三十二・一九秒。
紙に記録を書き込む。ヤムニヤの滞空時間はこの数日で二倍近くに伸びていた。明らかに異様な伸びだ。私は音をたてないようにその場から立ち上がった。
ヤムニヤは連続しての滑空ができるようにはできていない。滑空の際、ヤムニヤは細かな骨折を繰り返す。そうやって変化する風に対応するのだ。
滅茶苦茶な生態だとは、もう思わなくなっていた。ヤムニヤは〝霧〟から生まれてまだ二週間と経っていない。完成まではあともう二週間かかるだろう。
「アミア。そろそろ帰るよ……って」
ルルが私の様子を見て呆れたように息を吐いた。
「まだそんなことしてるの」
「声出さないで。ヤムニヤが逃げる」
聴覚についてはまだ調査が済んでいなかったが、半径数メートル以内に入っても身じろぎ一つしない以上、視力は低いということは確実。つまり、相当に他の感覚が鋭敏であるということも、同様に確実だった。
草を踏む音一つすら響かせずに、私はヤムニヤに近づく。クリーム色の皮膜の下に薄く血管が見える。被膜を支える骨格は歪に歪んでいるものの、徐々にあるべき形へと戻り始めていた。二日前の観察の際は五分程度で再生した。だが、滞空時間の伸びのことを考えると、回復能力も高まっていると考えたほうがいいだろう。
相変わらず、ヤムニヤの体表は汗のような何かしらの体液で薄く湿っていた。ヤムニヤにはおよそ体毛と呼べるものが何一つ存在しない。よって、この体液は体表を保護するための液体であると考えられる。採取して、調査をしたいというのが正直なところだったが、採取したところで十分な検査ができる設備があるわけでもないし、体液を無理に採取するとヤムニヤは滑空することができなくなり、他の生物に食われるか、そうでなくとも体液を採取した部分から細胞が壊死し、そのまま死んでしまう。私はもう数匹のヤムニヤを駄目にしていた。
ルルの視線を感じつつ、私は手早くヤムニヤの様子をスケッチしていく。炭が紙を擦る音で、ヤムニヤも私に気づいたようだった。長い首を私に向け、威嚇するように生え揃った歯を剥き出しにする。葉や樹皮を主食としているために、ヤムニヤの歯に犬歯は見られない。しかしその歯は強靭だ。一度噛みつかれれば、血が出るくらいの怪我はする。
ヤムニヤの前脚が少し動いた。前足の被膜が微かに震える。もう骨折が治りかけているらしい。滑空を終えてから一分も経っていない。やはり、驚異的な進歩だ。完成まで二週間はあると踏んだが、これでは一週間もないかもしれない。
スケッチを続けていると、パキリ、と何かがはまったような音がした。途端に、ヤムニヤは皮膜をはためかせつつ荒々しく動き、森の奥へと消えていった。
「ほらっ。もういいでしょ。さっさとそれ隠して行くよ」
ルルが私の肩を揺さぶった。私は渋々、紙を箱の中に直し、近くの木の根元に埋めた。
「もう……分かってる? 禁忌なんだよ、それ」
「分かってる。心配ない」
「大ありだから言ってるのに。誰かに見つかりでもしたらどうするの」
「ルル以外には見つかってないよ」
「そういう問題じゃないよ。……こんなこと続けてたら、棺持ちに襲われる」
「そんなこと信じてたんだ」
ルルの顔が真っ赤に染まった。
「行くよ!」
そう吐き捨てると、ルルは森の中を駆け出した。もう少し観察を続けたかったが、これ以上ルルの機嫌を損ねたら、何をされるか分からない。長にこのことを告げ口でもされればお終いだ。観察どころか、外回りにすら出してもらえなくなる。
仕方がない。私はルルの後を追った。
「……ちゃんとついてきたのね」
「気に入らなかった?」
「そういう所が気に入らない」
ルルは眉間にしわを寄せ、私のことを睨みつけた。だが、私が何の反応もしないのを見ると、諦めたように顔を背けた。ルルは無駄なことを嫌う。一切動じない振りをしていれば、大抵の叱責はやり過ごせる。
「もう少し後じゃ駄目なの?」
ヤムニヤの変化について考えていると、ルルが尋ねてきた。
「もう少し後って?」
「その……ヤムニヤっていうあの動物のことを記すの。まだあの動物、完成してないでしょ?」
「駄目」
それでは意味がない。完成してしまえば、ヤムニヤは決して変化することがなくなる。そうなってしまえば、二週間もしない内にヤムニヤは〝霧〟の中に消えてしまう。
私が記したいのは、一つの生物が〝霧〟から生まれ、〝霧〟に消えていくその過程だ。それを集めれば、何か大きい生命のうねりのようなものを見ることができるかもしれない。いや、別に見えなくてもいいのだ。その記録は、いずれ私を——。
「ルル、並びにアミア、只今帰還しました!」
ルルの声で、私の思考は打ち切られた。気がつくと、私達は村へと戻ってきていた。
「おかえりルル姉! 何かお土産ある?」
「ただの巡回にそんなものあるわけないでしょ。報告にいかなきゃだから、ほら散った散った」
村に入ると共に集まった子供達を追い払いつつ、ルルは長の住居へと向かっていった。私が立ち止まっていると、ルルが私に視線をよこす。ついてこいと言われているのは明白だった。私に構うことなく、ルルは長の家へと走り出してしまった。遅れると後が怖い。足に力を込めた瞬間、近くの家の陰から顔を覗かせているリミと目が合った。また包帯が増えただろうか。リミは不安そうな表情で私を見つめている。私は早足にリミに駆け寄った。
「淵の老木の下にいて。報告が終わったらすぐに向かうから」
「……新しい、生き物のお話、ある?」
途切れ途切れにリミが尋ねる。私が頷くと、リミはぱぁっと顔をほころばせ、その場を走り出して行った。
リミが完全に見えなくなった後、私は顔を上げた。ルルの姿も見えない。これではまた叱られてしまう。それを抜きにしても長への報告は気が滅入るというのに。溜息を吐きたくなるのを堪えつつ、私は長の家へと向かう。
遥かにそびえ立つ世界樹が、それを見下ろしていた。
*
「……以上より、特に異常も見られませんでした」
「主についてはどうだ」
「確認ができませんでした。やはり、巣穴からは離れていると見て間違いないかと」
長は陰鬱な表情をしつつ、顔を掻いていた。
「とっとと〝霧〟に消えてくれればいいものを……」
長への報告は、基本的にルルと長が話しているのを座って聞いているだけという至極退屈なもので、私が発言するということは滅多にない。そもそも、長が話すことは殆ど聞いていないため、何か言えと言われても困ってしまう。
だが、今回に限っては別だった。
主。私はその存在を追いかけていた。外見、生態、共に不明だが、相当なサイズであることは間違いない。何せ私達を食ってしまうからだ。
私達の集落は、主が現れてからというもの各地を転々としている。話からすると、主の縄張りからは逃げることができているらしい。喜ばしいことだが、少し残念にも思う。
〝霧〟からは多くの生物が生まれるが、主のような、人間を主な食物としている生物が生まれた例というのはまず存在しないと言ってよかった。純粋に興味が湧く。しかも、主は一年間存在し続けている。〝霧〟に還っていない。未だ完成していないのだ。その点でも主は異質だった。
この目で一度見てみたい。外回りの際には、必ずそれらしい生物を探しているが、未だ見つかっていなかった。
「おい、アミア!」
ルルの怒号で我に返った。
「どうしたの? もう斉唱?」
「違う! 長があなたに——」
長が手を差し出し、ルルの言葉を止めた。続いて、射るような視線が私に向けられた。
私は長の顔が苦手だった。皺だらけの、色褪せた顔……私達とは異質だ。
「一つ、問いたいことがある」
低く、静かな声で、長は私に尋ねた。
「アミア。お前は、主とはどのような生物だと考える?」
突然の問いに戸惑ったものの、特に難しい質問というわけでもない。常日頃考えてきたことを話せばいいだけだ。
「そうですね……最低でも三メートルくらいの体長はあるでしょう。何せ、私達を死体も残さず食べられるくらいですから。そんな大きな体躯をしていながら、ぼんやりとした姿すら分かっていないのなら、周囲の植物に擬態できるのかもしれません。それか、植物を身体に生やしてその栄養分を得ているとか。多分それですね。夜行性じゃないこととも合いますし、何より私達を食べる説明もつきます。共生関係にある植物に与える栄養を維持していたら、光合成だけで栄養が賄えませんからね。私達を優先的に襲うのは、単に栄養価が高いから、ですかね。何なら記して——」
長は床を思い切り叩いた。私とルルの身体がビクリと跳ねる。音が収まり、耳が痛いほどの静寂が訪れた後、長は冷徹な光を宿した目で私を睨みつけた。
「禁の二を忘れたのか」
「……申し訳ありません」
こうなっては、どんな言い訳も通じない。素直に謝罪を述べて、頭を下げた。長はしばらくその様子を見ていたものの、やがて頭を上げるように命じた。
「もうよい。今回はこれで開きにする。では、最後に禁を確かめる」
私とルルは同時に立ち上がり、思い切り息を吸い込むと、共に言った。
「「一つ、世界樹に近づくべからず
二つ、世の理を記すべからず
三つ、棺持ちに近づくべからず」」
長は、私とルルを交互に見た後、満足そうに頷いた。去ってよしの合図だ。私とルルが部屋を出ようとしたその時、長が口を開いた。
「ルル。お前は少し残れ」
「は、はい」
私は自身のことを指さし、首を傾げた。ルルは今にも怒りだしそうに顔を顰めたが、長は気にしてもいない様子だった。
「お前は去れ。最近は周囲に棺持ちが増えたと聞く。気をつけろ」
「はい……」
元々、こんな場所になど赴きたくないのだ。一言一句余さず覚えている禁を毎度暗唱させられて……それだけで嫌になる。私は軽く礼をすると、そそくさと長の家を出ていった。
*
今回の私の話は、リミにとってはあまりおもしろくないようだった。彼女は、私の言葉に適当な相槌を打ちつつ、気を紛らわせるように足を振っていた。そんな調子だから、私も次第にヤムニヤのことは話さなくなっていき、次第に会話の主導権自体もリミが握るようになっていった。
「アミアお姉ちゃんは、同じ生き物ばっかり毎日見てて、飽きないの?」
「飽きないよ」
この問いには即答できる。そもそも、こんな問いは成り立たないのだ。同じ生物などいない。ヤムニヤの例に同じく、霧から生まれた生物は、日々変化し続け、完成へと近づいていく。そして皆、霧の中へと消えていくのだ。そのルールから外れているのは私達くらいのものだった。
「むしろ、私は同じ生き物を見てる方が好きかな。生きているものの流れを実感できるから」
「流れ?」
「うん。私達は変われないでしょ?」
「……」
リミは暗い顔をして顔を伏せた。
「あ……ごめんね」
謝ると、リミは精一杯という風の笑顔を浮かべた。
「ううん。謝らなくてもいいよ。私が気にし過ぎなだけ……そうだよね。他の生き物と同じなんだよね」
自分を励ますように言うと、リミは彼方に目を向けた。
「……あの樹に行ったら、みんなと同じになれるのかな?」
リミの目にはぼんやりと、世界樹が映っていた。
全力で、歩調を緩めることなく、寝ずに走ったとしても二週間はかかる距離に、その樹はそびえ立っていた。
この樹が世界樹と呼ばれるようになった理由は二つある。そして、そのどちらも恐ろしく単純だ。
まず、単純に凄まじく巨大なのだ。この地のどこにいようと、あの樹の黒い幹が見えなくなることはない。天を見上げたとしても枝が空を覆っている。ただ、根は相当深くに張っているのか、地上に露出することはなかった。
そして、この大地の丁度中心に、世界樹はそびえ立っている。これが、二つ目の理由だった。
「どうして、あの樹に行けばなんて思ったの?」
リミは少し虚ろな目で私を見た。
「だって、あの樹は〝霧〟から一番遠い場所にあるでしょ?」
この大地は〝霧〟によって囲まれている。〝霧〟が一体何なのかについては、未だ結論が出ていない。仮説すらも唱えられない始末だ。ただ、通常の霧ではないことは事実だった。
そうでなければ、霧の向こうに消えていった生物が二度とこの地に戻ってこない理由がつかないし、死んでしまった仲間の死体を霧の向こうに流して、服飾品だけが戻ってくる理由がつかない。
この世とあの世の境目……そんな曖昧なものが、今はこの霧の正体とされている。
「棺持ちがいるから、長はあの樹に近づいちゃ駄目って言うけど……」
再び世界樹を眺めだしたリミの目は、憧れに染まっているように見えた。
「リミちゃん。どこ?」
その時、ほど近くからルルの声がした。リミが少し不安そうな顔をして私を見る。その頭を撫でつつ、私は少し声を張ってルルを呼んだ。ルルの呼び声がしなくなったと思うと、すぐにルルは私の前に姿を現した。その顔は今にも説教が始まりそうだと予感させるよう な見事な顰め面だった。
「……リミちゃんに何吹き込んでたの」
「ヤムニヤの生態について。ただ、吹き込んでたって表現は感心しないな。特に変なことを教えたわけでもないのにさ」
「リミちゃん、本当?」
リミは私の服の裾を掴みながら小さく頷いた。ルルは、私に一度訝しげな目を向けた後、ルルの前にしゃがみ込み。頭を撫でてから言った。
「リミちゃん。長が呼んでる。一人で行けるかな?」
ルルの問いに、リミはこくりと頷いた。そして私の服の裾を放すと、おぼつかない足取りで走り去って行った。
「アミアって、リミちゃんと仲いいわよね」
「はみ出しもの同士、引かれ合うのかな?」
ルルは私を軽く小突いた。
「こら。リミちゃんのことはみ出しものなんて呼んじゃ駄目でしょ。あの子、そういうの気にするんだから」
「そういうことを吹っ切れば、色々と楽になるのにね」
