【ニュースから】
二〇〇四年七月十三日未明。小学校のプールで男子生徒一人が溺れていたところを救助され意識不明の重体となった件について、本日明朝に救助された男子生徒が息を引き取っていたことが判明しました。教育関係者ら一同は緊急で行われた会見の中で遺族への深い謝罪の意とともに再発防止に備えた制度の見直しを固く約束しました。また、これに対する遺族の見解は明かされていないとのことです。
*
十二歳の五月。曾祖母が死んだ。
そして、四十九日が丁度過ぎた夏。親戚の大人一同は母の実家に集合し、世間話を交えながらたまに怖いくらい真剣な顔をして子供にはわからない何かを話していた。
そんな会合の脇。縁側で足をぶらぶらさせていると、背後から祖父と祖父の友人らしき男のぼそぼそした会話が聞こえてきた。
「お前んとこの倅は今何してる?」
「家を手伝ってくれてるよ」
「まだ嫁さん取ってねえんだろ? 今いくつよ」
「今年で二十九だな。あれ、三十だっけな?」
「なんにしても早くせんとなぁ、跡取りいねぇんだし」
友人らしき男は、頭皮の透けて見える頭頂部を撫でながら、ちらりと僕の方を見た。僕は慌てて視線を庭の池に逸らす。ジーと蝉が近くで鳴き始めた。そのせいで、いやそのおかげで彼らの会話は僕の耳に入ってこなくなった。
視線を何となく下に落とすと、縁の下から何か細長いものがゆらゆらと揺れていることに気が付いた。咄嗟に蛇か何かだと思って、足を引っ込める。しかしよく見れば、何か獣の尻尾のようだった。好奇心に促され覗き込むと、そこにはブクブクに太った猫がいた。尻尾から頭に向けて綺麗に茶色と黒の毛が縞模様を作り出している。そいつはその鈍った眼光で僕を見ると、鼻で笑ったような仕草をし、再び尻尾を振りながらふて寝し始めた。僕は足をぶらぶらさせるのをやめ、胡坐をかいた。
蝉の声がピタリとやんだ。同時に祖父たちのか細い会話がまた聞こえてきた。祖父はため息交じりに「どうかねぇ」と吐いているところだ。
「どうかねぇって、あんたね──」
内容から察するに、どうやら先ほどから話題になっているのは、僕の叔父だろう。祖父の子供の中で男子は叔父だけで他はすべて女子なので間違いない。その一番上、長女として生まれたのが僕の母である。
母は二十前半でさっさと結婚し、地元を離れ、子供を二人拵え、人生に上がりを決め込んだみたいに現在は毎日必要な家事以外は何もしない生活を送っている。いわゆる普通の専業主婦であった。ところが、地元を離れた人間というレッテルが張られたことによって、母とそしてその子供である僕と妹は親戚内では結構所在無い。よく言えば地縁というのを大事にしている一族なのだが、あけすけに言えば時代錯誤だ。
漁業を営む母の実家は現状、叔父と祖父によって回されている。生活の大半を船の上で過ごす生臭い男に昭和ならまだしも現代において言い寄る女など存在するのかという難題もある上に、叔父はこう言っては何だが男性としては、かなり魅力に欠ける。武骨で不愛想でユーモアもない。かろうじて悪人ではないのだが、明らかに結婚向きではない人類だった。
「急かすもんじゃないですけどね」
ふと母が珍しく、大人っぽい顔つきのまま祖父たちに言った。手元の盆の上には麦茶がなみなみと注がれたグラスが数個ある。彼女はわざとだろうがそのうちの二つをゴトリと音を立てて机上に置いた。一瞬だけ会話が止まり、数瞬間の後にグラスの中の氷が解けて、麦茶の中に沈んだ。カランと音がする。怪訝な顔つきをする祖父の友人と、特段気にした様子もなくグラスに手を伸ばす祖父。母は静かな足取りで僕の近くまで来ると、「台所にアイスあるよ」と言った。何となく音を発してはいけないような気配を感じとって、静かにうなずいた。そんな僕の頭をポンポンと軽くたたくと母は祖父の方へ歩いて行った。
その時ようやく気が付いたが、僕以外の子供はこの座敷から消えていた。いや、子供だけでなく女性陣も母以外見当たらなくなっていた。
縁側から台所へと歩いていくと、親戚の子供がずらりと並んでアイスバーにかじりついていた。八月中旬。太陽が連れてきた熱と蝉の声が陰った場所にあるはずの台所に充満していた。そんな場所に子供が敷き詰められているのだからちょっとしたサウナだった。僕の親戚は子供だけで十人という結構な大所帯なのだが、そのうちで一番年長なのは僕だ。だがどうもそのせいでいまいち仲間外れにされている気がする。いや、それも言い訳で僕の対人スキルが乏しいせいだとは思うのだが。
「コウくん。こっち。ミカンとソーダ。どっちにする?」
いとこの桃が冷凍庫を空けながら聞いた。
「ソーダ」
「はい」
「ありがと」
受け取ったアイスは、まだ買ってきて間もなかったのか、若干外側から溶けかけていた。急いで口に運ぶ。隅っこで居心地の悪そうにしている妹、スズがいたのでその横に座った。
「この家冷房ないの?」
とある子がそう聞くと唯一この家の住人である桃が「付けてよって頼んでるのに、父さんたちが聞いてくれん」と不服そうに漏らした。
「耐えられんくない? こんだけ暑いと」と僕。何故か僕が発言するとみんな黙った。
「夜は涼しいもん」と桃。「昼は近くに図書館あるもんで、そこに逃げてる」
うわぁ、と沈黙から皆が一斉に哀れみの声をこぼした。その時、ひゅっ、と廊下から涼しい風が吹く。風鈴の音が家屋の至る所から耳に届く。どこか重たく気怠い真夏の昼下がり。暗がりの台所に蛍光灯がぽつんと光り、その下でシャクシャクと子供たちが氷に齧り付いた。多分そう望んでしているわけでもなく、それ以外にすることがないほどにこの家には何もないから、仕方なく僕らはこの暗がりにいた。
とうとう食べ終わったアイスの棒を見ると、「当たり」の文字。暇をつぶす手立てが見つかった気がした。
アイスを買ったという駄菓子屋の位置を桃に聞くと、海沿いの道を五分ほど歩いていき、さらに内陸に向かって伸びる坂道を上がって行かなければならないらしい。たかが当たり棒のためにそこまで歩くのは、よく考えなくても馬鹿馬鹿しいのだが、やることが本当になくて暇なので、まあ散策ぐらいはしてもいいかと、暑さにやられた僕の脳みそは判断してしまった。
「にいちゃん。あたしも行く」
玄関を抜け門まで歩いて行ったところで、スズが慌ててついてきた。
「来ても意味ないよ」
「いいの。この家なんかこわいもん」
「怖い? ふ~ん」
「あ、まってて。靴替えてくる」
鈴は自分の足元を見てそう言った。妹が履いているクロックスは留め具のプラスチックの部品が壊れ、びっこを引いたようにでなければ歩けない状態だった。そういえば昨日あたり壊れたと言っていたと思い出す。
駆け出した妹はふと、心配そうな顔で振り返る。
「勝手に行かないでよ」
僕は鬱陶し気に頷いた。
「うん」
「ここで」
「うん」
「動かないでよ。すぐ戻るから」
「うん」
「ぜった──」
「──わかったって。早くしろよ。暑いんだから」
ガラガラと音を立てて開き閉じてゆく引き戸の先へと妹の姿が消えたのを確認して、僕は門をくぐり、さっさと歩を進めた。
「お、ボウズ。どこ行くんだ?」
と、門のすぐ隣で、腕を組んで立っていた男に話しかけられた。知らないやつだと思って警戒したが、よく見たらさっき祖父たちの話題に上がっていた叔父その人だった。
叔父は、口にくわえているまだ長い煙草を地面に落とすと踏んづけた。無精ひげを生やした中肉中背の男。お世辞にもかっこいいとは言えない。
「駄菓子屋」
そう短く答える僕に、叔父はあきれたように眉根を上げた。
「元気だなぁ」
そうため息一つ。そして、ポケットをまさぐり、「おっ」と声を出した後に、固く握ったこぶしを差し出してきた。
「やるよ」
黙って僕も手の平をさしだすと、その上にジャラジャラと硬質な音を立てて小銭が落ちてきた。
「え、ありがと」
「ん」
叔父は横柄にうなずいた後、玄関の方へ歩いて行った。そこに、すれ違うように妹が飛び出してきて、彼とぶつかった。「気をつけてな」と低い声で注意する叔父に対して妹は応じるどころか目を合わすこともなく、こちらに駆け寄ってきた。しまった。叔父のせいで妹が間に合ってしまった。
「こわい」
駆け寄ってきたスズは一言消えた叔父の後ろ姿に向かって呟いた。
「お前が悪いんじゃん」
「そうだけど……ねぇ! ねぇちょっと! 歩くの速い!」
海沿いの道は静かで殺風景だ。海水浴場からはだいぶ離れているから、車どおりはそれほど多くないものの、春になると潮干狩りの客でごった返すのでそれなりの車幅をもった四列車線がずっと長く敷かれている。その統一されたいかにも人工っぽい風景が、どこか寂しい気持ちを促してくる。錆びた自転車。もはや何が描かれていたのか判別できない看板。ひびの入った防波堤とテトラポットの山。その先にある黒い海は妙に怪しくて、安心できない圧迫感を発していた。
「青くないね、海」
ふと届いた妹の声はまるで僕の心の中を見ているかのようだった。
坂道を上り終えてたどり着いた駄菓子屋にはラジオがひとりでに鳴っているだけで店員らしき人物はいない。
「すみませ~ん」
屋内に向かってそう呼びかけると、「は~い」という気だるげな声とともに、店名の入ったエプロンをつけた十代後半くらいの女性が現れた。彼女はゆったりとした所作でサンダルに足を通すと、こちらに近づき中腰になった。
「おお、どうした?」
気の知れた奴に語りかるような、粗野な態度に心を委縮させながら、僕は当たり棒を見せる。
「ああ」
彼女は状況を察し、屋内のとある一点を指さした。
「その白いのが冷凍庫だから。中から好きなの一つ──」と言いかけ、ちらりと僕の後ろに隠れるように立っているスズに気が付き「あ、二つでもいいよ。取ってって」と言った。
それだけこなすと、隅っこのパイプ椅子に足を組んで座り込み、つまらなそうに雑誌を読み始めた。
僕と妹は顔を見合わせ、言われた通りにした。何か良くないことをしているような硬い動きで冷凍庫を開け、二人して覗き込む。冷凍庫の中は整理などされておらず、単価がバラバラな氷菓子たちがぐちゃぐちゃに入り乱れていた。
「あんたら、ケイコさんの親戚?」
「え、ああ。ひいばあちゃんです」
ガサガサと氷菓子を漁る手を止め、急な問いかけに返答しながら振り向くと、ガラの悪そうな女性の視線がこちらに向いていた。
「だよね。見たことない顔だもん」
「知り合いなんですか?」
「うん。小さいころ算盤とか教えてもらった。あっちは覚えてないかもだけど」
「へ~」
そう言われて改めて彼女の見た目から年齢を推察するという失礼な試みをしてみる。最低でも高校生。まだ二十代には達していないだろうから、今から十年かそれ以上前の事だろうか。
「ひいばあちゃんに似てるって言われたことない?」
「僕が?」
「うん」
いかにも確信に満ちた顔でうなずく彼女だがしかし全くそのようなことを言われた記憶がないので首を横に振るしかない。
「え~。似てるのになぁ。見た瞬間、そうだなって分かったもん」
「はぁ」
僕はなんだか、この人の方が僕よりもひいばあちゃんのことを知っているような気がして少し寂しい気持ちになった。とはいえ、悲しいのとは違う。僕とひいばあちゃんの間には特段深いつながりみたいなものはないのだ。母が実家に帰りたがらないのもあり、二、三年に一度しかこの土地には来ないし、物心ついたころにはあの人は呂律の回らない婆さんだった。コミュニケーションすら満足に取れなかったのだから、感傷に浸れるほど思い出もない。ただ、仮にひいばあちゃんを知る努力をしていたら、何らかの愛着を彼女に感じられていたら、葬式の時も僕の感情は動いたのかもしれない。そんな、受け取ることができたはずの心の傷もなく、ただ虚無感だけがあるという今の冷たい胸中は、なんか寂しいんじゃないかと思うのだ。
アイスを選び取り駄菓子屋を出ると、日が少し西に傾きかけていた。
帰路に体を向けると、海に向かって下り坂が延びていた。長い下り坂だ。道幅はそれなりにある。車道と歩道はしっかりと縁石で隔てられているだけでなく、歩道部分は石畳が敷かれ街灯も中身は電灯だろうけれど、明治期の石油ランプみたいな見た目で風情がある。駄菓子屋菊池商店はその坂を上り終える直前ぐらいに位置しているため、この街の住宅地と浜辺と、近海に浮かんでいる島まで、一望できるくらい比高がある。海を見ながら坂道を下っていると、小さなトンビが一匹、海岸あたりで同じところをくるくる飛んでいるのが見えた。
「でかいな」
「何が?」
「あれだよ。トンビ」
「どこ?」
「おれの指の先。よく見ろよ」
「ん~? なんも見えんよ?」
その時、妹の手首に溶けたアイスが伝って来た。
「うわっ、垂れてきた」
スズは急いで、地面に落ちる前に溶けた甘い液体を舐めとった。
「ばっちいぞ」
「兄ちゃんのせいだ」
「はいはい」
すると坂の先から「おーい!」と手を振りながら近づいてくる人影があった。桃だった。
「今からみんなで川行くんだけど、一緒にくる?」
「行く!」
スズは嬉しそうにそう返した。
「コウくんは?」
「僕は……いい」
「兄ちゃんは泳げんから」
妹の意外な発言に目をしばたかせる桃。
「え、マジ?」
「マジ」
妹がからかうように僕を見てきた。
「いいから早く行けよ」
手をつなぎながら元気いっぱいに、しかも笑い声をあげながら走り去っていく二人の後ろ姿が、完全に陽炎の中へ消えてから、また歩き出した。
トンビがまだ同じところを飛んでいた。その姿を目で追いながら呆然と歩いていると、いつの間にか橋の前まで来ていた。
セメントで形作られた全長二百メートルほどの、赤い橋。車が通ることは考えられていないらしく大人三人分ぐらいの幅しかない。
アイスの最後の一口を腹に納めると、なんとなく「渡ってみるか」という気分になった。
*
島は大きく二つに分かれていた。本土と直接つながっている第一の島と、そこからさらに橋でつながった第二の島だ。
第一の島をさっさと通り抜け、僕はその第二の島へと足を踏み入れた。第二の島は比較的体積が小さいものの第一の島には存在しない小さな山があり、太平洋に向かって崖が形成されていた。その崖以外の場所には表面がごつごつした平べったい岩が集まり島をぐるりと囲んでいる。カメノテや名前のわからない巻貝がところどころにくっついていて、たまに大きな節足動物がぞろぞろと岩の間を移動していた。気持ちが悪い。しかもその岩たちは綺麗に敷き詰められているわけではなく、点々として、場所によってはかなり気合を入れて跳躍しなければ渡れない。ちょっと危険な場所だった。
しばらく歩いていると、何か軽くて硬質なものが足に当たった。視線を落とすと足元には白骨化した鳥の頭蓋骨が落ちていた。掴み取ってみると、触っているだけで手の平から水分を吸い取られてしまうような、不思議な触り心地がした。そのままそれを持ち上げ日の光に透かして見る。
「何してるの?」
その時、不意に後ろから声をかけられた。周囲には誰もいないと思っていたから、驚いて肩が震える。というのも、見晴らしもよく静かな場所なので近づいてくる人がいればすぐさま気が付けるような状況下だったわけだが、その声はすぐに後ろから聞こえてきたのだ。咄嗟に手から離れていった頭蓋骨が、そのまま足元で跳ね返り、海に落下し、ポコポコと泡を吹きながら沈んでいった。
パシャパシャと音をたたて岩に押し寄せてきていた波が、その時だけピタリとやんだ。
恐る恐る振り向く。すると、ちょうど目の前にあったのは、ぎょろりと大きな瞳。
「うわっ!」
思わずたじろぐが、引いた後ろ足の向かう先には何もなく、途端に視界がぐるりと空に向かって回転した。手をぐるぐる回し、何とか海に落ちまいと踏ん張っていると、手首を、パシッとつかまれ、体をググっと引き寄せられた。何とかバランスを取り戻し、心の中で胸をなでおろす。それから顔を上げると、先ほど見た大きな瞳がまだこちらを見ていた。わかめみたいにぼさぼさの髪が肩まで伸びていて、みすぼらしいシャツと短パン姿の少女がそこにいた。年の頃は同じくらいだろう。次いで特徴的なのは、何故か裸足である。
「……ありがとう」
「いや、驚かせた。ごめん」
彼女は見た目にそぐわないしゃがれた声で返した後、僕のつま先から頭のてっぺんまで観察し「こんなとこに、何しに来たの?」と尋ねてきた。
「暇つぶし」
「ここ、面白いものなんてないよ」
「みたいだね。なんか寂しいところだ。人もいないし」
「人なんか滅多にこない。神域だからね」
「神域?」
彼女は視線を島の中央へ向け、ゆっくりと同じ方向へ指を差した。
「この山の天辺に神社がある。そこに祀られている神様は人間嫌いで有名なんだ。だからこのあたりの人はここまでこない。神様を怒らせたくないから」
「でも君は来てんじゃん」
「私は信心深い方じゃないから」
そう言って、彼女は口元だけゆがめて見せた。僕は、不思議なことに目の前にいる人物から全く感情のつかめない事に違和感より先に好奇心が湧いた。
「もう帰りなよ。これから結構強い雨が降る」
僕は咄嗟に空を見上げた。湿気は強いけど、相変わらず燦々と太陽が眩しいままだ。
「……晴れてるけど」
「今はね。けどすぐに降り出す。危ないから、ほら、帰って」
「なんで言い切れるんだよ?」
「……」
少女はようやく憮然とした顔を崩して、困ったような顔をした。別に僕は優しいやつじゃないけど、困った顔をされて嬉しくなるような人間でもない。それに、一応命の恩人の言葉だけあって無碍にするのもいただけない気がする。
「わかった。帰るよ」
「うん。そうして」
「で、君は?」
「え?」
少女は何故か意外そうに首を傾げた。
「だって、君も帰んなきゃ。だろ?」
「……そっか。そうなるのか」
顎に手を置き、思案顔になる不思議な少女。奇怪なことには変わりないがそこには先ほど感じた妙な縁遠しさはなかった。普通の子供に見えた。いや、普通の子供に違いないのだけれど。
「早く行こ」
僕の声を口火として二人で陸地に向かって歩き出した。彼女は黙々とした様子で、僕の後ろを一定の間隔を開けながらついてくる。
「名前なんて言うの?」
第一の島に入ったあたりで彼女の方からそう聞かれた。
「僕? 矢野浩」
「ヒロシ? 聞いた事ない。ここら辺の子じゃないね」
「親戚の集まりでこっち来てるんだ」
「いい名前」
「そう? じじくさいから、コウって呼ばれてるよ。君は?」
「モガミ」
「最上? 下は?」
「ないよ」
「秘密って事?」
「……」
「まぁいいや」
近所の子なら、桃が知っているかもしれない。あとで聞いてみるか。
おや?
