犬は山の中に住んでいました。高い杉の木と、暗いシダが鬱蒼とした山です。犬は若く、山の中に住む他の犬と大して変わらない暮らしをしていました。朝はゆるりと起きて、昼には颯爽と山中を駆け、夜には早く寝ました。よく吠え、よく食べ、よく眠りました。住んでいた洞穴も暗くて、狭くて、厳めしいので気に入っていました。
ただ、彼には他の犬とは一つだけ違うところがありました。毛色が黒い、という点です。他の犬は皆、白や茶色の毛を持っているのに、彼一匹だけが黒でした。尖った牙もよく利く鼻も他の犬と同じでしたが、毛の色だけが違いました。
それでも同じ山に住む犬達は決して彼を毛色を理由に仲間はずれにしたりはしませんでした。他の若い犬と同じく、群れの仲間を養えるだけの獲物を獲ってくるからでしょう。群れの老犬に対しても労わりを持って接することができるからでしょう。彼もまた、そんな群れの扱いに応えるようにして、他の若い犬と同じように振る舞い、過ごしました。
*
秋になりました。杉の木達は依然青々と葉をつけていますが、幹に巻き付いた蔦なんかは葉を赤く染めたり、そのまま落としたりしていました。黄色味がかったシダの植生の隙間には熟した木の実やベリーの類が鮮やかに生っています。それらそのものもそうですが、特にそれらを狙ってやって来る動物達は犬の群れのよい食料となりました。来たる厳しい冬の季節に備えて、どれだけ蓄えても足りるということはありません。群れは恵みの季節といえども──いや、恵みの季節だからこそと躍起になって走って、そして食べていました。
さて、黒犬には一つ悩み事がありました。それは夢を見ることでした。以前から毎夜同じような夢を……。
夢の大方の筋書きはこうでした。彼の眼前には、自分と同じくらいの歳に見える若い雌犬がいます。彼女は美しく、たおやかで、そして何より黒いのです。彼と全く同じ毛の色を、彼女は持っていました。彼自身は少々歳が戻ったように見えます。とはいっても、人と比べて成長の著しく早い犬は少し若返っただけでも目に見えて体が縮みました。低くなった目線から彼女を目一杯見上げていると、彼女も柔らかな笑顔で応えてくれ、黒犬は幸せな気持ちでいっぱいになるのでした。彼は短くなってしまった足をばたばたと必死に動かして、雌犬に駆け寄ろうとしますが、距離は一向に縮まりません。その間彼女は変わらず、じっと彼を見て微笑んでいます。無限とも思える時間走り続けて、歩いて、ついに立ち止まると、ただ笑顔を向けるままで動かなかった彼女がゆっくりとこちらに歩み寄って来て、抱き寄せられて……。
いつもその胸の中に収まる直前に彼は夢から覚めるのでした。目頭に残る快い苦痛と枕代わりの石に黒々と広がる染みとが、彼を夢の世界からほの暗い森の洞穴へと引き戻すのでした。
彼女に抱かれるなんてことがあれば、もう何もいらないなぁ。と、黒犬はその暖かそうな腹の辺りを想像しながら考えました。温もりがあって、もぐりこみやすくって、よいにおいで、何故だかすべて受け入れてくれるような……。この夢に対して、こんな具合に思索を巡らせていると、狩りにいまいち身が入らず、以前は易々と捕まえられていた兎や鼠も近頃は中々捕まらないのでした。
ある日、また兎を獲り損ねて帰る道中に、黒犬は狐を見つけました。彼は物陰に身を潜めて、獲物に飛びかかる機会をじっくりと探ることにしました。狐が何やら穴に向かって鳴くと、ぞろぞろと三匹の子狐が順に這い出てきます。黒犬は喜びました。大人よりも子供を狩る方がよっぽど容易だからです。
母狐は自ら体を横たえました。三匹の子狐は母の腹の辺りをまさぐって、必死に何かを探すようでした。
──今だ!
