでいる住人が通報してくれたのだという。ちょっと前から怪しんでいたというのだから、彼がもう少し早めに通報していれば、僕も徳間も被害が少なくて済んだ気がするのだが、間接的に僕の恩人である人にそんなこと言っては罰が当たる。
僕は心の中で、あの日ひょっこり顔を出していたお兄さんに感謝した。
「検査もろもろ含めて、三週間ね」
婦警さんと入れ替わるように入ってきた、ものぐさそうな医師にそう言われた。無精ひげを生やし、寝ぐせもそのままというありさまの成人男性は見るに堪えない哀愁がある。目の下には隠しきれない隈が走っていた。
「そんなにですか」
「なんだい? もっと居たいの?」
「はい」
「やだよ。学生だろう? 勉強したまえ」
先生はそうすげなく言って、ゆらゆら立ち去った。見た感じ僕よりも不健康そうだった。
それから三週間の間に、まず学校の先生が来た。
先生たちは、体の心配をした後に、学校に戻ったら改めて詳しく話を聞きます、と言い残して、さっさと消えていった。
次に矢野君が来た。
「どうしてきたの?」
「なんだよ、その言い草」
横にある丸い椅子に腰掛けると矢野君は長編漫画一式をベッドの横に置いた。
「くれるの?」
「馬鹿。貸すんだよ。暇してるだろ?」
「うん。ありがと」
「佐原が心配してたぞ」
「冗談でしょ?」
僕が眉根を寄せて訊き返すと、彼は苦笑いしながら息を吐いた。
「そっちか」
「なに、どっち? 何のこと?」
「佐原と賭けをしてたんだよ。佐原が心配してたぞ、って伝えたら、怪しむか喜ぶかって」
「で、君は僕が喜ぶと思ったんだ?」
「浅はかにもな」
「浅はかだね」僕はベッドテーブルの上にある、リンゴを一切れ口に入れた。「というか僕の知らない間に、賭け事をするくらい仲良くなっていたことに驚きだよ」
すると矢野君はちょっと真剣な顔つきになった。
「いや、佐原が心配してたのは本当だぞ」
「え?」
リンゴが喉に突っかかりかけて少し痛かった。
「あいつ数日に一回のペースで俺にお前のこと聞いてくるんだもん。そりゃ来るしかないわな」
「それはつまり、佐原さんの催促がなかったら君は見舞いにすら来なかったと?」
「……そんなわけないだろ」
「ふ~ん。まぁ、別に気にしないけどね」
しかし考えてみれば、佐原さんは関わった人間には意外と親身になるタイプだったし、多分僕と矢野君くらいしか学校で話せる間柄の人間もいないから、心配していたというのも納得できそうではある。もっともそれでいて、僕が怪しむほうに賭けているところが彼女らしいといえばらしい。
「ちなみに何を賭けたの?」
「向こう一年分の給食のデザート」
「結構でかいね」
「甘んじて受け入れるさ」
そこまで言って、矢野君は急にもじもじしだした。そして神妙な顔を作ったと思えば「俺さ、お前に黙ってたことがあるんだよ」と言った。
「お前の兄さんのことで」
「いや、もういいよ」
「え?」
「矢野君がどうしても僕に聞かせたいっていうんなら止めないけど、その話にもう意味はないんじゃないかな」
そう言うと、彼は少し悩まし気に唸った。そして、僕の目をじっと見て、溜息をついた。
「まぁ、野暮だよな」
そして、軽々と腰を持ち上げると「じゃあ、お大事に」と言って出て行った。彼が話そうとしていた内容は、実は、もう僕が知っていることである。
兄がいじめっ子たちによってプールに沈められているのを発見し、すぐさま職員室に駆けこんだ生徒が一人いたらしい。
*
退院前日の夕方。部屋が真っ赤に染まる頃。ノックもなく個室の扉がすっと開いた。病室の扉というのは、本当に余計な音が一切しないせいで、誰かが黙って入ってくるとそれに気づけないことの方が多いのだけれど、今日にいたっては、誰か入ってきたな、というのと同時にそれが誰なのかもなんともなしに分かった。