そこまで考えて、ふと、自分が想像以上に後ろの少女に興味を持っていることに気がついた。足を止めて振り返ると、彼女も同時に立ち止まった。海のしょっぱい香りがいつの間にか冷たくなった風に運ばれて鼻をつついた。少女はじっと突き刺さる僕の視線に耐えかねたのか顔を下に向けた。
陸の目前まで辿り着くと、彼女は陸へ踏み入る事なく、ここでお別れだと言わんばかりに手を振ってきた。
「忘れ物をした」
「え? ついてこうか?」
「泳げない奴が一緒じゃ頼りないなぁ」
わかめ頭の少女は表情筋を動かすことに慣れていないのかやはり口元だけをゆがめて見せた。なんにしても馬鹿にされているんだろうと思った。
「あっそう。じゃ──」
彼女に背を向け歩き出そうとして、はっと振り返る。
「──あれ? なんで知ってんの?」
しかし、振り向いた先には誰もいなかった。
赤い橋が曇りの空と黒い海を背景にぽつんと浮かび上がっていた。きょろきょろとあたりを見回し、浜辺の方まで身を乗り出して見てみるが、やはり一瞬のうちに少女の姿はかき消えたようだった。
不可思議な事態に首をかしげていると、頬にぽつりと水滴が落ちてきた。次いで、ゴゴゴゴと厚い雲の上から雷鳴が聞こえる。
「本当に降ってきたよ」
*
その日の夕食は質素なものではあったが、大人は酒さえあれば、口に入れるものには特にこだわりがない生物らしく、思い思いに飲んだくれては、世間話に花を咲かせていた。そんな中であっても僕の横に座る叔父はぼそぼそと食べ物を口に運びながら、僕の言葉に耳を傾けてくれた。
「ああ、目美島に言ったのか」
今日行った島のことを尋ねると叔父はそう返してきた。
「どっちの名前?」
「どっちもだよ。二つの島を合わせて目美島だ」
「神域って聞いたけど」
「そうらしいな。何が祀られてんのかは知らねえけど。なぁ、おやじは知ってるか?」
叔父のさらに横に座る祖父がひょっこりとこちらに顔を向けてきた。そして思い出すように天井に目を向けながら枝豆を口に運んだ。
「どうだったかな。ワタツミじゃなかったか?」
「何それ?」
盗み聞きしていたらしいスズが横から割って入ってきた。
「イザナギとイザナミの間に生まれた神様だ。多分海の神だろうって言われてる」
酔いで頭が回らないのか、小学生には補足が必要そうな個所をすっ飛ばし、そう説明がなされた。
「多分?」と思わず突っ込んだ僕に対して、面倒くさがるでもなく鷹揚に頷いた後に、祖父は続ける。
「謎の多い神だ。海の神様なら海を管理していると思うだろ? でも黄泉の国から戻ったイザナギは何故か海の統治をスサノオノミコトに任せるんだ。じゃあ結局何をしている神様なのかって話だ」
「父親に忘れられてたってことかな?」
わが妹は神様をつかまえて父親に忘れられた可哀想な奴と評価したらしい。そんな発言に、叔父が不意を突かれたように笑いだした。スズはいきなり声を出した叔父に怯えて、彼から距離をとって僕の横へと隠れた。それを見て叔父は申し訳なさそうに黙ると、視線を明後日の方向に向けた。
祖父はというと、スズと叔父の間の微妙なほの暗さに勘づくことなく、お猪口に向けた目を懐かしむように細め「ワタツミはここらへんじゃ別の呼び方もあってな……」とそこでいったん話を切った。彼はしばらく黙り込んで、目頭を押さえ、「まあ、別にいいか、この話は」と酔いの引いたような口調で言った。
「ど忘れしたのか? 歳だな」
叔父が馬鹿にするように笑うが、祖父はそれには取り合わず、黙ったままになってしまった。
そんな愚にもつかないやり取りの最中、座敷の隅っこで桃が手招きしているのが目に入り、僕はその場を離れ静かに近寄った。彼女は申し訳なさそうに日に晒され赤くなった両手を顔の前であわせた。
「布団敷くの手伝って。多すぎる」
「ああ、いいよ」
そのまま食事の場を抜け出し、ロの字型の廊下を通り西に面した座敷に移動する。そこには折りたたまれた蚊帳と、比喩でもなんでもなく積みあがった布団があった。
その布団の山の上に、今朝見た猫が我が物顔でふんぞり返っていた。
「あ、シマさんだ」
「あの猫の名前? 飼いネコ?」
桃が首を振って否定した。
「野良だよ。けど母さんが勝手に餌あげてるから、居座ってるんだよね」
桃はそう言って猫に近づくと、猫の脇腹辺りを撫でた。
「ほら、ほら、やばいでしょ。この脂肪」
離れていてもわかってしまうくらい、猫の脇腹はだらしない駄肉にまみれている。桃は重そうにシマさんを持ち上げると、廊下に放り出した。シマさんはかろうじて野生の勘は保っているらしく、しなやかに空中で体を翻すと、音もなく着地した。そして文句を言いたげにこちらを見てから、フンと鼻を鳴らすと悠然と歩き去っていった。
それから二人してせっせと布団を敷いてゆく。
「コウ君たちは、いつまでいるの?」
「二週間ぐらいって聞いてるけど」
「じゃあ祭り行けるね」
「祭りなんかあるんだ。何すんの?」
「花火上げて、屋台が出て……うん。普通の祭り」
「そっか」
どこでやるのか。いつやるのか。いくらでも話を膨らませることはできるが、思った以上に今日という日に疲弊していた。そもそも祭りとやらにはそこまで関心がないのも手伝って会話がそこで止まる。夕方から降り始めた雨は勢いを増し、屋根の上をドタドタと流れていた。
「正直ねぇ。ひいばあちゃんが居なくなっちゃったのは悲しいけど、こうして親戚が集まってるのは賑やかで好きだな。不謹慎かな?」
桃が異常に神妙な顔でそう言って、探るようにこちらを一瞥してから、また手元に視線を戻した。布団のしわがまた一つ消えた。
「コウ君は、そうでもなさそうだね?」
「僕もスズもこういう集まりがちょっと苦手だから。特にスズは」
「でも私スズちゃんとは仲いいよ」
「桃とは仲いいけど、他の子とは壁あるよ。あいつ」
「そうなの?」
白々しく驚いて見せる桃。気づいているくせに。彼女のこういう部分が気持ち悪くて嫌いだ。
ようやく、十人分の布団を敷き終えると、寝室の電気を消して暗い廊下に出た。ロの字型に囲まれた中庭を隔て、対角線上にある座敷から低い話声とオレンジ色の光が漏れてきていた。静かになった途端僕は使命感みたいなものに促されるような心地で、桃に聞いた。
「そういえば、聞きたいことあるんだけど。近所に最上って苗字の子供いる?」
「う~ん」と考えるように顎に手を置いて、桃が答えた。「いるよ。コウ君と同い年の男子」
「男子? 女子じゃなくて?」
「男の子だよ」
「そいつ、頭がわかめみたいだったりしない?」
「いや。普通。わかめ? なにそれ?」
桃は「わかめ、わかめ、わかめ?」と首をひねりながら、湿った暗い廊下を歩きだした。
*
翌々日。叔父にもらった中途半端に多い小遣いを消化するために、駄菓子屋に向かうと、店の暗がりで最上さんが嚙み切れないほど硬いことで有名なグミに必死の形相で食らいついていた。一瞬妖怪かと思った。
「また会ったね」と僕が声をかけると、すでに僕の存在を察していたのか、驚くでもなく軽く会釈をした後、彼女は「だね」と返してきた。
ようやく噛み千切ったグミを数十秒かけて喉に通すと、辟易した顔で「なんでこんな食べる人の気持ちを考えないようなものがあるのだろうか」とひとりでに呟いてみせた。
「そういうコンセプトだから仕方ないんじゃない?」
「コンセプトとは?」
「だから、なかなか嚙み切れないっていうのがそいつの売りなんだろ?」
「噛み切れないことが誰かの得になるのか? おいしくて食べやすいのが一番じゃないのか? 人類はどうしてこんな面倒くさいものを作ったんだ?」
「そりゃ、まあ、確かにね」
「なぞだ」
「なぞだね」
間抜けな会話だ。
「残りをあげよう」
「食いかけは、いらないかな」
最上さんは不服そうに人類が作り出した不毛な努力を強制するおそらく先鋭的な駄菓子と再び格闘し始めた。
相変わらずラジオの音と扇風機の羽音だけが反響する店内の片隅では、一昨日と同じようにパイプ椅子に座るお姉さんが目をつぶってうとうと小刻みに頭を揺らしていた。僕はその微睡を邪魔しないように、そっと彼女の前に小銭を滑らせ、ヤングドーナツを手に取った。
「ちょっと聞きたいことあるんだけど」
ヤングドーナツを開くと、ぽろぽろと砂糖が手首にこぼれ落ちてきた。
「何?」
最上さんはグミから口を離して目だけこちらを向いた。僕はちょっと言い淀む。
「実は……男だったりする?」
「失礼な」
「だよね。ごめん。ちなみに兄とか弟は?」
「たくさんいる」
「へぇ。どのくらい?」
「……二十くらい?」
「嘘だ」
「ほんと。母さんが頑張ったんだ」
「二十人兄弟とか聞いたことないけど」
すると後ろから「ギネスで六十人くらい生んだ女性がいるらしいよ?」と、いつの間にか起きていたお姉さんが眠気眼で豆知識を披露してきた。彼女は憚ることない大きな欠伸をすると携帯の時計に目を走らせた。そして「やば」と零した後、はたとこちらを見て「あんたら、暇なら手伝ってくんない?」とほとんど強制の意を感じさせる声色で言い放つ。
「何を?」
最上さんがそんな気配は関係なしに無感情な声で聞き返す。
「社の掃除」
お姉さんはそう言った。
*
目美島にある目美島神社は、小さいながら神主が管理している歴史のそれなりにある神社だ。もっともその神主は一年前から入院している。その間、社の管理は誰が行うのかという話になり、親族である菊池家、つまり菊池商店の面々にお鉢が回ってきたらしい。
「結局私ばっかり行かされてるんだけどね」
そう愚痴をこぼす駄菓子屋のお姉さん、もとい菊池唯さんではあるがその声に不機嫌さは感じなかった。まるで面倒ごとを引き受けている自分自体を肯定して、そこそこに愛しているようで、この人の人柄が覗き見えた気がした。
朱色の鳥居をくぐり、菊池さんの見様見真似で参拝をし、作業に入った。
先ほど小さい神社とは言ったものの、陳腐と呼ぶには至らないほどに境内は広く、草をむしり、本殿と拝殿を清掃するだけでかなりの労力と時間が要することは容易に察せられた。菊池さんがふと目に入った猫の手同然の僕たちに手伝って欲しいとせがむ理由もわからなくはない。
小一時間ほど集中して草をむしっていると、木陰で足を延ばす最上さんがいた。
「さぼるなよ」
「終わるまで休んでるだけだよ」
「……さぼること自体は責めないけれど、君がさぼっている横で僕が働くのは嫌だ」
「なら矢野君も休んだら? 菊池さんもどこかに行っちゃったし」
「え?」
そう言われて初めて周囲を窺うと、確かに僕と最上さん以外は誰もいない。
「気づかなかったの?」
「気づかなかった」
「一昨日も思ったけど、夢中になると周りが見えなくなる質だね」
彼女に指摘されるまでもなく、自分にそういう風な性質があることは前々から気が付いていた。
日が雲に隠れた一瞬、周囲が暗くなる。蝉の声が止み、揺れる木の葉の音だけが聞こえる奇妙な一瞬が訪れた。その一瞬を境に体がどっと疲れ、重たくなった気がした。
夏はこれだからいけない。何かをするだけで想定の倍以上は疲労が貯まる。それに比べて余裕綽綽としている目の前の少女が一層恨めしく思えた。
「そういえば、なんで俺が泳げないってわかったの?」
「何の話?」
「一昨日、言ったじゃん。泳げない奴は頼りにならないって」
「そうだっけね」
「なんでわかったの?」
「私は人の心が覗けるんだ」
「冗談だろ?」
「ほんとだよ」
「……」
「信じてないな。何なら君が泳げない理由を言い当ててやろうか?」
言い当てるも何も、泳ぐのが苦手で、しかも苦手を改善する努力をしなかった。それだけの事だろうと、心の中で思っていると、最上さんはまるで本当に僕の胸中を透かして見ているように、ゆっくりと首を横に振って、「違う」と言う。
「は?」
「どうせ泳ぐのが苦手なだけだ、とか考えてるんだろうけれど、それは違うね」
腹の立つ、人を馬鹿にしたような顔と口調で淡々と最上さんは心情を言い当ててきた。
「すごいね」
けれど、ここから先は踏み込まれたくないという何か臨界点みたいなものを平気で飛び越えてこられたような気色悪さがある。素直な言葉で言えば若干不快だった。心臓をザラザラした布でこすられてるみたいだ。
「なんか、認めたくないけど君は相当頭が切れるんだね。でもそんな風に得意げにわかったような口きいてくるのはさ、やっぱ楽しいからなのかな? 別に信じちゃいないけど、仮に心が覗けるなら、他人が言われたくない事とかも理解できるんじゃないの?」
僕はそう言いながら、最上さんから目を逸らした。逸らさざるを得なかったのは、間違いなく僕の弱さゆえだろう。
嫌な間が空いた。お互いに声を発せず、体も動かせずただ、じりじり時間が溶けてゆく。
どんどん空気も自分の体も重くなっていくのを感じた。
視界が、ぐらぐらと揺れる。頭がぼうっとして、考えがまとまらない。……いや、明らかに体調がおかしい。
「なんだか疲れてるんだね。ちょっと休んだら?」
そして僕に届いたのは、不機嫌そうな声で、気遣ってくる最上さんの声だった。
彼女の方を見ると、ゆっくりと木陰から立ち上がり僕の方に近づいてくるところだった
「うん」
判然としないまま答える。最上さんの折れそうなほど細いくせにやけに力のある肩を借りながら彼女がさっきまで座っていた木陰によろめきながら腰を下ろす。そして目を閉じた。
体感でその一瞬後に、肩をゆすられる。
「おーい」
誰かに呼びかけられる音が聞こえ、はっと顔を上げると菊池さんがラムネを僕のほっぺたにに押し付けてきた
「うわッ、なん……ん?」
「こんな暑いのに寝てたの?」呆れた様にそう言ってから、あたりを見回し「全部終わったんだ。ありがとね」と満足気な顔をして見せた。
自分の記憶とは食い違う彼女の発言に、僕は周囲を見回した。後でやろうと思っていた箒掛けや、雑草の処理まですべて終わり、木の葉やゴミの入ったポリ袋が隅にぽつんと置かれていた。
「あの子は?」と、ラムネ瓶を片手に最上さんの姿を探す菊池さん。陸から橋を渡ってここまで来たであろう彼女とすれ違っていないということは、最上さんはまだこの島のどこかにいる可能性が高い。しかし、せめて挨拶をしてから帰ろうという心持ちがあるのなら、まだこの場にいるはずだし、きっと最上さん的には黙っていなくなったというその行動が一人になりたい意思表示なのだろう。
「さぁ。帰ったんじゃ」
「ふ~ん」
菊池さんは相槌とため息を同時につくような妙な意気遣いの後、ポリ袋を手に持った。そしてこちらを向いて、ちょっと険しい顔を作ったと思えば小走りで目の前まで来た。それから呆けている僕の額に手の平を置いた。
「ちょっとあんた、なんか熱いよ」
*
