今日語るのは私の家族のお話である。五人と一匹のお話である。他人の家族など興味のない読者諸兄らもいるだろうが安心されたし。我が一家はこれで中々ユニークであって、ちょっと他では見ないような物珍しい話も沢山あるので、損はさせまい。だが、読んだ人の人生観を百八十度転換させるようなあまりにもな期待はそれはそれで問題である。所詮は他人の家族の話。それでも知人との話の種くらいにはなるであろうから、そう力まず、軽い気持ちで読んでいただけたら幸いである。
「裕一兄ちゃん起きなさい!」
惰眠貪る我が至福の朝を破ったのは妹であった。冬の凍てつく寒さの中、布団を引っペがして起床を促すなど、偉大なる長兄としての私に対する仕打ちではあるまい。
「起こすならもっと優しく起こしてくれ」
精一杯の抵抗で言ったが、無駄であった。
「何言ってんの。大学生になってまで、一人で起きられないのがまずおかしいのよ。それでもこうやって起こしてやってるんだからお兄ちゃんに必要なのはまず第一に感謝でしょう?」
剣幕凄まじく、到底太刀打ち出来そうにないのでひとまず謝罪した。それから再三感謝を述べる。どちらもちゃんとベッドから降り、立ち上がって言った。それでようやく納得がいったのか、部屋を出て、我が妹は階段を降りていった。降り際には一言。
「朝ごはんもう出来てるから」
我が妹はまだ中学生ながらもこれで中々恐ろしいところがある。口の達者さもそうであるが、やはり第一は母を懐柔している点であろう。我が家の家計および権力の大部分を掌握する母を味方につけているのは何より厄介極まりなく、下手に攻撃をしようものならすぐさま母に泣きつこうとする。母は母で妹に甘い事実があり、この卑劣な手段には私だけでなく、父まで詮方無いようで、よく手を焼いている。そんな好き放題の妹にも天敵はいるようで、一家で唯一、私の弟であり、妹の兄でもある拓夢だけには敵わない。弟は皮肉屋で、いつも物憂げに何かを見つめている。詩と数学が好きという変わった趣味をしている。現在高校生であるが、学校にはあまり真面目ではなく、平日も家にいることが多々ある。が、学業成績は非常に良く、万事器用にこなすので誰も文句を言ったりはしない。流石の妹も彼にはまるで口喧嘩に勝てず、昔はよく泣かされていた。今でもそのトラウマがあるのか、長兄相手にする際の挑戦的な態度は弟の前ではとる素振りすらない。が、弟も母には弱いので、いつまでこの有利が続くのかはわかったものでは無い。
妹は中学生ながらに、かつて兄が悪戦苦闘した微積分を軽く解いては兄を馬鹿にする鬼才である。最近は小生意気にも拍車がかかってふてぶてしいことこの上ない。
「大体お兄ちゃんは学力も生活力も想像力も足りないのよ」
握力と速力では負けん、そう言ったら鼻で笑われた。でもこれで中々兄思いなところもある。憎み切れない所以である。一年前、兄が第一志望の大学に落ちた時などは、徹底的に馬鹿にしてくる父と弟を余所にこの妹だけが庇ってくれた。
「あんまり言うと可哀そうよ。勉強の邪魔をしてた私たちにも責任はあるわ」
また、息子の大学不合格を一家の誰よりも残念に思っていた母には、そっとこのように言ったそうである。
「国立になら私が行くから、お兄ちゃんにはあんまり冷たくしてやらないであげて」
母は別段そんなつもりはなかったそうだが、妹がこんなことを言っていた、と兄は後で母から聞いた。
他にも、案外可愛らしいところがある。甘いもの、特にケーキにはめっぽう弱く、一切れケーキを渡してやると、父にも母にも勇猛に立ち向かってくれるのだ。学期終わり、家で学校の成績についての話題が上りそうな際などはよくこの妹を買収した。頼もしい味方である。
階段を降りると、リビングの食卓には一匹以外勢ぞろいであった。長方形型の最大八人掛けのテーブルには妹と弟が並んで席に着き、その向かいには母。父は一人、誕生日席で豪快に足を広げている。
「祐一、おはようさん。ようやっと起きたか」