「リミちゃんには、あんたにとってのあたしみたいな友達いないんだからしょうがないでしょ。誰でもあんたみたいになれるわけじゃないの」
「……友達って呼ばれるのは嬉しいね」
からかうように言うと、ルルは頬を真っ赤にして私のことを無言で殴りだした。
「ちょっ……何するんだ。せめてその手袋外してから……」
ルルの手に嵌められた手袋の金具が私の肌にねじ込まれた。微かな痛み。見てみると、一筋の血が流れていた。血を拭って傷口を見てみる。皮膚が破れていた。が、次の瞬間、皮膚は何事もなかったかのように再生した。
「はい。修復されたからもう終わりだよ。親友」
「あんたね……」
諍いはよし。しかし血が流れ、修復がなされたら即座に取りやめること。この集落のルールだった。
ルルはしばらく私のことを睨みつけていたが、やがて疲れたように息を吐いて、近くの木に登り、太い枝に腰を下ろした。私も同じ木に登り、ルルの隣に座る。
「そんな所に座ったら枝が折れるでしょ」
「折れないよ。理由を説明しようか?」
「……結構よ」
ルルの視線は、長の家の方向を向いていた。
「やっぱり気になる?」
「何を」
「リミのことだよ」
リミの出自は、少々特殊だった。
私達は通常、雌雄の番が作り出した卵から生まれる。卵の中にいたときのことはあまり覚えていない。あまりに昔のことだから、という理由ではなく、単純に卵から孵った後の人生とあまり変わらないからだ。
私達は卵の中にいる間に両親からの知識を得て、同時期に卵の中にいる者と交流する。卵は他の卵からの思念を受け取るようになっているのだ。そうして、平均一年が経つと、卵は一斉に孵る。その姿は、今の私達と変わらない。そして、そのまま変わることもない。
だが、リミは卵での経験を経ていない。それどころか、卵から生まれてもいない。だから、彼女の身体は私達とはかなり異なっていた。見た目 は私達と変わらない。違いがあるとして、少し小さいくらいだ。……最も、この状態がいつまで続くのかは分からなかったが。
運動能力は私達とは比べ物にならない程に低い。これには体躯の違いも多分に影響しているとはいえ、木にも登ることができないのだ。力、持久力も相応に低いため、集落の移転、設営の際は、いつも居心地が悪そうにしていたのが印象深かった。
また、私達のような身体修復機能もない。彼女は、一つの傷を修復するのに早くても数日、酷い時には数ヶ月の時間をかける。一度、樹上から転落して骨を折った上、多量の血液を失い、命の危機に瀕したこともあった。この集落が私達向けに作られ、ロクに舗装もされていないためか、彼女の怪我を隠す包帯は日に日に増えている。
そして何より、彼女は日を追うごとに変化していった。初め、彼女は毛髪も歯も生え揃っておらず、言葉の一つも話すことができなかった。身体も今以上に脆く、少し揺れただけでも壊れてしまいそうだった。
それが今や、私達よりも少し小さいくらいにまで変化している。栗色の髪に、真っ白な歯が生え揃い、言語能力は私達よりも高いくらいだ。私でもたまに彼女の言っていることがよく分からなくなることがある。
こんなことがリミに知れたらまずいが、私はおそらく、これ以上なく彼女に興味を持っていた。日々変化し、私達に近づく……完全になっていく生命体。主のことを思い出した。あれと同じ……いや、それ以上だ。主は数年。しかし、リミは十数年生きている。
そう。彼女は〝霧〟から生まれたのだ。
*
「アミアっ!」
ルルの怒号で叩き起こされた。今日は非番。ゆっくり眠ることができると思っていた矢先にこれだ。私は脇で呼びかけていたルルを睨んだ。
「……何」
「すぐ装備を整えて出て」
「今日は非番のはずじゃ——」
「棺持ちが里に侵入したの」
すぐに目が覚めた。かかっていた布団を跳ね飛ばす。ルルはそれを見るやすぐに外へと出ていった。手早く着替え、槍を持つと、私も手早くその後を追った。
どこに棺持ちがいるのかはすぐに分かった。人集りができていたからだ。彼らの顔には緊張こそあるが、恐怖は見られなかった。どちらかと言うと関心ありげな表情だ。どうやら棺持ちはもう拘束されているようだった。
樹上には私と同じ風体の警備係が息を殺して群衆を……あるいは棺持ちを凝視していた。彼らにとっても、棺持ちと対面するのは始めてのことなのだろう。かく言う私も彼らと立場は同じ。位置に付くと、すぐさま群衆の中心にいるはずの棺持ちに目を向けた。
見たことがないと言っても、その姿形を全く知らないというわけではない。それでは、里の警備などこなせるはずもない。そもそも、警備係の最も重要な仕事の一つは、棺持ちが里に近づかないようにすることなのだ。だから、この目で棺持ちの奇妙な風体を見てもあまり驚くことはなかった。
彼(少なくとも、体つきは男のものだった)の姿は、長が教え伝えた通りのものだった。
彼は奇妙な鎧を着込んでいた。滑らかな、真っ黒の鎧だ。継ぎ目はまるで見当たらず、この森の中を歩いてきたであろうに、土埃の一つも付いていない。
顔は一切見えなかった。鎧と似たような兜を被っていたからだ。目を覗かせる穴もない不気味な兜だった。その兜に包まれた頭をしきりに動かしながら彼は里を見回していたが、大した興味があるようには見えなかった。
そして何より、男の背に視線が向かった。私以外の警備も同じだろう。
彼の背には、黒く、大きな直方体の箱……棺があった。
彼らは常に、あの棺を背負い込んでいる。だから、棺持ちだ。
棺持ちが留置用の小屋に入った途端、けたたましく 鐘が鳴り響いた。同時に人々の緊張が一気に消え去り、一気に 喧騒が広がる。話の内容はわざわざ聞くまでもない。全て棺持ちについてのことだった。
気を抜いたら、急激な眠気に襲われた。そうだ。いつもならまだ熟睡している時間。なのに、こんなに早く起こされて……私は無意識に小屋を睨みつけていた。こんなことを思っている間も眠気がなくなることはない。喧騒から離れ、自らの部屋に帰ろうと、私はのろのろと身体を反転させた。
*
「アミア、起きて」
「……いい加減怒るよ?」
再びの安眠を妨げたのは、またしてもルルだった。
「それは申し訳ないけど、臨時の仕事が入ったんだから諦めて」
「あれ以上の臨時の仕事があるかい?」
「棺持ちの監視。長直々にあたし達へ指名が入ったの」
「長直々に……」
少し目が覚めた。長の依頼は総じて報酬が多い。一度受ければ半年は何の仕事を引き受けなくとも生活ができる。すぐさま受けたいところだったが、少し疑問があった。
「……棺持ちの監視って、今も付いてるだろ?」
「そうでしょうね」
「なら、わざわざ私達二人に任せる意味って……」
私の言葉を受けて、ルルも少し命令に違和感を覚えたのか、視線を床に向けて考え込んでいたが、答えも出なかったのか、すぐに顔を上げた。
「とにかく、長の命令には従わないと。行くよ」
「……何でも、報酬が出るならいいよ。案外、棺持ちの好みの顔をしてたってだけかもしれないしね」
「……」
「ルル?」
「アミア、もし本当にそんなことが理由だったら」
「だったら?」
「こっそり、一発ぶん殴ってやろう」
ルルは右の拳をもう一方の手のひらに打ち付けた。この拳なら、棺持ちの鎧の上からでも効果があるかもしれない。
*
照明もロクに付いていない小屋の中、棺持ちは牢の中央に胡座をかいて陣取っていた。槍を持った私達が入ってきても微動だにしない。大した胆力だと手を叩きたくなったが、そんなことをすれば確実にルルに殴られる。ここは大人しくしておくことにした。
それにしても、近くで見ると本当に不気味だった。気味の悪い生物と出会ったことならいくらでもあるが、棺持ちに感じるものはそれとはまるで異質のものだった。
彼には生気をまるで感じないのだ。しかし、死体を前にしているような気分でもない。心臓の鼓動、呼吸で常に動き続けなければならない人間を前にしているのだから当然と言えば当然なのだが。
ルルは彼に強い警戒心を持っているのだろう。厳しい視線を投げかけていた。だが、棺持ちはまるで動じない。かと言って、この状況を楽しんでいるわけでもないようだった。
耳が破れるような沈黙が五分ほど続いた。そこで突然棺持ちは床に勢いよく寝転がった。私達はすぐに牢の隙間に槍の穂先を向けた。棺持ちは全く動かなかった。柄を強く握りしめる。相手は棺持ちだ。今すぐ牢を突き破って襲いかかってくるかもしれない。警戒を緩めてはいけない。棺持ちは死神なのだ。隙を見せれば、命を奪われてしまう。
だが、その心配は杞憂に終わった。
「……退屈だ」
床に大の字になった男は、突如そうぼやいた。
問いを投げかけようとした私をルルが制する。ルルはただ、黙って棺持ちに向かって槍を突き出していた。
「……話にも付き合ってくれないのか。まぁいい」
棺持ちはもう一度身体を起こし、兜に包まれたその顔を私達に向けた。どうにも不吉なものを感じざるを得なかった。
この印象には、里の教えも多分に関係しているのだろう。
禁の三にもある通り、私達は棺持ちとの接触を基本的には禁じられている。理由は判然としない。不用意に近づくと背中の棺に入れられて連れ去られてしまうという噂こそあるが、そんなものは子供に言うことを聞かせるための脅し文句だ。実態にはかすってもいないだろう。するにしても、そんなちっぽけなことはしない。そのことを私は直観していた。
身体を震わせることもしない棺持ちに対して、私達がただ槍を向けているという珍妙な時間は一時間程続いた。気を抜こうにも、事あるごとにルルがこちらに視線を向けてくるためにそうもいかない。棺持ちは退屈だとぼやいていたが、神経をすり減らす分、明らかにこちらの方が辛い。苛立ちは時間が経つにつれ募っていき、文句の一つでも吐いてやろうと口を開いたその時だった。
入り口の方向から足音がした。私達は即座に音のする方へ槍を向けた。
「ひっ……」
そこには、目に涙を浮かべ、包帯だらけの身体を縮ませているリミが立っていた。
私達は慌てて槍を収め、ルルの下へ駆け寄った。
「ご、ごめんね。リミちゃん。どうしたの?」
ルルが優しげに呼びかけると、リミは未だ怯えながらもたどたどしく告げた。
「え……えっと、長から言われて……その、棺持ちの人を開放するようにって」
ルルの表情が瞬時に変わる。リミがびくりと身体を震わせた。リミの頭を撫でつつ、私はルルと共に棺持ちに視線を戻した。棺持ちは、この瞬間を待ち望んでいたかのように大きく伸びをしていた。顔のない兜が私達を眺める。
「さ……そうと決まれば早く出してくれ。暗くて狭い……こんな場所に入れられてはたまらん」
「……あなた、ここから出られることを分かってたの?」
私が尋ねると、兜の正面が私を向いた。
「当たり前だ。俺は何かしたわけでもない。元々捕らえられる道理もない」
そう答え、棺持ちは牢の扉に付けられた錠の部分を指で叩いた。ルルはしばらく考え込んでいたが、やがて牢に近づき、錠を開けた。ルルが扉を開くのを待つでもなく、棺持ちは扉を開け、外に出た。
「じゃあ、村の外まで案内するからついて——」
「あ……あの」
ルルが棺持ちに手縄をかけようとした途端、リミが口を開いた。彼女は、続きを話すことを躊躇うように視線を泳がせていたが、少し考えてから話し始めた。
「棺持ちの人は、しばらく村で匿え……と。拘束も必要なし、ただ、お二人で監視を続けるように……長からの命です」
棺持ちは、それを聞くと同時に差し出していた手を引いた。ルルと私は顔を見合わせる。多分、考えていることは二人共同じだった。
やっぱり裏があった。
*
村を歩くと、常に視線が突き刺さった。当然だろう。棺持ちが後ろを歩いているのだから。もし棺持ちが普通の人間だとしても、警備が二人も付いている時点で目立つのだから尚更だ。これでは、この仕事から抜けることはできそうにない。
「……耐えなさいよ。これが終わったら、嫌ってほど休めるんだから」
ルルは私の考えを見透かしているようで、棺持ちには聞こえないような小さな声で私に言った。確かにそうだ。軽く頷いて答える。
棺持ちは大人しく、抵抗するような様子はない。監視が付いていることにも不満は持っていないようだった。彼は興味深そうに里の様子を観察しており、時折私達に問いを投げかけた。あの施設は何か、住居をどう建てているのか、何を食べているのか……そんな他愛もない質問ばかりだった。答えてやると、短い礼と共に押し黙り、再び里の観察に戻る……棺持ちはそれを繰り返した。
「思ったよりも楽かもね」
「……何が」
「この仕事。今のところ、里を案内するだけだし」
「油断しないの」
ルルが刺すように言った。
「棺持ちなんて、何するか分かったもんじゃない。あの棺も中に武器が入ってるかもしれない。大体、こんな鎧着てるんだから、多少なりとも戦いの心得はある。それくらい分かるでしょ。アミアらしくもない」
そのことは分かっていたが、私にはこの男が荒事をこなすようには見えなかった。獣が獲物を狙う際に放つような圧力を、この男からは一切感じない。ルルもそのことに感づいているようで、一見毅然として見えるその表情には少しの迷いが見えた。
「……それに、もうすぐ里を一周する。奴が何かするとしたらその時だよ」
そのことも分かっていた。私はむしろ、この単純な作業が終わってしまうことを不安に感じていた。
「おーい、ルル姉!」
あと数歩で里を一周する。そんな時に、遠方から声がかけられた。見ると、昨日ルルに群がっていた子供の一人が大きく手を振っていた。
「どうしたの?」