バシャバシャと何かが水の中で暴れる音がしばらく続いた後に、その音はやむ。荒れた水面が波紋を沈めてゆき、水面が凪いでゆき、いつしか虫の鳴き声だけが、聞こえるようになる。
いったい何を示唆するものなのかわからないが、確かに僕の体の中に刻まれている音の記憶。猛烈に印象深かったはずなのに、どこかで聞いたことは確かなはずのに本当に思い出せない。そんな化石化してしまった記憶。
そしてそんな音の記憶がやがて現実の音に代わる。
うっすらと視界を開くと、知らない場所にいた。
神社で菊池さんに担がれたところまでは覚えているが、そこから覚えていない。いや、漠然とただ長い時間が過ぎた事だけは体が覚えていて、ようやく頭が冴えてきたころには涼しくて少し魚臭い部屋のベッドに寝かされていた。
部屋の照明はつけられておらず、窓からの日光だけが差し込んでいた。クーラーがけなげに稼働する音と、海の方から、ボー、と船の汽笛の音がする。そして波の音。これだ。きっと僕の記憶はこの音に触発されたのだ。
目だけを動かして壁掛け時計を確認する。昼を少しだけ回った頃で、何かを始めるにしてはちょっと遅すぎるような、ここから何かをしないにしては長すぎるような時間帯。
ゆっくりと上半身だけ起こすと、ぬるくなった冷却シートがひとりでに額から剥がれ落ちた。
シンプルな部屋だった。コンテナの中みたいに壁や天井の骨組みが露になっていて、ベッドのほかには冷蔵庫と机ぐらいしかない。窓の外には港が見えた。というより、この部屋自体が港の中にあると表現した方がいいぐらいに、船と海が近い。
窓を茫然と見つめていると、何処からともなく猫の顔が窓枠の下から登場し、こちらを覗いてきた。というかシマさんだった。シマさんは活動的な性格には見えないのだが、何をしにここまで来たのだろうか。物のついでというにはこの辺りには何もないし、と考えていたところで、シマさんはくるりと横に視線を向け、何かから逃げるように走り去ってしまった。その直後、近くから誰かが近づいてくる足音が聞こえ、次いでドアから叔父が姿を出した。彼は僕が起きていることに気が付くと、少し安心したように微笑する。
「起きたか」
「うん。……どこ此処?」
「休憩するところだよ。俺たちが」
「なんでここに?」
「さすがに冷房のない家に寝かすのはなぁ」
叔父はそう言いながら冷蔵庫を開け、水の入ったペットボトルを寄こした。
「飲んどけ。まだ動くな。寝とけよ」
「うん」
「俺、夕方まで帰んないから。退屈かもしれないけど、目だけでもつぶっとけよ」
「うん」
「ほんとにわかってんのか?」
「うん」
叔父は嘆息すると、後ろ髪を描きながら出てゆく。ぱたりと静かに戸が閉まった途端、ガチャリと鍵の閉まる音がした。軟禁された。しんと寂しい静寂が訪れる。
風邪なんて何年ぶりだろうか。小さいころ一回罹ってからずっと健康優良児だったはずだ。
黙って天井に顔を向ける。波の音がうるさいぐらいに響く。近くから漁師たちのものであろう掛け声と海猫の泣き声。
それにしても、海が近い。……はて、二日間もこの防御体制の不確かな場所に僕を寝かせていたというのだろうか? なんだか雨漏れが心配になるくらいに壁や天井が薄い気もするし、少しでも天気が崩れれば波に攫われそうな立地にあるだろうこの掘立小屋に意識のない子供を寝かせていたのだろうか? それはいかがなものだろうか。よくないのではないか。少し腹立たしいものがあるな。許せないな。そういえば母も大概いい加減なところがあった。消費期限の切れたヨーグルトを平気でふるまって家族全員が腹を壊したことがあったり、ショッピングモールで迷子になったときも、僕のことをすっかり忘れて家に帰ってしまったりした。そのたびに父に酷く叱られていたが、結局今日に至るまで母の傍若無人ぶりに改善の目は見られない。きっと母方には代々そういう大雑把でいい加減な、暴君の才覚というべきものが脈々と受け継がれているのやもしれぬ。
「後で文句を言ってやろう」
そう吐き出して目を閉じようとしたとき、視界に突如として既視感のあるわかめ髪が現れた。すわっ、と驚いて目を丸くしたまま固まる僕を馬鹿にしたように、わかめ髪の持ち主は、にたぁ、と不気味な笑みを浮かべた。
「目が覚めたと聞いてね」
「だ、誰に?」
「海鳥」
「……あっそ」
冗談に付き合う気力がないのでぞんざいに扱う。というよりも平生を装うので精一杯なほどには困惑していた。そもそも鍵がかかっていたはずなのに、どうやって入ってきたのか? この子はどこで気配を消す術を身に着けてきたのか。聞きたいことが多すぎて頭が痛い。
最上さんはなんてことのない様子で壁に立て掛けたパイプ椅子を一脚開いて、またがった。そして、冷蔵庫の中から多分僕のためのものであるはずのペットボトルを取り出しおもむろに飲み始め、一息も挟まずに飲み干すと、こちらに向かって言った。
「抜け出そうよ」
「……病み上がりなんだけど」
「大丈夫」
「何が? 何も大丈夫じゃないよ」
「暇なんでしょ?」
「……」
「いいじゃん。行こう。夕方までに戻ればいいんだよ」
「聞いてたの?」
「海鳥がね」
「またそういう……それで、どうやって入ってきたの?」
「窓から」
彼女が親指で示す先を見ると確かに窓が開いていた。重くぬるい空気がどんよりと頬を撫でてくる。
「閉めて」
「わかった」と最上さんは承諾した。
カラカラ。窓が閉まる。
「うん。じゃあ、帰って」
「いやだ」
「君もさ。夏休みなんだから宿題でもやってなよ」
「私は学校に通ってないからそんなものはない」
「あ~」触れないでおこう。「とにかく今は何もしたくない。どっか行ってよ」
きっと人の気持ちとか察せられない奴なんだろう。わざとらしく怒気の籠った声で言い放つと、最上さんはきょとんとした顔で首を傾げた。それから納得したという顔で「じゃあまた夜来るね」と嘘なのか本気なのか判別できない事をほざきながら去っていった。
そしてその八時間後。本気だったことを知る。
「来たよ」
「えぇ……」
最上さんは慣れた手つきで、窓を開け侵入してきた。くそぅ、鍵さえかけていれば、と頭をもたげたが、この変な女子ならそのくらいの防御設備は突破してきそうな危うい雰囲気があるのであまり悔しさはなかった。
「元気になった?」
「眠いよ」
「そっか……じゃあまた明日来るね」と寂しそうに言う最上さん。
「ごめん。元気だから今すぐ行こう」
先延ばしにするほど面倒くさい事態になりかねない気配がして、僕はこの侵入者とともにこの部屋を抜け出すことにした。
海辺の夏は、ジワリと生暖かく、時折通り抜ける冷えた風がジャージ一枚の身には少し寒かった。海沿いの四列車線を、街灯がポツポツと等間隔に照らしていた。僕がいた部屋は幾つもある休憩室の一つだった。多分、おじさんが優先的に使わせてもらっているところだろう。同じようなコンテナ型の部屋がずらりと倉庫に寄り添う形で並んでいて、部屋の外にあるゴミ袋に食い終わった即席物が数日分捨てられていた。隣の掘立小屋には誰かがいるらしく、ぼやぼやした明かりが灯っていた。静かに、気づかれないようにその場から離れ、ようやく二人きりの位置まで来ると、「矢野君のおじさん。ちゃんと看てくれてたよ」と最上さんが事務的な口調で僕に伝えてきた。だから何だと思うけれどそれよりも何故そんなことを知っているのか謎だ。
「なんで君がそんなこと知ってるの?」
「海鳥」
「……あそう」
「そんなことどうでもいいじゃん。行こう」
「どこに?」
最上さんは答えることなく上機嫌に鼻歌を歌い始めた。聞いたことのないリズムだった。流行の曲とかでないのは確かだ、何となく歌っている即興曲かもしれない。
港を出て、夜八時半の路肩を歩く。びっくりするくらい車が通ってなくて、家屋からは不可解なことに人の気配が感じられず、少しの明かりもこちらには届かない。ただ、街灯だけが僕らを照らす。別世界みたいだ。
足元だけを見ながら歩いていると、虫の死骸が突如として現れ、咄嗟に足を引っ込めることで踏むのを回避した。近づいて見てみるとカマキリの死骸だ。それも体が四分割されている。それが数体もある。あたりには駄菓子の棒や砂や石ころが散乱して石の表面には蟻の死骸が付着している。間違いなく人為的な所業である。小さな子供とかがやったんだろう。昔僕も同じようなことをしていた気がするが今になってこういう形で振り返るとなんて残酷なのだろう。
「おーい。こっち」
前から最上さんの呼ぶ声がしたので顔を上げる。数十メートル先で、防波堤の上に立つ彼女が手を振っていた。その背後に広がる西の空には今にも沈んでいきそうな三日月がかかっている。
静かで暗い。この夜の雰囲気からも、今楽しそうに手を振っている最上さんからも、そう感じる。
「どこまで行くの?」と追いついた僕が聞く。
「月が消えるところまで」と背を向けた最上さんは答える。
もはや彼女の吐く言葉の一つ一つの意味を深く考えてはだめなのだとこの時の僕は悟っていた。この子はちょっと不思議が過ぎる。
それからようやくたどり着いたのは、目美島にわたる橋のたもとだった。最上さんは橋のさらに先にある神社の方を指さした。
「私の隣に立って、指の指す方を見てごらん」やけに偉そうに言われた。
僕は黙ってその通りにする。位置につくと最上さんは腕を引っ込めて、「ここからだよ」と告げた。
じっと待つこと数秒。まずは西の月がちょうど待っていたように姿を消した。月明かりに輝いていた海面が本来の暗さを取り戻してゆく。次いで波たつ水面が徐々に収まり凪いで、墨が流し込まれたみたいに黒々とした闇へと変わる。でもそれもまた一瞬で、目を凝らすうちに、海の表面に小さな光の粒がいくつも浮かんでいることに気が付いた。最初、それは街灯の光を反射しているのかとも考えたが、陸の光源を反射しているのならそこまで局所的に粒として映るわけがない。となれば遥か遠くから届いた、繊細で美しい光によるものでなければおかしい。そこで、はっと上を見上げると、いつの間にか先ほどまで浮かんでいた雲も何処かにいなくなって、残されたのは出鱈目なほど沢山の星たちだった。紫色の天の川が目美島にかかる橋のちょうど真上を流れている。燦燦と輝き存在を主張するような星はどこにもなく、それぞれの星がどこか他の星に遠慮しながら微細に輝いている。
「いいでしょ」
横から聞こえるその声は、事実をただ語るだけだが、それで十分なことを知っている色をしていた。
慎ましい星の群衆がつくる値段の付かない巨大な絵画は、それ自体もまた数秒のうちに立ち消えていった。雲が星を隠し、再び波が押し寄せ、僕らは暗く寂しい夜と再会する。
「ありがと」
感想よりも先に感謝が出た。横を見ると先ほどまでいた最上さんも消えていた。またか、と辺りを見回していると、下の方から「こっち」という声がする。
声の出所を向くと、いつの間にか浜辺に降りた最上さんが僕を呼んでいた。
*
「ほんとにこれ大丈夫?」
袋から顔を覗かせる線香花火たちに胡乱な目を向けながら僕が聞く。大小様々な種類の花火たちが山と積み上げられて、そのどれもが妙に埃をかぶっていた。どこからこんなものを見つけてきたのか、と問うと沈黙を返された。彼女は都合の悪いことには黙って還す癖があるらしい。ともかくとして、出どころのわからない火薬の山に少なからず警戒するのは当たり前のことなのだが、その当たり前をわきまえない彼女は、白けた態度で「知らないのかね。花火に消費期限はないのだよ」と答えた。
そんな胸に手を置いてわざとらしく力説する最上さんを信用できないのは、もちろん僕と彼女の間には数日間の関りしか無いからというのもあるのだが、一番大きな点は目の前にある花火のパッケージからかなり危険な気配を感じるからだった。おそらく直射日光にさらされ薄くなってしまった袋の文字。中に入っている花火たちは何かに敷かれていたのか平べったくなっていた。
「怖いんだけど」
「火事にはならない、はず」
楽観的な発言の後、少しもためらわず彼女は点火した。
線香花火は僕の心配を裏切ってしっかりと宙に花を咲かせた。火花が最上さんの得意げな顔を照らす。
「ほら」
彼女は線香花火を一本差し出してくる。脇に置かれたライターで点火を試みる。しかし、つかない。逆側か、と思い試してみるが、それも無駄に終わる。
「着かないぞ」
「時限式なのかもね」
存外真剣な顔でそんなことを言い出すものだから、怒りや呆れを通り越して、口が勝手に笑ってしまった。不定期的に出てくる時限式花火に適宜砂をかぶせながら、残りの花火を消費してゆく。カチッと火を灯し、しばらくして燃え尽きたら、また次へ。最初は会話をしていたけれど、お互いに自分の手元に集中し始め、パチパチと小さな破裂音と、波の音だけが響くようになった。防波堤に寄り添うような形でこそこそ火遊びをしているのは、大人に見られないようにする意図が大きいのだが、一番はこの時間にもなると徐々に波が陸に押し寄せてきていたからだ。
「まだ九時前なのに、静かだね」
一つ消えた花火の先端を湿らせた砂に突っ込んだ。
「ここの人たちはみんな早く寝る。コンビニとかも近くにはないし、遊ぼうとしたら隣町に行かなきゃいけない。起きててもやることがないんだよ」
「最上さんはここら辺に住んでるんだよね?」
「そう。ずっと昔から」
「昔?」
「ずっとずっと昔。もう誰も覚えてないくらい昔」
このガキは何を言っているのだろうか。
線香花火がなくなった。最上さんは手持ちすすきに火をつける。煙と一緒に鮮やか光が噴き出してきた。彼女はそれを無言で僕に向けてきた。僕がぎょっと驚いて、後ろに飛び退くと、それを見て、最上さんはほとほと不気味な笑みを浮かべた。せめて楽しそうに笑いながらそんな行動をとるなら、もちろん褒められたことじゃないとは言え理解できるものを、無言無表情でやってくるものだから怒れるというより、怖い。
僕もやり返してやろうと手持ちすすきに火をつけるが、そんな思惑を見越していたのか、彼女はすでに僕から一定の距離を開けて臨戦態勢に入っていた。相変わらず表情筋が動いていないが、きっと追いかけてきてほしいのだろうというのは分かるので、あえてそうはせずしゃがみ込んで、着火した。ややあって、つまらなそうに横に戻ってきた最上さんを見てちょっと満足する。
「多分さ。昔溺れかけたことがあるんじゃないかと思う」と僕が語りだすと、最上さんは視線だけこっちに向けた。
「だから、泳ぐのが怖くなったって、そう言いたいの?」
「多分」
最上さんの言語化に乗っかって頷く。最上さんは次の花火に火をつけながら、なおも疑問を呈する。
「でも、水とか海とかが怖いわけじゃないんだよね? そういうものなのかな」
「トラウマなんだからいろいろあるんじゃない?」
「それは、思考放棄かもね」
かなり辛辣なことを言われた。しかし、その通りなのも否定できない。
