【一】
これから話す狐は尾が白く、脚は黒く、胴は茶色く、ただ眼だけは特別に赫かった。それが周囲の狐からアカ、と呼ばれる所以であった。
アカが生まれて半年ほどたったある日。彼の群れを取りまとめる長老は次のような話をした。
元来我々の祖先は、かの殷の紂王を誑かした九尾の狐である。伝え聞くところによれば、その狐は殷王朝が滅んだのち、天竺、南越、朝鮮と飛び渡ってはその地の為政者を誑かし、都度悉く国を傾かせ、果たして東の果てにたどり着いたのだ。さらに今は、ある地で殺生石という、近づけば息霊を肉体から剥がしてしまう恐ろしい呪石へと変貌し、それを知る者からは未だ畏怖の対象である。
アカの生まれた山は奇妙な生態系をしている。まず、頂点にいるのは犬でも狼でも、熊でも鷹でもなく、狐である。よく群れよく学び、潔くかつ気高い。群れの中には地位も権威もあって、さながら軍隊のように動く狐たちであった。
長老が腰を据える大きな丸石の周りに、生後一年に満たない子狐が円状に並んでいた。アカはそのうちの一匹で、しかも周囲の子狐よりも一回り小柄である。
「そういう、特別な経緯を持つから、我々もまた特別な狐だ。私は都合何度もこの山を離れ、国中を回ったが、この山の狐ほど理にかなったものはなかった。いや、信じがたいことだが、そもそも他の地の狐は群れを作らぬらしい」
アカ以外の狐が一斉に驚愕し、口を半開きにさせた。
「獲物を捕るにも、縄張り争いを回避するのにも、自身の生存のためにも、群れることほど的を射た仕方があるでしょうか?」
ある狐がそう言うと、アカ以外の狐も一緒に頷いた。「そうだ」「馬鹿げている」と口々に賛同する。
「さて、アカ」
長老が名指しでそう呼んだ。ざわつきが止んだ。
「なんでしょう」
アカは静かに答えた。
「なぜ頷かない」
「信じ難い話だと思ったからでございます」
敵意の混じった視線が一斉にアカに降りかかった。彼自身は全く動じた様子はない。
「信じられないか。無理もない。お前はまだこの山から出たことがないから」
長老が、若者の無知をあざ笑うかのように言った。いや、実際そういった類の嘲笑であった。
「そうでしょうか。では聞きますが、集団を作らぬ狐と、我々のように集団を作る狐。これを数で比べれば明らかに少数なのは我々であるはずです」
「無論そうだ」
「であるならば、まずもって、正しかったのは個を貫いた他の狐と言えるはずです。数が多いということはそれだけ生き延びているということです。ここから、群れないことが最適解で自然の摂理であるから、より多くの個体が残っているのではないかという疑問が浮かびます」
「言っただろう。そもそも我々は特別なのだ」
「それだけでは納得がいきませんね。そもそも九尾の狐の話だって、伝え聞いたということは、確証がないということではありませんか。不確かな事実を理由として用いることを許すなら、眉唾も真実になってしまいます」
「アカよ」
長老が、鋭くアカを睨んだ。周囲の子狐はあわあわとしながら、成り行きを見守る。
「この山から出て行きなさい」
長老は、そういうと肩を怒らせながら丸石から降りて、どこかへ去っていった。そうして、残された子狐の多くが、心配そうにアカをちらちら見るのだった。
長老から追放の命が下ったことを母狐に報告すると、彼女は「そう」とだけ零しアカの瞼をなめた。
狐は、ある程度大きくなると巣立つ。自ら去ることもあれば、母親に強いられることもある。後者の方が場合として多い。
母狐と離ればなれになるのが嫌で、泣きながらじゃれつこうとする子狐をアカは幾度か知っていた。
しかし、そう言った光景を見ながら、心のどこか冷たい部分で、自分より長く生きているくせにみっともない奴らだ、と罵っていた。自分一匹で生きぬく自信がないから、母にすがろうとする。恥ずかしいことだ。そう思っていた。それがどうだろう。アカの目の前にいる母狐は、巣立ちを拒む子狐と同様に悲しげである。
自信など関係なかったのかもしれない。彼らはただ寂しかったのかもしれない。
「忘れるのよ。私のこと、ここでのこと」
巣から出て、歩き去ろうとするアカの背中にそんな声が届いた。静かに雪が降る夜のことだった。
アカはもう一度、巣の前に立つ母狐を振り返った。
雪が垂直に降っている。森の暗がりと、月に照らされた純白の間に、母狐の立ち姿がくっきりと浮かんでいた。
アカが山を下ると、待ち構えていたように麓に数十匹の狐たちがいた。どれも皆、アカと同年代である。
「なんだ君ら。僕についてくるのか?」
皮肉そうに肩をすくめて聞くと、彼らは思いのほか真剣に頷いて返す。
「どうせ巣立ちの時期だ。少しでも生き延びる糸が太い方を選ぶさ」
それが彼らの総意であるらしく、その後はアカの返答を待つ静寂が訪れた。その言葉の意味は単純である。
アカは異様に狩りが上手い。小柄というのも的が小さいと考えれば優位に働く。俊敏さも頭の切れも、群れを率いる資質においても、アカは随一であった。彼らがアカに付いて行くと言い出したのは、情に促されてのことではなく、生存のための選択肢として、彼についていく方に旨味があると判断したまでのことであった。
「いやだね」
アカは鼻を鳴らしながら言った。そして続ける。
「僕は一匹でだって生きていける。君らの面倒まで見るのは骨が折れるだけだ。相応の利がないと首を縦に振る気はない」
「利?」
「いざというとき、可能であるなら、僕のために死んでくれ」
アカはこの条件が飲めるのならいっしょに行こう、といった。
そうして、その場に残ったのは四匹だけだった。
かくして、アカを中心とした狐五匹は、生まれ育った山を捨てて旅立つこととなった。
*
落ち着いて暮らせる場所を探し、アカ一行が旅を続けること三年の時。
七つの山を越えたその麓で何も生えていない一筋のけもの道を見つけた。いや、ただのけもの道ではない。道幅は一定で、先が見通せないほど長く、折れ曲がることなくまっすぐである。
「まずいぞ。これは道だ。人の作った道だ。この山に住むことは出来んな」
ボックリと呼ばれる狐がそう言って肩を落とした。
確かに、彼らの目の前に敷かれる獣道は、俗に人間どもが街道と呼ぶものである。
ボックリは、早く引き返そう、と何度もアカにささやき続けている。彼は群れの中で誰よりも体が大きいくせに、臆病者で、何か恐ろしいことに出くわす度に、我先に逃げ出すか、アカの後ろに隠れていた。もっとも、体格差のせいで、全く隠れたことにはならないのだが。ちなみに、なぜボックリと呼ばれているかと言えば、そいつが松ぼっくりで遊ぶのが好きだからである。
さて、アカたちには、生まれ育った山、さらには今までの三年の旅の中で、頭と体にしつこく刻まれた大原則がある。
人は危険だということだった。人は賢い。人は道具を使う。人は群れる。人は恨みを忘れぬ。
そして、時に愚かであった。
ある時、あれは故郷から離れて一年に満たない頃の話。
アカたちは妙な人間を見かけた。そいつは、白い衣をまとい、やたら重そうな木箱を背負って、足には転びそうなほど安定感のない下駄をはいていた。好きでやっているのかと思えば、心底つらそうな顔で、息せき切って歩いている。足も思うように動かず、杖をついてやっとという有様だった。
「あれはなんだ?」
ボックリがつぶやいた。
「人間だろうさ」
アカが、そういうと、皆しげしげと、あれがそうか、と感心したように唸った。
「何をしているのだろうな。あんな状態じゃ走れやしない。狩りどころか危険から逃れることもできないだろうに」
ボックリは不思議そうに首を傾げた。
「ならば、何か他に重要な用件があるのだろうさ。それこそ、生きることよりも大切なものが」
そう言ってきたのは、群れで一番の知恵者を自称するクロという狐だった。洞察力に優れ、理解力もあり、言うことどれも筋が通っているので、よく皆の相談役になっていた。しかし、その分優柔不断で、どんくさいため、狩りの最中はお荷物以外の何物でもない。ちなみになぜ、クロと呼ばれているかと言えば、尻尾の先が黒いからだ。
クロの発言を受けて、ボックリは笑い出し「ばかげているな」と言った。他の狐たちは全くだと言ってまた歩き出した。
「どうだかな」
アカは誰に聞かせることもなく口の中でそうつぶやいた。
この時、アカは自分の中に明確な好奇心が芽生えていることに気が付いた、人を知りたい。具体的に言えば、彼らは賢いくせに、なぜ馬鹿な行動をするのか。その理由が知りたい。そこに人間の核心がある気がする。
だが、とアカは後ろを振り向いた。そこには、数も増え、今や二十匹になろうとする狐の集団がある。旅の最中で生まれたり、加入したりする狐がいたのだった。
彼らを率いる責務を負ってしまった以上、アカだけが自分勝手な生き方をするわけにもいかない。所詮口約束であるから、反故にしてしまってもよいかとも思ったが、そこは生来彼が持つ気高い矜持が邪魔をしてきた。
ならない。一人で好奇心の赴くまま生きることはならない。
さて、話を現在に戻そう。
人間の作った一本道を見て、ボックリが残念そうにしているのは、アカたちが虎よりも危険な動物であると見做す人間という生き物が、すぐ近くに暮らしている可能性が高いからである。
特に、少し前に人間の猟師によって、死にかけた経験を持つボックリからすれば、その過剰な反応もうなずけるところである。
人の近くに住むということは、猟師と戦いながら生きねばならないことを意味している。
「しかしな。人の近くに住めば、他の狐たちと争わずに済むじゃないか」
理知的な声でボックリに反論する声があった。クロである。
「一理あるな」
アカが言った。
「しかし危ないだろう」
間髪入れずボックリが怒鳴った。
「危ないというのなら、どこでも危ないさ。重要なのは、危なさの種類だよ。私らにはアカがいる。今までだって何度も猟師に襲われたが、そのたびに全部アカが噛み殺してきた。一方でクマに襲われたこともあった。他の狐に襲われた時もあった。鷲の時もあった。全部誰かしら重傷を負っている。私はね、今のところ人間の方が危険性はないと思うね」
「クロ。お前がそんなこと言えるのは運がいいからさ。俺なんか、肩に矢を受けて死にかけたんだぞ」
「何が運なものか。それはお前が、勝手に逃げ出したからだろう。他の奴と同じようにアカの言うことに従っていれば、誰も傷つかずに済んだのに」
よく言うな、と内心アカは舌打ちした。そもそも、クロは慌てふためいてその場から逃げ出すこともできなかっただけだ。団栗の背比べだ。
大体、危なさの種類、と偉そうに言っているクロであるが、その尺度が実際に出会ったときのことしか考えられていないのは問題がある。
人間は、実際に対面した時にはさほど危険性はない。それよりかは、罠を配置したり、見えないところに伏兵や猟犬を配置したりするところが恐ろしいのだ。
人間は道具を使う。それは、身に着けている物を有効活用するという意味ではない。彼らは、自然物を自由自在にそれも驚くほど使用用途に適した形に加工する。そこが恐ろしいのだ。
しかし、アカはあえてクロの言葉を捕捉しなかった。クロの意見に乗っかれば、人里の近くに住むことができる。人間に興味のあるアカからすると好都合な立地だ。危険性で言っても、人間の罠はしっかりと目を凝らせば見通せる。この数十匹の群れを存続させるくらい造作ない。何より、人間側にとって狐という生き物は狩る利益のあまりない存在だ。見つけて狩れそう なら狩る。そのくらいの生き物。関わらなければ、狙われることもない。
「この山に住もう」
アカの言葉に、ボックリが絶望し、クロが納得したようにうなずいた。
*
アカが、人里近くの山に拠点を定めて一年がたったころ、アカはよく人里に出かけるようになっていった。他からは、そんな馬鹿なことはやめろ、と止められたが彼に聞く耳はなかった。
「君らは別に来なくていい。どんくさいからな」
そう言って、アカは度々人里に降りて民家の床下に忍び込んでは、人のしゃべり声に耳を澄ませたり、坊さんの説法を聞いたり、ただ人の流れを観察したりした。
そんなことを続けていると、次第に、人の言葉が識別できるようになった。自分でその言葉を発することは無論出来ないが、人が言っている言葉の意味はまず確実に把握できた。
さらに、全ての人間が狐に対して有害であるわけではないことにも気が付き始めた。
小雨の降る日のことだ。雷鳴と湿気で鼻も耳もうまく働かないので、今日はもう帰ろうと、床下から這い出ると、ばったり農夫と会ってしまった。しかし、彼は、私が口にくわえる鼠を見て「そんならいいさ。いくらでも食え」と言って構わなかった。
また別の日、今度は何も持たずにその男に近づいてみると「こらこら、何もやらんぞ」と手に持った握り飯を隠すだけで特に危害は加えてこなかった。
人にはいくつか種類がある。農民、商人、領主、坊さん、猟師、侍。彼らは自分に与えられた役割によって、立ち振る舞いがきっぱりと変わる。狐にとってとりわけ危険なのは、猟師と侍だけだ。農民も全く無害というわけでもないが、彼らは飼っている鶏でも奪われぬ限り襲ってこない。むしろ鼠を食っていると褒めてくれる。猟師も猟師で全てが危険というわけでもない。中には狐と蛇は殺さぬ、という取り決めを自分に課している者もいる。
人間は多種多様で一緒くたに危険だ、危険じゃない、と言えない複雑さを持っている。
アカは人間が好きになった。怖い気持ちもあるが、基本的に好奇心が勝ってしまう。つまりあいつらは面白い、と感じていた。
そうして月日が経過し、アカが齢五つになった年に彼の生涯にわずかなひずみが生じた。
アカがいつものように、人里で人間たちの営みを観察した帰り道のことだ。彼は、久方ぶりに兎を狩ろうと決めた。
アカは、拠点を構えてからはほとんど指示を出すだけだった。時たま威厳を保つために数匹大きな獲物を狩ってくることはあるが、それ以外は全てクロやボックリに任せきりで、自分はさきほど語ったみたく人の言葉を聞いたりして過ごしていたのだった。
その日、彼は兎を探した。しかし見つからなかった。
これは妙なことである。
アカは、群れの全員に山全体の兎の数が一定になるように配慮せよ、と厳しく伝えている。
理由は二つ。
一つは兎が減りすぎれば喫緊の事態の時に、自分たちの糧がなくなるから。
もう一つは、人間に目を付けられるからである。
基本、生物界ではある動物を、また別のある動物が捕食する場合、その度が過ぎれば捕食側の個体数が増える。アカはそのことを十分理解していたし、人間側も同じ認識を持っている。
そこで兎が少なくなり狐が多くなれば、人間たちは兎減少の原因を狐に見るだろう。そうなれば、遅かれ早かれ狐狩りが始まる。
そもそも人間側に狐を狩るメリットは少ないというのは先に述べたとおりである。精々毛皮が安く売れる程度だ。肉もそこまで美味ではない。何もしなければ基本的に人間が狐を標的にすることはない。兎を過度に捕食するのは、人間側に、恨み心、を与える馬鹿の所業である。
人は、恨みを忘れぬものだ。ウサギという貴重な肉食が絶たれ、黙っている生き物ではない。人間好きであるからこそ、アカはそう確信していた
アカは真っ先に群れに戻り招集をかけた。そうして集まった狐たちの数を見て、自分の不出来さを呪うこととなった。
間違いなく個体数が増加している。百匹はいる。小さな山には収まりきらない馬鹿げた数だ。まずい。これは非常にまずい。どうしてもっと早く気が付かなかったのか。
いや、最も大きな原因はわかる。アカが自分の群れの状態を把握する努力を怠っていたのだ。
さらに言えば、この中には彼の命令を無視して兎を多く狩っていた狐が紛れ込んでいるはずだ。しかし、それをあぶりだすのは困難だし、十分な時間もない。
「拠点を変える」
アカがそう言うと、狐たちはざわついた。
「ずいぶん急じゃないか。何かあったのか?」
クロが聞いてきた。
「兎が少ない。この中に大飯食いがいる。今すぐかみ殺してやりたいが今は、時間が惜しい。別の山へ移動しよう。ここは危険だ」
極端に焦った様子のアカを見て、 クロとボックリは事態の深刻さに喉を鳴らした。
「しかしな。もうすぐ冬だ」
クロのその指摘は確かにそのとおりである。最近、風が少し涼しくなっている。この季節は、なるべく動かず、なるべく多く飯を食い、冬を乗り越える準備をするべきだ。
「では体力のある奴だけ僕についてこい。それ以外のやつとはここでお別れだ」
アカは心の冷たい部分で、冷静に算盤を弾いた。そして大きな石から飛び降りて、群れの前に立った。
彼がゆっくりと歩きだすと、さっと川の流れが岩を避けるように、狐の群衆が割れて道ができる。
「アカ!」
ボックリが急に声を張り上げた。立ち止まり振り向くと、寂しそうな顔でこちらを見るボックリとクロがいた。
「俺はもうだめだ。最近体が思うように動かない」
そう言って、ボックリはうなだれた後、ここでサヨナラだ、と続けた。
「私も」
今度はクロが言った。
「歳には勝てない。もう君みたいに、自由に走り回ることもできない」
狐にとって、五歳は長生きの部類に入る。通常は栄養不足や他の動物に襲われるなどして、二歳か三歳で死ぬ。アカに関しては不思議と老いを感じたことはなく、未だ体は言うことを聞いてくれる。しかし、同い年のクロとボックリはもう体力が衰えているらしかった。
「そうか。達者でな」
それだけ残して、アカは振り向きもせず群衆から離れていった。ほんの数秒、残された狐たちが目配せし合い、やがて若い狐が中心となってアカを追いかけ始めた。
風の音が少しもしない奇妙な夕暮れだった。