「ゼアとメクが喧嘩してさぁ。二人共止めないんだよ。このままじゃ身体が治らなくなるかも」
ルルは困ったように子供と私達を交互に見た。
「……行ってきなよ。私一人でも、ルルが戻ってくるまでの時間くらいは稼げるから」
「別に逃げやしない」
ルルは、私と、特に棺持ちに訝しげな目を向けていたものの、すぐに子供の方に向かって駆け出していった。
私は槍を強く握り直した。いくら戦意がないとはいえ、相手は得体の知れない棺持ちだ。あまり油断はできない。
棺持ちは、近くにあった切り株に腰を下ろしていた。緊張感など欠片もない。監視されている部外者だという自覚があるのかと疑問に思う。
「そう緊張しなくたっていい。そこまでこの仕事に入れ込んでるわけでもないんだろ?」
「……」
図星ではあったが、別に驚くようなことでもない。私の隣にいたのは特段仕事熱心なルルだ。彼女と並べられたら、私に熱意がないことなどすぐに分かる。
「そう緊張しなくたっていい。ちょっと質問がしたいだけなんだから」
私は、槍の穂先を棺持ちに少し向けて、その質問を待ち受けた。棺持ちは、自分に向けられている圧力に気づいているのかいないのか、平然とした様子で尋ねた。
「俺を檻から出すようにって伝言をしに来た女の子がいるだろう? あの子は何者だ?」
「……どうして今になってそのことを訊くの」
「さっきの子……ルルでいいのかな? あの子は、下手なことを言うと刺してきそうだったからね」
「私は刺さないと?」
「ああ。君、棺持ちに興味あるだろ?」
正直気に入らなかったが、その通りだった。私はそっと槍の穂先を棺持ちから外す。
「交換条件ってことでいいの?」
「ああ。君が俺の言うことを教えてくれたら、俺は君の知りたいことを提供する。別に君から尋ねてきてくれたって構わないが、その時はちゃんと、俺の質問に答えてくれよ」
特に悪い条件ではない。欲をかいてこちらから質問しなければ私は主導権を握ることができる立場に立てる。断る理由はなかった。
「あの子は長の従者をしてる、リミって子だよ」
「……俺が聞きたいのがそんな答えじゃないってのは分かってるよな?」
少し声を低くして棺持ちが告げた。これでやたら誠実な馬鹿だと知れれば使いやすかったのに。
「あの子は〝霧〟から生まれたの。だから私達とは違って、あまり運動もできないし、すぐに傷も治らない。だからあんなに包帯巻いてるんだよ。……それに何より、毎日のように変わる」
棺持ちは、リミが〝霧〟から生まれたということに特段興味を持ったようだった。それを口にした途端、兜の正面がまっすぐ私を見つめた。
「ふむ……あの霧から……」
兜を指で叩きつつ、少しの間棺持ちは考えを巡らせていたようだったが、結論が出たのか、それとも諦めたのか知らないが、すぐにそれを止めた。
「よく分かった。礼を言う。それでは——」
貌のない兜が、ゆっくりと私に向いた。
「——何を訊きたい?」
「……どうしてここに来たの?」
「そんなことでいいのか?」
「大体は、知ってるつもりだから」
警戒対象なだけあって、棺持ちについて私達が得ている情報は多い。彼らが住んでいるのは、世界樹の付近だ。彼らは必ず世界樹の方向からやってくる。多少の違いはあれ、おおよそ同じような意匠の甲冑を身にまとい、全く同じ棺を背負っている。見たところ、身体能力は私達とそう変わらず、武器なども持っていないようだが、どのようにして獣を撃退しているのか。……分からないことと言えば、先程の質問とこれくらいだった。
棺持ちは先程と同じようにして考えを整理しているようだった。
「……この近くに、凶暴化した獣が出たと聞く。それを駆除するために来た」
「それって、主のこと?」
棺持ちは少し驚いたように動きを止めたが、すぐに元通り兜を指で小突き始めた。
「それが人食いの獣なら、そうだ」
「もう三人は食われたよ」
「……そうか」
棺持ちの兜の正面が、軽く空を向いた、もしかすると、彼らなりの供養の作法かもしれない。
「というか、駆除って何。あなた達の縄張りと、ここは相当離れてるはずだけど」
「俺達は周辺の集落に依頼を受けつつ生計を立てている。今回は、この集落の長が俺に駆除の依頼を出したというわけだ」
「……それで捕まるって、災難だったね」
「全くだ」
口ではそう言うものの、棺持ちにそのことを気にしている様子はまるでない。
「そうだ……主について、君は何か知っているか?」
私は首を横に振った。
「だけど、推測ならできてるよ」
「聞かせてくれ」
間もなく、棺持ちが私に言った。食いつきの良さに少し驚いたものの、さっさと仕事を終わらせたいという気持ちはよく分かる。
私は昨日、長に話したような仮説を棺持ちに話した。棺持ちは、一切言葉を挟むことなく、その仮説を聞いていた。
「……それだけか?」
「それだけって、何が?」
「君達の言う主は霧から出てきて数年間は経つんだろ? いくら擬態ができようが、植物と共生できようが、霧に消えていない理由がつかない。まだ完成していないと考えるしかないが、それではあまりに長すぎる」
〝霧〟から出現した生物が完成するまでの期間は平均二週間。数日程度の誤差はあれど、それが数年にも渡るということは確かにおかしい。
「リミでもないのに……」
棺持ちの兜が私を向いた。
「どうも、君がそこに目が向かなかったのはその少女が理由らしいな」
「……急に何」
「君は随分生物に詳しいらしい。なのに、完成までの期間への疑問を今まで持っていなかった。おかしいだろう? だが、あの少女が間近にいたのなら納得がいくと思ってね」
「それがどうしたの」
「……興味がある」
棺持ちはいつしか私に貌を向けていた。
「あの少女だ。君の話を聞く限り、十数年もの間、彼女は変化し続けている。……しかも、見た目だけで言えば私達と同種だ。一体、どんな生態をしているのか……君だって、多少興味はあるだろう?」
「あったら、どうするの」
「協力しないか?」
私は改めて槍を構え直した。棺持ちはすぐに両手を上げ、抵抗の意思がないことを示す。
「俺が何か悪さをするってわけじゃない。ただ、研究に付き合ってほしいだけだ。君も、そういう趣味があるんだろ?」
棺持ちが両手を下げた。いつしか私の槍の穂先は、棺持ちから外れていた。
「OKってことでいいのかな」
「……レグビナ種の消化器官の構造は?」
「は?」
「答えて。レグビナ種の消化器官の構造はどうなってる?」
私の槍の穂先は、またもや棺持ちに向いていた。棺持ちは面倒そうに後頭部を叩きつつ、話し始めた。
「確認なんだが、レグビナ種っていうのは、白い体毛の、平均脂肪率六十パーセント、体長約二メートルのアレでいいのか?」
何を今更。私は首を縦に振って答えた。
「失礼。何せ言語は同じものが使えても、固有名詞になると集落によって差が大きいから……ええと、消化器官の特徴か。一言で言うと、四つある胃だ。だが、通常時は一つしか活動はしない。元々が移動をしようと思ってもできない身体の作りをしてる上、エネルギー吸収効率がすごぶるいいからそれだけでも問題はない」
「他の胃の役割は?」
「栄養の貯蔵庫だ。自力で栄養を補給できない分、レグビナ種は他の小動物に食料の調達を任せる。その代わりに小動物はレグビナの体表を住処として使う。レグビナが吸収しなかった栄養を自分達の餌にして、吸収した毒素をレグビナは周囲に撒くから、飢える心配も、外敵に襲われる心配もまずない。この点で共生関係を結んでる。まとめると、他力本願を体現した、温厚な生物ってことになるだろうな」
「……それだけ?」
私は、まだ槍を下げなかった。棺持ちからは小さく息が漏れた。
「……ここからは推測になるが」
棺持ちは再び後頭部を叩き始めた。
「レグビナ種にも当然外敵が存在する。マウハ種や、ピオネ種がそうだ。この二種はレグビナ種と同程度の巨体で、散布する毒素も通用しない。つまり、レグビナ種はこれらの種に対抗する手段を持たないことになる。しかし、これでは道理に合わない。マウハ、ピオネ両種に対するレグビナ種の数が多すぎることになる。レグビナ種は大して繁殖力が高い生物というわけでもない。なら、レグビナ種にはこの二種から逃げ切る手段が存在することになる。それが四つの胃だ」
「つまり?」
「そもそも、いくら小動物が食うからと言って、過剰に食物を摂取するような生物が生き残ることはない。体内だろうがお構いなしに食料は腐っていくからな。いくら霧から生まれた生物が出鱈目とはいえ、レグビナ種のような長期に渡って現れ続けている生物がそんな性質を持つはずがない。なら、体内に貯めた食料には別の使い道があるはずだ……何か描くもの……その槍でも何でもいいから貸してくれないか?」
私は近くに落ちていた木の棒を適当に投げ渡した。棺持ちは少し残念そうに息を漏らしつつ、地面に図を描いた。
「レグビナ種の消化管にはこの図に描いたような多数の弁がある。この弁によって、レグビナ種の咀嚼物はその栄養素ごとに分別される。理由は他でもない。それぞれの栄養素を最大効率で吸収するために、それぞれの胃が一つのものしか消化させられない消化液を分泌するようになっているからだ。そして、普段使っている胃と、これら三つの胃の消化スピードには比較にもならないくらいの差がある。それこそ、貯めに貯めた食料を一気に消化して、身体を作り変えられるくらいには三つの胃の消化速度は速い」
何というべきかわからないが、私の胸中には確かな高揚が芽生えていた。私は震えそうになる手を必死で抑え、彼の結論を待った。
「要するに、レグビナ種は緊急時には一気に筋組織を作り出して、普段とは比較にもならない量の毒素を周囲に撒き散らしながら一目散に逃げる。通常時の数倍の量の毒素を食らうとなれば、マウハ、ピオネのどちらもただじゃ済まない。少なくとも足は止められる。これでレグビナ種は逃げおおせる。その最中に共生していた小動物もまとめて死ぬが、逃げた先で筋肉を分解しつつ新たな共生相手を探すだけだから問題はない……これぐらいで勘弁してくれないか?」
私は槍を腕で支えつつ、棺持ちに拍手を送った。
「思ってた答え方とは違ったけれど、正解だよ」
「……他にどんな答えがある?」
「体長二メートル、餌を与えれば抵抗もせず、勝手に育つ。毒素も殆ど排出してくれるから処理の手間もない……家畜にぴったりだって思わない?」
「……成程」
繁殖力こそそこまでではないが、何せ大きさが大きさだ。この程度の集落の人間になら四頭もいれば食料として行き渡る。そしてレグビナの肉は美味い。里の人間はあまり知らないが、警備係は皆知っている常識だ。レグビナを輸送することも、多少は苦労するが非現実的というわけではない。私達が転々と移動し続けているとは言え、一年もあればレグビナは食料として役立つほどに成長する。
だが、この里ではレグビナは飼われていない。そのことに目を向ければ、棺持ちが言ったような答えには辿り着ける。
「……それは考えつかないな」
「どうして」
「俺はものを食わん」
「……」
どうやら、棺持ちも私達とは大きく異なる生物らしかった。
*
「本はないのか?」
翌日、棺持ちが唐突に訊いてきた。
棺持ちはこの里の中なら自由に出歩くことが許されている。だが、元々そう広くもない里だ。一日もあれば全て見ることができる。
牢での様子を見れば分かる通り、棺持ちは退屈を殊更嫌っているようだった。景色にも見飽きたのか、棺持ちは牢が設置されたあの小屋に閉じこもっている。そこで要求されたのが本というわけだった。
「残念だけど、一冊もないよ。禁じられてるんだ」
「……本を?」
「記述することをだよ。破ったらきつく叱られる。……どうしてかは分かんないけど」
「君は何か知ってるか?」
棺持ちはルルに尋ねたものの、彼女はきつい視線を返すだけだった。私と棺持ちとの間のわだかまりがなくなっていることに少し疑念があるのか、もしくは、自惚れに等しいが、もしかすると嫉妬しているのかもしれなかった。
棺持ちはそれ以上何も訊くことをせず、牢の中で寝転んだ。勿論、兜も鎧も着用したままだ。これでは本当に寝ているかどうか分からない。
「ねぇ、起きてる?」
「棺持ちは寝ないよ」
本当かどうかは怪しいところだったが、棺持ちが食事を取っているところを一日経っても目にすることができなかったことから、一概には嘘と断じることができないのが恐ろしいところだった。もしそれが両方本当なら、棺持ちには食事も睡眠も必要ないということになる。
……そんな生物があり得るのだろうか。
「アミア。あんまり馴れ馴れしくしないの。こいつはあくまでこの里への侵入者なんだから」
「何もしてないんだから、そんなにカリカリすることもないんじゃないの? 長も許可を出してるんだしさ」
「その長があたし達に監視の命令を出してるんでしょ?」
「下手にきつい態度取って、相手の機嫌を損ねる方が危険だと思うけど」
ルルが私に、怒りを滲ませた視線を送る。私も同様の視線を返した。この友人は変に堅苦しいところがある。私には、時々それが癪に障った。始めて話の合う話し相手を見つけたのだ。邪魔しないでくれ。その言葉が喉までせり上がっていた。ルルの眉間にも、苛立ちが溜まっていくのを表すように段々皺が寄っていく。
「……お姉ちゃん達、喧嘩?」
私達を止めたのは、扉から恐る恐る尋ねてきたリミの言葉だった。私達は我に返ると、一心不乱に首を横に振った。そんなことをしていると、何だか急に馬鹿馬鹿しくなり、笑みがこぼれた。ちらりとルルを見ると、彼女も笑みを浮かべていた。
「で、リミちゃん、何しに来たの?」