最上さんは、何度か口を開きかけては閉じるという挙動を繰り返し、やっと口を開いた。
「私にはね、矢野君がそんなに自分に興味をもっている人には見えない」
「どういう意味?」
「前に会ってから、今まで、私が見てきた君はいつも他人しか見てない。そういう奴はいつも、自分が嫌いなものから逃げるので精いっぱいになって、自分が何をしたかったのか忘れる」
冷たい風が吹く。昼間に蓄えられていた熱が空中に溶けて、陸が次第に温度をなくしているのが分かる。
怒った方がいいのだろうか。僕は今、失礼なことを言われたような錯覚を覚えていて、そんなことないと否定するのが自然なことのように思っているけれど、心の一部分がそれはやめておいた方がいいと訴えている。だって、僕が今イライラしているのは、彼女の言葉に対する僕の印象でしかない。そこに反応しても仕方がないような気がする。それよりも、言おうかどうか直前まで悩んで、その末に出てきた彼女の言葉について考えるべきだと思う。けれど、どうも難解だ。
黙って頭を悩ませ、小一時間経った頃、波が僕らの足元近くにまで迫ってきていた。砂浜はほとんど海にのまれていた。満潮が近い。僕ら二人はそろそろ撤収か、と雰囲気だけで示し合わせ辺りに散らばった花火たちを回収してゆく。
「さて、戻ろう」と僕が言う。
「待って、最後にこれやろう」
最上さんはそうして自身の腕ぐらいの太さあるだろう物々しい打ち上げ花火を取り出した。
「三連続だって。かっこいいな」
彼女は筒の側面を指して言った。
「えぇ~」
「いいじゃん。最後だから」
僕の不満の声を柳に風と受け流しながら、彼女はテトラポットの山に登り、ちょうどいい隙間を見つけるとそこに三連続打ち上げ花火を差し込んだ。
「みんな起きてくるんじゃない?」
予想されうる事態を提示し諦めてもらおうとするが、「何それ、結構面白そうだね」と口に出した彼女はまた躊躇なく着火した。導火線が花火の筒を下に消え、いざ打ち上がるのかとそわそわして待つ僕ら二人。そんな時間が、二分ほど続いた。
運がいいのか悪いのか、不良品らしい。しかし、ため息をついて花火に近づく僕を最上さんが手で制する。
「まって、時限式かも」
「もういいって。水につけちゃおうよ、それ」
そう言って打ち上げ花火へ手を伸ばしたとき、ジジジ、と小さな音がして、僕は体を止めた。直後にヒュッ、と額の前をかすめる形で、花火が打ちあがった。驚いた拍子に僕は足を滑らして、海の中に落ちた。さっきまで歩いていた砂浜は、はるか下にある。近くに何か掴める物はあるだろうかと視界を巡らすが酷く水が暗くて全く見えない。体の中に内臓を締め付けるような恐怖が走った。無我夢中で腕と足をバタバタさせていると、いつの日かのように手首をパシッと掴まれた感覚がした。水の上で、ボン、と火薬が炸裂した音がする。僕は少女のものとは思えない程の力強さで水の上の世界まで引っ張り出された。せき込みながら近くのテトラポットにしがみ着く僕を、最上さんが申し訳なさそうに見ていた。
「ごめん。間に合わなくて」
なんかずれているよな、と思う。そもそも病み上がりの人間を夜に連れ出していること自体が、どうかしているのだ。
三本目の花火が彼女のすぐ背後から上がった。家庭用に売り出されているものだから、当然酷く陳腐で、空に輝いているというよりは、爆竹みたいな音を鳴らして、一瞬だけ宙に星のような赤い点を作ったところで三連続打ち上げ花火は役目を終えた。
耳のすぐそばで、チャプチャプと水面の揺れる音がする。近隣の家屋から、照明の光が届いた。
「最上さん。やばい。誰か来る」
最上さんは、後ろを素早く振り向くと、彼女なりに機転を利かせたのか打ち上げ花火をもって海に、というか僕に飛びかかって来た。
ボシャン。少女一人分の小さな水しぶきを上げ、水の世界に来た彼女はどうやらこの暗い海に紛れて、息をひそめることにしたらしく、僕は無様にそんな彼女の肩にしがみつくことしかできなかった。
数十秒すると、誰かがこちらに近づいてきて、そこからさらに数十秒するとその人影はどこかに消えていった。僕らは急いで、陸に上がり、二人して肩を震わせた。
「うわ、寒い。夏なのにぃ」
肩を抱きながら、最上さんが言う。海に落っこちた自分を棚に上げてこんなこと言うものじゃないけれど、馬鹿だなぁこの子、と思った。
ずぶぬれになった服が、最上さんの骨格にべったりと張り付いていた。サイズがかなり大きいTシャツを着ていたので今まで気留めることはなかったが、肋骨が浮かび、腰や腕も同世代の女子に比べるとか細く、明らかに痩せこけていた。
歩く骨格標本みたいな少女は腕を擦りながら歩きだす。夏の午後十時だった。
僕が寝かされていたあの掘っ立て小屋に、着替えがあるのか記憶が曖昧なので、今頃親戚一同が眠りこけっているだろう母の実家へと行くことにした。もちろん堂々と入ってしまえば、誰それに非難されるだろうから、鍵の壊れた勝手口から静かに侵入し、ばれないように着替えとタオルを調達するつもりだ。
さて、田舎特有の防犯意識のなさに助けられ、僕らは易々と裏庭へ侵入することが出来た。
そこを通り抜けようとしたとき、縁側が部屋からの光に照らされていることに気が付いた。誰かまだ起きているらしい。耳を済ませれば、おそらく祖父たちのものだろう話声が聞こえる。だいぶ大きな声だ。お酒が入っているのかもしれない。ゆっくり身をかがめながら、忍び足で進む。
「クシュっ」と最上さんがくしゃみをした。瞬間背筋が凍ったが、大人衆の会話が途切れる様子はなく、安心した。
裏手に回り、勝手口まで到着した。先述した通りこの扉は鍵が壊れているため、反時計回りにノブを回せば静かに開いた。僕らが通れるだけ開くと、そこに体を滑り込ませる。その時、突然老人のこれでもかという程の「ぎゃあああああああ」という金切り声が響き渡り、僕らは声を出す暇もなく体をびくりと震わせ、固まった。何か砂のような物が僕の顔に降りかかってきて、何が何だかわからず後ろにいる最上さんと顔を見合わせた。急いで扉を閉め、息を整えてから恐る恐る扉を全開すると、冷蔵庫の前で尻餅をつく祖父がいた。
*
「お前なぁ。じいちゃん危なかったんだぞ?」
疲れ切った声で叔父はそう吐いた。時刻は朝九時。本領を発揮しだした太陽が僕らを構成するたんぱく質を破壊しようとギラギラ輝いていた。そんな日和にもかかわらず、何故か全く涼しくない縁側に僕と伯父は二人で座っていた。蝉が鳴いている。僕が夏風邪にやられている間に親戚たちはほとんど帰ってしまったらしく、母屋は静まり返っていた。
「腰やられて、一週間入院だって」追い打ちをかけるように、祖父の具体的な容態を出された。それを言われては何も言えない。
「はい」
殊勝な声を出して俯く僕。ちらりと横を向けば同じように俯く叔父。ややあって叔父は耐えかねてククククと含み笑いを始めた。
「ぎっくり腰だってよ……人生初めての」
愉快そうに語る叔父は大変に奇妙かつ不気味で、元凶である僕自身が立場をわきまえず「笑い事じゃないよ」と口をついて言ってしまう程だった。叔父は尚も必死に笑い声をこらえるように俯き続けた。
「おじいちゃん。怒ってた?」としょげた声で僕が聞くと、叔父は声に出さず、というか出せずといった様子で頷き、息を整えた後「茹でダコみたいな顔して怒ってたぞ」と楽しそうに言った。
経緯を要約すると、祖父は音も立てずのらりくらりと入ってきたびしょ濡れの僕ら、というか僕らの影に恐れおののき、物の怪の類と勘違いをし、挙句に叫びながら塩を振りまき、勝手に尻餅をついたうえ人生で初めて腰を痛める羽目になった。
普段から厳格とは言わないまでも好々爺然とし落ち着き払った祖父なだけに、そのような奇行に走ったのが堪らなく可笑しいらしく、母も叔父も思わず吹き出し、それに対して祖父がまたらしくもなく憤慨するという、主犯の僕としては見ていていたたまれない事態にまで発展した。
とにもかくにも昨晩は、風呂に入り、乾いた服に着替え、そのまま寝た。疲れていたのだ。
「今日は泊まってきな」と、そういう母の言葉に従って、最上さんも一晩この家にいたが、僕が起きたときにはすっかりどこかに消えていた。聞けば朝早くにお礼を言った後帰ってしまったらしい。親が心配するといけないとでも思ったのだろうか。そんな考察を僕が口に出すと、母が昨晩、最上宅へ連絡をした時を思い出し静かに怒りの籠った声で「あの家嫌いなのよね。ヤな感じ」と零した。
ここで敢えて語ることでもないのだけれど、母は善人でも聖人でもない。他人の愚痴や陰口悪口は平気で言うし、それを悪いことだとも思っていない。それでも、自分に危害を加えないような人に対しては特段何も文句を言ったりはしない。それは一重に関係ない奴には興味もないからだ。その上に立って考えれば、相当嫌な感じでもなければ母にここまで酷評されることはないだろうから、その嫌な感じである最上さんの両親に少し興味がわく。あんましこういう好奇心はよろしくないのだろうけれど。
「でもまぁ、今度からはあんまし危ないことするなよ」
叔父はひとしきり思い出し笑いをし終えると、真面目な声で言った。まだ尾を引いているのか顔はにやけていた。
「はい。すみません」
反省しとけばいいのだろうな。そういう心の内が滲み出ていたのか、僕の顔を疑るように見つめた後叔父は盛大にため息をつき、「じゃあ、また後でな」と実に爽やかに、祖母が催した反省会から抜け出した。
祖母から、しばらく反省しなさい、と言われ僕は三時間ほどこの地獄の炎天下のもと何の娯楽もなく縁側に腰を下ろすように仰せつかっていた。昨日まで風邪ひいてたんだけどなぁ、と思いながら、ジージーと鳴く蝉の声を聴いた。実は蝉のことは割と好きだ。なんか頑張って生きているんだろうなという雰囲気が伝わってきて好感が持てるし、彼らの声を聴くとまだまだ夏だなという感じがして、つまりまだ夏休みは長いのだという感じがして安心する。同様の感性からいって、蜻蛉は嫌いだ。夏の終わりを感じてしまう。
すると、後ろから誰かがふすまを開ける音がした。振り返れば母だった。
「もう反省はいいから、行くとこ行ってきなさい」
「え、どこに?」
僕が首をかしげると、母はため息と同時に眉間を抑えた。
母の背後、家の中ではきゃっきゃと桃とスズがシマさんと戯れていた。あ、言葉の綾だ。シマさんがいじめられていた。その楽しげな声が、どこか癪に障ったらしい母は、イラついた様子を隠すことなく「あんたたちも暇なら外に出て遊びなよ」と自分の背後へ向けて怒鳴った。
*
「え? おじいちゃん、大丈夫なの? それ」
別に笑い飛ばしてほしいわけでもないが、昨晩のことを菊池さんに話すと思いのほか心配そうに聞いてきた。彼女が優しい人なのか、はたまた家族の様な近しい人でもない限り笑い話には思えないのだろうか。
菊池商店に来たのは、母が菊池さんにお礼と謝罪をしてきなさい、と僕に命じたためだ。もっとも、菊池さんが僕に無賃労働を迫らなければ熱を出すこともなかったのではないかという可能性が頭にちらついてしまって上手に感謝の念が湧き起こらないから困ったものだ。
「一週間入院らしいです」と僕が答える。
「痛そぉ」
菊池さんは手で口を押さえ、いかにも同情しているような素振りをした。
「でも元気そうだったよ? 大声出して怒ってた」と桃が淡白に言い「看護師さん可哀想だったね」とスズが補足した。何を思ったのかそれを受けて、菊池さんはもの悲しい顔をしていた。
子供二人の前で、しかも公共医療機関で何かしら喚き散らしたのだろう祖父の姿が想像される。何よりも嫌なのは、この夏、そんな怒り心頭の祖父ともう一度か二度、対面する可能性が高いことだ。いったいどんな面をしたらいいのか。ずっと入院してればいいのに。
「ま、元気ならよかったよ」
菊池さんは毒を抜かれたような笑顔でそう言った。それに対し「そうですね」と返す僕を見て彼女は、きょとんとした顔をした後「あんたも」と付け足してくる。
「……そうですね」
今日の菊池商店は静かだった。あまりの暑さに観念しクーラーを稼働させている影響で店頭は締め切られ、店内は薄暗いうえ湿度が高く涼しい。ナメクジが喜びそうな環境になっていた。
店のすぐ外に通る幅の広い緩やかな坂道には、屋台骨が立ち並び、明日から始まる祭りの気配を匂わせていた。今までどこに隠れていたのだと問いただしたくなるくらいの人が、今日から明後日に限ってはこの通りを練り歩くのだとか。その祭り……目美島祭という何の捻りもない名を冠された祭典は年に二回、冬と夏に開催される。街の住人は夏の祭りをカエシ、冬の祭りをムカエと呼ぶ。由来は分からない。現在のムカエは初詣と同時に行われるため、気が付いたら終わっているぐらいの印象だが、カエシの方は隣の市からも人が来るほど盛大に行われる。
「唯さんところは、今回もチョコバナナ?」
お菓子一つと小銭を手渡しながら桃が聞く。
「ん~、どうだろうねぇ。今年は忙しいからね~」
菊池さんはどこか気乗りしない様子でそう返すと、お釣りの二十円を手渡した。
「毎日店番してるのに?」と遠慮のない疑問をスズが口にした。確かに僕らが来るときはいつも菊池さんが店番をしている。すると、彼女は「こう見えて君らみたいな子供にはわからない悩みを抱えてるんですぅ」と菊池さんは大人げない発言をした。
その時、建物の奥から「唯。お友達来てるよ」としわがれた声がした。それに応じる形で菊池さんはその場から姿を消し、代わりに現れたのは好感の持てる顔つきの老婆だった。スズはやっと話せるようになった年上のお姉さんが居なくなったことで人見知りモードを発動して桃の後ろに引っ込んでいった。それをかばうかのように桃は「お婆さん。今年は店出さないの?」と老婆に尋ねた。老婆は「今年は出さないね」とやわらかい声で返した。ドタドタとあわただしい足音の後に、菊池さんがひょいと後ろの暖簾から顔だけを出す。
「じゃあ六時には帰ってくるから」
溌溂とした声で彼女は言った。
「いいよ。ゆっくりしてきなさい」
老婆が困った顔をしてそう返すが、菊池さんは首を横に揺ってから「じゃあ、行ってきます」と姿を消す。そうして登場した老婆はしばらく何をするでもなく座っていたが、あたりを包む沈黙にようやく気が付いたようで、棚の上に手を伸ばしてラジオの電源をつけた。ジジジと蝉の鳴き声の様な音を出しながら波長を合わせた後、ラジオから軽快なBGMが鳴り出す。大したことはしていないくせにそれで一仕事終えた気配を醸し出しながら彼女はまた元の位置に戻り、一連をひたすらぼうっと見ていた僕の方に気づいた。老婆はにっこりと笑った後に、小さく頭を下げてきた。慌てて僕もそれに返し、視線を戻した。すると、えらく驚いた顔をした老婆が目に入った。