真っ赤な西の空と対極に、東は薄い紫色が差し込まれていた。鈴虫がギーギーと煩かった。立ち込める土の匂いは今朝降った雨のせいで若干湿っている。……その日アカの鼻がうまく機能しなかったのは、その湿気のせいであった。
若狐たちが、じわじわと様子をうかがいながら、アカの後ろを歩き始めたその時だった。
鋭く風を切る音がした。
百匹を超える狐たちは、突如として「ギャーギャー」と泣き始める。木々がざわつき、そこに潜んでいた鳥が一斉に飛び立った。
アカは、風を切るその鋭利な音の正体を知っている。胸の中に、すとん、と重いものが落ちてきた。
あの音は、弓矢である。弓矢とは、人の道具で──主に生き物を殺すために用いる。
「塵尻になれ!」
振り向きざま、アカはそう怒鳴った。途端、何かが眼前に迫ったかと思いきや、激痛と共に彼の視界の半分が暗転した。
左目に、弓矢が突き刺さったのだ。
ぐらりと倒れそうになる体を支える。電流が走ったように、数瞬間だけ左半身が動かなかった。
アカは意志を強く持ち、前を向いた。
弓矢は真っ直ぐ進むのだ。残った右目で、矢の飛んできた方向を真っ直ぐに見やると、五人の男が立っていた。
猟師だ。足元に犬がいる。一匹。茶色。大きさはボックリと同等。
「ぞろぞろ集まって、気味の悪い奴らだ」
男の一人はそう言うとまた弓を引いた。
狭まった視界の中で、仲間の狐たちはアカの指示通り塵尻に逃げ出していた。それを見た男たちも追おうとするが、先ほどと同じ声の主が「よいよい。追っても無駄だ」と動きを制した。
あいつだ。あいつが僕を射たのだ。
アカは魂に男の容姿をくっきりと記憶した。
四十を超えたあたりの、痩せた男。顔の輪郭は円を縦に伸ばしたドングリのような形で、顎に無精髭、頬に刃物でできたような一筋の傷跡がある。アカは心の中で、その男をドングリと呼ぶことにした。ドングリの眼光は鋭く、冷たく、どこかアカと似ている。その視線がぴったりと一つの赤い眼を捉えた。
「あいつだ。あの左目に矢が刺さった狐」
ドングリがアカを指さした。
すでにその場に残っているのは、逃げそびれて網にかかった狐十匹ほどと、死んだ狐数匹を除いては、アカと男たちだけだった。
「あ? 何がだい?」
ドングリの言葉の意味が捉えられず、混乱する残り四人。ドングリはじれったそうに「あいつが大将だ」と言った。
「狐ですよ。大将も何も、狐は群れませんよ」
「現に見ただろう。集まっていやがった。あれだけうじゃうじゃいりゃ山の兎も消えてしまうわな」
男はそう言いながらもよどみなく、次の矢先をアカに向けた。
アカは、颯爽と身を翻すと、生涯で初めて本気で走った。その速度はすさまじく、瞬く間に野原の先へ一匹の狐の影は消えてなくなった。ドングリは構えた弓を下げ、舌打ちした。
アカは野原を走り抜けると、そのまま林も通りこし、森へと入っていった。
そうして息を整えながら、仲間の狐たちの匂いを探る。だが、いかんせん自分の血の匂いが邪魔をした。あまり使いたくない手段であったが、やむをえず二三空に向かって吠えた。するとややあって、先ほどアカについてこようとしていた若狐たちがぞろぞろと集まってきた。
「平気ですか?」
アカが何度か狩りの面倒を見てやった子狐が心配そうに近づいてきた。無神経な質問に対してアカが右目で睨みつけると、子狐は、すみません、と肩を落とした。
アカはその場にいる狐に手伝ってもらい矢を抜くと、朦朧としながら、木にもたれ掛かった。
目下、とりあえずは、居を東へ移さなければならない。確かここより東は、しばらく人里がなかっただろうから。それはいい。
ただ問題は別にある。
絶対にあの猟師を許さない。まずもって噛み殺さなければ気が済まない。
その場の若狐たちは不安そうに、アカを見つめて動こうとしない。それはきっと、自分たちの頭領がここまで弱っている姿をただの一度も見たことがないからである。
その若狐たちのなんとも頼りない様を見て、アカは表情に現れる失望を抑えられなかった。
優柔不断な奴らだ。普段から群れて誰かを頼ろうとするから、こういう瀬戸際で、行動指針が持てず満足に動けないのだろうな。
アカは、そのように思い、目の前にいる若狐たちを戦力から除外した。
「お前たちは、さっさと東に向かえ。この先に大きな川が一つ。さらにその先に天辺が鋭くとがった山が見える。そこまで行け。僕にはまだ用が残っている。後で合流しよう」
若狐は、おそらくアカがこの後何をする気なのかを察し、ぞろぞろと東に駆けていった。
そうして、若狐の背中を見送った後、アカは再び猟師たちがいるであろう山へゆらゆらと歩き出した。
*
雲も風もない満月の夜空は、その下を歩く人間に松明の必要を感じさせないほど明るかった。
猟師たち一行は、まばゆい月光の下、狐たちが集会を行っていた野原の上で、とらえた狐の頭に穴をあけるとそこに縄を通した。数が数なので二つに分け、その両端を一人ずつ持った。つまり、四人で狐の死体を運ぶ図になる。
唯一身軽なのはドングリで、彼は犬の首に繋がれた綱を持っている。
ドングリたちは、数年前、アカがよく人間観察に利用していた里に越してきた。
元々は、北の遥かに寒い地域に住んでいたのだが、新しい領主が、慈悲に溢れる人、言い換えるなら狂った人だったので、動物が死ぬのをたいそう嫌がり、狩猟を禁止してしまった。
生業をなくしたその地の猟師たちは、他の地を転々と歩くことになり、そのうちの一人がドングリたち一行である。
彼らは数年の月日を費やし、何とか新しい里にも受け入れられ始めたころだった。子供も妻もいた。まずまず順風満帆と言えた。
数日前、ドングリはこんな話を里の僧侶にされた。
「近くの山にな、厄介な狐たちがいるよ」
「ほう。狐ですか」
割れた茶碗に入った水を、ぐいっと飲み干すと、ドングリは粗雑にそれを本堂の床に置いた。コトンと、陶器が木を小突く音が響いた。
「ただの狐ではない。厄介な、狐だ」
「わざわざ言うくらいですから、それはわかりましたがね。その、厄介というのは、どのような?」
「その狐はな、群れを作るそうだ」
「はは、それは奇妙なことだ。狐が犬の真似事ですか」
「ただ群れるだけなら文句は言わんよ」
ドングリは、無精髭をさすり、わざとらしく思案顔を作った。
「なるほど。見えてきましたぞ。鶏でも襲われましたかな?」
「いや、襲われておらぬ」
「では作物を」
「それも無事だ」
「では何が?」
「兎がな、減ったのだ。帳尻を合わせるように、狐の数は増えておる」
「確かに、それは大変迷惑なことだ。して、私にわざわざその話をするというのは?」
「狐の数を減らしてくれ」
僧侶は、涼しげにそう言うと、ドングリの前にあった茶碗を自身の脇に移した。
「でしょうな。この里の者は狐が好きだから」
ドングリは、そう言って鷹揚に頷いた後、快諾の意を示した。僧侶は、それに対して静かに頭を下げた。
ドングリにとって狐狩りは、好きの部類に入るのだが同時に苦手の部類にも入る。
狐は賢く、俊敏である。
その点は犬も同じなのだが、あれは犬よりもより人間臭いところがある。それが怖い。
狐は他の動物より数段疑い深く、泥臭い。時に人をだまそうとさえする。
そんな厄介な奴らだからこそ、それが自分の手にかかったとき、あるいは弓矢に射抜かれた時、ドングリの全身には快感が走るのだった。
ドングリ一行は、述べ二十六にもなる狐の死体をもって歩いた。だが数刻の後、その歩みを止めた。
「なぁ。道を違えているのではないか?」
事態の認識は、一人がそう言ったことに端を発する。
「違えるわけがない。目印の通りに来たのだから」
目印とは、木に括り付けられた色付きの布のことである。現在彼らの目の前にもそれがある。この地域の猟師たちは、互いに安全な道を共有し合い、分かりやすい場所に道標を残している。その一つが、木に括り付けられた布である。この布は夜でも識別しやすい白い布で山道や獣道の分岐点で迷わないように、進むべき方へ結び目が向けられている。
現在彼らは、その目印通りに進んでいるのだが、一向に野宿する小屋までたどり着くことができない。しかも、先ほどから同じ場所をぐるぐると回っている気さえする。
昼間のうちに、その印通りに進んで人里まで戻れるのかどうかの確認もした。あの狐の集団を見つけるまでもこの目印を確認しながら進んだのだ。抜かりはなかったはずだ。迷う要素がどこにもない。
「まいったな。これじゃ帰れない」
「文句を言っても仕様がない、とにかく歩くぞ。ただの勘違いかもしれない」
「……だから夜に山に入るのは危ないとい忠告したのだ」
そう言った男が、前を歩くドングリに視線を向けた。
「おい、お前だぞ! お前が、夜が良い、といったから!」
ドングリの足が止まった。そして、無表情で振り向いてくるものだから、残りの四人は気味悪そうにたじろいだ。
「な、なんだよ。八つ当たりぐらいしてもいいだろ?」
その声も聞こえていないかのように、ドングリは何か凄まじい集中力を発揮しながら、周囲を見回している。そして突然、「さっきと同じところだ」と言った。
「へ?」
四人が顔を見合わせた。
「目印の向きを変えられているんだ。それで、同じところを歩かされている」
ドングリはそう言いながら、木に括り付けられた白い布を凝視した。
「やっぱりだ。布を回した跡がある。少しだが木の皮が捲れている」
「誰がそんなこと」
「わからない。ただ、俺たちは登るときも目印を使っているのだから、その後であることは間違いない」
「俺らの他にも夜の山に誰かがいるってことか?」
否定してほしそうに、ドングリに八つ当たりしていた男がつぶやいた。
「……」
ドングリは何も答えない。四人も何も言えなかった。
虫の鳴き声だけが聞こえる。五人の男の頭上から、木々の隙間をくぐって月がかすかな光を下ろしていた。
しばらくして、一人が、とにかく歩こう、と言って皆それに従った。
一行は目印の示す方とは逆側に進んだ。
歩いている最中ドングリだけは眉間にしわを寄せ、必死に考えた。考えすぎて額が熱かった。何か得体のしれない焦りが全身を満たしている。そんなことは初めてだった。
ドングリは勇敢な男だ。過去に熊と対峙した際でも、微塵の恐怖すら抱かなかった。自分はこんなところで命を落とすはずがない、という絶対の自信だけがあった。その自信に根拠などない。ゆえに、ドングリは死地を乗り越える度に思った。これは、自分の経験からくる自負でもなければ、無知からくる傲慢でもない。縁だ。自分は、死との縁がないのだ。その縁を持たずして生まれた人間なのだ。だから、不安など一切抱かない。
しかし、その今まで無かったはずの縁が、死との縁が、今生まれた気がする。そこには根拠などない。根拠がないという理由で、彼はこの縁を強く肯定した。
──何か、凄まじい危険が自分の身に迫っている。
歩いた先で、一行はまた別の目印を見つけた。赤い布の目印だ。
ドングリ以外の男の顔が不安に歪んだ。気が付けば、彼らは見たこともない場所に立っていた。地面は泥だらけで歩きにくい。先ほどまで北東に見えていた山頂が今や北西に見える。
彼らの足元で犬が目印の括られた木の根本を、くんくん、と執拗に嗅いでいた。殆ど鼻を泥に擦り付けるかのような姿勢で何かを探している様子だった。そして、次の瞬間、「ギャンギャンギャンギャン」と狂ったように吠え始めた。
四人の男が一斉に「あわわわ」と情けない声を出し、狐の死体を地面に落とした。
泥が飛び散る。
ドングリの額に、冷や汗が伝った。
その時茂みから、物音がしたかと思いきや、犬の鳴き声が唸り声に変わった。
ばっとそちらを向けば、隻眼の狐が大きく口を開け、その牙で犬の鼻と顎を強引に挟み込んでいた。犬は仰天し、首をブンブンと左右に振った。犬の体に対し一回りも二回りも小さな狐はそれだけで体ごと空中で左右に振り回された。
しかし、離れない。驚くべき咬合力を発揮し、狐は犬から離れようとしない。
慌てた猟師の一人が弓を構えた。すると、先ほどまでの抵抗が嘘のように、狐の体が犬から離れ、茂みの中に消えた。それがあまりにも一瞬でかつ鮮やかだったため、猟師は既に狐が離れていることには気が付かず、その動乱した精神の赴くままに矢を放ってしまった。
「馬鹿!」
ドングリが怒鳴った。
矢は運悪く犬の肩に当たる。犬は「キャン!」と鳴いて、その場で怯え震えながら倒れ伏した。
そしてまた一瞬の静寂。
「おい。何だ今の。……狐か?」
「ああ。赤い眼だった。あんたが、射抜いたヤツだろ?」
猟師の一人がそう言って、ドングリの脇を肘でつついた。
ドングリは、微かに零れ落ちてくる月光の下で犬に噛みつく狐を視認した時、自分の焦りの正体が、その狐であると悟った。
彼は神も仏も説法も信じない。常に絶対的に信頼を置くのは、その場その場で揺れ動く己の心のみである。
そんな彼の心が今、一つの指針を形作った。
この夜だけは、あの片目の狐を狩ることだけに全力を傾けよう。さもなければ、自分は死ぬだろうから。
*
アカは、地元の猟師たちが木に括り付けた目印の位置と機能をすべて理解していた。
白い布は最短経路の道標。その数四十二。
青い布は安全経路。その数三十一。
赤い布はその周辺が危険地帯であることを告げている。その数六。
アカはまず、赤い布のいくつかを噛み千切って回った。次いで。猟師たちを見つけると先回りして、白い布の向きを変えた。それを繰り返し、地元の人間が迷いやすいために立ち入ることのない雑木林に誘導したのだった。
この雑木林が危険な理由は大きく二つ。
一つは、今述べた通り、迷いやすいこと。なまじ木々の隙間が開いているため、どこもかしこも獣道に見えるのだ。鼻の利かない人間は、まずもって混乱する。
もう一つは、地盤が緩く、一度雨が降ればぬかるんで歩きにくくなるうえ、周辺に転倒したら即命を落としかねない岩場や崖が点在していること。
アカは猟師ら五人を見つけた時、自他の現在地と移動速度を鑑み、彼らをほとんど確実に誘導し且つ辛うじて対等の戦いに持ち込めそうな地形は、この雑木林しかないと瞬時に確信した。
そして、目論見通り彼らを雑木林に誘導した後、考えたのは最も恐ろしい要素は何であるか、である。
正直、野生の世界において、戦い方、つまりは戦略などほとんど役には立たない。敵は自分の思い通りには動かないのが常であるし、結局は、臨機応変に事に当たるのが吉と出る。
だから、まずはどう戦うかを考えるのではなく、最も恐ろしいものは何かを考える。
アカにとって、それは、猟犬だ。
人間の雄五匹よりも猟犬一匹のほうがよほど怖い。まずはそこからだ。
算段はこうだ。
まず、全身に隈なく泥をこすりつけ、犬の鼻をくらませる。
そして、彼らがまた立ち止まったタイミングで慎重に近づき、茂みから犬を襲う。
狙うのは鼻。とにかく鼻を駄目にする。
その後のことは、後で考えればいい。なんとでもなるはずだ。
アカはそう考えた。
実際には、木の根元に付着していたアカの血液に犬が反応したので、計画を若干早めることになってしまった。本来はもう少し野原から離れた位置で襲う予定であったが、致し方なかった。犬は匂いを記憶する生き物だ。一度でも、何かの匂いを覚えれば、その匂いに対する嗅覚の解像度が跳ね上がる。つまり、あのままアカの血液の匂いを覚えさせてしまえば、接近した途端たとえアカの姿が茂みの中に在ろうとも、猟犬はそこに向かって吠えるだろう。
それだけは一番避けなければならない。
奇襲が効かなくなればアカに勝ち目はないのだ。
アカは、犬が木の根元に顔を埋めたのを視認した瞬間、躍動した。気づかれようが気づかれなかろうが関係なしに、奇襲が成立する速度で駆け抜けた。犬はアカの想定よりも早く顔を上げ吠え始めた。だがそれで構わなかった。結果だけ見れば鼻は潰した。さらにこれは僥倖だったが、肩に矢も当たったようだ。
もう、猟犬は使い物にならない。
アカは茂みの中を音もなく移動しながら、息を整えた。視界の端には油断なく、五人の男を捉えている。
しかし、異なことで、一向に「シューシュー」と荒い鼻息が収まらないのだった。
アカはこの夜、二つの、初めて、を経験した。
一つは、全力疾走。
もう一つは、緊張。
*
倒れ伏す犬を尻目に、ドングリたち一行はすぐさま野原に向かって歩き出した。野原に出ようとするのは単純に弓矢が使えぬからである。
各々が右手に抜き身の山刀を持ち、慎重に歩く。
転ぶのが一番まずい。走っては駄目だ。走っている最中にあの狐に噛みつかれようものなら間違いなく転倒する。ここは一つ二つ噛み痕を覚悟して進むべきだ。
五人は言葉を交わさずともそれを分かっていた。
たかが狐一匹に、と馬鹿なことを言い出す人間はその場にはいない。猟師相手に狐が牙をむくという異質な状況。これまでの不気味な経緯。全て、あの片目の狐が仕組んだことだとすれば、あの生き物は、熊よりも恐ろしいかもしれない。
それに、一匹とは限らない。
あの場は奇襲に徹するために一番俊敏性に優れた片目の狐だけ姿を現したが、実は伏兵として、何匹、何十匹もの狐が潜伏しているのかもしれない。もしそうなら、奴らが一斉に襲ってきた時点で、男五人は全滅である。
しかしそんな様々頭をめぐる恐怖を裏切る形で、何事もなく一行は野原に出てきた。
「あれ?」
一人がそう言った。そして、他全員もそう思っていた。
暢気に満月がこちらを覗いている。野原の丈の高い草は揺れることなく、まるで一枚の絵のように静止して、月の光を反射している。
そうか、とドングリが突然つぶやいた。他四人は、どうしたんだ、と訝しんでいる。
「コケにされた」