「あ、ええと……お姉ちゃん達にご飯を持って行けって、長が。……はい」
リミが私達に包みを渡した。包みからは、鼻孔をくすぐる香ばしい匂いが立ち昇っていた。丁度空腹を感じ始めたところだったこともあり、私達はすぐに包みを開けた。タレで味付けされた肉が、白生地で挟まれていた。上等の料理だということは一目で分かった。私達は即座にそれにかぶりつく。生地のもちもちとした食感と、ホロホロと崩れる肉の食感が癖になり、そこにタレの甘辛い風味が混じり合う。ずっと食べていられるほどに美味い料理だった。
私達は口の周りを少し汚しつつもすぐに料理を完食した。リミは嬉しげに微笑を浮かべながら私達に布巾を差し出した。
「……もしかして、リミが作ったの?」
口の周りを拭いつつ私が訊くと、リミは気恥ずかしそうに頷いた。
「すっごく美味しかったよ。ありがとう」
「右に同じく」
柔らかな笑みを浮かべ、ルルはリミの頭をぽんぽんと撫でた。リミは俯いていたが、嬉しそう口角を上げていた。
「……どうした」
牢の中から突然棺持ちが尋ねた。私達は槍を持つ手に力を入れる。しかし、それを見るや否や、棺持ちはかぶりを振って、リミのことを指さした。
リミの目は、確かに棺持ちを見据えていた。
「俺にあのサンドイッチもどきを持ってこなかったことを申し訳なく思ってるなら、その心配はいらない。俺は君達の食べ物は食べられないからな」
リミは激しく首を横に振った。棺持ちの兜の正面が私を向く。「どういうことだ」と問いたいのは明白だった。だが、それを尋ねる必要もなかった。その前に、リミが話しだしたからだ。
「世界樹って、どんな場所ですか」
一瞬、その場にいた全員が、呆気に取られていた。
「——リミ!」
まず初めに怒号を飛ばしたのはルルだった。それを受けて、リミが大きく震える。その顔には強い怯えが浮かんでいた。
「あ……ご、ごめんなさい。リミちゃん。でもね、世界樹に近づこうとするのはいけないことなの。分かるでしょ?」
三つの禁は、外界との接触が多い警備係が特段厳しく叩き込まれるというだけで、子供から老人まで里の全員が知っている。それに加え、リミは長の従者をしているのだ。知らないはずがない。
……しかし、その理由が説明されないという点において気味の悪い規則ではあった。そこにおいては、彼女が疑問を棺持ちにぶつけた気持ちも理解できる。だから、私は黙って事の推移を見守った。
「……どうしてなの?」
「え?」
「どうして、世界樹に近づいちゃいけないの?」
リミの声は震えていたが、同時に芯の通ったものだった。彼女の目も、挑むようにルルを真っすぐ見つめていた。
ルルは困ったように私に視線を投げかけた。しかし、そんなことをされても私だって世界樹のことを知らないのだから答えようがない。肩を竦めるだけに留めた。
「……止めておいたほうがいい」
重々しい声で、棺持ちは告げた。リミは、ただ黙って、棺持ちの言葉の続きを待っていた。
「あんな場所、行っても何もいいことはない」
その言葉に、リミの表情は今にも泣き出しそうに崩れかけた。
「世界樹に行っても……それでも、私はみんなと同じようにはなれないんですか?」
声も先程とは違って、ただ震えているだけだった。彼女は、包帯だらけの腕を、力なく持ち上げた。
「みんなみたいに、怪我もすぐに治って、木の上を飛び回って……何日経っても変わらないような……そんな人には、なれないんですか?」
悲痛。その言葉が似合う声だった。棺持ちは、しばらくは言葉を返さなかった。だが、その様子からうろたえているような雰囲気は感じ取れない。少しすると後頭部を指で叩き始めた。彼の癖だ。考えている。やはり、棺持ちは世界樹についての答えを知っているのだ。兜が指で叩かれる小さな音だけが部屋に響いていた。その音には妙な威圧感があった。誰も、答えを急かすことはできなかった。
「……なれるよ」
やがて、棺持ちが絞り出したのはそんな答えだった。リミは目を見開いて棺持ちを見た。
「けれど、止めておいたほうがいい」
ただ、即座に棺持ちは釘を刺すように言った。
「この際だ。はっきり言ってやる。世界樹には全てがある。どんな望みだろうが何だって叶う。夢みたいな場所だ。奇跡みたいな場所だ……だけど、近づくな」
「……?」
リミは棺持ちの意図を汲み取りきれていないようだった。……それは、私達も同じだったのだが。
「あの場所にいれば、もう君は人間でいられなくなる。すぐに醜悪な何かに変わる……俺はそんなことを勧めたくないんだよ。いくら不便で、不自由で、不平等だろうが、君にはそのままでいてほしい。……勝手な言葉にしか、聞こえないだろうけどね」
リミは、下唇を噛み締めながら棺持ちの言葉を聞いていたが、堪えきれなくなったのか、すぐに小屋を走って出ていった。
「あ……リミちゃん!」
ルルの制しにも、彼女は耳を貸さなかった。ルルは少し迷っていたようだが、即座に私の方を向いた。
「アミア、ちょっと監視頼んでいい?」
「分かった」
私の返事を聞くと同時に、ルルは小屋を飛び出した。
「安心しろ。俺は逃げないから」
「分かってる」
棺持ちの言葉には、どこか疲労が滲んでいるように思えた。
「それと、後でルルにも伝えておいてほしいが、君達は絶対に世界樹に近づくなよ」
「リミの時とは随分言い方が違うね」
「そりゃ、彼女には資格があるからな」
「資格?」
「君達には絶対に手に入らない資格だよ」
それ以上は訊いたところで絶対に答えてくれないだろうという直観が私にはあった。
「……訊いていい?」
しかし、私は口を開いた。
「質問による」
「棺持ちの目的は、何なの?」
棺持ちは短く溜息を吐いた。また後頭部でも叩くのかと思いきや、意外にも彼はすぐに話し始めた。
「それを言うことは禁じられてるんだが……まぁ、少しならいいだろ。ところで、君らは俺を棺持ちなんて呼ぶがな。まずはアレを変えてほしい」
「どういう風に?」
「棺守り」
「……あんまり変わんないじゃん」
「大違いだよ」
「で、棺守りの目的って、何」
「全体的には……世界樹に関わるとだけ言っておこうか。個人的な目的なら言ってやれるけど」
「何なの?」
「暇つぶし」
からかうような響きの声だった。だが、これまでの彼の言動や行動をみている限り、本心だろうという実感もあった。
「ここは退屈?」
「入ってみるか? 分かると思うけど」
こんな返しをする時点で退屈を感じていることは分かっていた。
「ルルに殺されたいなら、力づくでどうぞ」
「……遠慮しとくよ」
棺持ちは苦笑しつつ言うと、床に大の字になって寝転がった。本当に暇らしい。何の言葉も発しない。
「ねぇ」
「ん?」
言葉への返答も殆ど間がない。
「外に出られるように、長に直談判してあげようか?」
「……本当か?」
私は頷いて答えた。
「私もそろそろ外に出たいし……私の知らないような生物のこと、教えてほしいしね」
「ここで教えてもいいけど」
「本物を見ながら教わるから意味があるんでしょ」
「……そうだな」
それだけ言うと、棺持ちは私に背を向けた。それきり会話は起こらなかった。
長に会いに行くとしたら明日の早朝か。今日会いに行けば、警備と兼務させられる。何の仕事も関係しない散策こそが、私の理想とするところだった。あらゆる応答を想定し、その返答を組んでいく。手間だが、このような作業は嫌いではなかった。何より、未知の知識に触れられるということへの高揚が、私を突き動かして止めなかった。
……しかし、この努力は全て水泡に帰すこととなる。私とルル、そして棺持ちには、任務が与えられたからだ。
日が明けると、リミが里から消えていた。
*
里では、特に騒ぎが起こるということはなかった。皆が無意識的に抱いていたリミに対する排他的な感情がそうさせたのだろう。
とはいえ、さすがに何も起きず、いつも通りというわけではなかった。里から人が消えた。その事実は人々に不安をもたらしていた。主という人食いがいる状況下でこの事件が起きてしまったことが何よりまずかった。
里が活気を失い、噂話とどこか不安気な足音だけが鳴る中、私とルル、そして棺持ちは長の屋敷に呼びつけられていた。
「リミを探せ」
長からの指示はこの一言だけだった。従者を失ったにも関わらず、長の顔は平然としているようにも見えた。
「……よろしいですか」
ルルが、棺持ちに目を向けてから、長に言った。
「それは、棺持ちにも同様の仕事をさせるということでよろしいので?」
「ああ」
「……危険はないのですか?」
棺持ちには近づくな。この里においては真っ先に教えられる禁の一つだ。監視をしている分にはまだいいが、いざ人探しに使うとなるとやはりそこで引っかかる。
長は厳然と首を縦に降った。
「この数日で、棺持ちは何もおこさなかった。お前たちもそれは見ているはず……特にお前はな」
虚ろな目を長は私に向けた。私は特に迷うこともなくそれを肯定した。
「……こうして話している時間も惜しい。今すぐに向かえ」
それだけ言うと、これ以上話す気はないとでも言うように長は私達の前から去っていった。こうなっては動くしかない。ルルは長が去っていった方向に未だ疑わしげな視線を向けていたが、本人も時間がないことは自覚しているのだろう。すぐに屋敷を飛び出していった。
棺持ちの身体能力は大したものだった。鎧を全身に纏っているくせに、私達と殆ど同じ速さで木を伝ってくる。それも、木が傷つかないように枝が特に丈夫な部分を的確に選びつつ、だ。相当慣れているらしい。私達はすぐに里の外縁部に到着した。
「……どう探す?」
ルルが不安気に尋ねる。おそらく、私達も同じ事を思っているのは彼女も分かっているだろう。ルルが消えたことが分かり、長から捜索の命を受けるまでにおおよそ二時間。いくらルルの足が遅いとはいえ、それだけあれば相当遠くにまで逃げられるだろう。逆に、途方もなく広いこの地のどこに行ったのかを探るにはあまりにも短かった。
「夜警はいないのか?」
まず口を開いたのは棺持ちだった。
「そりゃいるよ。一応柵は張ってあるとはいえ、どこから獣が来るか分からないんだから」
「人数は?」
「十六人。あんまり大きい里でもないから、それくらいで足りるんだよ」
「地図は……ないな」
禁によって記述が禁止されているのだから、当然地図などあるはずがない。
「まぁいい。……アミア。この十六人が監視している中で、リミでも通れて、なおかつより遠方まで行ける出口はどこだ?」
突然尋ねられ、一瞬困惑したものの、すぐに棺持ちの狙いを理解した。私はすぐに地面に図を描く。
「えっと……高所も野生動物の巣も近くにない場所ってなると……この四つかな。……いや、三つだ。ここにはドゴの隠れ穴がある」
「大丈夫じゃないの、ドゴくらい」
「リミは弱いよ。ドゴの爪で引っ掻かれたくらいでもかなり深い傷が残るし、それにドゴの爪は汚い。あの子、体調崩しやすいでしょ」
ルルは失念していたというように頭を抱えた。
「なら、この三つを手分けして……」
「いや三つじゃない——」
「——ここだ」
私の言葉に続けて、棺持ちは地面に描かれた図の一点を指した。
「そこって……正門でしょ?」
ありえない。言葉にはしなかったが、ルルがそう言いたがっているのは手に取るように分かった。
「だが、ここしかない。他の二つの出入り口は世界樹から遠すぎる」
そう言われて、ようやくルルは気づいたようだった。リミがこの里を出る目的……それは、私達の知る限りにおいては、世界樹以外に存在しなかった。
「斥候を全く送っていないわけじゃないんだろ? もし他の二つの出口から出ていったなら、彼女はまだこの里から離れていない。見つかっていないはずがない」
そう続けると、棺持ちは正門の方向へ足を踏み出した。
「もう行くの?」
「急がなきゃまずい」
棺持ちは、私達を待たずに駆け出した。慌てて私達は背中を追った。今は協力しているとはいえ、彼が監視対象であることには変わりがない。距離は中々縮まらなかったが、棺持ちは正門の手前で足を止めた。少しして、私達も同じように立ち止まる。ルルは同時に棺持ちに槍を向ける。
「あなた……立場分かってるの?」
「ああ。だが、今はそれをある程度無視してでも急がないといけない」
ルルはなおも槍を突き出したままだ。しかし、棺持ちは臆することなく続けた。
「もしリミが俺の同類に……他の棺持ちに見つかれば、確実に殺される」
「え……」
「棺持ちは、俺みたいな人間ばかりじゃない」
そういった後、棺持ちは私を向いた。俺を信用しすぎるな。そう言っているようにも見えた。
「時間が惜しい。早くその槍をどけてくれ」
ルルは、まだ完全に納得しきってはいないようだったが、さっさとその槍を下ろした。
「アミア。この先を一直線に進んだとして、どこか危険な地帯はないか?」
「……道を外れない限りはないと思う」
幾度も移送を繰り返したおかげで、大地には薄くではあるが道ができていた。これを辿れば、途中までは安全に進むことができるはずだ。
「行くぞ。ルル、案内を頼む」
ルルは渋々というように先頭を走り出した。私は最後尾を走る。つまり、私とルルで棺持ちを挟み込む形になった。
「……」
この隊列も、棺持ちの意図したところだったのだろうかと、ふと思う。彼は里の警備の当番を知るはずがないから、考え過ぎという可能性も十分ある。それでも、長との面会で聞くなり、私達以外の人間から聞くなりは十分できたはずだ。なら、やはり、知っているのだろうか。その時、棺持ちが私を向いた。首の動きだけで、彼はルルを指した。そこで確信した。彼は知っている。今私に命じたのは、おそらく、ルルが間違った道を走り出したら教えろということだろう。