風貌、態度に見合った大声で言ったのはやはり父である。おはよう、と軽く返すも、父の表情は不満そうだ。腹から声を出せとでも言いたげである。だが感情があまり持続しない父である(これは父の美点であり、欠点でもある)。すぐにさっきまでしていたらしい話に戻った。
「拓夢よ。父さんはな、徹頭徹尾の初志貫徹こそがこれからの日本には必要だと思うのだ。これは何も古臭い懐古趣味では決してないぞ」
「いやいや、父さん。個人が一国を憂慮するのが、そもそも前時代的だと言っているんだ。敢えてその精神を必要とするならば、それは世界にとっての必要だね」
朝から白熱しすぎである。特に父、声が大きい。女性陣から嫌な空気が流れている。朝ごはんは一体どこへ行った。
「全く拓夢は飛躍がすぎるな。もっと過去の賢者に学ぶを知らねば成長はないぞ。お前が好きな詩や小説だってそうじゃあないか。母さんは一体どう思う?」
母はニコニコ、味噌汁を飲み干し、そして言った。
「どうだって良いわ」
これには父も弟も黙った。妹だけが澄ました顔で首肯している。私は黙って白米をかきこみ、それからお茶を一気に飲んで、リビングを後にした。今日は大学に行かねばならぬ。
父は今年で五十一歳になる。大手の貿易会社のお偉方で、日本にイージス艦を持ち込んだのは俺の仕事だったと明らかな嘘を誇っている。会社での立場と違って家での立場は限りなく低い。晩飯の優先権が猫の方にあるくらいである。
「我が家の大黒柱が、今帰ったぞ」
大声で言うが返事はない。時たま母だけが返事をする。夜、家に帰っても、家族は猫の餌やりに夢中なことが何度もあった。そういう時は持ち前の気迫も消え去り、背中を丸めてしょんぼりしている。話しかけるとたちまち元気になる。この調子だと案外会社でも年下の部下たちに顎で使われてなどしているのかも知れない。常々、男は寡黙でなきゃいかんと語るが、本人おしゃべりである。聞いてもいないことを延々と語る。男は寡黙でなきゃいかんはかれこれ二十回以上は聞いている。それを指摘するとたちまち機嫌を悪くするのがいつもである。酒が入ると少々気が大きくなる。夜中に帰ってきて、会社の付き合いでいったキャバクラの何が悪いと母に向かって大いにはりきるが、次の日には青い顔をしている。会社へ出る前、母に会わぬようにコソコソとし、それとなく母さんの機嫌を伺っておいてくれ、と息子に平気で頼む。自分の分の弁当がきちんと作られていることにほっと胸を撫で下ろし、玄関で元気よく行ってきますと叫ぶ。繰り返し言うが、父は今年で五十一歳になる。
だが、かと言って我が家はかかあ天下でもなければ、子供が王様然と振舞っている訳でも決してない。大事なところでは大黒柱である父がしっかりと一家の中心を担っている。家族全員、その実、父を信頼し敬っているので、だからこその平生の態度なのである。そして父もその尊敬を知っているから決して暴れたりはしないのである。
母は今年で何歳になるか、書こうと思ったが止められた。乙女の秘密だそうである。その年になってまで乙女だなんて、馬鹿な話があるもんかと半笑いで言ったらしゅんとして項垂れた。睨まれるより数倍厄介である。乙女であるかは置いておいて、実際、大学生の息子がいるとは信じられぬほどに若々しく、贔屓目なしに美人と言ってよろしい。我が家で一番品がある。間違っても父や妹のように口汚い言葉を吐いたりはしない。若さの秘訣を人に聞かれて、大体いつも笑顔と答える。すぐに笑うが、同じくらいすぐに泣く。感動系の映画やドラマで泣かなかった試しがない。基本穏やかで、誰に対しても物腰柔らかく優しいが、父に対してだけはかなりの我儘である。父は父でそれを面倒に思うどころか、どこか光栄に感じている節がある。なまじ母の他人への優しい態度を見ているためであろう。この女は自分の前でだけは我儘を言えるのだろうと決めてかかり、一人ドラマの中に入ったかのように暴走している。自分が中年太りの五十一歳であることを忘れて、「待たせたね、マイハニー」と当人たち以外苦笑いのキザなことをやり始める始末である。母も母で満更でもなく手を叩いて微笑むのでどうしようもない。子供たちは皆見て見ぬふりを続けている。