「すごいねぇ。見ただけで分かる」
「え?」
何のことかわからず、当惑していると、老婆は乾いた口をもごもごと動かしてから「ケイコさんにそっくりだ」と加えた。
数日前ほとんど同じことを菊池さんから言われたのを思い出す。それほど似ているのだろうか。安らかなお顔はついに三か月前に見たばかりで記憶に新しいが、本当に身体的なパーツは似ていない。ともなればそれ以外で且つ見れば分かると言っているのだから所作が似ているということだろうか。でもそれは翻って、お前ババくさいな、と言われている気がしなくもないので若干不快なものがある。
「前にも言われたことあります。雰囲気が似てるって」
「そうねぇ」
またも、口をもごもごさせた後でそう言うと、老婆は笑顔で頷いた。そして、黙ってしまった。駄目だ。リアクションの速度が違い過ぎて会話に弾みがつく気がしない。このまま多少不自然ではあるが話をぶった切って、店を出ようかと考えたとき、店のそばで車が止まる音がして、次に店の戸が開き中年の女性が現れた。顔つきが菊池さんそっくりなのですぐに母親だとわかる。
「お義母さん。祭りで使う綱ってどこに置かれてましたっけね?」
「ええっとね……中馬神社の横に大きな倉庫があるでしょう? そこにあるはずです」
「あぁ、なるほど。そっちですか」
女性は悩むような仕草の後に「ありがとうございます。私ちょっと見てきますね」とまた店の外に出ていった。すぐそばから車のエンジン音がして、遠ざかってゆく。
「今年は雨降らないと良いね」と桃は老婆に言った。
老婆は「そうだね。今年はちゃんと帰してやらないとね」と、ただの世間話には見せないような殊更深刻な表情で語るのだった。
*
翌日の夕方。叔父とスズ、それから桃とともに四人で祭りに赴くと、目美島神社を出発点として非常に長く細い綱が延びていた。おそらく菊池さんのお母さんが話していたのはこれだろう。その綱は途中にある電柱などに引掛かけられながらも遠目から見ればほとんど一直線に、近くにある小さな山の山頂、そこにある中馬神社まで伸びている。二つの神社の間にはおよそ一キロメートルの隔たりしかないが、その間を結び目のない綱がずっと伸びている様は子供ながらに驚愕した。
「何あれ?」と、綱を指し示したスズが当然の質問を口にする。
「ミタカの綱だよ」
叔父は、それがなんであるかという説明を一切省いたうえでそう言った。そして、僕らが理解できず呆けているのを見て面倒くさそうに補足説明をする。
「この街には神様が常にいるわけじゃない。海に住んでいる神様が冬になると陸に来る。神様がいる間は温かくなる。夏の中盤で神様が海に帰る。神様がいなくなるからだんだん寒くなる。なんか知らないけど、神様があっち行ったりこっち行ったりするときにはあの綱が必要らしい。多分……ばあちゃんはそう言ってた気がする」
叔父は自信なさげに、後ろ髪を掻いた。
現在の叔父は、母から、つまりは自身の姉からの全く何の理由もない「暇ならこの子らと祭りいきなよ」という気まぐれの命令に従い、律義に僕らを外まで連れてきている。叔父の引率など関係なしに勝手に行くつもりだったが、「お前は目を離すと海に飛び込むかもしれない」と言われて何も返せなかった。スズはスズで母と一緒に祭りに来れなかったことに、というより叔父と一緒に祭りに来なければならないことにショックを受けたようで、終始桃と手を握って俯いている。
まだまだ日も暮れない登り坂は、今か今かと盛るための準備をしている。出店の看板を掲げる人。運営本部と書かれたテントには、ピリピリした気配の警官たちが、何か仲間内で話し込んでいた。本当に膨大な人が来るらしく、坂の中央を等間隔に並べられたカラーコーンが分断し、『原則右側通行』の看板がいたるところで目についた。
「本当に大きな祭りだなんだね」と僕が言うと「覚えてないか。小さいときに連れてきたんだけどな」と叔父は言った。
「何歳?」
「三」
「覚えてるわけないよ」
「まあそうだな」
叔父は無駄話を反省したのかそれ以上は何も語らなかった。
菊池商店も軒を連ねるいつもの坂道、けれど今は祭りのせいで異常な坂道。その右側を歩いて行く。叔父曰く、まずは中馬神社に参拝するのが慣例らしい。言われて周囲を見てみれば、確かに人足は全体的に山の方へ向いていた。さらに付け加えると、祭りの終わりには目美島神社の方へ参拝するところまでがセットだとか。
そうして人の波に乗りながら坂道を上り中盤に差し掛かったあたりで、聞き知った声が聞こえてきた。
「やばいじゃん。全部?」
「面目ないです」
そんなお互いに暗い声をかぶせ合うような会話に視線を転じる。すると、案の定というか縁があるのかもしれない。菊池さんがいた。
「あー!」
桃が嬉しそうに菊池さんの方へ駆け寄る。菊池さんは正直迷惑そうな顔をしていたので、僕は急いで駆け付けようとしている桃の肩に手を置いて制止した。というよりも、明らかに何かしら問題が発生したであろう状況下で、僕らが何かしても迷惑でしかない。言い換えれば互いに面倒くさそうだから、関わらないのが吉だ。そんな気配が漂っている。
「どうかしたの?」
しかし、制止できたのは一人なのでフリーになったスズが質問をぶつけた。
菊池さんは一瞬、どうしたものかとスズを見ながら考えていたようだが、叔父が一緒にいるのを発見すると一縷の希望を見出したように、主に彼を向きながら事態の説明に入った。
菊池さんの言を要約すると、友人の家が出している唐揚げの出店で、今日使うはずの鶏肉を家に忘れた、とのこと。
「この子の家、隣町なんですよ」と菊池さんの言葉を聞き、叔父は問題の要点を理解したようで、腕時計を素早く見た。時刻は十六時を少し回ったあたりだ。
出店が営業を開始するのは十八時から。後二時間以内に隣町まで行って帰ってこなければならないわけだが、祭りの関係でこの街の周辺はかなりの範囲で交通規制がかけられていて、通常、車で片道数十分のところを、今日明日に限って言えば片道一時間弱。往復で約二時間を要する。
「両親には?」
「連絡してるけど、繋がんなくて……」
すると叔父は頼まれる前から「ここから駐車場まで十分くらいだから、ぎりぎり間に合うかも」と言ってのけた。
ぱっちり目を見開く菊池さんの友人に向かって「場所教えてくれ」と急かすように叔父は言った。
「あ、はい」
未だ茫然と動かない彼女の手を引きながら、その場を後にしようとした叔父はふと立ち止まりこちらを振り向き「そいつら監視しといてくれ」と僕らの方を指さし、視線は菊池さんに向けて言った後、人混みの中へ姿を消した。
残された菊池さんは僕らの方を見て、失礼なことにため息を吐いた。なんだかやけに疲れているような、余裕のない表情だった。それから彼女は大きな樽の様なフライヤーに蓋をして電源を切り、一息ついた。そして叔父が居なくなったことで行動不能になった僕たちを見て「神社行ってきてもいいよ。叔父さんには内緒にしとくから」と強引に作ったような少し意地悪な笑みを見せた。
*
結局、歩きたくない僕を差し置いて、桃とスズだけで行ってしまった。いや、二人だけだったら流石に僕もついて行くつもりだったが、桃の友人達がたまたま近くを通りかかり、その集団に合流する形で二人とも中馬神社に移動していくことになったので、僕は動かないことにした。あれだけの人数で固まれば危険ということもないだろう。相変わらず人見知りの妹がこちらをちらちら振り返りながら、「お前来いよ」と訴えていたが、二つ年の離れた女子集団について回るという構図が好かないので仕方がない。いや、単純に知らない奴らと一緒に動くのが嫌だ。
屋台の後ろにある、路肩の縁石に腰かけて暇そうにしていると、人混みの中に一瞬シマさんの姿を見た。しかし、映画のフィルムみたいに人混みはどんどんと見え方を変化させ、シマさんらしき影はすぐに立ち消えた。気のせいかもしれない。
「あんたらはいかなくていいの?」
シマさんの幻影を追って人混みに目を凝らしていたところ、菊池さんが店の看板を裏に向けながら聞いてきた。複数いるような言い方をされたので、心を落ち着けてから振り返る。やっぱり最上さんだった。何か咀嚼しているようで、口をもぐもぐ動かし、りんご飴とチュロスを両手に携えている。
「いつから居たの?」
「さっき」
そう言って僕の横に座ると当たり前のようにチュロスを手渡してきた。
「甘いの苦手なんだ」と断る。
「前ドーナツ食べてたじゃん」
チュロスを受け取った。
「……」
「お金はいらないよ」
なんで考えていたことがわかるのだろうか。相当頭がいいのか本当に不思議な力を持っているのか疑いたくなる。
僕が、甘ったるい揚げ菓子に嚙り付いたころ、坂道のいたるところに設置されたスピーカーから声が流れてきた。
『迷子のお知らせです。東迅区からお越しの最上景花さん。運営本部までお越しください。また見かけた方は、運営本部に知らせるか連れてきてください──』
ゆっくりと語り掛けるような放送の内容に、すぐさま横を見るが、彼女は自分のことではないと首を振って否定した。
『──景花さんの特徴は、紫色の浴衣で黒のロングヘア。丸眼鏡。小学校低学年くらいの女の子。背は一一〇センチ程度です。見かけた方は──』
確かに最上さんの特徴とはずれている。
「じゃあ家族?」と僕が聞くと、彼女は首肯した。
「妹。一応」
「じゃあもっと慌てなよ」
「まぁ、どこにいるかは分かるし。死にゃあしないよ」
最上さんは、さも平気なことのようにそう言い切ると、りんご飴に歯形をつけた。
学校に行ってなかったり、家族に対して冷淡だったり、めちゃくちゃ勘が鋭かったり、彼女に対して気になることは尽きない。だが、それについて考えすぎればまた最上さんはその妙な勘の良さを働かせて、僕の心を覗いてきそうだから意識して思考を止めることにした。
山の後ろに隠れてゆく日を眺めていると、菊池さんがとうとうやる事を見つけられなくなって、僕らの横に腰かけた。そして最上さんに先日の神社の掃除のお礼を述べた後、頭に巻いていた三角巾をとって、空を見ながら一つため息をついた。
今日の菊池さんは一層テンションが低いように見える。ただ疲れているのか、昨日言っていた悩みというのが実は相当深刻なのかもしれない。でも、勘ぐったって意味はないことだ。僕の勘違いで、彼女は別に何の悩みも抱えていないかもしれないし、知ったところで僕にできることもないし、一緒に悩んでやる義理もない。
「気になってるなら聞けばいいよ」
突然またしても最上さんに思考を読まれたかのような発言をされる。菊池さんは不思議そうに最上さんを見て、それから僕を見た。気まずさにやられて口を開く。
「いや、なんか今日元気ないなって」
菊池さんは表情を変えることなく正面に顔を向けた。彼女の耳にかかっていた髪が丁度横顔を隠すように、滑り落ちた。
「ああ、分かる? 分かるか。分かりそうだな。あんた、かしこそうだもん」
そんな温度のない声の後、無理に明るくなった声が続いた。
「じゃあ、当ててみて。二回まで間違えていいよ」
僕は頭の中でいくつか候補を思い浮かべ一番しっくりくるものを三つ挙げた。
「進路?」
「ハズレ。でも近い」
「家族の事?」
「ハズレ。遠くなった」
「友達と喧嘩した?」
「ハズレ。はい終わり」
僕の想像力が敗北を喫した直後、不意打ちのような「じゃあ失恋だね」という声で、すっと菊池さんの顔から作り笑顔が消えた。そして俯いてしまった。
「なんでわかったの?」
小声で最上さんに尋ねる。
「顔に出てた」
端的な答えが返ってくる。結果的に菊池さんの傷心に塩を塗り込んだだけで僕らにできることはなにもなさそうだ。
「最初はね、二年ぐらい前になるんだけど、あ、高校の──」
菊池さんは聞いてもないのに俯いたまま自分がいかなロマンスを繰り広げ、恋慕の情を抱き、それを成就させ、果てに望まぬ終止符が打たれることと相成ったのかを淡々と語り始めた。
僕と最上さんは別に菊池さんの恋愛話に興味もなければ先ほど言ったように一緒に悩んでやる義理もないため、この話が相当に長くなることを察したあたりから、情報を右の耳から左の耳に受け流すようになっていた。しかし、わざわざこの事態を招いたのは僕だし、その僕をたきつけたのは最上さんなので、僕ら二人にはそれ相応の責任がある。具体的に言えばこの場から離れず彼女の言葉に最後まで耳を傾けている風体を装わなければならない程度の責任が発生してしまっているのはいただけない事実なのである。菊池さんの語りは情報密度がスカスカなので、意外とぼうっとしていても話の筋はつかめるのがありがたい。
いよいよ最終章。恋愛より今は勉強が大事だよね編が終わりに近づいてきた。僕は手慰みにチュロスの包み紙を幾重にも折り曲げながら恋のエピローグを聞いていた。
傷心話で重要なのは自分の心の傷がどういった類のものでどの程度深いものなのかをしっかりと把握することだと思う。その点で言えば、愚痴という形でエピソードを誰かに聞かせるのは理にかなっているのかもしれない。言語化して苦痛への解像度を高めるほど、肥大化した感情が実は陳腐なものだったと気が付くきっかけになるのかもしれない。そのために聞き手として僕らがここにいなければならぬなら、その程度の援助はしてもいいかもしれないという心持ちになってきた。
「思い出したらイライラしてきた」
でも菊池さんには逆効果だったらしい。その証拠に人生において右も左もわかっていない小学生二人に対して長々と失恋話をするという凄まじく恰好の悪い現状が目に入らない程に冷静さを欠いている様子だ。
そんな時、息を切らせた叔父と菊池さんの友人がとうとう戻ってきた。菊池さんもさすがに顔を上げ、三角巾を頭に巻いた。僕は誰にも聞かれないように小さく安堵の息を漏らした。そして今の僕と同じような顔を菊池さんたちがしていることからも店の方は何とかなりそうだと判断できた。
『迷子のお知らせです。南迅区からお越しの矢野鈴美さん。運営本部まで──』
アナウンスを聞いて、叔父が僕に非難の目を向けた。
*
運営本部まで行くと、桃が泣きじゃくっていた。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」と何度も謝りながら、彼女の瞳から流れる涙が止まる気配はない。僕は変に嫌な気分になって、その姿から目を反らした。すると、視線の先には何故かついてきていた最上さんが何かを納得したように薄く笑っていた。
叔父が何とか桃を諭して状況を聞き出すと、人混みの中でいつの間にかはぐれたのだという。