ドングリは、雑木林を振り返りながら言った。
*
十匹以上の狐の死体は引っ張って動かすのもやっとである。それが二本もあるとなれば、なおさらだった。
アカは男たちが去った後、その場に残った犬を殺し、加えて、大量の狐の死体を全て茂みに移動させた。
別に葬式を上げるとか、墓を作るとかいうつもりがあるわけではない。ただ、なぜだか、渡したくないと思ったのだった。
どうしてだろうか、とアカは考えていた。そのつけ、なぜだか一つ思い出す情景がある。
あれは確か、この山に拠点を作って一年が経過したころだ。
「なぁ、アカ。気づいているか? この群れは既に君の一部になっているよ」
狩りから帰ってきたアカに対して、クロがそんなことを言った。その視線の先には、アカが引き連れる狐の群衆がある。
「何馬鹿なことを言っているんだ?」
そう返すと、クロは困ったように耳を垂らした。
「まったく君というやつは、頭の回転は速いくせに、なぜもっと深く物事を追究しないのだろうね。頭の持ち腐れってやつだよ」
「あのな、クロ。いきなり変なことを言われて、確かにそうですね、と答える方が僕はどうかしているヤツだと思うよ」
「それはそうだけどね。私もいろいろ思惑があって話しているわけだからさ、間髪入れずに否定しないでくれよな」
「つまり?」
「友達の言葉についてもっと慎重に考えてはくれまいか?」
「ほほう友達? 君はいつから、僕の友達になったんだ?」
「ひどいな君」
「冗談は、さて省くとしてね、じゃあ、君の発言の真意は何だったんだ?」
「それは君が考えてくれ」
「なんだその手前勝手な回答は」
「君の淡泊になりかねない生涯に、今一石を投じたのさ。感謝してくれよな」
クロはそう言うと、ククク、と不気味に笑いながら、去ってしまった。
こんな下らないのかそうでないのかすら分からない会話をいまさら何故思い出すのか。この脳裏に浮かぶ情景が、果たして、アカが仲間の死体を渡したくないと思った原因に関連するのかどうか、彼自身にも不明である。あるいはそんなことは関係なしに、目の前にクロの死体があるから、思い出したに過ぎないのだろうか。
その時のアカには本当に何も分からなかった。
*
夜がさらに更けた。猟師たちは野原の真ん中で、この先どうするのかで対立していた。
五人のうち二人はこう意見した。このままじっとしていよう。
残り三人はこう意見した。ここから離れ、山を下りよう。
結局その対立は決着がつかず、最終的に三人が下山。二人はその場に待機となった。
ドングリは、残った二人のうちの一人だった。
二人きりになった、ドングリともう一人の男は、背中合わせに腰を下ろした。野原の草木の上に、男二人の顔がひょっこり出ている妙な光景が完成した。
「どうして、残ったんですか?」
男のその質問に、ドングリは、確信の籠った声で返した。
「あいつは、俺を恨んでいるはずだから」
ドングリは自身の背中の裏で、こちらを窺うべく首を向ける男の気配を感じたが、構わず話をつづけた。
「左目を射抜いた時、あいつは残りの右目で真っ直ぐこちらを見ていた。俺にはわかる。何度かああいう獣の目を見たことがあるからだ。あれは、決して許さない、という目だ。だから絶対にあいつは俺を殺しに来る」
男がつばを飲み込んだ。
「それを信じるなら、私が一番損をしていませんかね? もしかして、あなたを置いて、一人でなら逃げられますかね?」
「どうだかな。試してみればいいさ。お前の……お前名前なんて言ったっけな?」
「与吉です」
「そうか。じゃあ、与吉という男とあの狐との間に縁がなければ、無事に山を下りれるのかもしれんな」
「そうですか」
与吉は当てが外れたように、ため息を吐いた。
「まあ、夜が明けるまでは待て。日が昇りさえすれば、方角は明確になる。下山もしやすい」
ドングリは優しさすら感じる柔らかい声で、そう言った。
さて、その頃、野原を抜け雑木林に入った男三人は死亡していた。
塵尻になって逃げだしていた狐の内この山に残る心づもりでいたボックリと、彼に率いられる年老いた狐十匹によって襲撃されたのである。アカの指示によるものであった。
*
雑木林に入った男三人がボックリたちによって仕留められたという報告をアカが受け取ったのは、夜が明ける少し前のことである。
「すぐにここに集まれと伝えろ」
伝令役の狐はアカの指示に力強く頷くと颯爽と消えた。
ここまで、アカはドングリを殺したくてたまらぬ気持ちを抑えながら、実行には移さずにいた。
二人……。二人いる。二人いるのが問題だ。
このままでは、アカはドングリと与吉二人を相手取ることになる。こちらも二匹で迎え撃てばいいように思えるがそう単純ではない。
アカは、与吉だけは里に逃がしたかった。なぜかというと、彼にこの山に住む狐を怒らせたらいかに恐ろしいことがあるのか、里に伝えてほしいからだ。
ドングリは始末するとしても、与吉は逃がさねばならない。問題は、この正反対の事柄を同時に行わねばならないことである。
例えば、二匹で二人の人間を相手取る。アカがドングリに襲い掛かり、もう一匹が与吉を狙うとする。アカは全力で戦うだけだから問題はないとして、与吉を相手取る狐の負担は大きい。殺さず、注意だけは引かなければならない。
では三匹ならいいかというとそうでもない。逃げた三人を仕留めるのに最低十匹は必要であるとアカはふんでいる。そして、この山に残ったアカの傘下の狐は十一匹。アカの戦闘を補助するため引き抜ける戦力は、最大一匹なのだ。
だから待った。優先して逃げた男三人を仕留めてから、次に野原に残った二人を仕留めることにしたのだ。
ちなみに、なぜ与吉に里の人々への語り部を任せたいのかと言えば、いちばん優しく、臆病で、ついでに言うと、まだ一匹も狐を殺していないからだ。歳もまだ十代半ばに見える。おそらく見習いとして来たに違いない。
夜が明けた。着々と、密かに、アカの許に狐たちが集まってきた。
「あれか」
横に並んだボックリが、恨めしそうに言った。
「いいか。若い方は殺すな。殺すのは、あの頬に傷のある男だ。繰り返すぞ。若い方は殺すな。逃がせ」
狐一同大いに頷いたのを確認し、アカは待ちきれなかったとばかりに茂みから出た。
*
片目の狐が出た時、ドングリは瞬時に弓を構えた。そして、標的の狐の後ろからぞろぞろと他の狐が出てきた時、己の死を察した。
先頭の片目の狐は、ドングリが弓を構えたと同時に「ギャー!」と叫んだ。すると、後ろに控えていた狐たちが一斉に左右に分かれ、回り込むようにして、こちらに突撃してくる。
「まったく。本当に普通じゃないな」
呆れて乾いた笑いが口から洩れた。
まさか、ここまで組織立って動ける動物がいるとは誰も思うまい。
息を整える。横で震えている若者がいるが気にせず自分の行動にだけ注意を向けた。
命はもう惜しまない。だが犬死はしない。
あいつは、あの狐だけは殺すのだ。その思いだけで、弓を構えた。
件の片目の狐は、ドングリの行動を待つかのように、じっと臨戦態勢のままこちらを睨んでいる。
上等だ。ドングリは迷いなく、矢を放った。
追い風によって都合よく勢いが加えられた矢が、アカを目指して飛んで行く。アカは鼻と目と耳と肌の全部を総動員して、矢の動きを捉え、最小の動作で躱した。次いで、駆け出す。
その速度は、やはり並ではない。野原に埋めつくす茶けた草木と一体化し、狐が今どこにいるかすら見失いそうになる。しかし、ドングリも動じることはない。わずかな草の揺れから、そして、あの気高い狐ならば、一直線にこちらに向かってくるはずだという根拠なき信頼を基に二本目を放った。
その信頼は当たっていた。二本目の矢はアカの頬を掠めた。ピシャッ、とわずかな血飛沫が舞う。距離が詰まれば必然、矢をよけるのは難しくなる。それも全速力で走りながらではなおさら。それでもアカが何とか二本目を避けたのは、これもまた信頼である。
おそらく根拠はないがこの男なら僕のいる位置を正確に射てくるはずだ、という思惑からアカは二本目の矢が放たれたのを確認すると同時に、矢の軌道を確認することなく、その場から左に避けたのだ。
そしてそれと同時に、良好な右目の視界の中心に、憎き猟師の顔を捉えた。
それはお互いさまで、ドングリの瞳にも、アカの姿が映っている。
アカはドングリの首元めがけて飛び掛かった。ドングリは、弓を手放すと左腕でアカの牙を受け入れた。そして、目にもとまらぬ速さで、脇にあった山刀を抜くと、アカめがけて突き刺した。
不可避の一撃だった。
鋭い刃は、狐の柔らかい肉を貫く。「キャー」と鋭利な悲鳴を上げながら、一匹の狐が地面にポトリと落ちた。それと同時である、両側から迫っていた狐たちが一斉にドングリの首元、腕、足に噛みついてきた。
ドングリはたまらずその場に倒れる。喉から血が出ているのがわかった。視界がくらくらする。体のすぐそばで何匹もの獣がうろちょろしているのを肌で感じ取った。
そうして、数秒後、ドングリの視界に赤い瞳の狐が入ってきた。ドングリはそれが自分の最期の景色だと、悟った。
──仕留めそこなった。
手に残る確かに刃物を突き刺した感触。ドングリは地面に倒れる最中、自分の山刀に刺されて地面に転がっているのが片目の狐ではなく、全くの別個体であることを辛うじて視認していた。
おそらく、アカに突き刺さるはずの山刀を代わりに受け止めるため、即ち、身代わりになるために間に入り込んだ狐がいたのだ。それは、獣を知り尽くしたはずのドングリにとって信じ難い現象であった。
「つくづく、おかしいよ。お前ら」
ドングリは最期にそんな愚痴をこぼした。
おそらくこの猟師は放っておいても死ぬだろう。そう分かった上で、アカは躊躇いなく、その首を噛み切った。
*
一匹の狐が、腹から血を流して倒れている。ボックリだった。
「すまないとは言わないよ。そういう条件だった」
死にゆく友達に向けるものとして、その声色も、言葉も、酷く冷たかった。
「早晩、命は絶えるものだ。謝罪はいらない。それに、自分以外のために死ぬのだ。誇らしいよ」
ボックリもまた、アカに負けず冷めた口調だった。しかしどこか声色は熱を帯びていた。
アカは、自分の戦い方が最も合理的だという自負を持っていた。
ドングリはおそらくアカがどのように動き回っても、その先を読んで弓矢を放っただろう。それでなくとも、まず誰かが飛びかかって隙を作らねば、最初の挟撃で仕留めることは出来なかった。
それほど優秀な猟師だった。
無論、いくらドングリが強敵とはいえ、狐があれだけ集まっていれば、雑に戦っても、仕留めることは出来ただろう。だが、最も犠牲の少ない戦い方は、実際行ったもので間違いない。
そして、今回の犠牲は偶々ボックリであった。それだけである。
「そんな顔するんだな」
ボックリは、いいものを見た、とでも言いたげな表情だ。
「なんのことだ?」
「お前は悲しみ方を知らないのだと思っていたよ」
「いや、合ってるよ。今まで知らなかった」
「そうかい」
ボックリの体から、魂が抜け出た。
目の前に転がるのは、アカにとってただの肉塊になった。
一日にも満たない短い期間に、ボックリとクロが死んだ。それ以外にもたくさん仲間が死んだ。左目も失った。
結末だけを改めて思うと、徒労感が体を包んで、立つ事も面倒になった。
もう今は何もしたくない、とアカは強く思った。
実は同じぐらい疲れたことが、これまでの生涯で二度あった。一度目は、初めての狩り。二度目は、故郷を追い出されて数週間後に熊に襲われ、ボックリとクロ以外の仲間を全員失ったとき。
三度目が今である。
与吉が地面に震えながら丸まっていた。肩をぶるぶると震わせ、頭を地面にこすりつけている。しばらく、アカがそれをじっと眺めていると、彼は恐る恐る顔を上げた。そして目の前にいるアカを見た途端、情けない声を上げて、後ろへ飛び跳ねた。尻もちを突き、周囲を取り囲んだまま動こうとしない狐たちを気味悪そうに見まわす。
「……一思いに」
そうとだけ呟いて、与吉は、アカを見つめた。アカは低く唸った。与吉の後ろにいた狐たちが一斉にその場を退き、道を開いた。
理解が追い付かず混乱する猟師の青年に、狐の頭領は怒りの籠った咆哮を浴びせた。けたたましく、おどろおどろしい声に、危険がないはずの狐たちすらびくりと肩を上げる。
与吉に、その後の記憶はない。彼は気が付いた時には、必死に山道を駆け下りていた。
狐はもう懲り懲りだ。とにかく人の顔が見たい。
それだけが胸を埋め尽くしていて、それだけが彼の体を動かした。
【二】
与吉が山から逃げ帰ったあと、アカは冬をその山で過ごした。また別の猟師が襲ってくることを警戒したのだった。
しかし、どうもそんな様子はないと知ると、春先、年寄り狐たちと共に東に移った。その時になっても、まだ体から疲れが抜けないのでさらに一年、のんびりと過ごし、また春が来た。
この時、アカは群れを離れることを決心した。
責務を放棄したというより、それが群れの維持にとって健全な気がした。
昔、故郷の長老と狐は群れるべきかという話をした。ドングリとの戦いによって、その決着が現れた気がした。
狐は群れるべきではない。
世代を経るにつれて、群れた狐は軟弱になる。年上の狐の言うことに従えば食いそびれることはないと高を括るようになる。しかも、それは指示を出す側の狐が強力であればあるほど顕著になる。自分は指導者に向いていないのだ。療養中、アカはその思いを強くした
「それで、これからどこに向かうのですか?」
アカを除き今や一番最年長となったツクシという狐がそう訊ねてきた。
「街道に沿って、出来るだけ東に向かうよ」
「お気をつけて」
「お互いね」
アカはツクシにだけそう伝えると、一人で、山を下って行った。
*
永媛山という山に仙人がいるという話を聞いたのは、旅に出て最初の秋のことであった。
立ち寄った人里の民家の床下で鼠狩りをしていると、子供たちにおとぎ話を聞かせる僧侶の声が聞こえてきた。その人里では、僧侶が子供たちに話を聞かせるというのはよくある風景のようで、本堂から彼が姿を現すとその周りにわらわらと子供が集まっていった。
面白そうだと思い、耳をそば立てていると、永媛山にいる仙人の話が出たのだった。
「仙人って何?」
子供が聞いた。
「神通力という、摩訶不思議な力を使う人間だよ。長い年月苦しい修行を乗り越えたあかつきに、天候すら自由自在に操れるようになったという話だ」
「そんな力があるなら、雨を降らしてほしい。今年は不作だってみんな困ってる」
僧侶はそれを聞いて、優しい子だ、と頭を撫でてやった。
「しかしな、その仙人はあまり人間に興味がないらしい。何せ、元々は狐だったから」
全く関わりのないおとぎ話なら、このまま通り過ぎてしまおうかと考えておいたアカだったが、やや思いとどまって浮いた腰を下ろした。
「狐が仙人になるの?」
「いや、どの生き物だって、修行をすれば仙人になれる。たまたま、狐だっただけさね」
変な話だ。仙人というものが何かは詳しく知らないが、人間の一種に違いあるまい。なら僧侶の今の語り口では、まるで人間が他の動物よりも上に立っているようではないか。アカの経験上、人間は確かに脅威だが、別に自分たちよりも偉いなどと思ったことはない。他の生物と同じく、首を噛み切れば死ぬのだから、あれもただの動物だ。
アカはおおむね人間が好きだが、その無意識に獣を見下す癖だけは昔から癪に障った。
さて、そんな話を聞いたものだから、アカはとりあえずその永媛山に向かうことにした。仙人に興味があるし、有用な術の一つや二つ、狐のよしみで教えてくれるやもしれない。
どうせあてのない旅である。寄り道先が増える分には一向に構わなかった。
しかも、その山まではたかだか二十里という話だ。狐なら三日もかからぬ。アカならその半分だ。
アカは街道沿いの林を、ゆるゆると歩き、たまに人の話し声が聞こえれば立ち止まり、しばし耳を傾けた。そんなことを続けて、二日がたった時、偶然見かけた商人たちがこんな会話をしていた。
「あの、先端が平らになっている山が見えるか? 永媛山と言って、どうも化け狐が出るそうだ」
「へぇ、狐な」
商人は小柄で小太りな奴と、背が高く痩せたやつの二人いた。
小柄な方は騒がしい奴で、虫が通っても騒ぎ、犬が通っても騒ぎ、風が通っても騒ぎ、風が止んでも騒ぐ。とにかく黙るということをしない。一方で痩せた方は、何に対しても、すんと表情を変えず、おお、とか、ほう、とか、そうかい、としか答えなかった。そんな会話でお互い疲れないものかと見守っていたものの、話が途切れる様子はなかった。それが二人の中では常なのだろう。
「ただの化け狐ではないぞ。純白の美しい狐で、あまりに美しいので一目見ればその場で死んでしまうのだそうだ」
「じゃあなんでそんな話をあんたが知ってるんだい?」
痩せた男が珍しく聞き返した。確かにその通りだ。会った輩が悉く死んだのなら噂話にもなるまい。
「そりゃおめぇ……なんでだろうな?」
小太りの男が首を傾げた。
「奇妙なことだね」
痩せた男は薄く笑った。
「俺も人から聞いたもんで、詳しくは知らんのだ」
「もしかしたら、そいつがその狐だったのかもしれんぞ」
「なるほど、それなら辻褄が合うかもしれん。いや、そうに違いない。確かにずいぶん綺麗な娘だった」
小太りの男は楽し気にそんな冗談を言った。
化け狐が美しいことと、化けた後の姿が奇麗なこととにいかな関連性があるのかは知らないが、以上の会話からアカは思いがけず永媛山の所在を知ることとなった。
しばらくその二人の近くを歩いていると、向こう側からも荷車を引いた商人が一人歩いてきた。互いに道を譲り合い、頭を下げて、そのまま過ぎ去るのかと思えば、荷車を引いていた商人がその足を止めた。