黒犬はそう思いました。しかし、体は動きませんでした。視界がひどく滲みます。棒のようにぴんとはった前足に数滴、驟雨の降り始めのような水滴が落ちました。彼は泣いていたのでした。乳房を探り当てようとする子狐を見て、自分が見ていた夢の内容がやっと理解できたように感じたのです。──夢の雌犬は母で、私は抱かれる子犬だったのではないか? まだ見ぬ母、すべて受け入れてくれる母、理解してくれる母……。
黒犬はそんな突拍子もない閃きを、自らも驚くほど簡単に受け入れてしまいました。無論、彼にも母親はいました。色の違う毛を持つ母親が。
母狐は黒犬が潜む草むらを神経質に見やると、身を起こして立ち去ってしまいました。子供達も素早く母狐に続きました。
黒犬は一匹ぼっちになりました。木の陰が占める暗い森の底で彼の嗚咽は誰にも聞かれませんでした。誰にも聞こえませんでした。
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煤けた厚い雲の一団が、隊列を成して山に冬を運んできました。山に住む野犬達にとって、冬は様々なものの象徴です。飢餓、寒さ、憂鬱、そして死……。そのどれもが後ろ向きな意味を持っていました。
黒犬はというと最近気が違ったのではないかと仲間内で噂されていました。何日も洞穴に閉じこもったかと思えば、突然外へ出て、積もった雪を踏み散らかしたり、朝から日没まで狂ったように走り続けた挙句に日が落ちてからは一所から微動だにせず、むやみやたらに遠吠えしたりなどしていたからです。
厳しい気候や辛い空腹をいよいよ耐えがたくなってしまったのだろうと彼を哀れに感じた群れの犬達は、ただでさえ少ない食料を分け与えようとしましたが、彼はそれらを一切摂りませんでした。あばらも浮き出て、頬もこけ、苦痛に喘ぐ呼吸の音も日増しに大きくなりましたが、不思議なことに彼の黒い毛だけは日を経るにつれその艶を増していくのでした。
彼の頭の中は秋口から見ていたあの夢と夢に出てくる"真実の"母のことでいっぱいです。彼女のことを母であると認識してから、彼には母の微笑はより一層尊くうつり、そしてより一層近づき難いものになっていました。
気が触れたのではないかと噂されていた行動の数々もこの夢と母に起因するものでした。夢を見るために、住処に籠って数日間眠れる限り眠ったものの、見た夢の全てにおいて例のごとく彼女に触れるに叶わず、苛立って外の積雪をむちゃくちゃにしたこと。いっそのこと眠らぬ方が、夢を見ない方が良いと考え、昼には山野を走りまくって、夜通し気つけに吠えまくっていたこと。その全てが徒労に終わりました……。ついに、母に抱きしめられることも、忘れることも叶いませんでした。
珍しく朝に雪がちらとも降っていなかったある日のことです。久々にかっと太陽が照って、反射する雪が馬鹿に眩しい日でした。
黒犬は大儀そうに洞穴から這い出るとぼんやりと歩き出しました。住みかに籠りがちになって久しい彼は照り返しに目を窄めて、瘦せた腹に皮を引きずるようにして歩くので、見た目にはまるで年老いた犬のように見えました。遠巻きに野犬達が彼の様子について話合うようでしたが、肝心の黒犬はそんなことを気にする様子もなく、ずんずんと深い森の中へと分け入っていきます。
鼠が彼の足元を横切りました。黒犬はいつものように前足を鼠に向かって力いっぱい振り下ろし、仕留めようとしましたが、思うようにはいきませんでした。前足を持ち上げたとき、既に鼠は杉の木を一本隔てた向こう側まで走って辿り着いていたからです。鼠は彼を嘲るように振り返って一瞥すると、そのまま木々の合間を縫うようにして森の奥へと消えていきました。黒犬は走り去る獲物の背中をただ見やりました。鼠を捕ることはおろか、走って追いかける体力すらも彼には残っていなかったのです。