静かにこちらに歩み寄ってきた徳間は僕の目の前まで来て、一度歩を止めた。そして僕の顔を見ると、ぎこちなく片方の手を挙げた。僕もそれに応じて同じようにした。それから彼女は、丸椅子を僕の横までもっていき、僕と同じ方向を向きながら座った。
「久しぶり、っていうほどでもないか」
彼女はそんなことを言うけれど僕は何だが、久しぶり、というよりか、初めまして、に近い心地がしていた。
「えっと、体は、大丈夫?」
続けてそんなことを聞いてきた。平気だったら入院してないさ、とか軽口をたたくくらいできただろうけれど、流石にそこまでデリカシーが死んでいるわけではない。
「僕は平気だよ」僕が声を出した途端、徳間は安心した様に肩から力を抜いた「君こそどうなんだ?」
「私? 私も全然。健康だよ」
「眠れてないでしょ?」
彼女の目の下にはやっぱり、睡眠不足の跡が残っている。
「まあ、そうかもね」
「どうしてこっち向かないの?」
「それは、君のせいだよ」
「僕が何したってんだよ」
僕は彼女との交流の大半の記憶を一瞬で頭の奥から引っ張り出して精査した。自分で言うのもおかしいのだが、僕は彼女に対して殊更嫌われるようなことを一度しかしていない。けれども、それは当然僕の認識のうえではということになる。僕が意図せずに彼女の琴線に触れた可能性は十分にある。
「僕がいけないことをしたっていうなら、直すよ」
「そういうとこだよ」
彼女は拗ねたように言ってから俯いた。陽が傾き、窓枠の細長い影がのっぺりと床に張り付いた。彼女の黒髪のその幾束かが、西日に照らされてカラメル色に輝いていた。
僕も徳間も黙ってしまい、空気がじわじわと重くなった。僕は、けれど、この沈黙が不愉快なものだとは全く思えなかった。むしろずっと身を置けるのであれば、そうしたいとすら願うほど、静寂が心地よかった。
陽は徐々にその姿を隠してゆく。そして小一時間経過し、空に藍色が滲み始めた時、唐突にしなやかな声が響いた。
「嘘ついたんだ」
「嘘?」
僕は訊き返した。
「首の痣、実は父さんにつけられたの。煙草でぎゅーって」
徳間は掌に何かを押し付ける真似をした。僕は「いいって」と言ってそこに自分の掌を重ねた。動きは止まった。
「ほんとはここまで、関わらせるつもり、無かったんだ」
暗い影の入った彼女の顔は僕の手にじっと視線を注いでいる。唇だけが震えていた。
「欲が出た。一瞬、魔が差したんだ。君を……」
と言って、かすかな吐息が漏れ聞こえた。そして、すっと黙ってしまい。掛け時計の秒針が進むのだけがわかった。徳間は顔をあげて無理やり笑みを作ろうとして、でも失敗したらしい。また同じように俯いた。
「なんか、厭になるね。こういうの」
また静かになった。廊下から『ハリー先生、ハリー先生』とアナウンスが聞こえる。
徳間の腕がだらりと力をなくして、ベッドに落ちた。僕はそれを温め直すように、両手で包んだ。徳間はそれから小さく呟いた。
「ごめ──」
「徳間」
しかし僕が途中で遮る。徳間は虚を突かれて、ようやくこちらを見た。
「僕は、君を許したり許さなかったりする立場じゃない。そういう関係にはなりたくない。それに最後に踏み込んだのは僕だ」
そもそも謝られたり感謝されたり、そう言うものを期待して僕は動いたわけではない。それは断じて違う。僕はひたすら、僕の為に徳間を助けたかっただけなのだ。
「でも」
「でもじゃない」
徳間は出かかった言葉をぐっと飲みこんで、大きく息を吐いた。
「君はさ、優しすぎるんだよ。なんか、ネジが飛んでる」
徳間は諦観交じりに言った。
「誰か彼構わず助けたりしない。人は選ぶよ」
矢野君には格好のいいことを言っていたけど、今なら分かる。
苦しんでいるのが徳間じゃなかったら僕は見捨てる。
ふと、横を見ると徳間が、目を見開いていた。僕は自分の口の失態に気がついて補足する。
「仲間、だからね」
陽がぐんぐん傾いてゆく。部屋が暗くなる。僕はその暗さに心底感謝した。廊下から洩れる白い光が、侵入してきて、ベッドの前の床に一直線の筋を作っていた。
