「僕は月の子供なんだ」
最近、息子がそう言うようになった。
もちろん最初は、冗談だと思って聞き流していた。小さな子は、こういう変なことを口走るものである。しかし、彼はその冗談をやめなかった。一週間、一ヶ月と続き、もう一年が過ぎようとしている。さすがに気味が悪い。
夫に相談してみたが、「冗談に決まってるだろ」と言って、まともに取り合ってくれない。学校の担任にも相談してみたが、「そんな様子はないですよ」と言って、こちらも取り合ってくれなかった。どうやら、息子は学校では普通にしているらしい。
クリスマスプレゼントに、天体望遠鏡を買い与えたのが失敗だった。小学一年生で、もうそんなものを欲しがるのかと感心し、上等なものを買ってしまった。息子はそれからというもの、四六時中望遠鏡を覗き込んだ。最近は昼も覗いている。
そんなある日、彼に聞いてみた。
「望遠鏡で何見てるの?」
「お母さんだよ」
「私?」
「いや、月」
初めて息子に、奇妙な感情を抱いた。自分の子供ということを忘れてしまうほどの、である。今思えば、私と夫は黒髪にも関わらず、息子の髪は茶色に照っていた。その時点で、疑念を抱くべきだったのかもしれない。
しかし、月のことを話す息子は、とても生き生きして見えた。小学一年生とは思えないほど、月について様々なことを教えてくれる。直径。密度。重さ。起源についての学説。挙げ句の果てには、性格まで。息子によると月は寂しがり屋らしい。だから、僕が側にいてあげないといけないんだ、と彼は語った。
そのまま、長い月日が過ぎた。そして彼は宇宙飛行士になった。
いつ勉強をしていたのか、全く分からない。宇宙飛行士になったことを祝うついでに、それとなく質問してみた。
「いつ勉強してたのよ。あなたはずっと望遠鏡を覗いてたじゃない」
「あぁ、それはね、月が教えてくれたんだよ」
「月が?」
「そう。おふくろが、全部教えてくれるんだ。どうすればなれるか。何をどうやって勉強するか。宇宙飛行士に求められるものをどうやって身につけるのか。ほんとに、全部ね」
この子は、こういう子なのだろう。実際に宇宙飛行士になったことで、自分とは違う世界に生きているということがはっきり分かった。天才は、凡人には理解出来ないのだ。
数年後、彼は月に行くことになった。アポロ十一号以来の、大きなプロジェクトだ。
「じゃあね、行ってくるよ」
「ええ。気をつけてね」
「今まで育ててくれてありがとう。この恩は忘れないよ」
「何よ。もう二度と会えないみたいな言い方して」
「そうなるかもしれない」
「え?」
彼は突然無表情になって、私に背を向けた。そのまま、彼は歩き出してしまった。
「待って!」
最後に、少しだけ話がしたかった。なんでもいい。だから、彼が好きな月について質問した。
「ねえ、お月様に、好き嫌いはあるの?」
すると、彼は嬉しそうな顔をしてこう言った。
「好きなものは地球で、嫌いなものは人類だよ」
彼は帰ってこなかった。月には無事に到着したが、あっちで行方不明になったらしい。不思議と、涙は溢れなかった。思い返してみれば、一度も『お母さん』と呼ばれなかったからだろうか。
夕食後。彼の部屋を掃除しに、二階へ上がった。突き当たりにある、彼の部屋。ドアを開けると、異様な存在感のある、あの天体望遠鏡があった。古くなって、白かったボディが茶色になっている。彼の手垢がこびりついているのだろう。試しに覗いてみると、いい物を買ったのが良かったようで、まだまだクリアに見えた。もしかすると、レンズなどは自分で変えていたのかもしれない。
確か、今日は満月だ。もしかしたら、彼が見えたりして。
そう思って、月に標準を合わせた。が、倍率か何かの関係で、ぼんやりとしか見えなかった。操作の仕方が分からないので、夫を呼んだ。
「ねえ、これってどうやって使うの?」
「ああ、これはね、ここを右に回すと、倍率が上がって、遠くのものが見えるようになるんだよ」
夫はそう言いながら、筒の部分を月の方向に向けた。しばらくそのままの状態で、何やら望遠鏡をいじくっている。
「ねえ、はっきり見えるようになった?」
「ああ、うん。もうちょっとで見えるように──」
その瞬間、夫は後ろに飛び退いた。尻餅をついて、後ずさりをしている。
「あなた、どうしたのよ? 何が見えるの?」
「やめろっ! 見るんじゃない!」
夫が叫ぶ。
「何よ、幽霊でも見えたの? 月の幽霊なら見てみたいわ」
震える夫を横目に、望遠鏡を覗いた。
「どれどれ……いやっ!」
そこには、息子の顔があった。しかし、実際にあったのではない。月に兎が見えるように、月の陰影が、彼の顔を描き出していた。その顔は、こちらを軽蔑するような、それでいて怒りも垣間見える、複雑な表情をしていた。
──嫌いなものは人類だよ。
確か彼はそう言っていた。何か関係があるのだろうか。あったとしても、私には分からない。彼と私では、住む世界が違うのだから。