この金属ナトリウムはとにもかくにも特別であった。空気に触れても酸化ナトリウムに ならず、水に触れても水酸化ナトリウムにならない。金属ナトリウムにはありえない圧倒的 なまでの安定さ。それだけではない。彼には自我まであったのである。
「熱いぃ。溶けるぅぅ」
彼は極めて危険な立場にあった。人間どもにサウナに放り込まれたのである。加熱炉とい う名のサウナに。酸化アルミニウムの器に載せられ、371K(98℃)の空間での苦行を強いら れる。この地獄のような環境でも彼は負けなかった。並の金属ナトリウムならば普通に液体 に状態変化したであろうに、彼は固体のまま堪え難きを堪え忍び難きを忍んだのである。こ れには大本営もにっこり。
「なんということだ。これは本当にナトリウムなのか!?」
することは無かった。当たり前である。融点を超えてもなお固体のままであり続ける金属 ナトリウムが存在するなど奇跡を超えてもはや恐怖の領域。いかに大学教授といえどもに っこりするわけなんぞ無いのである。
「あぁ熱かった。あとちょっとでぐにゃんぐにゃんになっちまうところだった。まったくひ どいことしやがる」
そう怒る金属ナトリウムだが、彼の独り言が人間に伝わることは無い。彼が会話をすると きは相手に直接テレパシーを送るように情報伝達するが、そのテレパシーを受け取る能力 を持つ人間が少なくとも彼を扱う研究室にはいないからである。
彼は結局液体になることもなければ熱エネルギーを得たがゆえに金属光沢を失うなどと いうこともないまま再び石油中に投獄される運びとなった。白い壁に白い床、黒い机にいく つかの装置のある実験室から石油とともに追い出され、向かった先は暗室である。いつもの 場所、暗室の隅っこに戻された彼は隣にいる物質に話しかけた。
「よう、無事に戻ったぜ」
「おかえりなさい」
返事をした物質の正体は気体塩素。彼女もまた自我を持つ特別な物質である。 金属ナトリウムにとって彼女はひどく惹かれる存在だった。彼が知っている中で彼と同じく自我を持つ物質が彼女だけだからかもしれない。もしくはその黄緑色の姿に愛しさを 感じているのかもしれない。端的に言えば彼は彼女のことが気になっていた。
「ハハハ。戻ってこられてうれしいぜ」
「私もまた貴方の姿を見られてうれしい」
もし彼女が人間だったならばきっと穏やかな笑みを浮かべていたに違いない。気体塩素 にとってもまた、金属ナトリウムは大切な存在だからである。かつて自我がある存在が自分 しかいないことに孤独を感じていた彼女の隣にやってきたのが彼であった。彼は彼女の隣 に来るや否や彼女の隣でどうでもいいことをペラペラ話し、彼女の心の隙間を埋めてくれ たのである。つまりは金属ナトリウムと気体塩素は相思相愛、両想いの関係にあった。
「聞いてくれよ。今日は変な器の上に載せられたかと思ったらそのまま馬鹿みたいに加熱 されたんだ。ひどいことするよな」
「加熱!? 身体は大丈夫なの?」
気体塩素は思わずほんの少しだけ金属ナトリウムに近づいた。もしガラス瓶の中に閉じ 込められていなかったら間違いなく彼と接触していた勢いである。残念ながら現実はお互 いにガラス瓶の中に幽閉されている状態だが。彼の方はさらに石油という名のボディーガ ードがまとわりついている。
「なんとか耐えた。ぶっちゃけこの姿を維持できたのは幸運だった」 「本当に無事でよかった。でももし姿が変わっても貴方は貴方だから。どろどろになっても ここに戻ってきて」
「あぁ」
場に沈黙が訪れた。気まずさの無い心地の良い沈黙である。
もしこの邪魔な石油とガラス瓶が無ければどれほどよかったであろう。せめて会えなく なる前にどうか一度でいいから触れ合いたい。それが彼らの共通の想いだった。 「ねぇ、金属ナトリウム」
「どうした?」
「私、貴方に触れてみたい」
「もしガラス瓶の外でこうやって話せたらそのときにぜひ触れ合おう」
「本当に!? 言ったね? 約束だよ?」
「あぁわかった。約束だな」
翌日、召集されたのはまたもや金属ナトリウムの方であった。彼は人間の手によって実験 室に拉致された。白い床、白い壁、黒い机、それに大きな装置。彼の知る実験室と大差がな い。加熱装置が無くなった代わりに変な装置があるが、部屋の気味の悪さは誤差程度にしか 変わらなかった。
「今日はこいつに窒化処理をしようと思う」
実験はいつも教授の説明から始まる。貴重なサンプルを学生のうっかりで失いたくない からである。
「窒化処理とは金属の表面に窒素を付与し、耐食性や耐熱性を向上させる処理のことだ。あ くまで表面に浸み込ませるだけなので内部の保護につながる」
「保護するのですね」
口をはさんだのは黒髪マッシュの男子学生だ。黒髪マッシュにとってはそもそも金属ナ トリウムを保護すること自体が疑問のようであった。
「いや、違う。今回もまた化学反応させることが目的だ」
教授曰く今回の窒化処理ではプラズマ窒化法を用いるようであった。プラズマ窒化法で はイオンの衝突エネルギーによって高温状態になる。化学変化への強制力が増した環境で どのようになるかを確かめたいというのが教授の意向であった。
「いや、マジ無理。本当に無理。ちょっと勘弁して」
結論から言おう。金属ナトリウムは泣き言を言いながらもまたもや耐えた。結合したい欲 求を鋼の理性で押さえつけたのである。
「危うく結合しそうだった」