わが妹は別にバカではないので待っていればここまで来る可能性も十分あると思うのだが、事実としてか弱い小学生だし、普段とは全く異なる風景と人混みのせいで妹の身長では数歩先すら見えないはずで、そのため地理が完璧に頭に入っていたとしてもたどり着けない可能性もある。なにより犯罪に巻き込まれている事態が最も恐ろしい。
叔父は僕たちに待機を厳命すると、その場を後にしようとする。その時、最上さんが僕の肩をつついた。そして彼女は明後日の方向に指をさして「あっちにいる」と教えてきた。
その時、なぜその言葉を信じる気になったかと言えば、多分今までだって最上さんは同じ仕方で僕の居場所を当ててきたのだろうと直感的にわかったからだ。海藻のような髪の奥から、魚のような黒く濁った眼が僕を捉えていた。その奇妙な圧力に促されるように、考える間もなく僕は叔父を呼び止めた。
「叔父さん」
叔父はイラついた様子で「なんだ?」と聞き返した。
「あっちにいるって」
僕が歩き出した最上さんの方を指さして言うと、叔父は当然信じてくれた様子もなく怪訝そうにしていた。だが僕も最上さんを追って歩き出すと、彼も渋々従った。
原則右側通行の坂道をほぼ斜めに突っ切って、いかつい警官に睨まれながら、大通りの外れまで進む。そこからさらに細い路地裏を通る。次第に人気が消えていき、とうとう誰もいないような場所まで来る頃、僕はさすがの最上さんでも当てが外れたのではなかろうかと疑った。そんな僕とは反対に叔父は何か確信を持った顔でひとりでに光っている自販機の方へ歩き出した。その自販機の横、僕らからは見えない位置でスズはしゃがみ込んでしくしく泣いていた。
叔父が脅かさないように、わざと足音を立ててゆっくり近づいて行くと、スズは弾かれたように顔を上げ、叔父の顔を確認した途端、大声で泣きながらその腰に抱き着いた。叔父は驚いたように、こわごわと慣れない仕草でスズを支えた。
「なんでわかったの?」
僕が問うと、最上さんは「何でもわかるんだよ。私」と退屈そうに言った。
*
午後八時。近海で花火が打ちあがった。ゴンゴンと空気を揺らし鼓膜に届く炸裂音と、鼻につく火薬の香り。宙に咲いては消え咲いては消えを繰り返す。
交通規制の入った四列車線に集まった軍勢がみんなして顔を上に向けている。眠気に負けて母の腕の中に寄りかかる幼児や、静かに手を握りなおす恋人たち。花火だけは見ておこうと家屋のベランダに出てくる人たちもいる。少なくとも全く無視してしまうと損をした気分になるのが打ち上げ花火というものなのだが、最上さんは専ら射的に夢中になっていた。
「見ないの?」
先日のことを考えればさらさら興味がないとは言えないはずだ、と思って空を見るよう促すものの、特に反応は芳しくない。
「まって、コツ掴んだから」
十回目の試みの最中、彼女はそんなことを言い出し、銃身にコルク弾を詰めると、すっと息を整え、引き金を引いた。放たれたコルク弾は屋台の後ろにかかった暖簾を揺らし、地面に滑り落ちてゆく。最上さんは悔しがる間もなく即座に二百円を店主に渡し、引き換えにコルク弾が二つ彼女の掌に落ちてくる。
「もう無駄だって」
「いや、ほんとにコツ分かってきたんだって」
彼女は尚もそう言って固い意志の籠った片目で狙いを定めてゆく。その銃口の向かう先にある物はカエルと熊の中間のような奇怪な動物。ぬいぐるみ、ではなくプラスチックや軽い陶器の様なものでできているらしいそれは屋台の温かい照明に照らされて不気味にテカテカしていた。ついでにアルカイックスマイルを浮かべ片手には槍を持っている。いったい何を背景に作り上げたのか作者の意図が謎だし、一番の不可解は彼女には需要があるということ。僕と店主は終始困惑していた。店主の困惑具合からして本当は商品ではないと言われても僕は驚かない。それほどまでに凄まじく要らない代物だと言えた。
「次駄目だったらあきらめなよ?」と通告すると、最上さんは一瞬薄情な奴を見る目を僕に向け、また正面を見つめた。敢えて無視されるのかと思ったら一言「じゃあ今から二発目で当てる」と彼女は宣言した。
そして一発。同じように後ろの暖簾に当たる。続く二発目、代わり映えもなく真剣な顔付きで引き金に指をかける最上さん。丁度その時、ヒュー、と一際大きな音を立てて花火が打ちあがった、店主は一瞬海の方に顔を向ける。最上さんが二発目を放つ。その弾丸は見事に獲物の胴体に衝突し、カタカタと軽い音を立ててカエル熊は転倒するかのように見えた。しかし徐々に揺れ幅が小さく細かくなり、安定して元の位置に戻る気配を見せていた。やはり駄目か、と思った次の瞬間。不自然な突風が吹いて、カエル熊が転倒した。海の方で、また炸裂音と同時に花が咲いた。
コトリ、と固い音に気が付いた店主が振り向くと、倒れたカエル熊を見つけて、続けて僕らの方を見た。なんだかインチキくさい気がしたが、僕は首を縦に振る。それを見た店主が安心した顔でカエル熊を差し出してきた。最上さんは満足した様子でそれを受け取ると、得意げな顔で僕の方を見やる。
あれ、違和感がある。こんなに表情の動く子だったろうか?
「それ結局何なの?」
僕が聞くと、最上さんは小首をひねる。
「さぁね」
彼女のその淡白な言い草は本当は質問への答えを知っているようにも、さらさら知らないようにも受け取れた。
『以上で、本日の花火は終了となります』
アナウンスがそう告げると人の足は徐々に海から離れ、山の方へあるいは自分の家の方へ、あるいは駐車場へと向かってゆく。気の抜けた来客者たちとは反対に運営のスタッフたちは大きな声を上げて人の波をコントロールしようと躍起になっていた。
「矢野君さ。あの子嫌いなんだね」
最上さんは馬鹿にしたような口調で、突然そんなことを言った。
「誰の事?」
「わかるでしょ?」
なんでも言い当てられる。最上さんは僕が知っているのに知らないふりをしていたことを、いともたやすくそれも楽しそうに言及する。そんな意地悪をされても僕は不自然なことに彼女を嫌な奴だとは思えなかった。足を止め、自分と向き合って分かる部分だけを告解した。
「どうしてだかわかんないけど、あいつを見てるとムカムカする」
最上さんは僕に合わせて足を止めることはなく、人混みをグングンと進みながら答える。
「ふたり似てるからね。同族嫌悪ってやつだよ」
「そうかもね」
同族嫌悪とは、悲しい事態が二つそろわなければ成り立たない。自分に嫌悪していること、自分は特別ではないと知ること。この二つは人間にとってちっとも面白くない要素だ。誰だって自分のことは好きでいたい、あわよくば特別な奴だと思いたい。
消えかかっている最上さんの背中を早足で追いかけ、追いついたとき、今度は彼女の方が足を止め「もうすぐ夏が終わるね」と坂を見上げながら言った。目を細めぞろぞろと海を背に歩く人影たちを眺めている。まだ夏休みも半分残されている今日に、そんな哀愁を漂わせるとは随分と気が早いものだ。
「まだ続くよ」と僕。
最上さんは嫌に大人びた笑みを浮かべた。
「あとちょっとだよ」
*
午後十時。家に戻ると……祖父がいた。回復が早い。胡坐をかきながら芋焼酎を片手にした彼はおそらく酒気で赤くなった顔で僕をじっと見てきた。
家の中はもうどこか静かになっていた。スズたちは既に寝てしまったのだろう。祖父がぽつんと座敷に座り込んでいるだけだ。彼は尚もじっとこちらを見ながら、酒を口に運んでいる。
僕は何か言われる前に、行動した方がいいと踏んで、彼の前に座ると反省している子供を全力で演じた。ひとしきり謝り倒すと叔父は、あからさまに不満げではあったが「もういい」と先日の話を捨て去った。
そして僕が満足感とともに腰を上げたときに祖父が「お前、サイジョウさんところの娘と仲いいんだってな。桃から聞いたぞ」と、特段低い声で言った。サイジョウさん……最上さんだろうか。状況と情報からするとそれしか考えられる人物はいない。
祖父の声色からいったい何を考えているのかわからなくて、それがどうしようもなく怖かったが、何も返答しないのは不自然だ。僕は上げかけた腰を一旦下ろした。
「仲いいっていうか……遊んでもら……あげてるっていうか」
仲がいいのとは少し違う。出会って数日だし、僕はまだちょっとあいつに対してよそよそしさが抜けてない自負がある。けれど、波長が合うとは言えるかもしれない。何となく最上さんといると空気が調和しているのを実感する。
「あの、サイジョウなの? モガミじゃなくて?」
そう尋ねると、叔父は少し不機嫌そうにこちらを睨んだ。きゅっと胸が苦しくなり、僕は畳に視線をそらした。
「……まあ、どっちでもいいさ」
人の名前なんだし、どっちでも良いなんてことはないんじゃなかろうか、と頭をよぎって言葉に出そうになるが、じっとこちらを見つめる祖父の圧迫感に気おされ口はつぐまれる。
祖父は、一呼吸おいて、それからまた憮然と口を動かした。
「その子、いい子か?」
「あ、うん」
多分違うけど肯定しておこう。いい子の定義にもよるのだし、嘘ではないだろう。
「どの子だ? あそこは三人いただろ?」
三人……。本人と桃の発言からして、おそらく最上さんには妹が一人と、弟か兄が一人いるということになる。どっちにしても長女だ。二十人いるという話はやはり嘘に違いない。
「長女です」
「……どんな子だ?」
「不思議なやつ。……あの、ほら、あの夜一緒にいたじゃん」
「ああ。ああ! あの子かぁ。ほぉん。そっか、似てるんだなぁやっぱ」
祖父は、太ももを叩いて、どこか満足げに言った後、そんな自分の行動に驚いたように耳を赤くしながら咳払いをした。そして、僕の「どういう意味?」という疑問符を無視して、歩き去っていく。
座敷から祖父が居なくなると代わりに母が「浩。早く風呂入りな」と顔を出した。僕は母に駆け寄り、今しがたの祖父の言動を聞かせ、その解釈を尋ねた。母は「あの家には叔母さん……おじいちゃんの妹がいるからね」と、嫌な顔をしながら答えた。母にはあんまりいい思い出はないらしい。そういえば前連絡した時も「嫌い」とはっきり言っていた。
何はともあれ、話をまとめてみれば最上さんは僕の、はとこ、ということになる。意外だ。もし次会ったら本人に知っていたかどうか聞いてみよう。驚いた顔が見られるかもしれない。
いや、でも妙なことに葬式でも通夜でも最上さんを見た記憶がない。それに祖父が最上さんの顔を全く認知していなかったのも不可解だ。そう思っていると母が続けて、「なんか色々あって、お祖母ちゃんが縁切ったらしいよ」と言った。
「色々って?」
「知らない。興味ないもん。あんま首突っ込んでも面白くないんじゃない?」
母さんが気になることを言い出したのが悪いのに理不尽極まる。結局僕は下手に好奇心をつつかれた状態のまま風呂に向かった。
寝床に向かう途中、中庭を囲む廊下にシマさんがごろりとうつ伏せで転がっていた。冗談みたいに前足から後ろ足まで伸ばして、目を閉じていた。僕が近づいていくと、足音で察知したのか、こちらを薄目で見てきたものの気にせずまた瞑った。尻尾だけ床を撫でるようにゆさゆさと動かしている。
鈴虫の声が満ちてゆく。廊下は次第に青白い月に照らされた。見上げれば半月が屋根に縁どられた空にぽつんと浮かんでいた。そして、月よりも存在感を持って現れたのは、屋根の上にいる雌猫だった。音も立てずその猫は、中庭に降り立つと、沓脱石を飛び越えて、だらだらしているシマさんの隣に腰かけた。それから僕の方に警戒するような視線をぶつけてくる。つがいだろうか。近づいたら噛みつかれそうなので、反対方向から回り寝室に行こうと踵を返した。すると縁の下から小さな影が二つ出てきて、同じようにシマさんの近くまで来ると落ち着かない様子でその周りをくるくると回り始めた。
どうやら家族だった。
なかなかだらしない体形をしているシマさんだけど、やはり野良猫らしく人間の及ばないところで勝手に家族を作っているものらしい。
猫から離れ、ロの字型の廊下を反時計回りに歩いていると、前からぼうっとした顔の桃が歩いてきた。彼女は僕の存在に気が付くとその場でピタリと体の動きを止めた。僕が「おやすみ」と声をかけるも、それには答えず、やや間をおいて桃の口から「今日はごめんね」という言葉が届いた。
一瞬何を謝られているのかわからなかった。
「あたし、近くにいたんだけどさ、その友達と話してたら、いなくなってるの気が付かなくて」
ああ、多分スズが迷子になったことを言ってるんだ。目の前の少女は、低く滑り気のある声とともに、余念なく顔に影を落とした。俯いて、怒られるのを待つような悄然とした風な彼女がなんとなく汚いものに見えたので、空に目を向けた。
別に僕に謝られても困るし筋じゃない。そもそも責任の比重で語れば僕の方が大きい。ただ、そんな話ではないだろう。彼女は別に謝罪して許してもらうという過程には何も期待していないのだ。一応謝った。反省している。そういう事実を僕の記憶の中に植え付けようとしているだけなのだ。僕が僕を演じるように、彼女は彼女を演じている。いつだって、自分という人間はこういう人間だと、他人に対してアピールし続ける。自分の言動に一貫性を持たせて、何よりも自分が自分を妄信できるように振る舞う。
「いいよ。無事だったんだし。はぐれたスズも一緒に行かなかった僕も悪い」
「でも」
「だからいいって、そういうの」
自分の言葉に、何か特別な感情を込めたわけではない。淡々と何も含まない日常的な言葉を吐いた。けれど、同じ感性を持つ桃は、僕の拒絶を敏感に感じ取って顔を上げた。
「うん」
今度は、しっかりと気落ちした声でそう言うと彼女は僕を避けるように、通路を反時計回りに歩いて行った。
ロの字型の廊下を抜けたあたりで、後ろから桃の「きゃっ」という小さな悲鳴と猫の威嚇するような鳴き声が聞こえた。
*
翌日、正午過ぎ。玄関で、靴ひもを結んでいると、後ろから母に声をかけられた。
「浩。あんた今日も祭り行くの?」
「うん」
母の何気ないと思われる質問に、特に何か考えるでもなく反射的に答えると、後ろから意外そうに「え」と母の声がこぼれた。
「なんで?」
振り向きざま質問の真意を尋ねると、母は当てが外れたというように後ろ髪を掻いた。仕草が叔父さんそっくりで、こういう時血のつながりは凄まじいと思う。。
「いや、もう帰ろうかなと思ってたんだけど……そう。行くんだ」
「なんで意外そうなのさ」
「だって、あんた飽きっぽいじゃん」
「そんなことは……ないんじゃない?」
「友達でもできた?」
母が楽しそうに、ニタニタしながら聞いてくる。はぐらかせば昨日の祖父との会話が変に曲解されかねない。ここは変に頭を使わず応えることにした。
「変な奴だけどね」
母は、あんまり遅くならないことと、夜間は一人で行動しない事を、僕に取り付けて部屋の奥へと姿を消した。