「なんか、鈴原君のくせに偉そうだよね」
毒を抜かれたような声に、僕はほっと胸をなでおろす。
「うん。それでいいよ」
「腹立つ」
「うん」
「ぁ……ぅ……っ……ょ」
「ん? 何? 聞こえない?」
僕は隣にいる影を見た。影は静かに寝息を立ててベッドのフレームに身を預けていた。結局、面会時間が終了するまで僕は影と一緒にいた。
*
学校に戻ると、午前中に限って、今までしゃべったかどうかも覚えていないようなクラスメイトまで僕に心配する声をかけてきた。
「よかった」とか「無事で何より」みたいなことを何度も聞かされた。「気を付けなよ?」という僕の不注意を指摘する声もあった。僕はうっかり自宅の階段で足を滑らして意識を失ったことになっている。先生とか、徳間のおばあちゃんとか、僕の父さんとか、警察の人とか、とにかく関係するほとんどの大人たち、さらに僕と徳間とその弟の間で、外面的にはそうしたほうが良いということになった。どこか遠くの地に、徳間家と縁故ある大人が存在したのなら、そんな手間はなく、徳間は颯爽とこの街から消えて、学校ではしばらくそのことでいろんな憶測や噂が横行し……という、未来になっていたのかもしれない。しかし、実際、徳間とその弟の面倒を見られるのは身内の中で、徳間の母方の祖母しかいなかったらしい。
僕が学校に戻った日の翌日、風邪をひいてお休みしていた佐原さんも教室に戻ってきた。そして、僕に関する諸々の事情をすでに知っている彼女は、愉快そうにこちらを見た。
「何?」
「ヘ~、足滑っちゃったんだ」
「まあ、そうだね」
「階段からねぇ」
「そうだね」
「ふ~ん。気を失っちゃう程って、だいぶ打ちどころが悪かったんだね。滅多に聞かないよ?」
「え、そうなの? たまにあるって聞い……」
あ、嵌められた。佐原さんは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「まあね、そう言うこともあるよね、うっかり足滑らして気を失ってね。たまたま同じ時に徳間さんもお休みしてね」
「偶然ね」
「同じタイミングで体育祭を抜け出してね」
クラス内では、徳間が体育祭を抜け出したことは周知されているが、そこに僕が同行したことは矢野君と佐原さんと教師たち以外気づかなかった。僕の影の薄さが功を奏したのだが、悲しくないと言えば嘘になる。
「偶然、ね」
僕は諦めの籠った声で言った。
佐原さんはニタニタしている。表情が豊かになったようで何よりだ。けれど、そこからすっと意地の悪い笑みをひっこめて言った。
「ま、結果オーライってやつだ。でも無理はいけないよ」
「あ、うん。そうだね」
僕は、そう返して日常に戻った。佐原さんは相変わらずオートマチックに善意の人だった。
*
十月の中旬。午前十時。
街の北側に、一つだけのっぺりと綺麗なマンションがある。廊下の道幅が広かったり、エントランスが広々としていたりするのは老体が多く住むことを見越しての配慮なのだと思われた。
そのマンションの二階に、澤本、と表札のかかった部屋がある。
僕はその部屋のインターホンのボタンを、短い深呼吸の後に押した。暫く待っていると、応対する声もなく扉が開いた。
「おはよう」
僕が言う。
「……はよ」
相対する相手は、首の後ろに手を回して僕から目を逸らした。
「眠いの?」
「それもあるけど……なんかちょっと早くない?」
「そうかな」
「うん。早いよ」
徳間はようやく僕の目を見た。
「ちょっと待ってて」
「なんだ君、まだ準備してなかったの?」
「うっさいな。色々あんだよ。いいから黙って待ってろ馬鹿」
扉が勢い良くしまった。扉の向こうから「おばぁ~ちゃ~ん?」と平和な声が聞こえた。
馬鹿な僕はとりあえず通路の端っこにしゃがみこんで、徳間が再び出てくるのを待った。すると、間もなく扉が開いた。彼女かと思えば、少年の顔がすっと出てきた。僕と少年は互いに見つめ合う。それはアイコンタクトというより、もっと原始的な腹の探り合いだった。