……リミは正門から逃げ出した。言わずもがな、この里からの最も大きな出口だ。そこを少女が一人通ろうとして、監視している人間が気づかないはずがない。ここで監視を抜けるためには、監視を倒す、もしくは監視を協力させるという手順が必要になる。昨日の夜警には、欠員どころか怪我人すら出ていない。そもそも、リミは非力すぎて、夜警係を倒すことなどできやしないだろう。なら、残る選択肢は、夜警を協力させるという一つだけである。
私は夜警越しにルルの背中を見た。迷いを抱きながら仕事をしている……そんな風に見えないこともない。……いや、よそう。こちらには厳然たる事実があるのだ。そちらで考えることにしよう。
昨日の正門の夜警は、ルルであるはずだった。
*
リミが二時間で進むことができるだろう距離に、私達はすぐに到着した。しかし、リミを見つけることはできなかった。
悪いことに、地面の道は新たな草で覆われ、殆ど視認もできない有様だった。リミがここまで進んだとして、どこに進んだのか……これでは見当がつかない。
「飲む?」
ルルが革袋を差し出した。さすがに猛スピードで走ったために、私もルルも息が切れ、全身に汗が滴っている。私は一切の遠慮なしに、水を乾いた喉へ叩き込んだ。
このまま下手に動くよりは、もう一度リミが逃げた先を見当した方がいい。私達は満場一致でこの案を採用した。つまり、私達は休憩中だった。
棺持ちは息一つとして切らしていない。ただ彼は木に寄りかかっていた。私は彼に寄ると、ルルには聞こえないように小声で尋ねた。
「ルルのこと、疑ってるの?」
「逆に訊くが、君は疑わないのか?」
「それは……」
ルルが夜警をしくじるということはとても考えられなかった。彼女は仕事で手を抜くことはしない。そして夜警程度、彼女の手に余る仕事ではない。
そうなると、ルルがわざとリミを見逃したと考えるしかなくなる。
「けれど、理由がない」
「……それは本人に尋ねる以外にないが」
棺持ちは、私達の方を向いて眉間に皺を寄せているルルの方を向きつつ言った。
「この状況で仲間割れをしている余裕はない」
風が一陣吹き、周囲の木々がざわめいた。
森は広く、深い。日が差しているにも関わらず、葉がそれを遮るために森の中は暗かった。森の数メートル先を見ようにも、闇がそれを許さなかった。
この中でリミが長期間過ごしていけるとはとても考えられなかった。まず、リミは何か物資を持って行ったのだろうか。例えば食料だ。森の中にも食料になるものはあるが、リミの身体能力ではそれを満足に取ることができないだろう。武器は何か持っているのだろうか。私達なら意にも介さないような生物相手だろうと、リミにとっては天敵……こうしている間にも、彼女は襲われているかも知れない。汗が頬を一筋伝った。
「二手に別れようか」
突如、ルルが私達に近づいてきて告げた。彼女は唸り笛を一つ私に手渡し、世界樹を指差す。
「世界樹が見えてる以上、方角で迷うことはないはず。だとすれば、使った道も大体二人で捜せるくらいの範囲に絞られるはず。見つけたらその笛で知らせるように……って、どうしたの?」
呆けた顔をしているであろう私を、ルルはどこか怒ったような目で見つめた。
「いや、その……考えてたんだと思って」
「あたしのこと何だと思ってるの……」
ルルは棺持ちに目を向けた。
「ほら、行くよ」
「お前となのか?」
「監視を外すわけにもいかないし……あたしじゃ不満?」
「不満ってわけじゃないが……」
「アミアなら一人で大丈夫だよね。このあたりの土地勘あるし」
「そうだけど……」
反論じみたことをしようとしたが、ルルの有無を言わさぬ視線を受けて押し黙ってしまう。棺持ちも完全には納得していないようだったが、やがて立ち上がった。私もそれに続く。釈然としない所はあったが、これ以上ここで油を売っているわけにもいかない。
「それじゃあ、私達はこっちを探すから、アミアは向こうを探して。分かった?」
「……分かった」
それを確認すると、ルルと棺持ちは同時に森の中へと駆け出していった。
「……」
少し遅れて、私も地を蹴った。
*
理由。その言葉が私の心中に留まり続けていた。ルルがリミの逃走を手助けした理由……。
リミの境遇に同情したのか? それはないだろう。やはりというか、ルルはまともかそうでないかで言えば、まともな方の人間だ。私やリミのことを心底から理解できるわけではない。しかし、そのことを責めるつもりは毛頭ない。このことに無意識だとすればさすがに不快だが、ルルはそのことを自覚していた。だから私の犯した禁にも深く突っ込みはせず、かといって突き放しもせず、形式的な注意をするだけに留めてくれている。
リミについても同様だ。ルルは、ただリミに優しいだけだ。同情など欠片もしていないだろう。リミがどれだけ酷い怪我をしようとも、彼女は必要な処置を施すだけだ。決して涙を流しはしない。薄情なのではない。ただの礼儀の問題だ。
同情ほどの無礼は存在しない。
大体、どんな理由があったとしても、こんな危険な場所にまともに木も登れないような子供を送り込むほどルルは優しくないのだ。ルルは私のように、生物に対してある種偏執的な興味を抱いているというわけではないが、日常的に森に出入りする身である以上、森という場所の恐ろしさは身にしみて分かっている。リミより遥かに頑丈で、傷も治りやすい私達ですら芥の如く呑み込んでしまうのだ。ルルなら、殴ってでもリミを止めただろう。
私はほう、と息を吐いた。ルルは自分の意思からリミを脱走させたわけではない。
悩みが一つ消えたからか、身体の感覚が鋭敏になっていく。足の裏から伝わる地面の感触がいつもより柔らかい気がした。雨でも降ったのだろうか。
早くリミを見つけなければいけない。もし本当に雨が降っていて、リミを濡らしていたのだとすれば、今頃彼女は病気になっていてもおかしくない。
リミ……彼女は私にどんな感情を抱いていたのだろうか。あの子は聡い。私の一方的な知識の開陳にも臆する様子を見せなかった。それどころか、先回りして疑問をぶつけてきたくらいだ。
そんなリミだからこそ、私が彼女に対して抱いていた観察対象としての興味には気づいていてもおかしくはなかった。向こうも、私を外の世界との経路として使っていたのかもしれない。
地を蹴り、疾走する。木々も私を邪魔できなかった。これほど速く走ったことがこれまであっただろうか。そう疑問に思い、苦笑する、
同情をしているのは——。
*
あたしの向けた槍の先には、下らなさそうに突っ立っている棺持ちがいた。彼はどうしてこんなことをするのか、と講義でもするように小首を傾げている。その様子に腹がたった。槍の先を棺持ちの首に当たる寸前まで近づける。だが、棺持ちは微動だにしない。
「いきなり何だ。こんなことをしてる場合じゃ——」
「口を閉じろ」
「……」
棺持ちは両手を上げた。よく知らないが、降伏のポーズらしい。
「お前の目的はなんだ。吐け」
槍を突き出す。しかし、棺持ちは微かに身を下げ、その穂先を避けた。直後、しくじったとでも言うように一瞬顔を上げ、俯いた。
……馬鹿にしやがって。
棺持ちが口に当たる部分を指さした。喋ってもいいか。そう言いたいのだろう。あたしは頷いた。
「言わなかったか? 狩猟だ——」
「嘘を吐くな」
「根拠は?」
「お前と長は内通しているだろう?」
『近い内に起こるであろうリミの脱走を黙認せよ』
このような不可解な命令が出されたのは、アミアがあのヤムニヤとかいう生物のことを熱心に書き留めていたあの日の報告においてだった。アミアは帰った後だったから、内容を知らないだろう。理由を尋ねたものの、長は一切答えることなく部屋の奥へと閉じこもってしまった。
その次の日に棺持ちが里にやって来た。ご丁寧に拘束されて、だ。争った形跡もない。その時点で疑うべきだった。実際、棺持ちはこのような重装備にも関わらず、私達に比肩する程の身体能力を持っていた。逃げようと思えば好きに逃げられたはずなのだ。この時点で、望んで捕まった以外の答えを少なくともあたしは出せない。そして、そうなると色々な辻褄が合う。棺持ちと関わることを頑なに禁じていた長がどうして外出を許し、任務を任せたのか。答えは単純、元々仲間だったからだ。
……と、ここまで考えたはいいものの、長と棺持ちという二人が協力し、一体何が起こるのか。まるで見当がつかなかった。
「内通……内通ね。君がその言葉を使うのは筋違いってもんだと思うが、まぁ間違いじゃないな」
棺持ちの様子はまるで変わらない。吐かせるべき情報を持っていないのなら、今すぐ刺してやってもいいのに。
「安心しろ。何も君達を害したいってわけじゃない。将来的には益になることをしようって考えてるよ」
「リミを探すのに協力しているのはなぜだ。まさかあの子を……」
「連れ戻したいとは思ってるよ」
あたしの言葉を遮るように棺持ちは言った。
「これ以上君に突っかかられるのも嫌だから、本当のことを言っておく。君は俺と長が内通していると言ったが……その理由はあの子にある」
あたしは棺持ちを睨みつけた。やはり、奴は微動だにしなかった。
「あの子に対して酷いことをするつもりはない。……むしろしようとしているのは長の方だな。俺は勧めなかったが、あの子も……」
金属音がした。
あたしは、無意識的に槍を棺持ちに突き刺していた。
「……危ないな」
確かに、鎧の隙間を狙ったはずだった。布の部分を。金属の細工がなされているわけでもないのに、それなのに、棺持ちには一切の傷が付いていなかった。
「ダイラタンシー……知ってるか?」
槍を払いのけつつ、棺持ちが訊いてきた。ダイラタンシー。耳慣れない。今まで聞いたこともない単語だった。戸惑っていると、棺持ちは虚しそうに笑う。
「君らじゃ俺をどうこうすることはできない。断言しておいてやる。だから、自分の情けなさを他人にぶつけるのはよせよ」
槍を強く握りしめた。全て、見透かされていた。
長の目的、棺持ちの思惑……そんなものはどうでもよかった。私にあったのは、棺持ちの言うように情けなさ。そして、アミアへの申し訳なさだった。
あたしとアミアは友達だ。けれど、あたしはアミアを理解することができそうになかった。おそらく、今後一生かかっても不可能だ。あたしにとって生物とは、危険か危険でないか、もしくは食えるか食えないかの二択でしかない。とても、禁を破ってまでその存在を記す価値のあるものだとは思えなかった。
リミについてもそうだった。最も、こちらは理解ではなく、諦めと言った方がいいだろうが。
そもそも種からして違うのだ。そこらの虫の心情を理解できるだろうか。できるはずがない。私にとって、リミとはそのような存在だった。私達と同じ言葉を話し、同じ様な外見をした、しかし全く違う生物。考え方など合うはずもない。ましてや理解などできやしない。
この結論に至るたび、長がリミを親身に扱うたび、こんなことを思っているのだと知られれば、薄情と思われるのだろうと考える。だがこれは、私なりの優しさだ。下手に理解しようとして他人の内面を荒らすほどに薄情なことはない。この考えはおそらく揺らがない。これが嘘なら、アミアは私と付き合いなど持たないだろう。
アミアとリミ。二人は、交わることはないながらも接することはあるように思えた。確かに理解できる部分を持ち合うと思えた。
それが、私の気の弱さ一つでなくなろうとしている。
力なく、槍が地面に着いた。
「走るぞ。地面の硬さがおかしい。雨でも降ったなら……」
棺持ちが呼びかけたその時だった。遠くから、唸り笛の音が鳴った。
「見つかったらしいな」
疲れを吐き出すように棺持ちが言った。だが、あたしはそうするわけにいかなかった。
「……いや、違う」
二回、二回、三回。一拍に鳴る音の回数……。
救難信号だった。
*
二回、二回、三回。
救難信号。こんなものを使うのは始めてだった。それに、生物を前にして、好奇心より先に恐怖を感じたのも始めてのことだった。
全身に苔を生やした、芋虫のような生物だった。口……でいいのだろうか……には、爪のようにも見える牙が生え、そこから垂れる液体は、地面に生える植物を灼いていた。
目に類する器官は存在しないようだった。聴覚も同様だ。証拠に、目の前で唸り笛を鳴らしたにも関わらず、その生物は私に向かってこなかった。
里において、最も生物についての知識を持っているのはこの私だという自負があった。分類を進めたおかげで、〝霧〟から新たに生み出される生物も系統別に分けられるようにもなった。だが、そんな私でさえ、こんな生物を見たことはなかった。……しかし、恐怖こそしたものの、驚愕を感じることはなかった。この生物の生態は分からないが、その呼び名は分かっていたからだ。
この生物は主だ。間違いない。全ての特徴が仮説に一致する。体長三メートルは確実にある上、全身に纏った苔……これが迷彩の役割を果たしていた。その上で、どのようなからくりかは分からないが、地面に隠れ潜むこともできるらしい。主は突如地面から現れた。
主は丁度、地面から生えているような格好だった。巣穴でも張り巡らせているのだろうか。それが真実なら地面が柔らかいのも説明がつくが……これが分かったからといっていいことは何一つない。主が最後に観測されたのはここから数十キロ離れた地点だった。そこの生態系が崩れたという話も聞かない。
即ち、主は一定の縄張りに固執することもなく、視覚、聴覚が機能していないことを加味すれば、無作為に餌場を拡大し続けた末、十数日でここへと到着できるだけの速さを持っているということになる。