「あんたら、もし今日のうちにこの先の村を通り過ぎるつもりなら、やめといたほうがいい」
小太りの男が、なんでだい? と聞き返す。
「夜になるとな、熊が出るんだ」
返ってきたのはそんな言葉だった。その商人は続けて次のようなことを話した。
数年前、永媛山の麓に人食い熊が現れた。そいつは、その名の通り人しか食わないらしく、夜昼を問わず人を見つけては狂ったように襲って来るのだとか。住人はほとほと困って遂には、永媛山の近くの村はどこもかしこも、もぬけの殻である。
「そういうわけで、この先にある村までが限度さ。その先へは危ないから行っちゃいけねぇ」
「そりゃ恐ろしいことを聞いた」
小太りの男は、演技じみた所作で額の冷や汗をぬぐった。
夕日を背景に、男たちが会話している。アカは、もう彼らの話を聞く意義はさほどないと踏んで、さっと森の中に入っていった。いや、単に、化け狐とか仙人とかへの興味に唆されたのだろう。
*
商人たちを追い越して、その先にある村にたどり着く。
ここでアカはちょっとした不自然を感じた。
人の数に比べて、建物の数が若干少ない。
アカの経験からして、人間というのは住処の大きさが定まっていない。過剰に広かったり、過剰に小さかったりする。おそらくそれは貴賓に関係する違いだから、各々が自分はこのくらいの家に住みたいと言って小さい家に住んでいたり、逆に大きな家に住んでいたりするわけではない。ほとんどの人間は自分の家をなるべく大きいものにしようと考えていて、その時、自身の懐の寂しさから、住む家の大きさが限定されるものだ。ここから言えるのは、家の大小の差は多くの場合、性格の差ではないということだ。
農村には、農民が住むための家が殆ど均一の大きさで並ぶ。村というのは、おおよそ似た者同士の寄り合いだから、そんな風になるのだ。
アカは、色々な家を見てきたから、村人が住む家の標準的な大きさを知っている。その基準に照らせば、アカの目の前にある村の家々は、外を出歩く人間の数に比べて少ない。
人の住む空間が不足しているという印象を受ける。
時間帯からして、今から別の場所に移動する人間というのもいないだろう。
村人が、農作業から戻ってきていた。家から出てきた女たちがおそらく自分の子供の名前を呼んでいる。
広場でかけっこをしていたこどもたちが、一斉に引き返してゆく。
夕日に照らされた黒い人影が一つまた一つと、家に吸い込まれていった。
そうして最後に、ちょこんと小さな人影が残った。人影から、ずびずび、としつこく鼻水を押し込める音がした。
子供だろう。地面に向かって木の棒で絵を描いている。
親に呼ばれたことに気が付いていないのか、そもそも呼ぶ声が最初から無かったのか。
アカは、その小さく丸まった背中に妙に惹かれる心地がして、自分でも半ば呆然と歩き寄っていた。
アカがふと我に返ったのと、その人影が振り向くのは同時だった。人影と、目があった。
日が半分隠れた。暗くなって子供の顔はよく見えない。男女の区別もつかなかった。いや、アカはもともと人間の特に子供の男女の区別は分からなかった。ある程度歳を重ねれば、あれは人の雌であれが雄だと分かるのだが、えてして子供の相貌は等しくふっくらとしていて皆同じように見える。
ただ、その時は長い髪が夕陽でキラキラしていたので少女なのだろうと思った。
「独りぼっちなの」
自己紹介をしているのか、アカに訊ねた言葉なのか、声の抑揚からして微妙であった。試しに小首をかしげてみる。なぜか少女が笑った。暗いけど、それはわかった。なぜだろう。
「おいで」
木の棒を放り投げて、少女がアカに向かって両の手を広げた。ほのかに土の香りがする。
「お前は帰らないのか」
アカは獣の言葉でそう言った。しかし人には、きゃう~、と鳴いているようにしか感じられぬらしい。しばらく待っても、自分の懐に狐が来ないから、やがて少女は両手を下ろした。
「私の言ってること、わかんないよね」
裸みたいな声だった。それを聞いただけで、声の主が何を感じているのかがはっきりと伝わるほど、素直で無防備である。
アカが、静かに少女の懐に潜り込むと、胸に小さい両腕が滑り込んできた
人間臭い、とアカは思った。
「獣臭い」
アカの背中に顔を埋めながら少女が喉で笑った。しばらくそのままじっとしていると、無理やり腹を向けられた。びっくりしたアカと、不思議そうにした少女の目が再び交差した。
「おまえ、何で片目をつむっているの?」
意地を張った結果だ、と教えてやりたかったが、獣の言葉は人には分からない。
「いいなぁ」アカの鼻先に、ぽたぽたと雫が落ちた。少女はまた鼻をすすり始める。「お母さんがね……、お母さんがいないの。どこにも」
アカは鼻先がくすぐったくなって顔を左右に振った。途端ぎゅっと抱きつかれた。
──ああ、分かった。ようやくわかった。
アカの中で一つの納得が生まれた。
「いらない眼なんか……いらない。もう何も見たくない」
──この少女は、僕だ。
二匹は日が落ちるまで、ただじっと身を寄せた。
*
村を抜け、永媛山の麓まで来るとまた別の村に行きついた。しかし、今度は人の気配が全くしない、無人村である。
井戸の周りには腐った野菜が山のように積まれ、虫が集っている。
その村には我が物顔で住み着く野良犬がわんさかいた。そいつらは軒下から、畑の縁から、屋根の上から、と言うふうに、あらゆるところからアカを睨んでくる。遠巻きに監視しているのがわかる。アカが少し近づいてみると、さっと立ち上がってまた一定の間隔を隔てて腰を下してしまう。みんなそうしてよそ者の狐に近づかなかった。
アカはふとした好奇心に襲われて、村の中心の広場の、そのちょうど中心に腰を下ろした。
このまま自分がじっとしていたら何か起こるのかもしれない
一斉に攻撃してくるのか、このまま朝が来るのか。できれば前者の方が面白い気がした。
アカがそのまま、星をぼんやり眺めていると、一匹の大きな犬がこちらに近づいてきた。そいつは、犬の頭領らしい。後ろにも大きな犬が数匹連なっている。
「なんだ狐か」
その犬は遥か高い視点からアカを観察し、目を細めた。次いで、鼻で笑う。
「しかも間抜けな狐のようだ。その眼と頬の傷は獣ではなく、人間にやられたのだろう? あんなどんくさいだけの猿相手によくそこまで傷ついたものだ」
アカは、いつかそう言われる日が来ると、分かっていた。
人間から逃げるだけなら造作もない。多少知恵の回る獣の中では当然のことだ。それができていない奴は、単にどんくさいのである。ただ、アカが傷を負ったのはどんくさいからではなく、逃げるべき場面で意地を張って、戦わんでもいい相手と真正面から戦ったせいなので、間抜けと誹りを受けるよりかは、馬鹿な奴と罵ってほしい気持ちの方が強かった。
「まあ、意地悪を言わないでくれよ。僕にも様々事情というものがある」
そう言って、犬を見上げる。すると、犬はアカの態度を見て、愉快そうに顔をほころばせた。野良のくせに、まるで飼い犬のように柔和な表情だ。
「経験則だが、馬鹿にされても動じないヤツは、肝が据わっている。なに、一目見た時から普通の狐じゃないことぐらいは察している。きっとその傷にも何かわけがあるのだろう」
犬はそう言うと、くるりと体の向きを変え、村を見渡した。
「二年前まで人が住んでいたのだ。今はこの通り、我々の住処になっている」
「そのようだね」
「それで、狐殿は何をしにここまで?」
「アカでいいよ」
「目の色か? 安直だな。よいよい気に入った。それで何をしに?」
「仙人と、化け狐と、人食いの熊に興味がある。この山にいると聞いた」
「センニンとやらと化け狐は知らんが……人食いの熊なら知っている」
犬はしょんぼりと耳を垂らして、分かりやすく落ち込んだ声でつづけた。
「ここから、山道に入って、しばらく進むと鳥居が立っている。件の熊は、夜が更けたころ必ずそこに現れる」
「近づいても平気か?」
「人以外なら平気だろうが……見て、話して、それでどうなるというヤツでもないぞ」
「構わないよ。つまらないヤツでも。それならそれでつまらないヤツだったと知りたいだけだ」
「妙な狐もいたものだ」
犬はそう言うと、アカから離れていった。そして、寂しそうにこちらを振り返った。
「ついてこい。鳥居まで案内してやる」
どこか、妙に気の置けない犬だなと思いながら、アカはその背中を追った。
*
「何? 人の言葉がわかる? 冗談だろ?」
「そう思いたければ好きにしなよ。ともかく、そういうわけで、僕は道行く人の話を聞きながらこの山までたどり着いたんだ」
ここまでの旅の話をざっくばらんに話して聞かせると、犬(ここではタニシと呼ばれているらしい)がいたく感心した様にこちらをじろじろと見てきた。
「妙だ妙だと思っていたが、ここまでとは思わなかった」
「そうでもないさ」
「いや、異質だよ。俺なんかこの山の名前もお前に教えられるまで知らなかったし知ろうとしなかった。なぜかわかるか?」
「必要がないからだろ?」
「そうだ。生きるのに必要ない。意味がないと思ったからだ。人の言葉を覚えようとしなかったのも、一重に必要がなかったからだ。むしろ、お前はなんで人間に興味が持てる? 関係がない動物をどうしてそこまで知ろうと思った?」
「どうして、という部分はわからんな。最初から僕にとって人を知りたいというのが、まず第一の目的だった」
タニシは、ふむ、と喉を鳴らした。
「余裕だろうな。お前からは余裕を感じる。一匹の狐としてただ生きるのでは収まらない素質がお前には眠っているのだ」
「そうだろうか」
「いや、そうさ。本来動物は必死になって生きようとする。そしてそのことで手いっぱいになって、いつの間にか命が潰えているものだ。それがお前の場合は違うと見える。きっと、こう思っているはずだ。生きるだけなら造作もない、と」
アカは、驚いて立ち止まった。図星だった。タニシも立ち止まって、にやりと笑って見せた。
「思い当たる節があるようだな。その考えができる時点でお前はただの獣ではない」
*
二匹が鳥居に着くと、一匹の大きな熊が、地面にうつぶせになって寝息を立てていた。
「あれだ」
タニシが顎でそう示した。
「急で悪いが、俺はあの熊がそんなに好きではない。ここで退散するよ」
「急も何も態度にまるっきし出ていたよ」
「これは恥ずかしいな」
タニシは、そう言ってまた山道を下って行った。
さて、と熊の方を見る。熊は幅の広い山道の真ん中に、黒い糸玉のようになって、背中をゆっくり上下させている。山道は鳥居の先も、折れ曲がりながら山頂に向かって延びている。
「おい。そこの熊。聞こえるか?」
アカは、念のため少し離れた位置からそう呼びかけた。すると、あっさりと熊は顔だけ彼に向けた。
「なんだ狐か」
今日で二度目の言葉だった。
話しかけたのはいいが、この熊自体には実はさほど興味がなく、何の話をしようかと準備もおざなりなままだった。とりあえず、一番気になっていたことをアカは訊ねた。
「お前は、人しか食わぬと聞いたが、何かわけがあるのか?」
熊はむくりと起き上がると、アカを睨みつけた。
「いきなり起こしたかと思えば、藪から棒だな。不愉快な狐だ。別に人以外も食うさ。何なら今ここで旨そうな狐を食ってやろうか?」
「試すのは勝手だが、おそらく無理だろう」
「ふん」
人食い熊は、つまらなそうにまた体勢を戻した。
「わけなどもないさ。俺は気に食わない奴なら、何だって食う。たまたま俺の癪に障ることをするのが、人間に多いというだけのことだ」
回答は思ったよりも単純で明快で、全くもって道理だった。
「なるほどな」
「納得いったか。失せろ」
「いやいや、まだ聞きたいことはある。化け狐を知っているか、仙人でもいい。この山にいると聞いた」
「狐。白狐のことか?」
「おお、そうだ。確かに、白くて美しいともいわれていた」
「なら俺の知っている奴で違いあるまい。美しいかは分からぬが、白い狐と言えばこの山に一匹しかおらん」
「それで、どこにいる?」
「……教えてやってもいいが、ただでというのでは癪だ。一つ頼みごとを聞いてくれ」
「なんだ?」
「人探しだ」
熊は、そこから一つ昔話をした。
彼はもともと、ここから少し北に位置する森に暮らしていたという。その当時の彼も、今と信条は変わらなかった。癪に障ったやつを食う。ただそれだけのために生きていた。
しかし唯一、癪に障ったにもかかわらず食いそびれた人間がいるという。
「キヨヤスという男だ」
熊は、憎々し気に言った。
「山伏でな。毎日耳障りな経をぶつぶつ唱えていたので、殺してやろうと近づいたのだ。そうしたら、俺も油断していた。どうやらそいつは武術に多少の覚えがあったらしい。ほれ」
熊は自分の腹をアカに見せた。斜めに大きく、切り傷がつけられている。さして深い傷というわけではない。しかし、大きく目立つ。決して忘れられないような、そんな傷だ。
「この通りだ」
熊は、またいそいそと眠りの体勢を作った。
「つまりあれかい? 復讐をしたいのかい?」
「そうだ。あいつが憎い。だから殺したい。それに何が一番憎いかと言えば、俺の体を切りつけたことでも、経を読んでいたことでもない。あの男は、俺を目の前にしても全く怖気づいていなかった。それがたまらなく俺の矜持を傷つけた」
熊は、やたらに眠たいのだと思ったが、どうやら身の内からあふれる衝動を抑えるために丸まっていたらしい。彼の全身がぶるぶると武者震いしていた。
「俺も、もう寿命が近いのを察している。そこでお前だ。狐なら身も軽かろう。そうだな。五年だ。五年以内にその男を見つけると約束するなら、今、白狐の位置を教えよう」
「しかしね、世の中にはキヨヤスという名の男は山ほどいると思う。それに、その男の特徴なり、身なりなりを詳しく知らないと、誰それが探し人かどうかも判断できない。一匹の狐の所在を知るため、というのに、その条件は少し高くついている気がするね」
「ぐちぐち煩い狐だ。どうだ。やるのかやらんのか、それだけ聞かせろ」
アカは次のように思った。
どうもこの熊は頭がすこぶる悪いらしい。いや、頭の問題ではなく、心持ちの問題だろう。常に自分が何者よりも上にいるという考え方が透けて見えるようだった。その様はどこか人間的ですらある。まあ、この場では合わせてみるか。いざとなったらこんな口約束破って逃げてしまえばいいのだ。逃げ足なら負けない自信がある。仮にこの熊に殺されるとしても、もう八年も生きたのだ。大往生だし残すような悔いはない。
「わかった。それでいい。白狐の居場所を教えてくれ」
熊は頬を釣り上げ笑った。それは同じ笑みであっても、タニシとは対極の雰囲気をまとっていた。
「もし、約束を破れば、お前を食いに行くからな」
*
永媛山の中腹に大きな池がある。上流から、滝となってこの池に水が傾れ込み、そしてまた滝となって下流に水を供給する。つまり、一度この池に水流は堰き止められている。
アカは、上流から流れる小さな滝の前まで来ると、その裏側を覗いた。すると、洞窟があった。正確に言うと、横に向かってへこんだ空間である。
そして、その中央に、大きな石が一つだけ、ぽつりと置いてある。
「誰もいないのか?」
岩があるだけ。それ以外、見た限り伽藍洞であったが相手は化け狐だ。透明になって身を隠しているのかもしれない。そんな想像力を働かせて呼びかけてみたものの返事はなかった。
アカはやれやれと、中央の岩に近づいていった。
不思議と魅了される岩だった。
近づいてみて初めて岩の表面が苔生していることに気が付いた。随分と年季が入っているらしい。水が日光をちらちらと散らしている。それが当たる度に、岩は翡翠色に輝いた。
美しいからか鼻を近づけてみようとしたその時。
「触っちゃいけないよ」
後ろから声がしたのではっと振り向いた。すると、いつの間にか岩陰から一匹の白い狐が、顔を半分出してこちらを見ていた。アカは、別に自分の嗅覚が優れていると思ったことはないが、ここまで近くにいて気が付かなかったのは初めてであった。その白狐は存在感もなければ、匂いもしなかった。
「ん? 君は、よく見ると物騒な面をしているな」
白狐が岩陰から全貌を表した。体格はアカと同じくらいかそれより小さい。子狐といってもいいほどだ。不思議と性別は分からない。
「この岩に触るとね、魂が抜かれてしまうのだ」
白狐は岩を振り返りながら言った。
「昔、そんな石がどこかにあるという話を聞いたことがある」
「おお、君は人の言葉が分かるのか?」
そう言われてはっとした。白狐は狐の姿のまま、人の言葉をしゃべっていた。
「自分で覚えたのか? どこかの誰それに教わったのか? いやぁ、まあ、どうでもいいか。知っても面白くないだろう。それより退屈していたところだ。話し相手になっておくれよ」
想像していたよりも軽薄な狐だった。表情も舌もよく動く。化け狐とか言われているから、アカはてっきり捉えどころのない不気味なものか、神々しいものを想像していた。
それが目の前にいるのは、色が白く匂いがせず、性別が分からないことを除けばどこにでもいそうな狐だ。
「なんだ、当てが外れたような顔をして……そういえば、何用でここに来たのか聞いていないな」
「……化け狐がいると聞いて、気になって来てみたんだ」
「おお、それは、おそらく私だ」
「仙人も」
「それも私だろうね。少し前に人に化けて色々遊んでいたから」
「人に化けるだって? なんだそれは?」
「細かいことはもういいだろう」
「僕にとってはちっとも細かくはない」