「母さん。やっぱり俺はあんたと結婚するために生まれてきたんだ。さあ、どうぞ手を取って、今夜は一緒に踊りましょう」
「まあ、うれしいことを言ってくださるのね。私も同じ気持ちだわ。きっとこれは運命なのよ」
こういった小芝居をシラフでやり始めることすらある。スピーカーで円舞曲を流し始め、いよいよだと思った。この時ばかりはもうこの馬鹿夫婦を見ていられず、兄弟たちの代表としてせめてリビングからは出て行ってくれと注意した。それ以来リビングで踊りだすような事態は無くなった。ひとまずの安心。
大学へ行って帰って、十七時であった。キッチンの流し台に朝の洗い物が残っていた。我が家ではその日最も寝坊助な人間が朝ごはんの片付けをやるのだった。母好きの妹の提案であり、人が良い母は自分がやるのが一番効率が良いと反対したが、「こういうドキドキがあった方が皆も早起きになるわ」という妹の詭弁により、簡単に籠絡された。そしてその不利益は私がいつも被る羽目になっており、朝ごはんの後、茶碗や大皿やコップや箸をゴシゴシと洗う。そうして私はいつしか皿洗いの達人とまでなった。「皿洗いには早く終わらせるコツがあるんだ」と、余りにそれを吹き散らしたせいで、近頃は夕食の皿洗いまで任され始めた。あまりにトントン拍子に事が進んだので、母も、実は妹と手を組んで、長兄に皿洗いを全部押しつけようとしているのではないかと一瞬、疑念を抱いたが、皿洗いを終える度に「ありがとう」と微笑みかけてくる母の姿を見るとそんな疑念は全く消え去るのであった。
皿を洗い終えると、ニャーという鳴き声が聞こえた。階段の方から聞こえて来たので目をやると、我が家のアイドル、メロちゃんである。メロちゃんは真っ白な毛がふわふわと生えたペルシャ猫で、とにかくマイペースな性格をしている。我が家へは五年前にやって来た。父と母がいつの間にやら飼うことを決めていて、私には何の相談もなく家族の一員となった。が、可愛いので良しとした。いたずら好きでコップやらペンやらをテーブルから落とすのも、昼寝中、身体に乗ってきて睡眠の妨害をしてくるのも可愛いから特別に良しとした。母によく懐いており、その次に妹に懐いている。なんだ、猫のくせに色気づいていやがると思ったら、そもそも雌猫であった。父と私には一向に懐かず、抱っこすら断固拒否の姿勢である。けれども弟には時折、頭を撫でつけ甘えているので、やっぱり色気づいていやがるのかもしれない。腹立たしいが、真相は分からぬ。我々には猫の心など知る由もないのだ。とにかく、それら全部をひっくるめても可愛いので良しである。問題はあまりにも可愛すぎるところの方にあるくらいだ。
見た目の話をすれば、ここだけの話、我が家は中々な美形家族である。母は言わずもがな、父も昔は痩せていて、美男子とまでは言い切れぬが、ともかくそれなりであった。弟も妹もその傾向があり、その手の話を挙げればキリがない。特に弟は顔が良く、背が高く、頭も良いので隙がない。儚げな雰囲気から来る妙な色気まで備えている。同じ親から生まれたはずが、一体どうしてこうなった。その手の話に縁がないのは長兄だけである。冗談交じりに「お前らが俺のモテ運を吸い取ったんだ」と言ったら白い眼で見られた。なぜ長兄だけが女に全く縁がないのか。妹曰く、「お兄ちゃんには雰囲気がないわね」また弟曰く、「兄さんはいい人すぎるよ」
二人とも嘲笑交じりであった。多少惨めな気持ちになったが、しかし兄はこれしきのことで挫けたりはせぬ。何故ならば、三年前、彼女欲しさに参拝した伊勢神宮にて、「色恋沙汰に拘泥するような人間になるな」と神様から言われた気がするからである。このことを言ったら、二人ともにげんなりとされた。全く冗談の通じぬやつらである。ちなみにこの兄が唯一本当に挫けたのは去年のバレンタインデーの日だけである。その日はチョコレートを貰わなかった。何ら問題はなく、家に帰ると、弟が大量に貰ったチョコレートを机に広げ、食べきれないからと家族皆に勧めていた。これも全く問題ではなかった。すると、帰ってきた私にチョコレートの影すらないのを認めた弟と妹がからかってきた。これすらも問題はなかったのだが、それを見咎めた母の顔が駄目だった。混じりけのない哀れみと心配の瞳が駄目であった。私は思わず、道化を演じた。おどけた調子で言ってやった。