ともかく、彼は水を飲みに山のくぼ地に位置する湖に行くことにしました。ふらついた足取りで、しかし一歩一歩、踏む雪の底に地面があるのを確かめるかのようにして歩いていきます。彼が歩いているうちに空は段々と翳って、森に差していた木漏れ日もいつの間にかその姿を消してしまいました。
道中、黒犬は湖の方面へと続く自分とは別な足跡を見つけました。それはどうやら犬の足跡のようでした。彼は一応警戒して、身を目いっぱい屈めながら湖の畔へゆっくりと近づいていきます。
湖畔を望むことのできる位置に辿り着いた黒犬は、湖を縁に沿って舐めるように見渡しました。灰白色をした雲と、岩肌が雪によって覆われた山々が見えます。なだらかに、弓形に広がる湖の畔にぽつんと一つ影が見えました。それは犬のようでした。驚くべきことに自分と同じ黒い毛色を持った。光の加減でそうみえるのかと訝しみ、黒犬は湖の遥か上空を飛ぶ白鳥の影のように目を細めます。何度瞬きをしてみても、その影は自分と同じ黒い毛を持つ犬に違いありませんでした。
彼は考えるよりも先に、畔に向かって駆け出していました。もしかすれば、あの犬は何度も夢で見た自分の"真実の"母親なのかもしれない。彼が走りながら抱いたその考えは湖に近づくに連れて確信めいたものへと変化していきました。──そうだ、そうに違いない! 何度も見たあの夢はこの時を、私が母の元へ帰るこの瞬間を啓示したものだったのだ!
ついに降ってきた雪に顔をうちつけながら、彼は畔の犬に後十数歩という距離まで辿り着きました。視界は悪かったですが、そこに佇んでいたのは確かに自分と同じ黒い犬でした。こちらに背を向けて、湖の遥か対岸を望んで座る犬。
彼は昂りのまま叫びたくなる衝動に襲われましたが、それをぐっとこらえて数歩歩み寄りました。──母さん? 彼はそう呼びかけましたが、反応はありませんでした。彼はもう数歩近づいて肩に脚をかけて、もう一度呼びかけました。──母さん! ぐるりと首を巡らせてこちらを向いたのは、夢の中の母とは似ても似つかない、老いた、醜い犬でした。腫れぼったい瞼の下には靄がかかったように白濁した目、老いに拍車をかけるように疥癬の傷が生々しい褪せた毛並、弛んだ口、そこから出ている舌。
老いた犬は肩に触れた脚の感覚のみを頼りに、見えない目で周囲を必死に見渡しているようでした。黒犬は思わず数歩後ずさりしました。鳴き声とも思えないような切ない音がその老犬の喉から漏れると黒犬は、──黒犬は一瞬逡巡した後に湖とは反対側へ一目散に走り出しました。しばらく駆けて、後ろを振り返りましたが、勢いを増した雪に視界を阻まれて、もうあの犬は見えませんでした……。
*
春になりました。山には暖かい風が吹き込み、フウロやすみれの花が雪の解けた岸壁の間からぽつぽつと顔を出す美しい季節です。
洞穴に日の光が差し込むと、黒犬は目を覚ましました。深い眠りから覚め、気持ちのいい朝です。
もう一匹の黒犬を見たあの日、降り続く雪の中に倒れる彼を群れの仲間が見つけ、住みかまで運んできてくれたのでした。運ばれた黒犬は仲間が与えた食べ物を大した抵抗なく口にすると、そこから堰を切ったようにひたすら食べ、満腹になると今度は眠り続けました。起きて、狩りをし、食べて寝る……。そんなことを続けていると、黒犬はまた群れに受け入れられるようになりました。おかしな行動も、狩りの不調もぱったりと止み、健康で、群れのために働く彼が戻ってきたからです。
今日も穴から這い出ると、仲間たちが彼を待ってくれていました。ひとしきり吠えあった後、黒犬と仲間たちは今日も獲物を獲るために薄明りの森の中を元気に駆けていきました。
彼は立派な犬になるでしょう。もう馬鹿げた夢など見ることのない、立派な犬になるでしょう……。