「なんだか腹が減ったな。ついでだ。君にも何か食わせてやろう。何が食いたい? 何が好きだ?」
「いや──」
「ああ、やはりいい。こういうのは聞かずに用意した方が面白いものだ。ここで待っていろ。とって来てやる」
「狩りに行くのか? なら僕も」
「いやいや、駄目だ駄目だ。客はここに座っていてくれ、すぐ戻るから」
白狐は全く話を聞かず、「あ、岩にはくれぐれも触れてはいけないよ」と言って、洞窟から出ていった。
*
「そうか。狐の群れの頭領か。そう言われれば威厳があるように見えないこともない」
白狐が目を細め渋々とこちらを見てくる。何か恥ずかしくなって、アカは目の前の鷲の肉を齧った。
つい先ほど、白狐は二羽の鷲を咥えながら洞窟に戻ってきた。そんなものどうやって狩ってきたのかアカには見当もつかない。鷲は知っての通り空を飛び回る動物だ。通常、地面を駆け回る狐には手が届かないはずである。
「どうだ?」
感想を求められアカは少し困った。はっきり言って不味い。
しかし、どうせ君は食ったことないだろう? と自慢げに白狐が持ってきてくれた手前、素直な感想を言うのが憚られる。ただ、よくよく考えれば狐が無礼を気にするのも馬鹿らしいので思いのままを答えることにした。
「固いし臭いし不味い」
「そうなのか」
そう言って、白狐は残念そうに自分の方に置いてある鷲もアカの目の前に落とした。これも食っていいよ、という顔をしている。どういう心境なのか、とアカが図りかねていると、「私も食ったことがなかったんだ」と白狐が言った。
「驚いたな。会って早々毒見役にされるとは」
「嘘でもおいしいと言えば一口は食ったものの……そうか。鷲は不味いのか。勉強になった」
白狐は一口も食っていないのに満腹そうに言った。アカの目の前には、自分の体躯の倍はありそうな巨大な空の覇者が転がっている。
「それで、僕は自分のことを一通り話したのに、お前の方は何も教えてくれないのか?」
「話せば長くなる」
白狐は、ぱたりと体を地面に倒し、だらしない格好で尻尾をぶらぶらさせた。野性の心を完全にどこかに消し去ったような振る舞いである。
「どこから話そうか。生まれたばかりの頃……つまり君と同じくらいの歳のことはあまり覚えていない」
「そんな馬鹿なことあるか。僕だってだいぶ年寄りだぞ」
「幾つだよ?」
「八つ」
「ガキですらない」
「じゃあお前は幾つだ」
「百より後は覚えてないな」
「眉唾だな」
「疑ってくれて構わない。どうあろうと過去は変わらん」
達観した声で、そう返され、アカはふと真実かもしれないと思い直した。それほど妙に威厳のある言葉だと思った。
「ともかく君とは年季が違うのだ」
白狐はそう言うと、アカの目の前に顔をグイっと持ってきて見つめてきた。灰色の二つの瞳が、眼前に近づいてきたので、アカは少し警戒して距離をとった。
「なんだ」
「いや、珍しい瞳の色をしていると思ってな。片方が潰れているのがもったいない。どれ、治してやろうか?」
「どういう意味だ?」
白狐は薄く口角を横に伸ばした、笑っているつもりらしいが怖かった。
「そう怯えなくとも、そのままの意味さ」
アカはしばし地面を見つめて考え、顔を上げた。
「遠慮しておくよ。僕はこのままでいい」
「戒めかい?」
「違う。誇りだ」
「妙な奴」
白狐は、すとんと無表情になって、アカから距離を置いた。
「で、君、この後どうするんだ? ただ私に会って、ちょっと話をして、それで帰ってしまうつもりか?」
「ここにいて何かあるのか?」
「私の退屈しのぎだよ。急ぐわけでもあるのかい?」
「特段ない」
「じゃあいいじゃないか」
「だが、同じくらいここにいる理由もない」
「では理由を与えればいいのか?」
白狐はそう言うなり、洞窟の外に歩き去っていこうとした。そして、出口の寸前で止まると、
「秘術の一つでも教えてやるよ」
アカの尻尾がくるんと逆立った。
*
「秘術といってもね、これはそんなに便利な物じゃない。おそらく君みたいに頑固で自尊心が高い奴は使いこなすのに苦労するだろうさ」
そう一つ忠告したうえで白狐がアカに教えたのは、化け術だった。
元来狐が人に化けるとかいう話はアカも聞いたことがあったが、実際に白狐が目の前で山伏の姿に変化したのには口を開いて驚いた。
「慣れるとな、こんなこともできる」
そう言って白い前垂れを上げると、鼻も口も目もない、のっぺらぼう、が出てきた。アカはそれを見てまた口を大きく開けた。
「驚きっぱなしだが、今から君もやるんだ」
白狐は口もないのにあきれた様子で言った。
「無理だ。全くやれる気がしない」
「そりゃ簡単にできれば世の中全ての狐が人を化かすさ。やり方はこれから教えるんだ。君は頭がいいし、すぐ覚えるよ」
嘘だった。
教えられたとおりに、あれこれやるものの上手くいかない。やれどこに力を入れるのだとか、何を思い浮かべるのだとか、心をどう落ち着かせるのだとか、片端から言うとおりにしたがどうも駄目だった。いきなり人ではだめかと思い、形の近い犬辺りに化けてみようかと思って奮闘するが、それもやはり上手くいかない。
あれでもないこれでもないとやっているうちに数か月が経った。
一通りの努力が無駄に終わり、しょんぼりするアカに対して、「やっぱり」と白狐だけが勝手に得心したように言った。
「お前、もしかして騙していないだろうな。言われたとおりにしているんだが」
アカはむっとしてそう返した。
「やり方は間違っていないんだろうけど、これは君の心の問題だよ」
「心?」
「君というやつは、自尊心が高いし、不幸なことにそれに見合った素質を持って生まれてきてしまったらしい」
「端的に言ってくれ」
「君、世界で一番自分が偉いと思っているだろ?」
アカは体中がかっと熱くなるほど、恥ずかしくなった。
「そんなことあるものか」
そう否定するが、白狐は無言で首を左右に振る。
「いや、意識してなくとも、心の底でそういう考えがあるはずさ。そうでなければ、今頃とっくに鳥とか犬とかに化けているはずだ。いいかい。この術は、信頼、というのがとても重要になる」
「信頼?」
「そうだ。君は、そこにいる芋虫に化けたいと思うか? ……そうだよな、思わない。芋虫は弱いからだ。じゃあ、兎になろうとするか? そうだな、それも嫌だ。化ける、とは、そいつに成る、ということを意味している。今の自分を一度捨てて、そいつに成るんだ。心のどこかで見下して、信頼もしていないものに化けることなんて私にもできない」
「要するに解決法は、謙虚になれってことか?」
「逆だ。もっと傲慢になるんだ。あれもこれも全部自分だ。自分に成れないものはない。魂にそう言い聞かせるのがコツだ」
「やはり無理そうだ」
アカは諦めることにした。この先の彼の生涯は決して長くない。土台無理そうな術の習得に時間を割いても旨みはないように思えたのだ。
「まあ、そう言うな。ゆるりと頑張ろう」
「先にも言ったが、僕はもう年寄りだ。こんなところで骨を埋めるつもりなどない」
「君はまだまだ死なないよ」
「なんだって?」
「向こう云十年は生きるはずだ」
「でたらめなら聞かんよ」
「そうじゃない。たまにいるんだ。そう言う特異な奴が。君にも思うところがあるだろ? 自分だけ周囲に比べてやけに衰えるのが遅いとか」
言われて思い返すのは、旅に出るときに見送りに来たツクシの姿だ。自分よりも一つ歳が下のはずの彼は、アカよりも老いぼれて見えた。いや、それより以前から自分は他の狐とは違うような気がしていた。
「急いては事を仕損じるという。ここで覚えたことが、君の命を多少伸ばすこともあるだろう」
「どうだかな」
アカは、もうかれこれ何度か諦めそうになっては、そんな風に白狐に言われて思いとどまってきた。季節が過ぎゆく中で自分は酷く時間を浪費しているのではないかと思うようになった。
アカは、この時になって初めて、これが不安というものなのだと気が付いた。今まで停滞に対する不安を感じたことはない。自分は常に前進している、変化している。そう言う自負があったのだ。ドングリとの戦いの後、体を休めるのに二年を費やしたが、それだって必要があるから、そうしただけで、不安を感じることも時間の無駄だと思うこともなかった。
それが今の状況だと、不安も虚しさも感じている。虚しさの全くない生涯も不健全だが、度が過ぎるのはよくない。
潮時だ。そう思う。
アカが黙ってしまったのを見て白狐は「アカ」と優しく呼びかけてきた。振り向くと、そこにはいつもの剽軽な顔はなかった。アカは不覚にも母狐のことを思い出した。
「君の、一番怖いものを思い浮かべてごらん」
「一番……怖いもの」
「私は蛇が怖かった。昔、友達が毒蛇にかまれて死んだことがあって、爾来、蛇が怖いのだ。しかし畏敬という言葉が示すように、生命は恐れと敬意を混同する。そういうわけで、私が初めて化けたのは、蛇だった」
アカは、白狐の話に耳を傾けているとき、左の瞼の裏に、ぼんやりと何かが映った気がした。はっと、違和感が走り、すでに機能を失ったはずの左目を前足の甲で抑えた。
途端、背筋に熱いものが走り、数瞬間意識を失った。そして次に目を開けたとき、空を見上げていた。綺麗だった。今までこんなに雲が、太陽が、自然が、綺麗だと思ったことはない。
「そうか、君の一番怖いものはそれか」
白狐は感慨深そうに言うと、大きめの石を口にくわえた。その石がポンと煙を立てて鏡に変わる。そうして、鏡を咥えたまま「ほれ見てみろ」と言った。
アカは勧められた通りに歩き寄ろうとするが、どてん、と転んでしまった。
おかしい。受け身をとろうとしたのに。なんだか手足が異様に長くなったような気がする。
「仕方のない奴だ」
白狐はアカの前まで歩み寄ると、彼の目の前に鏡面を置いた。
「あ」
アカは唖然とそこに映るドングリのような男の顔を見た。かくして、彼は人に化ける術を覚えた。
*
アカが、白狐の所で暮らし始め二年が経過した。アカは十歳になった。
未だ体は衰えない。
永媛山の麓にあった無人の村に、人が暮らし始めたのは、ちょうど その頃からだった。
ある時、いつか見た真っ白な服に包まれ箱を背負った男の集団が、無人村にやってきたのをアカはちょうど見ていた。
「ああいうヤツを前も見たことがある」
アカが言う。するとその時横にいた白狐が、
「あれは山伏さ」
と教えてくれた。
「僕の知っている山伏とは違うな。僕の知っているのはもっと汚い服で、箱も背負ってなかったし、弓も刀も持っていた」
「そういうのもいる。ああいうのもいる。山伏と言っても、修行の仕方から、戒律までとことん違うものだ」
「そうか。そういうもんか」
アカは、そのままじっと男たちを観察した。白狐は途中で飽きて、洞窟に戻っていったが、彼は飽きずに見守った。
山伏の集団は、どうやら村を再興する気らしい。周囲に柵を立てたり、脆い家を破壊して新しい家屋を立てたり、井戸を掃除したり、二か月ほどあわただしく動き回っていた。
そうして人以外元通りになった村に今度は何の変哲もない人がぞろぞろと入居してきた。
アカは毎度のごとく家の床下に入り込んで人々の話を聞いていた。
その経過の中で聞いた話に拠ると、数年前、村を放棄して熊から逃げた彼らだったが、折り合いが悪く、このごろは不作が続き、移住先の村では真っ先に口減らしの対象となって追い出されてしまったのだそうだ。
いついつまでに村から出て行けと言われたり、突然体を引っ張られ村の外に放り出されたりと、皆々事情は一様ではなかったが大筋は似たようなものだった。
山伏は彼らを哀れに思って、村の再興を手伝っていたのだという。
哀れに思う、というのがアカにはいまいち分からない。
山伏たちだって、熊に襲われれば恐らくは死ぬだろう。人食い熊の語った例の山伏みたいな特別を除けば、人は熊に勝てない。勝てないということは、死んで食われるということだ。それほどの危険があって、こんなことをする理由が、ただ哀れに思ったから、というのでは釣り合いが取れない。
「人は感情的な生き物だからね」
アカの疑問に対し白狐はそう答えた。
「君や私は獣だ。すなわち本能的な生き物だ。本能的ということは、自分を第一に考えたり、群れを第一に考えたりして、それを行動指針にする。そこにブレはない。一方で人間は感情的な生き物だ。感情は一瞬で立ち消えることもあれば、いつまでもふつふつと燃え続けるものもある。不安定で、揺らぐ。ゆえに感情を行動指針にすれば、必然的に迷いが生じる。哀れみ、とは人間の感情の内でとりわけ強力な行動指針だ。哀れみを無視すると、心の中に膿ができてそれがどんどん膨らみ後悔に変わる。人間はそれが怖いらしい。怖いならさっさと忘れてしまえばいいものを。多くの人間はそうなのだ。自分の得のために一生涯頑張れる人間はごくごく限られるが、自分が嫌な思いをしないために一生涯頑張れる人間は存外いる。不思議だな」
アカはその説明でとりあえずは納得することにした。
さて、村に人が戻ったことで気になるのは、あの野良犬たちである。人が戻ってきたせいで、住処がなくなるのではないか、と心配したのだ。
杞憂だった。
数か月もしないうちに、瞬く間に野良犬は飼い犬に変わっていった。首輪は付いていないから、飼われているというよりは餌付けされたといった方がいいのか。
とある夜半に、村に行くと、村長の家の前でタニシが寝ころんでいた。
「おお、アカか」
近づいてくるアカに気が付いて、タニシは顔を上げた。
「久しいな」
タニシがそう切り出したので、アカは「そうかい?」と首を傾げた。
ここ最近、アカは白狐のもとで人間の文字を覚えたり、色々な物の名前を教わったり、かなり忙しく過ごしていたため、時間の感覚が曖昧であった。
「もう二年だよ」
「そんなになるのか」
「お前は不思議と老けていないな」
少し白く濁った眼でタニシがこちらを見た。足が細って肋骨が見えている。少し歩きよってくるとき、数度咳を零していた。
「僕はこの先数十年は生きるつもりだ。それよりも、君はずいぶん弱っているな」
「わかるか」
タニシは、やや面目なさそうに、言った。
「最後の春から、調子が優れない。老いもあるだろうが、体に悪い気が入ったのかもしれん。どちらにせよ長くはない」
「何とかならんのか?」
「何とか出来てもする気はないよ」
タニシは、ケケケ、と力なく笑った。
その時、引き戸が開いて、家から人間の子が一匹出てきた。茶けた長い髪がどこか獣のような少女である。彼女は音を殺して、静かに村の外に歩き出した。それを見て、タニシがそっとアカの耳元にささやく。
「村長の娘だ。最近になって夜半によく出かける悪習が付いたらしい」
「危ないじゃないか」
「そうだ。だから、いつも俺が気付かれぬよう後をつけて見守っている。……そうだ、今日はお前が行ってくれないか?」
「なんでだい?」
「俺はもうこの通り、走るのもやっとだし……その点お前はまだまだ動けそうだ」
「いやでも理由がない」
そうこう話しているうちに、少女は山道に消えて行こうとしている。
「ほれほれ、行ってしまうぞ」
「まったく仕様がない」
アカはくるりと向きをかけて、少女の方に駆けだした。
*
少女は山道をぐんぐん上ってゆく。
まずい。その先には熊がいる。
アカは少し先回りをして、鳥居の下をまで行った。運よくまだ、熊はいなかった。
鳥居を抜けて、少女がたどり着いたのは、白狐の住処の前にある、池であった。
何をする気なのか、とアカは茂みに隠れて観察しているのだが、娘は何もする気がない様子で、ただじっと蹲って水面を眺めていた。
その池は上流から流れ込んでくる水流によって、いつ迄経っても凪ぐことなく、波紋を浮かべている。雲一つない秋空に三日月が張り付き、それが池の上にぼんやりと映り込んだ。地上から立ち込める湿気によって周辺に草の匂いを押し込められている。風が吹きすさび、木々がざわつき、紅葉が舞った。静かな夜と、雨の香りに、アカは左目が少し傷んだ。
「何をしているのだろうね」
いつの間にか横にいた白狐がそんな風に囁いた。少し前のアカなら驚いて飛びのいていたが、二年もたつと慣れてくる。この白狐は基本的に脈絡なく忽然と姿を現すのだ。反対に言えば最初からそこにいたのに、アカがそれに気が付いていなかったかのようにすら感じる。
さらに言えば、いつも狐の姿をしているとは限らない。ある時は犬だし、ある時は鷹だし、またある時は兎である。人の時もあるが、それは特別細かい作業をする場合のみのようだ。
「さぁな」
アカは何の気なしにそう言った。その時だけは白狐との会話が面倒だった。あの娘の一挙手一投足に関心が向いていた。
じっと耳を澄ませていたから、少女が泣いていることに気が付いた。気分が悪いという様子ではない。
別に驚きはない。人はすぐ泣く。痛い 思いもしていないくせに、悲しいだけで泣いたりする。すこぶる弱い生き物だと思う。
狐の社会にはそんなものはなかった。痛いことで泣いても悲しいことで泣いたりしない。獣は体に対する感受性は高くとも、心に対する感受性は低い。
アカは長い人間観察からそのことを理解していた。人間は、こころとからだ、二つを守りながら生きねばならない。
──お前は悲しみ方を知らないのだと思っていたよ。
ボックリの最期の言葉が、ふと胸をよぎった。きっと、今日のこの景色が、あの日、ボックリが死んだ晩秋の明け方と類似しているからだろう。
アカは、あの時、心の中に湧いた感情が悲しみだと知った。けれど、今更思い出すに、ボックリは、そんな顔するんだな、とも言っていた。
顔、表情。アカはあの場では、自分の顔には意識を向けていなかった。それほどに、疲れていたし、目の前のことに夢中だった。