玄関を出ると、シマさんが珍しくテコテコと門の外を歩いているのを見つけた。興味本位でしばらく後を追うことにした。シマさんは鈍重な動きで日陰を縫うように歩いていき、やがて僕が追跡しているのに気が付くと、人の入れない小さな家々の隙間へと消えていった。
猫の生態には詳しくないけれど、シマさんは子育てとか手伝わなくてもいいのだろうか。
いつもの坂道を上り、そのまま中馬神社の境内まで伸びる階段を上った。結局昨日は参拝しなかったのが少しだけ気にしていたのだが、そんなことを誰かに言うのはちょっと恥ずかしいなと思って、この誰も注視していない時間に行くことにした。祭りの期間内に中馬神社に参拝し、そのあと目美島神社に参拝できればいいらしいので神様的には何も問題ないはずなのだ。
中馬山は中腹にアスファルトの道路が通っていて、それによって丁度上下が分断されている。メインストリートである緩い坂道を登り切って、信号を渡り、そこからは石でできた階段を上る。そうして境内までたどり着く。真夏の正午という殺人的猛暑の中で山登りをする輩はおらず、境内は虫以外は何も存在を主張していなかった。
お賽銭箱にジャラジャラと鬱陶しかった小銭をいっぺんに放り込む。一円玉と五円玉がゴロゴロと賽銭箱に投入されてゆく。何か現世利益をねだろうかとも思ったが、ここまで来て実は特にほしいものも、憧れもないことに気が付く。自分とはいかに中身のない人間だったのか思い知ったところで、とりあえず安全を祈願しておいた。死にたくない欲求だけは確かにあるので、極真っ当な願い事だと思う。しかし、二つの神社に参拝するのは何故なのだろう。目美島神社に行ったときは安全以外の何かを祈願した方がいいのだろうか? いまいち仕組みが分からない。
境内を後にして、階段を下る。途中何やら、車の急ブレーキ音が聞こえてきた。なんだろうか、という反射的に浮かんだん疑問も、階段を下るうちに頭から消えた。
階段を下り終え、アスファルトの道路に出たとき、横断歩道の中心でポツンと赤黒いものが見えた。その距離十メートルという位置にまで来てようやくそれが何なのか知った。
シマさんの死体だった。
おそらく車に轢かれたのだろうことはすぐに察することが出来る。しかも二回。一度目の衝突で即座に息絶え。二度目の衝突で体の一部を潰されている。その際タイヤにこびり付いた血痕が一定の間隔をもって、アスファルトにも付着し、それが二十メートル先まで続いていた。きれいに腸が破けているから、まだ血だまりが少しづつ膨らんでいた。
ゆっくりと、決して僕のせいで現場が崩れないように慎重に歩いて、信号を渡り終えると近くのガードレールに腰を乗せた。そして、少し遠くからシマさんの遺体を再度確認して、目を閉じた。努めて冷静に状況を観察して、そのあと一番恐ろしい事態は何だろうと想像してみると、それは、この猫が死ぬことで悲しむ人間にこの死体を見せることの様な気がした。正確に言えば、シマさんの死を隠ぺいできるならそれが最善だと思う。ぱったりとシマさんが来なくなれば、実家の人たちは「死んだのかもな」とは想像しても、こんな道端でむごい死に方をしたとは思わないだろう。きっとその方が幸せだ。たかが野良猫一匹の死に面と向かって悲しむ必要など誰にもないし、悲しむやつがいるとしたら勝手に愛着をもった挙句に保護者面しているだけだ。けれど、その最も面倒くさい愛着を持った自称保護者が僕の身内なのが困ったところなのだ。頭に、シマさんの駄肉を楽しそうに触る桃の姿がちらつく。このむごい現場を見たら、桃も祖母も悲しむ。それはちょっと嫌だ。
もちろん、この惨状を過去のものにするにあたって僕が何か積極的行動に出る必要はない。気が付いた近くの住人が勝手に処理するだろう。では放っておこうか。駄目だ。理想的なのは、僕だけがシマさんの惨状を知っている事。僕以外がこの状況を知ったら間接的に実家の人間にシマさんの最後の状態が伝わってしまう。
その時、ポツポツと雨粒が頬を打った。天気予報では晴れだった。手の平と視線を上空に向けると、「傘いるでしょ?」と毎度同じく、突然声をかけてきたのは最上さんだった。
最上さんは僕の目の前でビニール傘を一本差し出していた。本人もまた別の傘に入っている。彼女は僕の顔を見て、眉根を少し上げた。言い方を変えれば少し驚いた顔をしていた。
「何か、悲しいことでもあったの?」
そう問いかけてくる。そうあった。自分の知ってる野良猫が死んだ。そう伝えようとしても、口が動かない。何か音を発しようとしても、歯がガタガタ震えて、唇が勝手に元の形に戻ってしまう。
「無理しなくていいよ」
最上さんは慈愛の籠った声でそう言うと、持っている傘を広げ、その持ち手を僕の掌に無理やり握らせた。そしてあたりを見渡し、シマさんだったものを見つける。彼女は近づいてそれを見下ろし、そして僕の方を見て、また足下を見下ろし、そのまましゃべり始めた。道路の真ん中。信号は赤。制限速度四十キロの見通しの悪いカーブの差し掛かりで、そんなことも気に留めず、最初から車が来ないことを知っているかのように堂々と、淡々と、彼女は口だけを動かす。
「大人を呼んでこようか?……そうだよね、それを一番避けたいよね。でもさ、彼女は知りたいんじゃないかな? それに長期的に見ればたかが猫一匹の死だ。君が気にするほど傷ついたりしないよ。せいぜい一週間くらい気持ちが暗くなるだけじゃないかな? 君が勝手に見くびっているだけで、大抵の人間は図太いんだ。愛着のある動物が突然むごたらしく死んだって、そのうち忘れるようにできてる」
長々とした語り口で、彼女は僕の逃げ場を次第に無くしてゆく。全部を分かり切ったうえで、一番効果的な言葉を選んでいるのが伝わってきた。
「矢野君。私は、もし君がこの猫を静かに誰にも見られずに墓に埋めたいっていうんなら協力するよ。ただね、老婆心みたいなものなんだけど、私は君のこと気に入っているからこそ、それをしてしまうのは君のためにならないんじゃないかって思えて、その、あんまし気乗りしない」
*
一貫性を持った人間なんていない。何か一つ譲れない信条をもって生まれ落ちて、それを死ぬまで守って生きてゆく人間は実際にはいない。不可能かどうかは知らないけれど、少なくとも僕はそんな人間を見聞きしたことない。どんな人でもどこかねじれているし、生きていく中で矛盾を抱える。でも後から動機や言い訳を作り出せば、外から見たときに矛盾はないように振る舞うことはできる。
例えば、溺れている人がいる。自分はそれを救助可能な状況にいる。でも、非常に情けない理由で僕はその人を助けない選択をする。これは当然誰も褒めてくれない選択だ。もしかすると一部からは非難されるかもしれない。でも、それは僕が助けられる能力を持っていることが前提の評価なのだから、最初から泳げなかったと嘘をつけば、誰も僕を責められやしないんじゃないか、と考えることもできる。そのうえで誰か僕以外に救助可能な人間を連れてきさえすれば完璧だ。僕は見捨てた人から、自分なりに頑張った人になる。
矛盾をなくすと安心する。自分が感情のままに動いたことが、善悪や美醜に照らしても肯定されるような気さえするから。けれど、僕は、僕だけは常に、それが言い訳や捏造だと知っている。
僕だけは常に、僕に対して嫌悪の視線を向けている。
僕だけは常に、僕が特別立派な人間ではないと理解している。
僕だけは常に、僕を不安にさせる。
僕は、自分が怖い。外部じゃない。ぼくがこわい。
*
いつの間にか落としていた傘を最上さんが拾い上げていた。
「何にも変わらないと思うよ」
最上さんは、力を入れる気のない僕の掌にまたしても強引に傘の持ち手を握らせてくる。
「君が多少素直な子になったって、今まで通り卑屈なままでも、やる事は変わらない。結果も変わらない。ただ、どっちでもいいなら、私は君が君を好きになれる方を選んだ方が得だと思う」
僕の掌に力が入ったことを感じて、最上さんはそっと僕から距離を置いた。
「最上さん」
「何?」
確信を持った顔で聞き返された。
「桃って今どこにいるかな?」
そして彼女は、ちょっとだけ見栄えの良くなった笑みを浮かべる。
菊池商店にいる。
そう教えてもらい、僕は営業前の出店がずらりと並んだ坂を下り、その駄菓子屋の門戸を開いた。中はやはり涼しく、菊池さんは今日も眠そうに座っていた。
「まぁ~たきたよ。やってないんだって今は」
菊池さんは僕の顔を見るなり、げんなりとした顔を見せ、手で追い払う仕草をした。
「あの、桃いるでしょ? ここに」
僕がそう言うと、店の暗がりから、顔に疑問符を浮かべた桃が気まずそうに出てきた。
「……なに?」
警戒した声色で彼女は僕の顔を見ずに聞いた。
「シマさ──」
と言いかけて、菊池さんが不思議そうに僕ら二人を見ていることに気づいた。けれど曲がりなりにも僕らの約二倍生きてきただけあって、菊池さんはその微妙な空気の機微を感じ取り無言で外に出ていった。と思いたかったけど僕のすぐ後ろで最上さんが手招きしていたから多分それに応じただけだ。
薄暗い屋内で二人きりになると、僕は、僕のことを全く見ようとしない、ついでにいうと世界で五本の指に入るくらい嫌いな奴に対して、精いっぱいの真剣さでシマさんのことを伝えた。
そのあと、菊池さんの貸してくれた段ボールとブルーシートを使って、シマさんを運んだ。
シマさんを実家まで運び込んだ時、雨は止んだ。
叔父は実家の裏庭の手入れの行き届かない一角にスコップを突き刺し、穴を掘る。小一時間もすれば深さ一メートルはありそうな穴が出来上がり、そこにシマさんがすっぽりと入った。やっぱりでかい体だな、と穴に入る姿を見て思った。
土を盛り終え、墓標を立てると、叔父は一つ大きく息を吐いて「こんなのばっかだな」と僕にだけ聞こえるようにこぼした。
桃は、何かが決壊したように泣き続けていたが、妹のスズはケロッとしていて、むしろ桃が泣いていることに戸惑っておろおろしていた。
最上さんは墓が出来上がる前に、ぎろりとすごい形相で睨みをきかせる祖母に耐えかねて「私ちょっと」と立ち去って行った。なんで祖母がそんなに恨めしく最上さんを睨むのか理由は定かではないが、知らぬが仏ともいうし、そもそも既に関心は失せているので祖母に聞くようなことはしない。
湿った縁側で、ずっと俯いている桃を尻目に、僕は座敷を抜けた。
唯一テレビのある居間に、母たちは集まっていた。
『──不明の重体となった件について、本日明朝に男子生徒が息を引き取っていたことが判明しました。教育関係──』
ニュースが何か重い話題を取り上げているらしく、どこかキャスターの声は暗い。母は僕が居間に入ってくると何かにおびえるように急いでチャンネルを切り替えた。そして少し早口で「どうしたの?」と聞いてくる。
「祭り行ってくる」
僕は壁の時計を見ながら答えた。針は午後五時を示していた。
「そう。友達と?」
「うん」
「待ち合わせしてるの?」
「うーん。見つけてくれるんじゃないかな」
母は首をかしげたが、僕はそんなことに構わず玄関に向かった・
*
午後十九時。祭りの終わりを察知しだした来客者たちはぞろぞろと目美島神社へと足を向け始めた。そんな彼らが橋を渡り、こちらに近づいて来る様子を僕と最上さんは神社から見下ろしていた。
「どうだった?」
「最上さんなら、なんでも知ってるんじゃないの?」
「私は事実じゃなくて君の感想が聞きたい」
心でも覗けば? と返してもよかったが気分じゃない。
「普通だったよ。みんな悲しそうで、泣いたりしてて、で、墓作って、そこに埋めて……それだけ。ほんとにそれだけ」
最上さんは、ぐっと首を目いっぱい伸ばして、群衆を見た。
「あの子来てないね」
ここから肉眼で確認したとでもほざく気なのだろうか、彼女はそう言ってきた。
「うん。気分が悪いんだってさ。さすがに」
「君のせいだね」
「僕のせいだね」
最上さんは僕の返答にやたら嬉しそうだった。群衆はついに神社のある第二の島に足を踏み入れた。あと数分もすれば、境内にたどり着く。原因不明の焦りが心の中に浮上してきた。モガミさんが言ったもうすぐ来る夏の終わりが、形となって迫ってきているような、そんな寂しさを感じる。
「そういえば、僕らはとこ同士だって知ってた?」
「知ってたよ」
「なんだ。僕は昨日知ったよ。言ってくれりゃよかったのに」
「……うちとそっち縁切られてるから」
群衆がぞろぞろと境内に入ってきた。僕らは拝殿から腰を上げ、参拝客に空間を譲り、木陰に移った。さっきまでの静寂が嘘のように、一瞬で人垣が形成され、湿度が徐々に上昇してゆく。虫の声が今から未来へ流れてゆく。
「帰らなきゃ」
最上さんが気の抜けた様子でつぶやいた。僕に向けた言葉かと思って横顔を一瞥してみるとどうやらそうでもない。ただ意志が音になっただけのようで、もしかしたら今本人すら声に出ていたことに気が付いていないのかもしれない。
人垣が消えてゆくのは、そこから約一時間後だった。境内から人の気配がなくなるのと同時に、集積していた熱が霧散していくのが分かった。そこからさらに数分の後に、菊池さんが現れた。彼女は僕たちを見て驚きと呆れの両方の意味で「まだいたの?」と発した。
目美島神社から、街の方を見ると、すでに屋台の灯は半分近くが消えかかっていた。昨日は九時近くまで営業されていたはずが、今日は少し早めに切り上げている。
「今日の方が早いんだね」と僕が寂しげに聞く。
「日曜だし。みんな帰るの早いんでしょ」
菊池さんは神社の柱に結ばれたミタカの綱に近づきながら答えた。
「そっか。夏休みって社会人にはないもんね」
「何をいまさら」
鼻で笑う菊池さん。しかし、すぐに「あ、そういえば私最後の夏休みだ」と口に出した。
「進学しないの?」
「公務員。家に金なんかないしね……昨日の言ったじゃん。聞いてなかったの?」
不意にここで昨日の恋愛話を適当に聞き流していたことがばれそうになるが、菊池さんは、まあいいかといった様子で縄を解きにかかる。
ミタカの綱を解き終え、菊池さんは「はぁ~、おわりぃ」と背を伸ばした。そして「ほらさっさと帰るよ」と率先して階段を下り始める。それに習って僕も家路につくことにした。やや遅れて、最上さんもゆっくりと歩み始めた。
階段に足を踏み入れた時、つまり境内から体を出した時、涼しい風が坂の下から駆け上がってきて肌を撫でつけてきた。ふわりとした秋の訪れを感じるような優しい風ではない。もっと暴力的で根こそぎ何かを奪ってゆくような抗いがたい風だ。とっさに目を細め、風が過ぎ去るのを数瞬間待ち、目を開いた。数歩先では菊池さんがよどみなく歩いている。その先の先には消えかかっている屋台の灯が点々と浮かんでいた。耳に届くのは寂しい波の音と、元気をなくした虫の声。潮の匂いと土臭さが混ざった独特の香りが充満している。