槍を握りしめ、大口を開けている主を見据える。救難信号を出した以上、ルルと棺持ちがここに来るだろうが、できればその前に対処してしまいたかった。
おそらく、主は触覚が発達している。地面を動物が踏んだ際の振動を感覚しているのだろう。先程もそうだった。私が足を踏み込んだ瞬間、微かな振動と共にこの芋虫が突然地面から飛び出してきたのだ。最初の襲撃をかわすことができたのはつくづく幸運という他ない。
つまり、ルルと棺持ちがここに来れば、主がそれに反応する恐れがある。その際、どれ程の速度を主は出すのか。それが問題だった。
主に高度な知性がない限り、地面に何かを落とせばそれはすぐに計ることができるのだが、生憎手持ちによいものがない。唸り笛は遠く離れたルルと棺持ちに指示を……例えばこちらに来ないようにする際に使わなければならないから手放せない。槍も論外だ。これがなければ主を殺せない。他に地面に振動を起こすことができるようなものは何もなかった。そもそも、人間の歩行で起こる程度の振動を起こさなければならないとすると、ここから動かずしてそんなものを起こすのは不可能だ。
私はゆっくりと、なるべく地面を揺らさないようにしゃがみ込む。主はぴくりとも動かない。まだ大丈夫だ。滴る汗の一滴にすら気を払い、私は近くにあった大ぶりの石に手を伸ばす。これを地面に投げつければ、ひとまずは衝撃が起こる。主がそれに反応するかは運次第だが、それについては祈るしかない。
私は何とか石に触れた。だが、安堵などできる状況ではない。石を取り落とさないように細心の注意を払いつつ、石を掴み、持ち上げる。そのまま、ゆっくりと立ち上がった。主は動かない。大丈夫だ。何とか元の体勢に戻り、投擲の体勢をとる。足を上げられないために少々不格好だが、今はこうするしかない。石を握った右手に力を込める。そしてそのまま放り投げた。
石が地面に落ちる。その寸前に、私のすぐ後ろで枝が踏み折れる音がした。咄嗟に背後に視線を向ける。ピオネだ。その目は私に向けられ、爛々と輝いている。ピオネの牙は私達を容易に貫き、噛み砕く。私は反射的に地面を蹴った。主が身を捩る。先程まで私がいた場所にピオネが辿り着いたのはそれとほぼ同時だった。
瞬間、ピオネが呑み込まれた。
主は体長を一気に二倍程に伸ばし、ピオネを体内に捩じ込んだ。咀嚼すらしなかった。口の周りの牙は、ただ獲物を捕えるためだけに存在するらしかった。ピオネが主の体内を転がっていく様がはっきりと分かる。あの中は食道……例え傷つけたとしても、大したダメージにはならない。牙を開いた主の口が、すぐ私を向いた。私は既に地面を蹴ってしまっている。次の標的は私だった。
私は地面に思い切り槍を突き刺した。その勢いのまま、槍の石突に足をかけ、思い切り跳び上がった。木の枝を掴むと、急いでその上に立ち上がる。
地上では、私の槍が主に呑み込まれているところだった。
身体の力が抜けた。とりあえず、これで食い殺される心配はなくなった。唸り笛を取り出す。ルルと棺持ちがここに来る前に、早く来る必要はないことを知らせなければ。唸り笛の紐を手に持ち、回そうとした。
だが、私は唸り笛を鳴らすことができなかった。
主に襲われるという恐怖、そして、樹上という立地。これらが合わさったことで、私はようやくここがどこなのか理解した。
*
唸り笛を鳴らす。救難信号に限らず、合流の際は笛を交互に鳴らすことによって位置の擦り合わせを行うのが基本だ。アミアからの笛の音は返ってきている。だが、その内容が少し気がかりだった。
「笛の拍子が変わったが……何か意味があるのか?」
「……『樹上』?」
この信号は通常、樹上に何かしらの物品(傷病者を含めて)を置いた際、それを伝えるために使われる。この時、笛を鳴らした本人はその場にいなくなることが殆どだ。
今回はそのような使い方をされていないことは明白だった。何しろこの前に届いたのが救難信号だったのだから。
アミアが怪我をしているのなら、わざわざこんな信号を使わなくとも、自らの怪我の詳細を告げる信号を繋げればいい。樹上などとわざわざ伝えなくとも、実際にその場に行けば見つけることができるのだから。
「木の上にいるって意味じゃないよな?」
棺持ちが尋ねた。私は首を縦に振る。
「リミを樹上に避難させているのか?」
「アミアがリミを置いて逃げるわけないでしょ」
「アミアが敵をリミから離したって線は?」
「不意でも突かれない限り、この周辺にアミアが苦戦するような生物はいないし……第一、それなら唸り笛は鳴らせない」
「成程」
棺持ちは顔を上に上げていた。何かを考えているらしい。
「念のため、樹上を行くぞ」
「え?」
「アミアにもリミにも樹上にいる理由がないのなら、樹上にいるべきなのは俺達かもしれない」
気に入らないが、妥当な推論だった。別に樹上に移ったからといって、速度が落ちるわけでもない。棺持ちはあたしの了解を待ちもせず、既に樹上に飛び移っていた。
あたしは樹上を跳びつつ、唸り笛を再度鳴らした。返答はすぐに返ってきた。すぐ近くからだ。ここまで来ればもう見失わない。あたし達は一直線に笛の音の方向へ進んだ。
「地面に下りないで!」
アミアの姿を見つけ、声をかけようとしたその瞬間にアミアは叫んだ。驚いて足を踏み外すところだった。
「ちょっと、助けに来たのに一体……」
文句の一つでも言おうとすると、アミアが視線で地面を指した。
彼女の視線の先を見て、数瞬呼吸を忘れた。
全身に苔が生えた巨大な芋虫がそこにはいた。口の周りに生えた牙が蠢き、得体の知れない汁が口から垂れている。それ以外の動作はないに等しかった。とにかく不気味な生物だった。
「アミア……これって」
「主だよ」
「……こんなのが」
「見た目はともかく、道理には合ってる」
「攻撃してこないの?」
「地面に下りない限りは動かない。このまま動かなかったら、多分帰っていくだろうね」
戦う必要はないと、一瞬だけほっとしたが、すぐに疑問にぶつかった。
「……どうして、私達を呼んだの?」
この周辺の地面を踏まなければいいのなら、私達をむしろ追い返せばいい。少なくとも、わざわざ呼びつける必要はない。主が地中を移動するのなら、三人で固まっていた方が襲われにくいだろうが、それをしているとそもそもの目的であるリミの捜索が遅れる。大体、主に襲われるということ自体あまり起こりうることではないのだから、リスクとして捉えることには無理がある。主が逃げるまで一人で待ち、その後捜索を再開すればよかったのだ。
アミアは、ぽつりと答えた。
「主を倒すため」
「そんな必要……」
アミアは、少しだけ一点に目を向け、その後、懇願するように私を見た。理解するには、これで十分だった。
ここからほど近くには、アミアがこれまで編み上げた記録の隠し場所があった。
*
ルルは私が何を守りたいかを察しているようだったが、主を倒すということには賛成しきれないようだった。それはそうだろう。このまま放っておいたら、主はどこかへ行くのだ。わざわざ危険を冒して戦う必要などない。
「……敵の情報は?」
対称的に、棺持ちは戦闘に積極的なようだった。ルルが棺持ちに抗議の意を込めた視線を向ける。だが、棺持ちはまるでそれを意に介さなかった。
「戦闘をするリスクより、ここで奴を逃がすリスクの方が大きい」
「どうして」
「アミア、あの主は地面に巣を作っていると見て間違いないな?」
「そうだと思うけど……」
「地面の違和感からして、奴の巣穴はこの辺り一帯に広がっている。ここで奴が巣に戻ったら、いつ出くわすか分からん。性質から見て、奴の本領は不意をついての捕食だ。今なら、その強みを完全に潰した状態で奴と対峙できる」
「でも、主を倒してたらリミが……」
「放っておいた方が危険。恐ろしく速いから、リミがどれだけ遠くに逃げてたって追いつかれる」
「もしかしたら、こいつの胃袋の中身を浚うことになるかもな」
悪趣味な一言だったが、真実なのだからどうしようもない。ルルは悔しげな表情をしていたが、何も言うことはせずに槍を握りしめて主を見据えた。私達の思惑は、どうやら一致したらしい。
「まず、大前提として、今顔を出してる部分に攻撃しても致命打にはならない。あれはあくまで捕食器官。だから、主を殺すのなら、地中に埋まっている内蔵を叩く以外にない」
「失血死は狙えないのか?」
「苔のせいで判別しにくいけど、太い血管は通ってないと思う。そうじゃないと、捕食器官だけを地上に露出させる意味がない」
棺持ちが後頭部を指でコツコツと叩いた。策を考えているらしい。ルルは一切口を挟むことなく主を観察している。立案は不向きだと自覚しているのだろう。代わりに、実行に際しての不足が一切ないように構えているのだ。
「……よし」
兜が指で叩かれる音が止んだ。私とルルは体勢を整えた。
「作戦とも呼べないが……まず、俺が奴の捕食器官を斬り落とす。二人は牙のなくなった捕食器官から体内へと侵入。内蔵を破壊しろ」
私は、木から転げ落ちそうになるのを必死で堪えた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうやってそんなこと……私にはもう槍がないし、あなたにだって剣の一振りも……」
「問題ない」
棺持ちは側頭部を数回叩いた。
「これから作る」
棺持ちの背負っていた棺に、突然割れ目が走った。
それは、罅割れと言うにはあまりに規則正しかった。おそらく、最初から割れるように作られていたのだろう。最終的に棺に表れた紋様は、思わず見惚れてしまう程に美しいものだった。その割れ目に光が走る。数回、色を変えながら光線が走った後、割れ目から光はなくなった。
次の瞬間、棺からゆっくりと煙が立ち昇る。ただの煙ではない。白い煙の中には、赤紫、群青、黄緑……様々な色の光が滲んでいた。この煙を見たのは始めてではない。記憶を呼び起こす。すぐに答えは出た。間違いない。
この煙は、〝霧〟だ。
棺持ちは〝霧〟に手を入れると、すぐにその手を握りしめた。そしてゆっくりと〝霧〟から引き抜いていく。〝霧〟から現れたのは、黒く輝く長い柄だった。材質こそ違うようだが、意匠からして私のための武器だとすぐ分かった。〝霧〟が未だ見えない槍の穂先に向かって寄り集まり、形を為していく。棺持ちは柄を〝霧〟から一気に引き抜いた。
彼の手には、黒光りする見事な槍があった。
棺持ちはそれを無造作に私に投げ渡した。慌ててそれを受け取ると同時に驚いた。その槍はあまりに軽かった。
「これも持っておけ」
〝霧〟から手袋を二組取り出すと、棺持ちは私とアミアにそれぞれ手渡した。これまでに見たこともない繊維で作られていたが、肌触りは悪くなかった。続いて棺持ちは〝霧〟から靴を取り出し、同じように手渡した。履き替えろということだろう。それほど太くもない枝の上だったから難儀したが、私達は何とか靴を履き替えた。元々履いていた靴を置く場所はなかったから、使い込まれた二組の靴は虚しく地面に落ちていった。地面に落ちた瞬間に、主が目にも止まらぬ速度で、撫でるように靴を呑み込んだ。隣のルルが唾を飲み込んだのが分かった。
「五秒後に捕食器を切り裂く。確認次第突っ込め」
そう告げる棺持ちの手には、漆黒の長刀が握られていた。
私は困惑して、棺持ちの背中、途切れ途切れに〝霧〟を吐き出し続けている棺を指さした。
「……説明は後だ」
短く断じると、棺持ちの姿が樹上から消えた。一瞬見失ったということは、それ程の速度だったということだろう。
しかし、主に斬りかかる棺持ちの動きははっきりと視認することができた。時間の流れる速さが急激に遅れたような、そんな感覚だった。その理由は、単に棺持ちの動きの美しさにあったのだと思う。要するに、身体がこの動きを刻みつけておきたいと願ったのだ。
棺持ちの長刀が主に届き、切り裂くまで、彼の動きには一切の振れがなかった。だが、それは自然の摂理に反して無理やり身体を抑えているというような、不自然なものではなかった。彼の周りから法則が生み出されているような、あまりにも自然で、見逃してしまいそうになる動作だった。
彼の刃は音もなく主を両断した。
主の捕食器が地面に落ち、派手な音を立てても、一瞬私達は動くことができなかった。棺持ちの動きに見惚れていた。運動の理想というものがあるとして、棺持ちの取った動きはまさにそれだった。
気づいたように、隣でルルが跳ねた。一呼吸遅れて私も樹上から飛び降りる。
地面から露出していた主の身体は、痛みに悶えるようにのたうち回っていた。だが、元々空いていた穴が大きいのだ。体内への侵入をしくじることはなかった。
体内に侵入した途端、強烈な臭気が私を襲った。思わず鼻をつまむ。おまけに、常に粘液が分泌され続けているために気を抜くと滑ってしまいそうになる。私の前方にいたルルがその悪臭に顔を顰めながら前進することを動きで示した。
胃に近づいているのだから当然ではあるが、先に進むほどに悪臭は強くなっていった。傾斜も強い。主は随分深くまで身体を潜らせていたのだなと少し驚いた。殆ど滑りながらの移動の末、私達はとうとう胃に辿り着いた。
ルルは早速槍を胃壁に向け、突き出そうとした。私もそれに倣う……寸前で動きを止めた。私は胃液に浮かんだ獲物を見た。
ピオネが、種々様々な死体が浮かんだ胃液の中を苦労しつつも泳いでいた。胃液に浮かんだ死体には、肉食、草食、そして人間の区別がない。共通しているのは、そのどれもが、決定的に損壊していないということだった。食ったにも関わらず、消化していない?