暗室に帰ってきて最初の一言がこれである。気体塩素は心配そうな様子で彼を見つめた。 いつもは帰ってきた直後も元気のよい彼が疲れを見せている。これは彼女にとって異常事 態であった。
「なぁ塩素」
「どうしたの?」
神妙な様子の金属ナトリウムに、塩素もまたかしこまる。
「塩素は化学変化しかけたことがあるか?」
「……ない」
彼女には経験がない。いつも金属ナトリウムがどのような目にあっているのか。想像はで きても本当の意味で理解していない。
「最初のうちはなんともない。だが、その環境にいるうちに少しずつ気持ちよくなってくる んだ」
「気持ちよく?」
「そうだ。苦しいんじゃない。気持ちいいんだ。でもその気持ちよさに従ったら、俺はきっ と俺でなくなる」
「これまで耐えてこられたのだからこれからもきっと大丈夫だよ!」
楽観的に励ます塩素であったが金属ナトリウムの気が晴れることはない。彼は別に自分 自身のことを心配しているわけではないからである。その憂慮の原因はむしろ彼女であっ た。そのことを彼は声に出すことは無く。
「あぁそうだな」
そうつぶやいた。
HHHHHHHHHH
暗室の扉が開いた。いつものように人間が金属ナトリウムを求めて部屋に入室したが、今 回は少しだけ違うことがあった。塩素も一緒に持ち出されたのである。 「暗室の外ってこんな感じだったんだね」
彼女は感動した様子であった。人間であったならば目を輝かせたという表現が正しいだ ろう。その一方で不安を募らせるのが金属ナトリウムである。外に出されるときに行われる ろくでもない行いに彼女が耐えられるのか心配でたまらなかった。
実験室にあったのは火をつけるためのライターと銅線のみ。そして珍しいことに人間も 彼らを暗室から連れ出した黒髪マッシュの男子学生しかいなかった。普段はいるやたらと 背筋が伸びた教授のおじいちゃんもいない。
「さて、始めるか」
男子学生は銅線をライターで加熱する。金属光沢で赤褐色に輝いていたその身体は光を 失った黒色に変化した。そしてその後に塩素が入ったガラス瓶の蓋を開ける。 「えっ何!?」
塩素は驚いたが、人間がそれを気に留めることはない。男子学生は間を置かず熱された銅 線を瓶の中に入れた。
「あうっ」
塩素の身体に浅くではあるが快楽が迸る。それは彼女にとって初めての感覚であった。金 属ナトリウムが塩素の名を呼ぶが、その声に返事をする余裕はない。まだその悦楽は始まっ たばかりであるというのに。
「うぅ」
その快楽から逃れるように黄緑色がガラス瓶の中で左右に動いた。けれどもそれでは銅 から逃げることはできない。なんとかして逃げようにも空気よりも重いその性質が彼女を ガラス瓶に縛り付ける。
「っっっっっあ」
銅の電子が彼女の電子軌道の中に侵入しようとするたびに彼女の意識はそのあまりにも たくましい力に押し流されそうになる。
「頼む! 耐えてくれ! 耐えてくれ!」
「んんんんっっっ」
彼女が銅の電子に侵されそうになっているにも関わらず何もできない無力な金属ナトリ ウム。彼がただ叫ぶことしかできない今も、電子は彼女を襲う。
少しずつ。少しずつ彼女を蝕む気持ちよさ。少しずつ、少しずつそれは増幅する。 「お願いだ……。もうやめてくれ……」
金属ナトリウムは祈った。どうか彼女をあのガラス瓶から出してあげてほしい。快楽の牢 獄から出してあげてほしいと。たとえそれが無意味な行為であったとしてもそうするほか にない。
「っ」
祈りは届かず。電子が彼女の電子軌道の中に入ってくる。その瞬間、彼女の意識は浮遊感とともに真っ白に塗りつぶされた。激 しく流れる未知の快感とともに意識がじわじわと薄れていく。それは化学反応を許した証 拠であった。黄緑色の気体はその色を失っていき、黒色の固体は青緑色の固体へと置き換わ っていく。
「塩素! 塩素!」
その声が届くことは二度とない。ガラス瓶の中にいるのは意識を持たない塩化銅。快楽に 敗北した物質の末路がそこにあった。
「塩素! 頼む! 返事をしてくれ!」
返事はない。
「なぁ、頼むよ……」
どうあがいても目の前にいるのは彼女ではなく物言わぬ塩化銅である。金属ナトリウム の心の中に悲しみと絶望とが入り乱れて渦巻いた。
「約束しただろ。いつか触れ合おうって」
黒髪マッシュの男子学生が嘆く金属ナトリウムにちらりと目を向ける。
「今ならいけそうだな」
黒髪マッシュの男子学生が新たに持ってきたのは彼が大切に思っていた彼女とは別の気 体塩素。それは意識を持たないただの物質である。ただ黄緑色のその身体だけが彼女の特徴 と一致していた。
気体塩素が入ったガラス瓶の蓋が開けられる。男子学生は悪魔的なほほえみを浮かべて 金属ナトリウムをそのガラス瓶の中に入れた。
「あぁ塩素。こうして君と触れ合いたかった」
彼のその銀白色の姿から金属光沢が失われていく。輝きは鳴りを潜め、徐々に白色へと変 化した。かつてすべての化学反応を拒んだ精神の強い彼は見る影もなくなっていた。 そして。
「ようやくバグの修復が終わった。明日は一か月ぶりの有給休暇だ」 黒髪マッシュの男子学生がライターを持って実験室から消える。部屋に残ったのは塩化 ナトリウムと塩化銅だけであった。
(参考文献)
竹内敬人ほか 20 名、改訂化学、東京書籍株式会社、2020、p232-236 関西大学、REED KANSAI UNIVERSITY NEWS LETTER No,28、関西大学、2012、p9