泣いていたのだろうか、僕は。
そんな疑問が、この時になって湧いてきた。
試しに少女の泣き顔を見て、それが自分の顔に重なるのか想像してみる。例えば、自分があの娘のいる場所で、座って、水面をぼんやりと見つめ、自分が生涯で一番悲しかったことを思い浮かべ、たまらず瞳に涙を溜める。それが止まらないといった光景が自分にあり得るのか。
「珍妙な面をしてどうした?」
茶々を入れるような口調で、白狐が聞いてきた。
「昔のことを思い出していたんだ」
少しだけ、静かな時間が流れた。
アカが妙に思って白狐を一瞥すると、白狐は、悲しみと喜びが同居したような顔でアカを見ていた。そちらの方がよほど珍妙な顔だ、という言葉は飲み込んだ。
「君はせっかちな狐だと思っていたけど、そうでもないのだね」白狐が満足げな顔で三日月を見上げた。「いいことだ。未来が捉えることのできない天空のようなものなら、対比して思い出は地面のようなものだ。それがなければ歩くことも立つこともままならない」
「過去を掘り返して、宝が見つかることもあると思うか?」
「腐る前に掘り出せればね。腐れば後悔になる」
少女が動き出した。目元をぬぐいながら、歩いてゆく。
同じ山道を通じて、村に帰るつもりらしい。
アカは登りと同じように、先回りして、鳥居に熊がいないことを確認した。そして、少女が音もなく家に戻ったのを確かめた後、タニシの所に向かった。
「やはり危ないぞ。今晩は熊が偶々いなかったからいいものの、僅かでも時宜を逃せば食われてしまう」
「案ずるな。最近あの熊は鳥居のあたりにはいない」
タニシは諭すように言った。
「そうなのか?」
「ああ。近頃は、大樹のあたりから一歩も動かん」
大樹とは、永媛山の麓に広がる樹林の中央に悠然と屹立したクスノキのことであろう。
アカもその木は一度見たことがある。いつ頃のものなのか不明だが、そのクスノキの周囲に大きな岩石がごろごろと転がっていて、不思議とその巨石全てに人が加工した跡がみられる。大樹の根は、それらを絡め取るような形でぐねぐねと伸びているのだ。
「そうか」
アカがほっとした声で言うと、タニシが妙に顔をしかめた。
「頼んだ身で言うのも変だが、ずいぶん心を配ってくれたのだな」
「悪いか」
タニシは、アカの拗ねたような口調に思わず噴き出した。
「いいや、悪いも良いもない。そうだな、お前は人間が好きだものな。……ただお前の言う人間好きは、俺たち犬が人に懐くのとは少し違う。別にお前は人間に愛着を持っているわけじゃないだろ?」
「どうだかな」
アカはあえて濁した言葉を使った。タニシが目を細めた。
「お前は、きっと自分を映す鏡として人間を見ているのだ」
確かにアカは人を通じて自分を知ろうとしているのかもしれない。
普通の獣にもなれず、人間のように感情に任せきりにすることもできない、中途半端な自分。昔から、自分だけが他の狐とは異なった存在だった。自分が一番わからなかったのだ。
ただの狐は他の狐を見れば自分がわかる。人間もただの人間なら、他の人間を見れば自分がわかる。それがアカにしてみれば事情が異なる。両方見なければ分からないという確信が、言葉にできなくとも心の中に在ったのだ。きっと、この気持ちは、アカの左目を射抜いた猟師にしか分からない。
タニシが、今後も少女を見守ってくれないか、と頼んできたので、アカは特別焦ってやるような用件は自分にはないので承諾した。
そうして、少女の夜の散歩を観察する期間が三年続いた。
その間に少女はぐんぐんと成長し、十代半ばに差し掛かっていた。
たまに夜出かけていることが親にばれてこっぴどく叱られていたが、それでも一人の時間が欲しいらしい。少女は懲りずに毎夜、家を抜け出した。
少女に母親は居ない。二人目の子供を産んだと同時に、死亡したのだとか。不幸なことに、産んだ子供も七日後に死んだ。
女は跡取りにはなれないので、別の親同士で既に許婚が約束されているらしい。いつ嫁入りして、どんな生活をして、どんな死に方をする。そう言った、人生の分かれ道を少女は既に親に決められているのだ。
アカは少女のそんな身の丈話をタニシから聞いた時、釣り合いが取れてない、と反射的に思った。
親は子共に一方的に、餌や寝床を与える、そして、一方的に子供に貢献してもらおうとする。
今まで育てたのは私たちだ、という文法で子供はなくなく親の指示に従うわけだ。しかし、親と子共という二項対立で見れば不均等に見えても、祖父と孫まで含めればそうでもないのかもしれない。親に搾取された分、子は自分が産んだ孫から搾取する。それがずっと続くのだ。今、悪辣を働く親は、過去自分の親から悪辣を働かれたわけで、彼らは今生きている生命同士で均衡を保っているわけではなく、過去と現在と将来にわたって均衡を保とうとしている。
でも、それは、認めてしまえば不自由だ。
アカは不自由が嫌いだ。自分が不自由を被るのも、他者に不自由を強いるのも嫌いだ。仮にそれが避けられぬというのなら、釣り合いを、すなわち損得勘定によって割に合う状況でなければならないと思う。
ある夏。
娘がまたこっそり家を抜け出した。
アカはいつものように、タニシに目配せをしてから少女を追った。
アカが思うに、人間には、心が傷ついた時に一人で泣く奴と、誰かの胸に抱きつく奴とがいる。彼女は前者である。
無理もないことである。泣いた時抱きしめてくれる人間が周囲に存在しないのだから。
その夜、少し先回りすると、野党の一団が集まっていた。
この頃のアカはならず者を追い払うことに関しては手練と呼んでよいほどだった。例えば大きな熊に化け、鷹に化け、野党どもを襲い追い払うのだ。たまに、そう例えばその日のように、獣の姿で人の言葉など吐けば、臆病者は逃げ腰になるし、勇ましいものは顔を真っ赤にして襲ってくる。どちらにしても冷静さを欠くのだ。
この三年、アカの化け術も上達した。できることが増えたくせに、役立てることは人間一匹の護衛なのは、当初の展望とは違うが、まあ善しとしよう。こんな生活も、あの娘が大人になってこのような悪習を止めるまでだ。そんなことを思いながら、アカは盗賊たちが囲んでいた焚火に土をかぶせた。
その時、急に女の叫び声が聞こえた。
聞き覚えのある声に瞬時に反応し、アカは駆け出した。
しまった。慢心があった。野党たちが逃げた先に娘がいたのだ。いつもはそんなことのないように、山道とは別方向に誘導するのだが、今日は怠ってしまった。
駆け付けると、先ほど逃げた野党の一人が生娘一人を襲っている。娘がぎゃあぎゃあと騒ぐから、口に布を押し込んでいるところだった。
アカは、さっと野党の首に飛び掛かった。人は首の横の辺りから肌に直角に牙を入れ噛みちぎると、上手く死ぬ。頭が真っ白の中でもアカは正確に男の首の皮を噛み千切った。
動転した男はその場で倒れこみ、やがて気絶し、次いでそのまま息を止めた。
ここまで間があったにも関わらず娘は襲われた位置から一歩も動かず座り込んでいた。
男の死骸の上に佇む片目の狐はたいそう不気味に映る。半月の光を浴びて、一つの赤い瞳がぎらりと輝いた。男の首から流れる血が小さな流れとなって坂を下り、へたり込む少女の膝に達した。
娘は状況からして、狐が自分を助けたと察したらしい。一縷の考えもなく体が勝手に頭を下げたようだ。アカは、ふん、と鼻を鳴らして心を平静に戻した。
「夜半に出かけるからこんなことになる。今後は控えるんだな」
狐の姿のまま伝えると、娘が仰天した顔で頭を上げた。そうしてから、また伏せると、胸の熱を逃がすような上ずった声で訥々と話しだした。
「ずっと何かに、見守られている気がしていました。それで不思議と安心できたものですから」
「しかし今しがた襲われたじゃないか」
「恐ろしい思いはしましたが、助けてもらいました」娘が何か、期待するようにアカを見据えた。「あなたですか?」
「何が?」
「ですから、ずっと──」
「──勘違いだ」
強い否定に少女の顔が歪んだ。
彼女は人の世界で居場所がない気持ちでいるかもしれないが、だからと言って、自分のような特異な狐が彼女の精神的支柱になってはいけない、とアカは常々思っていた。
「今日は助けてやったが、こうしたことがいつも起こるとは思わぬことだ」
そう突き放すとアカは身を翻した。背後から、娘が引き留める言葉をかけてくる。片目の狐は聞こえてないかのように走り去り、やがて夜闇に紛れた。
*
翌晩は雨が降った。アカは念のため、いつものように娘が出てくるのを待ったが、やはり家から出てくる様子はない。彼女は天候の悪い夜と、父親が起きている夜は出かけることはない。服が濡れれば夜出かけたことを勘づかれるし、父親が起きていたらそもそも家から出られない。
「ご苦労なことだ」
軒下に佇むアカに向かって、タニシが言った。彼は既に歩けないほど衰弱している。生きているのが不可思議だった。
「君は、しぶといな。いつでも死にそうなくせに。息をしているところを見るたび、騙されている気分になるよ」
「そう言うな。私にも意地がある」
「意地?」
「ああ。あと数か月もすれば、娘が嫁ぐ。その日までは生きる。そう定めたのだ」
「呆れたよ。別に、彼らに見守っておくれ、と頼まれたわけでもないのだろうに」
「俺は人間が好きだからな。だって飯をくれる」
タニシは言い切った。アカはたまにこんな風に自分の身の置き所を定められる奴らが無性に羨ましくなることがある。
狐は孤独だ。そう思っているから、アカも自分は孤独だと思っている。孤独には自由がある反面、虚しさが残る。生きている時間が長引くごとに、アカの中でこの虚しさが勢いを増している。早く死にたいと思うほどに。
「どうしてそう迷いなく言い切れるのだろう。僕には無理だ。ここがそうだ、と満足して死に場所を選ぶことが出来ない。ずっと、これからも、ひたすら生きることに追われるのだろうか。そうして死んで、なんになるのだろうな」
突如悲壮な声でそんなことを言い出したから、タニシが笑い出した。
「お前はやっぱり人間みたいだ。俺たち獣は、嫌なことを避けて、好きだと思うことに夢中になればいいのだ。考えてもどうにもならん。心や魂は、智慧で御せるものじゃない」
「いぬっころらしい考えだ」
雨はやむ気配を見せない。
上を見ると、灰色の薄い雲が、天空いっぱいに貼り付いている。月明かりが透けているところを見るに、すぐ止むのかもしれない。そうして、タニシの背中に身を預けて数刻待っていたが、止むことはなく次第に雲が厚く黒々としてきた。背凭れにしているタニシの体が静かに上下している。鼓動と寝息が聞こえる。
アカは雨が嫌いだ。いい思い出がいないし嗅覚が鈍る。じめじめとした土草の香りも好きじゃない。
村の中央にできた大きな水たまりを見ていると、視界の上部分に人の足が見えた。
森から、誰かが来る。近づくたびに人影の形は明瞭になる。
「なんだ。汚い犬と傷だらけの狐が寄り添って」
白狐だ。見た瞬間に分かった。今日は村娘の姿で傘をさしている。妙なのはその格好である。
狐が人の姿に化けるときは、どんな服を着て、何を持っているのかまで思い描いて化ける。素っ裸に化けることも出来るには出来るのだが、それはつまり、毛皮の上にさらに布を着込むというわけで、蒸れる、鬱陶しい、動きにくい。良いことはまるで無い。
ところが、今の白狐はそれをしている。まず裸の人間になってから、服を着ているのだ。女の躯体に男物を合わせているので不格好でところどころ布が余ったり逆に足りなかったりしている。
「何か用か?」
顔をしかめながらアカは尋ねた。ついでに寝ているタニシが起きていないか一瞥する。
寝ている。年老いた番犬では白狐の異様に薄い存在感を感知できなかったようだ。
「心配でさ」
「帰りたくなれば、雨の中でも走って帰るさ」
「いやいや私が言っているのは、天気のことじゃない」
白狐は器用に人の顔で苦笑を作った。
「じゃあ何だというんだ?」
「熊がね、来るよ」
「熊?」
予想外の言葉に、アカは何か思い当たる節がないか、頭の中を検索し、やがて五年前の記憶を掘り出した。
「……あ」
すっかり、失念していた。
*
──もし、約束を破れば、お前を食いに行くからな。
熊の言葉が、急激に意識の上へと浮上した。
「忘れていたのか。呆れたやつだ」
やれやれと後ろ髪を掻いた白狐は、どこか寂しそうな顔をした。
「この件に関しては君とあの熊との問題だ。私はこれ以上関与しない。食われたくなければ、さっさと山を去ると良い。あれは君の想定より幾分か危なっかしい。君と同じで特異な奴だから」白狐は踵を返した。アカは空気の温度が少し下がったのを肌で感じた。「ちょっと、遅かったね」
囂々と黒々しい雲が天蓋を覆った。晩夏には似合わない鋭い風が肌を突き刺してくる。雨音、風音、自身の呼吸に草木のさざめき。それらの中に在って、ただ一種類の音だけが鮮明に轟いた。
熊の足音が聞こえる。
後ろにいたタニシが突如として顔を上げた。白く濁った眼を見開いている。
「逃げるなら、早くしないと。本当に死んじゃうよ」
白狐が突き放すように言った。言われずともアカはそうするつもりだった。元々、守るつもりのない約束、いや土台無理な約束だ。尾を引く罪悪感など見当たらなかった。
「そうさせてもらうよ」
アカは上体を起こして、ぬかるんだ地面にその前足を乗せた。その時、タニシが言葉を発する。
「待て、詳しい事情は知らんが、あの熊は貴様を狙っているのか?」
「そうだろう」
「逃げられるか?」
アカはその質問に首を傾げた。
まず、逃げることが可能かという質問なら、間違いなく肯定する。
確かに熊は俊敏だ。開けた大地でかけっこをすれば早晩つかまって食われるのは必至であろう。しかし、森の中でなら捕まることはない。木々に邪魔されて、熊はその巨体を存分に動かすことは出来ないだろうから。それに、熊は下り坂で鈍足になる。以上のことから山を駆け下るアカに、熊が追い付くことはない。
次に、逃げるという行動をとった瞬間に何か致命的な問題が生じるのではないか、という心配から出た質問ならば、その答えをアカは持ち合わせていない。
「逃げ切れるだろうさ」
そう返すと、タニシはかぶりを振った。どうやら後者の意味合いでの質問だったらしい。
「アカ。お前はあの人食い熊について全くと言っていいほど理解していないだろうから言っておくが──」
「──アカ!」
白狐がいきなり怒鳴った。
しばし場が凍った。白狐はまさしく殺意の籠った眼でタニシを見ている。タニシは気おされて押し黙った。その老いぼれた肢体がぐらぐらと揺らいでいる。委縮している。
そして、白狐は強く肝に銘じろという口調でゆっくりとアカに言った。
「いいか、何も考えず、君は逃げるんだ。余計なことは考えるな。君が考えていいのは自分のことだけだ。自分の命のことだけを考えるんだ。さぁ、早くいけ」
違和感が体を貫いた。この感覚をアカは知っている。タニシを見た。怯えながらも何か言いたげな目でこちらを見ている。その眼の中に微かな期待と憤りを、アカは見て取った。
「何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「なぁ、君」と白狐がいら立ちの籠った声を出した。
「聞くだけだ。いいだろ?」とアカは白狐に言った。
「よくない。聞くべきじゃない。さあ、早く」
「タニシ」
アカはタニシの方を真っ直ぐ見た。それが委縮していたはずのタニシの体にわずかなりとも勇気の火を灯したらしい。タニシはしわがれ震えた声で主張した。
「あの熊は、自分さえよければいいと思うやつだ。例えば何か自分にとって不快な問題が起きた時、その問題自体をどうこうしようとするのではなく、自分の中に在るその、不快さ、を解消する。それがあの熊の考え方だ」
熊の足音がどんどん近くに寄ってきている。白狐は、チッ、と舌打ちをして地面を蹴った。
タニシは喉を一回鳴らした。
「つまり、何が言いたいかというと……お前が逃げたら、あの熊は凄惨な仕方で、憂さ晴らしをするだろうということだ」
その凄惨な仕方というのが、何を指しているのかは、あれが人食い熊と呼ばれていることから、容易に想像できる。
アカの足は完全に動きを止めていた。白狐が盛大に重い息を吐きだした。そして諦めた様子でアカに問いかける。
「まさか、逃げないとは言うまいね?」
「……僕と、あの熊との約束のせいで……いや、僕のせいで他の何者かが苦痛を受けるのは……僕の信条に反する」
「だからみすみす死に行くのか?」
「だって」
「だってじゃない。つべこべ言わず逃げるべきだ」
「死ぬとは、限らない」
「死ぬよ。あの熊は確実に君を殺すだろう」
「しかし、僕のせいで」
「ここに! ……ここに住んでいる人間が皆殺しにされるのと、君が生き残ることを秤にかければ、私にとっては君の方が重い。無論、君もそのはずだ。自分の命が最優先だろう。だって」白狐の灰色の瞳が一瞬黄金色に輝き、アカを見据えた。「君は、獣だから」
さぁ、とアカの心の温度が下がった。
「信条が何だ。不条理が何だ。そんなもの、自分の命に比べれば軽い。それとも何か、命以上に大事なものが君にはあるのか? 迷うくらいならきっとそんなものないよ。火急の際、何の指針も示さぬ信条はガラクタだ。今捨てて楽になれ」
アカは苦渋を顔に表した。苦いものをかむように、歯をむき出しにし、一つしかない眼を鋭く細めた。
「俺は……お前に死んでほしい。ここの人間が死ぬのは看過できない」
ふと、タニシが呟いた。白狐に比べれば頼りなくか細い声だったが、アカには同等に大きく聞こえた。