瞬間、その理由が分かった。私はすぐにルルの肩を掴んで引き戻した。ルルは転びかけたが、持ち前のバランス感覚で何とかそれを防いだ。ルルが睨みつけてくるものの、そんなことに構っていられる状況ではなかった。私は槍で胃を刺した。
胃液が突然泡立ち始めた。ピオネの甲高い鳴き声が響く。その身体からは煙が立ち、皮膚が溶け肉と骨が露出し始めていた。他の死体も同様に急速に消化され始めている。
「アミア……」
ルルが私に尋ねかけたが、むせ返るような臭気には勝てず、勢いよく咳き込んだ。その拍子に転んでしまいそうになるものの、私が支えたために免れた。
それでは終わらなかった。
急に、食道の組織が蠕動し始めた。胃に押し流されそうになり、咄嗟に食道に槍を突き刺し、支えにした。ルルの方を見ると、彼女も私と同じ体勢を取っている。
頭上を見上げた。外界からの光が段々と小さくなっていく。あれが完全に消えてしまえば……背筋に怖気が走った。しかし、槍は二本しかないために二人で食道を登っていくこともできない。試しに食道に手を付けてみたが、滑り気があまりに酷い。襞か何かがあろうとも、これでは登っていくことはできない。
万事休す。この言葉が頭にちらつきかけた時だった。
一本のロープが投げ込まれた。棺持ちのものだ。考える必要すらなかった。私は無我夢中でそのロープに縋りついた。私がロープを掴んだ後、少し張りが強くなったところを見るに、ルルも無事にロープを掴んだらしい。
後は、登っていく必要もなかった。突如、猛烈な勢いでロープが引っ張り上げられた。私は全力でロープにしがみついた。恐ろしい勢いで光が近づいてくる。
次の瞬間、私達は地面に転がっていた。
「大丈夫か」
無機質に、棺持ちが訊いた。その全身からは蒸気が立ち昇っていた。
「……今の、何」
体内での臭気が尾を引いているらしい。息も絶え絶えにルルが尋ねた。
「再生だよ」
理屈で言えば、レグビナと同じだ。あの胃袋の中に溜め込まれていたのは緊急時の栄養源。レグビナの場合、それは逃げるためのものだったが、主の場合は再生のためのものだったらしい。
私の答えを聞いて、棺持ちは鼻で笑った。
「そうだと、よかったがな」
背後からの影に気づいたのはその時だった。振り向くと、苔こそ取れているが、主の捕食器官がそこにはあった。挟み撃ち。そう思ったものの、すぐに、そんなに甘いものではないということに気づく。
周囲には、樹木のように、先端に牙の生えた捕食器が乱立していた。
私達がいるのは、主の群れの只中だった。
*
息をすることすら憚られた。四方で主が獲物を探している。苔が生えておらず、真っ白な身体は芋虫のような形状と相まって極めて気味が悪かった。
たじろぐことも許されない。嫌悪と恐怖を動作によって発散できない。パニックに陥りそうだった。
「分裂か。成程」
私とルルが混乱で何も言えない中、棺持ちは悠然と言った。彼の持っている長刀を見る。長さが彼の背丈ほどあるが、それでこの状況を打破できるとは思えない。
「……一体、何を」
震える声で問いを投げかけると、彼は笑い声を漏らした。
「そんなことは訊かなくていい」
棺持ちは側頭部を指で叩いた。
「すぐ終わる」
突如、煙が棺から撒き散らされた。思わず目を閉じ、口を塞ぐ。幸い、風圧はそれ程でもなかった。よろけることはない。何とか目を開ける。まだ煙は晴れておらずまともに景色を見ることはできないが、棺持ちが一歩たりとも動いていないことだけは確認できた。
この煙は一体何のためのものなのか。主に視覚がない以上、煙幕の意味もない。第一、本人が動いていなければ何か起こるはずも——。
私のその予想は、煙が晴れたときに覆された。
周囲には、一匹たりとも主がいなくなっていた。棺持ちの背にある棺からは、今もか細い煙が漏れていた。
「何したの……?」
ルルがどこか不安気に訊く。棺持ちは地面を見るよう促した。
よく見ると、地面には白い塊がいくつか落ちていた。その中には苔が生えているものも存在する。ぴくりとも動かないそれは、間違いなく主の身体の一部だった。
「……初めは、植物だと思っていた」
淡々と、棺持ちは話し始めた。
「数年が経っても霧に消えない。そこを考えると、主の正体は霧から生まれた生物ではないのではという推測が立つ」
〝霧〟が生み出すのはあくまで動物のみだ。植物を作り出すことはない。それなら、一般的な法則に当てはまることもない。
しかし、その仮説には一つの矛盾が含まれていた。〝霧〟から生まれた植物は観測されたことがない。つまり、植物は〝霧〟から生まれた生物が持つ出鱈目な生態とは無縁なのだ。主のような生物が、自然の摂理に従って生み出されたとは到底考えられなかった。
「だったら、主は一体……」
棺持ちは私の呟きを耳にすると、少し首を傾げた。戸惑っているような仕草だった。だが、少しすると納得したかのように首を縦に振った。
「そうか。知らないのか」
「何を……」
「菌類だよ。主は」
キンルイ。耳馴染みのない言葉だった。
「植物に似た組成を持つが、植物のように自力で栄養素を作り出すことができない生物だ」
「そんな生き物が、いるんだ」
あれ程の窮地を前にしていたのだから、まだ感情が追いつかなかったが、鼓動は確かに高鳴っていた。
「……君達、茸は食べるか?」
突然、棺持ちは尋ねた。私とルルは少し驚いて顔を見合わせたが、特に隠すこともない。すぐに首を縦に振った。
「根本的にはあれと同じ種だ」
そう言うと、棺持ちは主の欠片を私に投げ渡した。硬度は比べ物にならなかったが、確かに茸と同じく細かな筋が走っていた。棺持ちは、〝霧〟の方向に目を向けてから再度話し始める。
「霧は菌類も生み出していたんだろうが、菌類それ自体には運動能力がない。霧には帰りたくても帰れない。だから、数世代を経て霧に消えていくしかなかった。それで、変化が進むスピードが他の動物とは比べ物にならない程遅くなる。その結果、目立った変化が出るのがたまたまこの時期になったってことだ」
「でも、こんな生態ならすぐに〝霧〟に辿り着いて消えるはず……」
「無理だ」
そう言うと、棺持ちは地面を削った。地中からは、朽ちた白い塊が現れる。
「主の菌糸体だ。ここらの植物一帯に根を張ってる。菌類にはこういう生態を取る種類が多い。主はあくまで菌類。さっき俺達を襲った捕食器官も、分裂の絡繰りで作ったんだろう。動かせるのはそこだけ……要するに、主に自力で動く手段はない」
そうだったのかと納得すると同時に、新たな疑念が湧いた。
「……だったら、主はまだ殺せてないんじゃ」
「そうなるな」
あっさりと、棺持ちは答えた。
「どこに主の原基があるのかも分からん。主を殺したかったら、この森に、さっきの滅菌薬を虱潰しに撒くしかない」
それを聞いて背筋が寒くなった。もしも、あの場所が主に侵されたままなら——。
だが、私が口を開くよりも先にルルが私の肩に手を置いてから言った。
「ねぇ、さっきの煙を撒いてきてほしい場所があるんだけど」
「それはいいが……どこだ?」
「アミアが案内する」
ルルが軽く私を押した。
「君はどうするんだ?」
「リミを探すよ。はっきり言って、さっきの説明はよく分からなかったけど、結局、主は生きてるんでしょ? だったらリミはまだ危ない。あたし一人だけでも先に探しとかないと……それじゃ、早く追いついてね」
私達の返事も待たずに、ルルは木々を伝って森の奥へと消えていった。棺持ちは困ったように息を吐いたが、すぐに私の方を向いた。
「で、どこに撒けばいい?」
*
見るのが二度目だったからか、煙が退くのは先程より随分早く感じられた。棺持ちは地面を抉り、その中の菌糸体が朽ちていることを確認すると、長刀を脇に置き、地表に露出した木の根に腰を下ろした。
「で、ここは何なんだ?」
「……」
記録のことを話すべきか判断に困った。禁であるということが一番最初に来るからだろう。しかし、棺持ちは里の人間でもないのだ。気にすることもない。私は近くの木の根本に隠していた木箱から紙束を取り出し、棺持ちに差し出した。彼は、それを丁重に受け取るとゆっくりと目を通し始めた。
「そんなにゆっくり読んでる時間ある?」
「数枚読んだらすぐに出る。……それで、これは生物の記録で合ってるんだな?」
棺持ちが私の方を向きつつ尋ねた。
「そうだけど……」
私が答えると、棺持ちは少し間を置いてから再び記録を読み始めた。
私だけでもルルの手伝いに行かなければならないという思いこそあったが、記録が他人の手に渡っている状態でその場を離れることには抵抗があった。大げさな言い方をしてしまえば、あの記録は私の生き甲斐だ。命そのものと言える。そう簡単に危険に晒すわけにはいかなかった。
それに……リミには悪いが、私を占める彼女の割合が、今までよりも減っていたことも原因といえば原因だった。
「ねぇ」
私はふと、棺持ちに声をかけた。
「何だ」
記録から目を離さずに棺持ちは言う。
「この仕事が終わったら、もう帰るの?」
「そうするつもりだ」
長はリミのことを格別大切にしていた。彼女を連れ帰ったという功績があれば大抵の要求は通るだろう。
「残るつもりはない?」
「理由がない。……少なくとも俺にはな」
私の魂胆は、とっくに見透かされているようだった。
「多分、この世界には、私の知らないことなんてまだまだあるんだろうね」
「……ああ」
「それを教えてくれないかなって期待したんだよ?」
「それは自分で知るべきだ」
棺持ちが、なおも記録に視線を落としながら語った。
「探求は自分自身で行うものだ。決して他所から与えられるものじゃない。見つけたものが錯覚でも何でもいい。とにかく、頼っちゃいけないんだよ」
棺持ちの声は、どこか厳しく響いた。叱責というわけではないが、どこか言い返せない圧力があった。
「誰かに教えてもらうことも大事だと思うけどな。過去の集積がないと日々の暮らしにも事欠くわけだし」
棺持ちは、何も言葉を返さなかった。兜のせいで、私の話を聞いているのかも分からない。となると、聞いていることを信じるしかないが……私は、何か彼の興味を引くことのできる話題はないかと探っていた。
「……あ」
とても、棺持ちに言うことを訊かせられるようなものではないが、一つ、思いついた。
「外を案内するって約束、まだ守ってない」
それを口に出すと、棺持ちは苦笑を漏らした。
「里からはもう出てるだろ?」
「まだ一部でしょ? もっと面白い場所がいっぱいあるから。ええと、トツニバキの巣とか、ツリノジの狩場とか……」
私が例を挙げていると、棺持ちは徐ろに立ち上がり、長刀を持った。そのまま、私の方へと歩いてくる。記録は全て読み終えたのだろう。
「もう出るの?」
棺持ちの返答は、少し遅れて返ってきた。
「一つだけ、答えてくれないか?」
「何?」
「どうしてこんなものを書いた?」
「え……」
「禁じられているだろう?」
一瞬、警戒心が蘇った。しかし、余所者である棺持ちにそのことを咎める道理はない。
「どうしてって、気になったからだよ」
私は、棺持ちが持っていた記録を指さした。
「これはね、ヤムニヤの観察記録。一週間で関節の数も、皮膚の組成も変わってる。それに……ほら、レグビナの記録もある。見てよ。ここの変化。骨格の変化率が同じなんだ。他にも、いっぱい符合する場所を見つけたんだよ」
私は、棺持ちの兜を見上げた。
「でも、まだ足りない。まだ証拠がいる。私は、〝霧〟から生まれる全ての生物の共通項を見つけたい」
棺持ちの身体が少し動いた。
「どうして変化するのか、どう変化していくのか。それを知りたい。もしかしたら、生物だけに留まらないのかもしれない。世界も変化し続けているのかもしれない。もしも、それを、変化の形を証明できたら——」
私は改めて、自身の理想を確認した。
「——そのうねりの中の、私の居場所も見つかるかもしれない」
棺持ちは、しばらくは何も返さなかった。
「そうか」
しばらくして返ってきたのは、そんな言葉だった。そんなことに構いはしない。私は棺持ちに手を差し伸ばす。
「だから、私と——」
「それは残念だ」
黒い輝きが
*
夢だと思った。信じられなかった。
「……戻ってきたのか」
棺持ちが、どこか気だるげに答える。あたしは棺持ちの足元を指さした。その指先は、情けなく震えていた。
「それ、なに」
棺持ちの足元には、血溜まりができていた。発生源など考えるまでもない。見れば分かる。
近くに転がっている頭のない人間の身体からだ。
棺持ちはつまらなさそうに足元を見下ろし、素っ気なく答えた。
「アミアだ」
聞いた瞬間、あたしは奴に向かっていった。どうしてそんなことになっているのか。訊くまでもない。奴の長刀にこびりついている血が全てを物語っていた。棺持ちは苦もなくあたしを組み伏せると、首筋に刃を当てた。冷たい刃が、私の熱を吸い取っていくようだった。
「お前は‼ 何だ‼ どうしてアミアを‼」