ふとこの景色は一生忘れないだろうなと思うと同時に、少し違和感を覚えた。足音が後ろから聞こえない。はてと振り返ると、そこには誰もいなかった。
最上さんがいなくなった。
「また……きえた」
階段を上って「最上さん?」と声を出すが、返事はない。数歩上ると、足が硬質で軽い何かを蹴り上げるのを感じた。鳥の頭蓋骨に似た感触を与えてくるそれは、コンコン、と音を立てて階段を転がった。そして、脇にある茂みに落ちた。拾い上げて見るが、あたりに光源がなくビジュアルがよくわからない。ただプラスチックでできた置物か何かだろうとは、判別できた。
もう一度、「最上さ~ん」とよびかけてみるがやはり人の気配はしなかった。
なに。彼女が突然いなくなることなんて、今に始まった事ではない。また突然現れるだろう。
階段を下り、橋のたもとまで来ると、街灯の下で菊池さんが立っていた。
「どうしたの?」と聞くと、彼女は「もう暗いし、家まで送るよ」と言った。そんな遠くもないし心配されることも起きない気がしたが、配慮を無碍にするのもいけないだろうと思って、お礼を述べた。
数日前、最上さんと歩いた道を並んで歩いていると、菊池さんは興味深げに僕が手に持つものを指さした。
「何もってんの?」
僕はその時ようやく、街灯のおかげで手に持つものが何なのかを確認することができた。
蛙と熊の中間のような奇怪な化け物。手にやりを持ち、不気味に微笑を浮かべるそれは確かに昨日最上さんが射的で手に入れたカエル熊だった。
「さぁ、なんだろ。最上さんが昨日射的でもらったやつだけど」
「誰それ?」
菊池さんはきょとんとした顔で僕に聞き返してきた。もしかして、名前は知らなかったのだろうか、と思い「さっき一緒にいた子だよ」と付け足すが、それを聞いても彼女は釈然としない顔を崩さなかった。
からかっているのか。しかし、そんな趣味の悪いからかい方をする人ではない気もする。ではその表情はいったい何なのだ。菊池さんは一向に冗談だと言いだす気配はない。じっと僕の言葉の続きを待っている。
「ほら、僕が熱出して倒れた日にもいたでしょ? 髪の毛の癖が強くてさ、ぶかぶかのTシャツ着てて」
「……あの日あんた一人だったじゃん」
何か奇妙なものを見るような視線が、僕と菊池さんの間で交わった。
「昨日もいたじゃん。僕と一緒に。……菊池さんの話聞いてた」
「だもんで、一人だったじゃん。そん時もさ」
菊池さんの口調には、演じているような気配はなかった。本気で理解できないからこそ、戸惑いに声を震わせて「何言ってんの、いきなり」とやたら心配そうに続けてくる。
「海藻みたいな髪で、身長はこれくらいでさ、雰囲気はどちらかというと暗い感じの子で」
「ごめん。ほんとに、知らないと思う」
菊池さんの相貌に暗い影が差してきたのを見て、僕は出かかった言葉を飲み込んだ。。
彼女に見送られて、家に着くと、すぐさま祖父のもとに駆け付けようとした。しかし、家中を探しても彼の姿はなかった。ぐるぐると家屋の中を走り回っていると、母親に首ねっこを掴まれた。動きと止められて初めて自分の息が酷く荒れていることに気が付いた。動機が収まらず。どこかかすんだ視界で母の表情をとらえる。
「いい加減にしなよ」
母は困惑気味に僕に注意した。
「おじいちゃんは?」と聞くと、片眉を上げた母は「腰やられて入院中。あんたのせいでね」とため息交じりに吐いた。僕が、何かに打ちひしがれるように体の動きを止めていると、母は観念したのだと思ったらしく、僕の体を離した。その時、どこからか少女の鳴き声が聞こえた。声のほうへ歩いてゆくと、風呂から聞こえてきていた。
ああ、桃の声だ。と分かって踵を返す。他人の泣き声を聞くと、不思議と冷静さが降ってきた。
そうだ、と思い立って、家の黒電話の下にある分厚い電話帳と住所録を開いた。この街の東迅区に住む『最上』を探す。あった。ここから徒歩十分ほどの位置に最上の苗字を見つける。
まるでみんな最上さん知らないように振る舞っているが、ここ数日間のすべてが幻想なわけがない。手元には意味の分からない怪物があるし、シマさんが死んだのだって本当だし、祖父は腰をやられて入院している。ただすっぽりと最上さんがいなくなった。
翌日。怖くなって眠れないまま朝を迎えた。寝不足の体に容赦なく降りかかる直射日光を恨めしく思いながら、僕は海沿いの道を歩いた。正午には出立すると母から聞かされているので、それまでに行動しなければならない。
「ねぇ、ねぇ、どこ行くの?」
傷心中の桃と一緒にいるのもつまらないと感じたらしい妹が後ろについてきていた。
「なんも面白いことしないぞ」
「嘘だ。菊池さんのところに行く気だ」
不満そうな妹の声を無視して歩を進める。大通りから外れ、路地を抜けると、小さな用水路が出てくる。その用水路はよく見ればコンクリートで固められた普通の用水路だけれど、遠目に見える部分だけは肌色のレンガを使い風情を出そうとする小賢しさが垣間見える。裏が苔むした小さなアーチ橋を渡る。水路に寄り添うように軒を連ねる家屋たちの中、ひときわ大きく古い日本家屋を見つける。静かで隠れ家のような雰囲気を醸し出すその家には『最上』の表札がかけられていた。スズが「どこ、ここぉ?」と不安そうに声を出す。先日自分が迷子になった場所を通ったことで少し怖がっているらしい。
僕の方は寝不足と猛暑による判断力の低下によって、緊張感や不安を感じる暇もなく、門をくぐると玄関のインターホンを押していた。しかし反応がない。もう一度押す。何度も押す。すると、門の外の路地から「最上さんなら一週間ぐらい旅行でいないよ」と、気のいい感じのおじいさんが教えてくれた。僕は、はっと振り返りおじいさんに駆け寄った。
「ほんとですか? 全員?」
「お、おん」
おじいさんは僕の放つほの暗い剣幕に圧倒される形で頷いた。
「子供も三人一緒に?」
一番重要な質問を投げると、おじいさんは若干の間の後に僕が聞きたくなかった「最上さんとこは二人だったと思うけどなぁ」という情報を突き出してくる。
瞬間、胸を誰かに押されるようによろめいた。妹が「大丈夫?」「なんか怖いよ?」としきりに聞いてくる。
「どこかで休む?」
そんな妹の声にうなずいて、菊池商店に向かった。よろよろと入ってきた僕に驚いて、菊池さんとその横にいた老婆は、すぐに奥の座敷を空けてくれた。
二つ折りにした座布団に頭を置いて、涼しい部屋の天井を眺める。いやに眩しい白い照明。鳴らない風鈴。木と畳の青臭さ。チクチクと肌触りの悪い座布団に、汗でべたつくTシャツの不快感。どれをとっても、まだ終わらない夏だった。まだ夏なのだ。
「病み上がりに動くから」
やれやれ、と顔に出しながら菊池さんは僕の顔を団扇で扇いだ。
「なんか昨日も変だったもんね」
僕の意識を繋ぎとめようとしているみたいに、訥々と菊池さんは語りかけてくる。くたくたに疲れているのに、なぜか全く意識は眠らない。
どれくらい、菊池さんの口から出る言葉を半分呆然としながら聞いていただろうか。多分かなり時間がたった時、老婆が現れた。彼女は僕の横に座ると、近くのテーブルに麦茶を置いた。
用意された二つのグラスを見て、僕は老婆に顔を向ける。彼女はにっこりとほほ笑んで頷いた。僕は上半身を起こして、グラスを手に持つと、ゆっくり少しずつ麦茶を喉に通す。ぐらぐらしていた視界のピントが合ってゆく。何となく、自分の周囲を観察する。まず菊池さんがいて、老婆が部屋から出ようとしていて、部屋の入り口辺りで妹がよだれを垂らしながら寝ていて、そうして視線を巡らせていると、古びたタンスの上にある魚と犬の中間と表現するほかない怪物の置物に目が留まった。四足歩行であるのは間違いないが、顔が魚、いや魚の特徴をふんだんに取り入れた犬の顔なのだ。全身も毛ではなく鱗に覆われ四足ぞれぞれにはかぎ爪がある。尻尾は尾びれだ。ただ遠目で見たら間違いなく犬。カエル熊と同じ感性を感じる。
「何あれ?」
僕が指さして聞くと、菊池さんは「ミタカ様だよ。昨日あんたも持ってたじゃん」と何か常識を語るみたいに軽い調子で答えた。僕が首をかしげると菊池さんは補足説明をする。
「海と陸をつなげる……神様の……使い? みたいなやつ。いやそれもなんか違う。……あれ、説明ムズイな」
そしてしばらく顎に手を置いてから、口を開いた。
「物事の間には元から必ず見えない繋がりがある。それは縁みたいなものと言い換えてもいいだろうし、決して超える事の出来ない大海原みたいなものかもしれない。ケイコさんの受け売りだけど」
彼女はあえて偉ぶった口調で小難しいことを語ったのち、その魚犬を手に取って、麦茶の隣に置いた。
「で、これが、繋がり」と指さして菊池さんは得意げに言った。
謎が謎を深めていっただけだけれど、菊池さんは話している最中も、今も、はなから僕に理解できるとは思っていない様子なので、僕も彼女の語る雰囲気だけを受け取ることにした。
「要は、この変なのには特別な意味はないんだよ。目に見えるようにしただけっていうか」
菊池さんは、そう言言いながら座敷から出ていき、数分後に古びた冊子みたいなものを持って戻ってくると、「興味あるなら」と僕に差し出してきた。
受け取った冊子の表紙には読みにくい行書体で『媚島神社』と書かれている。
「あれなんか、名前が違うね」
「明治ぐらいまでは、それで、メビジマ、って読んでたらしいよ。でもなんか漢字の意味的に相応しくないとかで、何処だっけ、多分……国の偉い人とかに言われて変えたんだって。まあ、媚びる、だからね。あんまいいイメージではないよね、確かに」
冊子をめくると白黒の写真と一緒に、くねくねした読みにくい字で何か書き連ねてある。一番古い記述は明治十年。しばらく時代が下り、昭和元年には白黒の写真が混ざり始める。
「目美島神社は江戸時代に建てられたけど、それより前には別の神様が祀られてたらしいよ。その名残がこの街特有の信仰として残ってて……まぁ、昔から他の地域と関りが薄かったから、古臭いものが残りやすいってことなんだけど」
僕が冊子に目を落としている間にも菊池さんは補足説明をしてくる。彼女の口調がどこか弾んでいて楽しそうなのは、なんだかんだ言ってあの神社のことが好きだからなのかもしれない。
そして、昭和二十〇年の写真の一点を見た瞬間、僕は目を見開いた。皆がどこか暗い表情をしている集合写真の一角に、最上さんそっくりの、寧ろ本人だと言われた方が納得のいくぐらいの見た目の少女が立っていた。
僕が、多分平生ではない様子で固まっているのを見て、菊池さんが僕の背後に回り、写真をのぞき込んだ。けれど、当然僕が黙っている限りどこに目を奪われるような要素があるのか彼女にはわからないため、僕の顔を見て写真を見て、という挙動をしばらく繰り返していた。そこに、店を見ていた老婆が戻ってきて、僕らに「懐かしいもん見てるねぇ」と言って近づいてきた。そして菊池さんと同じように背後に回ると、「ああ、これ私」と最上さんのそっくりさんの右隣を指さした。そこには確かにどことなく面影を残した、今の菊池さんくらいの女性が立っている。
「あの、その隣って」
老婆の方を見ながら、恐る恐る聞いた。さっき潤したはずなのに、すでに喉が渇いていた。老婆は少し写真に顔を近づけ、眼鏡を片手で治しながら目を細めた。
「こりゃ、サイジョウさんだね。こん時はまだ津村さん……ああ、あんたの大叔母に当たるのか」
老婆は僕の方を見て、何か嬉しそうに言った。
「あの、その、まだ……ご存命で?」
震えながら聞くと、老婆が淡々と「ああ。でもちょっと前に心臓悪くなったもんで、近くの病院に」
それを聞いて、内心一番怖い事態を回避できて安堵の息を漏らした。実は、最上さんが大叔母の幽霊だったのではと、一瞬だけ考えてしまった。僕は続けて、どんな字を書くのか、と尋ねた。サイジョウだけだと西城や西条の可能性も捨てきれない。すると老婆は僕の掌に指で、最上、と書いた。
「モガミかと思ってました」
彼女は「そっちであってるよ」とうなずいた。僕の発言で、昨日のことを思い出したのか菊池さんが不気味なものを見るような目で僕を見てきていた。
「ただ」と老婆が言いにくそうに発し、口をもごもごさせてから改めて「ただ、この街の古い人はモガミと呼びたがらない。なんせ、神様の呼び名だから」
「何それ?」と思わず菊池さんが発した疑問は、僕の心情とリンクしていた。
「今だと知ってる人は少ないけど、だいぶ昔までモガミって呼ばれていたんだよ」
知ってましたか? と、菊池さんに視線で問うと、彼女は小さく首を横に振った。老婆は、静かに僕の手元から、冊子を奪うと、だいぶ序盤の方をぺらぺらとめくり始めた。僕が難しくて読むのをあきらめた箇所だ。そして、あるページのある記述に指をさした。僕と菊池さんは示された部分をのぞき込む。
喪神と書かれていた。だいぶ暗い字で表すのだなと思っていると、老婆はまた別の場所を指さした。そこには母神の文字がある。そして同じ手段で老婆は次々と別の記述を指さしてゆく。面神だったり、模神だったり、茂神だったり、燃神だったり、ぐちゃぐちゃだ。
「統一しないの?」と菊池さんが問う。
「しちゃいけないんだよ」と老婆はそう言って冊子を閉じた。
「特定の漢字を使ったらいけないんだよ。言葉は領域を表す。けどモガミは領域を持たない神様だから」
老婆は、ゆっくりと、とても危なげに立ち上がると、ニンマリと少し不気味で、けど全力なんだと分かるぐらいの笑みで「好きな字を使えばいいさ」と言った。
老婆がそれだけ残して去っていくと、菊池さんが時計を見上げて「あんたら、正午ぐらいに帰んなきゃいけないんでしょ?」と言った。
それにつられて、時刻を確認すると、十一時を指していた。帰り支度を済ませなければならないのを考えると、そろそろ戻った方がよさそうだった。気持ちよさそうに寝ている妹を、デコピンで起こす。スズは当然文句を言いたげにこちらを睨んだが、僕が「帰るぞ」と言うと、はっとした顔で「大丈夫? いつも通りに戻った?」と、怯えるような顔で聞いてきた。体調は平気か、とそう聞きたいのだろう。「おん」と僕は答えた。
正直寝不足だし、疑問は疑問のままだし、体は重い。けれど、奇妙な満足感が胸を満たしている気がした。錯覚かもしれないけれど。空元気かもしれないけれど。
菊池さんと老婆にお礼を言って、菊池商店を出ると、相も変わらず燦燦と太陽が照らしてきた。瞬間に汗が全身から噴き出してくる。坂の下の陽炎に向かって歩を進めていると、心なしか昨日よりも蝉の声は小さく思えた。何か黒いものが歩道脇の並木の下に落ちていた。この夏を空っぽになるまで生き抜いた蝉が落ちていた。故郷ではあともう少ししたら蜻蛉が飛ぶだろうか。