そして、僕に危険がないと判断したのか、少年は近づいてきて僕の横にしゃがみこんだ。彼の手には先の丸まった鉛筆と、使い古されたスケッチブックがある。絵を描いているようだった。
僕は目だけでその絵を覗き、あまりの完成度に脱帽した。上手いとかではなくて、情景をそのまま紙の上に乗せたみたいに、彼は現実を写し取っていた。でも、同時にすごいだけの絵で、面白みとかテーマ性があるわけでもないのだと気が付く。あくまでそれは、究極の模写、だった。
すると、彼がこちらを見てきて、目が合った。少年は慌てて眼を逸らす。それが何度も続いて、僕は何となく彼がしたい事を察し、それからはずっと扉の表札を眺めた。
隣から、鉛筆を走らせる音がする。
二十分ぐらいしたとき、服装ががらりと変わった徳間が扉から出てきて、僕と僕の隣の少年を見た。それから物珍しそうに、眉を上げた。
「……琉星も来る?」
少年からの応答はなかった。
「聞こえてないな」
「だね」
徳間は僕と反対側にしゃがんだ。僕と彼女が少年を挟み込む形になる。少年は最初は僕の方をじっと見つめていたけど、途中からはずっと紙しか見ていなかった。徳間は少年の手元を見て、次には僕の顔を見て、薄く奇麗な笑みを向けた。
少年は仕事を終えたようで、さっと顔を上げた。そして、気づかぬうちに隣にいた徳間に肩を驚かせて逃げるように扉の中へと逃げて行った。
「じゃあ、行こっか」
そうして僕らは立ち上がった。
*
「ねぇ、携帯貸してよ」
ロープウェイに乗り、黙って揺られていると、徳間にそうせがまれた。
「なんでさ」
「私携帯変えたの。連絡取れないでしょ?」
「機種変しただけだろ?」
「ううん。電話番号とかもまるっきり変わってる。前のやつ、私のじゃなくて、じいちゃんのだし」
「おじいさんの? なんで?」
「私ん家、携帯持つの禁止だったから、おじいちゃんにこっそり作ってもらってたの」
「そうなんだ。よくバレなかったね」
僕はそう言って、すごすごとポケットをまさぐり携帯を探した。
「携帯もそうだけど、見つかっちゃ困るものは全部、おじいちゃんの家に隠してた」
「なるほど。宝箱って、そういう意味だったんだ」
僕がそう言うと、徳間は「半分はね」と、歯切れの悪いことを言って僕が差し出していた携帯を手に取った。
「残り半分は?」
「秘密」
ロープウェイが止まり、自動ドアがガタンと音を立てて開いた。急激に冷やされた空気が僕らの頬を殴った。
僕らは腕をさすりながら、ロープウェイから降り立った。
「馬鹿寒い。もっと着込んでこればよかった」
「だから言ったんだ。もっと着込むべきだって」
「だっておばあちゃん家、いい服ないんだもん」
「すぐに終わるんだから、服装とか気にしなくていいだろ」
「わかってないなぁ」
徳間は頭痛に悩むように首を左右に振った。
「何が?」
「言ってもわかんないよ。……あ、なんかあそこ暖房ついてそう。入ろ入ろ」
徳間がそう言って指さしたのは、ロープウェイの停車場に敷設されている喫茶店だった。外から見てみると、中にいる人達がアウターを脱いでいることから、確かに高確率で暖房の効いた温かい室内であろうということは推察できる。
「すぐ終わるんだから」
僕は徳間の提案を否定して、先に進んだ。
「ちょっとじゃん。暖まってからでも遅くないよ。午後になって日が昇ったら少しは暖かくなるだろうし」
「午後には雨降るらしいよ」
「予報はすぐ嘘つくから」
「予報じゃなくて、君は嵐女だからね」
徳間は言葉を失ってしまい、黙って僕についてくるようになった。
山から突き出るように設営された木造のテラス。その手すりの部分にポツンと黒い塊が引っ付いている。それが何かと言うと、高解像度の天体用カメラである。