絶叫するも、奴は微動だにしない。ただ、後頭部を指で叩き始めただけだった。それを止めると、奴はあたしの鼻先に紙束を突き出した。アミアの記録だった。
「俺の目的は最初からこの記録だ。ついでに、著者の殺害もな」
「どうしてそんなこと……‼」
「教え込まれただろ? 禁のその二だったか? アレで」
「何の関係があるんだよ‼」
「……説明するのも面倒だ。後は長に訊け」
それだけ言うと、奴はあたしの上から退いた。あたしはすぐに奴へと殴りかかったが、腹への凄まじい衝撃と共に吹き飛ばされる。長刀の腹で殴られたということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
「本当なら、俺達の仕事を見た人間は殺さなくちゃいけないことになってる。そこを助けてやるんだ。少しは感謝してくれよ?」
次第に、強烈な頭痛が襲った。どこかに頭をぶつけただろうか。辛うじて動く眼球で、棺持ちの背中を捉える。この目に刻みつけるようにして睨みつけた。この背中は、一生忘れない。視界もぼやけ、身体にも力が入らなくなる。頭を支えていられなくなった首がだらりと下がる。よく見知った顔と目が合った。斬り飛ばされたアミアの首だ。
その顔には、笑顔が張り付いていた。
*
有機合成ユニットを休眠させるというのは骨が折れる。アンドロイド用の麻酔銃が開発されないものだろうか。少し考えた後、あるのだろうが、使う意味がないのだろうという結論に至る。
俺達の仕事は、あくまでアンドロイドの処分なのだから。
「お、二十八番」
向こうから手を振って人影が近づく。俺と同じ黒一色の装甲。しかし、これが量産型スペアボディの標準形なのだから仕方がない。制服のようなものだ。彼はヘルメットの側頭部に狼のペインティングを施している。
「……それ、何だ?」
何なのかについては、もう分かっていた。しかし彼は一応訊いておいた。
「ん? 警戒区域に近づいた野生動物がいたから駆除したまでだぜ?」
彼はそう言った後、クククッと笑った。それから、左手に持っていた少女の……リミの上顎を地面に投げつけた。べちゃり、と耳障りな音が鳴った。歯が何本か抜け、地面に紅白のコントラストを作っていた。
「……これ、ただの人間ですよ」
「はぁ?」
「調査で分かりました。この子は、ただの人間です。ただの、ね」
強調しつつ、俺は彼に訴えた。しかし、彼は笑い混じりに、俺の答えを出迎えたが、俺が何も言わないでいると、やがてその顔から表情が消えた。
「本当か?」
「はい」
困ったと言うように彼は頭を抱えた。
「道理で、マグナム一発で頭が真っ二つになるわけだよ。……にしても、あのときのショットは良かったな。アレをもう一度するには……」
話が支離滅裂になりだした彼の脇を、俺は無言で去っていった。少し歩いた後、振り返った。彼の背中は恐ろしく小さく見えた。しかし、それも仕方ないのかもしれない。
男はおそらく、生まれ変わったばかりなのだ。
*
「時間稼ぎも甚だしいですね」
俺からアミアの記録を受け取った事務員が呆れたように言った。
「こんなもの、データを送ればそれで済むのに……いつものことですからもう驚きませんけど」
「この方がいいだろ? お前にとっても」
事務員は何も答えずに記録を保管庫に直そうとした。しかし、そうはせずに、記録を俺に差し出した。
「もう保管庫に空きがありませんから、これは自分で始末しておいてくれませんか」
記録を受け取ってから、俺はふと尋ねてみる。
「……これで何冊目だ?」
「一万六千七百七十二回目です」
「そうか」
軽く礼をして、俺はそこから立ち去った。
『世界樹』の六百二十五階、既に使われなくなった通路に腰を下ろす。視界の隅に表示された活動限界時間は六時間。随分使ってしまったものだと思う。
*
人類が仮想空間を己の楽園として定めてから、もうすぐ千年が経つ。
どういう経緯でそれが決まったかには興味がない。調べてみたことすらないように思える。試しに詳細を視界に表示させてみる。見覚えは全くなかった。視界から詳細を消し、『世界樹』を見上げた。その呼び名に思わず笑ってしまう。木か。こんなものが。
この距離で見てみると、『世界樹』が無数の機械類で構成されていることがよく分かる。さながら、所々見えているコードは蔦と言ったところだろうか。
『世界樹』は、当時の全人類を収容し、各々に仮想世界を提供するために建造されたコンピューターだった。当時の技術ではこれ以上の小型化はできなかったのだろう。最終的には、頂上を見ることすらできない果てしなく巨大なものへとなってしまった。空ですら、極太のコードで覆われてしまっている。
この樹の中には、人間が百億人程眠っている。視床下部を除いた全ての器官が切除され、生命維持は完全に機械によってコントロールされているため死ぬこともなく、永遠に幸せな夢を見続けることができる、そんな人間が。
となれば、俺はこの樹の警備員……というわけでは決してない。むしろ逆だ。俺は警備されるべき人間……つまり、この樹の中で夢を見続けることを選んだ人間だった。それがどうして、夢から抜け出ているのか。
何も始めからこの仕事についていたわけではない。初期には、『世界樹』の整備と警護は有機合成ユニットを自らの身体としたアンドロイドが担っていた。現在、世界樹の周縁で集落を作り暮らしているような、ナノマシンにより老化を止め、増殖機構を組み込まれた最新型とは異なる、旧型のアンドロイドだ。
旧型アンドロイドが世界樹に危機的な打撃を与えることはない。彼らはその術を持っていなかったし、持っていたとして、それで傷つく程『世界樹』の自己防衛システムはヤワではない。事実、三百年は上手く行っていた。
なら、なぜアンドロイド達は放逐されたのか。それは退屈故だった。
考えるもの全てが手に入る。苦難も何もない世界。そんな環境に放り込まれれば、何が真っ先になくなるかなど考えるまでもない。現状をよりマシにするための力。夢を見るための力。
想像力だ。
仮想世界自体、現実から逃げるために作成されたもの。その拡張には想像力が不可欠だったのだ。それを失ってしまえば、世界は停滞する。
人類は、次第に退屈を覚え始めた。
この危機を解決するためには、世界を拡張する以外に方法がなかった。しかし、それを可能にする想像力がもう自分達にはない。そこで考えられたのが、アンドロイドに社会を構築させ、その記録を用いて仮想世界を拡張しようという試みだった。ただ、ここで問題が一つ生じた。アンドロイドがまともな社会を構成できる土地が、もう外にはなかったのだ。戦争か、災害か。何にしろ、それに近いことが起こったのだろう。でなければ、仮想世界内での永住など、決められやしない。
通常の人間よりも余程強靭なアンドロイドの肉体とはいえ、何も食べなければ維持することは不可能。動植物の製造は人類にとって急務となった。
久々に危機感を煽られたからか、その問題はすぐに解決された。そうして生まれたのが、生物種の元となる物質をランダムに組み合わせることにより、出鱈目な生物を作り上げ、足を踏み入れた生物を原料に戻してしまう霧だった。
現在のアンドロイド達は気づいていないが、あの霧は植物も作り上げている。霧は今も刻一刻と広がり、生活圏を作り上げている最中だ。
こうして、一旦は問題が解決したように思われた。だが……想像力の欠損に比べれば些細なことだが、問題が二つ残った。
一つは、『世界樹』の整備と警備を誰が担うのかということだった。これはすぐに解決した。『世界樹』が常に周囲に送っている特殊な信号により、アンドロイド達は『世界樹』に近づいた途端に停止する。整備についても、自分達が担当すればそれで済んだ。志願者は腐る程いた。皆、止まった夢から逃げ出そうと必死だったのだ。
そして、二つ目が、アンドロイド達がいつか自分達と同じ結末を迎えてしまうのではという懸念だった。俺達には無限に時間がある。例え五千年後、一万年後に起こるであろうことでも、明日に起こる問題に等しかった。
その解決のために用意されたのが俺達だった。
技術の発展に不可欠なものは、体系化された知識だ。それを排すれば、危惧すべきことは起こらない。
霧に囲まれた土地は、常に超小型の監視装置によって見張られている。要するに、知識の体系化……生物の観察記録などをアンドロイドが始めた場合には、すぐに報告が届く。
その始末が俺達の仕事だった。スペアボディに一時的に身体感覚を移し、改良版の霧を派生させる噴霧装置を背負った、アンドロイドが言うところの、棺持ちの仕事だった。
*
そろそろ、辞め時なのではないかと考えることが多くなっていた。
別に、この仕事が嫌になったわけではない。もう一万人以上の首を切り落としているのだ。そもそも、倫理道徳などとっくに退屈に磨り潰されたのだから、抵抗は最初から存在しなかった。
単純に、この仕事ですら退屈になり始めたのだ。
かいつまんで言ってしまえば、標的の下へと向かい、文書を回収してから始末する。それだけの仕事だ。一見するとシンプルで、つまらなさそうな仕事。だが、それを達成するまでの途上には、アンドロイドとの関わりがある。この仕事のなり手が尽きない理由だ。今や、人間よりも人間になった彼らと関わることは、忘れ去ってしまった刺激を俺達に与えてくれた。
だが、五百年もこの仕事に就いていれば発展を阻まれている彼らとの間でできることは網羅してしまえる。標的にしろ、していることは皆同じだ。動機の違いこそあれ、似たような者ばかりだった。
正直に言うと、今回の仕事に関しては少し期待していたのだ。まさか、本物の人間に出会えるとは思ってもいなかった。
あの里の長は旧型のアンドロイド……つまり、『世界樹』の整備に携わり、この世界の成り立ちを知っていた者に違いなかった。一人だけ老化していたのが何よりの証拠だ。放逐の際に記憶処理がなされたはずだが、どのようにして避けたのだろうか。それはどうでもいいが、おそらく長は『世界樹』頂上部にある噴霧装置の整備担当だったのだろう。故に、霧から人間を作り上げられたのだ。
長はあの人間の少女を使って、『世界樹』にアクセスしようとしていた。楽園に自分も辿り着きたい。それが理由らしかった。俺は止めたものの、聞きやしない。遂に長は彼女をここへと向かわせた。
主が周辺にいることも知っていたのだろう。俺を護衛に参加させたのは、あわよくば俺が食い殺されればいいという思いからだったのかもしれない。
……結果こそ、少女が殺されるだけに終わったが。
ふと、見逃したあの少女はどうなっているだろうかと考える。もう目を覚ましただろう。首でも持って帰ったのだろうか。もしそうだとすれば、今頃騒ぎになっているはずだ。長は真実を話すことになる。事の転び方によっては、『世界樹』への攻撃も——。
首を横に振った。机上の空論もいいところだ。いくら人間を作れたところで、『世界樹』の防衛システムを突破できることはない。アンドロイドの協力があっても、棺持ちには勝てるはずがない。
……もしもこの空想が叶えば、退屈はせずにすみそうなのに。
生まれ変わってしまおうか。狼印の棺持ちのことを思い出す。彼とは多少面識があった。以前、彼は真逆の性格をしていた。アンドロイドを処分することにも多少なりとも抵抗を覚え、この仕事を通してしか生の実感を得られないことに嫌悪感を覚えていた程だった。
それがああなってしまったのは、最近流行しているネオ・ロボトミーが原因だった。大部分が機械化された脳機能を自由に改変することで、人格をデザインすることができるという施術。言い換えてしまえば、人類に残された最後の砦である、積み重ねられた時間を放り投げてしまう施術だった。
呆れた話だが、効果は絶大。あの施術を受けた人類は皆底抜けに楽しそうだ。
受けるとして、どのような人間になろうか。考え始めた時、手に持った記録に目が向いた。
これを書いた少女のようになろうか。全てが分かりきっている世界での探求。こんな矛盾はまだ試していない。
一瞬胸が湧き立ったことに虚しくなる。最早矛盾にしか居場所がないなんて。
活動限界時間が迫っていた。俺は徐ろに記録を手放した。緻密に図や詳細が書き込まれた紙は、そよ風に乗せられて舞い飛んだ。その光景を見送ると、俺は身体を反転させる。真っ黒な、ガラクタをかき集めたような樹が目の前にはあった。あと少ししたら、俺はこの中に戻るのだ。全てが叶う、楽園のような棺の中に。
もう一度だけ振り返った。丁度、日が沈み、あの集落に影がかかるところだった。葬式でもしているのだろうか。……いや、考えるだけ無駄だ。もう、あの集落のアンドロイドの名前など、覚えてもいないのだから。この感覚には覚えがあった。もしかすると、もう俺はネオ・ロボトミーを受けたのかもしれない。
どちらでもよかった。どうせ何も変わらないのだから。
日は、ゆっくりと落ちていった。