そうこうしている間に、足音は近づき、雨がつよくなった。雷鳴が聞こえる。地面が吸収しきれなくなった雨水が川のように村の勾配を下っている。だくだくと流れる水音が、急いた気持ちに拍車をかける。
アカはついに泣きそうになった顔で、熊の足音がする方に顔を向けた。
「けれど……けれど……逃げて、生き延びたとしても、僕は……あの時死んでおけばよかったかもと、この瞬間の決断を、一生涯呪いながら生きて行く。そんな気がする。素朴にそう感じる。きっとこの感情だけは、間違いない。僕は……体に傷は残しても後悔は残したくない」
タニシは面目なさそうに、視線を下に向けた。
白狐は、また諦めた顔になった。しかし、先ほどよりも幾分かやわらかい。
「わかってたよ」
アカがはっと白狐を見ると、優しく柔和にほほ笑んだ村娘の顔があった。
「君はもうとっくに自分のことなんか考えてない。死ぬ理由になるくらい……人に愛着を持っているんだ」
アカの息が浅く早くなった。鼓動だけがせわしなく、体は凍えたように動かない。
林から、熊の顔が現れた。
悠然としつつ威圧的。恐ろしい化け物であることを忘れるほど、ゆっくりとした足取りで、熊がアカの方に向かっている。
誰も声を発さない。発したとしてもこの嵐の音にかき消されるだろう。
「久しいな」
熊は白狐に軽くそう声をかけた後、アカの方を見た。
熊が鈍く目を光らせた。
「片目、約束だ。キヨヤスは、どこにいる?」
不思議な心地がした。恐ろしいものが、目の前にいるのに、かえって心が凪いでゆく。いや、目に見えるようになったからこそ、というべきだろう。
雨脚がまた落ち着いてきた。ただ雷鳴はいまだ轟いている。
タニシが、懇願するように、アカを見た。そしてそれをアカが見つめ返した途端、やはり視線をそらした。優しい犬だ。
「さぁ……どこだ?」
熊がぐるぐると喉を鳴らした。
「……知らん」
言葉を発した次の瞬間には、熊の雨水より早い剛腕が降りかかった。
*
アカは熊の剛腕をすり抜けると、そいつの股の下をくぐり、森と村の境界線まで駆け抜けた。そして振り返る。
熊が顔半分で振り向いてこちらを睨んでいる。雷光で輝く奴の毛並みは黒く美しい。目が青くこの世の何よりも冷たそうだ。
ただで死んでたまるか、とアカは気持ちを強く固めた。
「殺してみるといい。できるものなら」とアカが挑発してみても、熊は一向に動こうとしない。
「……」
無言でアカを見つめている。
「どうした? 狐一匹狩るなど造作もないだろう?」
──妙なことをする。それだけ足が速いなら、さっさと逃げればいいだろうに、なぜ立ち止まるのか。何か俺と真っ向から戦わなければならない理由でもあるのか?
熊の心に、一滴の違和感が染み込んできた。しかし、長年の経験から、それが自分に危害を加える類のものではないと感じると、熊は考えを目前に戻した。
確かに、アカの言うとおりだ。熊にとって、狐を狩るのに大きな困難はない。
ただ熊は面白くないと感じていた。
熊は、嫌がっていたり怖がっていたりする奴を、一方的に懲らしめてやるのが好きなのであって、決して意気揚々と挑発してくる奴を、あくせく骨を折って追いかけ回したいわけではない。
端的に言うと、アカの態度が気に食わない。
熊は一度、白狐の方を見た。今は村娘の姿だが、それがはっきりと白狐だとわかるのは、一重に匂いである。その娘からは衣服の匂い以外何も感じない。
白狐は、つまらなそうにこちらを見返した。その態度は理解できる。熊にとって、白狐はどうあがいても歯が立たない相手だと知っているからである。
──だが、あの片目は違う。あれは俺より弱い。
自分より立場の低い奴が、自分を小馬鹿にする。それが許せないのが人喰い熊の如何ともし難い性だった。
熊は空に向かって、盛大に吠えた。
嵐の中でさえ強烈に轟く轟音に、ビリビリと空気が揺れる。村中の犬が一斉に駆けつけ、熊に向かって吠えた。家々から人が顔をのぞかせ、熊を見るなりすぐに引っ込んだ。
アカの視線が、人の動向に注がれているのを確認して、熊は笑った。
──村人だ。
熊は、そうとわかるや否や村人に襲いかかった。
それが最も、アカが嫌がることだと知れたからである。
犬が吠える、風が吹く、人が叫ぶ、雨が降る、熊が吠える、雷鳴が轟き、赤ん坊が泣き、人の足音が錯綜した。
人がぐちゃぐちゃに逃げまわり、どこそこで泥濘に足を滑らせ転倒した。犬が熊に襲いかかっては、ぴしゃりと地面に叩きつけられていた。絶命している者もいる。
熊は嬉々として、怖気づいている犬から順に踏み殺していった。
一匹の動物というよりは災害だった。
地上で最も危険な生き物は人間であるが、最も強い生き物は熊である。アカはそう思っている。事実彼は生涯の中で幾度も熊という生物に仲間を奪われているし殺せた試しがない。基本的に関わり合いにならない方が良い化け物。それが熊だ。
犬が霧散して逃げ始めた。
人食い熊の足元に何十匹もの人と犬が横たわっている。
熊が満足そうにあたりを見回した。スンスンと鼻を細かく上下させている。そうして、ぐるりと首を動かし、見据えた先に威嚇するタニシがいた。当然、その後ろにはいつもあの娘が出てくる引き戸がある。
目の前にいるタニシを蹴っ飛ばすと、木造の戸をたやすく破壊した。片手間にタニシが蹴り飛ばされアカの前まで吹っ飛んできた。そうして目の前に痙攣を繰り返す老犬がいるにもかかわらず、アカの意識は引き戸の奥で震える父娘に向いていた。
「熊!」
アカが叫ぶ。
もうここからでは駆け出しても、熊が二人を殺す方が早い。よしんば間に合ったとしても、手立てなどない。声を出す以外にできることがない。熊は一瞬だけ振り向くと、こともなげに視線を二人に戻した。
「なんだ?」
驚くほど平板な声である。人間には世にも恐ろしい唸りに聞こえる。
「僕とお前の問題だろう。僕を殺せばいい。そういう約束だ」
「……勘違いしているな、狐。俺がいつ、お前以外を食い殺さないと言った?」
愉快でたまらないとでも言いたげな雰囲気が言の葉の節々に感じられた。
「言っていないよな? 俺はお前を食い殺すと言っただけだ。だから、今俺がしていることはお前の約束とは関係がない」楽しんでいる。振り向いてこちらを見やる熊の表情は歪に笑っていた。「干渉しているのは、むしろお前だ」
そして、ついに笑い出した。
熊の笑い声あるいは咆哮は、深い森の闇では吸い込み切れず周辺に木霊した。先ほどまで熊を取り囲んでいた犬もどこかへ消えている。所詮、元々は野良犬なのだ。猟犬とは覚悟の桁が随分と違う。
「よかったなぁ。別にここで人が何匹死のうが、お前は悪くないぞ。これはただ俺がそうしたいから、しているだけだ」
そう言うなり熊が何の暇もなく父の方に噛みついた。娘はただただ恐ろしくてその場から離れようとするが、立つこともままならないほど怯え、外に逃げるべきなのだろうに熊から距離を置きたい一心でさらに家屋の奥へと体を引きずった。たった今、致命傷を与えた男の血糊が熊の鼻と口にべたりとついている。絶命しきれない男は何かを訴えるように、ああぁ、と口から漏らし、体をくねらせていた。
アカは頭が真っ白になるということを本当の意味で体験した。
ふと、足元のタニシが首を動かしてアカの足に噛みついてきた。別段痛いというほどのものではない。あくまで意識を自分に向けさせるためにしたことだろう。アカが下を向くと、タニシがたった今最期の言葉を吐き出そうとしていた。
「おあえおえいあお」
死に際の犬の声は呂律の回らない見苦しいもので、なおかつ意味のあるものとは思えなかった。しかし、その瞳に宿った期待と何に向けられているのか分からない憎悪だけは確かに受け取った。
白狐は、おそらく逃げる村民たちに交じってこの場から消えたのだろう。残されたのは逃げ遅れた村人と、アカだけである。
アカは、タニシの頭を振り払うと、全力で駆けだした。
自分はいつもそうだ。何か重大なことが起きる度、手遅れになる 度、ようやく走り出している。
多少なりとも熊の注意をひけるのではないかを考えて、「キキキヤヤヤヤヤ!」と叫んだ。威嚇の意であるが、はたから聞けば女の悲鳴である。
熊は耳がそれほど良くない動物だが、流石に振り返った。
そして、駆けてくるアカに対して、一瞬だけ思考を巡らした。
──どうしたら、片目は、一番苦しむのだろうか?
熊はひたすらそれだけを考えた。
どうして獣が人間に固執しているのかは定かでないにしても、間違いなく人の死が、あの狐の琴線である。
であるならば、奴を生かさず殺さずといった状態にして、ひたすら目の前で人間を殺して回るというのが最も良い選択だろうか。
いや、それも違うだろう。
あいつは人間に固執しているのではなく、特別ここにいる人間に固執しているのだ。いやいやそれも違う。さっきあの狐の視線が注がれていたのはこの家だけだった。あいつにとって特別、重要を占めるのは、現状で目の前で震えている娘に違いない。
熊は、考えに考えをめぐらした結果、一つの案を出した。
「なあ、狐。一つ提案がある」
アカは構わず、噛みつこうとした。しかし、振り払われ地面に叩きつけられた。そのまま熊の足に踏み付けられ身動きが取れなくなる。
「落ち着けよ、悪い話じゃない。お前、あれだけが大切なのだろう? いや、あれが一番大切なのだろう?」
熊は顎で娘を示しながら言った。狐は黙ったまま熊を睨んだ。
「他の人間を三匹狩ってきたら、あの娘の命だけは見逃してやる。この夜のうちに人間の死骸を三つ俺の許へ持ってこい」
「いやだ」
「なんだと?」
熊の足に力がこもった。アカの小さな体の節々でパキパキと何かが折れる音がした。激痛が走った。
アカは苦痛を顔に出すことなく平然と熊を見つめた。そして馬鹿にした口調で言う。
「お前みたいなやつは、きっと、僕が何匹人を殺しても、次は次はと条件をつけ足す。意味がない提案には乗らない。僕だけが死んだほうがましだ」
「お前を殺した後、俺はあの娘を殺すぞ?」
「構わない。死んだ後のことはどうしようもない」
熊は当てが外れて、溜息をついた。
「つくづく癪な奴だ」
壊れた戸から、雨が斜め差し込み、土間の土が大いに濡れた。人の死骸から錆びた刃物みたいな匂いが、立ち込めている。畳から流れた血が、地面を流れる雨水と合流した。
アカは相変わらず毅然と恐ろしい熊の相貌を見つめ返した。
すると、その時、娘が動いた。恐怖に体が慣れ動けるようになったらしい。隙だと思ったのか、熊の目の前を急いで駆け抜けようとした。
熊は即座に反応して、前足をふるった。その時、アカを締め付ける圧力も消え去り、体が自由になった。
娘は驚いて、その場につまずいた。運が良かったのか悪かったのかは、熊の真意に聞かなければ分からないところではあるが、娘の背中には熊の 爪痕が刻まれた。
すぐさま、娘の背中が赤く染まった。
狐は一瞬の間に人間に化けると、娘を抱いて、家の外に出た。
出てみると、別世界だ。ざあざあと雨が降り、人の気配はほとんどない。少し外に出ただけで、娘の衣服はずぶぬれになった。背中が痛くてどうしようもないのか、怖いのか、顔を抑えて泣いている。アカも自分の体が軋んでいるのがわかった。骨の数か所は既に折れているだろう。
妙なことが起きた。熊が追撃をしてこない。
アカが、そうこう考えている間には、多少なりとも時間があった。それを見逃す熊ではないとアカも重々承知している。
訝しんで熊を見ると、驚愕して目を見開いているようだった。
*
熊には消したい思い出がある。
まだ十歳にも満たない頃、ある人間と出くわした。
その人間は体は決して太くはなく、むしろ細い。全身に白い布をまとっている。実際は土や何かの汚れでくすんでいて、茶色のほうが近い印象である。
しかし人間であることは間違いない。
人は弱い。
真正面から姿を現しても、余裕をもって食い殺せるという自信があった。
男は茂みから熊が姿を現しても、特段動じた様子もなく立ち上がった。顔は憮然としている。そっくりと感情が抜け落ちているようでもあった。
不自然だった。
熊は、一つ喉で唸って見せた。ぐるぐると重厚な音が響く。
やはり男は動揺しない。慎重に、目線をそらすことなくこちらを観察し、足だけをじりじりと後ろに送っている。
今更だから言えることだが、熊からすれば人間にこんな対応をされたことがなかったから、不気味であった。
通常の人間は熊に出くわすと、緊張したり、青ざめたりするものだ。程度の差こそあれ例外はない。何とか対処しようとする者もいるが、表情にはいつも恐怖がある。
それが、目の前の男から一切感じないことが、不愉快であり、奇妙なのだ。
熊は、一気に飛び掛かった。
すると、男は素早く山刀を抜き熊の胸に差し込むと、するりと前方に滑り込み、熊の攻撃を躱した。
その際、深くなくとも大きな傷が一線、熊の胸から腹にかけて作られたのだった。
何が起きているのか分からなかった。
見た目以上に、心に深い傷を負った。
振り返ると、男は先ほどよりも、距離を置いて、森の茂みに身を隠そうとしていた。男の頬にも熊の爪によって、一筋の傷ができている。
カッと額が熱くなった。
森に逃げ込んだ男は、そのまま巧みに熊の攻撃をかわしつつ、距離を取りやがて視界から消えた。
ただ奴の血の匂いは強く残っている。夜が更けてから奇襲すれば殺せる。
若く経験の浅い熊はそう考えて夜を待った。
夜になり、血の匂いを辿って、森の中を進んだ。より一層濃い匂いのする方へと足を向けている間、熊の脳内ではどのように攻撃するのかの算段が細かに組まれていた。
しかし、たどり着いたのは、切り立った崖であった。大量の血が付着した衣が、崖の先端にかかっている。
おそらく自傷して着ている物に血液をしみ込ませたのであろう。
体臭よりも血の匂いはより鮮明に追うことができる。逆に言うと、その匂いが濃すぎるせいでほかの匂いに対しては感覚が鈍る。要は囮を作ったわけであるが、分かっていてもやろうとする人間はそうそういないだろう。
熊は森の烏に、自分に傷をつけ逃げおおせた人間のことを聞いた。
すると、一匹の調子のいい烏が大いに思い当たる節があったらしく、教えてくれた。
「それはキヨヤスという修験者だね」
「修験者?」
「山で苦行を積む人間のことだ」
修験者か、と熊は納得した。
彼らはやれ木の皮しか食わぬだの、殺生はせぬだの言って山にこもる人間のことだ。道理で痩せていたはずである。
「しかし、なぜそれだけの理由で名前まで分かる?」
「そりゃ、この山で修行しているのがあいつだけだからさ。それに、丸い頭を縦に伸ばしたような顔という特徴もまさしく一致する」
「なるほど。それで、奴は今どこにいる? 食い殺してやろうと思うのだが」
「もう、どこかに去ってしまったらしい。この山はもちろん、麓の村にも姿はないよ」
傷が癒えると、熊はキヨヤスを追って東へ東へと居を移した。不幸なことに、この長旅の最中、何度も人と遭遇したために人ばかりを殺す悪癖が付いた。さらに不幸なのは、旅の行き先がキヨヤスの向かった先と反対だったことである。とまれ、そうしているうちに、疲れ果て、いよいよ辿り着いたのが永媛山である。
「なんだ、ずいぶん凶暴な熊がいるというから見に来てみれば、ただの臆病者か」
初めて白狐にあったとき、そんなこと言われた。頭にきたが、不思議と殺せない相手だと悟ることができたので、ふん、と鼻を鳴らして興味のないふりをした。
「襲ってきてもいいんだよ?」
「意味のないことはしない」
「へぇ、そうかい」
明らかに馬鹿にした口調だったが、とにかくその時の熊は長旅で心身ともに疲弊していたから、怪しげな狐に長く取り合う暇も忍耐もなかった。
「その傷はどうした?」
白狐に言われ、熊は反射的に丸まって胸を隠した。
「まあ痛くはなさそうだが……気になるなら治してやろうか?」
「……いや、今はこのままでいい」
「どうして?」
「戒めだ」
熊が忌々しげにつぶやくと、反対に白狐はけらけらと笑い出した。奇怪で甲高い声に、多少熊の胸中がざわついた。
「やっぱり、底の浅い奴だ、君は」
白狐はそう言い残して、身を翻した。
底が浅かろうが、深かろうが関係がない。興味もない。
ただ、熊にとって不快な奴がのうのうと生きていることが許せなかった。
*
キヨヤスの相貌はよく覚えている。
丸い頭を縦に伸ばしたドングリのような顔。眼光は鋭利で、眉は太い。そして、おそらく今現在は頬に傷があるはずだ。
片目の狐が化けた男の顔はまさに、その特徴を得ていた。
キヨヤスに化けた狐は、土砂降りの雨の中で、熊を見つめている。そして、しばらくしても動かない熊を見て、はたと何かに気が付いたように、抱きかかえていた娘を地面に下した。
びちゃり、と体をへたり込ませた娘が、狐の腰に追いすがるようにしがみついていた。雑音が鳴りやまぬ野外にあっても女が何かを必死で泣き叫んでいるのがわかる。雨と風と血と土で顔がどろどろに乱れていた。
狐は、娘の両肩に手を置いて二三何かを伝えた後、無理やりに縋り付く肢体をはがした。
「おい狐」
熊はつぶやくような大きさで聞いた。アカは気が付いていないらしく、ぽんと狐の姿に戻ると、熊を一瞥し。森の中へ消えた。熊もそれ追って森の中に入った。湿気で鼻が上手く働かないが、狐の匂いを辿ることは造作もない。小さな木々をほとんどなぎ倒すようにして、狐を追った。追った。追った。
「おい! 狐!」熊は森中に響き渡る声量で叫んだ。
「その男とどこであった。今どこにいる! 答えろ、それが俺の探していた男だ!」
*
茂みの中、熊の声に対し、狐は足を止めた。
──熊の探していた男。キヨヤス。ドングリが?