四郷中学校には二学期末にクラス単位で別々の実験をして発表する、クラス実験という制度が存在する。僕らの教室では皆が手間のかからなそうなテーマを出し合い、検討を重ねた末に、天体観測を行うことに決定した。肝心の方法だが、まず見晴らしの良い山の中腹にカメラを設置し、それをフルオートで一週間起動させ続けるというかなり強引な手法を用いることになった。色々苦心してカメラの設定をしたり、場所の使用許可を取ったりと、面倒くさいことはすべて理科教員がやってくれたので、もはやクラス発表でも何でない。
そんな苦労の産物であるカメラは理科係の徳間が回収することになった。そして、一人で行くのも癪なのか、僕が付き人として招集されたというのが今日の経緯である。
近づいてみると雨よけのシートの下で巨大なモバイルバッテリーが唸りをあげている。壊れているんじゃないか、とわずかに疑う。
「待って。順序通りに作業しないとデータ吹っ飛ぶんだって」
徳間はポケットから四つ折りにしたA4用紙を取り出した。多分、手順とかが書いてあるのだろう。
それから、二人でカチコチに手を冷やしながら作業をして、十五分で撤去は完了した。
「重た。一人で来なくてよかったぁ」
徳間は少しだけカメラを持ち上げてみて、一言零した。
「そうだね」
僕も大きめの段ボールに入ったバッテリーを持ち上げて、つくづく同じことを思った。
ふと、頭の後ろから風が殴りつけてくる。徳間の髪が乱暴に押し付けられた習字の筆みたく、ぶわっと広がった。
「わぁっ」と本気で嫌がる声を出しながら、徳間は髪の毛を抑えた。僕はそんな彼女の姿と、その先に広がる四郷町を見つめ、その眩しさに目を細めた。目に焼き付けるにしては余りにも晴天の下に広がる故郷は煌めきすぎていた。
切り取っておきたい。
そう思って、懐にあったデジカメを取り出し、ピントを合わせ、シャッターを切った。
シャッター音に気づいた徳間が髪を抑えながら振り向いた。そこでもう一度シャッターを切った。
徳間は「ちょっと!」と、驚きと怒りの滲んだ声を出した。そして、ずんずんと音がしそうな足取りでこちらに近づいてきた。僕はそれを目の端っこの方で把握しながら、デジカメに表示された写真に見惚れていた。
「いきなりはやめてよ。よくないよ。絶対髪ぶわってなってたし、ねぇ」
徳間の声は聞こえていた。風がビュウビュウ吹いていて、鳥だって鳴いていて、ロープウェイの稼働音だってあるのに、徳間の声はいつも僕にとっては最優先で聞こえてくる。
「ねぇ! ……ねえってば」
徳間の語気が弱まった。僕はそれを不思議に思いながら、それでも写真を見ていた。ピントはちゃんと合わせて、ブレもない。古いデジカメだから解像度とかは良いとも悪いともつかないんだけど、ともかく、しっかりと撮ったのだ。ちゃんとした写真だった。でも、視界が滲んでしまって、それ以上のことは言えない。さりとて奇麗な写真だ。これだけは間違いない。
「え、どうしたの? そんなきついこと言った? めっちゃ厭ってわけじゃないよ? 急だったからさ」
徳間は慌てた様子で捲し立てると、僕の目の前でそわそわと忙しなく腕を上げたり下げたりし出した。そんな顔も今は満足に把握できない。歪んだ体の輪郭がどうしたらいいのか分からないといった具合に不規則に揺れている。
僕はたまらず、デジカメを胸に抱えてしゃがみこんだ。徳間も同様に僕の横に身を屈ませた。
「ねえ、ホントに気にしてないよ? 私」
そうして、頓珍漢なことを言ってくる。僕は首を左右に振った。
「大丈夫だよ」
それでもやっぱり、徳間は僕の不可解な挙動の原因を推し量れない様子だった。宝物を扱うような繊細な声で、ずっと「大丈夫」を言い続けた。
僕の涙は、目からこぼれた瞬間、急速にその温度を失くす。僕はその涙の全てがただどこかに吸い込まれて行ってしまうことの、勿体なさをひたすら感じていた。いずれは消え失せてしまうものでも、氷柱のように、少しだけでもとどまってくれたなら、と思わずにはいられないのだった。
了