「何がバレンタインだ。皆してマーケティング戦略に騙されやがって!」
弟と妹は笑っていたが、母の顔は見れなかった。
以上が苦い思い出の話である。今はもう克服し、弟の貰ったチョコレートをもぐもぐと頬張っている。
メロちゃんの捕獲に失敗したので、大人しく自分の部屋に戻ることにした。階段を上って、廊下の突き当りの右が私の部屋である。その手前には弟の部屋があって、彼は私が階段を上り終えたと同時に部屋から出てきたようである。
「ちょうどよかった。兄さん、この本を読んでみてくれ。僕的には中々良かった本なんだ」
「思想性には富んでいるのか?」
「好きだねぇ、兄さんも。そんな読み方じゃそのうち胃もたれしてくるよ」
弟はそう言って笑った。胃もたれか。むしろ望むところである。挑戦的な目つきを向けてやった。
「言って聞く人じゃないからなぁ。まぁ多分大丈夫だと思うよ」
弟は半ば呆れたように階段を下りて行った。階段の降り方までちょっと気取っている。
下の方からはうっすらとメロちゃんの甘えるような声がした。
皮肉屋の弟はその実一番のロマンチストで、先日自分の書いた小説の一節が思いがけず、家族中で披露された時などは「ロマンチシズムはどうも僕には描きづらいな」と言いながら、顔を赤くしていた。それでも平静を装い、足を組みながら、優雅に紅茶を飲む姿はやっぱり堂に入っていてキザだった。さすがに我が家の兄弟たちは皆役者である。一家中に知れ渡った小説の一節は概ねこんな具合であった。
無情なる運命。抗うは若人の特権。結末は誰も知らず。
いよいよ明日である。ローデンベルクは、村から旅立たねばならぬ。全ては己の野望のためである。だから家族との別れも、友人たちとの別れにも後悔はないが、一つだけ、この村に心残りがあった。そしてそれは彼の野望そのものであった。ローデンベルクは聡明で活発な勇気溢れる少年であったが、色恋沙汰になると全く駄目で、だから、今日の今日まで彼女には黙って村を出ようと決めていたのだが、それが何故だろうか。いつの間にかリーンベルの横に腰を下ろし、自分の胸中をポロポロと語っていた。まだ肌寒い春先の日中。それでも太陽の日差しが暖かい。そんな日のことであった。
ローデンベルクは立ち上がり、両手を広げて少年じみた夢を語った。その間、リーンベルはそっと頬杖を突きながら、優しくじっと微笑んでいた。
「僕は文筆家として名を揚げ、ウテンペルグに立派な家を買います。そうしてあなたを迎え入れて、何もかもが不自由のない新しい生活を送りたいのだと、そう先程決心しました」
「そうね。それはさぞ良いことだわ」
リーンベルはそんなこと別に叶わなくったって、二人一緒なら構わないわ、と言いかけた言葉を飲み込んで、いよいよ微笑みは笑顔になった。ローデンベルクも彼女の笑顔に気恥ずかしくなり、自分の想いが全部見透かされたような気さえして、これまた思わず笑顔になるのだった。二人の間の何とも言えぬ暖かい空気。二人はこういった慈しみが永遠に続いたならば! とそう願わずにはいられなかった。
母は「素敵ね」と微笑み、妹は馬鹿じゃないのという言葉を飲み込んで「現実じゃ有り得ないわね」と呆れるように口にした。父は大いに感銘を受け、「続きはないのか」としつこく弟に催促したが、もっともこれが一番弟をきまり悪くさせたようである。私はというと我が弟の文章の妙にちょっと尊敬の念を抱いていた。見直したと言っても良い。平生、創作物のあれこれを色々と批評するだけはあるもんだ。荒は目立つが、中々に読んで良かった。普段は見れない弟の仮面の下が覗き見れたような気がして愉快でもあった。