余談であるが、アカは人間に化けられるといっても、白狐のように老若男女、誰にでも、というわけではないし、容姿を変化させることもできない。
アカが化けられるのは人間の中でも、ただ一人、ドングリである。
「答えろ!」
熊が再び叫んだ。
どうするべきか、アカは悩んだ。
アカの中にあるのは、もうこれ以上、自分以外に犠牲が出ないことだけである。
思えば、最初からこの気持ちを固めていれば、タニシや村人が死ぬことはなかった。熊が最初振り下ろした攻撃を避けることなく素直に受け入れ、あの場でアカが絶命を選択していれば、善かったのかも知れない。
しかし、一方でそうとも限らないか、という気持ちもある。
即座にアカを殺しても発散しきれなかった熊の鬱憤が、周辺にいた村民に飛び火する可能性がない、とは断言できない。
さて、話を今に戻すと現状で目標とするべき点は先述した通り、自分以外の被害をこれ以上出さないことであり、それを実現する主な手段は次の三つである。
一、熊と和解。
二、どんな手段であっても、熊を殺す。
三、アカの生死にかかわらず、熊の欲求を満たすこと。
一と三は不可能に近い。なぜなら、熊がどんな動機で行動しているのか、また彼の中に在る価値基準がアカには把握できないからである。そして、何より確実性と持続性がない。
よって、考えるべきは二である。
ただ二に対しても、主だったアプローチが思いつかない。自分が使える手段と、今の環境ではできることが限られる。一対一では勝てるはずもない。加えてアカの体は限界に近い。
詰みである。
「答えろぉ!」
しかし、現状で利用できそうな要素が浮上している。すなわち、アカが期せずして最初から、熊の望んでいる情報を持っていることである。
ただ、この情報をどう使うのかが、悩みどころだ。
答えるのか、答えないのか、という問題だけではなく、嘘をつくか、つかないかという問題もあるし、何より終着点をどこに設定するかによって、対応が変わってくる。
素直に、「キヨヤスは自分が殺した」と教えれば、八つ当たりされて、アカが殺される可能性が高い。答えなければ現状維持。
「ここからはるか西にいるぞ」、と嘘をつけば、信じてこの山から去っていくかもしれないが、のちのち、「いなかったじゃないか」と憤らせ、結局誰かが犠牲になるかもしれない。
考えた末、アカは、熊の声には応答しないこと、すなわち現状維持を選んだ。
現状は、熊がアカを捕まえようと躍起になっている。注意を引き続けているし、口を噤む限り身の安全が約束されるという点では、一番評価できる選択に思えた。
ただ、このままというのでは人食い熊を野放しにしているのと、早晩変わらないことになるだろう。
それに人を殺して、数年間ではあるが面倒を見てやった人間を傷つけられてただで済ませるのは……アカにとって癪だった。
せめて、一泡吹かせるかしたいところだ。
*
熊がいくら問を投げかけても、返ってくる気配はない。
熊からすれば、そうなっては片目の狐を生け捕りにするほかない。だが、あの狐は想定以上にすばしっこく、加えて狡猾だ。
どうすれば捕らえることができるのかを、考えなければならない。
森の中にいては捕まえることは出来ないだろう。となれば、分かりやすく走力で勝負するべきだ。微妙なところだが、障害物のない場所であれば、速度で熊が負けることはない。
であれば、まず、障害物のない場所まで、狐を追い詰めなければならない。
熊の脳内にはもう一つの考えしかなかった。
禿山だ。永媛山の山頂に狐を追い込むのだ。
この周辺で、障害物の少ない場所はそこしかない。
次に考えるのは片目の狐がどこにいるのかということである。
熊は、おそらく片目の狐はあの娘の所に戻っているのではないか、と予想した。
まず考えてみると、狐の第一優先は人間どもの安全確保であるはずだ。無防備な状態で野放しにするわけがない。熊が万一にでももう一度人間を襲ってくることに備えて、彼らの近くにいると考えられる。まあ、狐一匹いたところで人を襲うことには何の障害もないだろうが、人間を使えば狐をおびき寄せることができるだろう。
*
アカからすれば、熊が今自分を生け捕りにしようと考えていることは間違いのないことである。
その前提に立てば、人間の身の安全は五分五分といったところである。熊は最初、アカに嫌がらせをするために人間や犬を殺した。しかし、その後、アカがキヨヤスの居場所をしていると分かった途端に行動目標を痛がらせから、生け捕りに変更したわけだ。
熊の立場に立つと、アカを生け捕りにし、かつ、情報を吐かせなければならない。
この二つを満たすには、ただ捕まえるのではなく、情報を言わせる土台が必要になる。極端な話ではあるが、アカが熊に大きな憎しみを持っていれば、それが邪魔してアカは素直に情報を吐かないだろう。
ともなれば、人を殺せばアカの恨みを買う。そう考えて、人殺しを忌避するかもしれない。
しかし、反対に人間を人質にする可能性もある。
熊の襲撃時に即逃げ出した村人は山を下り終えた頃だろう。村に残った人間たちは、おそらくもう動こうとしない。残る心配事は娘だけだが、あれはあれですでに手は打っているので問題ない。
熊の匂いが近づいていることを感じ、アカは山道に出た。雨の勢いは弱まっているが、風は依然として強く吹いている。
これだけ空気が混ぜられていては、狐の嗅覚は当てにならない。熊の嗅覚ならアカの居場所に見当がついているだろうが、反対にアカからすれば熊の居場所は分からないというのが現状である。何なら、自分の居場所以外は何も分からない。
アカが一度山道に出たのは、人間と合流する気があると思わせるためもあるが、一度熊の居場所を明らかにしたいという意図があった。
猟師や山伏などでなければ、けもの道は使わない。
使うのはこの山道のみ。人間と合流したいのなら、ここで待っているのが最善である。熊もその共通認識がある以上、アカが山道に出た時点で熊はアカが人間と合流するつもりであると、考えるだろう。
アカは、山道を歩きながら少しだけ息を整える時間を取った。
何本か、骨を折られている。左前足の挙動がおかしいため、いつもの走力の八割が限度といったところだ。血が出ているわけではないが、体の中はぼろぼろもいいところだった。
そうして、自分の体のことを考えていると、故郷の長老の姿を思い出した。
「そうだ……僕、もうあれより年寄りなのか」
自分の体に老いを感じたことはない。それでも十分に大往生である。
なんだか、必死に生きるのもつかれたし、ここいらで命を絶つのも悪くないような気がしている。
とぼとぼと坂を上っていると、道の下の方で茂みをかき分ける音がした。振り返ると、熊がいる。
恐怖を感じないわけではない、焦りがないわけではない。ただ、それを上回るくらい、
「疲れた」
アカは嘆息のあと、また森の茂みに逃げ込んだ。
*
アカが逃げ込んだとき、熊は追いかけようとは思わなかった。奴が結局、娘を守るために行動しているのだということが分かっただけで充分だと感じた。
あとは、近道を使えばいい。つまり娘の血の匂いを辿ればいい。
人食い熊は、においを感じ取ることに関しては同じ熊の中でも頭一つ抜けた才覚があった。小さな山なら裏側で移動する獣の居場所まで瞬時にわかる。
その鋭敏な嗅覚で察知するところによると、娘の血の匂いは、山の中腹に向かっていた。
「なぜ登っている?」
分からない。普通下ってくるものだろう。狐もそれを見越して山道に出ていたのではないのか。ここにきて、熊の頭の中にはいくつもの疑問が湧き上がる。
匂いはどんどん山を登り、やがて池の周辺で動きを止めた。片目の狐の匂いも、そこに向かっている。
何はともあれ好都合だと思った。
もともと山頂に追い込むつもりだったのだ。
*
滝の裏側にある洞窟にたどり着く。白狐の姿はない。
触ったら死ぬといわれる石のさらに奥に、娘が倒れ伏している。アカが、ここまで何とか歩いてこれば助けてやると言ったのだ。
アカは娘に近寄って、顔に鼻を押し当てた。
意識をなくし虫の息だった。血を流しすぎているし、もうじきに死ぬに違いない。
アカは、申し訳なく思った。
死なせてしまうことにも、この死に対して感傷に浸れるほどの時間がないことにも。
アカはドングリの姿に化け 、娘から衣服をはぎ取り徐に羽織ると、すぐに山頂に向かって歩き出した。
永媛山の山頂付近には樹木が殆ど生えていない。標高が高いために這松や苔桃が点々と生えていて、あとはひたすら岩石と瓦礫で構成されている。
永媛山は東半分と山頂部分はそんな風に植物が生育していないので、禿山 という人もいる。
普段西半分でしか生活していないアカにとっては、全くそんな印象は受けないのだが、山頂まで登ってみると、確かに東側はがらんと殺風景で、こんな怪しい夜にはどこか不気味に見える。
アカの後ろから、重い足音がずんずんと近付いていた。アカは憮然と、音の方を見下ろした。下から熊が歩いてきている。彼はこちらを真っ直ぐと睨んで喉を鳴らす。
アカは、人の姿から狐に戻った。その調子に、娘の血が付着した衣がひゅっと風に飛ばされた。
「血の匂いを追ってきてみれば、なるほど、血の付いた着物の方だったか」
熊は何か嫌なものでも思い出したかのように、鼻息を大きく吐いた。
赤い瞳の狐は、黙ってただ熊を見下ろした。アカの真後ろに雷が落ちた。
禿山は一見して、動き回れそうではあるが、このような天候の日でしかも足場が不安定な瓦礫の上では、遅かれ早かれ思うように動けず転落する。もっとも熊ぐらいの体重があれば話はその限りではない。
この時点でアカには死ぬ以外の逃げ道はない。
「もう一度聞く。キヨヤスはどこだ?」
熊が言った。
「もうどこにもいない。僕が殺した」
熊は、一度目を閉じ開いた。それと同時、ものすごい速度で襲い掛かってきた。
瞬きをすれば躱しきれない猛攻を紙一重で、回避する度にアカの立ち位置は山頂へと着実に、後退してゆく。
逃げ場が徐々に削られていく。
そしてとうとう、頂上にたどり着いた。
頂上は一辺約五メートルの正方形に、でこぼこした岩を敷き詰めたような場所である。人が歩くことを考えられていないため、人工的な整備は皆無だった。
アカは、岩戸岩を飛び回って熊を猛攻をしのぐが、ついに雨でぬれた岩肌に足を滑らせてしまう。そこに熊の腕が横殴りの形で直撃し、小さな狐の体が吹っ飛んだ。そのまま山の下に落下していくのかと思えば、寸前でアカは烏に化けて、事なきを得た。
悠然と着地するアカに対して熊は、まずい食べ物を吐き出すように言った。
「なぜ逃げない。馬鹿にしているのか?」
「馬鹿になんかしていない。なぜそんなことを聞く?」
「勝てる展望もないくせに、こんな戦いをするのはおかしい。不合理だ。そもそも人間のために戦う狐がいるというのが気色悪い」
「人に懐く狐だって世の中にいるだろう」
「いや、狐。お前は人間から何かを得たわけではないだろう。その目玉も、顔の傷も、何なら今死にそうになっているのも、人間と関わったせいではないか?」
「そうだな」
「おかしいよ、おまえ」
「おかしいんだろうな」アカは狐の姿に戻ると、疲れ切ったように「なんでこんなことをしているんだろうな」と言った。
熊は理解に苦しみ、眉根を寄せた。それを見てアカはふっと鼻で笑った。何もかも見下していそうなアカの態度に腹を立て、熊は咆哮と同時に飛び掛かった。
襲い来る攻撃を躱し、耐え、吹き飛ばされて復帰するのを繰り返し、一刻が過ぎた。熊の足元では血だらけでもはや立つこともままならなくなった狐が岩の上で、苦しく息を吐いて吸ってを繰り返していた。
もう、四本の脚は満足に動かない。耳は片方が千切れている。ただ、赤い瞳だけがしっかりと美しさを保ち、熊を睨んだ。
熊は、目の前の狐に驚愕せずにはいられなかった。異様に粘られたことにもそうだが、獣の習性をここまで逸脱していることが何より不気味だった。
狐は魚のように痙攣している。まだ立ち上がろうとしていることが分かった。
──もし、ここでしっかりと、この狐を殺しきることができれば、胸の中に在る厄介な恥が多少なりとも洗い流せるのではないか。
熊の中にそんな思い込みが生まれた。
熊の腕が天高く振り上げられた。岩の上でなすすべなく、こちらを見つめる赤い瞳と視線が交わった。そのまま数秒間見つめ合い、狐が目をつむった。
死を覚悟した合図 だと熊は受け取った。
そのまま剛腕が振り下ろされる。その直前、熊の体に雷が直撃した。
アカは死を覚悟して目をつぶっていたが、突然自分のすぐそばで何かが倒れる音を聞いた。
不思議に思って目を開けると、絶命した熊の顔が、こちらを見つめてきていた。
*
「ひょっとしてまだ生きてる?」
豪雨が明けた朝、そう言ってのぞき込んできたのは白狐だった。
昨夜の姿のままである。
アカは何か言い返そうと思ったが、喉からはヒューヒューと風の通る音しかしない。
「話すこともできないか。……今回は流石に治すよ。誇りとか言い出したら多分死ぬから」
そう言って、アカを抱きかかえてから、ふと白狐は倒れている熊を見た。
「雷に打たれたんだ。運がない」そうして今度はアカの方を見た。「いや、君が豪運なのか」
何がおかしいのか、にやにやしながら白狐は池に戻る道中一方的に話した。
「君が勝手に私の寝床に置いていった死にかけの娘だけど、どうしたらいいか分からないからとりあえず傷をふさいでおいたよ。死んだら悲しむのかなと思ってね。ただ……生かしておく方が酷だったかもしれないね。彼女、身寄りがないんでしょ? お父さんも死んじゃってるし、見合い話もなかったことになると思うよ。どうすんのさ。やっぱ今からでも殺しておく?」
アカが目だけで威嚇すると「真面目だな、もう」とあきれ顔で返された。
「それで君はこれからどうする? まだこの山に残るって言うんなら別にそれでもかまわないけれど、私としては、やっ──」
ひどく疲れた。ひたすら眠い。
白狐の絶え間ない話に耳を傾けているうちに、アカはとうとう睡魔にやられて眠りについた。
【続】