この一件以来、私は弟が勧めてくれた本は余すところなく読んでいる。全部が全部に心を打たれたわけではないが、それでもかなりの高打率である。我が家では活字アレルギーの父以外は、皆よく本を読む。母は日本の純文学、妹はミステリー小説、そうして長兄はライトノベルに各々の専門を持っている。弟だけが唯一雑食である。大概の本を最後までちゃんと読んでいる。好き嫌いが激しすぎて、ミステリー以外はほとんど読めぬ妹とは大違いである。そうしてそれぞれが、良かった本を互いに勧めあうのだが、何故だが私にはこの弟の勧める本が一番刺さる。
「僕は雑食に見えるかも分からないが、本を読む際は、自分の中での確固たる基準があるんだ。そうだなぁ、いや、兄さんたちには、どうせ理解されないだろうから結構だ」
いつか弟の言っていたこのうざったい言葉の意味が、近頃は理解できつつあるのが恐ろしい。そろそろ兄としての威厳を取り戻すべく、奴にはライトノベルを読ませなきゃならん。
ついさっきあんなことを語った矢先で、非常に言いづらくはあるのだが、今日弟から借りた本は珍しくいまいちだった。主人公の卑屈に飛躍がなくて、半分ほど読んだばかりで投げ出してしまった。現実への呪いと祈りはもうたくさんである。文句をつけてやろうと部屋から出ると、向かいの部屋からはピアノの音色。いつの間にやら妹が帰宅していた。耳を澄ますとどうやらこれはモーツァルトだな。コンコンと扉をノックしてから言ってやった。
「妹よ。モーツァルトとはいなせだねぇ」
「何を言ってんの。これはショパンの練習曲第十二番。分からないなら知ったかぶりするんじゃなくて、黙っておくことね。馬鹿を晒したって良いことなんか一つもないわよ」
呆れとイライラの混じった声で兄はあっさりと撃沈である。相変わらず、言葉に棘を含ませるのが上手なようで、兄はとぼとぼ退散した。いったい兄が何をしたというのか。一家で唯一楽器ができない。父と妹はピアノ、母と弟はバイオリンを、時折、優雅に弾いている。兄は学校で習ったリコーダーと鍵盤ハーモニカで対抗するが、大体いつも徒労に終わる。なぜ自分だけがピアノやらを習わせてもらえなかったのかを母に問い詰めたことがあるが、現実は残酷であった。何か特別な事情なりがあるのだと思ったら、ピアノスクールの一日目、レッスンが終わって家へ帰ると、もう二度と行きたくないの大号泣だったそうである。これにはさすがに泣きに泣いた。幼少期の己を恨みに恨んだ。
言いすぎである。もちろん涙は出なかったし、そもそも恨んだ二秒後にはけろっとしていた。根本的に音楽への興味が欠けているのだ。というわけで妹から罵倒を浴びせられたのも束の間、鼻歌交じりに階段を下りた。
前述の通り、長兄は妹に侮られている。そしてそれは父も同様のようである。父と接する際の妹の態度には、長兄に対しているときほどではないにせよ、ずいぶんな侮りがある。悪態をつくことは無論、他にも、父が妹の茶碗に飯をよそったり、コップに水を注いでやったりすることはあれど、その逆は未だかつてないなど、細かいところでも色々ある。父も父で、私や弟には大変な剛毅であるのに、我が家の女連中には何も言えないのが情けない。好き勝手言えるのは、せいぜい酒が入った時ばかりで、その時だけは母にも妹にも物怖じしないのだが、次の日には顔色を窺っているので世話がない。これが一家の棟梁と自ら自負する男の姿なのか。自分の娘にいいようにされ、常に優位を取られている。それでも、妹があまりにも酷いいたずらや、心無い言動を自分以外の家族や他人にしたときはきちんと叱る。すると妹も不貞腐れたような素振り一つ見せず、反省の意を示して謝罪する。
「自分の行いが悪かったことを認めます。お父さんにも迷惑かけてごめんなさい」
「うむ。以後このようなことがないようにな」
そうしてすぐさま元の関係に戻るのである。さっぱりしていて、良い親子関係だなと思う。
一階では夕食の用意がもうほとんど済んでいた。サラダの盛り付けをやりながら、母と弟が談笑していた。特にこちらを気にする素振りもないので、私はソファーに倒れこみ、スマホ片手に二人の話を聞いていた。
「今日はね母さん、家でプルーストを読んでたんだ。後で詳しく話すけど、西欧文学はやっぱり面白いね。それと比べたら、学校の授業なんか退屈なだけだよ」
「まぁ、それは素晴らしいことだわ。後が楽しみね。でもあんまり学校をサボっちゃ駄目よ。高校生活も今年で最後なんだから楽しまないともったいないわ」
それにしてもこの弟、普段はどこかシニカルなのに母の前でだけはやけに素直である。滔々と母に何かを語る際の弟は、相変わらず態度は落ち着いているが、目がキラキラと輝いている。これも母の人徳が為せる業であろうか。思えば昔から、母は弟を特別扱いしなかった。特別できる自分の息子を、だからどうこうしようなんて考えが全くもってなかったのだ。周りが何と言おうとも、変わらず息子を愛し続けた。尊重の仕方も変わらなかった。そしてそれは、今でも全く変わっていない。父と妹の持つ親子関係とはまた別の形の親子関係がここにあった。
父の帰宅でいよいよ夕食の時間になった。この家庭の食卓はテレビがなくとも騒がしい。特に夕食の時間は朝は比較的静寂を望む母と妹もおしゃべりなので余計である。今宵の話のメインテーマは朝ごはんには米とパンのどちらが良いかというくだらない論争で、実際、白熱する我々四人を余所に、弟だけは、くだらぬ舌戦に加わる気はないとでも言いたげな顔で口にスープを運んでいた。
「大体、我々は日本人である。日本人なら米を食べるのが当然であろう」
いかにも父が言い出しそうな事であるが、やはり切り出したのは父であった。
「馬っ鹿みたい。前持って炊いておく必要もなければ、余った分をどうするかも考える必要がないパンの方が良いに決まってるわ」
これまた妹が言い出しそうで、事実そうであった。
「腹持ちが良いから米が良いな」
「食べやすいからパンが良いわ」
短絡的なのは私と母である。父と私、母と妹。二対二の団体戦が思いがけず始まり、議論は更なる混沌の様相を呈した。
「君たちがいくら米を罵ったって、米にはそもそも人望があるんだ。ふりかけ、鮭、味噌汁に納豆。君らの親友のシチューだって最後は結局こっちについてくるんだぜ」
「あら、そう。でもこっちには家族がいるわ。食パンにサンドイッチ、クロワッサンにバターロール。あなたたちのお仲間なんて所詮はその場限りの関係じゃないの。結局いつも一人ぼっちに震えているのがお米なのよ」
白熱に次ぐ白熱。ほとんど口喧嘩に近くなってきた辺りで、ついに弟が痺れを切らした。
「そんなもの、好きにすれば良いだろう。どちらかしか選べないなんてのが、どだい貧困な発想だよ」
元も子も無いことを言われて、論争は終わった。それにしてもこういった際の母と妹のコンビネーションは恐ろしい。さながら姉妹のようだった。母が爆弾を作り、妹が投げる。作っては投げ、作っては投げる。この二人は常に親子で、姉妹で、双子で、友人で、何しろ気が合っている。争いごとの時は大方、姉妹に見える。互いが互いを補うようにして戦うので、二人して独自の理論を展開し、一方は刀で、一方は槍で攻撃を試みる我々には為す術がなかった。が、我々二人、血みどろになりながらもパッションをもってして何とか引き分けには持ち込んだ。母を攻撃出来ない父のために、母を糾弾する役目は辛かったが、辛酸を舐めてやり切った。やり切ったとて何かあるわけでもないのが悲惨であるが、世の中には気づかなければ良いことも多い。大事なことは姉妹と引き分けだけである。
論争が終わって、夕食も済んだ。大学の課題を終わらせ、風呂に入って、もうそろそろ二十三時である。父はすでに眠りにつき、母もそろそろお休みの時間である。一体どうしてだろうか。何故か我が家は年若い者ほど夜更かしである。ここ数年ずっとそうである。子供たちの中で、日付が変わる前に寝る者はなく、妹に至ってはいつ寝ているのか全くの不明だ。兄より遅く寝て、早く起きるので不思議である。ひょっとすると、ショートスリーパー体質なのかもしれない。あるいはただ学校で眠っているだけであるか。おそらく後者であろう。あの妹が自慢になりそうな短眠体質を黙っていられるはずがない。
そう思い直して、部屋に戻ろうと思ったら、リビング中に響き渡る酷いいびきがあった。キャットウォーク上のメロちゃんも迷惑そうに眉間に皺を寄せている。発生源は父であり、彼はリビングのソファーで気持ちよさげに眠っていた。酒に酔ったらままあることで、どこかのタイミングで勝手に起きて寝室へ行くので、放っておいても問題はない。というかそもそも起こしても起きないので、放っておくしかないのである。私はメロちゃんに向かって手を合わせて謝り、二階への階段を上り始めた。
毎度思うことなのだが、ソファーで眠る父の寝顔は弟の寝顔にそっくりである。騒がしい父に似合わぬ穏やかで、邪気の無い寝顔である。弟もそうだ。平生は毒づき、嫌味たらしく振る舞うくせに、寝顔だけはまるで天使のようであった。この二人、本当は清らかで美しい心根を持っているのだ、とそう単純な話ではないのだから不思議だ。
父と弟は互いに真面目風な話しかせず、傍目から見ていると親子などにはとても見えぬが、しかし、父と弟もやっぱり親子であった。その一幕を見たのは去年の正月三が日である。
近くの神社に初詣に行こうと朝からはりきる妹を他所に、父と弟は中々起きようとしなかった。仕方がないから、母と私と妹の三人で初詣に行ったのである。参拝を終わらせて、ベビーカステラを抱えながら、ついでにお昼ご飯も買って帰ってきた我々が見たのは、粛々と将棋を指す父と弟の姿であった。
「父さんは銀の動かし方がなっていないね、それじゃ百回やっても勝てないよ」
「昨日動画で将棋必勝法なるものを見たんだが、やはり一朝一夕ではどうにもならんな、お前は我が家で一番の策略家だからなぁ」
弟は柄にもなく無邪気に笑い、まもなく帰ってきた私たちに気がついた。
「母さんたち、お帰り。ベビーカステラたァ気が利くね」
父は嬉しそうな照れくさそうな何とも言えぬ表情で、将棋の駒を片付けはじめた。卓上には窓から光が差していた。弟はベビーカステラの袋を受け取ると、自分でもいくつか口に運んで、それから父にも袋を向けた。
「父さんも食べなよ」
父は黙って、カステラを手に取り、口の中へ放り込んだ。
私はこの何気ない家庭の一景に心揺さぶられ、なんの訳だかいたく感動した。涙が溢れ、何が何だか自分でも分からなかった。父と妹が心配し、母と弟は笑っていた。メロちゃんは一匹、泰然自若で家族皆を見つめていた。
以上で今日のお話は終わりです。柄にもないことまで、つい語りすぎて、時間が無くなってしまいました。本当は他にも色々、事件はあって、面白おかしく語りたかったのですけど、それはまた別の機会に致しましょう。それでは今日はありがとう。最後に先程語った弟の小説の終わりの一節を残しておきます。
次の日、いよいよ旅立ちの朝である。霧がかかった明け方、ローデンベルクは馬に飛び乗り、故郷の村に向かってサヨナラを言った。皆からの見送りはなかった。村を出ることをそもそも伝えていないからである。それでも両親にだけは、せめてもの書き置きをしておいた。
何の相談もなくすみません。きっと反対されるだろうと思っていました。そうしたら私の決心も揺らいでしまうでしょうから黙っていました。私の決心は揺らいではならぬものなのです。いずれ立派になったら戻ってきます。その時はうんと叱ってください。それから思いっきり抱きしめて。今までの恩は決して忘れません。本当の本当にありがとう。
結局リーンベルは来なかった。来るな、と伝えておいたので当然ではあるのだが来なかった。ローデンベルクは黙って馬を走らせた。あのお別れで本当に良かったのだろうか。そんな迷いが一瞬だけ頭にちらついた。それでも後ろは振り返らず、前だけ向いて明日を思った。辺りはそろそろ明るくなり始め、暖かい光がローデンベルクを包んだが、彼はそんなことなど気がつきもしないのであった。